お花見デビュー





 それは、まだ冬から春にかけての、早春の頃であった。
 日は長くなり、日中は暖かくなり、時折寒い風が吹く――そんな穏やかな冬と春との境目が続いていた。
 ただ夜はまだ冷え込み、深夜ともなると、人々は早々に布団に包まっていた。
 寒さが身にしみる中、遅くまで起きているのは、夜だからこそ人が集まる酒場と、朝も夜も関係のない兵士達くらいであった。
 特に同盟軍の本拠地であるティーカム城は、湖のほとりに位置するため、寒さはまた一塩――夜ともなれば、湖から吹く風が、体からぬくもりを奪っていった。
 暦の上では春と呼べる時季とは言えども、まだまだ寒さは本番と言える三月も始めの今、好き好んで城外に出るものなど居なかった。
 いやいや出るしかないのは、見張りの兵くらいのもので――彼らも、この季節ばかりは、暖をとるためのアルコールを少量ばかり懐に忍ばせていた。
 春、と呼ぶにはまだ早く。
 冬、と呼ぶにはもう遅い。
 そんな……季節のことだった。





 珍しく図書館でおとなしく本を読んでいる軍主を見かけた瞬間、思わず背後の扉を振り返り、外の空模様を確認してしまったのは、決して彼の嫌味ではないはずである。
 それほど珍奇な光景に、空晴れの天気を確認したクラウスは、そのままの視線でカウンターに座るエミリアを見た。
 エミリアは、彼のなんともいえない顔を見て、くす、と小さく笑う。
 自分の下へと歩いてくるクラウスが抱えている本へ向かって手を伸ばすと、彼は当惑の表情を浮かべながら、数冊の本を彼女に手渡した。
 早速カウンターの中から、貸し出し帳簿を取り出し、クラウスの持ってきた本と確認しながら、彼女は涼しげな顔で眼鏡の置くからクラウスを見やる。
 彼は線の細い、端正な面差しを奇妙に歪めて、信じられないものを見ているかのような顔つきで、一階の読書机にしっかりと腰掛けているリオを見ている。
 いつものように、隣の国の英雄が図書館に来ているから、という理由でここに居るわけじゃないのは確かである。なんと言っても、件の英雄は、ここ最近姿を見せていないからである。
 誰かから逃げて、逃亡先にここを選んだわけでもないはずだ。何せ、いつも追いかけているシュウは、今日も仕事に追われていてそれどころではないのだ――だから、手の空いたクラウスが、代わりに本を返却しに来ているのだから。
「はい、シュウさんが借りていた本、五冊分、確かに受け取りましたわ。継続貸し出しは良かったのかしら?」
 エミリアが広げた帳簿に走り書きしながら、クラウスに柔らかに尋ねる。
 クラウスはあいまいに微笑みながら、頷く。
 そうしながらも、視線はリオに釘付けである。
「はい。代わりに借りてくるようにと言われているものはありますけど――。」
 懐から一枚の紙を取り出し、それをエミリアに渡す。
 エミリアは、どういう本が欲しいのか書かれたそれを開け、細い眉を顰める。
 いつもながら、シュウのリクエストは難しい。
「うーん……これは……ちょっと待っててくれます?」
 言いながら、エミリアはカウンターの中から一枚の大きな紙を取り出す。
 がさがさ、とかすかな音を立てながら取り出されたそれは、この図書館の見取り図であった。
 裏面の左下に、小さくテンプルトンのサインがある。
 そういえば、この城の見取り図も、商店街の案内地図も、彼が作成したのだったっけ、とぼんやりとクラウスは思い出した。
「えーっと、一冊目は経済関係の書棚にあるから、二階の左端ね。
 それから、魔法関係はその逆――ああ、これは、一階だわ。
 急ぎでないのなら、今日の夕方までに探して、まとめておくけど?」
 相変わらず、テンでばらばらで、統一性のない書名に、エミリアはため息を零す。
 これを一人で探すのは、本当に骨が折れるのだ。
 夕方にもなれば、テンプルトンやマルロに手伝ってもらうことも出来るし。と続けるエミリアに、クラウスはゆっくりと彼女に視線を移した。
「そうしてもらえると、ありがたいのです。
 ――……あの、エミリアさん。」
 柔らかに笑うクラウスの微笑みは、綺麗で優しくて、エミリアは役得だと思いながら微笑み返す。
 そして、ためらうように続いたクラウスの台詞に、分かっているとばかりに頷く。
「リオ君が読んでいるのは、このあたりの伝承の本よ。
 ビクトールさんに、何か聞いたらしくって、調べるのだとか言っていたわ。」
「伝承――ですか。」
 言いながら、クラウスはリオへと視線を向ける。
 いつもなら彼の側に居るナナミの姿形も見えない。彼はただ一人で、熱心な表情で分厚い本を睨みつけていた。
 隣には、五冊くらいの本が積んであった。
 どれも、厚い本である。
 いつもこれくらいに頑張ってくれればいいのだけど、と思ってしまうのは、副軍師として外れクジを引いてしまうことが何度もあるからであろう。
「ビクトールさん……また変なことを教えていないといいのですけど。」
 きゅ、と柳眉を顰めるクラウスに、エミリアは苦い笑みを貼り付ける。
 ビクトールがリオに教えることは、いいこと、と悪いこと、の両方があって、その差が激しいのである。
 確かに、前回の「この湖には、昔から恐竜が住んでるんだ」というビクトールの冗談には、大変な目に逢わされたし――できることなら、今度の「ビクトールのお話」が、酒に酔っ払った勢いの話でないことを祈るだけである。
「でも、まぁ……子供は、あれくらいでいいと思うわよ。」
「………………。」
 エミリアの微笑ましい言葉ではあったけど、クラウスはそれに苦く笑うしかなかった。
 彼女はグリンヒルで受付嬢をしていた手前、ある程度の年頃の少年少女には詳しいのだろう。
 しかし、クラウスは生まれも育ちも――そして、その後の道も、多少他人様とは異なっている。軍人の家系に生まれ、軍人たるものとして育てられ、そう生きてきた。
 結局選んだのは軍師としての道だったけど、そうして育てられたことは糧になりこそすれ、無駄になることはなかった。
 そういう生まれと育ちをしているからこそ、同じ年頃のヤンチャざかりの子供時代とは、少々無縁であった。
 だから、そういうものですね、と相槌を打つこともできず――子供というのは、そういうものなのかな、としか思えない。この際頭に浮かぶのは、リオと同じ年頃の少年達であった。
 サスケとか、フッチとか、ルックとか、コーネルにテンプルトン、チャコ、ジョウイ。
「……………………。」
 思い浮かべた少年達が問題なのか、やはり納得は出来なかった。
「――――ん、まぁ……リオ君は、ある意味、パワフルですごいとは思うけど……。」
 クラウスの微妙な沈黙を感じたのであろう。
 エミリアが、やや視線を泳がせながらそう告げた瞬間――……。
「あったぁぁぁっ!!!!」
 ばんっ! と、机が叩かれた。
 沈黙が降りる図書館内の、すべての者の視線が声の主に集中する。
 そこに居たのは、当然のことながら――リオであった。
 視線を一身に浴びながら、リオは満面の輝くばかりの笑顔で、分厚い本を目の前に掲げる。
「うるさいぞ、小僧っ! 一体何の騒ぎだっ!」
 苛立ちもあらわに、二階の吹き抜け部分から顔を覗かせたメイザースが、苛立ちながら片頬をゆがめる。
 そんな彼に、リオは彼を落としたときそのままの明るい笑顔を向けると、
「花見っ!」
 鋭く叫ぶ。
 思いもよらない魅力的な笑顔に、そして口から飛び出した台詞に、メイザースはジリリ、と後退した。
「は……花見、ですか? ……まだ時期的に早いと思いますけど。」
 引きつりながら、心の中でビクトールに呪詛を吐きつつ、クラウスがおずおずと提言すると、リオは大きく頷く。
「誰も、普通の花見がしたいって言ってるわけじゃないよ。」
 そして、健やかで無邪気な笑顔を浮かべて、本を机の上に置きなおすと、うん、と小さく頷いて――クラウスを見やった。
 それはそれは明るい、嬉しそうな笑顔で。
「一度でいいから、スーパーヒーローになってみたいんだー。」
 どこをどうやったら「花見」に繋がるのか分からない台詞をのたもうてくれた。








 手紙は、白い封筒に入っていた。
 裏面に落とされた封蝋を見た瞬間、嫌な予感に駆られて……猛烈に嫌な予感が全身を駆け巡って、開けたくなかったのだけど、カゲが手紙を提示した場所に居たレオンが――なぜかこの日に限って、カゲに用があるとか、レオンが言うから、一緒に居たのだけど、ジョウイはこの尋常じゃない偶然を、ひたすら後悔した――あけろというから、あけざるを得なかった。
 あでやかな赤の蝋で封されているその模様は、新同盟軍の旗に描かれているのと同じだ。
 つまりこれは、同盟軍からの新書である。
 それも、表には、「ジョウイへ」と書かれていて、差出人には、「リオ」と書かれている。どう考えても、公的文書ではなかった。
 しかも、カゲが持ってきたということが、何よりもの証拠である。
 リオがどうやってカゲに頼んだのかは知らないけど――たぶんに、ビクトールさんとか、フリックさんとかが関わっているのだろうけど――、レオンはこの手紙が怪しいと思っているようである。
 そりゃ確かに、敵国の軍主がプライベートで手紙を送ってきているなんて、普通の軍師なら、「怪しい」と思うのであろう。だからこそ、すぐに開けろと急かすのだろうけど。
 これで、普段からやり取りしてるよ、なんて言おうものなら、どうなることか――と、開けたくない封を開け、中から上質の紙を取り出す。
 レオンが厳しい顔で見守る中、ジョウイはため息を押し殺しつつ紙を広げて……ああ、やっぱり開けなきゃ良かったと後悔する。
 そこには、良く見慣れた親友の文字で、招待文が描かれていたのである。
「吉日、湖中の無人島にて、花見を行いたいと思っています。こぞって参加してください。
 できるなら、クルガンさんを連れてきてくれると嬉しいです。女性陣が、彼のことを気に入ってるみたいなので。
 では、お返事をお待ちしております。
 親愛なるジョウイ様
 あなたの親友の、リオより。」
 ジョウイの手の隙間からそれを覗き込んでいたレオンは、文章を見終わった瞬間、鼻でせせら笑った。
「はんっ! 良くもまぁ、こんな文章が書けるものだ。」
 レオンがどういうことに対してそう言うのか分かっているだけに、ジョウイは苦笑を覚えずにはいられなかった。
「このような、いかにも分かりやすい罠の誘いなどに、誰が乗るというのか。」
 いや、リオは決してそんなつもりではない。
 本気で、誘っているのである。
「所詮はシュウも若造――こんな策しか練れんということか……。この機会を、こっちが逆に利用して、向こうを罠にはめることも――いや、もしかすると、それを考えたうえでのちゃちな呼び出しかもしれんな。」
 一人で真剣な顔をしているレオンに、ジョウイは疲れたような笑みを見せる。
 そして、懐かしい友人の手跡を見ながら、ため息を零す。
「なんで、湖中の無人島の花見なんだろう? ――今の時期だと、桜……じゃないよね、ってことは、梅か、桃の花、かな?」
 それこそ不思議であった。
 桜の花見なら、キャロに居た頃から三人の年中行事であったから、今年も一緒にやろうと言うのなら、分かるのに。
 この季節、桜には早い。
 となると、本当に罠にはめるつもりで、リオが書いたのだろうか?
 いや、それはない。
 こんなあからさまな怪しい文書を、真剣に書くのは、リオが本気で花見をしようと思っているからに違いない。
 その上、今回はクルガンを誘って、と書いてある。
 これはクルガンに和戦交渉に行ってもらった結果だと思うのだけど――そう、あの時のクルガンの報告書は、彼らしくない困惑と混乱の様子が良くわかるくらい、すばらしいものであった。敵国の将を連れて、トランで英雄の部屋見物をしたり、本拠地で釣りをしたり、空中庭園でお茶したり、風呂に入ったり……しかも、特別審査員として料理対決にも出たのだとか書いてあった。
 レオンはそれを見た瞬間、さすがだな、とかわけのわからないことを呟き、ジルとシードはうらやましがっていたが――正直な話、まともな常識人だと自己を理解しているジョウイには、まったく分からない感覚であった。
 そのクルガンを連れて来いというのも、本当に書面だけの理由なのか――罠だとしたら、ジョウイだけの方が楽なはずなのに……いや、そう思わせて、安心させることが狙いなのか?
 考えれば考えるほど、嫌な考えになってしまうのは、きっと近くにレオンが居て、彼が、「これは罠です」と言い切っているせいだろう。
「ふむ……よし、ジョウイどの。ここは、相手の策に乗りましょう。」
「……へっ!?」
 唐突に結論を出され、ジョウイは軽く目を見張った。
 そんな彼に構わず、当たり前のようにレオンは続ける。
「こぞって参加、と書いてあるのです。
 こちらも、それなりの人物を配していけばいいのですよ。
 むざむざとやられはしません。」
「……はぁ……。」
 すごくやる気になっているレオンに、なんとはなしに気をそがれつつ、ジョウイは小さく呟く。
「ルルノイエの守りを薄くするわけにはいきませんから、ハーン将軍には残ってもらい――そうですな、お望みどおり、クルガン将軍と、シード、それからカゲも連れて行きましょう。もちろん、私もご一緒しますぞ。
 あの若造には、実力の差というものを思い知らしめませんとな。」
 ふふ、と低く笑うレオンに、ジョウイはなんとなく……なんとなく、自分の選択を後悔したくなったのであった。
 両手を胸の前で組んで、それじゃぁ、それで行きましょうか……と、ジョウイが小さく決断の声を下した瞬間。
「わたくしも行きますわよ、もちろん。」
 どこからともなく――声が、降ってきた。
「……っ!?」
 は、とあたりを見回したジョウイとレオンの視線が、同時にカゲの姿に止まる。
 カゲは、無言で窓を見ていた。
 彼の視線を追うように、二人は窓へ――バルコニーへと続く大きな窓へと、視線をやった。
 ひらり、と風に舞うのは、半透明のレースのカーテン。
 その泳ぐカーテンに見え隠れするのは、人影――赤と紫の、上品なドレスを身にまとった、優美な影。
「花見なんて、一体何年ぶりでしょう? お庭の花咲く木は、お兄様が気に食わないと、剣の稽古の時に切ってしまったんですもの。」
 柔らかな――鈴が鳴るような声は、良く聞き覚えのあるもの。
 彼女は、体に纏わりつくように踊るカーテンを片手で抑えながら、そ、と室内に足を踏み入れた。
 そのドレスの裾に隠れて、ひょこ、とピリカも顔を表せる。
「私も、連れてってくれるよね、ジョウイおにいちゃん?」
 きゅ、と首をかしげる仕草をする彼女と、優雅に微笑むジルとを、ジョウイは交互に見つめ――かすかに顔を引きつらせつつ、尋ねる。
「いつから……そこに?」
 バルコニーへ続く、開け放たれた窓から、涼しげな風が入ってきている。
 肌寒いそれは、室内の空気をかき乱し、寒々とした雰囲気を作り上げる。
 ジルは、乱れる髪を抑えながら、にっこりと笑った。
「あら、決まってますでしょう? 朝からですわ。」
「一緒に、バルコニーで日向ぼっこしてたの。」
 そして、にっこりとピリカが笑う。
 ジョウイはそんな二人に、凍りついた笑顔を向けて――思わず、傾きかけた太陽を見つめた。
「……そう………………風邪、ひかないようにね………………。」
 どうして執務室のバルコニーで日向ぼっこをしていたのかとか、朝からって、どれくらい時間が経っていると思っているのだとか――そういう、無駄な問いかけはしなかった。
 ……いや、できなかった。









