「うーん……いい気持ち! 解放軍の城も、気持ち良いけど、やっぱり森の中は別格ですね。」
「わーいっ! 久し振りだね、キルキスゥ! 今日はここで、ピクニックするの?」
「今日は、劇をするらしいから、衣装に着替えないとダメなんだよ、シルビナ。確か、台本がココに。
えーっと………………。」
「劇? 人間って、面白いことをするんだね。えーっと……何々?」
「……………………。」
「………………何、これっ!? エルフが森で迷うわけがないじゃない!」
「いや、それは劇で、配役の問題で…………っていうか…………配役………………コレ………………?」
「あはははははははっ! 森の中を走るのは気持ちいいなぁー……ははははははっ!!!」
「スタリオンさん! あんまり走り回らないでくださいね。せっかくのシチューに埃が入ってしまいます。」
「後、クッキーを焼いて、キャンディも組み入れないといけないんでしたね。ふーむ。他に何を使おうか?」
「レンガ代わりにビスケットとチョコレートというのはどうでしょ?」
「おお、それも中々。よし、さっそく────ああ、ロックさん。すまないけど手伝ってくれるかな?」
「いいっすよ。何をしましょ?」
「んもーぅっ! シルビナは怒ったわよぉっ! 誰っ!? エルフにこんな無様な真似をさせようとしているのは!」
「それよりも、配役の方が気になるんだけど──お父さんとお母さん役もさることながら、魔女役……で、ナレーションはいいとしても、白鳥役……? 後、何、この魚役って?」
「ああ、それか。しょーがないだろ。人数があぶれるんだからな。ま、魚にも白鳥にも最適なように、船はちゃんとおれが用意してあるから、安心して劇にうちこむんだな、キルキス。」
「はい、クン・トーさん。……って──魚と白鳥と、船って……どういう関係があるんだろう?」
「さぁさぁ、皆さん! そろそろ定位置について、ついて! 早くしないと、スイさまが来ちゃうからな! 来ないうちに、さっさとナレーションを開始しちゃうからさ!」
「あー……そりゃてぇへんだな。何か起こるに決まってらぁ。こりゃ、さっさと始めてさっさと終わらすに限るぜ。」
「え、え、え、ちょっと待ってくれよ! まだ住む家ができてないぜ?」
「? 何の話? 家って、森があったらそれでいいじゃないの?」
「そういうわけにはいかないよ。人間、屋根がなくちゃね。ちょっと待っててくれよ。とびきり頑丈なのを作ってるからさ。」
「────ねぇねぇ、キルキス?」
「ん、なんだい、シルビナ………………って…………え………………。」
「人間の住む家って、変だよね。まるで金庫みたい。」
「………………みたいじゃなくって……………………金庫?」
「ははははははは! やっぱり走るのは気持ちいいなーっ!」
「────…………一緒にされちゃぁ、たまんねぇぜ、おれは。」
「ああ……そりゃ確かにな。」
「むかしむかしのお話だ。
──いいね、いいね。この始まり方! お話って気がする。……とと、ナレーション、ナレーション、っと。
迷いの森と呼ばれる、深い深い森──モランの森の奥に、きこりの家族が住んでいたそうだ。」
きこりの父親は、数年前に妻を亡くしており、その妻との間に二人の子供がありました。
まだ幼い子供に母親が居ないのは不憫だろうと、父親が再婚したのがつい1年前のこと。
森の東南に位置する「大森林の村」から貰ったお嫁さんでした。
ところがこのお嫁さんは、心の冷たい女でした。
彼女は、自分の子供ではない二人の兄妹を、必要以上に構うこともなく、可愛がることもありませんでした。
子供達は、昼間は父親が家に居ないので、二人っきりで家の外で遊ぶことが多くなりました。
意地悪な継母は、そんな子供達を折檻し、家事を手伝わせたりしました。
そして自分は、ろくに家事もせずに、寝てばかりいたのです。
そんなある年のことです。
いつもは温暖な気候の森とその周辺でしたが、その年は例年になく寒い季節を迎えました。
夏がきても空は曇り空が晴れることはなく、太陽が顔を覗かせるのは本当にわずかの間だけ。
長い時化が来ては、長く雨が辺りを悩ませる日々が続きました。
その結果、森に程近い大森林の村でも、コボルトの村でも、畑の作物は全滅し、食べるものにも困る状況になってしまいました。
それは、きこりの家族にも例外ではなかったのです。
きこりの家族は、長い雨と寒さで湿気た売れ物にならない木々と、実りもしない果物のため、すぐに日々の食料に困るようになりました。
今日の夕飯も、川から汲んできた水に、たっぷりの雑草を入れた、苦まずい雑草スープです。味も何もないそれは、おなかが膨れるほどの量もありません。
けれど、その雑草ですら、長い雨と寒さに打たれて、そういくらも経たないうちに、まるで見かけなくなっていました。
近くの川も、雨で増水してしまい、魚を取ることもできません。
きこりの家族は、これはもうどうしようもないくらい、追い詰められてしまっていたのです。
その夜も、おなかがグゥグゥなるのを抱えながら、継母は立派なテーブルの横で、口に釘を咥えてガンガンと壁を叩いておりました。
頑丈な家は、多少の雨風にも耐え抜く、素晴らしい構造でありましたが、寒さがしのげるわけではありません。
だから、継母は自ら板とかなづちを持ち、隙間風が吹いてくる窓に向かって板を打ち付けているのでした。
「やっぱり、湿気が入ると、中の備品が傷むのが早くなるなぁ。」
器用に釘を口に咥えたまま、そう継母は零します。
窓をガタガタと揺れる風はそれほど強くは無い物でしたが、湿気を含んだ空気は、冷ややかに室内の温度を下げていきます。
雨が長く続くこの森も、早い冬の訪れがきているかと思うほど、肌寒く感じました。
けれど、暖炉で燃やす火もない以上、擦り切れた布を体に巻いて過ごすしかありません。
夜ともなれば、寒さも一塩──特にこの頑丈なレンガを積み立てて作った自分の金庫型の家は、食料品を仕舞うのにも一役買っているためか、室内を冷やす効果はあっても、暖める効果はまるでありませんでした。
「久々に腕をふるって、頑丈な倉庫を作ったって言うのに──雨続きじゃ、中の物に黴が生えてきちまうよ。」
ふう、と疲れたように溜息を零す継母は、立派な筋肉を惜しげもなく晒し、タンクトップ一枚で寒さを我慢しています。
その腕には鳥肌一つ立っていませんでしたが、それは心の冷たい継母の体もまた、冷たくできているからに違いありません。
継母は、太い腕で自分の額に浮き出た汗を拭い取ると、自分が打ちつけた板の加減を確認します。
そうして、満足げにフゥと溜息を零すと──不意に室内を冷やす空気が肌を舐めあげ、継母はブルリと震えました。
必死に板を打ち付けているときには気にもならなかった寒さが、ココに来てゾクゾクと背中を駆け上ったのでした。
そんな継母の背後では、シュタシュタと冷ややかな空気を掻き乱す動きが、ずっと続けられています。
「寒くても、走ればあったかくなるってもんさ。ロックも走ったらどうだい?」
しゅたたたたたたた……と、常に音はやむことなく、室内に響き渡っています。
それでも家の床は、地響き一つしません──もしくは父親であるスタリオンの俊足が、あまりに早すぎて音もたたないのかもしれません。
「体はあったまっても、おなかは温まらないよ、スタリオン。
──まぁ、とは言うものの、腹に入る食料どころか、すでにウチの食料庫は底をついちまったけどね。」
ヤレヤレと、肩を竦めて見せて、ロックは両手を腰に当てて辺りを見回しました。
自分たち二人が居る狭い部屋には扉が三つ。
一つは子供達が寝ている寝室へ。
一つは自分たちが寝るための部屋へ。
残る一つは外へ出るための扉です。
そのどこにも、食料が無いのだと言う事実を思い返せば、外から吹き込む隙間風は無くなったはずなのに、心に吹く風は強くなる一歩でした。
日に日に蓄えられている食糧も減っていくばかり。残るは、家族4人、あと数日を乗り切れるかどうかの量だけ。
いつもは森の中を走り回って、いろんな場所から木々を取ってきてくれる頼りになるお父さんも、雨や寒さ続きのために自慢の足を、家の中で披露するばかりです。
「やぁ、仕方がないさ。お金がないんだからね!」
貧窮に貧窮を重ねた、いよいよ食料もなくなるというような状況にも関わらず、お父さんは元気に明るくシュタッと手を挙げて笑います。
そのあまりに明るい笑顔に、継母が溜息を零してしまったのも仕方がないことでしょう。
「どちらにしろ、このままだと、この家から人間までもが居なくなってしまう日も近いよ。」
「やぁ! そうなったら、皆で世界一早い男になるために旅に出よう! 大丈夫! 走れば世界は開けるさ!」
果てなく未来の先行きを明るく語るお父さんに、なんとなく結婚したのを後悔してしまうお母さんでありましたが、賢明にもそれを口に出すことはありませんでした。
代わりに、一汗掻いたために渇きを覚えた喉を湿らそうと、部屋の隅に置かれている水瓶に近づきました。
最近は、おなかの空腹を水で紛らわせようとしているためか、この水瓶を開く機会が増えたような気がします。
確か、人間は食料をなくして水だけで何日生きられるのだったか──と、そんな洒落にならない事態を継母がチラリと考えた時でした。
開けた瓶の中は。
「……………………空……………………?」
そう、思い返せばここ数日の雨のために、水をマトモに汲みに行けず、瓶を満タンにすることができなかったのでした。
先ほどの夕餉の時に、子供達が食べたパンをおなかで膨らませようと、たくさん水を飲んでいたことを思い出し、継母は唇を引き結びました。
前々からチラリチラリと考えていたことが、継母の頭の中で大きく膨れ上がったのは、ちょうどこの時でした。
「スタリオン。」
継母は、低い声で夫の名を呼びます。
相変わらずシュタシュタと走っていたスタリオンは、そのままロックの声に返事を返しました。
そんな夫に、継母は冷ややかな心で、こう告げるのでした。
「こうなったら仕方がない──子供達を、森に置いて来るっていうのは、どうだい?」
「……ええっ!?」
さすがのスタリオンも、継母の爆弾発言には驚いて足を止めました。
そして、目をパチパチと瞬くと、継母の顔を凝視します。
「そっ、それはさすがにまずいんじゃないかな? この森には、森に結界を張ったっていう伝説の六賢者がいまだに生きていて、血の糧にするために、子供を煮て食べてしまうという伝説があるからさ。」
慌てたように両手をフリフリ叫ぶスタリオンに、継母は真剣な面差しで夫を説得し始めます。
「それはお話の世界にすぎないさ。問題は、今、この状況だよ。
いいかい、おれ達はこのままだと、どう考えても皆飢え死にだ。おてんと様が見えない限り──いんや、見えたとしても、このままじゃ無理なのは、分かってることだろう?」
「────…………。」
長い耳を落とし、スタリオンは難しい顔になります。
「けど、いくらなんでも──……いんや、やっぱりダメだ! そのくらいなら、おいらがちょっくら背負って走ってやるからさ!」
必死になって説得し返そうとしましたが、相手は心の冷たい継母。心が動くことはありませんでした。
「無理だね。考えなくても分かるさ。それに、食べるものが無くて、子供を山に捨てざるをえないこともある……それが戦争というものだしさ…………。
子供は案外頑丈に出来てるから、死にやしないよ──森の中で、それこそ木の根っこを齧っても生きるよ。
実際、木の根っこは、物によっては甘くて美味しいし。」
「確かに、樹液は美味しいね! 森の奥へ行けば、人間が踏み入ってない場所で、案外木の実とか見つけられるかもしれないしね!」
「そうそう。で、この悪天候が良くなって、食料も調達できるようになったら、森の中に探しにいけばいいワケだし。」
話に乗ってきた夫に、継母はここぞとばかりに話を進めていきます。
そうして、継母は言葉巧みに夫を納得させてしまいました。
スタリオンは、前の妻との間に生まれた愛しい子供二人を、明日、森へ置き去りにしてくることを約束させられてしまったのでした。
「あこぎな奥さんだな──……女は怖いねぇ……って??? ロックは男だってな……でも役割は女の役割だから…………????
うぅーん? ………………えっ!? 何? 俺の出番っ!? ぅわっ! いつのまにかマイクのスイッチが入ってるじゃないか! もっと早く言ってくれよ。
何々? こうして、お父さんと継母さんは、明日の昼間、子供を二人森へ置き去りにすることにしたのでした。
あやうし、ヘンゼルとグレーテル! かっこ、ちなみにヘンゼルが兄で、グレーテルが妹よ、かっことじる…………え? ここは読まなくてもいい?
