ゆっくりと太陽が南中に近づいていく。
裸の石回廊の上を通りすぎる民たちの短い影が、薄陽炎を上げる地面の上に落ちている。
暑い日になりそうだった。
湖のほとりに建つ、同盟軍本拠地ティーカム城は、窓さえ開け放していれば心地よい風が室内に吹き込むようになっている。
例え外を照らし出す太陽が、どれほど厳しかろうとも、中に居れば太陽光から逃れ、心地よい風を浴びることが出来る。
特にバルコニーや、屋上の物見台などは、太陽に近いけれど吹きすさぶ風も強く、気持ちがいい。
できることなら、こんな日は、屋上の尖塔に登って、ノンビリのほほんとフェザーと一緒にお昼寝でもしたい所なのだけど。
──だけど、と、その先を溜息にかえて、少年は手にしていた書類を机の上に戻した。
いつも机の上に居るのは、眉間に皺を寄せたクールな軍師様なのであるが、今日はそうではなかった。
軍師は補佐机で黙々と書類を片付けている。左手に置かれたそろばんは、ひっきりなしに動きつづけている。
チラリと横目でそれを見た少年──本来なら、毎日この机に座っていなくてはいけない軍主さまは、外の良い天気を眺めて、はぁぁ、と溜息を零した。
そして、投げやりにハンコを一個押す。
続いて手にした書類を見て、溜息一つ、再び投げやりにハンコを押した。
その光景を眺めていた副軍師が、苦笑いを刻みながら、積み上げられた書類の隣に、コーヒーを置く。
昨日の夜からほとんど寝ていない二人のために、たっぷり濃い目の、ミルクもたっぷりのコーヒーだ。
「リオ様。この書類で最後ですから。」
「……──うーん……。」
頷いて、リオはチラリと書類の山を見た。
溜めに溜めた結果というのか、その書類の束は、高く積み上げられている。ざっと見て、1000枚はありそうに見えた。
これを紐で縛って、シュウの頭を叩いたら、一体どれくらいのダメージが与えられるのだろう?
ニナのアレでも、結構モンスターにダメージが与えられるわけだから、コレならば、人に致命傷与えることも出来るかもしれない……。
そんな物騒な事を考えてしまうほど、鬱屈していた。
いつもなら、やってられるかーっ! と叫んで飛び出す所なのだけど、今日は珍しく自分から「やる」と言った手前があった。
こんなに仕事が溜まっていると分かっていたら、絶対にやらなかったに違いないが、リオ自身がシュウに仕事があったらやると言ったのだ。
やらないわけにはいかない。
「あーあ。
これが終わったら、湖に飛びこんで、レイクウェストまで泳いでやる。」
ばん、とハンコを一個押して──あ、とリオは小さく言葉を詰めた。
そこに書かれている書類内容を見返し、やっぱり間違えた、と小さく呟いた。
その瞬間、リオのやる気の無さを黙視していたリオへ向けて、
「何を間違えた?」
鋭く、シュウの突っ込みが飛んだ。
リオは、ギクンと肩を強張らせたものの、おとしなく手にした紙を掲げて見せた。
シュウは、目を細めてそれを見て取り──小さく唸る。
「お前──その書類を、何だと思ってる?」
「えーっと……何々? カナカンワインの発注依頼書。」
棒読みした後、リオは少し考え──ん? と首を傾げる。
「別に、発注してもいいんじゃないの? レオナさんからのお願いでしょ、コレ?」
ヒラヒラと揺らすその書類には、シュウの字で、「却下」と書かれていた。
リオは惰性でハンコを押していたため、思わず「許可」に押してしまったのだけど。
レオナは酒場を営んでいるし、カナカン産のワインといったら、リオが憧れている英雄も誉めるほどの上質のモノだ。
そんなワインを、こんな同盟軍の酒豪に飲ませるのは、確かにもったいないけれども、レオナだとてタダで彼らに飲ませているわけではないのだ。
それに、シュウだとてカナカン産のワインを好んで飲むこともあるはずだ。
それらを考えたら、別に許可しても言いと思うのだけど?
軽く首を傾げながら、ヒラヒラと紙を振るリオに、立ちあがったシュウが、カツカツカツと近づき、書類を奪う。
そして、片手で書類の詰まれた机を叩くと、ぴらり、と書類を見せた。
「これはな──……。」
顰めた顔を近づけ、書類について更に言い募ろうとした瞬間、シュウはふと眉をキツク寄せた。
その後、リオに見せた書類を裏返し、自分の方へ向けると、少し考える。
「…………リオ。お前、書類にハンコを押すのは、飽きてきたんだな?」
「うっ──そ、それは―…………実は。」
てへ、と自慢の笑顔で笑いかけると、シュウはやはりな、と言いながらこめかみを揉んでいる。
その後、彼は書類を自分の口元に当て、口を隠すと、
「なら、買い物へ行ってくれるか?」
目元を優しく緩ませて、そう尋ねた。
リオは、思いもよらない優しい声に、びくぅっ、と大げさに肩を強張らせる。
「──な、何企んでるの、シュウっ!?」
「企んでなど居ない。
ただ、お前が許可に判を押してしまったのはしょうがないことだろう?
だから、お前がこの発注先──注文先で、ちゃんと注文を取ってくることが出来たら、許可したことにしてやろうと言うだけだ。」
ヒラヒラ、と手を動かせるシュウに、リオはきょとんとして書類が動くたびに、首を右左に動かせた。
それから、少し目線を泳がせて考えて──不意に、にっこりと笑った。
「うんっ! 行くっ! 行ってくるっ!!」
なんとなく、シュウの陰謀めいたものを感じたが、この責め苦から逃れられるなら、とリオはその話に乗ることにしたのだった。
机の上の散乱した書類をそのままに、元気良く飛び出して行った軍主に、それでこそ彼らしいと微笑みを零していたクラウスだったが、ふと目を曇らせてシュウを見た。
シュウは、座りなれた執務室のメイン机に腰掛け、リオがほうって置いた書類を手に取っている。
その手に握られていた「カナカン産ワインの発注願い」は、一時保留として脇によけられていた。
クラウスは近づいて、その書類を見て──別に特に不備はないように見える書類に、軽く首を傾げた。
「シュウ殿? なぜ、これをリオ様に?」
すると、羽根ペンを手にしたシュウは、片眉を上げてクラウスを見上げて、ペン先で書類の一部を突ついた。
発注先の店の名前が書かれているそこには。
「『湖賊』……?」
とだけ、書かれていた。
それが、店の名前なのかと訝るクラウスに、シュウは違うと短く否定する。
「トラン湖の湖賊ほど知られてはいないが、この湖にも湖賊はいるんだ。
それも、裏ルートでワインやチーズなどの上物を仕入れるのが得意な湖賊でな。
それを使って、商売もしている──昔の俺の商売敵と言ったところか。」
ひらひらと羽根を揺らして、シュウは苦く笑う。
レオナは、ミューズに居た頃からそのルートを知っており、ミューズの店で使っていたルートが使えなくなってから、色んなルートを考えていたのだという。その結果、これが一番良いルートであると考えたのだが、相手が相手だからと、シュウ宛てに願い出を出していたのである。
しかし、シュウはラダトに居たときから、その湖賊の事を知っていたし、調べてもいた。
だからこそ、却下したのだったが。
「……それでは、危ないのではないですか?」
嬉々として出ていったリオの姿を探すように、クラウスは窓の外を見た。
もちろん、さきほど飛び出して行ったリオが、すぐに窓の外に現れるわけもなかったが。
いくらリオがこの軍の軍主で、腕も立つとは言え──、あのルカにすら勝った少年だ。そうヤスヤスと傷ついたり、負けたりすることはないだろうけど。
「ただのお使いだろう?
