2 好きで好きで仕方ないんです
時間軸:ドラクエ4 旅のさなか
明け方の、まだ薄暗闇に包まれる中──、朝露に濡れた草が、しっとりと冷たく、頬に当たっていた。
毎日違う場所で迎える朝。
濃厚な森の匂いにまぎれて、ふと感じた血のような獣のような──生臭い匂いに気づいたのは、誰が先だったか。
焚き火の前で寝ずの当番をしていた青年が置いていた剣を手にするのと、横になって寝ていた娘が飛び起きるのと、ほぼ同時。
ムクリと起き上がった戦士が剣を抜いた瞬間、焚き火の光りをキラリと反射した。
まるでそれが合図だったかのように、一瞬で辺りは緊迫した雰囲気に包まれる。
立ち上がることもせず、じり、と膝を移動させて、辺りを伺う。
そのまま、どれほどの時間が過ぎたか……確実に近づいてくる獣の匂いと気配に、ビリリと痛いほどの殺気が、溢れる。
その殺気と緊迫感に、賢く息を潜めていたパトリシアが、堪えきれずに身じろぎをした瞬間──、戦端は切って開かれた。
暗闇を縫うように飛び掛ってきた小柄な影が何なのか目で追うよりも先に、小柄な少女の体が跳ねる。
「……ふっ……。」
短く零れる吐息。そして一瞬の呼吸の後、
「はっ!」
ヒュンッ、と風を切る音が聞こえた。
それと同時、ゴッと鈍い音が鳴り、焚き火の頼りない明かりの向こうで、固いブーツの踵に蹴られたモンスターの顔を認められた。
すでに蹴られてへしゃべていたが。
軽やかに空中で回転して、彼女はそのまま地面に着地した。
──その、瞬間を狙うかのように。
「──アリーナっ!」
びりっ、と空気を震わせるような女の声が聞こえた。
それが、馬車の中で眠っていたマーニャの声だと判断するよりも早く、アリーナの体が反転する。
むき出しの刃のように鋭い殺気が、己に向かって研ぎ覚まされていたのには気づいていた。
ただ。
「──……くっ…………っ。」
間に合わないと感じるほうが、速かっただけで。
ヒュッ、と視界を横切る影に、とっさに体をずらすのが精一杯。
すぐに闇の中から、焼け付くような衝撃が飛んできた。
「キャァ……っ!」
思わず零れた声とともに、右腕に走った熱さに手を当てる。
同時に、
「ユーリル、ライアン、伏せてっ! メラミっ!!」
馬車の中から一際高い声をあげた女の手が一瞬で輝き、熱い炎が、焚き火の近くで大きく爆ぜる。
その人の高さほどもある火柱によって、浮き立ついくつもの影と、地面にしゃがみこんだアリーナの白い頬。
認めた途端、すかさずユーリルが呪文詠唱に入り、ライアンが焚き火の中から炎が灯った木を掲げる。
一瞬で視界が広くなったことへ、影にうごめいていたモンスターたちが、大きく間合いを図ったのが分かった。
「姫様っ!!」
その隙に、クリフトは迷うことなくアリーナに駆け寄り、馬車の中からマーニャとミネアが飛び出してくる。
恐慌を必至で堪えるパトリシアを宥めるのは、トルネコとブライの役目だ。──いざという時の見極めは、彼ら2人がしてくれるはず。
「──……っ、つ……っ。」
腕を押さえ、ギリリと唇を噛み締めるアリーナの白い頬を覗き込んで、クリフトは彼女の傷の具合を確かめようと手を伸ばす。
「姫様、大丈夫ですか!?」
焦るように問いかけながら手元に視線を落とせば、真っ赤に染まった袖口から、血が溢れるように出ているのが分かった。
声を出すのも苦痛なのか、アリーナは額に脂汗を滲ませたまま──ふいにフラリと体をかしがせる。
「姫様……っ。」
慌てて抱き寄せた体から、甘い血の匂いと汗の香がした。
かすかに震える体に手を当てて、クリフトは小さく息を吸うと、神経を集中させて回復呪文を口にする。
「ベホイミ。」
その言葉とともに掌に宿った光りが、ふわり、とアリーナの腕を包み込む。
そこでようやくアリーナは、うっすらと瞳を開き──己を抱きとめている男を見上げた。
「──……大丈夫ですか、姫様?」
「う……ん、へい、き。──ありがと、クリフト。」
