ドワーフの村のほど近く──本当に歩いてすぐの所に、真新しい木の匂いをさせた木組みの温泉場が出来ていた。
遠目にもソレと分かる新しい施設の頂上には、堂々と解放軍の旗が掲げられている。
それを一目見た瞬間、思わず足をとめて、無言でソレを指差し問い掛けるような視線を背後に向けてみたが、そんなスイの視線に答える人物は誰も居なかった。
代わりに、浮かれた様子でスイの手首をガシリと握る人物がいた。
「さぁっ、スイ殿っ。日ごろの疲れを、ぞんぶんに癒してくだされっ!」
爛々と輝かせた目をスイの顔の間近に近づけ、鼻息も荒くスイの手首を掴んだまま、さぁっ、と今にも出陣しようとする体勢のレパントであった。
その熱いまでの勢いに、逆らうのも面倒な上に、朝食も終えた今、みんなが一丸になって掘ってくれたという「誕生日プレゼント」の場に行くことに特に反対する気はなかったスイは、素直にそのレパントの後に従うことにした。
そんなイツになく素直なスイの様子に、機嫌を良くしたレパントは、今にも鼻歌を歌いそうな勢いで、一週間で作り上げた荒業の温泉場の前までスイを導いた。
その背後からは、ぞろぞろと男どもが着いてきている。
「──あれ、クレオたちは入らないの? 特にアイリーンとか。」
洗面桶を抱えて後ろから着いてきているのは、すべてむさ苦しい男達ばかりだった。
それを目で止めて、スイは軽く首を傾げて後ろを付いてきていたシーナに尋ねる。
温泉に入るともなれば、「混浴、混浴〜」と歌ってそうなシーナが、一番ソノあたりのチェックはしてそうだったからだ。
できれば、自分の手首を引っ張っている人間の歯止め役に、シーナの母親がほしいところだ──そう首を傾げて聞いたスイに、
「さすがに一週間じゃ、男風呂しかできなくってさー、──ま、俺は混浴でもいいって言ったんだけど、クレオさんに却下されちゃってさ。」
明るく笑いながら、シーナは小脇に抱えていた自分の洗面桶を抱え直して答えてくれた。
左手をレパントに取られながら、右手で洗面桶を抱えたスイは、そんなシーナを肩越しに振り返りながら、軽く眉を寄せる。
「それじゃ、女性は今回の温泉に、入れないんだ?」
その表情は、女性陣には楽しませてやれないという事実を悲しんでいるようにも見えたし、アイリーンの手助けが得られないこの状況を悲しんでいるようにも見えた。
「ま、今回は男同士、裸の付き合いで我慢しろ、スイ!
今日は、お前は何もしなくてもいいくらい、俺たちがせっせと貢いでやるからさっ!」
ドンッ、と、乱暴な手つきでスイの背中を叩いて、豪快にビクトールは笑った。
そして彼はそのまま、ひょうきんな手つきで、目の前に聳え立つ建てたばかりの温泉場の扉に手をかけた。
「まぁ、見てみろ。俺たちの努力の結晶だぜ。」
不器用なウィンクを飛ばしたビクトールが、ガラガラ、と開いた扉の奥──ふんだんに明かりを取り入れた脱衣所からは、鼻に染み入るような木の匂いがした。
「ぅわ──すごい、結構本格的じゃないか。」
敷き詰められた木のすのこと、品の良い脱衣所の棚と籠。
奥に見える閉じられた扉の向こうが、掘り起こした温泉になっているのだろう。
少し湿っぽい空気の中、開け放たれた扉の隣に立って、ほら、とビクトールが促す。
レパントがスイの手首を引き寄せるようにして、彼に最初の一歩を踏み込ませた。
期待に満ちた目で見守る一同を背に、スイはソロリと扉をくぐり、脱衣所の中に足を踏み入れた。
カラン、と音を立てて下駄を脱ぎ捨て、すのこの上に足をつけると、ほんのりとしたぬくもりが足裏に感じ取れた。
ヒノキの匂いが、ツン、と鼻をつく。
それに混じって湧き出してきているのは、硫黄の匂いだろうか? ──それほど濃い硫黄ではないのか、それほど鼻につくことはない。
「なかなかのものでしょう? スイ殿がお好きなようにと思って、色々内装にも凝ってみたのですよ。」
にこやかに、スイに続いて脱衣所に入ってきたレパントが、スイの肩に手を置いてそう笑いかける。
褒めてほしいと全身から喜びを称えるレパントに、苦笑を滲ませながら、スイは脱衣所の中をグルリと見回してから、奥の野天風呂に続いているだろう扉の傍へと近づいた。
「すごかったんだぜ、オヤジがさー、なんかすっげぇ懲りたがって。」
レパントに続いて、下駄を投げ出すように、ひょい、と脱衣所の中に入りながら、シーナが軽く肩を竦める。
「スイなら呪い風呂よね、とか言って、ジーンが色々設置しようとするのを止めるのにも、苦労した……。」
はぁ、と溜息を零しながら、フリックも脱衣所の中にやってきた。
寒々とした雰囲気がした脱衣所は、あっという間に仲間たちで埋まっていく。
それをどこかすがすがしい思いで見つめながら、スイは改めて風呂へと続く扉を開いてみた。
途端、ムァッ、と蒸し暑い湯気が、スイの顔に襲い掛かる。
頬を撫でる湯気の色と硫黄の匂いに、軽く眉を寄せたスイは、一瞬後に広がった光景に──思わず、息を呑んだ。
「──……ぅわ……本格的…………。」
零れたのは、それだけだった。
一週間という月日しかなかったのだから、ある程度の体裁しか整えてないとばかり思っていたのだ。
だから、目の前に広がっている野天風呂は、「奇跡」だ。
「すげぇだろ?」
ニヤリ、とスイの頭の上から顔を覗かせたビクトールの言葉にも、素直に頷くしかなかった。
というか──思わず、手の平で口元を覆って、スイは緩みそうになる唇を、引き締めるばかりで。
「──参った。」
小さく……そう、零す。
脳裏にアリアリと、夜もまともに寝ないで、誰も彼もが交代交代でせっせと働いている様が、浮かび上がってきてしまう。
ソレが、ただの暇つぶしでもなく、気が向いたからでもなく。
「──……本当、参った。」
自分のためだと思ったら──まったく。
「なんだよ、最大級の褒め言葉だな?」
笑うビクトールをチラリと見上げて、スイは思い切りよく右ヒジを繰り出した。
ゴグッ!