もし、交渉に断られて、身包み剥がされそうになっても、リオがそうそう負けるはずもない。
交渉に勝ったなら、レオナの酒場にカナカン産のワインが入る。
どちらに転んでも、こっちは痛くもないお使いだ。」
違うか? と聞かれて、クラウスは困ったように顔を顰める。
「それほど、交渉は難しいのですか?」
「……答えは簡単だ。
俺の商売敵でありながら、商売の邪魔をされたことはない。
そういうことだ。」
「………………???」
頭の回転の速いクラウスでも、シュウのくれた答えはあんまりにも意味が広すぎて、どの答えを出したら良いのか──まったく見当も付かなかった。
「スイさーんっ! 一緒に、買いモノに行きませんかーっ!!?」
明るく笑顔で飛び込んできた少年に、仲間うちでチンチロリンの真っ最中だった少年が、ゆっくりと目を瞬かせて振りかえった。
その周りに座っている青年達も、驚いたように場の雰囲気に似合わない少年を見返した。
ウキウキとした顔を満面に貼りつけるリオの隣には、いつものごとくナナミが顔を覗かせていた。
「買い物? ──リオ、今日は一日お仕事するんじゃなかったっけ?」
軽く首を傾げる少年は手にしていたサイコロを、対戦相手に投げると、いつもの格好からパンツ一丁に変わっていたタイ・ホーが慌てて受け取る。
「はい! そのつもりだったんですけど、シュウからお使いを任命されたんですー!!」
笑顔で朗らかに告げた内容を聞いた、その場に居たほとんどの者が、
「それって、あんまりにもリオが溜息ばっかり零してるから、嫌になったシュウに追い出されたって言わない?」
と思ったが、誰も言葉にすることは無かった。
「そうなんだ。装備品か何か買いに行くの?」
軽く首を傾げて、スイは隣に座っていたビクトールに、手の平を上にして差し出した。
訳すと、今賭けた金を返してくれということだ。
つまり、これで今日のチンチロリンはやめにすると言うわけだ。
そんなスイの仕草に、ほう、と安堵の吐息を漏らすフリックもシーナもビクトールもヤム・クーも──身包み剥がれた後であった。
付き合いでこの場に連れてこられていたルックは、スイの勝ち取った商品を確認していた手を止めて、
「じゃ、ついでに紋章買って来てよ。」
当たり前のように「ついで」を頼む。
更に、はい、お駄賃、と言って手渡すのは、先ほどスイがシーナから巻き上げたポッチであった。
「おいおい、そりゃお前のじゃないだろうがっ!!」
慌てて叫んだシーナは、寒気に体を震わせて、小さくくしゃみをする。
そんなシーナに、
「コレは、僕がわざわざここまで来た事への苦労賃。」
言い切った。
「苦労してないじゃん、ルック。」
目を軽く眇めて突っ込むスイには、ルックは綺麗な顔をすませて答える。
「ここに居ること自体が、僕にとっては苦労なんだよ。」
「ああ。ルック、虚弱体質だから。」
ぽん、と納得したように両手を打つスイに、ジロリとルックが睨みつけた。
しかし、そんなことでスイが堪えるはずもなく、しれっとした顔をしていた。
リオは、そんな一連のやり取りに深い意味も考えず、少し首を傾げて、
「装備品を買いに行くんじゃなくって──シュウに頼まれて、ワインの買いだしに行くんです。」
そう、言った。
「……ワイン?」
「ええ、カナカン産のワインなんですけど。」
リオがそう告げた瞬間、室内に居たつわものどもが、ザワリと浮き立った。
あのカナカンのワインといえば、上物も上物。貴族の口を湿らせるワインといえば、カナカン産。そう例えられるほどのワインである。
もちろん、酒が嫌いなわけじゃないこの場の面々が、思わずゴクリと生唾を飲み込んでもしょうがなかった。
「それって……っ。」
俺も行ってもいいのか、と口を開きかけたビクトールへ、
「余分なお金あるの?」
冷たいルックの声が、突き刺さった。
いや、ビクトールだけではなく、浮き足たった者たちの心臓へ突き立った。
思わずググゥ、と言葉を飲み込んだ一同が、ギリリとルックを――ルックが管理しているスイの勝ち分を睨みつける。
素知らぬ顔で、ルックはそれを丁寧に麻袋に積み込んでいく。
リオは、そんな室内の空気に気づかず、リオの言葉の続きを待っているスイへ、はにかむように微笑む。
「僕もナナミも、ワインとか分からないから、スイさんに一緒に来てもらおうかな、って。」
にこ、と笑うリオの言葉尻をあえて捕らえるなら。
「いや、そーじゃなくても、お前らスイ連れまわしてるじゃん。」
というシーナの言葉に終結するわけであるが、負けに負けが込んでいる面々としては、この場からスイがいなくなるのは大歓迎であった。
本音を言うなら、自分達もついていきたいところだが、さきほどルックが言ったとおり、自由になるお金は、巻き上げられてしまったばかりであった。
「酒なら、俺も得意だぜぇ?」
ニヤニヤと笑うビクトールが、金が無くても試飲くらいはできらぁな、とお猪口を煽る真似をしてみせるが、すかさずフリックが肘で突ついて黙らせる。
「お前が行ったら、粗悪品買ってくるハメになるだろうがっ!」
この、「なんでも美味い男」を連れて行ったら、無駄足になること間違いなしだと、フリックが心底イヤそうに顔を顰める。
それに、シュウがわざわざそんなことをリオに頼むという「事実」のバック背景が、容易に想像できたから、尚更止めたくもなった。
カナカン産のワインの魅力は大層なものだが、「シュウ」と「リオ」のつながりに付け加え、「スイ」の名が入ってしまったら、一抜けしたくなるのも当然であった。特にフリックにしてみたら、ビクトールが勝手に起こした揉め事には、必ず自分が巻き込まれるというジンクスがある。とてもじゃないが、賛成する気にはなれなかった。
「そっか、試飲って手もあるか……久しぶりに飲みてぇよなぁ。」
ペロリと唇を舐めたシーナに、それじゃシーナも一緒に行く? と気軽にリオが話しかける。
一瞬息を詰まらせ、嬉しそうに眼を輝かせたシーナであったが――フリックが考えついた結論に、気づかないわけもなかった。
悩むように腕を組み――絶対シュウのことだ。リオを行かせるなんて、裏があるに違いねぇ。でも、カナカン産のワインは惜しい。惜しいが、しかし……と自問自答を繰り返した結果。
「……………………やめとくぜ。」
そう、結論を出したのであった。
さすがのシーナも、装備品をことごとく賭けで取られた現状で、リオのお供をするつもりはなかったのであった。
「それじゃ、僕達だけで行こうか、リオ?」
一同が揃って同じ結論を出したのを待って、スイは立てかけたあった愛用の棍を手に、リオたちを促す。
「それじゃ、一緒に行ってくださるんですかっ!?」
キラキラと眼を輝かせるリオに、ナナミも嬉しそうに両手を胸の前で組む。
そんな二人の姉弟に頷き、スイはさわやかな微笑を貼り付けた。
「あそこのワインは、なかなか買い手が居ないから、ビンテージ物がたくさんあるしね。」
「どこ」に行くのか、きっちりしっかり理解しているらしい口調に、リオもナナミも疑問も持たず、そうなんですかー、と納得したように答えている。
「それじゃ、さっそく行きましょう!」
レッツゴーっ! と大きく腕を振り上げたリオに、ナナミも大きく腕を上げかけ――ふと、部屋の中に座り込んでいる男陣を見回す
「――……ところで、ずっと不思議だったんですけど……なんで皆、服脱いでるの?」
スイとルック以外、誰一人として上着も装備品も身につけていない状況を、それはそれは不思議そうにナナミは見下ろしたのであった。
ティーカム城のあるノースウィンドゥより北北東――ミューズに程近い小さな小島に、その砦はあった。
てっきり湖賊の砦だと言うから、さぞかしおどろおどろしい岩で囲まれた場所なのかとか、岩窟になっている場所なのかだとか思ったのだが、まるで違った。
表向きはきちんと商売としているためだろうか、こじんまりした小屋と、その背後のがっしりとした倉とが、船の上からでも見て取れる。
「あれが、今から向かう湖賊の砦ですね。」
小船を漕ぐ手を休めて、遠眼鏡で小屋の全貌を確認していたリオは、小さく眉を顰める。
船の縁に寄りかかって、湖面に手をつけていたナナミも、同じように顔を顰めている。
