バサバサバサバサッ!
耳に痛いくらいの壮大な音を立てて、白い紙の束がテーブルの上に落とされた。
これがこの城の上の階にある某執務室で行われた行為ならば、「ああ、こんな夜更けにお仕事? 大変だね、シュウ殿は。」で済む言葉なのであるが、広げられた書類が置かれた場所が場所であった。
この城──ジョウストン都市同盟の新本拠地、ノースウィンドウのティーカム城の軍主に、この上もなく憧れられている少年は、今日はお忍びで遊びに来ていた。
最近ずっと忙しくて、トランから出ることも叶わなかった彼は、ちょっとした息抜きにと──ちょうど手に入った上物のカナカン産のワインを片手に、昔馴染みを訪ねて来たわけである。
飲みつぶせば飲みつぶすほど面白い相手を、酒の肴にしようと、楽しげにノックをした部屋の中──少年がさっそくワインのビンを置いた机の上に、書類は広げられたのである。
その量たるや、すざましい物があった。
バサバサッと音を立てて、テーブルの上に乗り切らなかった書類が、床に落ちたくらいである。
落ちた書類を拾うことなく、紙の束をテーブルの上に乗せた張本人は、腰に手を当てて仁王立ちしている。
少年は、そんな青年を見上げて、ゆっくりと首を傾げる。
「フリック……いつのまに、これだけの始末書、溜め込んだの?」
目が真剣であった。
思わずフリックは、バンッ! と力強く机を叩いた。
本来なら、書類を書いたりするための机であるため、それほど大きくはなかった。その机いっぱいに乗った書類が、衝撃でバサバサと落ちる。
少年は、それを耳だけで捕らえて、紙にうずもれかけたワインを見た。
「俺の始末書じゃない。」
「じゃ、ビクトールのツケの請求書? 相棒は大変だね。」
あっさりと言いながら、少年はワインビンの首を捕まえた。
そして、栓も開けていないそれを持ち上げると、同時にイスから立ちあがる。
「忙しいなら、ビクトールかシーナか、ルックあたりでも捕まえて、一緒に飲むからいいよ。」
あの辺は、ザルとか大トラしか居ないから、出来ることなら避けたいのだけど──味わって飲むワインを一緒するのは、フリックのようなタイプとの方が楽しいのだ。
けれども、始末書や請求書などと言ったものと一緒に飲みたくはないし、何よりも、手伝う気など毛頭ないのである。
「ビクトールもシーナもルックも、コレの始末に追われてるっ! デスクワークか肉体労働かの違いだけだ!!」
「自業自得だろ?」
無関係な自分に対して、一体何をこれだけ怒っているのかと、少年は眉を軽く顰めて昔馴染みを睨みあげる。
呆れの色を多く含んだ彼に、フリックはワナワナと肩を振るわせたかと思うや否や、唐突に目の前の書類を手に取り、
「コレを読めっ!!」
少年の目の前に付きつけた。
だから、書類作成や、始末書なんて物を手伝うつもりはないのだと、少年は嫌そうに顔を歪めた。
「始末書だとか、反省書を書くのは、そりゃぁ得意だよ? 一昔前も、反省心の欠片もなく、読んでるマッシュが感動するくらいの反省文を書いたこともあるしねー。」
それは反省文とは呼ばないのでは? と思うような言葉を、いけしゃあしゃあと言ってのけながら、彼は無造作にフリックの手から始末書を奪った。
彼によって逆さまに提示されたそれを、正しい向きに直しながら、どれどれ? とわざとらしく声にあげて読み上げた。
「今月の被害総額、30000ポッチ。内訳は、以下の通りである。
花壇の破壊……別紙1〜10参照のこと。
屋上の雨漏り……別紙25〜50参照のこと。
道場の床板の入れ替え……別紙150〜232参照のこと。
物見塔の壁貼りなおし……別紙250〜…………。」
延々と続く、この城のさまざまな箇所の「修繕費の目録」に、彼はいぶかしげな顔でフリックを見上げる。
「何? フリック、酒乱でコレだけ壊したの?」
そりゃ、これだけの始末書と反省書を書かされても、文句言えないよ?