「ぐ……っ。」
まさか、ココで攻撃が来るとは思っても見なかったビクトールが、体をクの字に曲げた瞬間を狙って、スイはさっさとビクトールの脇の下を潜り抜けて、一同が浴衣の帯を解いている場所まで戻ってくる。
かすかに赤らむ頬をごまかすように、フルフルと小さくかぶりを振ってから視線をあげると、いつのまにか脱衣所の中には人が溢れかえっていた。
その中で、ピョンピョン跳ねる人影が一つあった。
「すごかったでしょ、スイさん♪」
楽しそうに笑いながら、テンプルトンが、ソコ、ソコ、と、脱衣所の一角にある特別製の籠を示す。
一際立派な籠を前に、スイは思わず回れ右をしたくなったが、
「さぁ、スイ殿。」
なぜか隣について回ってくれるレパントによって、無事に籠の前にエスコートされてしまう。
無言で、他のソレよりも一回り以上は大きな籠の中を、イヤイヤ覗きこむと、スイの顔の形をした石鹸だとか、ヘチマスポンジだとか、バラの匂いのするバスタオルだとかが、ビッシリと入り込んでいた。
「女性陣からのプレゼントだそうです。」
朗らかな微笑みで告げてくれるレパントに、あぁ、そう──と小さく溜息を零して、スイはその上から手にしていた浴衣などを置いた。
彼女達が嬉々としてコレを用意している様子が頭の中に思い浮かび、スイは苦笑を零しながら、そのまま服を脱ごうとして──自分の肩に手を置いて、ニコニコ笑っているレパントを見上げる。
「──……レパント、腕を退けてくれないと、脱げないんだけど?」
「──ぁっ、あぁっ! これはすみませんっ!」
すごく嬉しそうな顔を崩さず、慌てて手を退けるレパントに、ナニがそんなに嬉しいんだろうなぁ、と小さな息をついて、シュルリと帯を解く。
ふと見下ろした視線が帯の端を握り締める皮手袋にとまり──スイは、キョロリ、と視線をさまよわせる。
すぐ背後でニコニコ笑っているレパントに、一瞬眉を顰めて、
「レパント──早く着替えたら?」
下からジロリと見上げると、レパントは慌てたようにそのいかつい頬を朱色に染めて、両手をブンブンと目の前で振り回した。
「あっ、いやっ、別に深い意味はないのだがっ! だが──その、スイ殿の安全を……っ。」
「シーナ、父親の面倒くらい、見ておけ。」
なぜ頬を赤く染めるのだと、額を抑えて溜息を零しながら、スイはそ知らぬ顔をして横を向いていたシーナを呼んだ。
シーナは、苦虫を噛み潰したような顔で、スイの後ろで巨大な尻尾を振っているような父親を見据えた。
人差し指をこめかみに当て、あー、でもない、うー、でもないとうめく。
この厳格な父が、自分の息子よりも年若い少年に相当傾倒しているというのは、シーナのみならず群集も知っていることだ。
それほどまでに──誰もが知っていると言えるほどに傾倒していることを隠そうともしない父を、どうやって止めろというのだ? しかも、立場の弱い息子である自分に。
「──……あー……くそっ。」
ガリガリッ、と乱暴に髪をかき乱して、シーナはキリッとレパントを睨みつけた。
「オヤジっ! お袋に言いつけるぞっ! スイの生着替えに張り付いてたってっ!」
「なな……っ、なにを言うのだ、シーナっ!」
慌てて大きくかぶりを振るレパントに、分かったなら、とっとと着替えろっ、と、噛み付くようにシーナが叫んだ瞬間、
「もっと言い方があるだろーがっ!!」
後ろ頭から飛んできたのは、容赦のないスイの攻撃だった。
ゴゥンッ!
激しい物音とともに、後ろ頭に棍の一撃を受けたシーナは、ガックリと床の上に膝を落とす。
「あたっ! なにすんだよ、スイっ! お前のために、考えてやったんだろうがっ!」
大きなたんこぶが出来たじゃないか、と、棍の直撃を食らった頭に手を当てながら、ギッ、とシーナが睨み上げた先──見下ろす冷ややかな目は、スイのものではなかった。
「ない頭絞って考えた策がソレとは、君の脳みその容量も知れてるね。」
突き放すような、冷たい声が、鼻先でせせら笑うルックの侮蔑のこもった台詞が、真上から落ちてくる。
「なんだとーっ!?」
身軽に起き上がり、シーナが険も露にルックに向き直った。
「なんだい?」
ふん、と態度も改めず、ルックは自分を見下ろすシーナを睨み上げる。
バチバチバチッ、と、激しい音を立てて火花が散らされる光景を、他の面子はチラリと目をやっただけで、興味なさげに浴衣を脱ぎ始めている。
そう、いつものことだから、誰も気にはしないのである。
そしてそれは、スイにも同じ事が言えることで。
「──ま、いっか。」
気にせずに、脱ぎ捨てた上着を丁寧に畳み込むと、シャツとズボンだけの姿で、再びあたりを見回した。
言い方は悪かったが、シーナのおかげでレパントは渋々離れてくれていた。
おかげで、すぐに目的の人物を認めることができる。
彼は、入り口近くでテオ相手になにやら憤慨したようすで両拳を握り締めていた。
「まったく、皆さんは意地悪なんです! ぼっちゃんのために行うことで、どうして私を抜きにするんですかっ! そう思いませんか、テオ様っ!?」
いつも柔和な色を宿す目じりは、今日ばかりはキリリと辛目に吊りあがっている。
その隣で、テオはなんともいえない顔をして、グルリと解放軍ばかりの脱衣所を見回していた。
「なんというか……パワフルだな。」
スイのために、温泉まで掘ってしまうという根性は、恐れ入る。
そう小さく呟いて溜息を零すテオに、キッ、とグレミオが鋭い一瞥をくれた。
「そうですよ、テオ様っ! ぼっちゃんのためにパワフルって言ったら、このグレミオ以上の人なんて居ませんっ! にも関わらず、せっかくのぼっちゃんの大切なお誕生日に、タルトしか焼けなかったこのグレミオの悔しさがお分かりになられますよねっ!!?」
ガシッ! と、テオの両肩を掴み、グレミオは勢いに任せて、ガックンガックンと百戦百勝将軍の体を揺さぶる。