 その小さな島は、桜色に染まっていた。
 はるか遠くからも、こんもりと桃色に染まっているのが分かる島が、目的の地――花見の舞台となる。
 一時間もあれば一周できるような小さな島には、巨大な大木が一本立っているだけであった……いや、その島そのものが、その木の根で覆い尽くされているようであった。
 踏みしめると、やんわりと弾力を返す大地は、大きく傘を広げた木の枝に覆われている。
 サンサンと差し込む太陽の光は、重厚な桜色の天井を透かして、大地に降り立つ。
 島に近づくほどに、その巨木の存在感に気を飲まれていた招待客は、天上を占める桜の花に、ただため息を零す。
 開いた唇からこぼれるのは吐息ばかりで、形になるような言葉すら出ない。
 圧倒されるばかりの光景に、顎を逸らし、空を見上げ続ける。
 島の中央には、大人五人ばかりが輪になれるくらいの幹が見える。
 その幹こそが、この島の唯一の木にして、島にある唯一のもの――桜の巨木である。
「すごい……。」
 天上を覆うのは、鮮やかな桜色の花びら。
 ちらほらと落ちる桜の色は、怖いくらい綺麗だった。
 むせ返るような、どこか甘い香りは、桜の香りであろう。桜にも香があるのだとは知っていたけれど、実際香を感じたのは初めてだった。
 息を呑んで、ひたすら圧倒されるジョウイの隣で、ジルが感嘆の吐息を零す。
「こんな……こんな素晴らしい木、初めて見ましたわ。」
 確かにそうであろう。
 小島丸々覆い尽くすような桜の木など、そうそうお目にかかれるものではない。
 一体、樹齢どれほどの年月を過ごしているというのだろうか?
 高さは見上げただけでは判断できない。広がる枝と咲き誇る花々は、大きな傘を作り出しており、その規模がどれくらいなのかは、一見しただけでは予測もつかない。
 島に上陸するまでは、全身に緊張を走らせていたシードもクルガンも、さすがにこの光景には、絶句するしかなかった。
 そのまま、いつまでも頭上の桜を愛で続けるところだった彼らを、正気に戻したのは、軽やかな音であった。
 かっぽーん。
 ハッと振り返ったジョウイは、なぜか置かれている獅子嚇しに気づく。
 なんであんなものが、こんなところに……?
 当然の疑問がジョウイの頭の中を掠めていったが、彼の右隣にたったレオンは、当たり前のように腕を組み、頷いている。
「これこそ、風流だな。」
「…………え?」
 思わず引きつった笑みで、レオンを見やったジョウイは、しかし突っ込みを入れることは出来なかった。
「ジョウイっ!」
 前方から走りよってくる親友が、大きく手を振って声をかけてくれたからである。
 一瞬で顔つきを改める、背後の面々を感じ取りながら、ジョウイは息を弾ませて自分を見上げるリオに微笑みかける。
「いらっしゃいっ! 待ってたんだよ。」
 言いながらリオは、島のほとんどを埋め尽くしている御座から下りる。無造作に裸足のまま踏み出すリオに、彼の背後から保護者の一喝が飛ぶが、それを気にした様子はない。
「リオっ! せめて靴くらいは履けっ!」
「もーう、シュウさんっ! そんなこと叫んでる暇があったら、座布団持ってきてよ、座布団っ!」
 すぐさま、しょうがないと言いたげに叫んでいるナナミの声も聞こえた。
 思わず眼だけであたりを見回すが、シュウと呼ばれた同盟軍の軍師の姿も、もう一人の幼馴染の姿も、見当たらなかった。
 ただ、ヒラヒラと舞い落ちる桜の花びらと、御座が広がるだけである。
 ジョウイは、そ、と唇でため息を零した後、改めてリオに向き直る。
「お誘いありがとう、リオ。これ、つまらないものだけど、受け取ってくれる?」
 差し出したルルノイエ土産を、リオは嬉しそうに受け取った。
 それから彼は、桜の木の下に敷かれた御座を指差す。
「ありがとう。後で皆で分けるよ。
 さ、ジョウイたちも早く座って座って。立ったままでいると、すわりっぱぐれちゃうよ。」
 明るく笑うリオの笑顔は、最後に別れたときよりも、ずっと清清しく、あからさまに上機嫌であった。
 そんなに花見がしたかったのかな、と思いながらジョウイは頭上を見上げた。
 巨大な――まるで空を覆うかと思うくらいの大きな桜の木が、彼らを見下ろしていた。
 あたり一面に敷かれた御座の頭上がすべて、この一本の木の下にあるのだから、その桁知れない大きさが分かるというものだった。
「すごい……ね。」
 圧倒される巨木に、ジョウイが感嘆の吐息を零す。
 船に乗ってここへ来る途中に見えた桜色の色彩に、ここは早めの桜並木があるのかと思ったのだけど、まさか一本の木だったなんて、と首が痛くなるくらいの時間を見つめ続ける。
「でしょ? でっしょ? ビクトールさんから聞いて、調べた甲斐があったってもんだよ。」
 あははは、と明るく笑うリオが、手招きして先導する。
 桜に心奪われながらも、御座の上に上がり、彼についていくと、幹からそう離れていない場所で立ち止まった。
 それから、ここに座ってと、桜の花びらが散る御座を示される。
 まだ料理も何も運ばれていない御座には、お愛想程度の薄い座布団しか敷かれていないが、ほかの場所には何も敷かれていないのだから、一応は特等席にあたるのであろう。
「でも、ずいぶん早咲きなんだね。」
「うん。ティーカム城――ノースウィンドウから、遠目に、島が桜色に染まっているのが見えて……本当に、早く咲いてるんだなって思ったら、いてもたってもいられなくなっちゃって、無理に実行したんだ。」
 いそいそとジョウイの隣に、自分の席を持ってくるリオに、微笑ましさを感じつつ、ジョウイは上着を脱ぎかけ――ふ、と自分の背後を振り返った。
 ジルやレオンたちが、一体どういう態度に出ているだろうかと、不安を感じたのである。
 だが、ジョウイの懸念とは反対に、彼らは陶然とした表情で桜に見蕩れていた。
 確かに、これほど見事な桜には、誰もお目にかかったことはないだろう。
「これは――見事な。」
 感嘆のため息を零すクルガンの顔も、呆然と無防備に天上を見上げるシードの顔も、敵陣に入り込むという緊迫感が剥がれていた。
 もっとも、襲われた瞬間にでも、戦士の顔に戻るのだろうけど――そう、さきほどリオが現れたときのように。
「すごい……。」
 は、と息を呑むジルのドレスの裾で、ピリカが目を大きく見開いて、満面の笑みを浮かべている。
 この島に向かう途中の、奇妙な緊迫感とは異なるそれに、ジョウイが静かに胸をなでおろす。
 ジョウイだけは、「これ」がリオの企みではないことは分かっていたからである。
 だから、単純にこの宴を楽しめたらと、そう思った。
 しかし、レオンだけは違った。
「……そういうつもりか、小僧。」
 低く、この場の華やかさには不似合いなほど不吉な音を含んだ声で、レオンが呟く。
 その声に含まれる不穏な響きを感じ取ったジョウイが、とっさに振り返った先で、レオンが憎憎しげにリオを睨みつけている。
 何が、「そういうつもり」なのか分からない様子のジョウイに、彼は鋭く眼光を散らす。
「レオン?」
 呼びかけにも答えず、レオンは桜を一瞥する。その表情には、侮蔑と苦い感情とが入り乱れていた。
 軍師の態度に、緊迫感を散らせていたクルガンとシードの眼に、力が宿る。
 ジリリ、とずらされた足が、戦闘態勢に入っている。
 ジョウイが眉を顰めて、そうじゃないと、そう叫びかけた唇は、自分の立場を思い出して、口の中に消えた。
 これは、同盟軍の策略なんかじゃない。自分達が、リオたちに持ちかけた和議申し込みのような、あんな策略とは違う。
 ピリカが不安そうにジルのドレスの裾を掴む。
 ジルは眉を曇らせながら、ピリカを庇うように、片手を彼女の肩において、引き寄せる。
 少し背をかがませるように、ジルはジョウイの背を見た。
 問い掛けるような視線を感じながらも、ジョウイは振り返ることは出来なかった。
 レオンが何を言うのか、聞かなければいけなかったから。そして、もしも今ここで何らかの行動を起こそうというのなら、自分だけはそれを止めなければいけないのである。
「そういう、つもり?」
 きょとん、とリオが眼を見張る。
 そんな彼に、レオンは吐き捨てるように叫んだ。
「これは、ノースウィンドウの伝説の大木――血を吸う化け桜だっ!」
「………………………………。」
「………………………………。」
「………………………………………………。」
「…………………………あー…………そりゃ確かに、耄碌したジジイが言いそうなくらい、でっけぇ木ではあるけどな。」
 ビシィッ! と、勢いも素晴らしく指差したレオンに対する反応は、あからさまに冷たかった。
 シードは、さっそく臨戦態勢を解いて、耳に指を突き入れるありさまである。
「シード。」
 すかさずクルガンにたしなめられるが、シードはどこ吹く風である。
 ジョウイは米神に人差し指を当て、グリグリと揉みつつ――。
「えーっと……。」
 何か複雑そうに口にしかけるのだが、
「そんなくだらないお話、三級ホラーでも失格ですわよ、レオン=シルバーバーグ?」
 呆れたようなジルの声に掻き消されてしまう。
「そうだよ。怖い話なら、もっと斬新に行かなきゃ、ね、ジョウイおにいちゃん?」
 無邪気な笑顔で、ピリカまでもが言ってくれるありさま。
 ジョウイは、容赦ない二人に苦い笑みを零しつつ、えーっと、と再び呟く。
「レオン殿、確かにそれは――その……あんまりにも、くだらなすぎっていうか……。」
 優しく静止をかけようとしたジョウイの言葉は、そこで唐突に途切れた。
「そうです! この桜こそ、魔界から直輸入されたのではないかと巷で噂の、吸血桜っ!
 木の下で花見をしていると、いつの間にやら伸びた根っ子が、体に巻きつき、気づけばミイラという、恐ろしい代物ですっ!!」
 リオが、燃える瞳で拳を握り締めて、断言してくれたからである。
「…………り、リオ…………?」
「やはりそうかっ! ふん、そうと分かったら長居は無用だ。
 我らを嵌めようと思ったその罠で、自らがミイラにされるといいっ!」
 鼻息も荒く、レオンが宣言する。
 ジョウイは信じられない気持ちで、リオを見やる。
「リオっ! 本当に……本当に君は、僕らをミイラにするつもりで……っ!?」
 信じたい、そう思うのだけど――そう、思い切れない自分が、悲しくて、ジョウイは瞳をゆがめる。
 そんな親友の目の先で、リオは首をかしげる。
「…………ジョウイなんかをミイラにしても、楽しくないと思うけど…………。」
「確かに、いくら美少年でも、干からびてしまってはねぇ……。」
 リオのあんまりな言葉に、聞こえようによっては冷たい同意を示すのは、ジョウイの妻であった。
 ピリカは、とまどうような眼で、リオとジョウイを見返す。
 それから、助けを求めるように桜の木の方へ視線をやって、あ、と小さく叫んだ。
「ナナミおねえちゃん……っ。」
 救いを求めるように、小さな手を伸ばしたピリカの視線の先で、ナナミが頬を紅潮させて、興奮した状態でリオに駆け寄る。
 いつもの元気なスタイルそのままで、彼女は駆け寄ってきた。視線はリオだけを見据えており、彼の隣に立つ幼馴染は、まったく目に止まっていないようであった。
「リオリオリオリオっ! きたっ! きたわよ!!!」
 興奮状態そのままに、リオの両肩を掴むと、がっくんがっくんと揺さぶり始める。
 いつになく腕に力が入っているためか、前後にぶれるリオの首が、すばらしい角度を作り出していた。
 いつもの、変わりなさ過ぎる光景に、思わず懐かしさすら感じたジョウイとピリカの前で、
「ほんとにっ!!!?」
 ナナミのがっくんがっくんに負けないくらいの勢いで、リオが彼女の肩を掴んだ。
「船影が見えたって、サスケ君からの報告! 早く準備しないとっ!」
「そうだねっ! 見つからないように、しっかり準備しないとっ! シエラさんの定位置の確認は済んでる? 星辰剣の機嫌はっ!?」
「だーいじょうぶっ! ビクトールさんはちゃんと繋いで隔離してあるし、朝から磨きもかけてあるし、対シエラさん用には、クラウスさんも配置してるわっ!!」
 二人の間でしか通じない会話をされて、ジョウイは更に当惑する。
 視線を飛ばすと、レオンも不機嫌な顔つきで、姉弟を睨んでいた。
 何を話を逸らそうとしているのかと、レオンが声を荒げようとした瞬間、二人は示し合わせたように同時に振り返った。
 そして、この上もない真剣な目で、
「ジョウイっ! それから、皆さんっ! 今日の皆さんのお役目は、一般招待客なんで、そのつもりでっ!」
「そうっ! 実はターゲットはあなた達と見せかけるための、おとりなんで、そのつもりでっ!」
「違うよ、ナナミ。ジョウイたちは、スイさんの気を逸らすためのアイテムだってば。カモフラージュ。」
「え? おとりとどう違うの?」
「微妙に違うんだと思うよ。たぶん。」
 ちょっと天然な所を見せてから、二人はそのままその場を去ろうとした。
 が、もちろん、そんな会話を聞かせられて黙っているわけには行かない。
 特にレオンとカゲが、リオが出した名前に反応を示した。
「待て――今から来る船に乗っているのは、スイ=マクドールなのか?」
 顔つきも険しいレオンの表情に、思わずジョウイは息を呑む。
「もちろんっ! だって、今日の目的は、花見でスーパーヒーローだからっ!!」
 そうして。
 返って来たリオの台詞もまた、スーパーファインであった。
「…………あー…………わけわかんねぇ……。」
「安心しろ、シード。俺も分からん。」
 シードが、頭を掻くのに、クルガンが低く宥める。
「リオ……つまり、何?」
 疲れたように尋ねるジョウイに、ナナミがいつもの笑顔で、明るく告げてくれた。
「一度でいいから、スイさんに囚われの英雄っていうのを、やってもらおっか、って作戦なの。」
「そうそう。窮地に陥ったスイさんを、僕が助けるっていう作戦なの。」
「………………作戦?」
 更に眼が歪むジョウイの隣で、レオンは無言で目を閉じる。
 ゆっくりと眼を開け、リオを射すくめる。
「つまり、何か? トランの英雄を、陥れようと?」
 低く尋ねるレオンに、リオは人聞き悪い、と軽く唇を尖らせる。
「いつも、スイさんにいいところ奪われてるから、たまには僕が、スイさんを助けてみたいだけだもん。」
「いや、それを陥れると言わないかい?」
 疲れたように突っ込むジョウイが、常識人的に眩暈を覚える。
 額を抑えたまま、視線だけでナナミを見やる。
「もしかして、そのための――疑われないためのカモフラージュとして、僕たちを招待した……とか?」
 聞きたくなかったけど、と心の中で告げた言葉には気づかず、ナナミは大きく眼を見張ると、
「どうしてわかったのっ!?」
 胸の前で手を組んで、そんなことをほざいてくれた。
 思わず、どっしりと疲れを感じたジョウイである。
 これは――今回ばかりは、レオンの言葉に従って、帰ってもいいかもしれない………………。
 暗い気持ちでそう思ったときに限って、うまく行かないのが、ジョウイのイイトコロであった。
 レオンが、品定めするように見ていた目を、もう一度閉じて――カッと見開いた、かと思うや否や、
「一口乗ろう。」
 重厚に、参加を告げたのである。
 ギョッとしたジョウイが、慌てて顔をあげた隣から――す、としなやかな腕に、片腕をとられる。
 視線を走らせた先で、ジルが穏やかに微笑みながら、
「わたくしも、参加させていただきますわ。」
 当然のように告げた声は、とても軽やかであった。