あー……ごほん。
ところが、この話を、子供の部屋でヘンゼルが聞いていたのでした。」
「大変だ…………っ。」
小さく零して、慌ててヘンゼルは唇を噛み締めました。
耳を済ませますが、聞こえてくるのは無邪気な妹の寝息ばかり。
その声を耳に止めながら、ヘンゼルは扉の隙間から、コッソリとお父さんとお母さんの話を伺います。
けれど、声はそれ以上聞こえることはなく、話を決定させたらしい継母とお父さんは、蝋燭の灯りを消して、早々に自分たちの寝室へと姿を消してしまいました。
残されたのは、暗闇の中にポツンと残ることになったヘンゼルでした。
育ち盛りのヘンゼルは、あれっぽっちの夕食ではおなかが一杯にならず、つい先ほどおなかが空いて目を覚ましてしまったのです。
そこで、いつものように水を飲んで空腹を紛らわそうとして、まだ居間の電気がついているのに気付いたのでした。
そして、コッソリと覗いて──自分たちの身に降りかかるだろう明日の出来事を、聞いてしまったというわけです。
「──……このままじゃ、僕もシル……じゃなかった、グレーテル? も、明日には飢えた森の動物たちの餌になってしまう。」
キリ、と唇を噛み締めて、ヘンゼルは顔を顰めます。
真っ暗になった部屋の中では、振り返って見やったベッドの影も形も見えません。
けれど、そこから聞こえてくる規則正しい寝息だけで、自分が守ってやらなくてはならない妹がそこに居ることだけは分かりました。
「スタリオン──いや、お父さんも、人間が食べるものが無いような森の中に、子供をポツンと置いていったら、飢え死にする前に食べ殺されるということくらい、分かると思うんだけど…………。」
小さくそう零してみても、あの筋肉ムキムキの母親に言いつめられては、まともな反論も出来ないだろう父のことを思うと、ヘンゼルは自分の命が関わっているのに、仕方がないか、という気になるのでした。
しかし、だからといって、素直に森の中に置き去りにされるつもりはありません。
「エルフとしては、森の中で生きられなくてどうするって思うけど──今はただの子供の役だし。
とりあえず、置き去りにされても無事に戻ってくれば、問題は無いわけだし。」
うん、とヘンゼルは納得すると、父親譲りの長い耳を伏せるようにして、少し緊張を滲ませながら、子供部屋の扉を開きます。
ギィイ──と、小さく音を立てる扉に、ドキドキと緊張させながら、ヘンゼルは居間を覗き込みました。
けれど、すでに継母も父も部屋に引っ込んでいった後なので、誰も居ません。
ただ蝋燭の残り香を、鼻先に感じました。
ヘンゼルは、足音を立てないように、ゆっくりゆっくりと、家の出入り口にまで近づくと、そ、と扉を開きました。
すると、鍵が掛かっていない無用心な扉は、至極アッサリと開放されます。
何も灯りが付いていない中とは違い、表は仄かな明るさに満たされていました。
「………………。」
空を見上げると、幾重にも重なった暗雲がまばらに広がっています。
その合間から、小さなビーズのような星明かりと、まん丸いお月様が、チラリチラリと顔を覗かせていました。
「雨……上がってる。」
雨上がりの、冷ややかな空気に、ブルリを体を震わせたヘンゼルは、ソロリと足を踏み出しました。
森の中に出来た広場の空間に、ヘンゼル達の家は立っています。
まるで突貫工事で作ったかのような印象のある家ですが、それは貧乏のため仕方がないことなのです。
その家の中で、スヤスヤと眠っているだろう継母と父が起き出してこないうちに、目的を果たさなければなりません。
森の中や洞窟の中に入るときは、目印になるような物をつけていけば迷子になりにくいということは、小さい頃にお父さんから教えてもらっていたので、良く覚えておりました。
そこでヘンゼルは、森の中にどこに連れて行かれても、きちんと家まで帰ってこれるような目印を探そうと思ったのです。
きょろきょろと辺りを見回しながら、ヘンゼルは目印になるような物を探します。
木の枝や落ち葉などは、森の中にもたくさん落ちているので、目印には向いていません。
となると、森の中に落ちて居なさそうな物で、なおかつお父さんと継母に見つからないような目印でないといけないのです。
「ということは……木の幹に傷をつけて目印をつけたり、ロープとか毛糸の先を入り口の木にくくりつけて、その片方を持っていくっていうのが一番だけど──幹に傷をつけるような刃なんて持ってないし、どこまで連れて行かれるか分からないのに、ロープや毛糸なんて用意できないし。」
何がいいかなぁ、と、辺りを見回しながらヘンゼルは歩きます。
少しすると、目の前の視界が開け、仄かに明るい光が零れました。
は、と目を上げると、雲の隙間から零れる月の光を受けて、流れていく川が見えました。
ざぁぁぁー、と、どこか濁った色を煌かせながら、水が右から左へと流れていっています。
「川原まで来ちゃった。──戻らないと。」
今朝もお父さんから言われた言葉がヘンゼルの頭を掠めます。
ここしばらくの雨で、川が増水していて危ないから、近づいてはいけないよ。
確かに川は、その父の言葉どおりにザァザァと音を立てて流れていっています。
いつもなら、月の光をサラサラと受けて、穏やかに流れていく川も、鈍く光を反射するばかりです。
ヘンゼルが、踵を返そうとしたときでした。
月の光に、キラリ、と足元が光ったような気がします。
「? 今、何が……?」
少しかがみこんで、ヘンゼルが何が目に飛び込んできたのか確認しようとした瞬間でした。
しゅっぽっぽー、しゅっぽっぽー。
奇妙な音が、川上から聞こえてきました。
「………………は?」
顔をゆがめて、ヘンゼルはその音のする方を見上げます。
すると、増水して流れが速くなった川の川上から、なにやら大きな物体が流されてくるのが見えます。
黒い陰影をクッキリと浮かしだすそれは────。
「…………────蒸気船…………?」
いくら今は増水しているとは言え、こんな小さくて浅い川に、どうして船が来るのだと、ワケがわからないまま、ヘンゼルはその船から目が放せませんでした。
そうこうするうちに、川の流れに乗って、船はヘンゼルの居る場所までやってきました。
「よぉ、エルフの坊主。この魚船はどうだ? なかなかいかれてるだろ?」
ニヤリと笑いかけてくるのは、船の──人一人がようやく座れるほどの大きさの小船の先端に足をかけた初老の男でした。
そして、彼が乗っている船の中央には、底板のほとんどを覆うほどの大きな筒が置かれていて、先端から灰色の煙を噴出していました。
しゅっぽっぽー……シュンシュン……と、音を小さくさせて、船が止まりました。
その船の表面には、なぜかペンキで鱗が手書きされていました。
さらに大きな黒丸も描かれていて──横から見ると、確かに幼い子供が書いたような魚の絵に見えなくもありません。
「えー………………と………………。」
思わず絶句したヘンゼルが見上げた先で、男は帽子の位置を直していた。
その紫色の帽子にも、紙で貼り付けたような丸い目と鱗がついていた。さらにサービスとしてか、ヒレまでついていた。
「お……さかな、──さん?」
思わず指で指して尋ねてしまったヘンゼルの気持ちも、分からないでもありませんが、そんな彼の指先に、男は軽く眉を顰めます。
「人を指さすもんじゃないな。──で、どうだ?」
「どうだ、って、何がですか、クン・トーさん?」
──まぁ、自ら魚の扮装をしてこなかっただけ、十分マシなのだろうと理解したヘンゼルは、ワケの分からないことを聞いてくる魚に首を傾げます。
すると、クン・トーは指先で丸を作ると、
「いくらで買うかって聞いてるんだ。」
もう片方の指で自分の足元を示して笑って見せます。
その男の笑みに、思わずヘンゼルは心底嫌そうな顔で叫んでいました。
「いりませんよ、こんなの!」
「…………言うねぇ、キルキス。」
思わず即効で断ったヘンゼルに、顎を撫でながらクン・トーが笑います。
そんな彼に、慌てて口元を覆ったヘンゼルでしたが、飛び出した言葉が口の中に戻るはずもありませんでした。
「まぁ、いい。気に入った。おめえは、わざわざ湖を泳いでくるようなエルフらしいしな。」
「う……それは言わないお約束です。」
思わず片手で片頬を隠すようにして呟き、ツイ、と顔を逸らせます。
そんなヘンゼルに小さく笑いを零した後、クン・トーは不意に目つきを鋭くさせました。
「教えてやるよ。」
月光が再び雲の中に隠れていく中、彼は船のエンジンをかけなおしながら、そう告げました。
「?」
何を、と見上げたヘンゼルの上に、再び冷たい風が吹いてきます。
「この川原から白い石をいっぱい拾っていきな。それがおめえを助けるだろうよ。」
ボッ、と短く音をたたせて、再び船が動き出しました。
月明かりが完全に雲の向こうに消えて、目の前は真っ暗になりました。
けれど、しばらくそうして立っていると、シュンシュンシュン……と遠のいていく船の音が流れていき──やがて、ぼんやりとではありましたが、辺りの様子が見えるようになりました。
ヘンゼルは、それからようやく踵を返そうとして──気付きました。
自分が立っている川原の足元に広がる、たくさんの石の存在に。
「というか、川を下るへんなオジサンからの助言って、凄く怪しいと思うんだが──……やっぱ、聞くのか? その助言?
──ということで、ヘンゼルは川原に落ちている、ちょっとの光でよく見える、白い石をたくさん拾って帰りましたとさ。めでたしめでたし。」
「終わらせるな!」
げいんっ!
「いたっ、痛い! ──何するんですか、クン・トーさん……あなたの出番はもう終わったじゃないですか。」
「さっきから聞いてれば、面白くも無いナレーションを、お前さんが入れてるからだろうが! ココからはおれに任せておけ、チャンドラー。」
「そ、そーゆーわけには行きませんよ〜!? コレだって、おれの大事な仕事なんですから!」
翌朝のことです。
その日は継母の祈りが通じたのか、久し振りのお天気になりました。
表に出ると、肌に纏わりつくような湿気感はありましたが、差し込む日差しが心地よく、あまり気にはなりませんでした。
「さぁって、そろそろ出かけるか。」
肩から昼食の入ったかばんを担いで、継母が一同を見回します。
「うーん、いいお天気! 久し振りの太陽だね、キルキス!」
ヒラリン、と綺麗な銀の髪を揺らして、ニコリとグレーテルが兄を振り返ります。
兄は、大きなかばんを背中に背負いながら、よたよたと家から出てくるところでした。
「シルビナ……キルキスじゃなくって、ヘンゼルだよ……。」
「? キルキスはキルキスでしょ?」
「いや、だから今はヘンゼルっていう役だから──シルビナは、僕のことを『お兄ちゃん』って呼んでくれる? 僕はシルビナをグレーテルって呼ぶから。」
「? ふぅーん? 良くわからないけど、キルキスがそう言うなら、シルビナもそうする──えーっと、キルキスじゃなくって……おにいちゃん?」
軽く首を傾げて、グレーテルはヘンゼルを見上げます。
少し不安そうに眼差しを揺らすその姿に、ヘンゼルは口元に微笑を上らせます。
そんな彼に、グレーテルはニッコリと笑い返すと、
「お兄ちゃん。」
もう一度唇の中で繰り返しました。
それに、ヘンゼルは満面の笑顔を見せて頷きます。
グレーテルもそんな彼を見上げて、それはそれは嬉しそうに、ニコニコと笑います。
二人の周囲に、フワンフワンとピンク色の霧が浮いているのが見えました。
思わず継母は、そんな二人にヤレヤレと溜息を零してガックリと肩を落とします。
しかし、その微妙なムードに気付かない人というのは、どこの世界にも居るものなのです。
ここでは、お父さんがそうでした。
「やぁ、ヘンゼルとグレーテル! そろそろピクニックに出発するよ!」
シュタッ! と、元気良くお父さんが声をかけます。
今からすぐにでも出発しようと言うかのように、片足を挙げて、両手を直角に天と地に向けています。
「ピクニック!? ピクニックに行くのっ!?」
ぱぁっ、と顔をほころばせて、グレーテルがお父さんの顔を見上げました。
「そうさっ! 広い森の中を、どこまでも走って、世界一速い男になるために……っ!」
「というのは冗談で、今日は二人にも仕事を手伝ってもらおうと思ってるんだよ。」
このままでは話が進まないと思ったのか、本当にピクニックに行って帰ってきそうだと思ったのか、無理矢理継母は三人の間に割り込んできました。
「お、お手伝いですか。」
パフ、と両手を叩くようにして、ヘンゼルはその継母のセリフに乗ります。
「ああ。久し振りのお天気だから、今日のうちにたくさん木を取ってこないといけないからな。
だから、皆で行くんだ。」
継母は、そう言って笑顔を浮かべました。
明るい、朗らかな微笑みに見えましたが、継母はその奥で、恐るべき計画を練っていたのです。
ヘンゼルはそれが分かっていたからこそ、重く肩に圧し掛かるかばんを──その中身にある小石のことに思いを馳せながら、継母の言葉に頷いて見せました。
「分かりました。一生懸命お手伝いします。」
「キルキス! 頑張ろうねっ!」
「…………いや、だから、お兄ちゃんだってば…………。」
ニコ、と笑うグレーテルの笑顔を、疲れたように見下ろし、ヘンゼルは彼女の小さな手をきつく握り締めるのでした。
「こうして、ヘンゼルVS継母の、熱くも激しい戦いが幕を開けるのだった。」
「開けてないっ! 勝手なナレーション入れないでくれよ! ここは、おれがようやく夢にまで見て手に入れた、カウンターなんだよ。」
「いいじゃねぇか、どうせ誰もこんなイベント時期に買い物に来やしねぇよ。
もし万が一、客が来たとしても、おれがちゃんと立派な船を売ってやるから、安心しな。」
「ここは、道具屋ですーっ!!」
お父さんと継母は、迷うことなく森の奥へズンズンと入っていきます。
その後をついていきながら、ヘンゼルは左手でグレーテルの手を握り、右手でかばんの中にギッシリと詰めていた小石を、一つ一つ──前を歩く継母と、陽気に走る父に気付かれないように、地面に落としていきました。
時々不安になって振り返った先──白い石は、そこにあるのだとよく見なくては分からないほどしか見えませんでした。
これでほんとうに帰り道が分かるだろうかと不安に思うのですが、昨夜の正体不明の自称「魚」さんの言っていたセリフを信じることにしました。
どちらにしろ、ヘンゼルもグレーテルも、いつも以上にグルグルと回って歩いているお父さんと継母の後をついていくのが精一杯で、道を覚えることなど出来なかったからです。
やがて、ヘンゼルのかばんの中の小石が、残り少なくなったころ、少し広くなった場所──昔お父さんが木を切っていた場所でしょう、切り株が一つあるところで、継母は足を止めました。
だいぶ先を軽やかに走っていたお父さんが、それに気付いてシュタっ、と素早く戻ってきます。
「やぁっ! ここが置き去りポイントかい、ロック!?」
げしっ!
明るく片手を挙げるお父さんが、突然鈍い音と共に前のめりに倒れましたが、継母は朗らかな笑顔を浮かべてそれを背後に押しやりました。
「き、キルキス…………。」
思わず、不安に思ったグレーテルが、しっかりとヘンゼルの手を握り締めます。
ヘンゼルもその手を握り返して、大丈夫だと笑いかけてやります。
「いいかい、ヘンゼル? グレーテル? お父さんとお母さんは、ここからもう少し奥の方に行って来るから、二人はこの辺りで木を取ってくれるかい?
もちろん、この辺りから離れちゃダメだよ。日が暮れる前に、ちゃーんと迎えに来るからね。」
微笑む継母の顔は、今まで見たことがないくらいに親切で優しそうでした。
そんな継母の顔に、グレーテルが不審を覚えるよりも前に、ヘンゼルは継母に大きく頷きました。
不安はありましたが、自分が撒いて来た石の存在を信じるしかなかったのです。
「はい、おかあさん。」
継母は、そんなヘンゼルにニッコリと笑うと、大きな手でヘンゼルとグレーテルの頭を撫でてやりました。
そして、自分のかばんの中から、細くて小さなパンを二つ取り出すと、
「これが昼食だよ。」
と言って、二人それぞれの手に渡しました。
「ええーっ、これだけぇっ!?」
思わず不平の声をあげたグレーテルの口を、慌ててヘンゼルは両手で塞ぐと、ニコニコ笑って継母を見上げました。
「ぼくたち、頑張って働きます!」
「ふがふが……っ!」
なにやら妹の方は、言い分があったようですが、しっかりと彼女を抱き寄せたヘンゼルの動きによって、声になることはありませんでした。
まだ不安そうな継母でしたが、すぐに走る気満々の父親に手を取られて、
「それじゃ、行ってくるよ、子供達! また会えたらいつの日か会おう!」
ひゅーんっ! と、別れ際のセリフがエコーするほどあっという間に、その場から消えてしまいました。
セリフのエコー音に重なるように、ごんっ、ごんっ、ごんっ……と、何かにぶつかるような音が、遠く遠く聞こえましたが──それはきっと、意地悪な継母への神様の天罰の音だろうと、ヘンゼルは気にしないことにしました。
「さぁーってと、それじゃ、グレーテル。枯れ木を集めようか。」
「ええーっ!? 無理だよ、キルキス。だって、雨が続いてたから、地面もしっとりと濡れてるよ? こんな中に落ちてる木じゃ、火はつかないもの。」
履き慣れた皮のブーツで、グレーテルは落ち葉の敷き詰められた地面を踏みしめます。
その足裏に返って来る感触で、地面が濡れているのはたやすく知れました。
「それでも少しは集めておかないと、帰ったあとでお母さんに怒られちゃうからね。」
「……キルキスがそう言うなら、シルビナもやる…………。」
少しだけ拗ねたように下唇を尖らせたグレーテルでしたが、重い腰をあげて、自分の腰の荷物を切り株の上に置くと、辺りを調べるように歩き始めました。
ヘンゼルもそれを見て、自分も同じように歩き出します。
腰の中に入っていた小石はすべてその場に落とし、継母から貰ったパンを、代わりのそのかばんの中に入れました。
そして二人は、連れ立つようにして木々の合間を歩き始めます。
長い雨のために、森はすっかり死んだように見えました。
深い森の中は、昼間だと言うのにすっかり真っ暗です。
それでも、久し振りに太陽が表に出ているためか、木漏れ日で辺りは明るく見回せます。
けれど、雨が永く続いていたせいでしょう。森の木々に活気はなく、湿った空気が辺りを覆い、どこかどんよりとしていました。
大きく何重にも広がる葉っぱのおかげで、ココまで雨の雫が激しく降り注ぐことはないのでしょうが、辺りには寒々とした風が吹いています。
昨日の名残の雫が、遠く上の葉っぱに残っているのか、時折ポツンと大きな雨雫が落ちてきました。
その中を二人は歩いて、濡れていない枝を捜し、そのついでに何か食べれる物はないかと探しました。
けれど、この食料難な時期──食べれそうな葉っぱや実は、すべてこの森にすむ動物たちが食べてしまったようでした。
「…………そろそろご飯にしようか?」
暗い森の中では、今がイツなのかもハッキリ分かりません。
おなかの具合で昼時かと判断したヘンゼルは、まだ片手で持てるほどの細い枝を持ちながら、そうグレーテルに提案しました。
もちろんグレーテルにそれを反対する理由などありません。
二人はお父さんと継母と分かれた場所に戻って、小さくて硬いパンを齧り空腹を満たしました。
そうして、また一緒になって枯れ枝を探しに行きます。
「そんなこんなで、気付けば地面もマトモに見えなくなり──やがて完全に日が暮れ切ると、夜の森は真っ暗になったのだった。
……でも、枯れ枝があったら、火がつくから、松明が作れるんじゃないか? 火打石くらい、おれが売ってやるぜ。」
「子供には火打石はアブネェな。持たせるなら、火の紋章にしときな。」
「…………そっちのが危ないんじゃないか?」
「キルキス……。」
不安そうに声を震わせるグレーテルの手を、きゅ、と握り締めて、大丈夫だとヘンゼルは笑いました。
「大丈夫、……さぁ、おうちに帰ろう。」
そういうヘンゼルも、あまりに暗い森の中に、少し不安を覚えていましたが、歩き出すうちにその不安は消えていきました。
いくら暗い森の中とは言え、今日はお天気の日でした。
そして、昨日は丸に近いお月様が上っていたのです──そう、今夜はお月様の光が、煌々と森を照らし出し、木々の合間から零れる月光が、ヘンゼルが落としてきた白い小石を浮き出していたのです。
それは、夜の目にもはっきりとヘンゼルの目に映りました。
二人はこうして、継母と父によってグルグルと連れまわされた道を、同じように辿っていくことが出来ました。
手を繋いで、一心に白い石を追ううちに、自然と二人は早足になり──やがて、開けた視界に映る見慣れた景色に、二人はホッと胸を撫で下ろすのでした。
「ただいま、お父さん、おかあさん!」
「こうして、ヘンゼルとグレーテルは、勇猛果敢な戦いを勝利して、見事自宅に戻ることができたのだった。」
「って、クン・トーさん!? そんな最後のナレーションみたいなの入れないでくれよ!
