いつものように、自室の窓から尖塔の上までよじ登ったアリーナが、ビロードのような夜空を指差して、星座の名前を口にするのを、隣に座って聞いていた。
 旅の空の下で覚えた星空は、本当にたくさんあった。
 季節や地域によって空が変わるということをアリーナは知り、新し星座を見つけるたびに、クリフトやブライを捕まえて、空を指差して「あれは何という の?」と聞いていたのも、今はもう──遠いほど懐かしい思い出。
「あの星は……えぇーっと……。」
 満天の星空を指差した指先が、ふらりと揺れるのを見上げながら、クリフトは小さく笑みを零す。
 隣に座る姫を横目で見やれば、彼女は闇夜に浮かび上がる秀麗な容貌を顰めて、唇を少しだけ突き出していた。
「え、……と……。小熊……座? うぅん、それは……だし。」
 考え込むように小さく呟く声が愛らしくて、クリフトは微笑みながらそんな姫を見守る。
 どんどん眉間の皺が濃くなっていくのを見ながら、
「そろそろ降参ですか、姫様?」
 かすかなからかいの色を滲ませて、星座学の「教師」の顔になって取り澄まして尋ねれば、姫はムゥと唇を尖らせて、クリフトの顔を見上げる。
「ちょっと待って、ここまで出掛かってるの。」
 言いながら、喉の当たりをさすって、彼女は再び挑戦するように星空を見上げた。
「えーっと…………。」
 また悩むように、グ、と眉間に皺を寄せるのを見ながら、クリフトは微笑ましい気分で、彼女の横顔を見つめた。
 旅に出る前は、考えるよりも先に答えを求めるようなところがあったけど、今は最後の最後まで、自分で突き詰めて考える。
 それが嬉しく微笑ましく思う反面──すぐに自分を頼ってくれるところが無くなったのを、悲しく思う。
 ……──けれど。
 そのまま見守っていると、すぐにアリーナは、星座の名前を思い出したのか、明るい笑顔でクリフトを振り返った。
「さそり座だわ! あれが尾っぽ! ね、そうでしょ、クリフト!?」
 パァッと、花ほころぶようなその笑顔は、自信に満ちていて、目もキラキラと輝いている。
 年頃の姫君がするにしては、少々幼い表情だけれど、彼女の嬉しそうなその顔は、とてもアリーナらしいと思う。
「はい、正解です。良く覚えていらっしゃいましたね?」
 微笑みを深くしながら満面の笑みを浮かべるアリーナに、ゆっくりと頷いてやる。
 そうしながら、彼女が指差した星の先端に当たる星を指で指し示して、今度は少しだけ難しい問題を一つ。
「それでは、さそり座の一際大きく輝くあの星は、なんと言うのだったか、覚えていらっしゃいますか、姫?」
 イタズラっぽく目を細めて問いかければ、アリーナはすみれ色の瞳を大きく見開いて──その目にかすかな狼狽が走ったのを認めて、クリフトはシレッとした 表情で、さぁどうぞ、と彼女に促す。
 アリーナは途端に、困ったように眉を寄せて──それでも、一生懸命答えを思い出そうとするかのように、視線を宙にさまよわせた。
 今度は、答えも何もかも浮かび上がってこないのか、彼女はすぐに嘆息とともに首をうなだれさせると、ヒョイ、と肩を竦めて、
「降参だわ、クリフト。欠片も浮かんでこないもの。」
 悔しそうな色を口元に滲ませて、白旗をあげる。
 旅に出る前なら、彼女はそれを当たり前のように口にしたけれど──今は、思い出せなかったことが、ひどく悔しそうに見えた。
 クリフトは、そんな彼女に柔らかに微笑みながら、もう一度煌く星を指差す。
「さそり座には、明るい星が多く、そのほとんどに名前が付けられているのですが──その中でも一際大きく輝くあの星は、アンタレスといいます。」
「アンタレス……あー……うん、そういう名前だったような気がするわ。」
 とても有名な名前なんですよ、とクリフトが続けると、アリーナはクシャリと顔を歪める。
「クリフトにね、あの星はさそり座の心臓に当たる部分だって聞いたのは覚えてるの。
 でも、アンタレス……って言う名前は、覚えにくいわ。」
 拗ねたような口調で、かすかに頬を膨らませる──今では、旅のさなかを一緒に居た友の間でしか見せない、子供じみた仕草だ。
 そんな表情で見上げてくるアリーナに、クリフトは緩く首を傾げると、さそり座にまつわる幾つかの神話を思い浮かべながら、そうですねぇ、と呟く。
 それから、あぁ、と声を上げると、
「アンタレスという言葉が、どこから来たのか……という話は、したことがありませんでしたよね?」
「……うーん……ない、と思うわ。」
 コクリ、と頷いて、アリーナは顎を逸らして夜空を見上げた。