「こ、こら──止めないか、グレミオ……っ。」
とっさに反撃に出ようとしたテオであったが、自分が「客人」であり、相手がスイを溺愛しているグレミオだという事実を思い出し、グ、と拳を握り締めて堪えた。
代わりに、グレミオの必要以上に力のこもっている腕に手を添えて、なんとか彼を説得しようとするのだが、
「どうして、どうして、ぼっちゃんの誕生日の企画に、この私をハブチになんてするんですかっ!? ねぇっ、テオ様っ!!?」
「そんなこと、私が知るわけがないだろう……。」
今にも泣きそうな顔で叫ぶグレミオの悲鳴に答えをくれたのは、うんざりした思いでグレミオの手を掴むテオではなく、
「グレミオに言ったら、せっかく黙っていたことが全部バレバレになるだろうが。」
いいかげん離してやれと、グレミオの肩にポンと手を置いた、ビクトールであった。
「ビクトールっ! あなたの策略ですかっ!?」
途端、テオの体を離し、キッ、とビクトールに詰め寄るグレミオに、ヤレヤレとテオは襟元を直す。
「策略ってあのなぁ……、そもそもお前、こんなでっかい企画を立ててる最中に、スイに黙っておくことなんてできるのか?」
「できます!」
呆れたように問い掛けるビクトールに、自信満々にグレミオは言い切るが、
「いや、無理だろう。」
あっさりと、マクドール家の当主その人から否定が入る。
「たとえ口に出さずに黙っていても、グレミオは態度にすぐ出る上に、スイはお前の変化に目ざといからな……毎年、内緒にしようとしても、すぐに問い詰められてばらしてただろう。」
おかげで、一体何度、「誕生日に内緒で帰ってくる」事が出来なかったことか……と、溜息を零すテオに、
「えっ、え──い、いえっ、だって、ぼっちゃんったら、『隠し事するなら口効かない』とか言うんですよっ!? そっ、そんなの、グレミオには耐えられません、テオ様っ!」
「……ほら見ろ、やっぱりお前には黙ってて正解だったじゃねぇか。」
ヒョイ、と肩を竦めたビクトールに、ううっ、と悔しげに唸ったグレミオは、ふと次の瞬間には、その顔に明るい笑みを浮かべて、ビクトールの後ろを見た。
「ぼっちゃん! どうなさったんですか?」
嬉々とした声で出迎える先には、長衣だけを脱いだスイが、思惑ありげな顔で近づいてくるところであった。
彼は、右手の手袋を撫でながら、グレミオの隣に立つテオにチラリを目をやり──それから、グレミオに向かって目配せをする。
「ゴメン、ちょっと頼みたいからさ。」
何を、という主語は決して口にはしない。
しかし、グレミオはすぐにその意味を悟ったのだろう。
すぐに頷くと、テオとビクトールに向けて頭を下げると、
「それでは、ぼっちゃんのお着替えを手伝って参りますので、これにて失礼します。」
キリリ、と顔つきを改めて、そう告げた。
すかさず、スイから突っ込みが入る。
「着替えを手伝うって言うな。」
それじゃまるで、僕が一人で服を脱ぐこともできないように聞こえるじゃないか、と──唇を軽く尖らせて呟くスイに、グレミオは勢い良く拳を握り締めて、
「何をおっしゃるんですかっ! このグレミオ、他の皆さんに負けてはいられませんっ!
今日の誕生日は、他の誰にもぼっちゃんを触らせる暇もないくらい、ご奉仕いたしますからねっ!」
「いや、包帯だけで十分だから。」
パタパタ、と手を振るスイの言葉は、まるでグレミオの耳には入っていないらしい。
ささ、と、テオとビクトールのことをキレイに忘れて、スイの背中をグイグイと押して、いそいそと去っていってしまった。
残されたビクトールは、水を得た魚だなぁ、と能天気に呟き──テオを振り返った。
「ま、多少居心地は悪いかもしんねぇけど、基本的にみんなお気楽なヤツらばっかりだからさ──適当に、やってくれ。
その代わり、最初に言ったと思うけど……今回は、帝国だの解放軍だの、そーゆー関係の台詞は、一切抜きだからな。」
気楽な口調とは裏腹に、鋭い眼差しを宿して言い切るビクトールに、鷹揚にテオは頷き、ウカレモード満載のグレミオの背を見つめながら──低く、呟く。
「──……一つ、聞いてもいいか?」
「あん?」
促すように目を細めるビクトールの前で、テオはきつく眉を顰め──ためらうように唇を小さく震わせた後、
「包帯と言っていたが……スイは、風呂に入るときにもソレが必要なほど、深い傷跡でもあるのか?」
ただ静かに、そう尋ねた。
ビクトールは、彼の深い眼差しの奥に見える心配の色を認めて──あぁ、と、ただ苦い笑みを刻み込む。
スイの手袋に隠された「もの」を、テオは知らないのだ。
ビクトールやフリック、クレオやグレミオなど、前線にあるものは、何度かその紋章の宿す脅威の力に助けられたこともあったから、アレが何と呼ばれている紋章なのかも知っている。
同時に、幹部たちには緘口令をしかれた上で、スイ自身からも説明はされている──「アレ」がどういう意味を持つ紋章なのかを知っているのは、おそらく、スイの身近に居る者たちだけで、ほとんどの者は「真の紋章」の一つであるという認識しかなかったが。
だから、スイは基本的に風呂に入るときには気を使う。
その紋章を、「知らない者」には見られないように。
「…………傷っていうか……痕、だな。
見て楽しいものじゃないみたいだからよ。」
「………………………………そうか……………………。」
少し暗い表情を宿すテオに、ビクトールはそれ以上何も説明はせず、ただ笑みを刻んで彼を着替えるように促すだけにとどめた。
知らなくてもいい。
知らないなら、知らないままのほうがいい。
──そう思ったから、スイもまた、テオがいる前では右手に包帯を巻いてもらうように、グレミオにそう頼んだに違いないのだから。
テオの目から、右手の紋章を隠すために……。
「なら俺は、せっかくの誕生日くらい、気楽にさせてやるだけさ。」
