「と、言うことで、桜の花が咲いたから、花見に行こうと思うんだけど、予算はどれくらい取れる?」
ニコニコニコニコニコニコ。
ひたすら明るい笑顔で尋ねる少年に、机に向かった男の米神が、ヒクリと揺れた。
「…………花見?」
低く唸るような言葉に、隣に立って本を開いていたクラウスが、なんとも言えない顔でその男と、魅惑的な笑顔を零す少年とを、交互に見やる。
相対的な表情を浮かべあう二人の間の机の上には、書類の山。
──なんだか懐かしい光景であるが、この仕事量が15年前とは違う意味合いを持っている事実は、クラウスも身に染みて分かっていた。
15年前──ジョウストン都市同盟のでの「新同盟軍 軍主」様は、ちっとも仕事をしてくれない、やんちゃ盛りのお子様だった。
そのため、シュウは毎日のように彼がしてくれない仕事の後始末に追われ、机にかじりつかなくてはいけない日々だったのだ。
が、しかし、あれから15年後の今。
自分たち「裏108星」のリーダーである少年……今もドア近くでニコニコと邪気のない笑顔を浮かべているスイ=マクドールは、新同盟軍軍主であったリオとは違い、きちんと仕事はこなしてくれる。
その素早さと的確さは、このトランの英雄と呼ばれる少年を毛嫌いしているシュウですら、唸り声をあげるほどのできばえだ。はっきり言って、文句のつけようのない仕事ぶりではある。
──が、しかし、問題はソコではない。
軍主が仕事をしてくれているのに、机の上に仕事が山積みだという、この事実が、問題なのである。
「──……そのような暇と時間が、一体、どこにあるというのですか……、スイ殿?」
地を這うような声で、シュウは低く問いかけながら、ジロリとスイを見上げる。
イヤミたっぷり含ませたとげとげしい声に、部屋の中の温度が一度か二度は下がったような気がして、クラウスは書類を抱きしめた腕を引き寄せるようにして、首を竦める。
そう──暇と時間は、ない。
そのことくらい、シュウの机の上に積まれている書類の山や、提案書の山を見れば、分からないでもないだろうに。
「え──暇、ないかな?」
シュウの──ラダトで商人をしていた時期には、この敏腕のシュウに睨まれた取引先は、ヘビに睨まれたカエル状態になるといわれるほどの──剣呑な睨みを正面から受けて、スイはゆったりとした動作で首をかしげる。
決してイヤミではない。
ただ、彼は本当に不思議そうに首をかしげるのだ。
この動作がまた、いやになるくらいおっとりと優雅に見えて、彼の育ちのよさが見え隠れする。
人は──かく言うクラウスもシュウも──、にじみ出るスイのこういう「お坊ちゃん然」とした様に、コロリとだまされてしまうのだが──、
「ちゃんと花見の時間をとるために、昨日までに三日先の仕事まで片付けたはずだよ?
確か昨日、シュウ殿に目を通して確認してくれるように言ったと思うんだけど?」
その見た目にだまされてはならないほど、彼はあらゆる意味で「有能」だった。
本当に、もう──天才肌の軍主と言われる男が、思い切り奥歯を噛み締め、必死で苛立ちを堪えるほどに。
「──……ええ……確かに、三日先の仕事までは、片付いております。
後は私が目を通して、しかるべき部署に指示を下せばいいわけです──……っ。」
有能すぎる上司を持つと苦労するなんていう言葉を、使うような場面があるとは、クラウスはこの「職場」に来るまで、全く知らなかった。
苦々しいほど──口に出すのもイヤだという響きをこめて吐き捨てるように答えるシュウに、スイはニッコリ笑って、パフ、と両手を交わした。
「そうだよね? なら、何も問題はないじゃないか。
今の僕は、差し迫った仕事もないし、暇で時間も有り余ってる──そうだよね?」
ニッコリ。
理論詰めにするわけでもなく、ただ純朴にそう尋ねているように見える。
そしておそらくソレは正しく……何よりも、事実スイは「仕事を片付けて」、「暇」──といっても過言ではない。
ただ、一気に仕事を回されて、シュウやその下の部署が、てんてこ舞いしているだけで。
上がさっさと色々なことを片付けて処理をこちらにまわしてくれても、その処理能力が追いつけるとは限らないということを、目の前の少年は知らないというのだろうか? ──いや違う、彼は知っていて、あえて仕事をサクサクと片付けてくれるのだ。
「そうですね──スイ殿は、確かに、暇かもしれません。」
「なら、明日にでも花見は決行できるね。」
有無を言わせぬ口調というのは、まさにこの時のこの少年の口調を差すのではないかと、クラウスは腕に抱きしめた書類に顎先を突きつけながら、溜息を零した。
威厳たっぷりに上から言いつけるのではなく、他からの意見は何も聞かないと言い切っているわけでもない。
なのに、彼がそう決めたと告げた瞬間、そこに二の句を挟むようなことは出来なくなる。
──まったくもって、有能すぎて困る軍主さまだとは、彼を【リーダー】として掲げるようになって少し……身にしみて分かることであった。
シュウもクラウスも仕事が遅いほうではないのだ、決して。それどころか、あのジョウストン都市同盟軍時代のおかげで、処理能力はトップクラスを張れると自負できる。
にも関わらず、仕事がやってもやっても終わらないのは──この目の前の少年が、仕事をこなすのと同じ量で、新しい仕事を押し付けてくれるためだ。
結果として、机の上には常に仕事は山積み状態となる。
──こんな新しい仕事を作る名人である軍主を掲げていた「シュウのお師匠様」というのは、とてもすばらしい人であったに違いない。
そうして、その「新しい仕事」を新たに持ち込んでくれた少年は、シュウから「花見決行の言質」が取れたとばかりに、ただにこやかに微笑んで、どこからともなく出してきた書類の束を、バサリ、とシュウの目の前に置いた。