 今回の花見の真の主役が到着したのは、宴の準備が滞り無く終わり、地面を覆った赤い御座の上に料理が並びはじめた頃のことであった。
「いらっしゃーい、スイさんっ!」
「こ、こんにちは、マクドールさん。」
 全開の笑顔で出迎えてくれた二人の姉弟に付け加え、今回は引きつった笑顔のジョウイ君のお出迎えまでついていた。
 それを優雅な態度で受け取って、スイは桜の木の根でできた島に、足をつける。
 大地には一部の隙もなく桜の根が張られている。
 スイがこの地面に足をつけたその瞬間から、リオの第一の目的は果たされたも同然であった。
 密かにほくそ笑んだリオは、スイの席を準備しているテンガアール達に合図を送った。
 ナナミも隣でグーサインを出していて、ジョウイは疲れたような笑みが丸分かりにならないように、気を張るのが精一杯だった。
 そのため、足をつけた瞬間、スイがちょっとだけ眼を細めたことに、誰もそれに気づかなかった。背後から付いてきていたグレミオも、そ、と小さく嘆息している。
 そのグレミオも、スイにつつかれ、上を指差された瞬間、憂いを一瞬で忘れた。
 頭上に広がる桜色の天井は、それほどに見事であった。
「うわ……すごい……。」
 思わずこぼれた感嘆の台詞に、自分の手柄でもないのに、そうだろう、とスイが笑う。
「遠目に見ただけじゃ、一本の木で出来てるようには見えないから、こうして近くで見ると、圧倒されるね。」
「でしょ、でしょっ。すごいですよねぇ♪」
 あからさまに楽しそうな口調のリオに、そうだね、とスイが柔らかに微笑む。
 そんな憧れの英雄を前に、ジョウイは密やかに冷や汗を流した。
 頭の中に流れるのは、「英雄をいかにして、おとしいれるか」計画であった。
 あれから短時間の間に、リオとレオンたちの間に張られた計画は、舌を巻くほどのものであった。
 普段もこれくらい真面目にすればいいのに、とは毒々しげなシュウの台詞であった。
 もちろん、リオとしては、いつも、いついかなるときも、真面目にやっているつもりなので──そう、それこそ脱走からおさぼりまで──、今日も真面目に取り組んでいた。
 穏やかに微笑む英雄が、手渡してくれたお土産を片手にぶらさげながら、ニコニコと邪気のない笑顔でスイの腕に自分の腕を絡める。
 その隣では、同じような笑顔を浮かべたナナミが、スイのもう片腕を取っていた。
 二人の笑顔に囲まれて、スイも優しい微笑みを零している。
 遠目から見ている分には、非常に微笑ましい光景ではあったのだけれども。そう、そうなのだけれども。
「…………ほんとに、やる気なのかい、レオン殿?」
 こそこそと、両手に花咲く枝を持って、様子を伺っていたジョウイは、自分の隣を見た。
 そこには、いつものエベレストなプライドもどこへやら、という格好をした軍師が居た。ジョウイ自身が口説いた、とてもすばらしいはずの軍師様である。
 が、今はただの酔っ払いのひげ親父にしか見えなかった。原因は、頭からかぶっている温泉タオルであると思われる。
 薄っぺらい木綿のタオルを頭から被り、顎の下で結んでいるレオンは、どう見ても「レオン=シルバーバーグ」には見えない。
「当たり前です。例え失敗しても、責は同盟軍に押しつけられるという、この絶好且つ二度と無いような機会に、どうして参加しないことがあることか!? 今日こそは──そう、今日こそは、あの生意気なガキに目に物を見せられるというものだ。」
 くくくく……と口の中で含み笑いをかみ殺すレオンを横目に、ドッとジョウイは疲れを覚えた。
 それから、自分が持っている左右の桜の枝を見て──はぁ、と溜息を零す。
 桜は、とても綺麗だ。
 ちらちらと風に揺れる様も、舞い降りる桜の花びらも、何もかもがあでやかで、愛しい。
 なのに、その下にいる人間の、なんと愚かで悲しいことよ。
 そして、そのどうしようもない愚かな人間の一部が、自分なのである。
 どうしてこうなったんだっけ──と、最初から思い浮かべてみるものの、答えは浮かんで来ない。
「……ねぇ、レオン? 僕らは、これからどうすればいいのかなぁ?」
 両手に握った桜の枝を握り締めて、彼は優秀なはずの軍師を見上げる。
 しっかりとホッカムリをしたレオンは、ギラギラした目で、のんびりと腰掛けている英雄を睨みつけている。
 ここまで殺気をほとばしらせていたら、さしもの英雄も気付くのではないかと思ったのだが──今回の騒ぎのターゲットは、まるで気付く様子もなく、豊かに微笑んでいた。
「同盟軍が良い場所へと導いていく。まずはそれまでは様子見だ。」
 子供が新しい玩具を手に入れたかのような目で──いや、そう例えるのはおかしい。レオンの顔や目は、どす黒い大人のものだったからである。
 これはもう、どうにでもなれというか、どうにもならないというか。
 リオが、嬉々としてスイの持つ杯に酒を注いでいるのが見える。
 ナナミも、色とりどりのお重を広げて、どうぞ、と差し出している。
 遠目にみている分には、リオもナナミも良い子だというのに、一体いつからあんなことを企むようになったのかと、ジョウイはひたすら溜息を零すしかなかった。
「うふふふ……なんだかとっても、楽しいわね、ピリカ。」
 にこにこと微笑みながら──その美貌はとても美しいのであったが、どことなく恐怖感をそそられるものがあった──、ジルが隣でお饅頭を食べているピリカを見た。
 ピリカは、頬についた餡子を手の甲で拭いながら、にこりと笑った。
「うん、すごいね。」
 ピリカの無邪気な微笑みに、ジョウイは胸がホッとしたのを覚える。
 なんとはなしに手を伸ばして、ピリカの頭を撫でる。
 ピリカは嬉しそうに瞳を細めて、ジョウイを見上げた。
 こうしていると、普通に花見をしているようにしか思えないのだけど──……。
 ジョウイは、ゆったり出来なかった。
 何せ、リオとレオン達から、しっかりじっくりと、これからの計画を全て聞かされていたのだから。
「…………人が騙されるのを手伝わされるのって、嫌いなんだけどな。」
「あら? それをあなたがおっしゃるの?」
 呟いた言葉は、振りかえったジルの見事な笑顔によって、思い切り良く痛めつけられたのであった。
 ズクズクと悲鳴をあげそうになる胸を抑えながら、ジョウイは再び前を見た。
 見事な桜の幹近くで、リオがスイに酌をしていた。
 ジョウイは、こんなリオの子供っぽい悪戯(で済むのかどうか)の作戦に、皆が賛成してしまったがために、悲惨な状態になるであろうスイ=マクドールに、ひたすら同情を覚えるばかりであった。
 誠に恐ろしいのは、トランの英雄の真の実態を知らぬ皇王様だということを──まだジョウイは知らない。








 宴も高輪に成り始めたころ、リオが密かにGOサインを出す。
 もちろんそれを受けるのは、作戦開始の合図を出すナナミである。
 作戦の指揮に加わるため、ナナミが「ちょっとお花畑に……」と逃げようとした瞬間、不意にスイが声をあげた。
「こうして桜を見ていると、思い出すことがあるんだ。」
 懐かしむように桜色の天上を見つめる彼に、席を外すタイミングを失ったナナミは、ちらりとリオに目をやった。
 リオは、無事にサインを出せた安堵と期待とに、目を輝かせながらスイを見ている。
 傾けた杯の中を見つつ、ハラリ、と落ちた桜色の花びらに、スイの瞳が細まる。
「うん……昔話なんだけどね。聞いてくれる?」
 優しい眼差しで見つめられ、リオはちょっと言葉に詰まった。
 長い話になるようだったら困る。
 何しろ、今からスイをシエラの居る場所まで連れて行かないといけないのだ。
 そうしないと、スイ=マクドールを落とし入れる作戦は、何も始まらないのである。
 だが、「歩きながら話しましょうか!」なんて言うのも不審すぎるのであった。
 ナナミも、少し焦ったように両手を小さく震わせている。
 リオは、不自然な沈黙の後、
「あ、後からにしませんか? ちょうど今から、向こうでアンネリー達が合奏をするんですよ。
 だから、一緒に聞きに行こうと思ってたんですけど。」
 シエラ達が待機している方角を指差した。
「リオ、ナイス!」
 思わず小さくナナミが歓声を上げた。
 とっさに出た言い訳にしては、ナカナカなものである。
 スイは、引き攣った笑顔のリオに優しく頷くと、
「じゃ、歩きながら話そうか。そんなに長くないからさ。」
 膝を立てて立ちあがった。
 よっしゃ、と密かに拳を握ったのは、今回の作戦に参加している面々である。
 ナナミもそれに笑顔を浮かべた。
「私は、メグちゃん達と一緒に聞く約束してるから。」
 イソイソと立ちあがり、颯爽とナナミは去って行く。
 リオとスイはそんな彼女を見送り、ゆっくりと目的地に向かい始めた。