「私、海賊とか湖賊とか見たことないんだけど――なんか、ただのきこりの小屋みたいじゃない?」
どうやら、想像とはまったく違うことが不満らしかった。
そんな二人に、クスクスとスイが笑い、リオから遠眼鏡を受け取る。
「見た目だけにだまされちゃいけないよ。
実際、僕の知ってる湖賊も、あんな小屋に住んでたけど、腕は滅法たっていたしね。」
「へぇぇ。」
もちろん、スイが話す湖賊とは、解放軍時代の仲間のことであるのだけど、聞いているリオもナナミも、その言葉から、スイが湖賊退治をしたことがあるのだと勘違いした。
「やっぱり、湖賊は、陸の上の方が苦手なんですか?」
いつのまにか懐から三節棍を取り出したナナミが、きりり、と顔つきもしっかりとスイに尋ねる。
スイはそれに、少し首を傾げた後、そうでもないかな、と答える。
「今から僕達は、ワインの交渉に行くんだろう? 何も入った瞬間から戦闘態勢にならなくてもいいと思うけど?」
「――ああっ! そーでしたっけっ!!」
慌てて手にしていた武器をしまい始めるあたり、なんだかんだ言いつつ好戦的なのかもしれない。
リオも、ナナミの影に隠れて、こそこそと武器を仕舞い込むと、手早く船の舳先を島へと近づけていく。
「僕もナナミも、ワインの質とか全然わかんないんで、スイさん、値切りはお任せしてもいいですか?」
軽く首を傾げるリオに、うーん、とスイは苦く微笑む。
「値切りはあんまり得意じゃないんだよね――値段の相場は分かるけど、どこまで値切れるかとは全然わかんないし。
バザーとかは、向こうの言い値の半額から始めるのが基本だとか、グレミオが言ってたけど……グレミオを連れてきたほうが良かったかもね。」
けれど、ワイン自体の質を見ることに関しては、否を言うつもりもないらしく、満足そうな笑顔を浮かべる。
「それじゃ、普通の相場はコレくらいっ! って、コソッとリオと私に耳打ちしてください。そしたら、頑張りますからっ!」
きゅ、と両手を握り締めるナナミは、やる気であった。
シュウに馬鹿にされないように、鼻で笑われないように、値切るだけ値切ってやる、と燃えている。
「伊達に主婦してたわけじゃないんだかんねっ!!」
拳を突き上げるナナミに、リオが小さく、主婦? と呟くが、特に何も言わなかった。
変わりに、
「でもさ、ナナミ? 僕ら、ほっとんど自給自足で暮らしてたじゃない? ――命かけるような値切りってしたことあったっけ?」
「――……――…………………………えーっと……ジョウイ相手にしたことなら――……。」
「それ、違うし。」
ぱたぱた、と手を振ったリオは、グラリと傾いだ船先に、慌てて手を戻す。
そして、ゆっくりと波を読みながら、島へと船を着ける。
ぎぃ……ときしんだ音を立てて、船の底が地面に着いた。
小さな島は、競りあがった山のような形で湖の上に突き出ていた。青々とした草がびっしりと生えた島上から、水の中へなだらかに続く砂浜が、白く輝いていた。
「白い砂浜ー……かと思ったら、砂色だわ。」
身を乗り出して、10メートルばかり続いている砂浜を見たナナミが、がっくりしたように肩を落とす。
そんな彼女に向かって荷物を投げた後、リオはロープを取り出し、適当な木に船先をくくりつけようとする。
けれど、スイがそれを止めた。
「でも、止めておかないと、船が……。」
「いざというときに、船がすぐに出ないと、大変な目に合う。一人残って船を見張っているのが一番だけど――。」
いいながら、スイは辺りに目をやると、ちょうどいいものを発見した。
何がどうするのかわからず、リオが視線を追う先で、スイは船の上から波打ち際へと脚を入れると、ぱしゃん、と水を跳ねさせながら島の中へと踏み入った。
そして、軽い足取りで小屋間近まで近づくと、何をするのかと眉を寄せるリオたちの視線の先で、堂々と小屋外に置かれていたタルを担いだ。
「これを使えば大丈夫だと思うよ。」
ニッコリ笑って、呆然とする二人の姉弟の前で、ドン、と波打ち際にタルを置いた。
スイが軽く担いだ様からは分からないが、どうやら中身が入っているらしく、底が砂に沈むのが見えた。
「――……使うって……?」
おそるおそる尋ねたリオに、スイはさきほどリオが取り出したロープの先を、しっかりとタルに巻きつけ、ついでとばかりに船の底を押して、船を少し砂浜にうずもれさせた。
「錨代わりになると思う。長時間は持たないけど、短時間ならこれで十分じゃないかな?」
ぱんぱん、と掌の砂を払うスイに、未だ船の上の人であったナナミは、しっかりと船の縁に手を付きながら、
「……揺れてない……。」
小さく、呟いた。
さきほどまで小さく揺れていた船が、もう全然、まるっきり揺れないのである。
どうやら先ほどスイが船を砂地にすこーしだけうずもれさせたのが原因のようであった。
「スイさん、すっごーいっ!」
感動したように両手を打ち鳴らすリオに、スイは生活の知恵だよ、と微笑む。
ナナミもそれを聞いて、なるほどー、と感心するのだが――これのどこが生活の知恵なんだよ、と突っ込む人は、今日のこの場には居なかった。
「それじゃ、準備をしましょうか。」
いいながら、いろいろ用意してきた船の中の荷物入れを見て、リオは少し困ったように首を傾げる。
トンファーは、持っていくべきなのだろうか?
ナナミのような三節棍なら、こっそり服の中に隠していくこともできるだろうが、リオはそういうわけには行かない。
スイはどうするのだろうと見やると、彼はしっかりと棍を手にしていた。
「スイさん、武器って、持っていったほうがいいと思います?」
商談に言うとはいえ、相手は賊だ。
多少の心構えは居るだろうかと、そう尋ねるリオに、
「別に武器を持っていたからって、使うわけじゃないんだから、持っていくくらいはいいんじゃないかな?」
ひゅんっ、と棍を振り回して、船旅の間に水分を吸って重くなっていないかを確認したスイは、少し先に立ってリオを促した。
慌ててリオは自分のトンファーを手にすると、スイを右手に、ナナミを左手に伴って、砂浜を踏みしめ、歩き始めた。
目指すは、とてもワインを扱っているようには見えない小さな小屋――湖族の砦である。
友好的に砦内に入ったのはいいが、木のテーブルと質素な椅子がある部屋に通され、偽善的な笑顔を前に、リオはすでに心で挫けていた。
今までだって、狭い部屋で顔をつき合わせてお偉いさんと話をしたことくらいある。
伊達に同盟軍リーダーなんてものをしていないのである。実際それで口説き落とした相手の数も、うなぎのぼりに上昇中なのだ。
しかし。
しかし――それと、これとはまったく別ものであった。
顔に大きな傷を持つ、愛想の良い凶悪顔というのは、やたら怖かった。
隣でナナミは顔をゆがめるのを必死に堪えて、差し出されたお茶の湯気をジッと見つめている。
さらにその隣に座っているはずのスイの様子をうかがう余裕すらなくし、リオは引きつる笑顔で相手に説明を続けた。
とりあえず、レオナから願い出の出ていた内容を告げ、そのために取引をしたいということ。シュウから提示された条件があるため、品質を見てから取引内容を決めたいこと。取引内容を締結できたら、後ほど品を持ってこちらへ来てほしいということ――大事な内容と、話し合いに必要な内容は全て伝えられたはずだった。
最後まで言い切って、リオはゆっくりと息を継いだ。
滴る汗が頬を伝い、喉がカラカラに渇いている。
同盟国に同盟を申し込みに行くときも、非常に緊張したものだったが、商談となるとまた話が違うのだということを、初めて知った。
トランへ行くときなどは、今までのジョウストンの実績、リオの人柄が何よりも物を言うと、シュウが「そのままのお前を見せて来い」と言ってくれたのだが、今回の商談に関しては、リオは本当にただの素人にすぎないのだ。
足元を見られないか、何か失敗をしはしないかと、それが心配なのは確かだった。
薬草の見分け方とかなら、得意なんだけどなー――と、上目遣いに見やった相手は、朗らかな微笑を口元に乗せながら、
「お話は分かりました。」
ドスを利かせた声で、けれど本人友好的なつもりで、そう告げた。