その拍子に、机の上に山積みになったままの書類が、上の1,2枚だけヒラリと舞いかけた。
「──スイ殿、これは何ですか?」
わざわざ問いかけるまでもない……本当は。
スイがこのタイミングで持ってくる書類と言えば、分かりきっていることだ。
けれどしかし、シュウはゆっくりと──地を這うような声で低く問いかけながら、頬にかかる黒い髪をそのままに、ジットリとスイを睨みつけた。
その視線を受けて、スイは、うん、と無邪気に頷くと、
「『花』をめでる『花見ツアー』についての詳細。予算枠の希望を、簡単にまとめておいたから、目を通しておいて、異論があるようなら、今日中に言ってね。
明日、朝一に出かけるから。」
どう見積もっても、5センチほどある厚みの書類に、シュウとクラウスの米神がヒクリと震えた。
「な……ぜ、もっと早く、こういうのは出していただけないのですか……っ!」
「しょうがないじゃないか、花見にいけそうだって話になったのが昨日だったんだから。花の命は短いからね、今のうちに行っておかないと。
あ、もちろん、異論がないようなら、その予算組みで行動起こすから。」
──この少年は、やると言ったら、やる。
そのことに関しては、フリックやビクトール、さらにこの本拠地を浮遊する半透明の彼の父からの言からも、分かりきっていた。
提出された書類は、隅から隅までよく読まないと、とんでもない落とし穴がある。もちろん、書いた以上、彼はやる。そういう人間なのだと。
今から約20年ほど前に、つい見逃した「重要書類」の一文のおかげで、本拠地にいつの間にか湖の地層へ繋がる地下室なんてものが作られていて、アリの巣状態に地層に「モンスターの巣」に近い状態のが作られていたのだとか……どこまで本気なのか、考えるだけで頭痛がするような話を、酒の肴にビクトールが面白げに話してくれた。
そもそも、酒が入っているヤツラの「懐かしいなぁ、解放軍時代は。あの頃に比べたら、スイはずいぶんおとなしくなったもんだぜ」という話は、どこまでマユツバもので、どこから真実なのかは、分からない。
分からないが、彼が有言実行もすれば無言実行もする人間だというのは、間違いがないことなのだ。
「────……花見自体を取りやめにするという方向で、話を進めていただきたいところなのですが?」
「あ、それは無理。」
アッサリと返事が返って来て、さらにピクリとシュウが米神を揺らすよりも早く、彼はパタパタと掌を左右に振って、
「だってもう、桜の種、植えてきちゃったもん。明日には満開だよ。」
「──────………………ハ?」
あまりにあっさりと返事が返って来てしまったために、脳みそがフリーズして、それ以上の言葉が出てこなかった。
「──……桜って……種で植えるもの、でした、っけ?」
クラウスが、微妙な表情で顔を苦くさせるのに、シュウは答える言葉を持たなかった。
桜は、確かに春の花ではあるが、花壇に咲いてるチューリップのような花とは違うことは確かである。紛れもなく木に咲く花だ。
その種を植えたと、無邪気に微笑むスイが、外見−10歳くらいの少年であったなら、『可愛いことを言っているなぁ』で話は済むの、だが。
「スイ殿…………桜の種を植えたとは……一体、どこに……?」
聞きたくない。──できることなら、聞きたくはない!
心と全身がそう叫んでいたが、シュウはその気持ちをグッと堪えて、目の前に差し出されたスイの「花見ツアー詳細」という書類を睨みつけた。
出来ることなら、このまま見ぬフリをして好きなようにしてくださいと言いたかった。──だがそれをしてしまえば、後で自分の首を絞めるのは分かりきっていた。
先日のように、突然花火をあげ初めて(「せっかく本拠地が出来たから、祝砲は撃つべきだと思ったんだよ」)、ハルモニア軍から密偵を向けられたりだとか、突然出奔してきたかと思ったら、ハルモニア軍の鎧を持って帰ってきて(「ハルモニア軍に密偵を送るなら、その軍の鎧は必要だろ? だから、そこをちょうど走ってた馬に乗って走ってた人の鎧を奪ってみたら、なんか機密文書の伝書もついてた。いらないから、シュウにあげるね」)、ハルモニアから密偵を向けられたりだとか──以下エンドレス。
そのたびに、自分たちの命をかけて奔走したのは記憶に新しい。
というよりも、どうしてこの軍が結成して一ヶ月も経たないうちに、何度も本拠地決壊の危機に陥らなくてはいけないのだ。
────とにかく、スイが起こす行動を止めることが出来ないのならば、後始末に向けて心を決めるしかない。
それが一番平穏を呼ぶ方法なのだと、内務処理班はこの数ヶ月でスイ対処法を心得ていた──後ろ向きに。
だからこそ、その内務処理の筆頭として、シュウはスイに事を問いかけなくてはいけなかったのである。
けれど、正直言って、まったく聞きたくなかったので、声が途切れ途切れに震えてしまったのは、致し方ないことである。
シュウの、青筋の立ったピクピク震えるこめかみを見ながら、スイは酷く嬉しそうに顔をほころばせると、
「ヤ、だなぁ、シュウ殿は。
僕たちが何のためにこの108星を結成したと思ってるんだい? 当初の目的を忘れたら困るよ。」
「忘れてるのは貴方です、あ・な・た……っ。」
にこやかに、「花見をしようと思うんだ」といった舌の根も乾かないうちに、何を言うんだと、シュウの血管が引きちぎれそうに膨らむのが目に見えて分かった。
思わずクラウスは固唾を呑んで、2人の顔を交互に見やった。
だんだんと顔が俯いていくシュウの顔が、怒りのあまり青ざめていくというのは、本当に久し振りに見た。
そんな、黒髪をしだれ状態で垂らして睨みつけてくるという、夜中に見たら恐ろしいことこの上ないシュウのやつれた容貌をにこやかに見つめて、
「忘れてはないよ。だから桜の種を植えてきたんだから。