フリックは、解放軍時代に味わった辛酸の日々を、一瞬だけ思い返し、ぎりり、と唇をかみ締めた。
そして、指先で紙を指差すと、
「よぉっく見ろよ、スイ?」
つんつん、と一箇所を指差した。
書類作成者のシュウの名前の書かれているすぐ近くに、この書類を作らなければならなくなった原因の名前が、書かれていた。
すなわち、
「リオ」
と。
「……………………あれ? じゃぁこれって、リオのしでかした不始末の、始末書か。」
「そぉいうことだ。」
スイは、ワインを再び机の上に置きなおすと、興味を持ったかのように次の書類を手にした。
「何々? 食虫植物に、アダリー発明の成長促進剤なるものを掛けて、花壇を破壊する。その内容と関連事項とを次に明記する。
へぇ……成長促進剤。いいんじゃないの?」
「それが、爆発しなかったらな。」
「ああ、それじゃ、除草剤変わりに使えば良かったんだね。」
にっこりと、笑顔で語るスイの言葉に、そういうことじゃなくって、とフリックが低く突っ込む。
「そもそもな、食虫植物に成長促進剤を掛けるっていうのが、間違いだって思わないのか、お前はっ!」
「──リオは、食虫植物が好きなのかな?」
それほど長い付き合いではないが、リオが好きなのは、どちらかというと野に咲くような、可愛らしい花だったような気がしたのだけど。
それとも、この同盟軍にいる間に、皆に蝕されて、好みも変わってしまったんだと思う?
スイは、そう嘯きながら、首を傾げてフリックを見上げた。
フリックは、自分の前髪を書き上げながら、吐き捨てるような溜息と共に、答えてやる。
「違う。その食虫植物を巨大化させるつもりだったらしい。──そんなことしたら、爆発じゃすまない事になりかねなかったっていうのに……ったく。」
誰かさんを見ているようだと、フリックが小さく苛立ちの声をあげるのに、スイは成るほど、と頷いた。
「その食虫植物を、城の周りに植えて、モンスターを食わせようって作戦だね。」
「…………………………………………………………………………。」
「昔、僕もやろうとしたんだけど、残念ながらシュタイン城の回りは、湖だったから、必要なかったんだよねー。」
「………………………………………………………………お前の入れ知恵か………………………………。」
「え? 何が? 実行したのは、リオでしょ?」
明らかに自分が一口噛んでいると分かっていながら、白を切るのは、この英雄の得意とすることであった。
このまま詰寄ったとしても、どうせ煙に巻かれるだけだと分かっていたフリックは、それ以上いうことはなかった。
ただ、疲れたように溜息を零す。
「とにかく! ここ最近、リオがイロイロと悪戯だとか、変な実験だとかに励んでるんだよ……。
それで、ここ一ヶ月あまりの始末書の数が、コレ──というわけだ。」
くい、と指差す机から、はみ出ている書類が幾束もある。
けれど、それを再び机の上に戻す気力もなく、ドッカリとフリックはイスに座り込んだ。
スイは無言で、自分の持ってきたワインと、フリックの顔とを見比べ……それから、軽く首を傾げた。
「僕も最近は忙しくて、リオとは会ってないんだけど──。」
その「忙しい隙間」を縫って、息抜きにフリックをからかいにやってきて見れば、すでにフリックは生ける屍一歩手前という状態である。
それはそれで面白くないのだが、それ以上に自分が居ない間に、リオがそんな面白そうなことをしていたのが、残念でならなかった。
「誘ってくれたら、僕も手伝ってあげたのになー。」
それはそれは残念そうに呟いたスイに、速攻でフリックは反論した。
「そんなことになろうものなら、同盟軍は死滅するだろうがっ!」
「まさか! そこまで大打撃を与えるようなことはしないよ。
ちゃーんと綿密に計算して、瀕死一歩手前くらいにするから。」
即座に真摯に返されて、フリックは二の句をつなげなかった。
ワナワナと震える自らの唇を、無理やり閉ざして──彼は、ゆるくかぶりを振った。
「とにかく……お前には悪いが、しばらく俺達は付き合う余裕がない。
リオの悪戯癖を止めるのと、その始末書と、後始末を済ませるのが精一杯なんでな。」
どっぷりと疲れた青い雷に、スイは頭の隅で、「今ハイランドに攻められたら、終わりだろーな、この軍」と思ってはみたものの、それをハイランドに密告するようなことはしないことにした。