そう軽い口調で呟きながら、ビクトールは自分も服を脱ぐために、浴衣の帯に手をかけるのであった。
脱衣所から風呂場の方へと移動するのは、一番初めはスイでなくてはならない、と重々しく告げたレパントの言葉に従って、スイは野天風呂に足を踏み出した。
湯気でもうもうと包まれるソコは、特別景色がいいわけではないが、それでも室内の風呂に比べたら十分に開放感に溢れ、誘い込むように流れていく風は、ひどく心地よく感じた。
「ぼっちゃん、足元には気をつけてくださいねっ。」
すぐに背後から出てきたグレミオが、心配そうに口にするのに、グレミオらしいと、苦笑する面々の表情を背中で感じる。
踏み出した足先に触れる、ヒンヤリとした石のタイルは、表面をキレイに磨いてあるらしく、足裏に滑らかな感触を伝えるばかりだった。
湧き出る温泉が流れ出ないように排水の位置をきちんと作ってあるためか、岩で囲まれた風呂の周りのタイルが、濡れていることはない。
「──大丈夫だよ、ぜんぜん濡れてないから、ドッチかというと、滑って転ぶのは、出るときになりそうだ。」
だから、軽口を叩いて、ほら、とグレミオ達も中に入ってくるように促す。
「スイ殿が転びそうになれば、私がきちんと抱きとめましょう。」
キリリと顔つきを改めて、自信たっぷりに言い切るレパントには、
「オヤジ、しゃれにならないから、止めとけ。」
なんと答えようかと、チラリと父の顔を見て悩む顔を見せたスイの代わりに、パタパタとシーナが諌めてくれた。
「何をっ!? シャレにならないとは、何のことだ、シーナっ! 私はただ、スイ殿の華奢な腰が岩に当たって砕けては大変だと……っ。」
すでに湯気にあてられてか、顔を赤く染めて叫ぶレパントの隣から、スルリ、とスイの横に移ったビクトールが、
「まー、確かにお前の腰は、転んだら砕けそうな程度には、細いしなぁ?」
にやけた笑みを貼り付けて、スイの腰をなで上げた瞬間、
「あ、足が滑った。」
ものの見事なまでに感情が入っていない声で、スイはわざとらしく呟いて、ビクトールの足を払った。
「……おわっ!?」
みっともない悲鳴が上がるのを聞き届けることもせず、スイは湯船に近づくと、その前に跪く。
それと同時、ワタワタと腕を振り回してバランスを取ろうとしていたビクトールの背を、
「ビクトールさん……っ、セクハラですよ!」
ドンッ、と、グレミオが後押ししてくれた。
その最後の後押しに、あっけなくビクトールの巨体は風呂の床に倒れこんだ。
ドドンッ!!
「肉が重いと、地鳴りも酷いね。」
ハッ、と冷たく吐き捨てるルックが、そのまま足取りも軽く、肉絨毯の上を歩く。
ボリュームがありながらも引き締まった腹は、すっころんだ後でスッカリ緩んでいたためか、ルックの軽い体重を受けても、
「ぐぇっ。」
そんな潰れたカエルのような声をあげてくれた。
「──げほっ、が……っ、お、お前らなぁ……っ。」
まるで狙い済ましたかのようなスイとグレミオとルックのタッグ攻撃に、ビクトールはこれ以上踏まれてはたまらないと、慌てて上半身を起こして、腰と腹を同時に押さえつける。
「ぼっちゃんに汚い手で触れるからですよ。」
冷ややかな目を落として、グレミオがキッパリと言い切る。
そんな彼らの会話に、グレミオの過保護、という一言だけではくくれない何かを感じて、テオはちょっとばかり遠い目をする。
チラリ、と頭の片隅を掠めたのは、自軍の中や、他軍の中で見た兵士たちのいろいろな諸事情であった。
もちろん、将軍という地位についているテオには、深く縁のある話だ。部下や同僚たちから、そう言った相談を受けることもあった。
「……軍生活が長いと、そーなるが……いや、だがな、スイはリーダーなわけだし………………。」
風呂場の手前で壁に背を預け、ブツブツと呟いているテオは、チラリ、と息子を目で追う。
自分が一番湯に浸からないことには、誰も風呂に入らないとわかっている彼は、さっさと掛け湯をすませて、暖かなお湯の中へと体を沈めてしまう。
ぴしょん、と小さなお湯の音が立つと同時に、その瞬間を待っていたかのように、次々に解放軍の面子が掛け湯もソコソコに風呂の中へと体を沈めていく。
かと思うと、風呂の縁際に体を浸からせたスイの元へと、誰へともなく近づいていく。
その光景時代は、別に珍しい光景ではない。
軍主であるスイを慕う人間が多いのはいいことである。
事実、テオにも覚えがあることなのだが──なぜか中央にいる息子と、その周辺に集ってくる人間たちを見ていると……ハーレム、という言葉が浮かんでしまうのは、なぜだろう? 周辺に居る人間は、個性豊かではあるけれど、決して美女だとか美少女だなんて呼べるような性別でも見かけでもないというのに。
なんともいえない顔で苦虫を噛み潰すテオの視線の先で、そんな父親の複雑な気持ちをサッパリ理解できていないスイが、手ぬぐいをお湯につけて、ぎゅー、と絞っていた。
「ふぅ──気持ちいい……。」
濡れた手ぬぐいで頬を拭きながら、はぁ、と満足げにスイは湯船の縁の岩に項を預ける。
体を伸ばすと、ちょうど良い位置に岩が当たり、キレイに切り出していない自然そのままの形を保った岩は、ヒジかけにもちょうど良い高さにも出っ張りを作っている。
「公共の温泉で、手ぬぐいを湯につけるんじゃねぇぞ、スイ。」
パシャン、と再び手ぬぐいを湯につけたスイの横から、ニュ、と腕が伸びてきて、その手ぬぐいを奪い取られた。
見上げると、手ぬぐいを頭に乗せたタイ・ホーがニヤリと笑っていた。
「公共の温泉じゃなくって、僕の温泉じゃないの?」
だから、はい、と包帯の巻かれた右手を差し出して、ニッコリと微笑んでやると、タイ・ホーはヒョイと肩を竦めて見せる。
そして、
「そりゃそーだな。」
豪快に笑って、ポイッ、と手ぬぐいを返してくれた。