案外良い人なのかもしれない、と思いながらも、リオは緊張して膝も崩せない。
きっちりと膝小僧を付き合わせるリオに、まぁどうぞくつろいでください、と再度お茶を勧めてくれる。
けれど、ナナミもリオもお茶を口に含むことはなかった。
ただ、ナナミの隣で、スイの手がお茶へと伸びて、湯気も薄れたお茶を、口に含むのが見えた。
それを目の端に止めたリオは、お茶さえ飲めば気分も落ち着くに違いないと、手を伸ばそうとしたが、それよりも先に、
「うちの方針は、ご存知ですか?」
不意に、相手がそう尋ねた。
「え? いえ……存じてません。」
「そうですか。
うちは、コレ、が方針でして。」
くい、と目の前の彼は、笑顔で背後を示した。
リオとナナミの目線がゆっくりとあがり――今までずっと下がり気味だった視線をあげて、初めて気づく。
そこには、大きな額縁に入った湖賊らしい「方針」が書かれていた。
つまり。
「強者には商談を。弱者には剥ぎ取り御免。」
棒読みに近い声で呼んだリオは、はぁ、ともう一度呟き――……。
「はぁっ!!?」
今度は、悲鳴に近い声をナナミと一緒にあげた。
そんなナナミごしの向こうでは、とおの昔に張り紙に気づいていたらしいスイが、ゆっくりとカップを下ろすのが見えた。
「これって、もしかして……っ!?」
思わずリオは、ソファに座るときに隣に置いたトンファーを確認して、相手を見返す。
嫌な予感がしていた。
ナナミも、とっさに両手を胸の前で組みながら、服の中にしまった三節棍を確認している。
スイだけは、ソファの隣に立てかけた棍を見て取りつつも、背もたれにドップリと腰掛ける。
「はい。」
にっこりと、顔に傷持つ男は言った。
「つまり、私どもと戦って、勝ちましたら商談をさせて頂きます。
ただし、負けたら――……すみませんが、身包みはがせて湖の中に、叩き込ませていただきます。」
男がそう笑って言ったとたん、左右にあった扉から、屈強な男達が飛び出してきた。
皆、手に反り返った刀だの、弓矢だのを持っている。
かくいう目の前の男も、自分が座っているソファに手を突っ込んだかと思うと、そこから長い剣を取り出した。
「ちょ、ちょっとちょっと! 3対7ってのは、卑怯じゃないんですかっ!?」
咄嗟に三節棍を取り出したナナミが、身体を戦闘態勢に入らせながらも叫ぶ。
リオも片脚をソファに乗せたまま立ち上がり、辺りを油断無くうかがう。
別に相手が7人であっても、スイと自分とナナミのコンビなら、十分戦えるはずだ。
残念ながら、一掃するための紋章も宿していないのが悔やまれるが――確かに湖賊だけあって、そこそこ腕は立つようだが、勝てない相手じゃない。
――もし、場所が何の障害もない表であったなら。
「こちらは7人組だと言うことを、知らないほうがおかしい。
もっとも? それにあわせて徒党を組んできても、この狭い室内でどれほど力を出せるかは分からないが?
それで言うと、2対7は、そちらにとっては、なかなかいい人数だと思うよ?」
ゆっくりと立ち上がりながら言う商談相手に、ナナミが何を言うのよ、と睨みつける。
そんな彼女に向かって、にやりと笑った男は、剣の先でナナミの隣を示し、
「彼は、そろそろクスリが効いてきたようだからね?」
「……――っ! ひっきょうな……っ!」
リオが小さく唇をかみ締め、男を睨みつける。
ナナミの向こうで、スイがグッタリとソファの背もたれに身を預けていた。
スイにしては珍しい失態だ。
「クスリ入れるって、何よ、それーっ!?」
スイの青白い顔を横目に、ナナミがギリリと歯を食いしばる。
怒りのあまり、目の前が真っ赤になった。
「――すまないが、私達はこうやって商談相手の口の堅さと、裏切らないことを試させてもらっているんでね。」
ナナミは、無言で三節棍を握る。
とりあえず、目の前の男を殴り飛ばさないと気がすまなかった。
リオもリオで、手が白くなるくらいトンファーを握り締めていた。
「……何の……クスリを使ったんですか?」
キィン――と、音がするほど厳しい目つきで睨みあげる少年に、初めて男は驚いたような顔になる。
リオの全身から放たれる気に、一瞬驚いたのだ。
まさか、こんな年端もいかない子供から放たれるとは思わなかった――そんな顔だった。
「後遺症も残らない、ただの弛緩剤だ。
すぐに効き目は切れるよ――戦いが終わる頃にはね。」
言って、男は不敵な微笑みを口元に刻んだ。
それが、戦いの開始の合図となる。
扉付近で待機していた6人の男が、一斉に間合いを詰めてきた。
とっさにリオはスイを見て、ソファから飛び降りると、思い切り後ろ脚でソファの端を蹴った。
どごっ!
音を立てて、スイを乗せたソファが横滑りし、壁に激突する。
何事かと様子を見守る男達をトンファーを回すことで威圧し、リオはナナミに叫ぶ。
「ナナミ! スイさんを頼むっ!」
「……でも、それじゃリオがっ!」
壁にソファの背をぶつけた形になったというのに、衝撃を受けてもスイはピクリとも動かない。
本当に「ただの弛緩剤」なのか一瞬疑いはするものの、スイを無防備に置いておいて、傷つけられたりしてもたまらない。
「僕は大丈夫だから。」
言い切り、リオは正面向いた。
トンファーを構え、事を見守っていた男が、感心したように声をあげるのに睨みを返した。
男は、剣先を床に向けて、一歩後ずさると、トンと床をけって、ソファの上に立った。
何か言いたげな顔をしてはいたが、結局それを口にすることはなく、「勝つための条件」を突きつける。
「君たちが意識を失ったら、君達の負け。
こちらを全滅させるか、それに近い状態に持っていけば、君達の勝ちだ。」
リオは、条件を飲むのを約束するように頷くと、それと同時に飛び出した。
姿勢を低くして、身をかがめるように飛び出した先――リオたちに程近い位置にした屈強な男の一人の懐へと飛び込む。
思わぬ速さに驚いた相手はしかし、とっさに左腕を盾にして、リオの飛び込みを防ごうとする。
けれど、それよりもリオの方が早い。
「ぃやぁっ!」
気合一閃。
右手のトンファーを叩きつける。
「ぐっ。」
鈍い音を立てて、左腰をたたきつけた衝撃に、男の一人が吹き飛んだ。
リオはそれを確認する間もなく、右足を主軸に左脚で床を蹴ると、リオむけて棍棒を叩きつけようとしていた男に向かった。
迷うことなくリオの頭の上に振り下ろされる棒を見ることすらせず、彼は左のトンファーを頭に掲げる。
重い衝撃が走り、左手がしびれるような感触が残るが、振り払うように左手を横に流し、無防備に開いた鳩尾へ、右手を突き出す。
「がっ。」
胃液を吐寫して、男が背後へ崩れかける。
そこを更に追って、下から飛び出すように男の顎向けて一撃を繰り出す。
さすがにこの連携には耐えられなかったのか、男はそのまま床に倒れ伏した。
リオは、それを確認して、視線をあたりに散らせた。
ぎっ、と睨む視線には、強い力が込められている。
「く……っ。わが手に宿りし炎の紋章よ……っ。」
向かい側に立っていた男の一人が、弓矢を手にしながら右手に力を集中し始める。
こんな狭い部屋で炎を使われたら――と、リオがとっさに男の下へ走ろうとするが、そこをさえぎるように、一番初めにリオが吹き飛ばした男と、もう一人の男が立ちはだかった。
目の前を切る刃の一閃に、リオはとっさに後ろに飛んでかわす。
「……炎の矢っ!」
彼ら二人を対峙している間に完成した術が、男の手から放たれる。
赤々と燃える炎の模した矢が、迷うことなくリオのすぐ側のソファへと突き立った。
何を――と、リオが訝るよりも先に、ソファが燃え上がる。
その炎が、リオを飲み込もうと襲い掛かってくるような錯覚を覚えて、リオは脚を横手にずらした。
それに気を取られたリオの左肩に、目の前の男の剣が突き立つ。
「……っ、あ……うぁぁぁぁっ!」
とっさに身を引いて、男の剣を肩から抜く。
それと同時に、ソファが赤々と燃え立ち、リオの背丈を越えて、彼の腕を軽く焼いた。
灼熱の感触が、皮膚と肉とに伝わり、生ぬるい血が溢れた。
「リオっ!」
慌てて道具袋の中からお薬を出そうとしたナナミは、次の瞬間、手にした三節棍を振るっていた。
きぃんっ!