……そう、きっと明日のお昼頃には、とても綺麗に咲いているんじゃないかな?」
彼はとにかく、朗らかな顔と口調で、そう言いきった。
──全てはその書類を見るか、明日を待て、と。
*
美しい青い空に、間近で見える可憐な花が映えて見える。
薄桃色の花びらは、歩くたびにヒラリヒラリと髪に触れ、かすかな芳香を残していく。
風が舞い上がれば、ザザ……と花びらがこすれあう音が耳元で聞こえる。
陶磁のような白い輪郭を覆う薄い金の髪に、伏せられた整然と揃った長い睫。その上でヒラヒラと舞う桜の花びら。
幻想的なその光景に寄り添うのは、これもまた美しい容貌の美少女である。
銀色の髪を白い頬に落とし、形良い顎をあげて、彼女はウットリと色素の薄い瞳で桜をまとう少年を見上げている。
立ち尽くす少年の背後に桜。それを見上げる少女の髪にも、散る桜の花びら。──間近で見上れば、なんとも美しい、一枚の絵画のような光景である。
そう……間近で見れば。
「────………………ルックさま──。」
そ、と、桃色の唇から吐息のような言葉を零れさせて、乙女は形良い指を伸ばし、彼の頬に桜色の爪先を触れさせた。
ツ、と触れるように指を震わせると、ヒラリ、と目の前に桜色の花びらが散ってくる。
その色はとても綺麗で、太陽の光りを受けてキラキラと輝いているように見えた。
思わず彼女が目をすがめ、己の頬に落ちてくる桜の花びらを受け止めると、少年は伏せていた瞳を開いて、彼女の美貌を覗き込む。
吸い込まれるような翠色の瞳には、苦痛と憤怒の色が見て取れた。
それを認めて──ツキン、と彼女は自分の胸が小さな棘を感じたのを認めた。
そのまま、ルックの頬に触れていた手を自らの元に引き寄せて、キュ、と手を握りこむ。
「ルック様──すみません。」
小さく……震えた声でか細く呟いて、少女は手元で更に強く手の平を握りこんだ。
白い指先がさらに白くなるのを見下ろして、ルックは冷ややかな美貌を曇らせる。
「どうして君があやまるんだい──セラ?」
零れた声は、彼にしては優しい色合いを宿していた。けれど今日は、苛立ちを押さえ切れていない。
声音ににじみ出る響きに、セラはますます悲しげに眉を寄せてみせた。
「私の力が及ばないばかりに……ルックさまを、こうして苦しめてしまっているのですから。」
地面に膝をつき、見上げるセラの白い容貌と銀の髪に、キラキラと太陽の光が舞い落ちる。
まばゆい明かりに目を細めて見上げた先には、冷ややかに整った美しい貌──短く切られた薄い金色の髪の輪郭が、桜色に彩られている。
目を見張るほど美しいルックの顔は、いつもならどれだけ見つめても飽きることがないもの……けれど今は、見れば見るほど、セラはもの悲しくてしょうがなくなった。
見つめているのが辛くなって──桜色に彩られているルックの顔を見つめれば見つめるほど、自分の力が及ばなかったことを見せ付けられている気がして、セラは視線を落とす。
俯いた拍子に、サラリと揺れた銀色の髪が、セラの頬をカーテンのように覆った。
ルックは無言でそんな彼女を見下ろして──かすかな苛立ちが残る表情で、前髪を掻き揚げると、はぁ、と唇から吐息を一つ零す。
「君が気にすることはないと言っただろう、セラ? これは──ただの僕の、油断だ。」
最後の一言は、苦いものを噛み潰し、吐き捨てるように。
セラはその言葉に、フルリと力なくかぶりを振る。
「いいえ、いいえ──ルックさま。」
小さく零して、セラはゆっくりと顔をあげて──美しい容貌を持つ、ただ一人の人の顔を見上げた。
彼は、唇を一文字に引いて、いつも静かな色を宿す──強い意志でさまざまな感情を押し殺し続けるその瞳に、今だけは燃えるような熱が宿っている。
彼がこんな目をするのは、滅多にない。
運命を知り、荒廃した未来の只中に一人立ち尽くす夢を見ても──紋章の意思に心ごと侵されても。
それでも彼は、そんな目をすることはない。
ただ静かに心の底で激しい感情を押し殺すルックの瞳は、けれど今は燃えるような炎を写し取っていた。
──まるで、今、自分たちと対している「動」の動き持つ継承者達のように。
「──……ルックさま…………。」
その目は、まるで彼の運命を変えようとしている、強い流れのように感じて、知らずセラは手元に引き寄せていた指先を、そ、と彼の手に重ねた。
優しく触れるセラの指先に、ルックはこちらを見下ろすことはない。
ただ──胸のうちに孕む憤りを、吐き捨てるように空気の流れを見つめているだけだ。
憤りと怒りを吐き出す先を探すように、眉間に険しい皺を刻み込んで。
そうして。
「──るっく、さま……?」
まるで空中を睨みつけながら、何かを待っているように見えて、セラはかすかに柳眉を寄せた。
──その刹那。
ブゥ……ォン……──っ。
空気が震えるような、音がした。
とっさにセラは、地面に置いたままになっていた己の杖を手に取り、バッ、と立ち上がる。
そのまま、色素の薄い瞳で、セラは辺りを睨み据える。
「ルックさま、お下がりください。」
片手でルックを制するように彼を庇うように背を向けると、背後からかすかな風が吹いてきて、桜の匂いが充満した。
「──……いや……。」
今のは確実に、誰かの術による瞬間転移だった。
それによる、空気のぶれとゆがみだった。
顔をあげるルックの背後で、ハラリ、と桜の花びらが散った。
満開の桜の向こう側に、透き通るような青い空が見える。
ルックは顎を逸らして桜の花の真上に見えるその空を睨みつけた。
そして、今にも燃えるような炎の感情を宿す瞳で、空を睨みつけながら。
「──……来る。」
低く──囁くように、呟いた。
セラはその言葉に、かすかに肩を震わせ──キュ、と杖を握る手に力を込める。
それと同時。
ギュィンッ──……っ!