いいかい、ここではとりあえずの第一関門をクリアしただけで、なんとかヘンゼルとグレーテルは自宅に戻りました、になるんだから……。」
「自宅に戻ったヘンゼルとグレーテルを見て、スタリオンお父さんは部屋中を駆け巡って大喜び。
反対にロック継母さんは、ハンカチを噛んで悔しがりました。」
「…………って、聞いてないし。そして、しっかりカウンター席を陣取ってるし…………。
このままじゃ、もしかしておれ、解放軍の道具屋の座も、ピーンチ!?」
「…………にやり。」
「──なんであの子たちは、無事に帰って来れたんだろう?」
うーん、と小さく唸る継母に、明るく父親は笑いかけます。
なぜ彼らが戻ってきたのか、どうやって戻ってきたのか──、一瞬「電波系!?」という言葉が頭を掠めましたが、父親としてはわが子が戻ってきたという事実を前に考えれば、少々の不思議は構いはしませんでした。
「まぁいいじゃないか! これでまた一家四人で暮らせるってもんだし。」
しかし、それで納得してしまっていては、継母も継母業をしていられません。
「何言ってるんだい、スタリオン? 辛い事実が増えただけじゃないか。
おれたちはまた、あの子たちを森へ置いてこなくちゃいけないんだよ?」
「え、えええええーっ!? またやるのかい、ロック!?」
嫌そうに顔を歪めるスタリオンに、当たり前だとロックは重々しく頷きます。
そして、ワザワザ立ち上がると、部屋の隅っこに置かれている食料棚に手をかけました。
「ほら、見ても分かると思うけど、親子4人で暮らせば3日。二人なら1週間は生き延びられる量しかないんだ。
──あの子たちは、この家にいるよりは、森の中で暮らしたほうが、百倍も幸せになれるんだよ?」
切々と口説き始める継母のセリフに、基本的に楽観的な父親は、またもや子供達のためにと、その首を縦に振ってしまうのでした。
「って、また何頷いてるの、スタリオンっ!?」
ビシッ、と、思わず裏手で突っ込んだキルキス──もといヘンゼルは、そのまま両腕を組みました。
そして、子供部屋の扉に体を押し付けるようにして、もたれかかると、今聞いたばかりの内容に顔を歪めました。
妹のグレーテルは、今日の森探検でだいぶ疲れているのでしょう、ぐっすりと眠ってしまっていました。
その心地よい寝息を耳にしながら、ヘンゼルも疲れた体が重く──今ここで眠ってしまいそうなのを、必死に堪えます。
明日も自分たちが置いていかれるというなら、今日の夜、お父さんと継母が寝てしまった後に、また白い石を取りに行かなくてはいけないからです。
ヘンゼルは、必死になって眠いのを我慢しました。
どれくらいそうやって息を潜めて、眠さを耐えたことでしょうか?
明日また森へ入って子供達を置いてくるという約束をした父親と継母は、蝋燭の火を吹き消しまして、自分たちの寝室へと引き上げていきました。
ヘンゼルはその音を聞いて、さらに心の中で100数えてから、部屋の扉を静かに開きます。
今日は何をしに行くか決めていたので、かばんを肩にかけることを忘れません。
そうして、継母やお父さんに気付かれないように、今日も昨日と同じように家の外へと出ました。
──けれど、今日は……。
「…………雨…………っ。」
外には、雨が降っていたのです。
ざぁざぁと降り注ぐ雨が、地面をピシャピシャと打っていました。
ヘンゼルはそれを凝視して、霞むように滲む景色に目を凝らしました。
そう言えば、夜に自宅に着いた時に、お月様が黒い雲に包まれていくのを見たような気がします。
きっとその後すぐに、雨が降り始めてしまったのでしょう。
それでもヘンゼルは、雨の中飛び出しました。
びしょびしょになっても、風を引いてしまっても、今日石を取ってこなければ、明日の夜には自分たちは生きていないかもしれないのです。
可愛い妹グレーテルを、そんな目に合わせるわけにはいきませんでした。
突き刺すような雨の冷たさが、ヒリヒリと皮膚を叩きました。
はぁ、はぁ、と唇から零れる息が白く染まるのを見ながら、ヘンゼルは何とか川原へと辿り着きました。
がさがさと茂みを掻き分けて、昨日と同じ川原へ足を踏み出そうとして──ヘンゼルはその目を大きく見張りました。
ざぁぁぁぁぁーっ。
目の前を流れているのは、昨日よりもずっと膨れ上がった川でした。
そうです。白い石が落ちている川原は、増水しすぎた川によって、消えてしまっていたのです!
「──そんな……っ!」
絶望の声を零して、ヘンゼルは途方にくれました。
そのまま立ち尽くしていても、昨日のように川上から「お魚さん」はやってきてくれません。
キリリと唇を噛み締めたヘンゼルは、何か他に無いものかと、必死に頭を捻らせました。
「木の枝に、目印になるような物をつけるとか、木の枝を折っておくとか、……でも、どれもこれも夜になったら分からない──なら、昼間にそれを辿って戻れば……。
ああ、でもそんなことをしたら、おかあさんに『ちゃんと仕事をしてこなかったんだ』て言って、締め出しをくらっちゃう……。」
どうしよう──どうすればいいんだろう。
ヘンゼルは必死に考えましたが、いい案は何も浮かびませんでした。
かと言って、打ち付ける雨にドンドン水の流れを早くさせていく川に、飛び込んでいくわけにも行きません。
ヘンゼルは、とうとう踵を返して、うちへと歩き始めました。
家に帰る道すがらも、ヘンゼルは何か無いかと探します。
けれど、その目に何も止まることはありませんでした。
ガックリと肩を落として、ヘンゼルは家の前にたどり着きました。
その頃になると、雨足も弱まり、弱弱しくではありましたが、雲の向こうからお月様の光が届くほどになっていました。
「────……そうだ。
このまま雨が止まなければ、明日おかあさんは僕たちを森へ連れて行くことは出来ないだろう。
もし雨が止んでしまったら、川が少しでも勢いをなくしているはずだ……そうしたら、朝早くから家を出て、石を探しに行こう。」
ヘンゼルは、そう決めると、今日はもう寝てしまおうと考えました。
そうして、明日の朝、お日様が昇るよりも早く起きて、川原へ走っていけばいいのです。
夜とは違って、昼間ならば、浅瀬の辺りの川原の石くらいは拾えるでしょう。
ヘンゼルは、自分の考えに納得して、びしょびしょの体を出入り口でギュゥと絞ると、そのまま部屋の中へと入っていきました。
「ところが、このヘンゼルの独り言にしては大きい独り言は、ちょうど起きていた継母に聞かれてしまっていた!!
あやうし、ヘンゼル! このままヘンゼルは、継母のたくましい腕によって絞め殺されてしまうのかっ!?」
「絞め殺されないってば、だから。……クン・トーのだんな、もう少し、童話くらい読んでくださいよ。うちの道具屋でも取り扱うようにしますから。
どうですか? お孫さんのお土産に!」
「孫には、カナカンとの密輸ルートならぬ正規ルートを手土産にすると決めてるから、いらんいらん。」
「正規っていうところが、内密っすね…………。」
「ふっふっふ。」
翌朝のことです。
こっそりとヘンゼルは真っ赤になった目を擦りながら起きだしました。
昨夜ぐっしょり濡れた髪は、まだしっとりと濡れていて、完全に渇いてはいませんでした。
ヘンゼルはその髪を手で撫で付けながら、ベッド際に置いてあったかばんを手にとりました。
そして、お父さんと継母に気付かれないように、コッソリと部屋を抜け出します。
まだ日も昇っていない時刻であるためか、家の中はシンと静まり返っていて、お父さんも継母も起きてきてはいません。
今のうちだと、ヘンゼルは駆け足で扉の前まで走り、いざ──と、扉を開けようとしました。
ところが。
ガチャガチャッ
「……っ鍵が……っ。」
慌ててヘンゼルが見やった先で、頑丈に鍵が掛けられていました。
多少の鍵なら外せるのですが、継母は何を思ったのか、しっかりと針金やロープでグルグル巻きに固定までしてありました。
これでは、ヘンゼルには外せません。
「────……。」
ヘンゼルは唇を噛み締めて、扉に必死になって耳を当てました。
それなら、雨が降っているかどうか確認しようと思ったのです。
けれど、頑丈なつくりのこの家は、表からの物音はあまり聞こえませんでした。
「──雨であることを祈ろう。」
ヘンゼルは、肩を落として、とぼとぼと自室へと戻りました。
そうして、グレーテルが眠っている布団の中に一緒になって入って、ぐっすりと寝ている妹の顔を見つめながら、ギュ、と両手を握り締めます。
自分が何とかしないと、グレーテルも自分も、明日の朝にはぐちゃぐちゃの死体になっていることは、たやすく想像できました。
ヘンゼルは、眠れないまま、ただジッと夜が明けるのを待ちました。
夜が明けても、雨が続いていることを祈りました。
そうすれば、一日だけでも時間が出来て、何とか考える時間が出来るはずだと、そう思ったのです。
ところが──ヘンゼルがまんじりとした時間を過ごした末にやってきた朝は、昨夜の雨が嘘のように晴れた……本当に久し振りの快晴となってしまったのでした。
家から随分と歩いた森の奥──太陽が真上に来るほど遠くまで歩き続けた頃、ようやく継母と父親は足を止めました。
「うーん、この辺りまで来るのは随分と久し振りだね。きっと、美味しい雑草やまだ残っている腐りかけの木の実とかがあるに違いない。」
切り株すらもない森の奥、少しだけ開いた場所に立って、父親は辺りを見回します。
人間も入ってこないような奥深くのココまで来たのは、ヘンゼルとグレーテルももちろん初めてのことでした。
ただ、普段から走るのが命の父親だけは、足の訓練と称してよくやってきたような口ぶりでしたが。
「今日もお父さんとおかあさんは、奥まで行ってくるから、お前たちはこの辺りで枝を拾っておいておくれ。」
継母は、たくましい二の腕まで袖を捲り上げながら、キラン、と歯を輝かせて笑います。
普通に見たら、「なんて頼もしい継母なのだろう」と思う光景でしたが、昨夜の一部始終を目撃していたヘンゼルは、その笑顔が「たくらみが成功しそうで嬉しくてしょうがない邪悪な笑み」に見えてしょうがありませんでした。
こっくりと、言葉も出さずヘンゼルが頷くと、
「今日も元気だ、空気がうまい! さぁ、みんなで走ろうか!」
やたらに元気に父親が、シュターンッ、と、雨上がりの森の中を、早速駆け抜けていってしまいました。
「ああっ! 待ってくれよ、スタリオン! おれが迷っちゃうじゃないか!」
慌てて継母もその後を追います。
その、楽しそうな二人の背中が遠ざかっていくのを見ながら、ヘンゼルはポツリ、と呟かずにはいられませんでした。
「スタリオンおとーさん、一応、子供を置き去りにしてくんだから、もぅ少し悲しそうにとかして欲しいところだよ……ほんと。」
そして彼は続けてこう呟くのです。
ぼくは絶対に、そういう父親にならないようにしよう、と。
固く拳を握って誓った先、彼のもう片手の平を、キュ、と握る手がありました。
はっ、と見下ろすと、グレーテルが綺麗な銀色の髪に、かすかに漏れ出る木漏れ日を輝かせて、大きな目を微笑みの形に緩めて見上げています。
「キルキス。二人っきりだね♪」
「──そうだね、シルビナ。」
森のどの辺りにあるか分からない場所に、ポツンと取り残された兄と妹は、握り締めたお互いの手に力を込めました。
昨夜の雨で、辺りはやはり湿っぽく、とてもではありませんが枯れ木など見つかりそうにありませんでした。
「ねぇ、何をして遊ぼうか? シルビナ、キルキスと一緒なら、何でもいいよ。」
楽しそうに口元を緩ませるグレーテルに、ああ、かわいいなぁ、と、唇が綻んだヘンゼルでしたが──その瞬間、
ぐぐぅ。
おなかが小さく鳴って、仄かに頬を染めます。
「──……朝ごはん食べてないから…………シル……じゃなかった、グレーテル、先にお昼ご飯にしようか。」
言いながら、ヘンゼルは肩から背負ったかばんに手を伸ばします。
昨日はたくさん小石が入っていたかばんの中でしたが、今日はもう何も入っていません。
代わりに、先ほど継母から貰った小さなパンが二人分、入っているだけでした。
そのパンも、昨日のものより、一回り小さくて、どう考えても育ち盛りの二人の子供の胃袋は満たされそうにありません。
「うん、そうだね。朝ごはん、たったあれだけじゃ、おなか一杯にならないよね。」
グレーテルは、ヘンゼルの言葉に頷いて、適当な木の根元に腰掛けました。
上空を覆うような巨大な木々の群れは、地面をしっとりと濡らしてはいましたが、それほどびしょびしょに濡れているわけではありません。
座った瞬間に、少し冷たいと感じますが、木の根元に腰掛けるようにして座れば、すぐに気にならなくなる程度です。