スイは、今度はソレを岩の外でしっかりと水気を絞ると、タイ・ホーを真似るように頭の上に手ぬぐいを乗せる。
「のぼせかけたら、ソノあたりに少し高めに組んだ岩があったはずっすから、ソコに座って上半身だけ風に当たるといいっすよ。」
タイ・ホーと並んで肩まで湯に浸かっていると、ヤム・クーが風呂の縁に腰掛け、湯船に足をつけながら、ザンバラ髪を縛りながら教えてくれた。
その視線の先に目をやると、テンプルトンが一段高い岩に腰掛け、ちょうど良い高さの温泉に満足しているのが見えた。
テンプルトンの身長で胸元までお湯がきているのなら、確かに大人にはちょうど良い涼しい場所になることだろう。
「へー──アッチは足湯で、ソコは涼み場? 短時間で作ったワリには、頑張ったんだ。」
そう口にしながら、ホロリと唇がほころぶのは、たかが一週間で作り上げてくれた彼らの思いを感じ取れるからだ。
ゆっくりと足と手を伸ばして、ふぅ、と満足げな吐息が唇から零れる。
暖かなお湯に、血行もよくなって頬をほんのりと朱色に染まったスイの容貌に、タイ・ホーはニヤニヤと笑みを零す。
「すげぇ大変だったんだぜ、岩を切り出して持ってきてな。」
嬉しそうに笑うタイ・ホーがそうですねぇ、と暢気にヤム・クーが相槌を打っている。
そこへ、
「誰が切り出したと思ってるんだい……っ。」
忌々しげな口調で、バシャン、と水音も荒々しくルックが入ってくる。
しっとりと濡れた髪が、彼の白い項や頬に張り付いて、ルックは非常に不満そうな顔だった。
「ルック。」
「ルック君。」
「お前。」
「ルックさん。」
そんなルックの不機嫌な理由がわかっているのかわかっていないのか、低く吐き捨てたルックの台詞に、周囲から返事が返ってくる。
しかも、真っ先にルックのイライラした声に返したのは、スイであった。
「──……君ね……っ。」
「ありがとー、ルックv いつも涼しい顔をしているルックの、愛を感じるよ、この岩にv」
じとり、と睨み上げるルックに、明るく笑って、わざとらしくスイは自分が頭を預けている岩に頬ずりをしてくれる。
「ソレをいうなら、スイが傷つかないように頑張って磨いた俺に、愛を感じてくれよ、スイ。」
ヒョイっ、とスイの頭上から、覗き込むようにシーナが顔を見せる。
目を瞬くスイに、な? とシーナは茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってくれる。
「シーナの愛は軽いからなー。」
「何をおっしゃる、お前への愛は、この岩よりも重いぜー?」
軽く笑いながら、シーナはかけ湯もソコソコにスイの隣に沈み込んでくる。
その瞬間を狙って、スイは手で作った水鉄砲で、パシャンっ、とシーナの顔にお湯を掛ける。
「──っておいっ、スイっ。」
入った早々にコレでお迎えかよっ、と噛み付くように怒鳴るシーナに、
「水も滴るいい男、でよかったじゃないか。」
ニッコリと花ほころぶように微笑んでくれる。
それを目前に突きつけられて、思わずシーナは返す言葉に詰まった。
グッ、と声もなく唇を引き結んだシーナの額に、髪から零れたしずくがツゥ、と滴る。
「──……くそっ。」
短く吐き捨てて、シーナは短い髪を無理矢理掻き揚げると、ぶすくれた表情で持っていた手ぬぐいを顔の上に落とした。
そのまま、ずず、と腰を落として、ブクブクとお湯の中で泡を吐き捨てる。
「──スイ、君ね……。」
そんなシーナの、お湯に隠れた赤く染まった頬を睨んだ後、ルックは疲れたような顔でスイを見やる。
そのルックのキレイな顔向けて、
「ん、何、ルック?」
バシュッ。
楽しげに、手の平と手の平と組み合わせた間から、思い切り良く水鉄砲を吐き出しながら、スイが首を傾げる。
「……………………………………。」
思い切り正面からお湯を浴びたルックの唇がかすかに震え出すのをしっかりと目撃して、
「……やべぇ……っ。」
「──すね。」
いそいそと、タイ・ホーとヤム・クーの二人が、その場から遠ざかる。
「…………スイ………………っ。」
二人が遠ざかることによって、軽く波たった水面の上で、ルックが壮絶なまでの微笑を浮かべる。
濡れた髪から零れ落ちる水しぶきが、ルックの白い肌を伝い──、あたりに不穏な空気が漂った。
それを感づいているだろうに、涼しげな顔でスイは首を傾げ続ける。
「だから、何って聞いてるじゃん。」
「…………いい度胸だ……。」
ひっそりと──そうルックの唇から声が零れた刹那、ザザッ、と、ルックの周囲が小波を生んだ。
「ぅげっ、おい、ルックっ。」
慌ててシーナが、ズザッ、と後ずさるが、その多少の動きで出来た波さえも、どこからともなく生まれた風の力によって、押さえつけられる。
ルックを中心に波立つ水面に、シーナが万事休すか、と、バシャンッ、と音を立てて、スイの腕を掴み、自らの懐へかばいこもうと足を踏み出した瞬間、
「おい、スイ。今から軽く飲もうぜ。」
緊迫したルックの雰囲気にまったく気づかない明るい声で、フリックがお湯を掻き分けて近づいてきた。
まるで狙っていたかのようなタイミングで近づいてきたフリックを、ルックが睨みつけた瞬間、彼の腹と顔面へ、狙いたがわずルックの生み出した風の塊が飛び込むっ!
ゴスッ……。
「──ぐ……っ!?」
ものの見事に、避け様もない状態でそれらを正面から受けたフリックは、突然の衝撃派にワケがわからないまま、ぐらり、と体を傾がせる。
ニ三歩後ろに下がり──それでも必死にバランスを保たせようとした刹那……ズル、と、視界がぶれた。
「ぅわっ! す、滑……っ。」
水に濡れた石のタイルが滑りやすくなるのと同様、湯船の底も滑りやすいのだということを、ウッカリ忘れていたフリックが、目を大きく見開くのと、グルリと視界が回るのとが、ほぼ同時だった。
そして、次の刹那には、
バッシャンッ!!!