そんなことになろうものなら、トランから貸し出している軍も痛手を負うに違いないし、何よりも自分に懐いてくれている子供が、後悔と寂寥に胸をいためるのを見たくないからである。
もしも、今ここでハイランドが本当に攻めてきたのならば、問答無用で彼らを「飲む」くらいはしないとダメかなー……と、思いながら……、
「あ。」
スイは、唐突に良い考えを思いついた。
考えれば考えるほど、自分の息抜きにもなるし、気分転換にもよさそうな内容であった。
自分の思いつきに、スイは満足げな笑みを漏らす。
そして、そのままの笑顔で、フリックを見上げると、
「じゃ、フリック。僕が、リオの悪戯を止めてあげるよ。
かるーくお仕置き付きで。」
楽しそうに、提案したのである。
「トランの英雄のお仕置き。」
過去にこの言葉が出た瞬間の恐ろしさを、フリックは良く知っていた。
だからこそ、良識人の名をはばからないフリックは、それを阻止しようとしたのである。
例え、机の上から飛び出しそうな量の書類と格闘しなくてはならないとしても。
リオの悪戯の後始末に、相棒が追われて追われて、寝不足のあまり、時々幻影を追いかけることになっていようとも。
悪戯を未然に防ぐため、嫌々仕事をしていたルックが、非協力的なため、やっぱり悪戯が起きてしまったりとか。
それをなんとかしようとしているシーナが、リオに上手く誘導されて女湯覗き未遂を犯すことになったりとか。
イロイロ、イロイロ──それこそイロイロな被害が頭を総なめしたけれども、フリックは断じて頭を縦に振らなかった。
振らなかったのだけど。
「そうと決まったら、さっそくリオの悪戯の傾向を見るとしーよぉっと。
あ、フリック。そのワイン、冷やしといてね。今夜祝杯として飲むから。」
すちゃ、と片手を挙げて、さっさと去って行くスイ様は、フリックの返事など最初っから待っていなかったのである。
は、と前を見たときには、机の上にはワインが一本残されていて、後には何も残っていなかったのである。
「…………まずい!!」
慌ててフリックは、書類で雪崩を起こしている机と床を飛び越えて、自室から飛び出した。
何とかしてスイを止めなくてはいけない。
また一つ仕事が増えたことを後悔しつつ──それも、一番大変な仕事だ──、コレ以上大変なことにならないためには、スイを捕まるしかないと、過去の経験上、良く分かっていたからである。
悪戯といえば、やっぱり石板だろう。
なぜかそう見当をつけてやって来た場所は、吹き抜けになっている玄関ホールであった。
左右についた階段と、守護神像のある手すり付きの踊場から見下ろす景色は、いつもと全く代りはない。
鋭く視線を飛ばすものの、悪戯をしかけている気配すらなかった。
「……あれ? ちゃんと石板もあるよ。」
ぼそり、と小さく呟いた言葉は、思ったよりも広く響いた。
心をこめた悪戯をしかけるとなると、やはりここは大技からだろうと思って、ここにやってきたのだけど、残念ながら見渡す限り誰も居なく、約束の石板もまた、いつもの場所にドカンと残っていた。
自分たちの運命を左右する大事な石板だからこそ、真っ先にターゲットにしなくてはいけない、というのがスイの持論である。
だからこそスイは、何よりも先に石板へ運命を掛けて勝負を挑んだし、見事それを遂行させてみせたのである。
とは言っても、単純に「この石板って、割れるのかなぁ?」 という疑問の下、思いっきり火を焚いて、その上から冷水をぶっかけただけなのだけど。
温度の急激な変化にも耐え、ヒビ一つ入らなかった石板に、誰もが拍手したのは、解放軍がとってもお気楽だったためだと言えよう。
その後、石板は本当に割れないのか、という疑問から、「爆破実験」に始まり、「位置エネルギー実験」に続き、「約束の石板攻撃」に終わった。
結局石板は割れなかったのだから、レックナート様はスゴイのだろう。
そんな結果を思いだしながら、スイは無言で左手に目線を当てた。
そこには、ここ最近使うことのなかった紋章が宿されている。
視線を落とした先で、ピカピカに磨かれた手すりに、自分の顔が歪んで映っていた。その額に宿るのは──……。
「………………試しにね、試しに。」
どこか嬉しそうな顔で、嬉しそうな声で、スイは左手と額とに意識を集中させる。
あの解放軍当時には、決して出来なかったことが、今は出きる。それも、当時よりもずっと魔力値は上がっているのである。
果たして、約束の石板は「合体魔法」にも耐えうることができるのか……っ!?