 少し離れた場所で、ビクトールと酒を傾けていたグレミオは、立ちあがったスイに眉を曇らせる。
「まさかぼっちゃん……。」
 小さく呟いた従者の言葉を聞きとがめて、熊がドポドポと酒を零しながら尋ねる。
「おう、どうした? まーたスイのヤツが何かしでかすのか?」
 実のところ、リオが何かをしでかすわけなのだが、もちろん主馬鹿のグレミオにそんな話をするつもりはなかった。
 だから、ニヤニヤ笑いながら、何時ものことじゃないかと、ビクトールはグレミオに先を言うように進めた。
 グレミオは、手にした杯の中身を煽る。
「……ああいう顔しているときは、いつだってそうですよ──絶対、怖い話をしようとしているんです!
 ナナミさんが、そういう話が苦手だって知っているのに。ここに桜が咲いてるからって……。」
 全く、と白い面を仄かに赤く染めつつも、グレミオは立ちあがることはしなかった。
 ナナミがそそくさと去ってきているのを見て、特に止める必要はないと思ったのかもしれない。
 そのまま、どっぷりと置かれている酒の一本を手にすると、自ら手酌をして杯にアルコールを満たす。
「スイの怖い話のボギャブラリーは凄いからな。桜の話か?」
 フリックが傾けた杯に口をつけつつ、上目遣いにグレミオを見ると、視線を受けた彼は、こっくりと頷いてくれる。
「そうです。こっちに来る途中もしてきたばかりなんですよ。」
「どんな? 俺らも、桜にまつわる怖い話は知ってるぜ? 血吸い桜とか、な。」
「おい、ビクトール。」
 ニヤニヤと、意味深に笑うビクトールに、フリックが小さくひじで突つく。そんな二人を見比べてから、グレミオは不満そうに口を結んだ後、
「人食い桜の話ですよ。」
 どこにでもある下らない話なのだけど、と小さく続けた。
 けど、話上手で怪談上手なスイにそれを語らせると、どうしても背筋が冷えずには居られないのだ。
「へぇ……人食い桜ね。どんなのだよ?」
 酒の肴代りに聞かせろよ、と、ビクトールは酒が残っているびんを揺らして、グレミオに催促する。
 これからする「罠」のことを知っているフリックは、あまり良い顔をしないが、特に止めるでもなく、グレミオを見た。
 グレミオは、そうですねぇ……と小さく呟いた後、ゆっくりと語り始めた。
 スイと共に船に乗っているときに、彼から聞いた「昔話」を。






「むかしむかしのお話です。
 湖のほとりにある小さな町で、二人は幸せに暮らしておりました。
 けれど、ある日の夜も遅くのことでした。
 二人の住む家の戸が、トントン、と小さく音を立てるではありませんか。
 こんな夜中に誰が、と、夫は不思議に思いながら戸の前に立ち、だれぞかと、尋ねました。
 それに答えたのは、かぼそい女の声でありました。
 彼女はこう言います。
 わたしはここから湖をこえた、北の国から参りました、さくらと申すもの。
 共に旅をしてきた連れが、怪我をして難儀をいたしております。
 どうか、今宵の寝床をお貸しくださいませ。
 夫は、それはかわいそうにと思い、戸を開けてやりました。
 そこに立っていたのは、全身を雪にまみれさせた、一人の美しい女でありました。
 はかない雰囲気の、霞みかがるような美女でありました。
 ところが、見たところ、旅の連れがおりません。
 男は不思議に思い、彼女に尋ねました。
 怪我をしたお連れさんは、どこにいらっしゃる?
 女は、血の気の引いた唇に、笑みを刻んでこう言いました。
 男が戸にかける手に、そっと自らの手を重ね――その冷たさに、男がブルリと身を震わせた瞬間。」







「私が、食ろうてしまいました。」
 言いながら、少年は唇に微笑を刻んだ。
 その、あでやかな微笑みに、あたりの空気が凍りついた。
 ヒラヒラと舞い落ちる桜の花びらすら、凍りついた気がした。
「…………なんていうか、民俗話らしくない、お話ですねぇぇぇ。」
 ああ、やだやだと、自分の両腕を擦るリオに、彼の少し後ろを歩いていたスイはあっけらかんと笑った。
「あははは、やっだなぁ。民俗話なんかじゃないよ、これはっ!」
 湖から吹く風は冷たく――しかし、降り注ぐ日の中には、春の日差しめいた暖かさが宿っている。
 そのさなかの、こういう話は、肌に鳥肌立たせて、あんまり喜ばしいことではなかった。
 ナナミは作戦の手伝いで付いて来なかったのだけど、本当にソレで良かったと、鳥肌立つ肌をこすりつつ、リオは思った。
 そんな彼に、スイは甘い笑顔で。
「ただの、実話だから。」
 最後の一撃を食らわせた。
「………………ってててて、それの方がいやじゃないですかーっ! どうせ、そのオチは、女性は実は、雪女だったのです、とか言う話なんですよねっ!?」
 ぞぞぞぞっ! と、一気に肌があわ立ったのを感じつつ、リオが叫ぶ。
 話の内容も、喜ばしい内容ではないのだが、何よりも語るスイの口調が恐ろしい。
 ひっそりと、低音で――さらにかすかに語尾を震わせるなど、一体どこで覚えてきた語り口調なのか、聞いて見たいところである。
 話自体は、キャロの町でじいちゃんから聞いた雪女のそれに似ているのだけど、じいちゃんから聞くよりも今の方が怖いと思うのはどうしてだろう?
 眉を顰めて泣きそうな顔をしているリオを横目で見てから、スイは地面に積もる桜の花びらを見下ろす。
「いや、女性はそのまま男を食べちゃって、食べてる最中に、男の奥さんに見つかるんだよ。
 で、奥さんが、絶叫と共に、沸いたお湯をかけたら、消えちゃうんだ。」
「ほら、やっぱり雪女じゃないですかー。」
「その後、男を墓に埋めたら、あら不思議――翌日には、そこに木が生えてたんだって。
 桜の、木。」
 にやにやと笑いながら、スイは揺れ落ちる花びらの先――見事に広がる桜色の天井を見つめる。
「女が、驚いて桜の木に近づいたら、それはそれは綺麗な――鈴が鳴るような女の声が聞こえたそうだよ。
 捕まえた――って。」
「………………すすす、スイ、さん………………。」
 なんだか嫌な予感に駆られて、引き攣った笑顔を浮かべるリオに、スイは何事もなかったかのように先を続ける。
「女は、みるみるうちに干からびて、桜の木の根元に骨と皮だけになっちゃったんだって。
 その木っていうのが、──……この辺り一帯の有名な人食い桜──。」
 そこで一度区切って、それはそれは嬉しそうな顔で、スイは目の前に見えてきたシエラ達の宴会の様子に視線を移した。
「バンパイア・チェリーブロッサム。」
 呟かれた内容に、リオの額から汗が滴った。
 自分が調べたおとぎ話の内容とは、大分中身は違ったが、最後の部分だけは共通していた。
 その木に近づくと、綺麗な女の声で、「捕まえた」という言葉が来て、その後、干からびて骨と皮だけになっちゃうという。
「へ、へー……そうなんですか。」
 どうやってごまかそうと思いながらも、リオは必死でこの話から逃げる方法を考えていた。
 その結果、
「そう言えば、ビクトールさんから似たようなお話を聞いたことがあります。
 そんな桜、本当にあったら怖いですよねー。」
 にこりと笑いながら白を切ることにした。
 スイは、そうだね、と同意しつつ、視線を桜に向けた。
「もしも、本当に実在するとしたら、そのお化け桜は、きっとこの桜みたいに立派なのだろうね。」
「!! そそそそ、そんな怖いこと言わないで下さいよ!! これが本当にお化け桜なのだとしたら、シュウがココで宴会するなんて許さないと思うし、第一ナナミなんて、絶対近づきませんよ!? それにほら、僕ら、今の今まで、ぜんぜん平気ですし、ねっ!!?」
 言いきった後、必要以上に強調しすぎたかと焦りはしたものの、返って来たスイの答えは、結構淡白であった。
「当たり前だろ、リオ。
 そんな昔話の桜が、本当に実在するわけないじゃないか。」
 くすくすと、綺麗に笑って言われて、リオもつられて引き攣った笑いを零した。
 同時に、密かに確信する。
 これなら、スイさんも、びっくりするに違いない。
 何せ、スイはこの桜が「そう」だとは思ってもいないということである。
 コレがそうであることは、シエラと星辰剣、メイザース達によって確認されていることだ。
 多くの人間の血を吸った、魔性の気配のする桜だと、そう言い切ったのだ。
 後は、作戦通りにことを進めれば済むことなのである。
 よし、よし、よし!!
 リオは、必要以上に力のこもった手の平を握り締め、スイを振り仰いだ。
「さ、スイさん! この先ですよ、この先! ほら、もう皆集まってる!!」
 「作戦」のために集まって宴会のフリをしている面々を指差し、リオはスイの腕を引っ張った。







「おとぎ話の桜なんて、存在しやしないよ。」
 ひっそりと囁いて、スイはリオに導かれた場所へ立ち尽くす。
 近くで上機嫌に酒を傾けていたシエラは、うん? と彼へ顔を傾ける。
「なんぞ申したか? 若造。」
「いいえ。ここから見る花は、どこよりも美しく見えると。」
 リオはここへ来た瞬間に、サスケに呼ばれて向こうへと走って行った。
 ちょっと待ってて下さい、という言葉通り素直に立ち尽くす英雄に、シエラは血の気のない唇を綻ばせる。
「当然じゃ。ここは、闇の力を蓄える場所だからのう。」
 シエラを支えるクラウスが、一瞬焦ったような顔をした瞬間、
「やはり、桜は綺麗が一番ですな、スイどのっ!!」
 真打ち登場とばかりに、珍しく上機嫌のレオン=シルバーバーグがやってきた。
 ホッカムリも取り払い、酔っ払いのおじさんの格好も止めて、いつもの冷酷なハイランドの正軍師の姿である。
 彼の登場は予想外だったようで、スイは驚いたように目を瞬かせる。
「レオンじゃないか。
 君がこんな暖かいところまで来るとは思わなかった。」
「ふんっ、それは、わしが冷血漢だと言うことに引っ掛けた嫌味ですかな?」
 余裕綽々な態度のそれは、今から見るだろうスイの醜態を心待ちにしているからであろう。
 けれど、スイはその態度をまるで気にかける様子もなく、軽く笑って洗い流す。
「いや、それとは関係なくって。
 単に、3年前よりも頭が薄くなってきてるから、頭を隠すフードを被っていてもおかしくないような、寒い地方に行ったんだとばかり思っていたから。」
 あっさりと片手を振って答えた台詞は、レオンが予想していたのよりも残酷で、そう告げた彼の顔は真面目であった。
 思わずスイに管を巻こうとしていたシエラが、小さく口笛を吹いたくらいである。
「………………すすすす、スイどのっ!?」
「いや、だってさ、まだ49なのに、3年前と比べて大分髪の量が減った気がして。」
「これは、髪を切ったのです、髪をっ!!」
「そうかなー? それにしてもやっぱり……。」
「減ったとしたらそれは、3年前のあなたの横暴な軍主態度に、神経が磨り減ったからですよっ!!」
「それはない。」
「なんで言いきれるんだ!」
「だって、僕と長年付き合っているグレミオは、フサフサだから。」
 ぴし、と当たり前のように指先を立てて言いきったスイに、ガリガリとレオンは地面の土をかいてしまった。
 敢えて言わせてもらうならば!
「アレは、あんたの育ての親でしょーがっ!!」
「人のこと、アレ、とか言っちゃいけないんだよ。ったく、いい年した大人が情けない。」
 すかさず冷たい眼差しで返され、レオンは一瞬くじけそうになった。
 だが、それでは冷酷で残忍な軍師は勤まらないのである。
 軍師は常に冷静に対処するべきなのだ。そう、例え自分の心が傷つくようなことを言われたとしてもだ。
 ごほん、と一度咳払いをして、気分を落ち着かせたあと、レオンはさりげない世間話調で、
「しかし、アレですな、スイどの。
 あなたのことは風の噂で聞きますが、相変わらず元気なようで、私もすっかり安心しております。」
 にんまりと笑うレオンに、スイはあいまいな微笑みを見せる。
「元気……は、元気だよ。」
 少し力無く答えるスイの言葉に、やや引っ掛かりを覚えるものの、レオンはそれにこだわっている暇はなかった。
 これからの作戦を思えば、多少嫌な思いをするくらい、ただのエッセンスである。
「まぁ、この宴会で、昔を懐かしむのもいいでしょう。」
「……そう、だね。」
 少し遠い目をして答えるのは、解放軍時代の頃を思い出しているのだろうか。
 あの当時の解放軍の宴会の乱痴気ぶりは、諸国に知れ渡ってもおかしくないくらいの、すざましさであった。
「あの頃は、祭りも、良く行ったものですね。」
 レオンが呟くのに、スイはゆっくりと顔を挙げた。
 今だ、とレオンの目が光った。
「そう、皆でハッピを着て、ハッピー。」
 しーん
 レオンの顔は、至極真面目であった。
 口調もまた、至極普通であった。
 だからこそ、痛烈に寒いギャグというのが存在するのである。
 思わずシエラが、クラウスに凭れる役得を放って、手にためた電撃を解放しようとしてしまったくらいである。
 慌ててシエラを止めつつも、クラウス自身体が震えるのを止めることが出来なかった。
 それほどに強烈な、寒いギャグであった。
「…………………………………………あ、あ、あー…………と………………。」
 遠目から一連の出来事を見守っていた面々ですら、突っ込む言葉を探してしまった。
 スイもまた、半ば茫然とした顔でレオンを見上げていた。
 頭真っ白状態であった。
 もちろん、それを見逃すルックではない。
 やっと出番かと言いたげに、耳栓を外し、かねてからの作戦通り、力在る言葉を零した。
「風よ、我の敵なすものに、沈黙を。」
 囁いた言葉は、すぅ、と消えるように走って行った。
 瞬間、スイの全身を見えない風の呪縛が包み込んだ。
 はっ、と身を強張らせたスイが、眉を顰めて抵抗しようとするのに。
「駄洒落を言うのは、誰じゃー!!」
 更に続けて、レオンが叫んだ。
 刹那、スイの集中が途絶えてしまったのは、在る意味仕方ない事なのである。
 耳栓を外してしまったことを、早々に後悔したルックだったが、すぐに手応えを感じて、唇に笑みを刻んだ。
「…………かかった。」
 その呟きは、風に乗ってシエラの耳にも届いた。
 だからこそ彼女は、今にも放とうとしていた雷撃の力を、一瞬にして転換させた。
「お主の口、今封じてくれるわっ!!」
 ずん、と腹に来る一声を叫んだかと思うや否や、シエラは右手に集った力を正面向けて放った。
 風に呪縛されたスイと、そのスイから気力を奪った、寒いギャグを飛ばしたレオン向けて。
「……っ。」
 とっさに口を割ろうとしたスイは、自らにかかっている術の効果が何であるのか悟り、顔を歪めた。
 風の戒めは、スイの身動きを取れなくするための物ではなかった。彼の周囲の風が止まることによって、無音状態が作られているのだ。
 つまりこれは、モンスターの特殊攻撃にある「沈黙」と同じ効果であった。
 目前に迫るシエラの放った力を睨みあげる。
 それは、スイの右手が震えるほどに、闇の力に満ちていた。
 ──眠りについた魔性を呼び覚ますほどの、力。
 くっ、と、口の中で忌々しげに呟いたスイは、とっさに風を使ったであろう人物向けて、鋭い一瞥を放った。
 目測をつけて睨みやった先で、ルックは指先に風をとどまらせた状態で、たいして申し訳なさそうな顔で、口パクで伝えてくる。
「ごめん、目測を誤ったよ。」
 間違えて、君にかけたようだね。
 しれっとした顔で言われて、「ああ、そうなんだ。」と納得するような相手じゃないと分かっているくせに、敢えて、このときにまでそう言う彼の神経は、やっぱり図太いのであろう。
 シエラの放った術は、スイとレオンの間をすり抜け、背後の桜の幹にぶち当たった。
 大きな洞が出来た部分に、物の見事にジャストミートする。
 ひゅっ、と耳元を切った闇色の力に、一瞬レオンの背筋が凍りついた。
 どごぉんっ!!
 半瞬遅れて、耳をつんざめく轟音が響いた。
「ちぃ……外したか。」
 そう口にしつつも、シエラはどこか満足そうであった。
 そう、まるで、「わざと外しながら、本当の的に当たったことを満足している」ように見えた。
 音を塞がれたままのスイが、下唇をかんだ瞬間。
 それは、起きた。