一際大きい水柱が、温泉に湧き出るのであった。
「フリックー。温泉は飛び込み禁止なんだよ?」
したり顔で、背中から湯にダイビングをしたフリックに、スイが注意を飛ばす。
バシャッ、と激しい水音がして、ばたばたとあがいた手と足が見え──すぐに咳き込みながらフリックが顔をあげた。
「──……っか野郎……っ! 突然何をするんだっ、ルックっ!」
ギリッ、と、頭からずぶぬれになったフリックが、吐き捨てるように叫ぶけれど──そんな不運の主の声は、もちろんルックの耳には届いていない。
彼は、ヒタリと涼しい顔をしているスイを睨みつけ、低く呟くばかりである。
「──……今回は、コレで勘弁してやるよ。
自分の誕生日だったことを、ありがたく思うんだね、スイ。」
「って、やっぱりスイ、お前のせいかっ!!」
ふん、と顎を上げて零したルックの台詞に、フリックは自分が八つ当たりされただけだと言うことを認識した。
頭から水を滴らせながら、噛み付くように怒鳴るフリックに、ヒラヒラとスイは手の平を揺らして笑ってみせる。
「違う、違う。元を正せば、シーナの愛が軽いせいだって。」
「バッカ、だから俺の愛は重いっていってるだろ? ──言葉で信じてくれないなら、行動で示すしかない……ってことか、コラ?」
ニヤニヤと笑いながら顔を近づけるシーナの顔に、前触れもなくバッチン、と大きめの手の平が当てられる。
それが誰の物なのかシーナが理解するよりも先に、シーナの背後を取った男が、そのままシーナの頭を引き寄せるようにして、スイから引き剥がす。
「シーナ。スイ殿が困っているではないか。」
「────…………オヤジ………………。」
うんざりしたように呟いて、自分の後頭部に当たったたくましい胸筋から、もがき出る。
そのまま見上げた先には、記憶にこびりついて離れない、実の父親の顔であった。
「やぁ、レパント。」
ヒラリ、と手を翻して、スイは小さく微笑みを零してみせる。
「スイ殿、湯加減はいかがですかな?」
いそいそと、シーナを放り出して自らもそこに席を定めたレパントの言葉に、うん、とスイは柔らかに頷く。
「すごく、気持ちイイ、かな。」
ほんのりと色づく頬と、はんなりと浮かんだ微笑みに、思わず視線が泳いだ。
「…………そそそ、そうですか…………っ、そ、それは良かった。」
動揺を悟られまいと、必死にお湯の中で手を握り締めてみるが、
「なんでどもるんだよ、オヤジ……っ。」
息子から小突きとともに突っ込まれるくらい、動揺は全然隠れてはいなかった。
コレで、コウアンでも人々に慕われていた人格で、解放軍の中でも重要な位置を占める人物だというから、驚きというか、息子としてはため息しか出てこないというのか。
まったく、と、額に手を当てて、年甲斐もなくスイに嬉しそうに話しかけているレパントを横目で見ていると、しれっとした顔でルックがシーナの呟きに答えてくれた。
「そりゃ、君と同じDNAを持っているから、じゃないのかい?」
「そりゃどういう意味だよ、ルック?」
険を込めて睨みつけながら、低い声で問い返してやると、アッサリとルックは勝利を確信した笑みを口元に広げながら、教えてくれる。
「妄想癖が激しい。」
刹那、
「────…………ぅわー……ヤな親子だねー。」
一応話の中央部分に位置するところの軍主さまは、心の奥底からそう思ったような表情で、そう吐き捨て、
「俺をオヤジと一緒にするなよっ!」
「誤解です、スイ殿っ!!」
息のあった否定ぶりを見せる親子の大音声で、否定されるのであった。
普通に記憶を掘り起こせば、小さい頃からグレミオに甘やかされて育ったわが子は、人の体に張り付くのが好きな子供であったと記憶している。
料理をしている最中のグレミオの背後に近づいては、その髪を引っ張ったり、その背中に張り付いてみたり、のしかかったり、くすぐってみたり、耳を引っ張ってみたり──などのイタズラは、日常茶飯事であったし。
初めての親友のテッドとも、一緒にお風呂に入ったり、噴水で水浴びして遊んだり、時には同じ布団で昼寝をしたりと、それは仲の良い親友ぶりであった。
だから、貴族の息子にしてはこういう公共のフロに入るのに、何の抵抗も抱いていないのは、ある意味不思議はないのだが──。
「だからって……少し、行きすぎではないのか?」
見てはいけないものを覗いてしまったような気持ちとともに、テオは苦虫を噛み潰した顔で、いまだに湯船の中に入らず、出入り口近くで二の足を踏んでいた。
そうこうしている間に、くつろいだ様子を見せるスイの周りは、彼が親しくしている人間達で溢れ返り、とっかえひっかえ何やかやと持ってきては、他の誰かに引き剥がされていくような状況が繰り返されている。
今のところ、スイの隣にちゃっかり居座っているのは、小柄で華奢な美少年と、髪を短く刈り込んだ青年、フロの中にまでなぜか青いバンダナをしている青年と、ビクトールと呼ばれていた男の四人である。
始めは晩酌セットを湯船に浮かべていたのだが、なんだかんだと入れ替わり立ち替わりやってくる人間によって、酒が零れてしまうという理由から、湯からあげられ、岩場に置いている。
美味しそうな酒を酌み交わして、かつん、と笑い戯れながらお猪口を当てあう様は、微笑ましく見えたし、テオも出来ることならあの中に参加したいとも思う。
スイと親子水いらずで、晩酌をすることは、息子が小さい頃からのテオのいつか叶えたい望みであったからだ。
だが、そこへ進んで歩んでいくには、少し、心掛かりがあった。
「………………やはり、行きすぎのような気がする……。」
いや、だが、あんなものか? スイの周りは、いつもあんな風に、なんだかんだとチヤホヤしてしまっていたか?