ヘンゼルとグレーテルは、大きな木の根元に向かい合うように腰掛けると、掌の大きさくらいしかない固いパンを、二人で分け合いました。
正直な話、朝ごはんにも同じような量のパンしか食べていなかったので、おなかはすでにグゥグゥです。
その上、ヘンゼルは朝ごはんのパンを、食べてはいませんでした。
実は、朝ごはんを食べるフリをして、かばんの中にコッソリとそのパンを忍ばせ、ここへ来るまでの道のり──昨日の小石代わりに、コッソリとパン屑を落としてきたのです。
だから、ここに来るまでの間も、おなかがすいて空いてしょうがありませんでした。
ヘンゼルは、固いパンを口に含んだ瞬間、キュゥ、と口腔内がしぼむような感覚を覚えました。
それほど口は、食べ物を欲していたのです。
「ゆっくり噛み砕いて食べようね、グレーテル。そうすれば、少しでもおなか一杯になるよ。」
言いながら、ヘンゼルはグレーテルが持っていた水筒の水を、たくさんカップに注いでグレーテルに差し出しました。
パンを食べて、たくさん水を飲んで、空腹を訴えるおなかを宥めるのです。
そうやって簡単な昼食を済ませたヘンゼルは、出来ることならこのまま家に帰ってしまいたい誘惑に駆られたのですが、そんなことをしてしまえば、継母に「仕事をしていなかった」と詰られるのは分かっていることです。
今日も日が暮れるまではココに居なくてはいけないと──それなら、その間だけでも仕事をしようと、グレーテルと一緒に、食べれそうな野草や木の実、なんとか使えそうな枝を探して、辺りを散策することにしました。
そうやって、森の中で迷わないようにすること数時間。
森の中にお日様が茜色を宿し始め、辺りに冷たい風が吹き始める時間になりました。
そうなってようやく、ヘンゼルはソロソロ帰ろうと、グレーテルに声をかけます。
今日も継母とお父さんが迎えに来るはずはないことを知っていたから、不安そうなグレーテルの手を握り締めて、ヘンゼルは歩き出しました。
道が見えなくなるよりも先に、パンくずを目印に家に帰らなくてはなりません。
今日は随分歩きましたから、きっと、途中でパンくずが夜目に見えなくなってしまう可能性もあります。
早めに歩かないと、と思い、昨日よりも早めに出発することにしました。
ところが、昨日はすぐに発見できた白い石でしたが、今日はまだ明るくて道も見えているというのに、目印に落としてきたパンくずが、どこにも見当たりませんでした。
「……──あれ? おかしいな? ────…………っていうか、まぁ、普通に考えれば分かるんだけどね。」
首を傾げつつも、どこか冷静に呟くヘンゼルに、
「何探しているの、キルキス?」
無邪気に繋いだ手を振りながら、グレーテルが問い掛けます。
そんな妹に、
「うん、朝、家に帰る目印にって、パン屑を落としたんだけど、それが見当たらないんだよ。」
ヘンゼルは、「どうして見当たらないのか分かってるんだけどね」という笑顔を曖昧に見せながら、グレーテルに困ったように話し掛けます。
そして、その兄を見上げて、グレーテルはニコニコと笑って答えてくれました。
「それなら、キルキスが撒いた先から、小鳥さんが啄ばんでいるのを、シルビナ、見たよ?」
まるで、褒めて褒めて、と言わんばかりの笑顔でそう言ってくれるグレーテルに、ヘンゼルはなんと言っていいものか、途方に暮れました。
──いや、本当はヘンゼルにも分かっていたのです。
他に撒くものがなかったからって、パン屑なんて撒いたら、動物が食べていくに違いない、なんてことは。
「…………それじゃ…………一緒に、帰る道を探そうか、グレーテル。」
ヘンゼルは、少し疲れた微笑を貼り付けて、そうグレーテルに言いました。
夜の森が、某解放軍の軍主様の部屋くらいに怖い場所だということを、ヘンゼルはよく知っていました──いや、もしかしたら、後者の方が怖いかもしれません、と心の中で思ってしまったことは、秘密です──。
「帰るの? それじゃ、アッチだね、キルキス!」
ビシィッ、と、自信満々にグレーテルがとある方向を指差します。
その方向こそ、ヘンゼルも記憶にある、パン屑を撒いた道のある方角でした。
けれど、ヘンゼルはあえてその道から目を逸らすと、
「グレーテル、コッチに行こう。」
そう言って、繋いだ手をグイと引っ張ります。
今まさに、自分が指差した方角に進もうとしていたグレーテルは、グイッ、と反対側に引かれて、グラリと体を傾がせました。
「ええっ!? どうして、キルキス? 帰るんじゃないの?」
「帰るんだけど、『こっちの方角に家がある』って思うほうとは違うほうに歩くのが、今日の森の歩き方なんだよ、シルビナ?」
驚いたように見上げてくる妹に、兄は曖昧に笑います。
エルフ族たるもの、自らがかけた迷いの森の呪文にやられることは決してなく、また同時に、森の中で下手に迷うことはありません。
森の外での方向感覚はとにかくとして、森の中にあっては、方向を間違えることなど決してありえないのです。
けれど、今回の目的は、「無事に家に帰る」ことは帰るのですが、その前にやらなくてはならないことが──そう、台本という運命の元に、定められてしまっているのです。
「???? ──うーん、よく分からないけど、でも、そうすれば、少しでも長く二人っきりになれるね。」
幼い表情で、軽く首を傾げた後、ニッコリと笑って見上げたグレーテルに──心の中で、ごめんね、と小さく呟いてから、
「そうだね──……。」
お兄さんは、そう甘く答えてやるのでありました。
「いいなぁ……若いって。
初々しい恋人同士じゃないか、キルキスさんもシルビナさんも。」
「おれの若い頃も、そりゃもう凄かったけどな。」
「えーっと、話題転換話題転換。
二人の兄妹は、家に帰る道を探して、ドンドンと森の奥深くへと入っていきました。
やがて、日はどっぷりと暮れ、夜がきてしまいました。」
「あっ、チャンドラー! おれのセリフを取ったな!」
「って、もともとナレーションはおれの役目なんだから…………。」
遠くで狼の遠吠えが聞こえました。
星と月明かりが届かない森の中は、冷たい風が吹き、真っ暗でした。
闇夜になれた目でも、少し先の茂みの形がコンモリと盛り上がっているということしか分かりません。
ホゥホゥと鳴くふくろうの声も、何かが動く茂みの音も、頭上で風に吹きあらされて鳴る葉ずれの音も──何もかも、森の中で生活しているヘンゼルとグレーテルは聞きなれているはずなのに、ここが家の中ではないというだけで、心の奥底から恐怖が競りあがってきました。
足がガクガクと鳴り始め──歩き続けた疲れと、恐怖からでしょう──、おなかもペコペコです。
夜の闇の中、お互いの手の平のぬくもりだけが、唯一の感覚でした。
「……キルキス。まだ帰らないの?」
きゅ、と握り返してくるグレーテルの声に、不安が宿っているのを感じて、ヘンゼルはその手を更に強く握り返します。
見上げてくる綺麗な瞳も、闇色に溶けておぼろげにしか分かりません。
「大丈夫。きっとすぐに帰れるよ。」
そう励ますヘンゼルも、不安を掻き消すことは出来ませんでした。
歩いても歩いても目の前に広がるのは同じ光景ばかりで、少しでも声を出せば、そこらじゅうの茂みから獣が襲い掛かってきそうな気がしました。
でも、ずっと黙っていれば、このまま夜の闇に住む悪魔が、自分たちを飲み込んでしまうような──そんな恐怖もありました。
「でも、今日はもう真っ暗で、道が良くわからないから、どこか休める場所があれば、そこで休もう。」
「うん。」
小さくグレーテルが頷く気配を感じて、ヘンゼルは小さな安堵の笑みを零します。
自分が口にしたセリフに、自分自身も勇気づけられました。
そうだ、夜の森は危険で、そしてよく見えないから、動き回ってはいけない。
どこか安全に休めるような場所を早く見つけて、寒さに凍えないように二人で寄り添って──それから、上手く火が焚ければ火を焚いて、朝まで過ごそう。
ヘンゼルは、グレーテルを勇気付けるように、適度な安全と暖かさを提供してくれるような場所──例えば木の洞とか、ウサギの巣穴のような場所とか──を探しながら、彼女に話し掛けます。
「火を灯せば、怖い獣も寄っては来ないし、ぼくが一晩中起きているから、グレーテルは安心して寝ていればいいよ。怖いなら、一晩中歌を歌ってあげる。」
「そうだね。──それじゃ、シルビナ、火を灯してあげるね、キルキス。」
「グレーテルが?」
「うん、だって、今日の紋章は…………むがっ。」
とっさにヘンゼルは、自分でも褒めてやってもいいと思うくらいのスピードで、グレーテルの口を覆いました。
ここでウッカリ、「火の矢」なんてものを放たれては、せっかくの努力が水の泡です。
「しぃ……グレーテル。…………何か聞こえるよ?」
そうして、ヘンゼルは、口を塞いだグレーテルに顔を近づけて、そ、と声を潜めて囁きました。
これを見ていたナレーションは、「なかなか上手い話そらせだな。」と感心していましたが、もちろん別の場所に居るナレーションのセリフなど、ヘンゼルに聞こえているはずもありません。
「…………ふがふが?」
ヘンゼルに口を塞がれたまま、グレーテルが尋ねようとしました。
「もう少し近づいてみよう……静かにね。」
ヘンゼルは、そんな彼女にもう一度囁くと、シィ、と立てた人差し指を自分の唇に当てて、小さく唇をすぼめて見せました。
グレーテルは、開放された自分のふっくらとした唇に、同じように人差し指を当てて、シィ、と頷きました。
そうして、二人は足音を掻き消すようにして……ヘンゼルが導く先へと、歩いていくのでした。
煌々と照らす満月が、ちょうど中天に差し掛かっています。
甘い香りが充満する室内で、白い衣装に身を包んだ男が一人、真剣な顔で厨房に立っています。
細長いコック帽が良く似合う、少し線が細く、やつれたような感のある男です。
厨房には、モウモウと湯気が溢れ、他の部屋よりも熱気に満ちていました。
その中、大きな大きな──人が二人ほど入れそうな大きな鍋を、男は厳しい顔つきでかき混ぜています。
大粒の汗が彼の額から滴り、険しい顔つきの頬を流れ伝っていきます。
湯気が立ち込める厨房は、彼のほかに人は居ません。
傍らには大きな砂糖ツボと塩ツボが置かれ、さらに棚の上にはたくさんの香辛料がおかれていました。
どうやら、彼はとても料理の上手な料理人のようです。
見る見るうちに厨房には、かぐわしい香りが満ちていきました。
「美味しいシチューの秘訣は、ここから……ですからね。」
男は、慎重に大鍋をかき回します。
その目には、真摯なまでの光が宿り、男が自分のシチューつくりに情熱を持っていることが分かりました。
けれど、かき回す手に伝わってくるのは、寂しいばかりの空虚感です。
グゥルグゥルと、丁寧に丁寧にシチューをかき回しても、手に伝わってくるのは、水をかき回すような感触ばかり──。
そうです、最近の食事情のため、彼がかき回しているシチューには、まともな具が一つも入っていなかったのです!
「しかし、そういう食べるものがないときにこそ、腕を発揮するのがシチュー職人としての腕の見せ所ですからね!」
男は、その事実にめげるどころか、逆にやる気を取り戻して、真剣にシチューをかき回しています。
色の薄いシチューではありましたが、それを美味しくさせるのが料理人の腕の見せ所。
香辛料の絶妙な組み合わせと、彼の努力によって、大鍋一杯のシチューは、それはそれは美味しそうな匂いを漂わせていました。
その香りが、厨房から別の部屋へと零れていきます。
家中を覆う甘い香りとあいまって、なんとも表現しがたい香りが、辺りに立ち込めました。
「……それでも、具が無いというのは、どうにもこうにも……味気ないものだ。
でも、わざわざ遠くの町まで材料を買いに行ったら、どうせまた材料を腐らせてしまうくらい買い込んできたり、二人で食べれないくらいにお互いに作り過ぎたりするのが関の山……。さすがにそれは、もったいないからなぁ……。」
程よくかき混ぜ終わったシチューの味見をするために、男は小皿にシチューを落とします。
トロリとしたかぐわしい香りが、つん、と鼻を突き抜けました。
そのまま、男が味見するために唇を皿に近づけたときでした。
「レスター! 大変だ!」
バンッ、と大きな音がして、甘い香りとともに厨房のドアが開きます。
レスターと呼ばれた男は、その焦ったような声に軽く目を見張りながら、振り返りました。
ビスケットで出来た扉が、あまりに乱暴な力で開けられたせいでしょう、少しだけ端っこが欠けてしまっています。
「……アントニオ。ここは普段暮らしている家ではなく、お菓子で出来た家だということを、覚えていますか?