空間に、穴が開いた──音がした。
それは、本来なら決して耳に入らない「音」。
けれど「聞き」なれた音を、ルックもセラも聞き間違えることなど無かった。
セラはきつく杖を握り締めて、唇を真一文字に結んだ。
ゴクリと喉を上下させた瞬間、
「はーい、お待たせ、シュウ殿。ここが本日の花見会場でーっす。」
ひらり──と、紅色が、青い空の手前で翻った。
ひゅっ、と、喉が鳴ったのは、セラが先か、ルックが先か。
良く響き渡る声の主は、そのままストンと地面の上に降り立つと、手に持った「何か」を、ドサリ、と地面に放り投げた。
思いっきり地面に突っ伏した黒い髪の荷物──いや、人間を見下ろして、唐突に現れた少年は、ニコヤカに微笑みながら、
「シュウ殿? 生きてる?」
ツンツン、と、足先で地面に丸まった塊を、突付く。
地面に突っ伏した物体は、ピクピクと震えたかと思うや否や、
「──……っの、バカ英雄っ!!」
ガバッ、と、勢い良く起き上がった。
その顔から、ポロポロと砂が零れ落ちる。
「何を考えて、俺を巻き込むんだっ!?」
眦を吊り上げて叫ぶ男に、少年は不思議そうに首をかしげながら、長い棒でコンコンと自分の肩を叩いた。
「何って──。」
呆れた表情で、少年が言葉を続けようとした瞬間──再び、音にならない音で、空間がたわむ。
さらに、ハッ、とセラが見上げた先。
「やっほーっ!」
「さっくら〜! はっなみー!」
浮かれた声が、青い空めがけて、飛び出した。
そこから現れた人影は、迷うこともなくドンドンといまだに四つんばいになったシュウの背中に、落ちていく。
ドンドゴドンと、リズム良く落ちてきた青少年達は、そのまま遠慮もなくシュウの背中を踏み砕いて、ポンと地面に飛び降りる。
そのまま、クルンと踵を返して、
「シュウ〜! 花見はね! みんなでやるからこそ、楽しいんだよ!」
お日様が咲くような明るい笑顔で、リオがシュウに向かって笑いかけた。
さらにその隣から、一番思いっきり良くシュウの背中の上に落ちたナナミが、ニッコリとこちらも太陽が花咲くように明るい笑顔で。
「そうそう。いっつもシュウさん、眉間にギューッって皺が寄ってるもの。今日くらいは、その皺をなくすために、ぱーっ! ってやらないと!」
「そう、みんなでね!」
「──……お前らな…………。」
一体、誰が自分の眉間の皺を増やしているのだと、シュウは溜息すら零したくなる勢いで、指先で米神を揉む。
そのシュウの手を、バッ、とナナミが取り上げて、
「さぁっ、シュウさんっ!」
さらにもう片手を、リオが取り上げて、
「ほら、シュウ!」
そしてその手前で、ニコヤカに微笑むスイの元に、さらに追加でテレポートされた人物が大勢落ちてくる。
ドサドサドサと、慣れたように落ちてくる者に、予測はしていたとばかりにヒラリと舞い降りる者。
「──たぁっく、ヘリオンのヤツも、随分もうろくしたものだなぁ……。」
コリコリと、思いっきり良くできたタンコブを撫でながら、呟いたビクトールのその向こう。
リオとナナミは、ビクトールのにょっきりと伸びたタンコブの向こうに見える、小さな桜の木を指し示して、
「ほーらっ! とっても綺麗な桜!」
「あの下で、今日は花見だよ、シュウ!」
無邪気な姉弟は、ニッコリ微笑みでそう宣言した──瞬間。
いつの間にか隣にテレポートしてきていたフリックが、バサリと青いマントを翻して、リオとナナミが指差す方向を見やり……、
「お、なんだ、小さい桜じゃないか……──。」
手の平を額に翳して。
「──────…………って……る、ルック……?」
彼はすぐに、その小さな桜の下に……否、手前に「誰」がいるのか気付いた。
小さな桜のすぐ手前に立つルックの右手の平が、かすかに青く光っている。
燃えるようなきつい眼差しが注がれているのは、最初にこの地にテレポートしてきたスイの整った顔。
そして、その手前には銀髪の美しい少女が立ち、指先が白くなるほど強く杖を握り締めていた。
タンコブを撫でながら、ビクトールもフリックの視線を追うように、グルリと視線をずらして──、
「ぶはっ! はっ! あはははははははっ!!!!」
視線の先に立っているルックを見て、遠慮も呵責もなく、大爆笑した。
それと同時、フリックが震える指先で、冷ややかな炎を抱く瞳で睨みつけてくるルックを指差すと、
「る……るるるる、ルック──……っ!? おまっ、な、何、背負ってるんだっ!!!?」
「桜。」
動揺も露に叫ぶフリックに、完結極まりない答えをスイがくれる。
と同時、この草原で唯一咲き誇る桜を示していたリオとナナミが、へ、と目を瞬き──、自分たちが示していた先にあった桜が、見慣れた美貌の主の背中に背負われていることに気付いた。
「あ、ほんとだ!」
「ルック君だ! 久しぶり〜! どうしたの、そんな桜なんか、背負っちゃって!」
ブンブンと、ナナミが手を振って遠く離れたところにある、小さな桜に向けて笑顔を振りまく。
そのナナミの口元に、背後からニョキリと伸びた手が重なり、
「ナッ、ナナミっ、ダメだよ、そんなこと言ったら! ルック君にだって、色々事情っていうものがあるんだから──……っ!」
ジョウイが、慌てたようにナナミの耳元に叫ぶ。
──がしかし、ジョウイの心遣いは、その隣に立っていたリオの、
「アハハハハハ! 何それ、ルック!? すっごい、似合ってるところが、また怖いーっ! アハハハハ!」
腹を抱えるほどの大爆笑によって、砕け散ってしまう。
そんな彼らの視線の先で、ルックは風の力を右手に纏っているのが見えた。
ヒシヒシと空気が震える感触を感じながら──それと共に、ルックの右手に風が集まれば集まるほど、ルックの背中にくっついた桜が、バサバサと揺れて花びらをふるい落とす。
その見事な桜吹雪を纏い、ルックもセラも、ますます幻想的に美しく見えた。
──だからこそ、余計に、怖くて。
「──……スイ……お前また……なんてことを………………。」
きっと一番初めに、ルックの「切り裂きの洗礼」を受けるのは俺に違いないと、フリックが手の平で顔を覆う。
残念ながら今日の紋章の装備は、雷の紋章ただ一つ──身を守るすべは、ない。
身に纏っているマントと同じくらい青ざめるフリックを、スイは憮然とした表情で見上げると、
「え、何? なんで僕なんだよ? おかしなことを言うね、フリックったら。」
ぷんぷん、と作ったような顔で腰に手を当てて怒った後、
「僕は、こっちに桜が見えたってレックナート様が言うから、今日はココで花見をしようって言っただけじゃないか♪」
にんまりと笑って、そう続ける。
フリックは指の隙間からスイのニヤニヤ笑った顔を見下ろすと、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「顔がそう言ってない。」
というか、遠目に見ても分かるほど、ルックの背中にぴったり寄生した人の背丈ほどある満開の桜──なんてもの、お前以外に、一体誰が、あの、ルックに! ──くっつけることが出来るんだ!?