スイは、胸高まるのを覚えながら、高まるエネルギーを解放しようとした。
その、刹那である。
「いい加減にせんかい、小僧っ!!」
びりびりっ! と、辺りを刺激するような怒声が、スイの背中に突き刺さったのは。
思わずスイは、全身に溜まった力の全てを解し去り、背後を振り返った。
殺気でも敵意でもない──ただの怒気が、辺りの空気を染め上げていた。
その中心に居るのが、不機嫌極まりない顔をした少女──いや、少女めいた外見の女性である。
華奢でたおやかな外見に似合わぬ、覇気と辛辣な雰囲気。なのに、それを纏うことが当然であるような印象を受ける女性。
彼女は、銀の髪をユラリと宙にたゆたわせながら、こちらを厳しい眼差しで睨みあげていた。
スイは、きょとん、と彼女を見つめる。
彼女の名前は知っていた。その正体も知っている──なぜなら、彼女をリオが「ナンパ」した時のメンバーに、スイも居たからである。
怒りやすく、扱いづらい。そうまわりに形容されがちな彼女であるが、慈悲深く優しい女であることを、スイも知っている。
だからこそ、彼女がここまで怒っているのは……それもタイミング的に考えて、どうも自分に怒っているのは、驚くべきことであった。
何かしたっけ、僕?
今自分が何をしようとしていたのかを、綺麗に棚上げして、スイは首を傾げる。
そんな彼を正面から睨みつけ──彼女は、顔をゆがめるようにして目を細めた。
それからすぐに、全身に纏っていた雷の帯電を解くと、乱れた髪をサラリと流した。
「すまぬ。人違いじゃ。」
少しだけバツが悪そうに呟く彼女に、スイは小さく笑う。
「……まさか城内で『火炎陣』を使うような輩が、他にもいるとは思わなかったゆえ、の。」
言い訳のように先を続けた後、ふ、と彼女の柳眉が顰められる。
下へと続く階段の手前から、こちらへ歩きかけた足を止め、彼女はマジマジとスイを見た。
「おんし……何ゆえ、このような場所で火炎陣を使おうとしておったのじゃ?」
「リオの悪戯を止めるためにね。」
にっこりと微笑みを漏らして答えるその答えは、真実と大分異なっていたが、もちろんそんなことをシエラが知るよしも無かった。
彼女は、最近の城内を騒がせている出来事を思いだし、鼻の頭に皺を寄せた。
「またあの小僧は、石板に火をつけようとしたのかえ? 悪戯も度を過ぎると、悪戯ではなくなるというに……。」
難しい表情で語るシエラの言葉に、スイは笑顔のまま、悟った。
なぁんだ。リオはすでに、石板に悪戯しようとした後だったのか、と。
けれど、そんなことを微塵とも顔には出さず、スイも少しだけ困ったような顔を張りつける。
「そうですね。悪戯は、成功しつづければ、楽しくてしょうがなくなり──少々度が過ぎたことも、何も感じなく行ってしまうものですから……。」
シエラは、そんな彼に視線を向けた後、意味深に呟きを漏らす。
「……そろそろ誰かが、懲らしめないと駄目だろうが……。」
その彼女の瞳に宿った暗い光に、スイはオヤ、と眉を上げた。
彼のそんな仕草に、シエラは唇を引いて微笑む。
「おんし、その役を買ったのかえ?」
凍てつくような微笑みを素顔に貼り付けた彼女に、スイは逆にぬくもりのある──慈悲深い微笑みで、うなずいてみせた。
「ええ。城の者達から、リオが嫌われることだけは避けたいですから。」
「……妾も、愚かな軍主を祭り上げるのは、ごめんじゃ。」
答えたシエラの目が、笑っていない。
それを受けたスイの瞳は、優しい光に満ちている。
その光景は、第三者から見たら、なぜか一触即発の雰囲気に、非常に類似していた。
「リオの悪戯は、それほど腹に据えかねておりますか?」
「どれほどの悪戯であろうとも、この城の者がリオを嫌うことはあるまい。
──だが、怒ることはある。
そういうことじゃよ、英雄殿。」
シエラは、問答のようなスイの言葉に答えて、頬にかかる髪を背後に払った。
「……で、シエラさんは、リオに何をされたんですか?」
もしも、第三者がこの場にいたら、心臓を凍りつかせるような愚問であった。