 サスケに呼ばれたフリをして、事の成り行きを見守っていたリオは、自分の出番を待ちつつ、作戦外の行動に眉を曇らせていた。
「ああっ! ダメだってば、レオンさんっ! まだレオンさんの出番じゃないのにーっ!!」
 隣で待機していたジョウイは、自分の右手を見ながら、溜息を零す。
「リオ、本当にやるつもり? なんだか、嫌な予感がするんだけど。」
「するの! 絶対、僕がヒーローになるんだからっ!!」
 きっ、と振りかえって言い切った後、再びリオは正面に向かった。
 そしてまた小さく悲鳴を上げる。
「シエラさん! 設定が違うよーっ! シエラさんは、お酒に酔って、良い気分で、ついつい月の紋章を解放しちゃう役割じゃないかーっ! そこで出張っちゃダメだってばっ!」
「……とは言うけど、レオンがすでに洒落言っちゃったから、しょうがないんじゃないかなぁ?」
「それ、それがそもそもの間違いなんだよっ! シエラさんが月の紋章を解放しちゃって、スイさんが止めようとした瞬間に、レオンさんが寒いギャグでスイさんをアンバランスにするの! で、そこですかさずルックが、沈黙をかける! これが作戦なのにーっ!」
 ジョウイは、視線の先で繰り広げられている光景を見た。
 一見それは、作戦通りに進んでいるようには見えなかった。個人個人が、自分の感情に素直に行動した結果が、作戦上の行動をしているように見えるのだけど。
「さすが……だよね。」
 リオが口惜しがる隣で、冷静に事を眺めているジョウイには、良く分かった。
 彼らは、事が終わったあとに、自分へ追求が及ばないように物の見事に「行動に理由付け」をして、作戦を敢行していたのである。
 そんな風に感心しているだけのジョウイだったが、シエラの放った力が桜に当たった瞬間、のんびりと構えている余裕はなくなった。
 ぞわぞわぞわっ! と全身を這いあがるような悪寒に、彼は小さく目を見開く。
 そして、とっさに右手を左手で覆うと、その悪寒の原因である桜の幹に視線を走らせた。
 どくん。
 どくん。
「…………桜が、脈打ってる……っ。」
 驚愕と、おぞましさとが入り混じった声音で、その光景を口にする。
「始まった……っ。」
 とたんに、リオが顔つきを厳しくさせ、自らの右手を握る。
 血を好む闇系の紋章は、この血吸い桜の本能を呼び起こすのだ。
「リオ……、他の人たちは……っ。」
「大丈夫、カーンさんの結界でちゃんと守られてる。ちょうどシエラさん達がいた場所の後ろ辺りに、魔法陣が書いてあるから、あそこまで走れば僕らも安全だよ。」
 言葉を交わしながら、二人はジリジリと後退し、桜から離れ始める。
 一気に行動を起こせば、桜を刺激しかねないと、本能で分かっていた。
「そう。リオ、大丈夫かい?」
 桜の木から、今まで感じなかった瘴気が溢れ始めていた。
 それは、煙るような桜の花びらに混じって、ほのかに色づいているようであった。
 霞むような瘴気は、闇系の紋章と相性が良いジョウイに、まとわり憑こうとするのだが、リオの右手が微かに光ると、霧散してしまう。
 光の力を嫌うコレは、やはり闇に属するということなのだろう。
「僕は大丈夫。それに、今からコレをやっつけるのは、僕とジョウイだもん。これくらいで尻ゴミしてられないよっ!
 さ、ジョウイっ! 桜に捕まらない場所で、なおかつ、スイさんに見つからず様子を一望できる場所に、移動しようっ!!」
 この状況を前にしても尚、目的を遂行しようとするリオを見下ろして、ジョウイはそっと嘆息した。
 馬鹿な子ほど可愛いっていうのは、まさに、コレ、かな……──と。






 どくん、どくん、どくん。
 地面が脈打っている。
 どくん、どくん、どくん。
 桜の幹が震えている。
 しゅぉぅぅぅぅ……──。
 桜の花から、花びらから、色づいた瘴気が溢れてきていた。
「バンパイア・チェリーブロッサムか。」
 シエラが堂々と仁王立ちする後ろで、クラウスがハンカチを口に当てながら、彼女へ鋭く叫ぶ。
「シエラさん! 危険ですから、早く魔法陣の中へ……っ。」
 シエラは、そんな彼を振りかえると、目元を緩めて、ふんわりと笑った。
「私は大丈夫ですから、クラウス殿こそ、早く中へ。」
 そして一転して正面を見据えると、唇に満足げな微笑を浮かべる。
「長年誰も寄りつかなかったと見える。相当飢えているようじゃの。
 いかがいたすか、英雄殿?」
 遊ぶように流し目をくれてやると、風に囚われたままの英雄は、静かな眼差しで桜を見つめている。
 ごご……と地面が揺れた。
 しかし、彼は顔色一つ換えない。
「妾に宿る月の紋章に、この吸血桜は手を出せぬ。
 お主は、先ほど、こう言っていた。
 おとぎ話の桜など、存在せぬと。
 これを見ても、あえて現実逃避をし、その上で命を落とすかの?」
 くすくすと、楽しそうに笑う彼女の様は、幻想めいて美しかった。
 桜色の霧が立ち込める中、銀の髪を背中に流し、色素の薄い瞳に笑みを浮かべる。
 たおやかな身体の、透けるように白い肌が、一層美しく映えた。
「戯言じゃがの。
 さて──どうするかの。」
 華奢な手の甲を顎に当てて、彼女は首を傾げる。
 吸血鬼ともなれば、彼女の属性であるからして、何とでもしようがあるのだが、相手は吸血植物。
 正直な話、シエラの管轄ではなく、どちらかと言うとトミーの管轄に近かった。
「英雄。一足たりとも動かせぬか?」
 それが実現せぬことをわかった上で──ルックが彼にかけた術の影響で、声すらも出せぬことを分かっていながら、シエラはたわごとのように声をかけた。
「そのままでは、桜の餌食になってしまうぞえ?」
 まわりでは、悲鳴が飛び交い、カーンの張った結界に逃げ込もうとする者や、剣を構えて準備をするものもいた。
 だが、これほど巨大な桜──それも、島ごと桜の居住区であるこの場所で、一体何ができるというのであろうか?
 さてはて、とシエラが肩を竦めたその瞬間。
 にっこりと──……英雄は、笑った。
 ごうんっ。
 ぼこっ。
 赤い御座がめくれあがり、醜悪な木の根が姿をあらわす。
 先が妙に細い根っこは、どくん、と大きく脈打ち、ふらふらと空中にさまよい出す。
 すぅ、と瞳を細めたシエラの後方から、カーンの声が飛んだ。
「その根っこに捕まったらまずい! その先が、血を吸う口になっている!!」
「わかっておる。」
 邪魔臭い、と言い捨てたシエラが、スイを見つめる。
 スイは、無理に呪縛を解こうともしなかった。
 ただ、涼しい顔で根っこを見ている。
 ただのやせ我慢か、とシエラが視線を送る先で、根っこの先が、ツイ、とスイの頬に触れた。
「ぼっちゃん!!!!」
 悲鳴に近い怒号が響き、グレミオがとっさに飛び出そうとした。
 その手には、いつもの斧の変わりに、酒ビンが握られていた。どうやらそれが武器代りのようである。
 慌ててビクトールとフリックが、二人がかりでそれを止める。
「やめろ、グレミオ! 相手が悪いっ!」
「そうだっ。この桜は、フッケンですら浄化することが出来なかった桜なんだぞっ!!」
「それでもぼっちゃんをお助けするのが私の役目ですっ!!」
 グレミオがジタバタともがくのを、必死の思いで二人は止めている。
 グレミオもグレミオで、必死すぎて、ついついフリックが零してしまった「暴露」に気付いてはいないようである。
 スイの頬を滑るように、根っこがス、と動いた。
 グレミオの口から絶叫が飛び出る。
 影に隠れていたリオが、「あとちょっと!」と小さく叫ぶ。
 その刹那。