小気味良い音を立てて、三節棍と大剣とが混じる。
ナナミと間近で剣をかわすのは、今回の商談相手の男であった。
「ほう……良くかわしたな。」
ほめてやる、と言いたげな口調で笑う男に、ナナミはきつい眼差しを向けた。
受けた剣の重さに、腕が震える。
けれど、ここで退けばスイの寝ているソファも危ないし、何よりも次の攻撃を受けれる自信が無かった。
これほどの自信を持つだけあって、彼は強かった。
――もっとも、もっと自由に動けたなら、ナナミだとて彼に勝てないわけではなかったが。
「……っ、卑怯な人に、負けるわけには……いかない……のっ。」
ギリギリと、力勝負になることに焦りを覚えながら、ナナミは彼の目を睨む。
そうしながら、この状況を打破する方法を必死で考える。
けど、それをさせまいというかのように、相手は剣を引き、そのまま打ち下ろしてくる。
咄嗟にナナミは三節棍を引き、棍の先で剣先を変える。
キィン!
そのまま棍の端を手にして、相手の中へ踏み入る。
そのスピードに付いていけない男の懐へは、あっけなく踏み入れた。
そこはさらに一歩踏み進み、一撃を加えようとした瞬間――ゾクリと背筋に凍るものを覚えて、ナナミはとっさに後退した。
そこへ――先ほどナナミが居た場所へ向けて、銀色の筋が走った。
すとん、とナナミの足元に突き刺さったそれは、銀の鈍い輝きを放つ針だった。
「良くかわしたな。」
ぺっ、と吐き捨てるように言った男の口に、まだ針が数本、咥えられていた。
「この先には、毒が塗ってるから、気をつけろよ、おじょうちゃん?」
器用に針をくわえたまま笑う男に、ナナミは踏鞴を踏んだ。
それでも、スイが寝ているソファを背に、そこからはどかないと言いたげに三節棍を構える。
心配げにチラリと視線を飛ばした先で、リオが左肩を抑えながら、男達の執拗な攻撃を避けているのが見えた。
目の前の男をさっさと倒して、リオが一人で相手している5人を一度一手に引き受けて、なんとかリオに怪我を治療させないと――……。
「――……こうなったら……必殺……っ。」
すちゃ、と棍を構える。
ナナミが武器と言える技は、スピードだ。
スピードならば、同盟軍の中でも速い方だと言い切れる。
そのスピードを使って、彼の背後を取るしかない。
そのためには――まず、突拍子もつかない行動を取るのだ。
ナナミは、面白そうにこちらを見ている男向けて、ひゅんっ、と三節棍を振るった。
「花鳥風月百花繚乱竜虎万歳拳ーっ!!!」
そして、鼓膜も破れよと言わんばかりの叫びとともに、飛び出す。
まず一撃目、正面から彼の剣に受け止められる。
けれど、それは予測済み。
すばやく脚を軸に、擦り寄るように回転させて、さらに脚を踏み込む。
そして、二撃目。
これはとっさに相手の剣の柄を掠める。
ナナミはさらに三節棍を揺らし、一撃目に使った三節目を振るった。
戻ってくる反動で、三撃目。
これに相手は頭を下げて交わす。
ナナミは、そこを狙った。
その時には三節棍を握っていたのは左手だけ。
右手で戻ってきた三節目を手にして、そのまま相手の下げた頭向けて、叩き落す。
「……っ!」
衝撃に絶句した男の口は、しかし、開くことなく、しっかりと咥えられたままの針が震えているのが分かった。
ナナミはそのまま床をけり、男の頭に落とした三節棍を軸に、宙を舞う。
何が起こったのか悟った男が、とっさに剣を振るいながら背後を向こうとする。
男の頭から三節棍を回収しながら、床に着こうとしていたナナミは、彼の腕の動きからそれを悟り、まずい、と思う。
彼が床に先端をつけている剣を、そのまま振るってしまったら――いつの間にか間近に迫っていたスイの座るソファに、当たってしまうのだ。
「…………っ。」
ナナミは、衝撃の一撃を与えられないのを承知で、空中に浮かんだまま、手にした三節棍を大きく振りかぶった。
そして、間に合えと願いながら、こん身の力と、体重をかけて、相手の脳天に振り下ろした。
がっこんっ!!
盛大な音を立てたと同時、一瞬ナナミの身体が空中で止まった。それほどの衝撃を与えた攻撃に、さすがの男も、膝がカックンと崩れた。
ナナミは、とん、と無事に床に脚をつけて、ふぅ、と吐息を零すと、男の向こう側で眠るスイを認めて、安堵の微笑を零した。
見ると、男は剣の先を元の場所からまるで動かせていなかった。
どうやら、彼が動かすよりも先に間に合ったらしい。
タイミングからしたら、スイに当たるかどうかのところまで迫っていると思ったんだけど……? と、軽く首を傾げるが、今はそれどころではないのだと思い出す。
一応念には念を入れて、男の頭に蹴りを入れようとした瞬間、
がつっ。
鈍い音がして、リオが小さくウメクのが聞こえた。
とっさにナナミが視線を向けた向こうで、棚にぶつかったらしいリオが、痛みに動きを止めているのが見えた。
なんだかんだと避けながら術を唱えていたようだが、それでも上手く最後まで詠唱できなかったらしい。
左肩の血が痛いたしく、ところどころに切り傷が増えている。
燃え上がったソファは、すでに誰かが鎮火したらしく、黒い消し炭と化していた。
リオが動きを止めたその瞬間を狙って、男の一人が飛び込んでくるのが見えた。
ナナミは手に触れたものを引き出し、それを投げる。
「リオっ!!」
ひゅぅんっ、と風を切って走っていった「それ」は、かっつぅーんっ! と音を立てて、壁に突き立った。
ちょうど、リオと男の目の前で。
「…………っっ。」
きらり、と光に反射する剣に、さしもの二人も肝が冷えたようである。
絶句して二人揃ってナナミを見てきた。
ナナミはそれを見て、自分の手を見て――投げたのが、つい先ほどまで自分が戦っていた相手の武器なのだと悟った。
「ナナミー!!」
死ぬかと思ったじゃないか、と叫ぶリオに、ごめんごめんと明るく謝って、ナナミはその場を飛び出した。
そして、そのままリオに飛びかかろうとしていた相手に、不意打ちを食らわせる。
とん、とリオの前に立つと、
「早く、リオっ!」
鋭く叫ぶ。
リオは、すでに意識集中に入っていた。
それほど待つことなく、リオの左肩の傷が癒される。
ナナミはそれを確認して、自分が交わしていた相手をこん身の力で押しのけると、そのままスイの近くへと戻っていく。
リオはナナミの相手していた男を引き継ぐと、怪我などない身体で、目一杯叩きつける。
そのまま返し手で、近づいていた男向けて回し蹴りを放った。
どんどんっ、と連続して倒れる男に、ついでとばかりに一撃を加えた。
続いてリオは、紋章を解放しようとしている男向けて、先ほどナナミが壁に突き立てた剣を抜くと、それを投げつける。
「うわっ!」
びぃんっ、と、間近に突き立った剣の存在におびえる男向けて、ついでとばかりに手近にあった花瓶を投げてやった。
見事なコントロールで花瓶にぶち当たった相手は、あっさりと昏倒してしまう。
残るは、あと2人である。
「いっちゃえ、いっちゃえリオーっ!!」
拳を突き上げて応援するナナミに、先ほどとはまるで違って、軽く片手を挙げる余裕さえ見せて、床を蹴った。
そこへ、相手の男が壁にかかっていた絵をはがして投げつけてくる。
向かってくる絵を、左のトンファーで受けたリオの眼前で、絵が壊れる。
とんだ木の破片の中、キラリと光る銀の光――とっさにリオは左の軸足で床をキュキュ、と捻ると、身体を横に向けた。
その鼻の先を、ナイフが飛んでいく。
「きゃーっ!! ちょっとあんたっ! うちの弟を殺す気っ!!?」
叫んだナナミが、テーブルの上に残っていたカップを投げつけた。
そのカップに当たるか当たらないかの位置で、男は無造作にキィンッ、とカップを切り捨てる。
ごとり、と板目の床に落ちたカップが、見事な切れ口を見せて二つに割れた。
そこへ。
踏み込む――!