 夜も遅くなると、城のどの窓からも漏れていた明かりが消え、見張りの兵士の周囲に焚かれる松明ばかりになる。
 そうすると、見上げた真っ暗な空に浮かび上がる星の数が、ぐんと増えて──まるで本当に、星が降ってきそうで、眩暈すら感じる。
「アンタレスというのは、『火の星に対抗するもの』という意味があるんです。」
「あ、それは知ってるわ。ブライが言ってたの。──えーっと……さそり座は、昔から赤い星……火の星が近づくことがあって、その火に負けないように、さそ り座は心臓に赤い色を持っているんだって。」
 思い出すように指先を顎に当てて──最後まで言い切れた瞬間に、嬉しそうにホロリと微笑む。
 そんな彼女の表情は、暗闇にまぎれてうっすらとしか分からなかったけれど、クリフトには手に取るように目に見えて分かった。
 甘い色を滲ませた微笑みを口元に貼り付けながら、そうですね、と一つ頷いて、
「アンタレスという名前が一番有名ですけど、他にも色々呼び名がありまして、赤い色をしていることから、火、大火──と呼ばれたり、さそりの心臓という意 味で、コア・スコルピィと呼ばれることもあります。」
「そのほうがずっと分かりやすいのに、どうして星の名前って言うのは、アンタレスだとか、シリウスだとかアルタイルだとか、覚えにくい名前が多いのかし ら!」
「それは……神話に基づいて名づけられたりしていることが多いからでしょうね。あとは、見つけた人の名前がつけられたりとか……。」
「…………私、人の名前は覚えるのが得意なほうだと思ってたけど、そうでもないのかしら?」
 はぁ、と唇から吐息を零して、うーん、と唸り声をあげるアリーナに、クリフトは、困ったように小首を傾げた。
「それは困りますね、姫様。
 王女殿下ともあろうお方が、人の名前を覚えられないとは。」
 軽口を叩くようにそう説教すれば、アリーナはクシャリと眉を寄せて、分かってます、と、顎を逸らしてツンと答えてくれた。
 そんな彼女に、くすくすとクリフトは小さな笑い声を零しながら、そうですね、と答える。
 アリーナは、柔らかな微笑みを浮かべたまま、空を見上げているクリフトを、首を傾げるようにして見上げながら、
「──あのね、クリフト? 心配しなくても、誰かの名前を間違えるような失敗は、しないわよ?」
 ほんの少しだけ、不安に揺れた眼差しで、大丈夫、と微笑みかける。
「……分かっています、姫様が、毎日一生懸命お勉強をされていることくらい。」
 旅に出る前は、サントハイム国内の貴族の名前を全て覚えることで手一杯だったアリーナが、今は世界各地の国王とそれに連なる者たちの名前を覚えるように なった。
 彼女の視野は、国内から国外へと──そして世界の隅々にまで向けられようとしている。
 そのための勉学を、彼女は必至に果たしている。
 そのことを──他ならないクリフトが、一番良く知っている。
 格闘技の技についての本ばかりが並んでいた本棚に、貴族名鑑や家紋名鑑が並び始めたのも、ここ最近のことではない。
 旅を終えて帰って来たアリーナは、周りが思うよりもずっと、成長し……周りを見るための力を養おうとしている。
 そのことは……良く、分かっている。
「私の言い方が悪かったのですね、姫様。
 姫様は、本当に良く頑張っていらっしゃいますよ。……だから、大丈夫です。」
 自分の勉強の成果に自信がないのか、それとも本当に覚えていなかったことが悔しくてしょうがないのか──クリフトの目に分かる程度に肩を落とす彼女の背 中を切なげに見つめてから、クリフトは再び夜空を見上げた。
「でも──せっかく覚えたのに、忘れてしまうのは……悔しい。」
 キュ、と、桃色の唇を軽く噛み締めるアリーナに、微笑みながら「星の名前を覚えるよりも、姫様にはもっと大切なことを覚えていただかなくては」というの は、簡単なのかもしれない。
 でも──そんなことは、言いたくなかった。
 星を見上げて、あの星が何なのだと──そんな風に語る余裕を、彼女から奪い取ることだけは、したくなかった。
 何よりも──……あの旅の空の下で、一緒に見上げながら覚えた星の話を、アリーナが忘れてしまうのは、悲しかった。たとえそれが、ただの自分のわがまま だとしても。
「……時々こうして、夜空を見上げて、星の名前が分からなくなったら、その時にまた聞けばいいんですよ、姫様。」
 苦笑を刻みそうになる口元を引き締めて、微笑みを登らせながら、クリフトは彼女の横顔を見つめた。
 アリーナは、小さな幾億のも星を見上げていた視線を、ゆっくりと落として、クリフトに向ける。