 じゅぅっ

 スイの頬を掠めた根っこが、煙を出して溶けた。
「…………っ!!?」
 驚愕のあまり、リオもジョウイも、シエラですら、目を見張った。
 ただ一人、スイだけが微笑んでいる。
 続けて、スイの元へ迫った根っこは、今度はスイに触れることなく、蒸発した。
「な……に……?」
 スイは、満足そうに笑みを零すばかりだった。
「どうして!? どうしてーっ!?」
 とっさに隠れていた場所から、身体ごと乗り出すリオ。
 ジョウイも、茫然と立ちあがり、事の成り行きを見守る。
「ぼっちゃん……。」
 グレミオが安堵の吐息を零し、フリックが口をぽかんと開けた。
「なんだ……さしもの吸血桜も、悪食じゃねぇってことか?」
 ビクトールがおっかなびっくりの体で、吸血桜を見つめた。
 煙るような瘴気が、辺り一面に垂れこめている。
 次々に地面から盛りあがる根っこは、カーンの張った結界を避けながら、血の匂いのする方角へと寄って来る。
 スイは、しばらくそうして立っていた。
 次々に寄って来る根っこは、スイに触れることなく溶けていく。
 その様子が何かに似ていると思っていたフリックは、不意にグレミオの襟ぐりを掴んだ。
「グレミオ! お前がさっき話した昔話! あれに出てきたサクラが、お湯に溶けたって言ったよなっ!? あれとこれは、関係あるのかっ!?」
 グレミオはそれを聞いて、ああ! と声をあげた。
 そして、スイの姿を目に留めて、
「そうです! だからぼっちゃんは、塩水を顔につけていたんですね!!」
 やっと分かったとばかりに、叫んだ。
「…………塩?」
 意味がわからないらしい二人が、間の抜けた声を出すのに反応したのは、ルックだった。
「そうか、塩……清めの塩か。」
「ええ。顔を洗ったあと、拭かずにそのままにしていたので、怒ったんですけど──これでいいって、ぼっちゃんがおっしゃって……。」
 ぼっちゃんは、こうなることが分かっていたのですね、とグレミオが両手を握りながら言うのに。
 フリックとビクトールは、無言で視線を交し合った。
 どちらともなく流れてくるのは、汗であった。
「けど、吸血桜に清め塩が効くなんて、聞いた事ないよ。吸血鬼が怖いのは、十字架とにんにくだろうが……。」
 ルックが整った顔を歪めて呟くと、いつのまにか近くに来ていたらしいシエラが、きつく眉を寄せる。
「まさか……?」
 小さく呟いて、ヒタ、と前を見据える。
 うごめく根っこが、スイを避けるように辺りへと触手を伸ばしている。
 更に探るように瞳を細め、目に力をこめた瞬間、彼女は忌々しげに舌打ちをした。
「違う……、吸血桜ではない。」
 そして、自分の非を認めるのも忌々しいとばかりに、低く呟いた。
 シエラの唸るような声に焦りを覚えたのは、ビクトールたちであった。
「おいおい! こんな根っこが動く桜っつったら、化け物桜以外、何があるってんだよ!?」
 シエラは、頬にかかる髪を払いながら、彼らへと視線を流す。
 密かな苛立ちが浮かぶ目には、冷ややかな光が宿っていた。
「……アレは、おとぎ話に出てくる桜とは、別物ということじゃ。」
「──……は?」
 意味が通じない子供のように、目を見開く大人の男達に、シエラは唇を歪める。
「まだわからんのか? アレは、おとぎ話に出てくる、吸血桜ではない。
 アレは、魔物桜じゃ。
──もっとも、これほど大きい物をみたのは、妾も始めてじゃがの。」
 だから、気付かなかったと、忌々しげにシエラがつぶやく。
 闇の波動を持っていて、これだけ大きい桜で、人を食らう、という条件も揃っているのだから──血の匂いがする桜など、吸血桜以外にはありえないのではないか、と、簡単に結論を出してしまった自分を悔やむしかなかった。
 けれど、悟ってしまえばしまうほど、理解してしまう。
 コレは、吸血桜などではない。
 そう、あの英雄が先ほど呟いたとおり、「おとぎ話の桜」ではないのだ。
 人を食い、血を吸う桜などではなく──。
 その意味を図りかねて、一同が眉を曇らせた瞬間、
「これは、ただの──モンスターだな。」
 やや疲れた顔で、カーンが呟いた。
 そこら中を走りまわって結界を張って回ったのだろう。汗と疲れがにじみ出た顔は、いつになく年を感じさせた。
「モンスターっ!?」
「……そうじゃ。人を襲うだけの、植物モンスターじゃ。」
 苦痛に満ちた声で呟くシエラの声は、絞り出したような声にも関わらず、辺りに良く響いた。
 ごうんっ、と、またどこかで根っこが盛り上がった音が響いた。
「っていうと……。」
「植物モンスターは、人を食わぬし、血も吸わぬ。彼らは、普通に植物と同じように生きるからな。
 違うのは、歩き、人を襲い、狂暴だということだけで。」
 それ以上は屈辱だとでも言いたげに答えようともしないシエラに変わって、カーンが説明してやる。
 言いながら彼は、懐から武器を取り出す。
「つまり、普通に戦えるということだ──正しくは、戦わないと無事には済まない。」
 思わずビクトールもフリックも、自分の武器を確かめようとするのだが、今日は花見で、ヒーローは僕、と言い切ったリオのおかげで、手元には武器が無かった。
 ちぃっ、と舌打ちして、二人は巨大な桜を見上げた。
 見上げた視線の先で、色づいた桜の花びらがヒラヒラと舞い落ちてきている。
 視界いっぱいに映るのは、ただ艶やかな桜のみである。
 もし武器があったとしても、どこをどう攻撃したらいいのか、さっぱり分からなかったことだろう。
「とは言うものの、これほど巨大な桜相手に、通常の武器が通じるかどうか、だがな。」
 カーンの疲れたような言葉は、戦う術を持つ者全ての心の声と同じであった。
 何せ、島を丸々相手にしているのと同じくらいの大きさなのである。
 コレに剣を差して、一体いかほどのダメージを与えられるかどうか。
 手応えがあるのは、襲ってくる根っこを切ったときくらいだろうことは、まず間違い無い。
「……まぁ、清め塩が効いたということは、アンデット系だろうから──破魔の紋章が効くか……と言ったところか。」
 どうであれ、剣や矢が効くような相手には見えないのだから、紋章に頼るしかないのは確かだろう。
 そうなると、自分が戦わなくてはいけないのかと、ルックがゲンナリした表情を浮かべる。
 この島丸々覆い尽くすような巨木モンスター相手に使う紋章ともなると、相当大規模な物になる。ということは、その分術者が疲れるのである。
 面倒そうな顔で、けれど瞳にこめられた力だけは真摯に、ルックは前を見つめる。
「そうだな。あと、植物に効くのは炎系だろ──雷も効くな。」
 フリックが、自分の右手の手首を握りながら、一歩前に進む。
 巨木には、雷。
 彼の頭には、いつのまにかそういう図式が出来ていたのであった。
 剣などなくても、フリックは魔力値もほどほどに高いため、十分戦えるのだ。
 お前は下がっていろといわんばかりに、ビクトールとグレミオを背にしたフリックが、そのまま足を踏み出そうとするのを。
「やめておけ、青いの。」
 リン、としたシエラの声が止めた。
 両腕を組んだまま、微動だにせず立ち尽くす彼女の声に、フリックが鋭く振りかえった。
 シエラは、そんな彼へ冷ややかな視線を向けると、小馬鹿にしたように顎をツンと逸らした。
 そのまま顎を逸らし、天井をしゃくるような動作をすると、
「炎が飛び火したら、ただではすまぬぞえ?」
 一面に広がる枝と、そこにびっしりと咲き誇る花々を示した。
 はっ、と振り仰いだフリックの頭上にも、びっしりと桜色の天井が広がっている。
 雷や炎によって桜に火がついたら、十中八九、島に足をつけている皆の頭上から火が降り注ぐことになるのだ。
 確かにそれは、まずい。
 そんな会話を耳にしながら、やっぱりそうなるのかと、ルックは自分の右手を見下ろした。
 矮小な力では、この桜を叩きのめすような風の力は望めない。
 けれど、真の紋章なら、あるいは……?
 そこまで思いかけて、ルックは「元々の作戦」を唐突に思い出した。
「く……っ。とにかく、皆を避難させるための時間稼ぎを──っ。」
 フリックが、ビクトールと共に武器を取りに行く決意をした刹那。
「──さっさと、リオ達に合図だせば?」
 ルックが、クラウスが握り締めている煙筒を指差して、彼らにも「元々の作戦」を思い出させてやった。








 そのころ、リオとジョウイは焦っていた。
 本当なら、今ごろはスイが成す術もなく、根っこに巻き付かれてしまい、あわや、という危機にあるはずなのだ。
 なのにスイは、平然とした姿でそこに立ち、根っこはスイを避けるように蠢いている。
「なんでぇぇぇ? どうしてぇ!? どうしてなの、ジョウイっ!!」
 リオに責められて、ジョウイは整った顔を歪める。
「そんなこと言ったって──本当に沈黙状態になってるの? 彼。」
「そのはずだけど──……シエラさんを、吸血桜が避けて通るように、スイさんも避けて通っちゃうのかなぁ? 闇の力と相性いいからー??」
 少し遠くで隠れている二人には、シエラ達が交わしている会話など耳に入る事も無かった。
 ただ、作戦がまるで上手くいっていないことだけが分かっていた。
「本当なら今ごろ、僕とジョウイが格好良く飛び出して、二人の紋章を合わせて──真の紋章パワーで、桜の動きを止めてる所なのにっ! でもって、スイさんを颯爽と助け出すのっ!!」
 もうっ! と小さく叫んだリオに、ジョウイは疲れたように額に手を当てた。
 それから、上目遣いでリオを見て──彼は、ひゅっ、と息を呑んだ。
「り、りりりり……。」
 ジョウイが、言葉を詰まらせながら、リオの肩を指差す。
 けれど、これから先の作戦について熱く考えはじめているリオは気付かない。
 とんとん、と肩を叩かれる。
 リオはそれに構わず、むぅん、と低く唸った。
「結局作戦は滞り無く進まないわけだからー……。」
 どうやって作戦の回復を促せばいいのかと、リオはいつも使わない頭をフル活動させる。
 つんつん、と再び肩が突つかれた。
 リオはそれを面倒そうに肩を揺らして払った。
 けれど、考えを邪魔するように肩を突つくのは止まらず──いや、突つかれているのは肩だけではなかった。
「……もうっ! ジョウイっ!! 考え事の邪魔しないでくれる!?」
 全身に絡みつくような感触に、リオが癇癪を起こして振向いた先には。
「…………………………。」
 自分の顔と同じ太さの根っこがあった。
「え……?」
 小さく呟いたリオが、目を瞬かせ──ゆっくりとジョウイを振りかえった。
 ジョウイは、視線の先で両腕を根っこに絡まれて、それと格闘していた。
「……えっ!? えええええーっ!!?」
 大仰な声をあげた瞬間の、リオの隙を見逃すようなモンスターではなかった。
 ぼこっ!
 大きな音を立てて、リオとジョウイの足元の土が割れた。
 バランスを崩すリオとジョウイの足に、土から新しく現れた根っこに掴まれる。
 はっ、と身を強張らせた二人の身体へ、根っこが絡みついて行く。
「ちょ、ちょっとちょっと……っ!」
「リオっ、大丈……っ、くっ。」
 焦って引き剥がそうとすればするほど、根っこが涌き出て絡みついてくるようだった。
 とっさにジョウイが右手に意識を集中させるが、それを途切れさせるかのように、ジョウイの足ほどもある根が、首に巻き付いてきた。
「んぐ……っ。」
 とたんの気管が詰まり、ジョウイは眉を曇らせる。
「ミイラ取りがミイラになってないっ!?」
 リオは焦りながら、視線を辺りに飛ばした瞬間。
 ひゅー………………どかん!
 小さく煙玉が閃くのが見えた。
 それは、元々の作戦上で、リオとジョウイが真の紋章を解放するように、というシエラ達からの合図であった。
 ジョウイは、苦しさのあまり涙がにじむ目で、それを視界の端にとどめ。
 リオはリオで、正面からそれを見て。
 二人は同時に、思った。
──無理。
 ……と。







