3 すれ違い
時間軸:幻水2後(*幻水1ネタバレ)
立ち尽くしたそこは、異臭が鼻につく暗闇だった。
先ほどまで居た明るい部屋の中とは違い、ジメジメと湿気が漂い、数歩前も見て取れないほどの暗闇に包まれていた。
そんな中で、ただ立ち尽くした。
邪魔をするものは誰も居ないと分かっていたから、ただ、立ち尽くした。
宿した紋章の力があれば、この暗闇を払拭出来ることはわかっていたけれど、そうする気もなく、無言で目の前の暗い闇を見詰めた。
目を閉じても開いても、変わらない暗闇。
クン、と鼻をうごめかせば、カビの匂いと空気が滞った匂い。思わず鼻を覆いたくなるような腐臭。
そのまま動かずに立っていると、その匂いが体中にまとわり月つき、強烈な臭いに目が染みた。
ス、と目を閉じると、暗闇に投げ出されたような感覚がする。
耳に届く音は何もない。
先ほどは、自分が歩いた音が響き渡っていたけれど、今は何も聞こえず、ただ静かだ。
数秒か数分か、そのまま立ち尽くして──それでも臭いに鼻が麻痺しないことにうんざりして、彼……フリックは、鼻の頭に皺を寄せた。
緩慢な仕草で手をあげて、その掌で口元を覆うと、腐臭に痺れそうな痛みを覚えていた鼻先で、汗の臭いがした。
──そこでようやく、フリックは自分が汗を掻いているのに気づいた。
目を開けば、暗闇に慣れた目に、ぼんやりと浮かび上がる下水。
黒ずんだ壁に、音もなく緩慢に流れていく汚水。
先ほどは見て取れなかったコンクリート詰めの床の上に、こぶし大ほどの瓦礫が所どころ転がっているのも見えた。
口元から手を離して見下ろせば、手はジンワリと汗ばんでいるのが分かった。
確かにこの下水道は、チリとも風が吹かないため、臭いが立ち込めてムッとしてはいる。
けれど、汗を掻くというほどではない。
見下ろした手が汗ばんでいるのは、もっと別の理由からだ。
その証拠に、先ほどから胸の奥から何かが湧き立つような、言い知れないジリジリしたものが、ずっと体の中で蠢いている。
「──……、6年、か。」
小さく呟いて、フリックはゆっくりと目を閉じる。
そのまま空気を吸い込めば、吐き気がするほど濁った臭いが肺を突いた。
それに吐き気を通り越したものを感じて、フリックは喉を詰まらせると、無言で拳を握り締めた。
目を閉じれば、今でも鮮やかに思い出すことができる。
暗闇に沈んだこの下水道は、歩きやすいように整備され、壁には等間隔に燭台が置かれ、昼夜関係なしにロウソクが灯っていた。
そのロウソク代もバカにならないから、もっと節約するべきではないか、と、そんなことを口にしていた男も居た。──……今なら、それももしかしたら「勿体無い」のではなく、暗闇に潜んだ何かを見咎められないように、という気持ちの表れだったのではないかと、そう思えた。
6年。
あれから、6年だ。
その月日が、無言で目の前に横たわっていると思った。
同時に、その6年の──否、ここで過ごしていた2年にも満たない期間の全てが、すべてぬぐわれた後なのだと、思った。
「はじまりの日」──あの日、ここを本拠地にしようと告げた女の横顔を驚いて見上げた。
蝶よ華よと育てられたのではないかと思うほどに白い肌、涼やかな瞳。
それらと相反するように、キリリと結ばれた赤い唇。
今でもアリアリと思い出すことが出来る。
内側からの輝きを、一つも隠そうとしなかった彼女に、最初は反発を覚えた。
女がリーダーでやっていけるのだとか、女子供の遊びじゃないんだぞだとか──、衝突したのも一度や二度じゃない。
彼女の顔を見たくないときだってあったし、声を聞くだけで不愉快になったこともあった。
けれど、その時ですら、彼女の一字一句、一挙手一動、その全てをアリアリと胸の内によみがえらせることができる。
────最初から、惹かれていたのだと、想いを自覚したときに思ったことを、いまでも思う。
好戦的な笑顔で、彼女は笑っていた。
──ここが、私達解放軍の、本拠地よ。
鉄さび色の髪をした彼女。
白い肌をほんのりと日に焼けさせて、まっすぐな瞳で前を見ていた。
優しい微笑み、あでやかな笑顔。触れた指の熱さと冷たさに、泣きたい気持ちになったこともあった。
容易く抱き寄せたことなんて、一度もなかった。
俺の知っている彼女はいつも、「解放軍のリーダー、オデッサ=シルバーバーグ」だったから。
「……──まぁ、何も残ってはいないだろうと、思ったけど、な。」
苦い色の笑みを口元に貼り付けて、フリックは悪臭を放つ下水道の中を、ゆっくりと歩き出した。
6年もの月日。
記憶はとおの昔に薄れてしまったと、そう思ったからこそ、ここへ来た。
そう思ったからこそ──ここへ来ようと思った。