回復の光りが消えると同時、その双眸に強い光を込めて、アリーナがにこりと笑う。
「大丈夫ですね?」
怪我を負った腕に手を当てて、もう一度確認するクリフトに、アリーナは今度もしっかりと頷き、クリフトの手を借りてスックと立ち上がると、好戦的な瞳で告げた。
「ええ。──……クリフト、援護して!」
「はい!」
もちろん、それに否を唱えるまでもない。
クリフトはアリーナの少し後ろに立ち位置を決めると、全員の守備力を挙げるために、スクルトの詠唱に入り始めた。
──ジクリと痛む、言い知れない感覚を振り払うように。
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熱が、──取れないんです。
宿の窓の桟に両手を突いて、空を見上げた。
闇色の空に、ぽつぽつと宿る光が不思議と明るく感じて、目を細める。
ひんやりと冷えた風に当たるのを感じながら、そのまま視線を落とせば、地上では家々の窓に、温かな光が宿っているのが見えた。
小さな──本当に小さな宿場町は、日が暮れて真夜中に近い時間になれば、ただ静けさの帳が落ちる。
その静かな夜を見つめながら、クリフトは、はぁ、と吐息を零す。
夜の匂いを十分含んだ風は、クリフトの熱い吐息を攫い、どこか遠くへと運んでいく。
そうやって、自分のこの持て余した感情も、運んでくれたらいいのにと、──ふと、思った。
胸の中が、火照るようにジクリと痛い。
目を閉じれば、すぐに思い出せる間近で見た人の容貌。
日に焼けた滑らかなみずみずしい肌と、思わず吸い寄せられるように視線が落ちたふっくらとした桃色の唇。
汗が滲んだ額と、顰められた柳眉。伏せられた長い睫が、かすかに震えているのまでもが一瞬で見て取れた。
腕に抱え込んだ体は、思っていた以上に軽くて柔らかで、壊れてしまいそうに華奢だと思った。
先ほど、恒例の夜のマッサージのために触れたじい様の体も、華奢で壊れてしまいそうに細いと思っていたけれど、そんな感触ではなかった。
そんなものとは、比べ物にならなかった。
治癒のために体に触れることは何度もあった。
そのたびに意識がどこか遠くへ飛ばないように、必死に目の前に見える赤い血の色にばかり目をやっていた。
その血の色を見ていれば、あなたの匂いに、あなたの眼差しに、あなたの感触に──意識を奪われることはないと、知っていたから。
ただ、あなたが傷ついたことが痛いと、そう思うだけですんでいたから。
──なのに。
「──……消えない、な……。」
小さく呟いて、クリフトは窓の桟についた両手を見下ろす。
冷たい風に、この熱ごと攫われてしまえばいいと思う。
ジクジクと、触れてもいないのに、熱さを訴える──甘い疼きを訴えるこの手を、いっそ、捨ててしまえたらと思う。
熱が、体の内側で火照っている。
飛び出していく小さな体が、どれほど強靭でどれほど強いか知っていた。
でも、抱き上げたその体が、あれほど華奢で柔らかくて、いいにおいがすることは、知らなかった。
違う。
知っては、いけなかった。
「………………はやく……消さないと、いけないのに……。」
はやく消さないと。
そうしないと、手遅れになる。
そう呟いて、クリフトはどうしようかとかんがえる。
お風呂に入って、冷たい水で流しても、熱は取れることはなかった。
意識を散らして、違うことを考えても、祈りを口にしても、熱は消えなかった。
それどころか、夜の静けさが舞い落ちてくればくるほど、頭の中はそのことで一杯になる。
昼間の戦闘で、ふと触れたあの人の肌の感触が。あの人の柔らかな弾力が。あの人の髪の匂いが。あの人の瞳が。──あの人の重みの何もかもが、鮮烈に自分の中で蘇ってくる。
まだこの手の中に、あの人を抱きしめているようだと──甘いうずきが、胸を占める。
切ないばかりのこの感情を持て余して……クリフトは、はぁ、と、何度目になるか分からない溜息を零した。