「……っ!!」
瞬時の間に懐に飛び込んできたリオの、速さにぼやける容貌の中、強く焼きつく目が、しっかりと男を捉えた。
それを認識したとたん、男は鳩尾に熱い感触を感じていた。
そして、脚が床を離れ、吹っ飛ぶ。
がしゃがしゃがしゃんっ!!
激しい音を立てて、棚へと突っ込んだ男の逆から、残った男がリオへ向けてレイピアを突き刺してくる。
リオはそれを紙一重で交わし――……、
「考えてみたら。」
小さく呟いて、右手の手袋を、口に挟んで外す。
仄かに光る紋章の形を認めた瞬間、相手の男が小さく息を呑んだのが分かった。
そうして、リオはさらに紋章の光を増していきながら――。
「コレ使えば、スイさんの傷(?)も癒えるんだよねー。」
室内いっぱいに広がる光の中、堂々と宣言した。
「ゆるす者の印。」
瞬間、暖かな光が身内の元へ――痛いくらいの輝く光が、残った哀れな男の下へ、のしかかったのであった。
「あれ? ……――今、全部攻撃に行かなかった?」
「私、別に攻撃受けてないし?」
「いや、そうじゃなくって、スイさんの分の回復分が引かれてないとおかしいんだけど――一応、アレもダメージ系じゃないのかなぁ?」
一通りグルグル巻きにした湖賊サンたちの、ボロボロな状況を見ながら、小首を傾げたリオとナナミが、続いて不安そうにスイを振り返った。
やっぱりクスリとか毒は、ステータス回復用の魔法じゃないとダメなんだろうかと、捨てられた子犬のような目で、スイを見つめる。
未だ壁際に設置されたソファの上では、スイが白い顔で、グッタリと横になっていた。
頭にはクッションが置かれ、身体にはいつの間にか倒された男の上着がかけられている。
リオはそれを見て、不安そうな表情でスイに近づくと、
「ナナミ、スイさんを横にしてくれたの?」
仰向けに安らかな眠りを見せているようにしか見えないスイの手をとって、そう尋ねると。
「え? してないわよ?」
「……え?」
「…………ええ?」
当惑したように、姉弟が顔を見合わせた瞬間である。
ふっ――と、スイの瞼が開いた。
長い睫が揺れて、印象的な瞳があらわになる。
「スイさんっ!」
「スイさん、気分はどうですかっ!?」
慌てて二人が彼に声をかけると同時、スイは唇を開き――あふ、とあくびを噛み殺した後。
「あれ、戦闘終わったの?」
あくびを噛み殺したために、にじみ出た涙をぬぐいながら、当たり前のように尋ねた。
「あ、はい、終わりましたけど――あの、スイさん、ご気分はどうですか?」
「ん? 平気だよ。」
ニコ、と微笑んで、それから彼はグルグル巻きになった男達が、未だ気を失っていることに気づく。
「あれ? あれじゃ、取引できないじゃないか。」
辺りを見回すと、何があったのだろう、というくらい、ぐちゃぐちゃの部屋があった。
花瓶は割れてるし、ソファは焼けてるし、壁に剣は突き立っているし。
「取引は、もういいんです。」
リオは、スイの手を握ったまま、俯いて呟く。
え? と聞きかえすスイに、リオは決意の色をにじませて宣言する。
「スイさんをこんな目にあわせて、取引しようなんて人と、取引する気は、なくなりました。」
たとえ取引に勝ったとしても、と続けたリオに、ナナミも大きく頷いている。
そんな二人を見比べて、スイは困ったように眉を寄せる。
「こんな目って――もしかして、薬のこと?」
「そうです! 弛緩剤が入ってる薬を入れて、スイさんを襲おうだなんて……っ。」
もしナナミが守ってくれてなかったら、スイにどんな危険が襲っていたのか分からない。
こんなところにスイを連れてきたなんて、と後悔するリオに、スイは益々困惑したような顔になった。
「いや、あのさ……? 僕は、知ってて飲んだんだけど?」
「………………………………………………………………は?」
「…………………………………………え、えええええーっ!!!? なんでっ、どーしてぇぇぇっ!!!!?
」
部屋が震えるほど叫ぶ二人に、スイのは困ったように頬を掻く。
「なんでって――あのお茶、あからさまに色も違ったし、クスリ臭もしてたし、どう考えてもクスリ入りって感じだったじゃないか。」
スイの台詞に、二人はそうだったっけ? とお互いの顔を確認する。
「……てっきり、君達がカップを手にしないから、僕に飲むように言っているのかと思ったんだけど――。」
「まさかっ! クスリが入ってるなんて知ってたら、最初から商談なんてしてませんよっ!!」
誰が好き好んで、スイにクスリ入り茶を飲んでほしいなんて頼むものかっ!
キッと目を吊り上げるリオとナナミの顔を、交互に見て――スイは、あからさまに参ったな、とため息を零した。
「もしかして、リオもナナミも、シュウ殿から何も聞いてなかったり……する?」
いかにも疲れたような声で言われて、リオは毒気を抜かれたような顔になり、ゆっくり考えるように首を傾げて――フルフルと頭を振った。
おずおずと、上目遣いにスイを見上げて。
「聞いてるって――……何を、ですか?」
恐る恐る尋ねた。
スイは、やれやれとため息を零すと、シュウ殿はこの契約を取るつもりだったのか、実はそのつもりがなかったのか、一体どっちなんだろうね、と一人ごちる。
そして、左手を軽くかざすと、手の甲に刻まれた紋章を解放した。
「母なる海。」
明るく輝いた流水の紋章が、くっきりと空中に刻まれたかと思うや否や、辺りに水色の波紋が広がり、リオとナナミが叩きのめした者たちを包み込む。
水の波動が消えてから、スイは左手を下ろし、ひょい、と倒れた家具を飛び越えて、彼らの目の前に降り立つ。
腰をかがめて、ナナミが倒したリーダー格の男を覗き込むと、ニッコリと笑う。
「条件、ちゃんと三つとも果たしたから、商談は成立――こっちの言う値で買わせてもらうよ?」
それはそれは楽しそうに告げられた内容に、男は、苦々しげに笑った。
「ああ。モノを見て、的確に値段を判断してくれたら、こっちも何もイワネェよ。」
そんなやり取りを交わしている間に、スイは男達を縛った縄を解いてしまう。
何を、とナナミが駆け寄るのに、リオは顔をゆがめて――小さく尋ねる。
「あの……スイさん――もしかして………………。」
嫌な予感に顔をゆがめるリオに、ナナミが髪を揺らして振り返る。
「リオ?」
何を、と言いかけた彼女に、リオは自由になる男達と、ワイン倉庫まで案内してもらおうね、と笑うスイとを見比べて――頭に軍師の皮肉な笑みを思い浮かべながら、泣きそうな声で尋ねる。
「もしかして、商談を成立させるための方法って、幾つかあったりしました?」
スイが先ほど言った言葉を、良く考えてみると、妙な台詞に思い当たる。
「クスリ臭がするお茶を、わざわざ飲んだ」
「君達が飲まなかったから、僕が飲まなくちゃいけないのかと思って」
「シュウから何も聞いてなかったの?」
それを総合すると?