「え、あれ、そう?」
フリックの苦い色を宿したにらみを受けて、スイは軽首をかしげると、手の平で頬を摩りながら、
「──ダメだなぁ。あんまりにも久し振りに、ルックにまともにイヤがらせが通じちゃったから、つい顔がにやけちゃうよ。」
ボソリ、と──やっぱり実は、自分の仕業だったんですと暴露することを呟いた。
そんな彼の台詞に、クラリと眩暈を感じたのは、フリック一人ではないはずだ。
その証拠に、声が届いたらしいルックから、ますます怒りのオーラが込み上げてくるのが分かっているだろうに、スイはそれを全く気にせずに、パシパシと手の平で自分の頬を叩くと、キリリと表情を改めて、
「んー……、ん、よし。」
納得したような顔で、目つきも鋭く変えると、米神を引きつらせて──今にも血管がはちきれそうな雰囲気のルックへ、かつ、と足を向ける。
そのまま、ますます込み上げてくるルックの怒りのオーラの只中へ、悠然と踏み込み……スイは、スチャ、と杖を構えるセラのすぐ手前で足を止めた。
見下ろす先で、セラが冴え渡る美貌に鋭い刃を覗かせて、スイを睨みあげている。
そんな彼女に、スイはとろけるような微笑を向けて、一瞬セラの意識を逸らすと、そのまま、ス、と手を前に差し出した。
恐ろしいほどの美貌に、鬼のような表情を浮かべてこちらを睨みつける──ルックへと。
「──ルック、今回は何が起きたかわからないけど、ご愁傷様だね……。
あ、これ、お見舞いの品ね。まぁ、セラさんと一緒にヤケ酒代わりに飲んでくれたまえ。」
ごく当たり前の表情で、痛ましさすら浮かべて、本格焼酎を、ルックの足元に置く。
背中に生えた怪しい寄生桜のおかげで、その場から動くことのできない──ルックの足元へ、と。
その瞬間、ゴゥッと激しい風が、冷ややかさを伴ってルックを中心に吹き荒れた。
ルックの髪が乱れ、セラの銀の糸が白い頬を打ち据える──その中、それでもセラは、ただ静かな瞳でスイを睨み続ける。
リンと立つセラの前で、スイもまた、激しい風に乱れる髪と服と──そして舞い散る桜の花びらを受けながら、柔らかに微笑んでいた。
「ヤケ酒がイヤなら、普通に花見酒って言う手もあるよね。
いつでも特等席で、いや、羨ましい限りだよ。」
「………………っ、それを……君が……言うか──……っ!」
カッ、と見開いたルックの瞳が、一際強い光を宿す。
そのまま、一気に真なる風の紋章の力を解放するかのように見えたが、それよりも一瞬早く、スイがルックの懐に飛び込む。
ハッと、セラが杖を翳すが、一瞬早く、スイの左手に握られていた棍が翻り、彼女の手から杖を弾き飛ばす!
「──……くっ──……っ。」
鈍い痺れが残る手で、飛ばされた杖を必死で視線で追うが、一瞬では杖の行方をつかめず、セラはそのまま視線をルックのほうへと転じた。
敵に懐に飛び込まれた紋章術師が、どれほど不利なのか──いざとなれば、自らの体を盾にしてでも、ルック様を守ってみせると、彼女が決意を見せて唇を結んだ先。
「──スイ……っ!」
苛ついた声で叫ぶルックの右手が、スイの右手に──皮手袋に包まれた手に、握りこまれていた。
華奢なルックの右手の平を覆う緑の光が、スイの右手によって──否、その右手からにじみ出るような闇色の靄によって、食い尽くされていくような……。
「──……っ!!」
その「靄」を見た瞬間、セラは心臓をわしづかみにされたような恐怖を感じた。
何も考えられず、ただ全身がブルリと震え、ガクンと膝が折れる。
理性はルックが危ないと叫んでいるのに……何にかえてもその手に飛び掛り、スイを引き剥がさなくてはいけないと分かっているのに、体と魂がそれに従わない。
ここから一刻も早く逃げろと──けれど恐怖のあまり、動けないと、そう……細胞が叫んでいる。
そのまま、その場に膝をつくセラが、ただ目を見開いて、ルックを助けなければと唇を震わせる──先。
セラが必死に見つめる先では、ルックが冷静に間近に近づいた紅色の瞳を、睨み上げていた。
その目には、セラとは違い、恐怖の色も何も見えはしない。
ただ彼は、苛立ちを乗せた目で、自らの紋章の解放を阻止する少年を睨みあげていた。
「……君が昨日持って来た饅頭を食べたせいでこうなったとしか、思いようがないと言うのに──その陣中見舞いにと、君がもってきたものを飲めと?
──そんな親切な人間に見られているとは、思いもよらなかったよ……僕も舐められたものだね?」
「やだな、ルックは、疑ぐり深いんだから。
昨日の饅頭だって、ちゃんと僕も一緒に食べたじゃないか。
──まぁ、僕は後からタネだけはいたけどね。」
「────…………っ。」
スイによってつかまれた右手が、さらに熱を生み出すのを感じながら、ルックはギリリと奥歯を噛み締める。
──この地にいる誰よりも、今の僕が、紋章を制する力を持っている。
そう自負しているのに、この目の前の少年は、その力を制する自制心を、あっけないほどあっけなく奪ってくれる。
スイは、さらに力と熱を増したルックの右手を、なんでもない表情を装って握りつぶすように力を加えながら──魔法使いの非力な力とは比べ物にならない握力で握り締めるスイに、痛みに眉を寄せたルックの顔を覗きこみながら、
「やだなぁ、ルックは。僕が『何も入ってない焼酎』を持ってくるはずがないって思うなら、どうして──『解毒剤が入ってる焼酎』を持って来たんだって、思わないかなぁ?」
「──それを素直に受け取るとでも?」
冷ややかな光を宿すルックの美しい翠玉の瞳を見つめながら、スイはますます嬉しげに、楽しげに唇をほころばせると、
「だから、本当に今回は何も狙ってないって。
だって、今度は、菖蒲湯かな〜とか思ってるし。」
「──……菖蒲湯。」
ということは、持って来たこの焼酎の中に、今度は「人体に寄生する菖蒲の種」とかが入っているのだろうかと、イヤそうに顔をゆがめるルックに、
「でも、菖蒲湯はやっぱり、ダッククランでやらないとね!」
──あっさりとスイは、種明かしをしてくれた。
瞬間、スイから少し離れたところで、頭痛を覚えたように額を手で押さえていたクレオが、その言葉にバッと顔をあげ──目を軽く見開いたかと思うと、
「──……ぼっちゃん……。」
どこか遠くを見るような眼差しで、うつろにスイの名を呼ぶ。
「……先日、確か、ハルモニアの襲撃で、難民を抱え込むことになったダッククランのために、食料補給の援助をするとか……言って、ました──よ、ね?」
言葉は最後の方にくればくるほど、何かの確信を得たらしく、だんだん尻蕾になっていく。
そんなクレオの言葉に、意気揚々と頷いたのはスイではなく、リオであった。
「あ、はい! そうなんですよ〜! スイさんって、そういうところにも目端が利いて、すごいですよね!!」
「それは絶対、親切じゃない!!」
無邪気な笑顔で、尊敬の眼差しを注ぎ込むリオの、傾倒をこれ以上許してはならないとばかりに、すかさず鋭くフリックが突っ込むが、とおの昔にスイに傾倒しているリオの耳には全く届いてはいなかった。
さらにその挙句、スイは頭痛を覚えたように頭を抱えてしゃがみこむクレオに、
「大丈夫だよ、そんなに心配しなくても。
ちゃんと隠し工作は完璧だから。」
──自信満々である。