 合図の煙玉をあげても、リオとジョウイからの反応はなかった。
 蠢く桜の根の動きが止まることも無く。
「……真の紋章の反応がしないようだが……。」
 シエラが、柳眉を顰める。
 嫌な予感を覚えたルックも、いよいよ右手の紋章を使わなくてはいけないかと、唇を一文字に結び。
 カーンが、武器を構えてあたりに視線を走らせながら、
「このままじゃ埒があかん! 私がリオ殿達を探しに行くから、シエラ殿たちは桜の足止めを……っ。」
 手に宿した破魔の紋章を微かに輝かせながら、カーンは、自分が張った結界から飛び出そうとした刹那。
「あ。あれ……リオ君達ですよね?」
 不意に、グレミオが手を上げた。
 指差す先は、なぜか地面ではなく、空中であった。
 つられて顔をあげたフリックとビクトールは。
「…………な、何やってんだ、あいつらっ!!!??」
 空中で、ブラリン状態の二人を目に止めた。
 リオは、足を空向けて根っこに捕らえられながら、ヒラヒラとこちら向けて手を振って見せた。
 隣で仲良く浮かんでいるジョウイは、酸素不足で気絶しているようであって、ぐったりとしている。
「何手を振ってんだよ、あいつは〜〜っ!!」
 フリックは、ばっちん、と自分の額を叩き、軽く頭を振った。
「あれは、通訳すると、『こういうことなんで、あとよろしく』ってことじゃないでしょうか。」
 きりり、と顔つきも真面目に、グレミオが、しなくてもいい通訳をしてくれた。
 言葉を受けて、カーンは諦めと口惜しさを押し殺した溜息を零し、ゆるく頭を振った。
「…………リオ殿を、助けます。」
「俺も行こう。ビクトール、お前は船から、俺達の武器を取ってきてくれるか?」
 結界から飛び出そうとした二人の後を追うように、
「私も行くっ!!」
 顔を真っ赤に染めて、肩で息をしたナナミが、手にした三節棍を突き出すように、叫んだ。
 作戦の頃合を見計らって、星辰剣を船から持ってくるはずだった彼女は、遠目にリオとジョウイがぶら下がっているのを見て、慌てて走ってきたのだろう。全身がびっしょりと汗に塗れていた。
「ナナミ、お前は……。」
 ダメだ、と言いかけた言葉は、キッ、と睨みを効かせたナナミ本人の強い眼差しによって、さえぎられる。
「リオとジョウイは、お姉ちゃんが助けるんだからっ!!」
 絶対付いてく、と唇を真一文字に結ぶ少女に、ビクトールが口添えをする。
「ナナミも戦えないわけじゃねぇんだし──、それに、確かナナミも破魔の紋章をつけてたろ?」
 リオがココへ来る前に、一応ね、と付けてくれた紋章を、びしり、とナナミは突き出した。
「ぜったい、ついてくからねっ!」
 言い切ったナナミの持つ紋章は、それほど数を仕入れていないから、いらないわけではないのは確かなので──フリックは伺うようにカーンを見た。
 彼の目から、何を言いたいのか悟ったカーンは、ただ無言で頷くだけにする。
 ナナミはそれを見て、にっこりと笑った。そして、大きく深呼吸して呼吸を整えると、しっかりと棍を握りなおす。
「あ、ナナミ。星辰剣は、まだ船か?」
「うん。船に着く前に、慌てて戻ってきたから──。」
 ついでとばかりに聞いたビクトールは、その答えを聞いて、やっぱり船まで走らなくてはいけないのだと悟る。
 カーンとフリック、ナナミの三人が、揃って結界を飛び出し行くのを見てから、ビクトールはシエラに視線を飛ばした。
 今この場で──スイが間近で囚われている前線であるこの地点で、一番戦力になるのは、どう考えてもシエラだったのだ。
 シエラは、ビクトールの視線の意味を悟り、嫌そうに鼻の頭に皺を寄せたが、
「……さっさと行くがよかろう?」
 ここは任せろとばかりに、そう囁いた。
「おう、ちゃっちゃと帰ってくらぁ!」
 とたん、普段怠けているのではないかというスピードで走り出す。
 あっという間に結界から飛び出たビクトールを見送ってから、シエラは辺りを見まわした。
「よぉっし! 腕が鳴るぜぇっ! 行くぜ、クルガンっ!!」
「シードっ! 待てっ! 作戦も立てずに突っ込んでどうするっ!?」
「んなまだるっこしいことしてられっかよ。」
「まったく、ジョウイったら、一人で楽しそうにあんなところに……。」
「ジョウイお兄ちゃん、動かないね?」
 ハイランドから来た一同は、燃えていたり冷静に突っ込んでいたり、ちょっとつまらなそうに唇を尖らせていたり、心配そうな顔をしていたり──としていた。
 グレミオは、自分が持っていた武器になりそうな酒ビンをビクトールに渡していた。そのため、丸腰になってしまった自分が他に使える武器はないかと、空になったお重相手に模索している。
 クラウスは、唇を噛みながら状況を把握しようと、何か解決策はないかと、頭をフル回転させていた。
 カーンの結界の腕前は、ネクロード戦で良く知っていたから、シエラは特に警戒もせず、結界から飛び出して行くような馬鹿はいないかと、見渡す。
 ルックは、いつでも紋章を解放できるようにと、全身に意識を張らせながら──ふ、と違和感に気付いた。
 微かに眉を寄せた彼は、自分の右手を左手で握り込む。けれど違和感は消えない。それどころか、酷くなる一方であった。
 一体何が起きているのだろうか……いや、起きようとしているのだろうかと、ルックが眉間に寄せた眉を更に深くさせようとした瞬間。
 どごぉっ!!
「……きゃーっ!!!!!」
 爆音と共に、悲鳴がとどろいた。
「まさかっ!?」
 シエラが短く叫び、、音の先を見た。
 それは、木の幹からそう離れているわけではない場所……けれど、カーンが強固に張り巡らせた結界内の出来事だったのだ。
 それほど闇の力を抱えているようにも見えないこの桜に、一体どうしてそれほどの力があるというのだろう?
 けれど、確かに爆音がした場所で、土煙が立ち込めるその場所で。
「いっやぁぁぁーっ!!」
「メグちゃんっ! えっと、えっと……ちょっと待ってねっ!! えーっと…………ええーいっ!!」
 突然現れた根っこに足を掴まれたメグが、スカートを押さえながら悲鳴を上げるのに、居合せたビッキーが、慌てて杖を振るった。
 それと同時、唐突にメグの姿が消えて、次の瞬間、
 どすんっ!
「ぐぇっ。」
「きぃや……って、あれ? …………ビクトールさん??」
 船に向けて走っていたビクトールの頭上に、落ちていた。
 ビッキーは、思ったとおりの展開にはならなかったけど、無事らしいメグを見て、ほう、と吐息を零す。
 その彼女の背後に、新しい根っこが近づいてきていた。
「ビッキーちゃぁんっ!!?」
 慌てて、ミリーが両手を振り下ろすようにして紋章の力を解放した。
 瞬間、彼女の肩に乗っていた他称山ネズミが、ギュォンと大きくなり、かっぷりと──ビッキーごと食らった。
「……って…………え…………えー…………ビッキーちゃぁーん??」
 ボナパルトは、モグモグと口を動かせている。
 しばらく寒い沈黙がミリーの上に落ちた。
「ボナパルトぉ? 食べれないものは、食べちゃダメなんだよぉ?」
 ちょっと緊張感に欠ける微笑みを浮かべて、ミリーが優しく囁いた瞬間、ペッ、と塊が吐き出される。
 べっとりと粘着質な物がついているが、それは紛れもなくビッキーであった。
 思わずミリーは、ほう、と胸を撫で下ろしていた。
「大丈夫か、おんしら。」
 そこへ、息一つ乱さずに駆けつけてきたシエラが、小さな雷を地面向けて放った。
 びくん、と地面が脈打ったかと思うと、そのまま動かなくなった。
「シエラさん──うん、大丈夫……だと思う。」
 えへへ、と笑うミリーは、元の大きさに戻ったボナパルトを肩に乗せると、彼女を見上げる。
 シエラは、冷めた眼差しをあたりに向けた。
 注意して探らなくても、地面が蠢いているのが分かった。
 このままでは、そこら中から根っこが涌き出てくるのも時間の問題である。
「ここ、結界の中のはずだろっ!? 何がどうなってるんのさっ!?」
 ヒックスを引っ張りながら、こちらへ向かってきていたテンガアールが叫んだ。
 作戦が確かならば、結界の中は安全なはずだった。だから、作戦に加担しないものは、結界の中で花見としゃれ込めるはずだったのだ。
 なのに、今、確かに根っこは結界の中に入ってきた。
 それどころか、地面の底で、蠢いているのが分かるのだ。
「何がどうなっているかなど……妾が聞きたいくらいじゃ……っ。」
 シエラは小さく吐き捨てると、さすがに重い腰をあげたらしいシュウが、こちらへ向かってきているのを目に止めた。
「状況はどうなっている、クラウスっ!?」
 言いながら、蠢く地面に何度か足を取られ、舌打ちを一つ零す。
「今、カーンさんとフリックさん、ナナミさんが、リオ様を助けに行っております。
 状況から見て、皆を非難させたほうがいいかと──……。」
 すばやく自分の見解を述べるクラウスの言葉に、シュウはだいたいのところを悟ったらしい。
 一瞬で状況を判断すると、指示を出し始める。
「戦える者は、足止めのために一時残り、リオ殿とジョウイ殿を助けろ。
 残りは船に乗り、また船の確保をしてくれ。それから、紋章を使える者は、適当に根を散らしながら、皆を船まで誘導してくれ。──ああ、最後の炎を使う魔力は残してくれ。」
 シュウが的確に出して行く指示に、誰もがすぐに行動に移った。
 これほどの巨木にダメージを与えるのは、この島から一人残らず脱出してからでないといけない、ということは、戦いなれた誰もが良く分かっていることだったから、まずは島から出ることだけを考える。
 そのために、シュウの言葉に迅速に従う必要があった。
「この桜が、本当に吸血桜ならば、このような面倒なことにはならなかったのにのう。」
 そうすれば、シエラの月の紋章にも逆らえなかったはずだし、結界が守ってくれたから、誰も焦らず、傷つく必要もなかったのに。
 シエラは、溜息を零しつつも、自らの身を守るために雷の紋章を解放する。
 バリバリっ、と小さく音を立てて、地面でごく小さい稲光が走った。
 飛び出しかけていた根っこが、すぐさま地面に潜りなおすのを見て、シエラはそっと吐息を零す。
「楽だと思っていたものの──なかなか面倒なことになったのう。」
 暢気に呟いてみたものの、カーンが放つ破魔の紋章と、フリックの雷の紋章とで、リオとジョウイさえ解放されたら、ある程度はなんとかなると、シエラは……本気で思っていた。
 そう、このときまでは。






「だから、この桜、吸血桜じゃなくて、ただのモンスターなんだってば……。」






 リオとジョウイの元へ駆け付けたカーンは、走りながら唱えていた呪文を完成させる。
 そのまま手を突き出し、宿していた紋章の力を解放させた。
 フリックも続けて雷の力を右手に溜めた。バチバチと小さくスパークする音が、耳に届く。
 カーンが放った術が、リオを捕らえている根を震わせた瞬間を狙って、ジョウイを捕らえている方を攻撃するつもりでいたのだ。
 けれど、フリックの目論みは果たされなかった。
 カーンが放った術が、根に届いた瞬間、霧散してしまったのである。
「…………なっ!?」
「何っ!!?」
「うっそーっ!?」
 まるで衝撃を与えられなかったそれに、カーンは驚愕のあまり、動きを止めた。
 今だぶら下がったままのリオが、何が起きたのか理解できない表情で、自分を捕らえている根っことカーンの顔とを見比べている。
 ナナミは、自分が見たことが信じられないように目を瞬き、そして自らも紋章の力を引き出そうと、試みる。
「もう一度……っ。」
 焦りながら、カーンも再び破魔の紋章を解放した。今度は、先ほどよりもずっと気合を込めて、全力を持って。
 更に念には念を入れて、ナナミが解放した紋章に重ねるように放つ。
「…………そんな……っ!」
 しかし、やはり術は掻き消えてしまった。まるで、効力が全くないかのように。
 霧のように消えてしまった術の様子は、使った相手を間違っているかのようであった。
「紋章が効かないのか?」
 フリックは、微かに顔を歪めると、自分が準備していた雷を、ためしに近くで蠢いている根に向けて解き放った。
 目に眩しい光を帯びた雷は、ばりっ、と大きな音を立てて、根を焦がした。
 それが不快だったのか、焦げた根が、バンっ! と苛ただしげに地面を叩いた。
 その拍子に、リオがグラリと揺らぐ。
「うわわっ!? ……な、何がどうなってるわけーっ!!?」
「…………破魔の紋章が、効かない……っ。」
 茫然と、立ち尽くすカーンの足元が、不意に崩れた。
 慌ててフリックが再び雷を解放すると、地面が抉れ、根の先が吹き飛んだ。
 やはり、紋章は効いているようだ──微々たるものではあるようだけど。
 ということは。
「やっぱり、紋章よりも技で戦えってことねっ!!」
 びしり! と構えるナナミは、そのままリオを見上げた。
「リオっ! 安心してねっ! お姉ちゃんが今すぐ助けてあげるから!!」
「ナナミっ! 無謀に飛び出すなっ!!」
 そのまま根っこ向けて飛び出そうとするナナミを、慌ててフリックがとどめる。
 その二人向けて根の先が襲いかかるのを、カーンは懐から出した紋章札で散らした。
「とにかく、今出来ることは──。」