そのように乱暴にしては、家が崩れてしまいます。」
ヤレヤレと、そう溜息を零すレスターの声に、アントニオと呼ばれた男はそれどころではないのだと、手振り身振りで伝えます。
アントニオは、レスターとは好対照な、少し太めの体をしたコックさんです。
その彼の太く──けれど、そこから繊細で美味しい料理を生み出す指で示したのは、厨房に一つだけある窓でした。
その窓は、クッキーで枠を作り、ビーンズで回りを縁取られている、それはそれは美味しそうな窓でした。
──そう、彼ら二人が暮らす、森の中にあるこの家は、すべてお菓子で出来ているのです。
「ようやく、具ナシのシチューも、まずい素材で作った料理も、食べなくてもすむぞ!」
アントニオは、その顔に満面の笑みをたたえていました。
レスターは、そんな彼の言葉を聞いて──ほぅ、と唇をゆがめて微笑みます。
そして、シチューの味見をしようとしていた小皿を、ことん、と横に置くと、
「──……そうですか、ようやく獲物が掛かったということですね。」
「ああ、ようやく──……血となり肉となるものが料理できるというわけだ。」
うっそりと微笑んだレスターに、同じように顔をゆがめるようにしてアントニオが笑いかける。
レスターは、自分が作りかけていたシチューにチラリと視線を落とすと、
「今日のシチューの具は、決まりましたね……。
アントニオ、それで、その獲物というのは、男ですか、女ですか?」
シチューの大鍋をかき混ぜるために上っていた台の上から、ヒラリと舞い降りました。
床に足をつけて、アントニオと並ぶようにして窓へと歩いていきます。
「子供だ。男と女と、一人ずつ。」
二人は、コッソリと窓から外の様子を伺いました。
月明かりの下──煌々と照らし出された中、恐る恐る近づいてきている子供が二人、二人の目にクッキリと映ります。
少し前を歩いて手を引いているのが、男の子。
その後から付いてきているのが女の子です。
息を潜めるようにして耳を済ませれば、彼らがこの家の甘い匂いに、ここに引き寄せられてきたのだということが分かる会話が聞こえてきました。
「──それはそれは。子供は肉が柔らかいから、食べがいがある。
それでも男は筋が多いから、出来れば太らせてから食べた方がいいですね。」
レスターは、顎を撫でながら、自分たちの力作である家の壁を撫でている少年を見つめて呟きました。
その声に、どこか淫靡な響きが宿っているのは、数年前に食べた子供の肉の味を思い出しているのかもしれません。
「女は、逆に脂肪が多いから、脂を抜かなくちゃいけないから、少し働かせた方がいいだろう。──いやいや、女なら、少し大人になってからの方が、食べがいもあるしな。」
アントニオも、レスターの言葉に笑みを零しながら、壁を飾る砂糖菓子を一つ、つまみ食いした少女を見つめます。
そして二人は、ひっそりと視線を合わせ──ニッタリと笑いあいました。
「うわっ、怖っ! ……これ、適役すぎないか? ──なんか、俺、レスターさんとアントニオさんの作った料理、食べれなくなりそう──────。」
「家の中で、自分たちを伺っている魔女にはまったく気付かず、ヘンゼルとグレーテルは、森の中に現れたお菓子で出来た家に夢中になっていました。」
「って、何突然真面目にナレーションしてるんすか、クン・トーさん? もしもーし?」
「あやうし、ヘンゼルとグレーテル! 彼らはこのまま魔女に捕まって、食べられてしまうのかっ!?」
「…………………………実は、結構こういう話、好きだったりします?」
長い間森の中を彷徨っていたヘンゼルとグレーテルは、もうおなかもぺこぺこで、一歩も歩くことも出来なくなっていました。
気のせいか、犬の遠吠えも近くに聞こえてきているような気がして、ヘンゼルもグレーテルも、知らず知らずのうちに繋ぎあう手に力を込めていました。
真っ暗になった森の道は危険で、目を凝らしても、まともにあたりの様子は伺えません。
出来ることなら、安全な場所を探して、そこで一晩休みたいところでしたが、その安全な場所を見通せるだけの光が足りませんでした。
ヘンゼルは、グレーテルの手を握りながら、いっそ適当な木の上に上るしかないのかと、そう思ったときでした。
「……なんだか、いいにおいがするよ、キルキス。」
クイ、と、グレーテルがヘンゼルの手を引っ張ります。
ヘンゼルも、妹につられるように顔を向けました。
慎重に伺うように目を細めて立ち止まっていますと、耳に届く野犬の遠吠えや、ふくろうの鳴く声が耳に入りました。
それとはまた別に、サヤサヤと揺れる葉ずれの音もします。
そんなものを耳にしながら、ヘンゼルもクンクンと鼻を動かせました。
「────ほんと。なんだろう? 何か……甘いような、かぐわしいような……………………。」
クンクン、と、二人は鼻を動かせながら、グゥゥゥ、と盛大に鳴るおなかをさすりさすり、その方角へと足を踏み出します。
もしもこの先にあるのが、甘い甘い果実なら、言うことはありませんし、万が一民家があるなら、二人の命は助かります。
それに、本当に万が一の可能性ですが、もしかしたら自分たちが向かっている先こそが、自宅なのかもしれないのです。
二人は、自分の鼻を頼りに歩きました。
少しだけ明るいような気のする前方の茂みを掻き分け、足を踏み出します。
その足にはもう、草や木は当たりませんでした。
「────うっわぁぁぁぁっ!!!」
ぴょこん、と、茂みの中から飛び出たグレーテルは、思わず悲鳴に近い叫びをあげます。
それほどの──目を疑うような光景が、目の前に広がっていたのです。
森の中を丸く切り抜いたかのような、ちょっとの広場がそこに広がっていました。
自分たちの家のように、自然と切り開かれてできた広場というよりは、開拓したかのような形をしています。
その広場の中央に、家が一軒建っていました。
周囲には、薪を仕舞うための小屋もありましたし、表で何かを作るためのものらしい大鍋も置いてあります。
何よりも、家の屋根から突き出た煙突からは、細い煙が立っていたのです。
「家だ…………人が住んでる………………。」
唖然と──まさかこの森のこれほど奥深くに、人がすんでいるなんて可能性を思いもしなかったヘンゼルが、口を大きく開けました。
「よ……よかったぁぁぁ…………。」
グレーテルが、フラフラと家に向かって足を進めます。
それに引っ張られるように、呆然と立っていたヘンゼルも、フラフラと家へと近づきました。
一歩足を進めるごとに、甘い香りが鼻先を掠めました。
それは、濃厚な甘い甘い香りで──貧乏なきこりの家で暮らしていたヘンゼルもグレーテルも、嗅いだことのないような魅力的なものでした。
グレーテルは、迷うことなくその匂いのする場所──……美味しそうな香りを放つ壁へと、掌を突きました。
ヘンゼルと手を繋いでいないほうの手で、しっかりと壁を撫で上げます。
ザラリと掌を撫でるのは、ざら目の感触。
鼻の中に纏わりつくような甘い香りは、その壁だけではなく、窓枠からも、家を飾るそれらからも──屋根からも、香ってきていました。
「──……なんだか食べれそう?」
あまりの甘い誘惑に負けて、グレーテルは、そ、と爪先で壁を引っ掻きました。
すると、ぽろりとビスケットの塊が零れ落ちます。
「グレーテル!」
一言注意を促したヘンゼルでしたが、妹は手に落ちたその塊を鼻先に近づけると、クンクンと匂いを嗅いで──おそるおそる舌先でぺろりと舐めました。
小麦粉とアーモンドプードルの香りと、その上に乗せられたざら目が香ばしく……、グレーテルは堪えきれずに、ぱっくりとビスケットに思い切りよく食いつきました。
「グレーテル! 汚いよ!?」
慌ててヘンゼルがそれを奪い取ろうとしますが、それよりも早く、グレーテルはゴックンと喉を上下させました。
それから、大きく目を見開いて、彼女は片手を口元に手を当てました。
そのまま、ファサリと髪を振り乱すようにして、グレーテルは兄を見上げます。
「美味しいっ! すっごく美味しいよ! キルキス!!」
「え、ええっ!? でもこれ、壁……だよ?」
「大丈夫! だって、黴生えてないもん。それに、しけってないよ? サクサク言ってるもん。」
ジリ、と後ず去るヘンゼルに、ニッコリと笑いながら、グレーテルは新しく壁に爪を立てます。
ポロリと零れ落ちてくるビスケットに、彼女は口元を綻ばせてそれをためらうこともなく口元に運びました。
サクサクと、心地よい音を立てて口の中でホロリと崩れるビスケットに、すっかりご満悦なグレーテルに、ヘンゼルは迷うように眉を顰めて家を見上げます。
ちょっとした小屋ほどの大きさの家は、ところどころから甘い香りが漂っています。
グレーテルがパクパクと食いついている間に、ヘンゼルは森の中にあるにしては怪しい──正しく言うと、どこにどうあっても怪しすぎてしょうがない、そこら中から甘いお菓子の香りがする家を見学します。
壁はビスケットに砂糖をまぶした物で出来ていて、屋根は黒と白のチョコレート。
窓の桟には甘い飴の棒が絡んでいて、ふわふわの綿菓子が飾りのようにつけられています。
ところどころに飾り立てられているビーズのような煌きは、ゼリービーンズでしょう。
さらにビスケットの間には、ふかふかのケーキ生地が敷かれ、窓の近くの辺りは生クリームで綺麗に飾られていました。
まるで芸術のような美味しそうなお菓子の家は、どこもかしこも美味しそうな甘い香りに溢れていました。
「これは一体…………。」
呟いてみるものの、おなかがすいてしょうがないグレーテルが、パクパクと食べているのを見ていたら、ヘンゼルもどうにも我慢できなくなってきました。
ごくん、と喉を上下させると、恐る恐るビスケットの上に飾りのようについていたゼリービーンズを手に取ります。
そして、思い切ってつやつやと輝くそれを、パックンと食べました。
心地よい弾力を返すそれは、口の中でクニュリと噛み砕かれ、口の中に甘味が溶けていきそうな感覚を響かせました。
「──美味しい……っ。」
思わず掌を口に当てて、そう零します。
すると、そんな声を聞いて、グレーテルは口の周りに生クリームをつけながら、ニッコリと笑ってヘンゼルを見上げました。
「ね、美味しいでしょ、キルキス?」
自分の手柄であるかのように、グレーテルは自信満々にそう言い切ります。
ヘンゼルはそれを受けて、ニコリと微笑むと、手を伸ばして窓枠に乗せられている綿菓子にかけました。
フワフワのそれを摘み上げて、グレーテルの口元へとそれを運んでやります。
グレーテルは、甘えるように口を開いて、その不思議な感触の優しい味を、口の中に入れました。
「あ……まぁーい……。」
幸せそうに唇を綻ばせる妹の頬についた生クリームを拭い取ってやりながら、ヘンゼルもお菓子の家のお菓子を摘み取ります。
口に運ぶと、甘く幸せな味が口の中いっぱいに広がりました。
なぜココにこんなお菓子の家があるのか──疑問がヘンゼルの頭の中をグルグル回っていましたが、ヘンゼルも兄とは言え、今はおなかをすかせた子供でした。
今はその不思議を頭の片隅に押し込めて、一度口の中に入れてしまったお菓子の味を……止められない、止まらない味を、ドンドンと口へと運んでいきます。
窓に嵌っている薄い氷砂糖を食べて、窓枠に彩りを加えるような飾り──緑色の葉を手にしました。
この葉はどんな味がするのだろう……そんな期待を込めて、葉を握ったヘンゼルの手はしかし、思いもよらない感触に、慌てて掌を引っ込めました。
「柔らかい……って、これ、柏餅!? なんで柏餅がここに……っ。」
緑色の葉は、中にある白く柔らかい餅を包み込んでいました。
ツヤツヤとした餅は、中に含んだあんこの色を透き通らせて、とても綺麗に美味しそうに見えます。
「あっ、ちまきもあるよ、キルキスぅー。」
驚いて、窓枠に飾り付けられている形の柏餅を凝視するヘンゼルに、明るい声でグレーテルが手にしたちまきを振りました。
そのちまきは、同じように緑色の葉に巻かれて、さりげにビスケットの壁の間に挟まれておりました。
「…………えっ………………………………いや、それは確かに、お餅はくっつくけど、だからって……。」
だからって……家を作るお菓子には、向かないだろうに…………?
そんな疑問を、思わず呆然として呟いたヘンゼルの耳に、
「今月は五月ですからね。やはり五月にふさわしいお菓子を作ってみました。」
「家の中のインテリアにしようかどうするか、悩んだんですよ。」
突然──聞こえるハズのない……自分たち以外の第三者の声が届きました。
低い、男二人の声です。
「──……っ!?」
喉で小さく息を詰まらせ、ヘンゼルとグレーテルは慌てたように振り返ります。
同時に振り向いた兄妹の視線の先で、出入り口らしいクッキーで出来た扉から、声の主がニコニコ笑って顔を覗かせていました。
白い清潔そうな服を着た、背の高い神経質そうな男と、自信に溢れた中背の男の二人組みです。
どちらもコック帽を頭にかぶって、人の良さそうな微笑を浮かべていました。
「あ……こ、この家の方、ですか……っ!?」
慌ててヘンゼルは、手にしていた氷砂糖を背中に隠します。
グレーテルも、慌てたように手にしていたビスケットを隠しました。
そんなことをしても、剥がれた家の壁が元に戻るわけはないのですが……。
「ええ、ここでコックの修行をしています、アントニオと申します。」
「私は、シチュー専門店を作るための修行をしています、レスターと申します。」
二人は家の中から外に出ると、迷い込んできた幼い子供達に微笑みました。
優しい、優しい微笑みでした。
「す、すみません。ぼくは、この森の中できこりをして生計を立てています、スタリオンお父さんの子供で、ヘンゼル……こっちは、妹のグレーテルです。
ちょっと迷ってしまって……おなかが空いていたので………………。」
ヘンゼルは、なんとか言い訳をしようと思ったのですが、焦ったように口にした──しようとした言葉の重さに、不意に口をつぐんでしまいました。
まさか自分の口から──ましてやグレーテルは、いまだに自分たちが父と母に見捨てられたのだと知らないのです──、そんな過酷な事実を口にする勇気は、今のヘンゼルにはありませんでした。
たとえどれほどしっかりしていようとも、自分たちを守ってくれると信じていた親から、見捨てられるという事実を受け入れられるには時間がかかるものなのです。
不意に口をつぐんでしまったヘンゼルに、グレーテルが不安そうに目を上げます。
けれど、そんな妹に答える言葉もヘンゼルは持ちませんでした。
ギュ、と、ヘンゼルの服の裾を掴んでくるグレーテルの手を、ヘンゼルはただ握り締めてやります。
そうして、黙り込んだそんな二人の兄妹に、二人のコックはニッコリと微笑んで見せました。
「いいんですよ、別に。お菓子は、食べるためにあるんですから。」
レスターが、人の良い笑顔を向けて、そう笑って見せました。
「そうだよ。お兄さん、おじょうちゃん? おじさんたちは、美味しく食べてもらって、幸せになってもらうために、料理を作っているんだ。
──この森は、酷く迷いやすいから、迷っている間におなかが空いてしまったのだろう? なら、遠慮せずに食べてくれて良いんだよ。」
思いも寄らない優しい声に、ヘンゼルが驚いたように顔を上げました。
グレーテルもまた、そんな二人を驚いたように見つめます。
驚愕に顔を染める二人の兄妹に、レスターは背後の家の中を振り返り、そうそう、と両手を叩きました。
「ああ、なんでしたら、今ちょうどシチューを作っているところなんですよ。
ご一緒にどうですか? 体も温まりますよ。」
そのまま、ヒラリ、と手を差し出すレスターの手を、マジマジとヘンゼルとグレーテルが見つめます。
レスターの隣では、すました顔でアントニオが髭を指で摘みながら、
「それがいい。デザートのお菓子も、たくさん用意しよう。
久々に楽しい食卓になりそうだな、レスター?」
「まったく。」
笑う人の良いおじさんに、ヘンゼルとグレーテルは無言で視線を交わしました。
迷子になって、おなかがぺこぺこになった先で見つけた家の人は、とても人が良さそうで、優しそうなおじさんです。
もう心身ともにくたくたにくたびれていたヘンゼルにとっても、グレーテルにとっても、彼らの言葉はとてもありがたいものでした。
「──いいんですか?」
おずおずと、ヘンゼルが尋ねると、もちろん、とアントニオとレスターが頷きました。
「楽しい話をたくさん聞かせておくれ。」
「そう、今夜は泊まって行って、明日、一緒におうちを探してあげましょう。」
二人は、とても甘い言葉で心細い兄と妹に微笑みかけます。
ヘンゼルとグレーテルは、お互いの意思を確認するかのように視線を交わしあい、どちらともなくこっくりと頷きました。
「それじゃ……よろしくお願いします。」
行儀良くペコリと頭を下げるヘンゼルとグレーテルに、扉を開け放してアントニオが二人を中へと導きます。
「さ、中へどうぞ、ヘンゼルにグレーテル? レスターのシチューは、ほっぺが落ちてしまうほどに美味しいぞ。」
アントニオの朗らかな笑顔に、ぎこちなく笑みを浮かべて、ヘンゼルとグレーテルが頷きます。
その表情の中に、安堵した光が見えるのを確認しながら──レスターは、唇の中だけでこっそりと呟きました。
「──具は、まだないのですけどね……。」
「その夜出されたシチューは、思わず口の中に唾液がこみ上げてくるような上品で濃厚な味は、とてもではありませんが具ナシで作ったとは思えないものでした。
これほどの腕前を持つ男が、このような森の中で大きなお鍋をかき回しているのは、不思議でたまりません。
──っていうかさ、普通、どう考えても怪しいだろうが…………。」
「何を言う! 世の中にはな、腕がいいにも関わらず、宿の女将さんを取り合って、アッサリ別の男に奪われてしまい、その傷心から、その宿を出て以来、まともに職につけないコックさんというのも居るんだぞ。」
「へぇー…………………………………………………………。」
「ちなみに、おれが言ったことを信じると、痛い目を見るぞ。」
「って、嘘ですか!?」
「いや、ただ捏造しただけだ。」
具は何もなかったけれど、差し出された暖かいスープにスプーンをつけた途端、ヘンゼルは視界が歪むのを感じました。
隣で、無邪気にグレーテルがシチューを味見して、美味しい! と大きく叫びます。
その可愛らしく喜ぶ様子に、森の中のコックさん二人は、それはそれは嬉しそうに頬をほころばせてくれました。
ヘンゼルは、そんなグレーテルの声を耳にしながら、ズズ、とシチューを啜りました。
何とも表現できないほどのやさしい味と香りが、口の中一杯に広がります。
それは、遠い昔食べた、お母さんの味に似ていました。
「────…………。」
具などなくても、これほど美味しく作れる人が居る。
食べるものが無くても、優しくしてくれる人が居る。
そう思った瞬間、ヘンゼルはこれまで堪えていたものが、ぼろリと剥がれて行くのを感じました。
喉を通り過ぎる美味しいシチューが、ゴクンと喉で引っかかりを覚えました。
かと思うや否や、ぴしょん──と、シチューの上に水が零れ落ちました。
「キルキス!? どうしたの!? 辛いの? 痛いの? 目にゴミが入ったの!?」
慌ててグレーテルが、すでに半分以上空になった皿を横に、兄の顔を見上げます。
ヘンゼルは、そんなグレーテルに向かってかぶりを振って、スプーンを持っていない手で目元を擦ります。
指先を、冷たい雫が滴っていきます。
「ううん──なんでもない……。」
「でも……っ。」
「ただ……あったかくて……美味しいなぁ、って思ったら──嬉しかっただけなんだ。」
グレーテルを心配させるわけにはいかないと──はかない微笑を浮かべて、ヘンゼルは妹の頭を撫でてやりました。
グレーテルは、それでも心配そうにヘンゼルを見上げていましたが、それ以上何も言わずにコクンと頷きます。
「うん、美味しいね……キルキス。」
「本当に…………心に染み入るように。」
ヘンゼルは、スプーンでシチューを掬い上げました。
具の無いシチューは、家で食べた素朴なパンよりもずっと濃厚で舌に染み入りました。
なのに、シチューを飲めば飲むほど、美味しいと思えば思うほど、家で食べたパンが恋しくてしょうがありませんでした。
頭に浮かぶのは、自分たちが捨てられたという事実と、それでも帰りたいと思う心ばかりです。
その心に染み入るように、シチューは暖かくヘンゼルとグレーテルの胃を潤していきました。
「さぁ、たくさんお食べ。
そして、食べ終わったらゆっくりお休み──今日は疲れただろうからね。」
「そう、明日も色々と大変だから……今日は早くお休み。」
コックのおじさんは、そう優しく笑いかけてくれました。
ヘンゼルは、その優しさに胸打たれながら、コクリと頷きます。
視線を寄越した先で、グレーテルも笑って頷きます。
こうして──ヘンゼルとグレーテルの辛い一日が終わりを告げました。
アントニオが用意してくれた、暖かな寝床に横になって、二人は寂しさに包まれながら、手を握り合いながら眠りにつきます。
痛烈な悲しさと、その先で出会った優しさに慰められながら──ヘンゼルは、妹の優しい暖かな手を握り締めながら、涙で枕が濡れないように、キュ、と唇を噛み締めました。
明日家に帰っても、何かが解決するわけじゃない。
けれど、家に帰らないと、自分たちは生きてはいけないのだ。──幼い子供でしかないのだから。
「………………グレーテル………………。」
ヘンゼルは、疲れてぐっすり眠ってしまっているグレーテルの寝顔を見つめていましたが──やがて、今日一日の疲れが出たのか、重い瞼を閉ざしたのでした。
「翌日、グレーテルが目を覚ますと、ヘンゼルがいませんでした。
慌てて探しに行くと、家の片隅にある小さな檻の前に、アントニオとレスターが立っていました。
動物か何かを捕まえたのだろうかと、グレーテルが覗き込むと──なんと! その檻の中には、実の兄であるヘンゼルが入っているではないですか!