ますます頭を抱え込むクレオに、くるりと背を向けて、スイは白い頬をかすかに上気させながら、
「来月の今ごろは、ダックごと菖蒲湯だよ。楽しみだね〜。
あ、もちろんその時は、ルックも誘ってあげるからね!」
何も知らない人が見たら、無邪気極まりない満面の笑顔を浮かべて、ね? とルックに笑いかける。
その、破壊力抜群の笑顔に、ルックの顔がますます引きつるのを、ただセラは見ているしかなかった。
スイは、ルックのそんな顔を見下ろすと、輝きを増した笑顔を炸裂させて、スルリとルックの右手を開放してやりながら──、
「だから今日は、おとなしく桜してて。」
……囁いた。
瞬間、ルックは目元をカッと赤く染めて、
「──……っ、スイ……っ、君というヤツは……っ!」
憤りのあまり、桜色の唇すら紫色に変色し──イヤ、もしかしたら養分が奪われているのかもしれないが。
わなわなと震える右手の平で、目の前に居るスイの襟首を掴みこもうとするが、スイはその手をヒョイと避けて、ポンポンとルックの肩を叩く。
「あー、ほらほら、桜は動かない、しゃべらない。」
ね? と、また鮮やかに微笑んでくれるスイに、ルックは益々憤りに頬を赤く染めた。
「な──……っ、にが、桜だって……っ!?」
ルックの体が怒りに震えるたびに、彼の背に根っこを張り付かせた桜が、フルフルと震えて桜の花びらがヒラリと舞い落ちる。
見事に薄紅に色づいた花びらは、美しい少年の髪に舞い落ちて、ハラハラと弧を描いた。
見事なまでの風靡に、スイは思わずホゥと感嘆の吐息を零す。
「桜の下には死体が眠るから美しいというけれど──ほんと、やっぱり、桜の下には美少年の養分だよね……──。
──ルック、綺麗だよ。」
「──────………………っ!!!!!!」
怒髪天をつく。
まさにその表現が的を得ているかのように、ルックの頭から何かが噴火したように、セラには思えた。
思わず息を呑み、ギュ、と指を組み合わせた刹那。
「おーっ! スイ、お前はなんだ〜、まーだ飲んでないのか〜!」
顔をうっすらと赤く染めて、とろんと目がうつろなクマが、のっしのっしと『桜』へと歩み寄ってきた。
その小脇には、中くらいのツボが抱えられており、中でチャプチャプと音がしていた。
「──もう出来上がってるのかい、このクマは……っ!」
フルフルと震えるルックの視線が、キィン──と冷えた刃を含んでいる。
正面からそれを受ければ、間違いなく恐怖に凍りつくに違いない視線であったが、しかし、相手はただの酔っぱらいだった。
しかも、解放軍・同盟軍と乗り越えてきた風来坊である。
「ルックも素面のままかよ。ほらっ、酒だ、酒っ。」
がっはっはっはっは、とすでに酒の匂いがする声で笑い飛ばした後、ビクトールは唐突に小脇に抱えた酒の入ったツボを掲げて──……、
「──な……っ、ちょ……このクマ……──っ!」
何が起きるのか容易く予測できたルックもスイも、来るべき瞬間に備え……。
ばっちゃん!!!
白濁した液体が、辺り一面に飛び交った。
同時に、酒のムッとした匂いが充満する。
「あーあ、もったいない……。」
当然その酒の襲撃を避けたスイは、びっしょりと濡れた地面を見下ろしてそう呟いた後、空になったツボを肩に担いでフラフラと戻っていくビクトールの「成果」に視線をやると、ニヤリと唇を歪めて笑った。
「酒も滴る美人桜は、酒の肴に最適って?」
淡い髪の色が、シットリと濡れて濃い陰影を作り出し──ツゥ……、と白い頬を酒の雫が伝った。
雫を滴らせる前髪の奥──ギラギラと怒りに燃える瞳を覗き込んで、スイはひどく楽しそうに喉を鳴らすと、
「酒はお肌にもいいそうだから、これで美人度も割り増しだね、ルック!」
「────…………殺す…………っ。」
低いルックのうなり声はけれど、すぐにとある事実に気づいたルックの一転した表情によってぬぐわれる。
彼は狼狽した顔で己の右手を見やり、まるで力がこみ上げてこない感覚に──その、イヤになるほど覚えのあるステータス異常に、迷うことなく続いてスイの顔を睨みつけた。
「──……いつの間に……っ。」
「平和ボケしてるね──ルック。」
つややかに微笑んだスイの唇の微笑は、真昼の太陽を背にしているというのに、イヤになるくらい闇の色を纏っていた。
見とれるほどの鮮やかなその微笑みに、ルックは臍を噛むしかない。
──毎日スリリングに破壊活動をしている人間を捕まえて「平和ボケしてる」と言えるのは、世界広しといえど、この闇の世界のドン以外にはありえない。
「ルックさま──……っ。」
紛れもなく、ルックは今、「ちんもく」の状態にある。
それを見て取り、セラは下唇を噛み締めて──いくら真の紋章を宿している身であろうとも、ステータス異常を直さないことにはどうにもならない。
セラは手元にない杖を求めて──さきほどスイが棍で弾き飛ばしてくれた自分の杖を求めて、辺りにすばやく目を向ける。
とにかくなんでもいい。一瞬の隙をあの少年に作り、後は自分の得意の水の紋章を開放さえすれば、この場はなんとかなるのだ。
その思いで、視線を走らせた先──、見慣れたロッドを手に持つ女を見つけた。
セラは地面をたたきつけるようにして立ち上がり、彼女の元まで駆け寄ろうとするが、それよりも早く……女のつやめいた眼差しが、ス──と、セラを射抜いた。
なぜか、ビクン、と体が震えた。
なんてことはない、ただの一瞥だと言うのに──彼女のアイシャドーで形取られた煌く瞳が、セラを見つめた瞬間、蛇に睨まれたカエルのように動けず……ヒヤリと冷や汗が背を伝うのが分かった。
威圧感。
一言で言うならば、その言葉が一番しっくりと来る感覚は、昔、どこかでも感じたことがあった。
それがいつの記憶のものなのか、セラが必至で考えるよりも早く、彼女は嫣然と笑みを紅色の唇に刻み込み、ゆったりと肩をそびやかすようにして歩み寄ってくる。
秀でた白い額、煙るような眼差し。たっぷりとボリュームのある髪を頭の上のほうで固めて、腰の下まで垂らしている。
派手派手しい装いをさらに際立たせる長い爪には、煌くビーズが止められていて、女はその指先で、セラの顎をクイと持ち上げた。
間近に迫る女からは、濃厚な香水の匂いがした。
「なんだい、あんた、ずいぶん見所のある顔してるねぇ?」
猫のように目を眇められて、セラは脂汗が浮いたまま、ただ目の前の女を凝視した。
──強い力を持つ魔術師と言う意味で言うならば、自分もルックもそうだ。
自分たちの師にあたるレックナートにしても同じ。
目の前の女は、それと同じくらい──いや、その力を表に放出することを望んでいる分だけ、自分たちよりはユーバーに近い「強さ」を孕んでいる。
女は、そんな自分の激情を孕む魔力の力を感じ取ったらしいセラに、満足そうな笑みを浮かべると、さらにセラを覗き込んで、
「どうだい、あたしの門の紋章でも持ってかないかい? ん?」
甘えを含んだ色で、セラの滑らかな頬をなで上げる。
その、あたり前のようにサラリと告げられた台詞に、セラは驚愕のあまり目を見開く。
「も、門の紋章──……っ。」
その響きを、知らないはずはない。
己とルックの師である女性が持つ紋章──二つに分かたれた紋章の一つは行方不明だと聞いていた。
その紋章が、目の前の女性に、宿っていると?