そう、早く消さないといけない。
そうしないと、手遅れになる。
何度目になるか分からない言葉を、今また繰り返しながら、クリフトは手の平をギュウと握り締めた。
手を握り締めたら、その強い感触に、あの感触が無くなっていきそうな気がしていた。
指先が白くなるほど、握って──握り締めて。
唇を小さく噛み締めて、クリフトは切なげに夜の街を見下ろす。
空には星が瞬く。──その輝きが、昼間見たあの方の瞳のようだと思う。
冷たい空気の中、自分の吐いた息ばかりが熱い──それが、あの時間近に感じた彼女の吐息のようだと思う。
その手の平を見下ろして、忘れなければと、消さなければと思うほど、それを拒むように込み上げてくる感情に、ギリリと唇を噛み締めて、クリフトは堪えきれないように背を曲げ、握り締めた手の平の上に額を押し付けた。
まざまざと、忘れたくないように蘇る感触に、泣きたいくらい、悲しくなる。
どれほど想っても、この思いが実ることはないのに。
「──……アリーナさま………………。」
口に出すことが許されるのは、ただこの名前だけ。
この先の独白は、決して口にしてはならない。許されてはならない言葉だ。
誰にでもなく、他でもない己が、己に課した「罪の言葉」だ。
アリーナさま。
弾けるように笑う、太陽のようにまばゆい方。
守りたいと想うのと同じくらい、奪うたいと想う──この気持ちが、罪だと、そう分かっている。
純粋に守りたいと、そう想っていられたら、どれほど幸せだっただろうか?
いつか未来、あの方の隣には、あの方にふさわしい──サントハイムの王となるべく人が立ち、私の前で愛を誓い合う。愛と未来と忠義を。
それは、幼い頃から、決して揺るがない未来だ。
クリフトはその時が来たら、微笑みながら祝福の言葉をかけるのが役目だと、想っていた。これだけは他の誰にも譲りたくないと想うからこそ、今まで頑張ってきたのだ。
だから。
だから、この思いには、決して気付いてはいけないと、鍵をしてきたのに──今でも、漏れ出るこの感情を、きちんと制御してきたと、そう想っているのに。
なのに、どうして。
「……アリーナ、様…………。」
祈るようにその名を呼ぶ。
この思いが口に出さなくてもあなたに届いてほしいと、浅ましく。
この思いが、今のように切ない色を宿してあなたの元に届かないようにと、心から。
指先に感じたあなたの柔らかさが取れない。
唇に触れたあなたの吐息が、ゆがみを持つほど切ない。
クリフトの目を見ることもなく、戦況を見極めるために走らされた瞳の軌跡が、切ないほど、痛い。
「──……っ。」
誰にともなく、「あなたが好きなんです」と──その一言だけでも口に出来たら、この思いはもっと軽くなるだろうか?
自分の中に閉じ込めてしまうから、この思いは、どんどん大きくなっていくのだろうか?
好き、だと。
愛しているのだと。
好きで、好きで、もうどうしようもないくらい──……体のすべてがあなたを欲しているのだと。
そう、自分に独白するように零せば、もっと気持ちは楽になるのだろうか?
内側から壊れそうな想いも──無くなるのだろうか?
それとも。
もっと、と──とどめなく、溢れてしまうのだろうか?
触れなかったら良かった。
「アリーナさま………………。」
ただ思いを堪えるように、その名をつむぐたびに、自分の中に──蓄積していくような、熱い熱が、ある。
まさにクリフトのためにあるようなタイトルだと思います(キッパリ)。
アリーナ出てきてないけど。
いつか切羽詰ってアリーナに告白するときは、壁にドンと手をついて顔をゆがめて、驚く顔のアリーナに向かってこう言ってほしい。
「好きで好きで仕方がないんです……っ。」
もう、本当に切羽詰ってて、泣きそうなそうじゃないような顔でよろしくお願いします。
一度でいいから、言われてみたい台詞ですな(笑)。