シエラは、それをあえて口にしたスイを軽く睨んだ後、眦に怒りを滲ませたまま、低く、呟いた。
「寝場所というのはの、存外に大切なものだと、いうことじゃの……。」
その意味は、地下一階に降りて見れば、すぐに判明することなのであった。
──本日の墓場は、「ジメジメを回避するためには、炎が一番! 焼いて見よう、墓場と棺桶!」という作戦と実験による、結果の跡を色濃く残しているのである。
さて、そのころ、噂の軍主様はと言えば。
「うーん…………。」
真剣な面持ちで、つり場で釣り糸を垂れていた。
その隣には、いつものごとく彼の姉が座っている。突き出た船着場の先に座り込み、裸足の足をブラブラと揺らしている。緩やかな波が、時折支え棒にあたり、小さく水飛沫を立てていた。
二人の横に置かれた魚を入れるためのバケツの中には、水がたっぷり張られていたが、中身は何も入っていない。
本日の釣りの成果は、ゼロであった。
「日ごろの行いが物を言うんだと思うよー。」
お姉ちゃんは、そんな薄情な事を呟きながら、両手を背後について、空を仰いだ。
二人の常日頃の行いを示すかのように、空は青く澄み渡り、ちょぉーっと端の方に、雷雲らしきものが見えている。
背中を逸らした状態で、ナナミは顔だけをリオへと向けた。
リオは、真剣な顔で釣り糸の先を見ている。
そうやって見ているだけで魚が釣れたら、今ごろバケツの中は溢れかえっているはずである。
「ねーぇ、リオ? 今日はコレからどうする?」
のんびりと聞きながら、ぱたん、とナナミは背中から倒れた。
視界いっぱいに映る空は、どこまでも続いていきそうだった。
耳に届く波音は穏やかで、いっそすがすがしいくらいに心地よい。
「シュウには見つからないようにしなくっちゃね。
あと、ビクトールさんと、シーナと、ルック!」
「あー……シュウさん派遣の、対リオ軍団ね。」
顔だけこちらに向けて、凛々しく言い張る弟に、クスクスとナナミは笑った。
「悪戯も、飽きちゃったよね……やる前とか、やってる最中は、ドキドキして、あっという間に一日が終わっちゃうんだけど。」
「今度は、どっかーんって、すっごいのやる? 湖を噴水みたいにするの! 魚が空から降って来るっていうのはどう!?」
明るく笑って、悪戯げな視線を向けてくるリオに、ナナミもつられたように笑った。
けど、その笑い声は、ほんの少ししか続かない。
すぐに二人の小さな笑い声は風に掻き消え、また沈黙が降りた。
「──……こんなにたくさんやったのに……まだ終わらないんだね。」
ナナミは、素足を抱き寄せるようにして、足を抱え込んだ。
そのままコロン、と横向きになると、リオの赤い服が見えた。
ちょっとくたびれた風のそれを見ながら、ナナミは少しだけ辛そうに目を細める。
キラキラと光る湖の湖面が、視界の端を掠めている。
まだ太陽は登っている。
まだ「今日」は終わらない。
「今日が終われば明日が来るし、明日が終わればあさってが来るよ。
そしたら、すぐに終わるよ、きっと。」
リオが力強く答えるその声が、強がりだってことを、ナナミは良く知っていた。
だから、力なく笑って、そうだね、と小さく答える。
二人とも、本当はこんなことをしていてはいけないのだと分かっているけど、でも、やって見ると「悪戯」は面白くて楽しくて、時間の過ぎ去るのも忘れて──ついつい夢中になりすぎてしまったのだ。
気付けば、シュウという大敵を敵に回していた。
「いつかは捕まるんだろうけど、やっぱり、逃げれる限りは逃げたいよねぇぇぇぇー。」
シュウの鬼のように怖いお説教を思い出したナナミは、苦虫を噛み潰したように、顔をゆがめて見せる。
リオはそんな彼女を見て、なんとも複雑な顔になった。
「いつまでも逃げてはいられないんだけどね。」
それはわかっているのだけど。
やっぱり、ふと振り返って、やりすぎたかなぁー……などと思ってしまった以上は、シュウが怖いのである。
それに今回は、とびっきりの大技、というものにも挑戦してしまったことだし!!