顎に手を当てて、うーん、とテオは呻く。
確かに、穏かな目で見ていたら、普通の光景に見えないでもない。
シーナがスイの肩に手を回した瞬間、フリックがその手をピシャリと叩いていようとも、ビクトールがスイの頭を掻きこもうとした刹那、見えない何かで叩かれたように水面に顔面から突っ伏しても。
そう、普通の光景に…………、
「見えるはずがないだろう……っ! グレミオは何をやっているんだ、グレミオはっ! スイを他の者の手には触らせないと、そう宣言していたじゃないかっ!!」
様子を見守ろうと、そ、と出入り口に立っていたのが失敗だった。
テオがギリ、と奥歯を噛み締めて、ココは堂々と父親であり帝国将軍としての威厳で、スイの周囲から彼らを引き剥がすしかないではないか、と、足を踏み出した瞬間であった。
「あれ、テオ様? そんなところにいらっしゃったら、湯冷めしてしまいますよ!?」
ガラリ、と脱衣所のドアが開き、見慣れた顔がテオを認めて、パチクリと目を瞬かせた。
その、能天気にも思える言葉と態度に、テオはとっさにでかかった罵声を飲み込み、あいまいに頷く。
「ん……あ、あぁ……グレミオか…………。」
そんなテオの心中をまったく知らず、グレミオは手にした桶の中身を、楽しげに披露し始める。
「はい〜♪ 今からぼっちゃんのお背中を流そうと思いまして、ほら、コッチは絹の手ぬぐいなんです、で、酒粕のパックも造ってきたんですよ〜。」
お前がそんなものを用意している間に、スイは貞操の危機に……いや、陥ってはないが、なんだかそういう状況に近い状況になっているんだ……っ!
実際は、もう少しじゃれあいに近い状態であったが、テオの目にはそうとしか移っていなかった。
ギリリ、と拳を握り締め、それでも必死に罵倒を堪えるテオに、グレミオは他にもコレやアレやと出しながら、最後にニッコリ笑ってテオを見上げた。
「久し振りに垢すりもいいかなぁ、と思ってコチラには──って、どうかなさいました、テオ様? なんだか顔が青いんですけど……まさか、湯気でもう湯あたりでも……っ!?」
そして、ようやく──ようやく、テオの様子がおかしいことに気付いた。
ココにクレオが居たら、「あんたは本当にぼっちゃんのことになると、テオ様は二の次だねぇ」と感心した台詞をよこしてくれたことであろう。
テオは、なんだか疲れたような気を覚えながら、こめかみを指でもみつつ、クイ、と正面の光景を顎でしゃくった。
「あ、あぁ……いや……──その……いつも、あんな感じなのか……?」
その、暗にこめられた「あんな感じ」の意味を、グレミオは見事にスイ視点で捉えて、柔らかに微笑む。
「あんな感じって……ぼっちゃんですか? 今日は少し、はしゃいでいるみたいだと思いますけど。
やっぱり、テオ様がいらっしゃって、嬉しいんでしょうね。
──はっ、でも、ぼっちゃんのお背中を流すのは、いくらテオ様でも譲りませんからねっ!」
一瞬にして剣呑な光を宿すグレミオに、そーじゃなくって、とテオはゆるくかぶりを振った。
そうこうしている間にも、スイと他の者との距離が縮んだような気がしてならない。
おい、ココにスイの父親が居るというのに、なんだ、その親しげな態度はっ!
────自分に居たのは息子であって、娘ではないはずなのに、どうしてこんな気をもまなくてはいけないのかと思うと同時、軍の内情が頭の中で巡り巡ってしまうのは、やはりテオが一つの軍を統べる人間であったからだろう。
最初の時点で二の足を踏んでしまったのが、間違いだった。
「──……いや──その…………グレミオがたくさん居るように、私には思えて仕方が無いのだが…………いつも、あぁ、なのか?」
悩んだ末、テオはあえてそう言い換えてみた。
まさか、「みんなスイを狙っているような気がしてならない」なんて、告げられるはずもない。
「は? 私は一人ですよ? ──って、あっ、またシーナさんったら、なれなれしくぼっちゃんを抱き寄せてっ!」
不思議そうに首を傾げたグレミオが、次の刹那には厳しい顔つきで風呂を睨みつける。
今度は何が──と、疲れた顔で見やったテオは、そこで正面からシーナに抱き寄せられているスイの姿を認めて、
「……って、おいっ、ココは風呂だぞっ!? 裸なんだぞっ!?」
思わずそう叫んでしまった。
シーナの手はしっかりとスイの背中に回されていて、擬音を使うなら、「ギューッ」という台詞が似合うほどしっかりと、抱きしめられている。
「──大丈夫ですよ、きっとすぐ後……ほーら、フリックさんとビクトールさんとルック君に引き剥がされてるでしょう? 最近、いつもあんな感じで。」
まったくもう、と怒ったように腰に手を当てて呟くグレミオは、フリックとビクトールに引き剥がされ、ルックにお湯の中に沈められているシーナに、ため息を零してみせる。
あの、過保護なグレミオが、コレを見てため息を零すだけということは……「慣れている」という事実に他ならないと気付き、テオはキッ、とグレミオを睨みつけた。
「あんな感じって……おいっ、グレミオっ! お前、きちんとスイを守ってやっているんだろうなっ!?」
「もちろんですっ! ぼっちゃんの柔肌は、グレミオがきちんとお守りしていますよ! ですから今日だって、この通り風呂上りのボディーローションも完備しております!」
打てば返すように帰って来る台詞は、やはり少し的違いだった。
いや、確かに意味合い的には、「スイの肌を守る」であるが、なんだか少し違うような──どちらかというと、そういう肌の守り方は、彼に触れる男達を喜ばせるだけなのでは、と、頭痛を覚えた。
しかし、そうやって暢気にしている暇はない。
そうこうしているうちに、スイの正面にやってきたビクトールが、唐突にスイの足を持ち上げるではないか。
「……って、おいっ、あの男は何をしているんだ──スイの足なんか持ち上げてっ、おいおいおいおいおいっ!!」
冷静沈着だと言われる百戦百勝将軍も、思いもよらない息子の貞操ピンチに、血相を変えずには居られない。
あまりの動揺に、その場にタタラを踏んでしまう。
その隣では、ビクトールの膝に乗り上げる形になったスイに、自分以上に動揺しているはずの男が、目くじらを立てて叫んでいた。
「ビクトールさんっ! ぼっちゃんのマッサージは、私がするって言ってるじゃないですかっ!!」
…………マッサージっ!? 正面から膝の上に乗り上げているのが、マッサージなのかっ!?