最後に、彼女と、「すれちがった」場所。
──チクリ、と、胸の中で何かが鳴いた気がして、フリックは指先を織り込むように握り締めた。
見回した暗闇は、人の気配もなく、ただ静まり返っていた。
暗い、淀むような空気。鼻をつく悪臭。流れる汚水の中に混じって浮いているネズミの死骸。
「──初めてここに踏み込んできたときに、タイムスリップしたみたいだな。」
はは、と、軽く笑ったつもりが、喉で言葉が詰まった。
──6年だ。
初めてここへ踏み込んだときから、ほぼ8年。
もうすぐ10年もの月日が経つ。
それならいっそ、10年という期間を置いてから来たほうが良かったのだろうかと思った。
6年と言う月日ですら、長く置きすぎたと──そう、思っているのに。
ジャリ、と、足元で瓦礫の残骸が音を立てる。
奥へ進めば、突き当たりに壁。左手に折れて、先に進めば──……。
『掃除が必要ね……。』
「掃除が、必要だな……、こりゃ。」
苦い笑みがますます苦く──我ながら泣きそうな声だと思いながら、フリックはグルリと周りを見回す。
カビの臭い、埃の臭い、水が腐ったような臭い。
それを見回して、8年前、彼女はそう言った。
大掃除だわと、鼻の頭に皺を寄せて笑った。
それでもその目に宿る輝きも、意思も──何もかも、消えることはなかった。
全員で走り回って、綺麗にした。
床は磨いて、くもの巣を取り払って、巣食っていた害虫をたたき出して。
ようやくなんとか暮らせそうに整えた頃には、すっかり疲れきっていて──その奥から湧き出てくる、言い知れない高揚感は、今でも覚えている。
これで、本格的に行動が開始できる。
そう言って、赤月帝国の地図を広げた机。──上の宿で借りた古びた机が、一番最初の……「解放軍本拠地」の、備品だった。
これからが本番だと、目を輝かせた彼女。
自分たちには分からない知識や、ひらめきや、情報をいつの間にか手にしていた彼女。
時々見せる、儚いまでの弱さや、それを跳ね除ける力強い瞳や。
それから、
「………………──オデッサ……────。」
彼女の名を呼んだ瞬間、ふと一瞬掠めるように見せる、娘らしい微笑みが、自分に向けられ始めたのは──……、いつから、だっただろうか?
何もかんがえず、踏み出した足元で、カラン、と小さな音が立った。
それと共に、壁の隅の方で何かが小さく鳴く声が聞えた──ここに住み着いたネズミか何かだろう。
ぐるりと首をめぐらせると、闇に落ちたいくつかの部屋が、淀んだ色と空気を纏っているのが否応なく目に飛び込んできた。
「──……8年前と、まんま、同じだな。」
思わず苦い色を刻み込んで、フリックは足元に触れた瓦礫を、カコンと蹴りつけた。
こぶし大ほどの大きさの瓦礫は、そのままゴロゴロと転がり、壁先でコツンと跳ね返る。
その瓦礫の先には、闇に沈んだくすんだ壁。
8年前の大掃除の時に、鉄さび色の髪を一つに結わえた娘が、上の宿から借りてきたモップで必死に磨いていた壁だ。
黒カビが生えたソレを綺麗に落として、除菌だと熱湯を振り掛けて──なんとも口に出来ないような匂いが立ち込めたココから、全員で逃げ出したこともあった。
──……その、8年前の大掃除も。
いや、それどころか、グルリと見回した下水道の──はるか昔、継承戦争当時にバルバロッサ=ルーグナーが使った根城の一つといわれているこの場所の、どこもかしこも、8年前に初めてココを訪れたときそのものの様相をしていた。
解放軍の旗を貼り付けた壁も、中央に置かれていた机も、寝床のために取り付けた分厚いカーテンも、古びたベッドも。
住みやすいように、居心地がいいようにと、全員で協力してきた砦──あの「運命の日」まで、2年に満たない間、過ごした気配は……、
「……何も、残って……、ない、な…………………………。」
ガラン、と静かな下水道に自分の声が響くのを聴いて、フリックは自嘲じみた笑みを浮かべる。
下水道と隣接する「道」から外れて、一際大きな部屋の形を取った場所に足を踏み入れた。
6年前は、明るい明かりに満ちた部屋の中で、地図と旗と机と椅子が並んでいて、その中央にオデッサが立っていた。
フリックが入ってくると、真剣な面差しで机を見下ろしていた顔をあげて、眉間に刻んだ皺を即座に解いて、ホロリと笑った。
──お帰りなさい、フリック。
最初は、副リーダーであるフリックを迎えるための、穏やかな微笑み。
いくつかの報告事項を先に尋ねるオデッサの、視線のすぐ真下に見えるオデッサの前髪と、額に巻かれた細い飾り紐。その下で笑みの形に緩む瞳。
けれどすぐに、報告を終えた後、彼女は甘い色を宿した笑みを浮かべて、その手の平でフリックの頬に触れた。
……怪我は、ない?