と、顔をゆがめるリオを見やるスイに、さらに泣きそうな声で、リオは続けた。
「それって――クスリ臭がする、クスリ入りのお茶を、誰か一人が飲まなくちゃいけないっていう、条件だったり……します?」
できることなら、そうであってほしくないなぁ、というリオの心は、あっさりとスイたちによって裏切られた。
「うん、そう。」
「商談相手から出されたお茶を、信用しないで飲まないような相手とは、商談できないんでね。
コレをクリアできなかったヤツには、こっちの言い値で買ってもらうことにしてる。」
頷いたスイに続いて、手首の具合を試しながら男が当たり前のように笑う。
聞いた内容に、一瞬眩暈を覚えたリオは、さらにクラクラする頭を片手で抑えて、
「三つの条件のうちの、最後の一つっていうのは……?」
「叩きのめした後の彼らを癒すこと。」
「コレをしてくれないと、こっちも相手を信用できねぇ。しなかった相手には、粗悪品しか売らねぇのさ。
悪く思うなよ、兄ちゃん? 俺らも、湖賊として命張ってるんでね。」
左手を当然のようにかざしてくれたスイの隣で、男は懐から鍵束を取り出し、じゃらりと鳴らした。
そして、今の今まで戦っていたことなど、まるで感じていないかのように、彼は鍵束を一回りさせると、着いてきな、と踵を返した。
「――……。」
複雑な気持ちで、そんな男の背中を見やるリオに、スイは彼を手招く。
ナナミと一緒にスイの隣に立つと、さぁ行こう、と背中を軽くたたかれた。
それでも気持ちは晴れなくて――眉間に皺を寄せたままのリオに、スイは困ったように首を傾げる。
「やっぱり、あんまりいい気分じゃないよね?」
だからこそ、シュウはこの商談を「不許可」したに違いないのだ。
リオのまっすぐな性格には、こういう場の、こういう「卑怯な」駆け引きは受け入れられにくいから。
スイが一人でココへ赴くのならば、もっと上手く駆け引きすることが出来たろうが――それは、リオの前で見せたい物ではない。
出来ることなら、リオとナナミの二人が、お茶を飲んでくれて、アッサリと寝てくれるのが一番楽だったのだけど……と、苦く胸の内で思ったことは言葉にはしなかった。
リオも軍主である以上、ある程度の商談の駆け引きは知っておいたほうがいいことは、分かっていたから。
こんな商談の駆け引きなんて、序の口に過ぎないのだ。
相手を信用するために、わざと相手を試すこと。わざと相手を窮地に追いやるような手段を使うこと。――自分が彼らの足元を見れる立場であるからこそ、できること。そういうことを、リオは毛嫌いするだろうけど、学んでおかなくてはいけないことなのだ。
――こういうことが得意な軍主が居ると、ある意味楽だと……マッシュも言っていたけれど。
「……それは、スイさんの方です……。
僕もナナミも、何にも知らなくて、クスリ入りのお茶なんていうものを、スイさんに飲んでもらって――分かってたら、誰も飲まなくてもいいと、そう判断したのに――その上での商談でもいいと、そう言えたのに……っ。
みすみす、スイさんを危険に合わせてしまって……っ。」
辛そうに、顔を顰めるリオの表情は、捨てられた子犬のようで、ぬれた雨の中、さまよう子供のようで。
――できるなら、そういう汚い部分は、シュウに頑張って負ってほしいものだと思うのは、この子の穢れなさを見てしまったからだろうか?
唇をかみ締めるリオの肩をそっと抱いて、スイはもれ出てくる微笑を噛み殺せないまま、彼に囁く。
「ありがとう、リオ――。ちゃんと、僕が先に話しておけば良かったんだね?
彼らは、鉄の掟でもって、決してクスリ入りのお茶を飲んで昏倒した相手には、決して手を出さないんだ。」
スイの台詞に、そういえば、とナナミは思い出す。
ナナミが男との戦いに決着がつく寸前の出来事だ。男は剣を振るう暇がなかったのではなく、目の前のスイに当たるかもしれないからこそ、剣を動かすことが出来なかったのかもしれない。
「――……それじゃ、スイさんに、危険はなかったということですね?」
確認するリオに、スイは頷く。
だからこそ、出来ることならこの二人にお茶を飲んで欲しかったのだけど。
「そっか――良かった。」
ふわり、と笑うリオの、心の奥底から安心したような笑顔に、つられるように笑った。
「僕のほうこそ、リオたちだけに戦いを任せるような形になって、ごめんね?」
「いいえっ! スイさんはスイさんで大変だったんですからっ!
それに、あれくらい、私とリオで十分ですよっ。ね、リオっ!?」
小走りでスイの斜め横手に出てきたナナミが、大きく手を広げて断言する。
そんな姉の言葉に、リオも大きく頷いて見せた。
「はいっ! 今日のスイさんは、ワインの味見係りで、戦闘要員じゃないんですから、戦いは僕らに任せてくださいね!」
明るく笑う少年の笑い声に、スイも微笑ましい気持ちで頷いた。
「それこそ、まかせておいてよ。」
案内されたのは、島の奥にある自然洞窟であった。
中に入った一同を待っていたのは、どこからともなくワインを運んでくる男達と、男達によって運ばれてきたワインのビンの束であった。
ひんやりと涼しい洞窟内の入り口近くにある、少し広い広間のような場所に、古ぼけたテーブルと棚が置いてあり、そこにワインのためのグラスなどが用意されていた。
男は、持ってきたワインの束を振り返り、どうだ、といわんばかりに微笑んだ。
「テイスト用のは、この間俺らが開けたので我慢してくれ。良いモノは、一度あけた後に船で運んでたら、風味が飛んじまうしな。」
ほら、と遠慮なくグラスに注いでくれた銘柄を確認して、スイはためらうことなくそれを口元に運んだ。
香を味わい、軽く口に含む全ての動作を見ていた男の目が、自信たっぷりに光っている。
一部始終を見ていたリオとナナミは――もう何もないと分かっているが、ついつい辺りを監視してしまっていた――、喉を鳴らして経過を見守る。
「……これ、いつ開封したやつ?」
「おとついだ。」
「……へぇ?」
少し驚いたように目を見張る辺り、開けてからそんなに経過しているようには感じなかったということだろう。
深い赤の液体を、洞窟内を照らす蝋燭の明かりに照らし出し、満足げに微笑む。
「これなら、3万ポッチは出せるね。」
「3万っ!? 馬鹿言うなよ、市場じゃ5万5千はするぜ?」
「ここは市場じゃないでしょ?」
からん、とワイングラスを揺らすスイの言葉に、ちげぇねぇ、と男が顔をゆがめる。
「いくら言い値つったって、そりゃボリすぎだぜ、旦那? せめて、4万だな。」
「それじゃ、3万2千。それ以上は出せない。」
「そりゃ、カナカンでも上質の方に入るワインだぜ? しかも、この年代モノは、ごく少数しかないっていう代物だ。とてもじゃねぇが、4万はきれねぇ。」
「でも、このワイン。輸送時に少し失敗したみたいな味がする。――ちょっと温度の高いところを通り過ぎたような……。」
「――……げっ……わかんのか、あの味の違いが?」
「少し、ね。」
ワイングラスを置いて、本格的な交渉に入るスイと男とを、呆然と見比べるリオとナナミへ。
「ほら、あんたら、ワインは飲めないんだろーが?」
かつん、と小気味いい音を立てて、グラスが差し出される。
思わず受け取った二人の正面に、たっぷりと濃厚なぶどうの匂いが注がれる。
「ジュースだよ。ワイン造ってるとこから仕入れてるもんで、上等もんだぜ?」
「お茶請けも用意したから、こっちで一緒に食えよ。」
ほらほら、と手招いてくれるのは、リオと思い切り戦った男達である。
当惑した顔でお互いの顔を見やるものの、リオもナナミも、自分が手にしているぶどうジュースのいい香の誘惑には叶わなかった。
おそるおそる口をつけて、口の中にまろやかに広がる深い味に、感動を覚える。
「おっ……い、しぃっ。」
「うんっ、すっごい、これ!」
思わず口元を抑えて叫ぶ二人に、そうだろうそうだろうと、彼らが笑った。
そして、再び手招く彼らのもとへ、今度は迷うことなくリオもナナミも到達した。
用意された椅子に腰掛けると、その椅子は固いからとクッションを手渡され、さらに焼きたてだというクッキーや、ケーキなども出てきた日には、和気藹々としたムードができあがっていた。
「しっかし、あんたら若いのに強いねぇ?」
「それ、あのゲンカク将軍が持っていたのと同じ、真の紋章だろ?」
「アッチのも、よくもまぁ、うちの大将相手にあそこまで粘るよ。」
あははは、と明るく笑う彼らに、リオは軽く首を傾げる。
「皆さん――なんで、こうやってよくしてくれるんですか?」
だって、リオは先ほど、彼らをぶちのめしたのだと言うのに?