「今日のアレはでも、すごかったよねぇ。」
ぼんやりと釣り糸の先を見ながら呟いたリオに、ナナミも目を閉じて頷く。
「ちょーっとジメジメを無くしたかっただけなんだけど、突然爆発しちゃうんだもんねっ!」
「ほんと! そのうえ、地面が感電したみたいに光放つし、もう、何がどうなってるのかワケわかんなかったもん!」
慌てて二人揃って逃げたのだが──階段の上に来た辺りで、背後からすざまじい音がした時には、どうしようかと思ったのだ。
「それで、慌てて水を階段の上から流したと?」
「そう! ちょうど水の紋章宿してたし、母なる海使ったら、なんとかなるかなぁって思ったんだけど──まぁ、火は鎮火したみたいだよね!」
リオは静かに語りかけられた声に無意識に答えて、コクコクと頷く。
「帯電している所に水を入れたら、感電しちゃうんだけどね。」
「……あー……でも、墓場には誰も居なかったみたいだし…………って。」
顎に手を当てて、のほほーんと答えたリオは、「答えた声」が誰の物であったのか、瞬時に判断して振りかえった。
ナナミも、がばりっ! と起きあがり、リオと一緒に背後を振り返った。
「今の声って…………スイさん!!?」
声をハモらせて振りかえった二人の姉弟に、にっこりと優しげに微笑みを見せるスイが、少し離れた所に立っている。
その隣には、最初に二人に声を掛けたシエラが、腕を組みながら、冷ややかな視線を飛ばしていた。
そんな彼女の──シエラの見事な銀の髪が、いつになく深い色に見えて、ナナミは少し目を眇めた。
「久しぶりだね、二人とも。」
軽やかに挨拶をするスイに、二人は飼い主に会った犬のように喜びを全身で表現した。
ナナミは一瞬で立ちあがり、そのままスイに駆け寄ろうとし、リオは手にしていた釣竿を放り投げ、飛びつこうとした。
けれど、二人のその動きは、スイの正面に立ったシエラにより、とどめられる。
二人は、シエラの突然の通せんぼに、とまどいながら動きを止めた。
スイは、シエラの後ろで、無言で微笑んでいる。
「おんしら──妾に言うことはないのかえ?」
シエラは、わざとらしい仕草で、髪を掻き揚げた。
二人はキョトンと目を見張り、互いの顔を見やった。
それから、軽く首を傾げ、覚えがないというように首を振った。
シエラの柳眉が、一段、跳ねあがる。
「ええーっと……僕、何かしましたっけ?」
確か、悪戯行進の内容には、シエラに対するものはほとんど無かったはずだ。いや、そもそもリオもナナミも、悪戯の内容は「人に迷惑をかけないもの」とし、直接人体に危害は加えていない。
もっとも、結果として「人に被害を与えている」ことに関しては、十二分に人に迷惑をかけているのだが。
不思議そうに首を傾げるリオに、シエラの表情が怜悧にゆがめられた。
そんな彼女の顔に、慌ててナナミが視線をさまよわせ──あ、と小さく声をあげた。
シエラの綺麗な銀髪が、しっとりと濡れていたのだ。
「シエラさん、髪が濡れて………………って………………………………もしか、して………………。」
小さく指先を震わせながら呟くナナミに、シエラの顎が少し上がった。
見下ろすような視線で、シエラは先を促す。
けれどもナナミは、それ以上言えなくて、無言で首を竦めた。
リオもまた、こめかみから大粒の汗を流していた。
「もしかして…………今日…………さっき…………墓場に、いました…………?」
おそるおそる尋ねる彼の口調に、シエラは重々しく、頷いた。
その瞬間、二人は目に見えて分かるくらい、真っ青になる。
そして、慌てて二人揃って頭をブンッと振り下げた。
「ごめんなさいっ!!」
「まさか誰かいるなんて、思わなくって……っ! ほんとうに、すみませんっ!!!」
二人の頭の中には、あの墓場の惨状がアリアリと浮かんでいることは間違い無かった。
シエラは、冷たい眼差しのまま、二人の旋毛を見比べた。
その彼女の隣では、英雄が楽しそうに口元を歪めている。