目を見開き、まっすぐにセラは彼女を見詰めた。
美しい……魔的な美しさを秘めた女からは、そう言われて見つめれば、他にはない力を感じることが出来た。
──門の紋章の表と、裏。
レックナートが持つ門の紋章は、確か、「閉じる」のほうだった。
なら、目の前のこの女が持つのは……──。
「──……表………………。」
色素の薄い瞳を大きく見開いて、セラは目の前の女を凝視する。
異界の門を開く力があれば──蒼き門の紋章よりもずっと協力な強い力を手にすることができるなら。
そうすれば──ルックさまのお役に立てる……今以上に、きっと。
その揺れるセラの眼差しと意思を悟ったのか、彼女は悠然と微笑み──ツ、とセラの頬に軽く爪先を引っ掛けるようにして手を離すと、
「詳しい話が聞きたければ、こっちへおいで。」
ふふふ──と、魅惑的な笑みを口元に浮かべた。
セラは、その女の目をジと見つめ──考えるように軽く眉を寄せたが、彼女の手に惹かれるように、ス、と音もなく立ち上がった。
「セラ──……っ。」
そのまま女へ着いていこうとするセラへと、ルックが注意を促すように叫び、さらに一歩踏み出そうとするが──、それよりも一瞬早く、ヒュンッ、と風を切る音がした。
ピタリ、と、ルックの白い喉に突きつけられるのは、嫌になるほど見慣れた──天牙棍。
「はいはい、桜は動かない。」
突きつけられるヒヤリとしたその感触に、ルックが瞳に苛立ちを宿すのと、その色を認めたスイが、嫣然と笑むのとがほぼ同時。
棍の先で、クイ、と顎をそらされて、
「おとなしく、座ったらどう? 桜なんだから。」
意地悪くスイはルックの顔を覗きこみながらそう囁き──さらに棍で、トン、とルックの肩を上から下に叩いた。
痛みは走らないが、それでも不快感は感じる。
ジロリとルックがねめあげる先──、
「あっ、ぼっちゃん!! ダメですよ、自然は大切にしないと!」
すぐ傍で、パチパチと焚き火を囲んで立っていたグレミオが、腰に手を当てて──なぜかその手には、お玉が握られている──、メッ、と子供にするように眦を釣り上げる。
スイはそんなグレミオの言葉に、ひょい、とルックの肩から棍を退けると、そのまま肩越しに顔だけ振り返り、
「はーい、次は桜にぶつからないように気をつけまーっす。」
「そうしてくださいね。」
口先だけのいい子の返事に、グレミオはニッコリ頬をほころばせると、クルリと焚き火の方向を向いた。
なんだか煮込まれるいい香がするからきっと、花見だけどシチューを作っているに違いあるまい。
「──ってことでルック、ほら。」
チャプン──と、目の前で、半透明の茶色のビンが左右に揺れる。
たっぷりと入った中身が何なのかは、問いかけるまでもない。
無言で視線をあげると、スイはすでにもうその場に腰を落として、酒の蓋を開けているところだった。
「諦めて座りなよ。桜が枯れるまでは、どう足掻いてもココから動けないんだからさ。」
背中から腰へと回っている桜の根は、そのまま地面にも伸びてしまっている。背中で美しく咲き誇る花は、ずっしりと体重を伸しかけているが、その半分ほどは直接地面に突き刺されている形になっているから──動けないのは確かだった。
ビクトールやフー・スー・ルーのようなバカ力ならとにかく、非力なルックの力では、桜の根を地面から抜き取ることなど拷問に等しい。
「誰のせいでこうなったと──……っ。」
紛れもなく、数日前にスイが持って来た『饅頭』のせいに他ならないじゃないかと、ルックが眦を険しくさせるが、スイは全く気にせずに、トクトクと硝子のコップに酒を注ぐと、
「だから観念して、今日は花見と行こうじゃないか。」
ん、と、酒の入ったコップを、ルックに向けて掲げる。
並々と注がれた透明な液体からは、酒のいい香がした。
「────…………。」
無言で鼻の頭に皺を寄せるルックの手に、強引にグラスを持たせた後、スイは同じくコップに入れた自分の分の酒を翳して、カツン、とルックのそれに縁をぶつけた。
「たまには、こうやって酒の味を楽しむのもいいだろ?」
ニヤリ、と笑うスイの顔を一瞥して、手に握らされた酒を見下ろして──ルックは溜息を零して、グイ、とそれを一気にあおった。
喉を心地よく滑っていくアルコールの熱さが、ひどく体に染み入る。
そんなルックに、酒に口をつけながら、スイは楽しげに笑いながら、
「辛抱できなくなったら、別に紋章開放しちゃってもいいよ?