おおーっ、なんか、だんだん面白くなってきたじゃないか!」
「チャンドラー……お前、そんな可哀想な兄妹を面白いだなんて……薄情な男なんだな……。」
「って、人んちのカウンターで、足を組みながらせんべえ齧りつつ、本を読んでるクン・トーさんに言われたくないんですけど?」
「しかし、この子はえらく細いな……。これじゃ、食べるところが無いじゃないか。」
あきれたように呟くアントニオに、眠っている間に檻の中へ運ばれたヘンゼルは、キッと彼を睨みあげました。
「一体どういうことなんですか、アントニオさん! レスターさん! 冗談にしても、笑えませんよ!?」
檻の中には、ヘンゼル以外何も入っていません。マトモに動くこともできないような小さい檻の中です。
腕も足も縛られてはいないとは言え、このような場所に入れられて、自由を奪われている理由が分かりませんでした。
さらに、一緒に手を繋いで眠ったはずのグレーテルの姿がないのも気になります。
昨日の夜は、あんなに優しくしてくれて、傷ついた──両親の裏切りを信じたくなかったヘンゼルの心を慰めてくれた二人が、どうしてこんなことをするのか、ヘンゼルにはまったく理解できませんでした。
けれどそれと同時に、頭の良いヘンゼルは、自分とグレーテルの身に何が起きているのか、なんとなくではありましたが感じ取っていました。
──ただ、それを信じることが出来なかったのです。
「冗談? 冗談を言えるほど、私達もゆとりがあるわけじゃないんですよ、ヘンゼルさん。」
ニコニコと、厳しい顔つきの中にも人の良い微笑を見せて語るレスターの目が──笑っていません。
そして、腕を組んでアントニオは、檻の中に座り込んでいるヘンゼルを見やると、
「それじゃ、美味しく脂が乗るまで、餌付けでもするしかないな?」
「それが一番ですね。それじゃ、その家畜の世話は、彼の妹に任せましょう。」
「…………! グレーテルは! グレーテルは、どうしたんだ!!」
がしゃんっ! と、檻に手をかけて、ヘンゼルが叫びます。
その言葉に、かがみこんだアントニオは、ニッコリ笑って答えました。
「彼女はまだ子供だから、もう少し脂が乗って柔らかい年頃になるまで、食べはしないさ。」
「…………………………っっ。」
かちゃん…………と、ヘンゼルの手の中で、檻が音を立てます。
彼が、顔を歪ませて見た先──アントニオとレスターの肩ごしに、目を大きく見開いているグレーテルの姿が見えました。
とっさにヘンゼルは叫びます。
「グレーテル! ぼくのことはいいから、逃げろっ!!」
けれど。
「──キルキス!」
グレーテルは、そんな彼の言葉に従わず、こちらに向けて走り出そうとします。
その豊かな銀の髪が背で波打ち、しゃらん、と揺れます。
──刹那。
「眠りの風。」
レスターが、低く……呟きました。
何も無い空気中に、カッ、と光の刻印が現れ、それが発動したかと思うや否や、くらり、と、グレーテルの目の前がかすみます。
かと思うや否や、グレーテルは足をふらつかせ、そのままガクリと膝をついてしまいました。
必死に頭を振って、唐突に襲い掛かった眠気を払おうとしているようですが、目覚めたばかりの頭には、少しの眠りのいざないすら強烈に感じます。
グレーテルは、そのままあっけなく床に倒れふし、再び眠りの世界へと旅立ってしまうのでした。
「………………っっ、ま………………魔女………………っっ。」
ヘンゼルの喉が引きつり、彼はおとぎ話の世界だけの「悪魔」の呼び名を口にします。
夜更かししていると、悪い魔女に攫われて、食べられてしまうのよ。
そう、少し怒ったように告げる、亡くなった母の声が耳元によみがえってくるようでした。
ヒュゥっ、と、喉で息を吐いたヘンゼルに、アントニオは嫣然と笑って見せました。
「なんだ……まだ気付いてなかったのか。」
──その微笑は、優しい暖かいものではなく……冷徹で残酷な魔女のそれでありました。
それを認めた瞬間、ヘンゼルは心が凍てつくような絶望を覚えたのでした。
「おおおおーっ! どうなるのか、すごく気になるところだな!
この続きが知りたい人は、当チャンドラー道具屋に、絵本を買いに来てくださいっ!
………………っていうか、すみません、台本、今、クン・トーさんに奪われてて、読めません…………シクシク。
多分、この後、ヘンゼルさんが太らされて、グレーテルさんがこき使われる展開だったような記憶があります。」
その日から、ヘンゼルとグレーテルは、二人の魔女によって飼われ、こき使われる身となりました。
痩せている兄のヘンゼルは、たっぷりと太らせるために、檻の中でたくさんのご馳走を食べさせられました。
逆に、食べるにはまだ苦いらしい女の身であるグレーテルは、ヘンゼルの面倒を見るために、せっせと働かされました。
けれど、元々家の手伝いもしていないグレーテルは、料理をさせればコンロを爆発させ、洗濯をさせれば布を破り、薪を任せれば斧をスッポ抜かせて危うくレスターを殺しそうになり──そんな毎日だったので、グレーテルの仕事は、掃除と水汲みと、ヘンゼルの世話係りになりました。
「キルキスー! 今日はね、アントニオさんの鶏の照り焼きなのー! 便利だよね〜、魔法って。
いっつも、シュンッ、って出かけちゃうんだよ。森の中に食べ物が無くても、森の外まで行って買ってこれるんだ。」
どうやら魔女達は、なかなかにお金持ちらしく、家畜を太らせるための買出しに行くのは造作もないことのようでした。
ならなぜ、自分たちを食べようとしているのか──そして、はじめの日のシチューの中身が具が無かったのか、少々不思議ではありましたが、目の前にご馳走があるのだけは事実なので、気にする必要はありません。
はい、と差し出された皿の上には、鶏の照り焼きが丸々一匹乗っていました。
香り高いそれの他にも、この辺りでは見かけない魚の煮物もあります。
グレーテルはなれた様子で、檻の前にしゃがみこむと、お皿を自分の前に置きました。
そして、いつもようにフォークとスプーンで肉と魚の身を解すと、それをスプーンの上に載せます。
「はい、あーんv」
そのまま、檻の格子の間から、スプーンを差し入れます。
グレーテルの顔に浮かぶ微笑みは、ひどく愛らしいソレでした。
「ぐ、グレーテル…………。」
少し恥らうように、ヘンゼルは頬を赤く染めましたが、ニコニコ笑ってスプーンを差し出し続けるグレーテルに、今日も負けました。
そして、ぱっくりと口を開けてそれを口に含みます。
グレーテルは、そんな相手にそれはそれは嬉しそうに微笑んで見せました。
もぐもぐと口を動かせれば、口内一杯に広がるほのかに甘く優しい味──ほんわかと胸が温まるような美味しい味です。
「…………美味しい…………。」
「ほんと? じゃ、私も……。」
いただきます、と、行儀良く両手を合わせてから、グレーテルもスプーンで魚の煮物をつつきます。
口の中に入れて、彼女は幸せそうに両頬を抑えました。
美味しくて美味しくて、ほっぺが蕩け落ちてしまいそうです。
「ん〜……おいしい〜〜。」
グレーテルは、新しく突付いた肉をヘンゼルに差出し、そのついでに自分の分もしっかり頂戴します。
あの二人の魔女は、ヘンゼルは太らせるためにたくさん美味しい物を食べさせているのですが、グレーテルはまだまだ食べごろではないからと、毎日毎日働かせるばかりで、まともな食事もさせて貰っていませんでした。
だから、グレーテルはこの家で厄介になっている間、ヘンゼルにと持っていっているご馳走を、自分も摘んでいました。
もちろん、ヘンゼルにそれを否やと言うわけもありません。
どちらにしても、元々食が進むほうではないヘンゼル一人で、これほどのご馳走を毎食毎食食べきれるはずもないのです。
「キルキス。腕出して。」
一人分にしては多い量を、二人で満腹になるまで平らげた後、グレーテルは兄に向かってそういいました。
これもまた、いつものことでした。
ヘンゼルはその言葉に、少し不安そうな顔を見せながら、腕を檻の間から差し出して見せます。
ヘンゼルは、狭い檻の中でも、毎夜毎夜しっかりと運動をしていたので、この家に囚われてから今まで──まだちっとも太る気配は見えません。
グレーテルはその腕に手を這わせると、うん、と一度頷きました。
「大丈夫だね。全然太ってないもん。
一応、アントニオとレスターには、この骨くらいの太さだったって言っておくよ。」
言いながら、グレーテルは先ほど二人で平らげた骨を取り出します。
それはどう考えても細すぎるような気がしないでもないですが……。
「通用するかな……?」
「大丈夫大丈夫! アントニオもレスターも、今日の夕飯はドッチが上なのか、その勝負にばかり目がいってるから。
キルキスがなかなか太らないとなったら、また明日も勝負が出来るって、そう喜んでいるんじゃないかな?」
ヒラリヒラリと骨を振って、グレーテルがソレはソレは嬉しそうに笑います。
ヘンゼルは、それもそれでなんだか問題があるような──と、疲れたように額に手を当てましたが、
「…………グレーテル……あんまり無理はしちゃダメだよ。」
「うん! ちゃんとお手伝いするフリをしながら、金目の物の在り処と、鍵の在り処をチェックしてるから、まかせて!」
グレーテルは、両手で空になった皿を片付けながら、兄に向かって自信満々に笑って見せた。
そしてその笑顔を向けられた相手であるところの兄は。
「…………………………………………………………。」
なんとなく、育て方を間違えただろうかと……一応、こう見えても「エルフの王女様」と言っても差し支えのないはずの伴侶を、疲れ気味に見つめるのでありました。
「女は強いねぇ。」
「クン・トーさん、おかえりなさーい……ふふふ。」
「ぉわぁっ! な、何て格好してるんだ、チャンドラーっ!?」
「いえね……ちょっと台本が無いナレーションって言うのもダメかと思ったんで、とりあえず格好だけでもそれらしくと思いまして…………。」
「……………………で、それ?」
「はい。」
「………………………………………………ミルイヒ将軍、思ったよりも影響力あるなぁ……。」
「まだそんなに細いのか。」
グレーテルが差し出した骨を手にとりながら、アントニオは渋い顔をします。
隣に居たレスターに、アントニオはその骨を手渡すと、レスターは細い骨を撫で上げながら、
「……まぁ、細くても出汁は取れますしね……。」
そう小さく呟きます。
「だが、どれほど出汁が取れても、肉がついてなかったらまずいだろう?」
そんなレスターに、アントニオは渋い顔です。
確かに、ヘンゼルを美味しく料理するために飼い始めて早数ヶ月。
料理の腕を十分に披露できる日々が続いて、楽しくなかったと言えば嘘になるのですが──さすがに長く飼い続けて過ぎているなと、アントニオ自身も感じてはいました。
「ですが、いい加減調理しないと、男臭くてしょうがなくなってしまうでしょう? そう思えば、肉が少なくても、子供の柔らかい肉であるうちに食べないと……ね。」
顎を撫でながら、ちらり、とレスターは視線を手にした骨に注ぎます。
その彼の目は語っていました。
ヘンゼルは、まだ細くはあるけれど──今こそが食べごろではないのか、と。
そして、アントニオはそのレスターの言葉を、確かに……と、考え込むように受け取りました。
そんなアントニオとレスターに、グレーテルは慌てます。
「で、でででで、でも! ほら、キルキスはエルフだから、成長するのに時間が掛かるもの! だから、もう少しゆっくり太らせてもいいと思うんだけど!!」
ワタワタと、両手を振りながら叫ぶグレーテルに、レスターは人の良い微笑を浮かべながら、手にした鶏の骨を揺らしながら、
「なら、尚更ですね。」
「ああ、そんなにゆっくりとご馳走ばかりを食べさせるのも、経費が掛かりすぎる。──無駄だな。」
アントニオも、レスターに頷いてみせると、
「どちらにしても、森の実りも戻ってきたことだし、これからは森で食べ物も獲れるし……わざわざ町まで買出しに行く必要もなくなるし。」
さて、と、本日のディナーの準備をするために、大鍋を取り出しに歩いていきます。
「それはそれで……楽しみが減るような気もしますよ。」
軽口を叩きながら、レスターも鳥の骨を放り投げると、それを片付けるようにグレーテルに言い残し、アントニオを手伝うために部屋から出て行きました。
残されたグレーテルは、もう頭がパニック状態です。
このままでは、兄は今夜のディナーになってしまうことは間違いありません。
なんとかして少しでも長く兄を生かし続けていれば、何か助かる手段が出来るに違いないとそう思っていたのですが──例えば、魔女が二人揃って出かける日がくるとか、先に二人が寿命が来て死んでしまうとか、この森の奥まで魔女狩りがくるとか──、もうそんな悠長なことは言ってられません。
「どうしよう…………っ。」
グレーテルは、キュ、と両手を握り締めました。
どうにかしようにも、ヘンゼルは檻の中にいましたし、グレーテルもか弱い身では大人の男二人に適うわけもありません。
けれど、何とかしなければ、ヘンゼルも──そして自分も、あの魔女二人に食べられてしまうのです。
「……………………。」
何とかしなくてはと、グレーテルは必死に考えるのでしたが、魔女二人は、そんな考える暇も与えてはくれませんでした。
「さぁ、グレーテル! お前にも手伝ってもらおうか。」
大鍋を引きずり出してきたアントニオに、グイ、と腕をとられてしまいます。
「え、ええ……っ。で、でも私は、キルキスを……っ。」
「ヘンゼルなら、私が綺麗に洗っておきますから、安心してくださいね。」
トントンと、リズミカルな音を立てて、スープの出汁をとるための準備を始めるレスターの声が、朗らかに聞こえました。
それを耳にして、グレーテルは益々絶望を覚えるのでした。
大きなお鍋が置かれ、レスターがヘンゼルを煮込むための準備をしています。
鍋の中では水がグツグツと沸いた音を立てていました。
そのすぐ近くに、ヘンゼルはグルグル巻きにされて転がされています。
大鍋の中をかき回したり出来るように、鍋の回りには簡易な飛び込み台のようなものが作られていて、レスターとヘンゼルはその上にいました。
見下ろした鍋の中は、たっぷりとした湯が張られ、白いモウモウとした熱い湯気を吐き出しています。
隣にたったレスターは、鼻歌などを歌いながら、鳥の軟骨をブツブツと切ってスープの中に入れていきます。
大きな籠一杯の香草を放り込み、さて、とレスターは程よい色がついたスープを見下ろしました。
「そろそろ、人の子を入れても大丈夫かな?」
沸きすぎた湯に入れると、人の子の皮膚は弱いので、あっと言う間に焼けどのような後がついて、捲れあがってしまいます。
そうなってしまえば、湯剥きをして溶けかけた皮膚を取らないと、舌ざわりが良くないから、それは避けなくてはいけません。
スープはちょうど、色々な物を入れたために、程よく温度が下がっている状態でした。
今入れれば、いい感じに皮膚が茹で上がることでしょう。
その後、たっぷり出汁をとってから引き上げ、毛が生えている皮膚をはぎ落とした後、肉を剥がしてこんがりと焼かなくてはなりません。
「本当なら、肉は入れる前に切るのがいいんですけど、新鮮さを保つために、丸煮込みというのも捨て切れません……そう、人の血は、空気に触れるとすぐに色が変わってしまいますしねぇ……。」
ニッコリと笑う目も口も笑っているのですが、それを聞かされた子供は笑っていられるわけがありませんでした。
「……っていうか、本気!? 本気ですか、レスターさん!? なんか、説明が凄く生々しくて、いやなんですけど!?」
「いやぁ、世の中には、人食い人種という人達がいて、彼らは宗教的理由から、人を食むそうなのですが、私もそういう勉強をしてみようと……思ったりとか。」
「思わないでくださいーっ!!!??」
本気で恐怖に引きつった叫びをあげたヘンゼルの声に、レスターはおっとりと笑って見せました。
「大丈夫ですよ。今までだって、生きた魚をそのまま煮込んだことがありますが、きちんと適温で煮れば、身もふっくら、血も溶け出さずに型崩れもなし。」
「いや、そーゆー問題じゃなくって!」
ずさささっ、と、ロープにグルグル巻きにされた状態で、必死に芋虫になりきって、ヘンゼルが後退します。
できることならこのまま逃げてしまいたい気持ちでした。
けれど、そんなことをレスターは許しません。
彼は、朗らかに微笑みながら、大鍋には小さすぎるだろうお玉を持って、ヘンゼルの前に立ちました。
「さぁ、キルキスさん? いい加減、覚悟を決めてください。
これもまた、新しい黒料理会のためには、必要なレシピなんです。」
「って、何冗談言って……っ、って、目がっ、目が笑ってないです……っ!!」
ずささっ、と、更に後退しようとしたヘンゼルでしたが、お尻がガクンと落ちかけて、慌てて前進しました。
どうやら、飛び込み台の端に腰が掛かっているようです。このまま少しでも下がれば、鍋の中にまっ逆様……まさに、レスターの望むとおりの展開になってしまうわけです。
「さ、後一押しですね。ロープで巻いているから、型崩れもしませんし、下準備は万全ですから、心おきなく飛び込んでくださいね。」
ニコニコと笑って、レスターが両手を押し出そうとしたその瞬間、とっさにヘンゼルは叫んでいました。
「レスターさん! 後ろっ! 虫が鍋の中に入るっ!!!!」
それは、おそらく、どのようなコックでも恐れるに違いないことでした。
中には、フライ用の煮立った油に蟷螂が飛び込んで来た時も、冷静にフライ上げで揚げて見せた娘というのも存在しましたが、料理に情熱を燃やす人は、自分の芸術品をそのような物で台無しにされるのは何が何でも許せないはずです。
そんなヘンゼルのとっさの機転に、当然ながらレスターも条件反射のように反応しました。
彼が、どこかの娘さんのように、料理に虫が入っても、それを眺めた後、ソ、とお玉で掬って捨てるような人間ではなかったことに、心から感謝します。
ハッ、と、振り返ったレスターの一瞬の隙を、ヘンゼルは見逃しませんでした。
両手の指を飛び込み台の板につけて、腹筋を使って両足を上げると、こん身の力で──……、
「ごめんなさいっ!!」
どごっ!