シエラは、そんな彼をジロリと睨んだ後、頭を上げない二人に語りかける。
「おんしら、あのような場所で炎と雷を使えばどうなるか、わかっておらんだというのかえ?」
「そ、それは……っ。」
かすかに顔をあげるリオの表情から見て、百パーセント断言できる。分かっていなかったのだ、二人は。
愛すべき軍主とその姉の顔を冷ややかに見下ろしながら、シエラは、彼らが痛いと思うくらいあからさまに溜息を零した。
「墓場には人の死体から出るガスが溜まっておる。
他にも、特にあそこは地下ゆえ、空気がこもっておるしの。
何よりも、地面が──土が帯電しやすくなっておるのじゃ。
人がいる、いないに関係なしに、あのような所にあのような大技を使えば、地下室だけではなく、城自体が危うくなる。」
諭すように言われ、二人は頭を下げたまま目を合わせた。
みるみるうちに、耳を垂れた犬のような風情になる二人に、スイは微笑みをかみ殺し切れない。
けれど、シエラの言うことも最もであり、二人が本気で反省しているからと、許せることでもないのは本当であった。
「それにね、リオ、ナナミ?」
ごめんなさいっ! と、再びシエラに頭を下げた二人に、スイは優しく語り出す。
リオとナナミが、焦ったようにスイに視線をやるのを待ってから、彼は暖かな微笑みを切り替えて、厳しい表情を作った。
それと同時に、諭すような口調ではなく、少しだけ怒りを滲ませた口調で、二人に告げる。
「悪戯をするのが、駄目だとは、誰も言わないよ。
君達が、自分たちの心を解放するために、ちょっとハメを外すのも、いいと思うよ。」
いや、ちょっと、どころじゃないし……という突っ込みは、今のところ誰もしない。
「ただね、きちんと理解しなさい。
君達が、誰にも迷惑をかけないように悪戯をすることは、絶対に不可能なんだよ。
現に、君達がしかけた悪戯で、シュウ殿や、フリックやビクトール、シーナ達が、不眠不休で仕事してる。」
はっ、と息を呑む二人の顔は、どこか気まずげだった。
知ってはいたのだろう。ただ、それを他人から言われると、酷く胸にのしかかるだけだ。
スイはそれを知っていたからこそ、先を続ける。
「ハメを外して、心が軽くなったのなら、ちゃんと皆に謝りなさい。
ありがとうって、感謝をしなさい。自分たちのしたことの重さを、きちんと理解しなさい。
その上で、悪戯をするなら、僕は何も言わない。自分たちの責任を取れるなら、それでもいいと思うよ。」
いつにかく厳しく諭すスイの声と顔に、ふたりはしょんぼりと肩を落とした。
スイはチラリ、とシエラを見る。
シエラもそんな彼に視線を当てて、軽く瞳を細めた。
スイは、それを受けるかのように頷く。
「…………はい…………。ご迷惑をおかけしました、スイさん。」
「きちんと、皆に謝って、それから、ちゃんと……後片付けをします。」
辛そうに、苦しそうに呟く二人に、スイとシエラは、優しく微笑みかける。
「納得してくれたのなら、僕も嬉しいよ。」
「そうじゃの……おんしらも、まだまだ子供なのだから、たまにはハメくらい外しても、誰もとがめはせぬよ。」
二人の、「お許し」に、ナナミとリオは、ホッとしたように笑顔を見せた。
そんな笑顔に、スイとシエラは、更に微笑みを深めて。
「でもね、ちゃんとお仕置きは受けないと、駄目だから。」
「そうじゃの……子供には、お仕置きは必要よのぅ?」
お互いの右手を、かざした。
にっこりと、笑いながら。
「……………………え?」
「…………………………ええ?」
まだ理解していない、愛すべき軍主様とその姉君に向かって、スイとシエラは、にこにこと笑いながら、はっきりと告げた。
「ちょっと、飛んでおいで。」
スイの右手が黒い光に覆われ、空間がきしむような音を立てた。
シエラが淡い蒼の光を宿しながら、揺らめく髪を青銀に染めあげ、スイの力を受けとめる。
闇色の魔力の中、淡く輝く月の光が、辺りを染め上げる。
ぎゅぉん──っ!