「…………大技ではない、でも良く効く呪文とかで、リオ様を助けるしかないって──ことですよね?」
 遠目に三人の様子を眺めていたクラウス達が、「そんな術、あるかっ!」と言いたくなるような現実を突きつけられて、めまいにも近い感情を覚える。
 シエラは、自分たちを狙いはじめた根を散らすために、身体から放電させながら、ルックを鋭く一瞥した。
「ルック。おんし、風の紋章で、なんとかならぬのかえ?」
 辺りで同じように風の紋章を使っている人間達は居る。
 けれど、炎や雷ほど酷くはなくても、風の呪文もまた、大技になれば被害が甚大になるのは間違いなかった。
 これほど巨大な目標であるが故に、風の刃が走る範囲が広すぎて──そして、狭い島で使うには、味方までもを巻き込んでしまう確率が高くて、使えないのである。
 けれど、風のいとし子であるルックになら、ある程度は何とかなるのではないのか?
 シエラはそういうつもりで、視線をやったのだった。
「…………………………っ。あっの、偽善者……っ。」
 だが、振向いたシエラが耳にしたのは、面倒そうなルックの答えでもなく、彼の余裕の美貌でもなかった。
 忌々しげに、やや顔を青ざめさせて、彼は自分の右手を握り締めていたのだ。
 紋章が濃く浮き出て見える右手は──まるで光を宿していなかった。
「ルック?」
 眉を顰めて尋ねたシエラを見ることなく、ルックはまっすぐに──この事態が把握されてから、誰もに忘れ去られていた「至上最悪の悪魔」を、射抜いた。
「君、僕がかけた沈黙の魔法に、気付いてたんだろっ!!?」
 ルックが握り締めている右手は、何の光も放っていなかった。
 彼がどれほど祈り、力をこめようとも、チリとも反応しはしなかった。
 それが、ルックが先ほど感じていた違和感の正体だったのだ。
 力のエネルギーも波動も感じる。
 ただ、力が面に出てこない。
 これは、完全に──「ルックがスイに掛けたはずの術そのもの」であった。
 美貌を蒼白に染めて叫ぶルックを、ゆっくりと──根が密集する場所に立っていながら、彼のいる周囲だけ嫌に綺麗なその地点から、彼は振りかえる。
 その左手に灯した、土の紋章を仄かに光らせながら。
「僕ですら気付かないように、緻密な沈黙をかけようとしたのが──アダになったね? ルック。
 跳ね返されても、まるで気付かないんだから。」
 極上の笑みを浮かべて答えるのは、今の今まで、「沈黙」をかけられた振りをしていた英雄であった。
 彼は、目を見開き、動きを止めている彼らに向かいあいながら、天井近くまでぶら下げられているリオとジョウイを見やる。
「楽しそうだね、ほんと。」
 クスクスと、楽しげに笑うのは、悪魔だった。
「楽しいわけないだろう……っ。」
 ルックが、小さく低く吐き捨てる。
「…………破魔の紋章が効かないということは、小技で相手を退けつつ、逃げるのが先か──。」
 シュウは、チラリ、と湖岸を振りかえる。戦えない者達は、無事に誘導されて船に乗り込んだようであった。
 ちょうど船に向かっていたビクトールが、満タンになった船の一つを、沿岸から離すのが見て取れる。
 戦えない者、というのは、ほんの一握りにしか過ぎない。まだこの島に残っている人間は、大勢いるのだ。
 この全てを船に乗せ、逃げるとなると、相当の時間が必要となる。
「でも、リオ様を助けなければ……。リオ様とジョウイ殿さえ助かれば、突破口は開けるはずです。
 清め塩なんて、持ってきてはいませんし──。」
 スイのように、敵がこちらを避けて通れば何でもないことなのだ。
 クラウスが秀麗な顔立ちを歪めて呟く。その言葉を聞きとがめたルックは、にらみ合っていたスイ向けて、軽く目を細めて見せた。
「君が清め塩なんてわけてくれるわけ──ないよね。塩水で顔洗ってるくらいだし。」
 言いながら、足元でモゾモゾと動く根に顔を顰めつつ、ばんっ、と乱暴に地面を蹴って、根っこが出てくるのを防ぐ。
 この程度のことなら出きるが、本格的に根が表に出てこようとすれば、あっさりと捕まってしまうのは、まず間違い無かった。
 紋章の効果が切れるまで、あとどれくらい残っているのだろうと、うんざりした気持ちでルックは思い出す。
 確か、スイが紋章を使わない時間=自分が十分逃亡できる時間、と考えて、半日は持つように術を放った覚えがあった。
「清め塩? 何、それ?」
 根に囲まれながらも、傷一つ負うことなく、スイは軽く首を傾げる。
「何それって──だから、化け桜を寄せ付けないための、塩であろう?」
 溜息にも似た息を吐きつつ、シエラが再び雷の力を解放する。
 彼女の肩越しに見える向こう──リオとジョウイ達がいる方向でも、明るい光が何度か炸裂していた。けれど、リオもジョウイも、相変わらず捕まったままである。
 やはり、小手先程度の──飛び火しない程度の術では、焼け石に水のようであった。
「…………植物に効くのは、不毛の塩、だよ?
 この桜は、アンデット系でもなければ、化けもの桜でもない。
 ただの、植物モンスター……なんだよ?」
 楽しそうに瞳を細めたスイの、意味深な本意に気付いたのは──彼と長年付き合ってきているグレミオであった。
 あ、と小さく声をあげて。
「そういえば、お庭に雑草が生えないように、塩水を撒いたり、海水を撒いたりしますっけ。」
 戦場になった地が、長い間不毛の地となるように──人間の血に含まれる塩分が、その土地から植物を奪うように。
 植物にとって、塩は、天敵であるのだ。
 その、生活臭が漂うグレミオの答えに、脱力を覚えたのは──口惜しさと絶望とともに、脱力を覚えずにはいられなかったのは、一人や二人ではなかった。
 スイがつけたのは、清め塩なんかじゃない。単に、植物が育たなくなる、植物が枯れてしまうという、ただの「塩」だったのだ。
「つまり、なんだ?」
 眉間に皺を寄せて、シュウはリオを見やった。
「この桜を倒すのは、本気で──……大技しか、ないってこと…………ですよね…………。」
 クラウスが、自分の言葉に力が無くなって行くのを悟りながら、呟く。
 リオとジョウイが力を合わせて真の紋章を使おうにも、二人はそれどころじゃないらしい。
 ルックの呪文は封じられ、シエラの月の紋章は、こういう事に使うように出来ておらず。
──そうなると、この場で頼りになる真の紋章の使い手は、一人しかいないのだけど。
「…………スイ、殿…………っ。」
 レオンが、口惜しそうに呟く。
 彼の言葉にならない言葉が、計ったな、と呟いていた。
 これでは、敗北を認めたようなものなのだが、レオンもシュウもクラウスも、良く分かっていた。
 今のこの島に残っている者を救うには、彼の──スイ=マクドールの真の紋章に頼るしかないということを。
 スイは、その言葉が聞こえたのかどうなのか。
「そうだね……早く船に皆を避難させて、最後の炎とか、焦土でも唱えないとダメだね。」
 根に囲まれている状況下にありながら、彼はノホホーンと呟いた。
 その言葉に、解放軍時代を生きぬいて来た者たちが、一斉に反応した。
 一刻も早く、船にっ!
 この島に残っているのは、もはや、戦える者だけだ!
 気付いた事は、一つの事を指し示していた。
 だからこそ、少しでも早く行動して、ここから逃れなければと思ったのだけど。
 もちろん、元軍主さまは、それを許してくれることはなかった。
 ──一瞬の間が、全てを変える。
「……冥府。」
 甘美な囁きが、空気を瞬時に闇色の染めた。
 スイの差し出された右手の甲に、毒々しいまでの闇が湧きあがり、それは彼の周囲にまとわりついていた根を粉砕させる。
 それでも尚とどまらず湧きあがる闇は、主の望みどおり、島の岸辺に繋がれているモノを、根こそぎ食らった。
 この島から出るための唯一の交通手段である──船、を。
「う……うっそーっ!!!」
「船が……っ!!?」
「信じられない…………。」
 怒号とも、悲鳴とも付かない叫びを、この上もない甘露のように味わってから、少年は、今だ闇色を纏わせている右手の甲に、自らの頬を押し付けた。
 岸辺で、戦えない者達の乗った船を見送ったビクトールが、ものすごい形相で振りかえるのを、スイは楽しげに見つめた。
 うっとりと笑う少年の顔を見た瞬間、ビクトールはみるみるうちにうなだれ──そして、決意の表情で手にした星辰剣と、オデッサを握り締める。
 そんな彼の態度を好ましく見つめたあと、地面が揺れるのに恐怖を覚える面々の顔を、ゆっくりと眺めて。
「大丈夫。僕が、お仕置きに飽きたら、ちゃーんと戻してあげるから。」
 ──────そう、宣言した。
 地獄の閻魔様の、罪業を下す瞬間の言葉のように、絶対の恐怖を伴って。
 それは、この島に残っていた者の耳に、重く響いた。












 阿鼻叫喚に包まれた島が、やっとの思いで浄化されるのは──半日ほど後のことである。
 もちろんこの後、桜が咲き誇る時期になっても、一人を除いて誰も花見に行かなかったのは、当然の話なのであった。


にゃあす様

大分遅くなりました アンド 大分長くなりました…………(^_^;)
長々とお話が続いてしまっておりますが、一応、「リオ、スイを落とし入れようと目論むの図」「だがしかし、スイさんはそういう情報に詳しかったため、あっさりと返り討ちにあってしまった」のお話になったものかと思います。

ちなみに、最後の阿鼻叫喚な世界には、勇猛な戦いのお話がございます(笑)。
 根っこにぶら下げられたまま、みんなを応援するリオ。
 途中、気を取り戻すものの、逸れて当たった雷の紋章によって、再び気絶するジョウイ。
 ドジって同じく根っこに捕まってしまい、リオと一緒に皆を応援しているナナミ。
 根っこを切るのに飽きて、どさくさ紛れにフリックに喧嘩を売るシード。
 それを横で見ていて、止めようとするのだけど、根っこや花びらに邪魔されてできないクルガン。
 ビクトールからオデッサを受け取り、本領発揮に行きたいところなのだけど、シードに邪魔されて、時々雷がズレルフリック。
 リオを助けようとしつつも、星辰剣と喧嘩しつつ、イロイロ走りまわる事になるビクトール。
 根っこに捕まった皆を、助けようと奮戦するものの、なぜか失敗に終わるビッキー。
 クラウスを守るためだけに、とりあえず全力で(力を温存しつつ)戦うシエラ。
 皆の様子に気を配りつつ、戦略を立てるクラウス。
 クラウスの側で、シエラの守りの恩恵を受けながら、同じく戦略を立てるシュウ。
 土の紋章で、土に干渉すれば、とりあえず根が下から盛り上がることがなくなることに気付いたシーナ。
 テンガアールを守るため、周囲から襲ってくる敵に粉塵するヒックス。
 ヒックスを急きたてつつ、シーナ、ルック達とともに円陣を組んで戦うテンガアール。
 その円陣の中央で守られているルック。
 ボナパルトの口の中で守られているミリー。
 化け物仲間だとわかるのか、根っこから被害を受けないボナパルト。
 からくり丸に乗って、とりあえず走りまわることにしたメグ。
 スイを助けようと、スイのまわりに群がる根と戦うカスミ。
 無駄だと思うけど、と思いながらそれを助けるサスケ。
 更に彼が元凶なのでは、と思いつつも、助けるモンド。
 ばっさばっさと、足の太さもある根を切りつづけるハンフリー。
 そのハンフリーに守られながらも、彼の背中を守って根と戦うフッチ。
 そんなフッチに守られつつも、時々火を吹いて桜の花びらを焼いてるブライト。
 なんだかんだ言いつつ、キリーと背中を合わせて戦うローレライ。
 最小限の動きで根を打ちのめすキリー。
 無事に一同を船に送り届けた後、無言でリオを助ける組に参加するシン。
 父とともに、槍を振るいつつ、なんでこうなったのか悩むトモ。
 トモを守らなくてはいけないと、必死で槍を振るうツァイ。
 とにかくリオを助け、シュウを守らねばと、根っこと格闘するハウザー。
 今こそ自分の魔法力を解放するときとばかりに張り切るメイザース。
 紋章を放とうとしている面々を守りながら、自らが傷つくことは厭わないハンナ。
 腹が減っては戦が出来ぬと、放られたままの食料を食べているリキマル。
 船に乗ることよりも、夫の側に残ることを選んで戦うヨシノ。
 ヨシノだけは守らねばと、必死で剣を振るうフリード。
 一人無言でバッサバッサと切り刻むペシュメルガ。密かにそろそろ飽きている。
 何はともあれ、狼化して根っこに噛みつくボブ。──桜の根はまずいようである。
 シュトルムでリオを捕らえる枝を打ち落とそうとするが、打った場所から新しい根が生えてきて、上手く行かないクライブ。
 リオを助けるための指揮を取るリドリー。
 とりあえず猪突猛進に突っ込むゲンゲン。
 そんなゲンゲンに付いて行くガボチャ。
 船の運転をヤム・クーに任せなきゃ良かった、と思いながら、ざくざくと根を突き刺しているタイ・ホー。
 その隣で根っこを抱えて逆に羽交い締めにされたアマダ。
 ワカバが倒した根っこに、更に蹴りを入れてとどめを差しているらしい、ロンチャンチャン。
 さすが師匠です! と、やる気満々で、時々間違えてくまを殴るワカバ。
 根っこと一緒にチャコを追いかけているシド。
 こんな事になるなら、素直に船に乗っておけば良かった、と思いながら逃げるチャコ。
 船に向かおうとして戻ってきてしまって、戦うはめになったラウラ。
 そんなラウラと共に、いつもの正体不明さで、根っこ相手にもまるでひるまないジーン。
 レディを守るのが勤めと、優雅に剣を捌きながら、魔法もちょいちょいと、器用に立ちまわりするカミュー。
 とりあえず目の前の根を切りつつ、リオを助けようと根によじ登るマイクロトフ(最終的にリオを助けるのも、彼)。
 自慢の足で走る続けているだけのスタリオン。
 根っこにすでに捕まえられていることに気付かず、高笑いしているザムザ。
 片手に持ったワインがもったいないと愚痴を零しつつ、根を適当にあしらっているアニタ。
 向かってくる敵は容赦無く切り捨てている、まだまだ余裕のゲオルグ。
 バラの花を片手に、美しさに嫉妬とは……と呟きながら、根っこに巻きつかれているヴァンサン。
 同じく、心の友、ヴァンサンと共に根っこに巻きつかれているシモーヌ。
 力の赴くまま、鉄棒を振りまわして、時々地面を抉っているガンテツ。
 颯爽と、迷いのない剣捌きで、落ちてくる桜の花びらを切ることに集中しているゲンシュウ。
 楽しそうに根っこ相手に、いつまでもちゃんばらをしているマクシミリアン。
 なんだかんだと、イイトコを奪われつつ、一人なんとか奮戦しているギルバート。
 クラウスを探して、島の逆方向で戦っているキバ。
 スイにまた一本取られたことに、イライラしながら根にグルグル巻きにされているレオン。
 火を吹きながら根からアイリ達を守ろうとしているボルガン。
 リオが心配で残ったけれど、自慢のナイフも突き刺さらず、火で敵を威嚇しているアイリ。
 アイリの後ろで、時々笑顔で辺り一面火の野原に変えそうな勢いで術を唱えるリィナ。
 ぴょんぴょん飛びはねながら、根っこを翻弄させているコウユウ。
 その根っこをふん掴み、ちょうちょ結びなどをしてみるロウエン。
 斧で幹を斬ろうとするけれど、傷一つつけられなかったギジム。
 根と戦うシロの援護をするキニスンとエイダ。
 空から様子を伺いつつも、何も見えず困っているグリフォン。
 何をするでもなく、時々5人揃えてポーズを取っては、根っこから逃げているムササビ戦隊。
 そして、実はこっちに来る前に、スイに頭から塩水をかけられていたため、一人安全なグレミオ。
 そんな彼らを、暖かな微笑みで、優しく見守るスイ。

──……皆に平等に訪れる春は、もうすぐなようですv