──と、勢い良く蹴りつけました。
慌てて振り返ったレスターが、その蹴りに対応できるはずもなく……バランスを崩して、彼はグラリとその身を空中に投げ出しました。
モウモウとあがる湯気が、そんな彼の身を一瞬覆い尽します。
「…………っ!」
ヘンゼルは、それ以上見ていられなくて、ギュ、と目を閉じました。
耳に──ほんの一拍の静寂が落ち………………、
ばっしゃーんっ!!!!
「ぅぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーっっっ!!!!!」
断末魔の悲鳴が、耳の奥を貫きました。
さて厨房では、グレーテルが浮かない顔で大きな竈の前に座っていました。
毎日の日課であります、紙と石炭を竈に敷き詰める作業をしている最中でした。
こうしておくと、アントニオかレスターが、使うときに火を灯して、竈でで香ばしくて美味しい料理を焼いてくれるのです。
けれど──今日の晩餐は………………。
そう思えば、グレーテルの胸は締め付けられるばかりでした。
今ごろ、兄がどんな目にあっているのかと思ったら…………久し振りに檻の中から出された兄が、グルグルとロープを巻きつけられていた姿を思い出し、グレーテルはギュ、と目を瞑りました。
あれからどうなるのだろう?
キルキスは、無事なのだろうか?
それとも、もう裸にひん剥かれて、お鍋の中でグツグツ言っているのだろうか?
思えば思うほど、居てもたってもいられません。
足がそわそわと忙しなくなり、グレーテルはチラリとアントニオを見やりました。
こうなったら、アントニオの目がそれた瞬間に、こっそりと抜け出そうと思ったのです。
けれど、視線をやった瞬間に、アントニオは振り返ります。
「さぁ、パンを焼くとしよう。」
言いながら、彼は鉄板の上に載せられたパンを手にしました。
「………………。」
グレーテルは無言でそんな彼を見上げます。
アントニオは、上機嫌で鉄板をテーブルの上に置いた後、さて、と腕まくりをしました。
そうして、手にしたマッチをグレーテルに差し出します。
「?」
手渡されるままに受け取ったマッチは、グレーテルも良く知っている解放軍印がついていました。
解放軍の発明家が、ちょっとした暇つぶしに作ったといわれている、通常よりも良く燃えるマッチです。
良く軍主様が、これを片手に「マッチ一本火事の元〜」と言いながら、お城の中を回ったりしているソレです。なぜか珠に、火の用心回りをした後に、ゴウゴウと燃えている部屋が見つかることもあります。
ちなみにこのマッチ、とある一部では、「恐怖の髪焼きマッチ」と呼ばれておりました。
それがどういう意味を持つのか、良いコのグレーテルには分かりません。
「さぁ、グレーテル。竈に火をつけておくれ。」
アントニオは、人の良い笑顔を浮かべてそう催促します。
グレーテルは、無言でマッチを見下ろして、竈を見やります。
竈の中には、先ほどグレーテルが敷き詰めた紙と石炭が並んでいます。その上には、火が良く回るようにと薪も積んでありました。
竈に火をつけようと思えば、大きな口を開いている入り口に頭を突っ込み、中央の薪の下の紙にマッチの炎を落とさなくてはならないでしょう。
「…………。」
考えるように、グレーテルはマッチを見つめました。
髪焼きマッチは、とても良く燃えるマッチです。
一擦りすれば前髪が焼け、二擦りすれば指先が燃え、三擦りすれば…………。
「さぁ、グレーテル! 早く火をつけてくれないと、せっかくのスープに、パンが間に合わないじゃないか。」
せかすアントニオの言葉に、ハッ、とグレーテルは気付きます。
アントニオが用意した鉄板の上に乗っているパンは2個。
それは、間違いなくアントニオとレスターの分です。
自分の分とヘンゼルの分はありません。
──そうです、この二人の魔女は、兄を煮詰め、妹を焼いて食べようとしているのです!
その事実に気付いたグレーテルは、ブルリと身を震わせると──キュ、と唇を噛み締めました。
そして、マッチを持ったまま、軽く首を傾げてアントニオを見上げます。
「……でも、私、どうやって竈に火をつけるか分からないんだけど……?」
本当に不思議そうに、どうしたらいいのか分からないと、マッチを手持ち無沙汰に持って見せると、アントニオはあきれたような溜息を零しました。
「ああ……そういえば、エルフの王女様だったな……しょうがない、それじゃ、私が火をつけるから、その後火がきちんとついているか確かめてくれ?
それくらいなら出来るだろう?」
「ええ。」
グレーテルは、大きく頷いて、アントニオにマッチを差し出しました。
アントニオは、その良く燃えるマッチを手にすると、竈の前に四つんばいになり、頭を入り口に突っ込みました。
そして、そのままの体制で、両手でマッチを擦ります。
しゅぼっ、と大きな音を立ててマッチに火が灯り、大きな炎が竈の中を照らし出しました。
グレーテルは、アントニオのすぐ背後から、その様子を覗き込んでいます。
目に力が入り、瞬きすら許さないように、ジィ、と彼女はアントニオの様子をうかがいました。
そして、アントニオがその手からマッチを落とし、紙が大きく燃える炎を写し取った瞬間──、
「えいっ!!」
グレーテルは、こん身の力で、アントニオの大きなお尻を、両手で押し出しました。
「うわっ!」
小さく悲鳴をあげて、不安定な格好で四つんばいになっていたアントニオは、あっけなく竈の中へ転がっていきます。
グレーテルは、竈の扉を掴むと、ついでとばかりに右手を突き出して、
「炎の矢っ!」
この数ヶ月、魔女から盗み取った紋章術を叫ぶと、そのままバタンッ、と扉を閉めてしまいました。
ゴォォォッ…………。
耳に、唸るような音が聞こえます。
グレーテルは、それがあの魔女を焼き殺す音なのだと、ギュ、と目を閉じました。
そのうち、焼けるような匂いがしてくるんだと……そう思うと、ブルリと体が震えました。
けれど、そんな暢気に魔女の最後を看取る暇はありませんでした。
グレーテルが背を預けている扉が、ドゴンッ、と、大きく揺れたのです。
「え……っ!?」
まさか、魔女が中で暴れているのでは……っ!?
そう思い、グレーテルが慌てて何か扉を支えるものを探してこなくては──と、腰を浮かした、まさにその瞬間でした。
ドッゴォォォォーンッ!!!!
つんざめくような轟音と共に、竈が吹き飛んだのです!!
「きゃぁぁぁぁぁーっ!!!!」
竈の扉が吹っ飛び、グレーテルは爆風と煙の中、コロコロと転がっていきます。
屋根が吹き飛んだお菓子の家の玄関を付きぬけ、さらに庭をコロコロと転がっていったところで、ようやく彼女は動きを止めました。
両手と両足を放り出すようにして、地面の上に仰向けに横たわる彼女の目には、グルグルと回る視界と共に、吹き飛んでいくたくさんのお菓子のかけらが見えました。
「いい……一体…………何がどうなってるの………………?」
確か、自分が唱えたのは、炎の矢であって、別に爆発を促すような火炎陣でも焦土でもなかったはずなのだけど?
クラクラと眩暈がする頭を片手で抑えると、手も顔も煤で真っ黒になっていました。
グレーテルは、いつのまにか出来ていた擦り傷に顔を顰めながら、顔を乱暴に拭き取ると、まだ痺れるような感覚が残っている頭を叱咤しつつ、起き上がります。
ゴウゴウと黒い煙が、屋根から舞いあがっていました。
何が起きたのか、まったく理解できませんでしたが、竈が爆発して、その竈の中に魔女が居たのは確かでした。
「竈が、変なおじさんを食べたから、消化不良起こしたのかも…………。」
ぺたん、と庭に座り込みながら、グレーテルは小さく零しました。
不幸な事故のおかげで、家の半分ほどは吹っ飛んでいましたが──そこまで思い、彼女はハッと思い出します。
「キルキス!」
そう、彼女の兄は、この家の裏手で今まさにスープにされようとしているはずなのです!
慌てて起き上がると、足元が多少ふらつきましたが、それでもゆっくりなどはしていられません。
グレーテルは、起き上がるとそのままダッシュで走っていきました。
「最近の子供ってのは、怖いねぇ……水死に焼死か…………ふぅ。」
「あのー……クン・トーさん。ナレーションにもう飽きたなら、その台本を返してもらわないと、ソロソロ困るのですが?」
「ああ? ああ、そうだったな、ほら。」
「…………っ! か、返してくれた……っ。
これは一体、どういうことなんだろう……っ!?」
「んじゃ、俺もそろそろ行くわ。暇つぶしに付き合ってくれて、すまなかったな。」
「はい! ああ! 俺のカウンターが帰って来た……っ!
さぁ、仕事だ仕事だっ! 今からタイムサービスもやっちまうぜ!!」
「……見事魔女をやっつけたヘンゼルとグレーテルは、お互いの無事を喜び、再会を果たしたのでした……てか(にやり)。」
裏庭では、グツグツと煮立ったスープから変な匂いがしていました。
その鍋に掛けられたはしごの上の飛び込み台で、グルグル巻きにされていたヘンゼルを助けたグレーテルは、兄と一緒におうちに帰ることにしました。
「松明と食べ物さえあれば、無事に家に帰れるよ。」
半分以上吹っ飛んだ家の中に、こわごわと入ったヘンゼルは、グレーテルが教えてくれる色々な物の収納場所から、必要だと思う物をバックに詰めました。
ついでに、キラキラ光る宝石や、たくさんの魔女の宝物も拝借します。
どうせ、魔女はもうこの世には居ないのです。少しくらい貰っていっても罰は当たらないでしょう。
「これくらい、慰謝料って言うヤツだよね、キルキス!」
楽しそうに笑って、グレーテルは満タンになったかばんを叩きました。
ヘンゼルは、そんな彼女に苦笑を見せながら、同じように満タンになったかばんを背中に背負います。
そうして、グレーテルに向かって手を差し出しました。
「さぁ、帰ろう、グレーテル!