そうしたら──パァッって桜吹雪になって、それはそれで綺麗だろうしね。」
ヒラリ、と舞った桜の花びらが一枚、酒の上に落ちる。
ヒラヒラと揺れる花びらの御酒を見下ろして、ルックは何か言いたげに唇を開いたが、結局、口から言葉は零れることはなく、彼はそのまま酒を飲み干した。
それを待っていたかのように、スイは空になったルックのコップに酒を注いでやりながら──ふと、顔をあげる。
鼻腔を刺激する濃厚な香が、辺り一面を覆っていた。
「ぼっちゃーんっ! さ、グレミオ特製の、愛情たっぷり花見シチューですよ〜っ!!」
スイが視線を向けたのに気づいたのか、いそいそとグレミオが両手にミトンを嵌めて、たっぷり容量の寸胴鍋を持ち上げる。
ニコニコと、能天気に微笑むグレミオの背後で、これまた無邪気に両手を万歳とあげるリオとパーンの姿。
「わーい、やったーっ!」
「飯だ、飯だーっ!!」
その隣では、呆れた表情のクレオが腰に手を当てて、はぁ、と溜息を一つ零している。
「っていうか、花見に来てまで、あんたのシチューなのかい。」
普通、花見と言ったらチラシ寿司だろうとぼやくクレオに、グレミオはツーンと顎を逸らして、
「そんなことを言うなら、クレオさんは食べなくてもいいですよ。
私の愛情たっぷりのシチューは、ぼっちゃんのための、ぼっちゃんへの、ぼっちゃんだけのシチューなんですから。」
早速スイのために、最初の一杯を掬いあげる。
その、どこか嬉しそうなグレミオの背中に向けて、
「論法になってない。」
ますます呆れたとばかりにクレオが溜息を一つ零す。
グレミオの作ったシチューの最初の一杯は、スイのもの。
それはもうスイが生まれたときから決まっているお約束ごとだとばかりに、いつの間にかシチューの寸胴の周りに集まった「仲間」たちが、空の皿とスプーンを持って、グレミオがシチューを掬い終えるのを待っていた。
とろりと綺麗なホワイトシチューの色が皿に盛られ、グレミオはその横にスプーンを添えると、いそいそと立ち上がる。
もちろん、向かう先はルック桜の元という、特等席で桜を楽しんでいる少年の下だ。
その背を見送りながら、カスミが密かに握りこぶしで誓う。
「マクドール家では、花見でシチューなのですね。」
うん、と彼女は頷いて、それからかすかに頬を赤く染めると、キュ、と両手を胸の前で組み合わせると、嬉々としてスイの傍に腰を落とすグレミオの後ろに駆け寄り、
「──スイさま──……っ、あの、私も……今度、シチューを作って来たら……そうしたら、一緒に、は、花見を……してくださいますかっ!!?」
真っ赤な顔で、一気にそう言い切った。
そのカスミの言葉に、グレミオとスイが大きく目を見張り、ルックが冷ややかな表情になる──が、そんな彼ら三人が何かを口にするよりも早く、
「って、カスミさんっ、抜け駆けはダメですーっ!」
キィン──……っ、と良く響く声が、カスミの嘆願を一蹴した。
かと思うや否や、彼女はグレミオのシチューに群がっていた中から勢いよく飛び出し、ビシィッ、とスプーンでスイを示すと、
「スイさんには、私の作った、あんころシチューを食べてもらうんです!!」
胸を張って、堂々とそう宣言した。
「……あんころしちゅー?」
それは一体、どういうシチューなのかと、グレミオが首を傾げると、同じくシチュー群れの中から飛び出してきた影が二つ──、一気に娘の下まで駆け寄り、
「そ、そそそ、それはダメだよ、ナナミ!」
「スイさんが死んじゃったらダメだから、絶対、ダメっ!!!」
口々にそう言い合って、ナナミの口を強引に掌でふさいだ。
「んぐーっ! んぐんぐぐ!!」
ジタバタと、弟と幼馴染によって取り押さえられた「破壊の味覚」の持ち主は、一生懸命何かを訴えているようだが、さすがに男2人には適わなった。
「──……えーっと……あんころシチューって、なんだろうね?」
あっという間にリオとジョウイによって捕獲されてしまったナナミの行方はひとまず置いておき、スイは気を取り直したようにグレミオから受け取ったいい匂いのするシチューを膝の上において、ルックに問いかけてみた。
無言で酒を啜るルックはというと、興味なさそうな目つきでリオとジョウイに抱え上げられて向こうへと連れて行かれるナナミを一瞥した後、
「あんこで作ったシチューじゃないの。」
「嫌ですね〜、ルック君ったら。それじゃ、おしるこじゃないですか〜。」
あっさりとグレミオに笑った流されてしまうようなことを零して、
「まだまだだねぇ、ルックも。」
「ルック君、突っ込みが甘いですよ。」
──と、天然ボケを地で行く主従に揃って突っ込まれるのであった。
なんとなく……これがとても悔しいと思うのは、この場の雰囲気のせいに違いない──……と、そう、思いながら。
始まったばかりの宴会は、まだ、続く。
少し離れた場所で、シュウは眉間に皺を寄せながら、ブツブツと一升瓶を抱えて酒を飲んでいた。
1人手酌を繰り返すシュウの酒量は、彼の最近のストレスと比例して、ずいぶんうなぎのぼりにあがっていた。
「────…………頭痛がしてきた……なんであいつらは、この異様な光景に、アッサリなじめるんだ。」
ブツブツ零すシュウの台詞が吐かれた先には、背に大の大人の背丈ほどの桜の木。
風にサラサラと揺れる満開の桜は、本当に綺麗で──、誰もが思わず見上げては見とれてしまう。
──……ただし、その桜の根元には、漏れなく毒舌美少年がついてくるのだが。
「ふぉっふぉっふぉ、気にせずノリに乗るのが、長生きの秘訣じゃぞ、軍師殿。
どれ、ささ、一杯、一杯。」
シュウの前に座りながら、同じく一升瓶を抱えていたリュウカンが、どれ、とビンを傾ける。
「や、これはありがとうございます、リュウカン殿。」
すかさずシュウは、零れ出る酒を自分のコップで受け止めて、ソレを口に含んでは、ふぅ、と吐息を零す。
ふと見ると、風に乗って舞い落ちてきた桜の花びらが、ひらり、とコップの中に落ちたところだった。
「ですがしかし……桜の根元は置いておいたとしても、……風流ですな。」
ホラ、コップに桜が。
そういって自分の手元のコップを示すシュウの目元は、先程よりもずいぶん和らぎ、笑みの形にさえ見えた。
リュウカンはそのシュウのほころぶ容貌を見上げて、そうじゃの、と同意した後、
「元はあのルック桜ですがな。」
しれっとして──解放軍時代を伊達に乗り切っていたわけじゃない顔で、そう笑って告げてやった。
と同時、
「ぐ……──ごほっ、ごほごほっ!」
思いっきり飲みかけた酒にむせたシュウが、背を丸めて咳き込むのを見下ろして、リュウカンは意地悪気な笑みを浮かべて、髭を指先で扱いて笑う。
「ふぉっふぉっふぉっふぉっふぉ。」
見上げた空は上天気。
まだまだ日の陰りも地上には落ちてこない晴天晴れ。
今日はきっと、このまま夜まで続く──平穏な日になるに違いない。
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