おずおずと尋ねた言葉に、彼らはキョトンとした後、豪快に笑い飛ばす。
「俺らには、コレ以外相手を試す方法がねぇからな。」
がっし、と自分のたくましい腕を握り、一人が笑う。
「そうそう。どんなヤツでも拳を交えりゃ、たいていのことは分かる。
あんたら二人は、すんげぇ真面目で、まっすぐないい子だってこともな。
だから、他のとこで商売したら、だまされちまう可能性が高いから、気をつけな。」
おせっかいのつもりで言ってくれたのだろうが、言われた本人としては、あんまり嬉しくない言葉である。
「んー……ま、うちには、優秀な商売人がついてるから、大丈夫だと思うけど。」
暗い天井を見上げて思い浮かべるのは、シュウの少し悔しそうな顔である。
こういう展開だったということは、シュウが期待していたのは、失敗することだったはずだ。
リオが間違えて粗悪品や高値での商売をこぎつけてきたなら、シュウは堂々と彼ら相手に請求することをするか、あっさりと打ち切るかのドチラかを選ぶはずだ。
けど、スイのおかげで――あんまり嬉しい勝ち方ではないが、いい商売契約に持っていけそうだ。
これなら、シュウも喜び、悔しがること間違いなしである。
そんなことを思い、知らないうちに緩む頬でジュースを飲んだリオに、そうだなぁ、と男の一人が相槌を打った。
「まーなぁ――あーんな強い商売人連れてたら、どんな商談も怖くねぇわな。」
チラリ、と横目で彼が見やった先に居るのは――彼らの大将と商談をサクサクと進めていくスイの姿であった。
いつのまにかワイン10種類分の契約が済んでいて、大将の顔色を見るに、あんまりこちら側にとって麗しくない商談内容にまとまっているらしかった。
こりゃ、根こそぎ買われてしまう可能性もあるようだ。
また、南まで仕入れに行かなくてはならないようだった。
「商売人? て、スイさんのこと?
スイさんは、商売人なんかじゃないですよ?」
きょとん、と目を見張るリオに、嘘だろ、と彼らが笑い飛ばす。
「商売人も商売人。ありゃ、相当だぜ?
何せ、俺らの闇の商売の掟――三つをクリアしたらどうのとか言うアレを知ってたろ?
アレを知ってるのは、ごくごく一部の人間だけなんだぜ?」
あんな、見た目もガキが知ってるってことは、親から後継ぎの芽があると判断されて、教えてもらったという可能性だけしかない。
それとも、商売の天才か、だ。
リオとナナミの空になったグラスに、新しいジュースを注いでやりながら、当たり前のように男達は断言する。
そんな彼らに、でも、スイさんは商売人じゃないよねぇ? と不思議そうにリオは首を傾げた。
そこへ、ちょうど最後の商談も終わったらしいスイが、こちらへ向かって手を振った。
「終わったよ。明日にでもティーカム城の方へ運んでくれるってさ。」
ヒラヒラと手を振りながら笑う彼の正面では、スイのあまりの舌とワインの金銭感覚の確かさにやられた大将が、がっくりと肩を落としていた。
どうやら、全て敗北したようである。
「ほんとですかーっ!? ありがとうございます!!」
「あはは、お礼はワインの一本か二本でいいよ。ここのワイン、聞いてたとおり、上質モノばっかりみたいだから。」
大喜びで両手を鳴らすリオに、スイが楽しそうに笑う。
もちろん、それくらいのお礼はさせてもらいます、と太鼓判を押したリオが、大きく頷いた瞬間。
瀕死の人のように、顔色が悪くなっていた大将が、暗い目でスイを見上げた。
「おい、あんた……。」
「ん?」
「聞いてたとおりって――誰から聞いたんだ? 俺らの鉄の掟のことといい、よ?」
疲れたような重い声に、スイはかすかに首を傾げて、あれ、と小さく呟く。
「僕の名前、聞いてない? アンジーたちから?」
優しい微笑を浮かべる、綺麗な顔立ちの少年の口から出た、「カナカン産のワインを安く仕入れている相手」の名前に――それは同時に、昔からの賊仲間でもあったのだけど――、一瞬、全員の顔色が変わった。
彼らから聞いている、「少年」の名前は、たった一つであったからだ。
慌てて口を開け閉めさせて、スイを指差す大将に、
「そういや坊主、さっきスイって、呼んでたかっ!?」
男の一人が、リオに詰め寄る。
わけがわからないまま、リオは頷くと、
「ええ。スイ=マクドールさん、ですけど?」
何の気負いもなしに、スイのことを紹介した。
瞬間――……。
「うーわぁぁぁぁぁーっ!!!! す、すみません! すみませんーっ!!」
「まさかあなた様にクスリを盛っていたなんて……! 最初に名乗って下さったら、こんなことなんてせずに、最上級のワインをご用意させていただきましたものをーっ!!!」
「あ、あれが噂の悪魔の帝王……っ!?」
洞窟内に、男達の悲鳴が醜く響いたのであった。
慌てて耳を抑えてしゃがみこむリオとナナミの目に、唐突に椅子を放り出し、土下座し始める男達の姿があった。
「本当に申し訳ございませんーっ!! 命ばかりは、命ばかりはお助けをーっ!!!!」
あまりの声の凄さに、必死で両耳を抑えているリオとナナミには、一体何が起こっているのかわからない。
そんな騒ぎの中央に立つことになったスイは、ちょっとだけ困ったような顔になると。
「……うーん。これじゃまるで、僕が一番の悪役みたいじゃないか。」
苦く笑いを噛み殺していたが――ティーカム城においてきた面々の口を借りるなら、
「お前に対する正当な評価だろ。」
になるのであった。
なんだかんだと大騒ぎになった島を出たのが、夕方になろうとしている頃であった。
きっちり90度以上のお辞儀をして、一斉に浜辺まで見送りに来てくれた男達に、リオとナナミは大きく手を振り、スイも穏やかに手を振って見せた。
「お土産にって、たくさん貰っちゃいましたねっ!」
ゆっくりと櫂を操りながら、リオは船の半分ほどを占めているみやげ物を示した。
声が嬉しさに弾んでしまうのは、あそこで飲んだ美味しいブドウジュースもたくさんおすそ分けしてもらったからである。
「ほんと、湖賊さんたちって、最初は最低! とか思ったけど、いい人たちだったね!」
その、いい人たちがこぞってお土産をくれたのは、単にとある人のせいなのだが、ナナミもリオも、どうしてそうなるのか分からないため、単純に喜ぶだけであった。
「そうだね。」
クスクスと笑うスイは、何を考えているのか顔には出さず、指先を湖面に触れさせる。
広がる波紋が乱れ、幾十もの同心円が重なっては消えていく。
「あ! そういえばスイさん? クスリの影響は、大丈夫ですか?
後遺症はないって言ってましたけど……。」
ふとリオが不安に眉を曇らせて尋ねるのに、スイは前髪を軽く手で抑えるようにして頷く。
「心配してくれて、ありがとう。でも、何も変なところはないよ。」
にっこり笑顔で返して、スイは再び湖面に視線を走らせた。
――そんな、下手なクスリの調合はしてないし。
心の中で付け加えた台詞は、決してリオとナナミの元には届かない。
届いてはいけなかっただろうし、届かないほうがいいに違いない。
スイがルドンと一緒に作った、「ぬすっと茶完成バージョン」を、アンジーたちにあげたのが、彼らが商売をすると決めた解放軍末期の頃である。
それが、どう回りまわってあの湖賊の砦にあったのか――あのお茶を出された時点である程度予測がついてはいたのだけど。
「まぁ――あとで、アンジーたちにも、たっぷりと言わせてもらわないとね。」
そこで、ついでにワインを数本貰ってこようと、こっそりとほくそ笑んで決める。
そして、久しぶりに解放軍のメンツで飲み明かすのもいいだろう。
上物ワインを遠慮なくバカバカあける馬鹿どもと、そういう無駄な飲み会をするのも、たまにはいい。
そうと決めたら、楽しくなってきて、スイは優しい微笑を口元に広げた。
「やっぱり、スイさんって、心が広いよねぇ。」
リオとナナミが、その笑顔を見て、そんな風に感心していることに気づかずに。
実は、クスリはあんまり効いていなくて、途中で一度目がさめている坊様なのでした。
……どこで目がさめたのかは、途中の「上着を着て横になっている」あたりがヒントかと(笑)