僕たちの家へっ!」
明るい日差しの下、たくさんの食べ物と、夜も見通せる炎があれば、もう怖くはありません。
どれほど長く時間が掛かろうとも、きっと家に帰り着いてみせると──元々森を遊び場として育った子供達二人は、準備を万全にしていけば、家にたどり着けるという自信がありました。
たとえ食べ物が途中でなくなってしまったとしても、魔女の言葉が本当なら、煌々と明るい太陽が照らし出す森には、食物の実りが戻ってきているはずだから、心配することはありません。
森の中に食物が実っていれば、ヘンゼルとグレーテルは、それが食べられる物かそうではないのか、きちんと区別がつくからです。
「お日様が昇っていれば、ドッチに向かえばいいか分かるね。」
「切り株を見つけたら、お父さんが居る場所が近い証拠だよ。」
二人は仲良く手を繋いで、魔女の家を出ました。
獣道を抜け、木漏れ日の差す森を歩いていきます。
鳥のさえずりも、揺れる木の葉の音も、数ヶ月前とは違い、清清しさに溢れていました。
どうやら、長い雨も終わり、太陽が差し込む暖かな日が続いているようでした。
二人は、ペース良く、きちんと目印をつけて歩いていきます。日が暮れそうになれば、完全に暮れる前に寝場所を定めて火を起こしましたので、飢えた獣に襲われることもありません。
朝目がさめれば、たっぷりと持ってきた食料でおなかを膨らませ、水で喉を湿らせ、先を急ぎます。
そうやって幾日か経った日のことでした。
二人の耳に、ざぁぁぁ……という、水の音が聞こえました。
「川だっ!」
二人の頭の中に浮かんだのは、自分たちの家の近くに流れる川のことでした。
この森の中に流れる川はいくつかあるけれど、二人の住む家の近辺に流れる川は、一つだけです。
きっとこの川を下っていけば、自分たちの家に──もしくは、見知った光景にたどり着くはずでした。
茂みを掻き分けて、二人は川べりへと出ます。
それは、子供には渡ることはできないような、急な流れの川でした。
「…………この川じゃ、ないのかなぁ?」
自信なさげに、グレーテルが呟きます。
記憶にある家の近くの川が、これほど急な流れになるのは、雨で増水したときだけでした。
これもそうなのかと思っては見るのですが、澄んだ色の流れは、とてもではないですが最近雨に降られたような気配はありません。
ヘンゼルも、一瞬顔を顰めましたが、顔を上げて太陽の位置を測ると、ううん、と小さくかぶりを振ります。
「モランの森に流れている川……僕達の家の近くに流れている川は、北から南に流れているから、この川であってるよ。
ただ、上流の方だから、思ったよりも流れが強いんだと思う。」
そうに違いないと、そう決断したヘンゼルは、この川に沿って下流へ歩いていこうとグレーテルに言います。
そうすれば、森の中を歩くよりも早く、家にたどり着けるに違いないから、と。
けれど──……、川には、川べりが長く続いていませんでした。
少し歩けばすぐに崖にあたり、川の後を追うようなことは出来ません。
かと言って、川の中に入れば、自分たちの体では、流木のように流されていってしまうことは目に見えて分かります。
「………………うーん………………。」
おとなしく森の中に引き返したほうがいいとは分かっているのですが、それでもヘンゼルは川の流れを捨て切れませんでした。
そうして、少し悩んでいたグレーテルの耳に、聞きなれない──でも、一度だけ聞いたことのある奇妙な音が届きました。
それは────…………。
しゅっぽっぽー、しゅっぽっぽー…………。
あの夜、聞いた蒸気船の音でした。
はっ、と顔を上げて、ヘンゼルは魚の形をした怪しい船を思い浮かべます。
相手が相手ですから、多少ぼられるかもしれませんが、これぞまさに渡りに船でした。
「?? 何の音? これ??」
首を傾げるグレーテルに、ヘンゼルは喜びに頬をほころばせて笑いかけました。
「船だよ、グレーテル! あれに乗せてもらえば、あっと言う間におうちに帰れるよ!」
そうして、ヘンゼルが指先で示した川の上流からは……………………。
「そこに見えたのは、豪華に金色に塗りたくられた、白鳥を模した船でした。
なぜか船の横腹からは、大きな羽が一対生えていて、先頭には鶏を模した首がつけられていました。
…………………………鶏? え、でも、白鳥って書いてるのに、鶏!? ……………………。」
しゅっぽっぽー、しゅっぽっぽー……。
太陽が燦然と輝く中、姿をあらわしたその船に、思わずヘンゼルはポカーン、と口を大きく開きました。
人が三人ほど乗れる白鳥号には、面倒そうな顔で男が一人、甲板に座り込んでいます。
口に楊枝をくわえた、三白眼の無愛想な男です。
「ぃ……いぃやぁぁぁぁ!」
グレーテルが、不意に叫びました。
「……グレーテル! あのっ、べ、別にアノ人は、悪い人じゃないから!」
慌てて、ヘンゼルがそう説明しようとした、その言葉尻を奪うように、
「かぁわいいーっ!」
頬を赤く染め上げて、ギュ、と拳を握って、グレーテルはそう叫びました。
それはもう、肺の空気をすべて吐き出すような勢いで。
「…………………………………………ハイ?」
思わず答えたヘンゼルの言葉が、淡々としていたのは、あまりのことに目が丸くなったためか、単にあきれてしまっただけなのか──それは本人にも分かりませんでした。
「かわいい! かわいいよ、その船ーっ! なんていうの、チャップマンさん!」
「ああ? おじょうちゃんも趣味が悪ぃなぁ? こりゃ、クン・トーのだんなが用意した、嫌がらせ船第一号だ。」
ぴょんぴょん跳ねて、ズンズンと近づいてくる船に、グレーテルは蕩けるような笑顔を浮かべています。
そんな彼女へ、ひょい、と片手をあげてみせたチャップマンは、上手く二人が立っている川べりへ船を止めました。
「よおっす、お二人さん! こんな森の奥深くでデートかい? キルキスも隅におけねぇなぁ? 二人きりになりたいならなりたいって言ってくれりゃ、すぐにでもこの船を貸してやるのによ。」
止めた船の上で、豪華で華やかな嫌がらせ白鳥号を指で指し示して笑います。
そんなチャップマンに、グレーテルはキラキラと目を輝かせると、両手を胸の前で組みました。
「いいの!? いいの、これに乗ってもっ!?」
ぐぐいっ、と乗り出すグレーテルの跳ねた声色に、物好きだねぇ、ともう一度繰り返すと、チャップマンは指と指で丸を作ると、
「あいよ、相談によりけりだけどよ。」
そう言って、チラリとヘンゼルを見ます。
ヘンゼルは、彼が何を求めているのか分かったからこそ、苦い笑みを口元に刻みながらも、背負ったかばんの中から光る宝石をいくつか取り出しました。
相場を考えると、この変な白鳥には高すぎるほどの支払いでしたが、どうせ元々は魔女が持ってきたものです。少しくらい落としても、痛くも痒くもありません。
「これで、譲っていただけますか、チャップマンさん?」
ちゃりちゃりちゃり──と、軽やかな音を立ててこすれ合う宝石の音に、ヒュゥ、と彼は口笛を鳴らしました。
「上等だ。どうせおれには分不相応な船だったからな。快く譲ってやるぜ。」
チャップマンはそう言うと、ヘンゼルとグレーテルに船を明渡しました。
グレーテルは、大喜びで船に乗り上げ、ずっと肩に食い込んでいた重い荷物を下ろします。
ヘンゼルも彼女に続いて船に乗りました後、川べりに降り立ったチャップマンに声をかけます。
「チャップマンさんも、一緒に川をくだらなくてもいいんですか?」
何一つ持っていない彼のことを思えば、一緒に川を下っていったほうがいいのでは──と、心配そうに聞いてくれるヘンゼルに、チャップマンは軽く手を振って断ります。
「いや……言っただろう? おれには、分不相応な船だって──チンケな店が、おれには性にあってるからよ。」
そして、この場で言うには意味不明な言葉を残して、彼はそのまま背を向けて森の中へと歩き出してしまいました。
ヘンゼルは、呆然とそんな彼を見送りましたが、すぐに隣に居たグレーテルから袖を引かれて、我に返ります。
「キルキス! 帰ろうよ、私達の家に!」
可愛い船に乗れて、もう歩かなくてもすぐに家につけるのだと──すっかりご満悦のお姫様は、明るい笑顔でヘンゼルを見上げています。
ヘンゼルは、そんな妹を見下ろして……うん、と小さく頷きました。
「……うん、帰ろう…………ぼくたちの家に…………………………。」
人の心を失ってしまうほど──胸が痛む悲しい決断を下さずにはいられないような、苦しい状況はすでに過ぎ去った後なのだ。
それでも、ヘンゼルはグレーテルほど心から喜べるわけではありませんでした。
船を漕ぎ出し、ドンドンと……急く心を表すように船が下っていく中、ヘンゼルの心の中には焦りが生まれていきました。
このまま帰っても、無事に暮らしていけるのだろうか?
また父と母は、自分たちを捨てようとしはしないだろうか?
暗い感情が、またヘンゼルの心を捉えます。
グレーテルは知らなくても、ヘンゼルは知っているのです。
食べ物が無くて、父と母が自分を捨てようとしたことを。
ざぁぁぁ、と正面から吹き付ける風が、ゆるやかなそれに変わっていきました。
グレーテルの髪をなびかせる風が、心地よいリズムを刻んでいます。
「──! キルキス! おうちだ! 私達の家だよ!!」
船のヘリから身を乗り出して、グレーテルが前方にある見慣れた──金庫のような家を指指します。
木々の合間にチラリと見えたそれは、すぐに木の間に隠れて見えなくなりましたが、間違いなくそれは我が家でした。
緩やかになる川の流れは、もう上流ほどではなく、船から飛び降りて川の中に入っても、十分川岸までいけそうなほどでした。
けれど、ヘンゼルはそれをグレーテルに言うことは出来ませんでした。
まだどこか、胸の中でくすぶっていたのです。──迷いという名の、それが。
チラリと走らせた視線の先に、自分たちが魔女から奪った宝物や食料があります。
このまま二人で川下へと下っていけば、トランではない国の中へ出るでしょう。
そして、二人で新しく人生をやり直すことだって出来ます。
「きっと、スタリオンもロックも、心配してるよね。
私、掃除や洗濯の仕方も覚えたから、今度はちゃんとお手伝いもできるよ。
──喜んでくれるかな? シルビナは、いらない子じゃないよね?」
グレーテルが、ヘリを手で掴みながら、そう小さく呟きました。
その呟きは、緩やかな風の流れに掻き消えることはなく──ヘンゼルの耳にも届きました。
「…………グレーテル………………。」
思わず、呆然と呟いたヘンゼルに、グレーテルはキュ、と一度唇を噛み締めて、
「ね、キルキス?」
少しだけ首を傾げて、ヘンゼルを見上げます。
その少女の眼差しに──ああ、何も知らない子供であることは出来ないのだと、ヘンゼルは短い間に自分たちの下に訪れた変化の波を感じ取りました。
そして──その中にある、変わりない自分の心にも、グレーテルに教えられ……気付いたのでした。
「………………守られるだけの子供じゃない………………。」
小さく呟いて、ヘンゼルは船を川べりへとつける準備を始めます。
そこは、あの夜、ヘンゼルが小石を拾った川原でした。
「帰ってきた。」
ヘンゼルは、さまざまな思いをこめて、そう呟きました。
「うん、帰ってきたね。」
グレーテルもまた、同じようにたくさんの思いをこめてそう答えます。
そして二人は、自分たちが手に入れた「宝物」を両手に、家路に着きました。
しっかりとお互いの手を握り合い、迷うことなく……真っ直ぐに自宅へ向けて歩いていきます。
その足取りには、もう迷いはありませんでした。
「ぼくたちが帰る場所は、ここなんだ。」
そうして…………二人は、自分たちを捨てて後悔しているだろう父と母と、もう一度やり直すチャンスを手にするために、家のドアをノックするのでした。
「家の中では、飢饉と子供達への心労のあまり、走りすぎてごっそりとやせこけた父が待っていました。
お父さんは、帰ってきた二人の子供を見ると、自宅の天井を走り回るほど喜びました。
そんな父の姿を見て、ヘンゼルとグレーテルは、帰ってきた良かったと、胸を撫で下ろしてそう思ったということです。
──こうして、貧しいきこりの家族は、この苦しい飢饉を乗り越え、また再び平和に穏やかに暮らすようになったということです。
………………………………………………。
……………………………………………………ぐずっ…………………………。
………………ううっ、いーい子たちじゃないか…………ううっっ。
ずびっ、ずびびびっ、──うー……ごほん、失礼失礼。
いやぁ、しっかし、劇はいいねぇ、劇は…………あぁ…………俺、この台本は売らずにちゃんとカウンターに飾っておくと約束するぞ!」
「あー……めんどくさかった。店番ご苦労さん、チャンドラー。────って、あんた、何そんな変な格好してんだよ? あのナルシー連中に毒されたのか?
しかも、悦びのあまり泣いてるし……っ、うわっ…………触らぬスイ様に祟りなしって言うしな。見なかったことにしよう。」
「ううー……ずびずびっ。
め、めでたし、めでたし。」
おしまい。
「おとぎ話って、怖い魔女の話が多いんですね…………ほんとに…………。」
「キルキスぅ! 無事でよかったね! シルビナも嬉しい。」
「うん、シルビナのおかげだよ、ありがとう。」
「あいたたた……。なんであんなに暖炉が燃えたんだろう?」
「火加減を間違えるはずはないんですけどねぇ……おかげでシチューも焦げてしまいましたよ。」
「あ、アントニオさんにレスターさん。──大丈夫でしたか? なんだか、凄い声が聞こえましたけど…………。」
「…………キルキスに近づかないで!」
「シルビナ! あれは劇の中の話だから…………確かにそうとは思えないくらい、迫力はあったけど。
お二人とも、大丈夫でしたか? どうしてか、爆発が凄かったみたいですし、レスターさんの方も、お水が本当に沸いていたみたいですし……。」
「いえいえ、大丈夫は大丈夫です。料理人ですから、火の扱いには慣れてますから。」
「私も、火傷とかには慣れてますから……まぁ、多少は皮膚がむけましたけど、キルキスさんのおかげで、ほら、この通り。」
「でも、ほんと……なんであんなに燃えたんだろうね?」
「うん、ほんとに…………。」
「おぅ、そう言えば、チャップマン。お前、さっき火薬をどうしたって?」
「は? 火薬? ありゃ、そこに積んどけって言われたから、積んどいたぜ? あんた、火薬の勢いで船を飛ばすんだろ?」
「は? なんだそれは? そんな話は聞いてないぞ?」
「あ、その件についてはおれが。
スイ様が、火薬を仕入れるように言ってたんだ。」
「……………………………………。」
「……………………………………。」
「で、チャンドラー、その火薬、結局どこに?」
「いや、だからそこに積んでおいて……。」
「それなら、おいらがシュタシュタと、この自慢の足で運んでおいたよ! そう、石炭だろう!?」
「────……え?」
「石炭は、暖炉で使うからね!」
「……………………え。」
「──────…………………………。」
「そーゆーオチかよ……おい。」
「あれ? おかしいな……火薬、どこに行ったんだろう?」
「火薬? また物騒な物を探してるね。君の場合、洒落にならないけど──今度は何をする気だい?」
「いや、どうせだから派手に船でも吹っ飛ばそうと思っただけなんだけどさ。固形の形をしてて、一見火薬とは分かりにくいんだけど──ルック、見なかった?」
「…………お菓子の家が吹っ飛んだのは、そのせいかい?」
「──ああ! なるほど、そういうことか! それならそれでいいんだけど。
でも、それじゃぁ、せっかく船に仕込んだミサイル、不発弾になっちゃったなー。」
「…………ミサイル?」
「あーあ、残念。今回は、不発だったか。せっかく、人間ロケットチャップマンとか、人間ロケットクン・トーとか、楽しみにしてたのに………………そのためにわざわざ、あんな船まで用意させたのに……。」
「…………………………………………なんなら、テレポートって言う手もあるけど、どうする? スイ?」
「──珍しいね、ルックがそういう風に持ちかけてくれるなんて、さ。」
「そうかい? 僕はいつだって協力的だろう? ──破壊工作には、さ。」
「なるほどね……それじゃ、一発どでかい花火でも、あげてみようか。」
「ああぁぁぁぁぁ……悪魔が二人揃って微笑んでる…………微笑んでるぅぅぅぅー……………………。」
「なんだか、剣に向かってぼそぼそと呟いている怪しい青い人が居るから、ついでに彼の頭も覚ますために、一緒に詰め込んでくれると嬉しいな、ルックv」
「確かに不愉快だから、ちょっと行方不明になってもらうのも、いいかもしれないね……。」
こうして、フリックは世界一周旅行に旅立ったのだった(嘘)
天魁星様
5月のお届け話「ヘンゼルとグレーテル」をお届けさせて頂きます。
なんだかんで、やっぱり5月には間に合いませんでしたが…………(汗)。
そして、今回も長くなりましたが、普通にお送りすることが出来たと思います。
……やっぱり、ナレーション、もう少しまともにしておけば…………………………。
今回は、普段書いてない脇役ばかりでしたので、性格の把握が難しくて、──思っていたのと違う性格になってしまっていたらすみません。
ギャグで、しかも劇中なので、それらしい風に性格が変わってしまっているのです(笑)。
ちょっとしたシーンシーンでは、それらしいセリフを吐けたと思うのですが、チャンドラーが難しかったです……そういう役に、ナレーションをさせてはいけません。平凡すぎてつまらなかったのです……。
ということで、今回もだいぶアレンジが入りました劇でお送りいたしました。
次回、白雪姫は、今度こそ50KB以内に治めて、もう少し早くお届けしたいと思いますv