少しだけ、ためらうように尋ねる目は、「リーダー」ではなかった。
かすかな心配の色を宿すオデッサの、その甘い気配を見せた色が、ひどく自分の心を掻き乱した。
──解放活動をしている限り、彼女は「リーダー」としての自分を最優先する。
一個人ではなく、「兵」としての顔を最優先するオデッサと、いつも甘い色を共有するには、この内戦を終らせるしかなかった。
「そう」なってしまうのは、シルバーバーグの血の成せる技かしら、と──いつだったか、オデッサが手の平を見下ろしながら、苦く……苦く笑みを刻んでいたのを、フイに思い出した。
「ココも、頑張って拭いたのにな。」
勤めて声を明るく絞り出しながら見回した部屋の中は、ガランとしている。
6年前、ここが初期解放軍の本拠地であったとは思えないほどだ。
暗闇に慣れた目でも、部屋の端の方までは見えない。けれど、何も残っていないというのは、分かった。
きっと、6年前のあの日──ココが帝国兵に踏み込まれたときに、何もかも、押収されてしまったのだろう。
その後は厳重に封鎖されて────そう、封鎖されたからこそ、自分はココに立ち寄ることはできなかった。
ここの封鎖が解かれたのは、赤月帝国が崩壊した後で──それまで一度も、俺はココに立ち寄ることは出来なかった。
最後に出たときには、もう二度とココへ踏み込むことが無いなんて、思ってはいなかった。
視察から帰ってきたら、オデッサが「あのビクトール」と「なんか得体のしれないガキ」どもと一緒に、「伝説の火炎槍の設計図」という武器を持って帰って来て──そこからが本当の戦いの始まりだと、思っていた。
リーダー自ら走り回るオデッサと、同じくリーダーの代わりに指揮を取る為に走りまわる副リーダーである自分と。
一緒に入れないのは、当たり前で。
だからこそ、一緒に居られる時間を大切にしていた。
共に戦いの中に身を投じるからこそ、一緒に居られる時間は、本当に、大切で。
「──……けど俺は、それでも──お前を一生喪うことになるなんて……、分かって、いなかったんだろうな………………。」
ギュ、と。
握り締めた手の平に力が入るのを感じながら、フリックは眉をきつく顰めた。
そのまま少し──ひんやりと冷えた気のする空気の中、立ち尽くして。
やがて、肺の中まで匂いが充満してきそうになった頃──ようやくフリックは、こみ上げてきた思いをすべて飲み込むように、喉を上下させた。
ゆっくりと顎を上げて、天井を睨みすえる。
茶色じみたシミ、黒いカビの色。水が染み出たようなシミ。
胸にしみこむ腐臭の中に──体中にまとわりつくような、甘ったるい血の匂いがしたような気がした。
「オデッサ……。」
大切に、いつくしむように、フリックは、そのたった一つの名を呟く。
──6年前。
この崩れた本拠地を出て行った後、フリックとすれ違うように、ココへ戻ってきた彼女の名前を。
それが故に──自分が看取れなかった、ただ一人の人。
部屋の中央に歩み寄り、フリックは無言でその場に膝を折った。
明かりがついていたら、フワリと舞う埃が見えたことだろう──ごほり、とフリックは喉を緩く鳴らして、その位置から周りを見回した。
……たぶん、これが。
オデッサが、最後に見た、光景。
「────………………すまない……オデッサ………………。」
本当は、もっと早く来るはずだった。
本当は、彼女が死んでしまったと聞いたときには、ここへ駆け戻ってきたかった。
けれど、ハンフリーが全身でソレを止めた。
駆け出した自分を、あの少年が迎えに来た。
強く目を閉じて──クラリと眩暈を覚えるほど、瞼が熱くなる。
一気に全身を駆け抜けるような熱さに、ブルリと体が震えた。
天井を仰ぎ見るように全身を抱きしめて、ギュ、と唇を噛み締め、込み上げてくる想いをすべてかみ殺す。
6年。
その長い月日の中、悲しみも痛みも苦しみも、すべて噛み砕いて飲み込むすべを身につけたと思っていた。
なのに、今、俺は。
堪えきれない感情に、込み上げてくる嗚咽を堪えることが出来なかった。
──もっと早く、こればよかった。
そうしたら。
君とココで過ごした痕が、何一つとして残っていない──そんな世界で、君の最後を思うことも無かったのに。
たとえ月日が経とうとも。
だからこそ、この想いは──決して、色あせることは、ない。
シリアスな展開の余韻をぶち壊すあとがきへようこそ。
いつもそんなあとがきでスミマセン。
さて、私…………。
フリックさん苛めるの、大好きです☆ミ
(……え、もう気付いてたって? えへへv)
こうやって悩んでるフリックさんの後ろで、ぼっちゃんの右手から抜け出したオデッサさんが、快感に震える体をギュウと抱きしめながら、
「あぁ……フリック──……っ、そんなあなたが、とってもス・テ・キvv」
とか言って、自分の女としての幸せに酔ってくれていると、(フリックさんが可哀想すぎる)絵として、とてもステキになると思います(←かんがえるなよ、そんなこと)。