耳慣れない怪奇音が辺りを襲ったのは、まさにその瞬間であった。
ひらひらと──まだ光を宿す右手を振りながら、スイはシエラを見やった。
シエラもまた、久々に解放した紋章をさすりながら、口元に微笑みを張りつけている。
その二人の前には、誰もいない。
「……これでしばらくは、悪戯などしないであろうの。」
楽しそうに呟く彼女は、やはり密かに、「寝入りぎわを襲われた」ことを深く根に持っているらしかった。
それに答えるスイは、平然とした様で、手袋を嵌めなおしている。
「どっちにしても、悪戯することはないと思うけど。」
「…………どういう意味じゃ?」
眉を顰めるシエラに、スイは少しだけ困ったように笑う。
そして、今まで二人の姉弟が立っていた場所に視線を移すと、
「二人が帰る頃には、終わってるから、だよ。」
「?」
「…………ニ回忌。」
ひっそりと呟かれた内容に、シエラは何も思い当たることがなかった。
だから、更にワケが分からないと言いたげに、彼女は眉を寄せる。
「二人の、育ての親が亡くなったのが、今日……らしいんだ。」
始めて、二人だけで迎える「じいちゃんの死んだ日」。
二人が、心のどこかでそれを恐ろしいと思い、その日が来ることを怖がっていたのを、気付いていた。
スイがしばらくコッチに来れないと言ったときの、彼らのぎこちない微笑み。
早くその日が過ぎればいいといわんばかりの態度。
「………………そういう、ものなのかえ?」
分かりかねると言いたげにシエラは呟き、首を傾げるようにして英雄を見上げた。
「お主は、なぜそれを知りえたのじゃ?」
おそらくこの分だと、この城の誰もが知らぬことであろうにと──シエラが尋ねる。
もしも知っていたのなら、誰もが二人の悪戯に、「仕方がない」と苦笑し、二人の心の不安を取り除くことに努力しただろうから。
「──……知り得たわけじゃないさ。
ただ、うちのお節介な主婦がね、二人から世間話ついでに聞き出してただけで。」
苦笑にも似た笑みを張りつけた英雄に、シエラは成るほど、と小さく呟いた後、悪戯げな瞳を彼に向けた。
「ふふん──可愛くて仕方ないらしいのう?」
意味深に告げる彼女に、スイも同じような瞳を向けると、
「本当に、愛すべき軍主と姉君、と言ったところらしいね?」
そう、切り替えした。
シエラもスイも、お互いの問いに答えることなく、ちょっと気まずそうに視線をずらし合う。
なんだかんだ言っても、この城の誰もが、あの無邪気で明るい二人のことを、心の奥底から愛しい子供達だと思っているのは、良く知っていたからである。
「……あれ? 今、リオさんとナナミさんが、ここにいませんでした?」
どちらともなく動けない空気を、ふんわりと破ってくれたのは──近くの漁師小屋から出てきた、ヤム・クーであった。
彼は、ぼさぼさの頭を掻きながら、放り出したままの釣竿に首を傾げる。
そんな彼に、スイはいつもの悪戯めいた笑みを漏らすと、
「さぁ? どこまで飛んでいったのか……。」
「ルルノイエか、はたまたキャロか、もっと異国の、死者の国とか? ……妾には、分からぬな。」
「そうそう、紋章に、聞かないとね。」
意味深で、深く考えると怖い台詞を口にして、クスクスと笑った。
ヤム・クーはワケが分からないという顔をしながらも、胡散臭げな目をスイに向けた。
「まさかスイさん、リオさんたちに何か悪戯をしたとか──そういうんじゃないっすよね?」
そんな問いかけに、スイは待ってましたとばかりに、楽しそうに答えてくれた。
「まっさかっ! 僕がしたのは、長い間僕に会えないのが寂しいと言う可愛い子犬に、僕のとっておきの、『日が早く過ぎるように感じる悪戯集〜スイ=マクドール著』を貸しただけだよ。」
その答えの意味を、すぐに悟ったのは──額に手の平をぶつけたシエラだけであった。
スイとシエラの「お仕置き」により、どこかわからない場所に飛ばされてしまった二人が帰って来たのは、その日の夜も遅くであった。
元気に皆に謝る彼らの姿は、悪戯に励むときよりも、もっとずっと元気に満ちていた……というのは、少しだけ、別のお話──。
にゃあす様
ごめんなさい〜〜っ!!
リクエスト内容が間違っていたとは……(^_^;)
今度こそはっ! と思い、正義感に燃えて書いてみましたが……い、いかがでしょう?
今度は、なんとかリクエストに沿っているなぁ〜と思うのですが…………。
とんでもないことをしでかしてしまいましたけど──二作共お受け取りくださると幸いです。