「姫様のお立場上、人の名前を忘れてしまうのは、大変なことです。
 でもそれだって、毎日いつも覚えているわけではないでしょう? その方の顔を見た瞬間に思い出せればそれでいい……と言ってしまっては、教育係り失格な のかもしれませんが、結局はそういうことです。
 忘れてしまったら、また勉強すればいいだけのことです。……一度覚えたことは、忘れてしまっても、1から覚えるよりもずっと簡単に覚えることができるん ですよ、姫様。」
 自分の小さい頃を思い出すように──教典を前に、どうして暗唱ができないのだろうと途方にくれたあの日々を思い出しながら、大丈夫です、と繰り返す。
 アリーナは、大きな目を何度かゆっくりと瞬いて──、はらりと花がほころぶように笑った。
「それじゃ、分からなくなったら、またクリフトに聞くわ。」
「はい、喜んでお教えいたしますよ。……なんどでも。」
 大切そうに、噛み締めるように最後の言葉を伝えれば、アリーナは本当に嬉しそうに笑った。
 輝くように柔らかに──ハッと目を引きつけられるほどあでやかに笑って、アリーナは、約束、と、右手の小指を差し出す。
「それじゃ、約束よ、クリフト?」
 少しだけ体をにじり寄せるようにして、真下からクリフトの顔を見上げるように近づいて、アリーナは彼の口先に自分の小指を差し出す。
 ほんのりと甘い香りのする──贅沢な香料をふんだんに使った石鹸の香りが鼻先をくすぐるのに、クリフトが軽く目を見開くのを、彼女はイタズラ気に見上げ る。
「私が星を見上げるときは、クリフトも一緒よ? ──ずっと、これからも。」
 その、約束。
 そう言って、無邪気に笑うアリーナに、クリフトはただ目を見開いて、彼女の瞳を見つめることしかできなかった。
 すぐ間近で揺れる、星の光の宿ったすみれ色の瞳に、浮かび上がる男の顔は、ただ呆然としていた。
「クリフト?」
 甘い唇が、囁くようにいぶかしむようにクリフトの名前を呼ぶ。
 その唇が、ねぇ、と、催促をするように開いて促すのに、誘われるようにアリーナの小指を掌で包み込んだ。
 その指先が、かすかに震えた。
「……クリフト……?」
 戸惑うように問いかけるアリーナの──細く華奢な指の感触を指の付け根に感じながら、クリフトは自分のすぐ真下に見えるアリーナの瞳に近づく。
 まるで、花の甘い香りに誘われる蝶のようだと思った。
 近づいて──目の前に迫るすみれ色の瞳に、ますますがんじがらめになって、気づけば、引き返せないほど間近で、アリーナの睫が震えていた。
 焦点が合わないほど間近に迫った彼女の、ほんのりと闇に浮き出た白い肌が、かすかな朱を刷いて、
「クリフト?」
 戸惑いながらも、眉を寄せて問いかけるアリーナの唇が、ほんの紙一枚ほどの距離で、動いたのが分かった。
 吐息がからまるほどの近く──囁きでなかったら、唇が触れてしまうのではないかと思うほどの間近。
 アリーナが、いぶかしげに問う声に、ハッ、と、我に返った。
 焦点がゆがんでいた視線が、フ、と点を結べば、すみれ色の中に写る、愕然とした己の顔。
「──……ぁ……。」
 それを認めた瞬間、クリフトの中に沸き起こったのは、怯えと恐怖がない交ぜになった、衝動だった。
 とっさに、そのままアリーナを抱きしめて、自分の腕の中に閉じ込めてしまいたいという凶暴なまでの思いと、それに恐怖し、彼女を突き飛ばして逃げてしま いたいと思う衝動と。
 その相反する二つの感情にせめぎたてられて、とっさのことに動くことができなかった。
 ただ、呆然と──自分がしようとしたことに、愕然とするクリフトに、アリーナは軽く首を傾げる。
 近づきも遠ざかりもしないクリフトの顔に向かって、困ったように眉を寄せると、
「クリフト──……、どっちにするの?」
 まるで、クリフトの中のせめぎあいを読み取ったかのように、問いかけてくる。
「──……っ!」
 アリーナの無邪気な問いかけに、ハッ、と身を硬くして、クリフトは必至に怯えと恐怖を隠すように彼女を見下ろす。
「それ、は──……、どういう……?」
 声が震えないようにするのに必至だった。
 自分の心の中の、汚いところも、潔白でありたいと考えているところも──その何もかもを彼女に見透かされているのかと思うと、このまま逃げたいよう な……このまま、彼女を丸ごと浚ってしまいたいような。
 アリーナは、クリフトの必至の抑制に気づいていないのか気づいているのか、ますます困ったように眉を寄せると、彼が握りこんでいる自分の右手を軽く振っ て、
「指きりか、約束のキスか──どっちで約束するつもりなの?
 両方だと、約束を破ったときが大変よ?」
 ね? と、肩から髪を零れさせながら、反対側に首を傾げた。
 その途端──、
「………………………………。」
 アリーナが、何を言いたいのか──正確に理解したクリフトは、思わず、落胆と安堵が入り混じった溜息を零したくなった。
 己の気持ちに──問い詰められれば、決して言い逃れなどできないほど、切羽詰ったこの想いに、彼女はチリとも気づいてくれない。
 そんな彼女に、安堵を覚えるような──落胆を覚えるような……複雑な、まるで迷路の中で途方にくれているかのような感情。
 その感情を、思いのままに吐き出してしまえば、さすがのアリーナだとて、気づいてくれるのではないかと──そう思うこともあるけれど。
 でも、今は。
「──両方の約束を、アリーナさま。」
 アリーナの指を包んでいた掌を、彼女の掌を撫でるようにして開いてから、彼女の小指に小指を結びつけた。
「両方?」
「ええ、あなたとの約束を私が破ったときは、二重の罰を。
 ──……決して、約束はたがえたりしません。」
 姫君の手にしては、皮がしっかりとついた小指に自分の指をしっかりと絡め、先ほどよりは顔を離して──今度は、敬意を払った距離を保ちながら、アリーナ の額に優しくキスを一つ。

──まるでそれは、愛する男女の誓いのような……星空の下での、神聖な誓い。

 けれど、決してこの想いは、微笑みながらクリフトの誓いを受ける娘に届くことはなく。
 アリーナは、約束ねと笑って、クリフトの額に同じようにキスを落とす。
「私が星を見上げるときは、クリフトも一緒に──わたしに星の名前を教えてね? ……いつでも。」
「はい、いつでも。」
 それは、甘美な甘い甘い誓い。
 片思いのこの身には、幸せすぎて──切なすぎる約束。
 旅のさなかに居るときよりも、ずっと濃密な……距離。




────……いつかきっと、この約束は、彼女の「夫」の元へと引き継がれていく……、そんな、はかない誓い。




「さ、姫様。そろそろ下に下りましょう。
 ──風邪をお召しになりますよ。」
 さりげなく絡んだ小指を離して、アリーナの頬に指の甲で触れれば、アリーナが小さくわらって首をすくめた。
「ほんと。クリフトの手が冷たいわ。」
「ぁ……すみません。」
 楽しげに笑うアリーナに、慌てて指を引けば、アリーナはそんな彼に首を振って笑って──クリフトの手に、自分の手を絡めて握り締めた。
「明日の夜は、毛布を持ってこなくっちゃダメね。」
 キュ、と握りこまれて、思わず強張った肩を必至で宥めすかしながら、クリフトも微笑んで頷いた。
「それから、暖かい紅茶も。」
「ミーちゃんもね!」
 笑いながら、手を繋いで、屋根の上を歩き始める。
 空に輝く満天の星は、来たときよりもずいぶんと西に傾いていて、明日はもう少し早くに戻るように進めなくては、と、クリフトは思う。
 ──そう思うのと同じくらい、こんなときが、ずっと続けばいいのにと……叶うはずもない願いを、胸に抱く自分に、苦笑を覚えながら。




──「約束」の効力が切れるその日まで……あなたとこうして、空を見つめていたい。