「そう硬いこと言うなって、スイだっていっつもグレミオにしてもらってるから、たまには他の男のほうがいいだろ? な?」
言いながら、ビクトールはマッサージらしくスイの足を揉みはじめるが、その手つきはマッサージと言えばそうであるように見えたし、そうじゃないように見たら、そうじゃないようにも見える。
意地悪く笑みながら、正面から顔を覗きこんでくるビクトールから、顔を逸らすようにスイは首を傾げる。
「えー……どうしようかなー? ビクトールの手つき、なんかやらしいし?」
そういうスイの顔も、意地悪げな笑みが浮かんでいて、この状況を楽しんでいるように見える。
──というよりも、楽しんでいるのか、そうなのか、スイっ!?
お父さんとしては、少しばかり焦る状況であった。
「ンナワケあるかよ、こんな貧弱な脚と腰じゃ、役不足に決まってるだろ。」
パシャンッ、と小さく水音が立って、ビクトールは自分に乗り上げているスイの足と腰をポンポンと叩いた。
その彼の台詞に、「役に立つって……何のだ、何のっ!」と、テオが向こうで憤っているのに気付いているのか気付いていないのか、スイはニッコリと笑ってビクトールを見上げたかと思うと、彼の体を強引に押しのけ、
「えいっ。」
小さな掛け声とともに、思いっきり、蹴ってはならない部分を蹴りつけた。
バッシャンッ!!
「あぅっ!」
大きな水音と共に、ビクトールが何とも言えない顔で激痛を堪え──次の刹那、彼はスイの体を放り出し、両手で股間を押さえ込む。
「あ……ぉっ、お前っ、何つぅところを蹴るんだっ!」
喉を振り絞るような声を出し……その声でまた痛みが響いて、ううぅっ、と背中を折り曲げて呻く。
そんなビクトールに、同情とも言いがたい、なんとも生ぬるい視線が周囲から注がれた。
「どうせ貧弱だよ、悪かったな。」
ったく、汚い物を蹴っちゃったよ、とブツブツ言いながら、スイは蹴りつけた右足を、フリックの背中に擦り付ける。
「こすり付けるなっ、んなもの蹴った足をっ!」
悲鳴を上げてフリックがバシャバシャと逃げるのに、
「いいじゃん、減るもんじゃなし。」
「減るわっ、俺の背中の清潔度がっ!」
面白楽しい悲鳴が上がる横で、くそーっ、とビクトールが肩を震わせ続けている。
言いたい放題言いやがって……と思っているのは見え見えだったが、叫ぶことも動くこともできない、非常に辛い状況だったのだ。
それを見下ろして、ルックは軽く首を傾げると、老婆心を持って、
「そんなに痛いなら、いっそ、切るっていう手もあるけど、どうする?」
右手をゆぅらりとかざして、そう──冷たい微笑みで問いかけた。
本気である。
「あ、ルック、するなら風呂の外でしてね。僕のお風呂が穢れると困るし。」
逃げるフリックの首に抱きついて、無理矢理元の位置に戻していたスイが、パタパタと掌を揺らしてキッパリとルックを振り返りながら告げる。
「──面倒な注文つけるな……。」
うんざりした顔で髪を掻き揚げるルックには、ビクトールがなにやら抗議の声をあげたが、くぐもった声であったため、それはまともな言葉になることはなかった。
「つぅか、同じ男として、お前らは何も感じないのかヨ……。」
どこか青ざめた顔で、シーナが首をすくめると、周囲から同意の意味を込めた頷きが、うんうん、と返ってきた。
しかし、加害者たるスイは、そんなことをまったく気にはかけず、代わりに、今更な事実に気付いた。
「あれ? グレミオ、父上、いつまでもそんなところに居ないで、入ってきたら?」
フリックの首ったまに抱きついた体勢のまま、スイは入り口近くで突っ立ったままの父とグレミオを手招く。
大切なぼっちゃんのお誘いに、グレミオはとたんにとろけるように笑って、
「あっ、はいはい、もちろんですよ。」
いそいそと、湯船の縁に歩いていくが、テオはその言葉を許容することはできなかった。
さすがに我慢の限界というか、どうして今まで我慢して見ていたのだろうかとか、そんな考えが頭の中をグルリと一回り回ったかと思うと、彼は戦場を駆けるときの勢いで、
「──スイっ! お前、今すぐあがってこいっ!」
そう、叫んだ。
よく響く声に、一瞬、温泉場の中が、しーん──と静まり返る。
そのさなか、
「…………は?」
何を言うのかと、スイが眉を顰めて、そんな父を見上げる。
どことなく青い顔をしていると思うのは、きっと気のせいではあるまい。
どうして顔が青いんだろう? 湯当たりしたなら、顔が赤いはずだし?
そう首を傾げるスイに反して、息を呑んだ一同は、今更ながらにテオが何を目撃したのか気付いた。
「あー……とな、テオ将軍、これは……。」
なんと説明したものかと、フリックが慌てて自分の首からスイの手を外しながら、上ずった声で説明をし始めようとした瞬間、ポン、と、軽やかな音が響いた。
それは、テオの隣に立っていたグレミオが、合点がいったとばかりに両手を叩く音であった。
「あっ、そうですね、ぼっちゃん。テオ様と一緒にお背中の流しっことかしたらどうですか?」
朗らかに──おそらく天然極まりないほど朗らかに、グレミオが、そうスイに語りかける。
それから、ハッ、としたような顔になると、これだけは忘れてはいけないと言うように、
「あ、この場合、ぼっちゃんのお背中を流すのは私ですから、ぼっちゃんがテオ様のお背中を流すんですよー。」
したり顔でそう続けてくれた。
とたん、グレミオ効果もあいまって、湯船に走った緊迫の糸が、ほろり、と解ける。
特に、なぜテオが怒鳴りつけたのか理解していないスイは、グレミオの誘いに乗るのも早かった。
「あぁ、そういうこと。
そういえば、父上はいっつも、お風呂に入る前に体を洗う派だったっけ。気が利かなくてごめん、ごめん。」
頭の上に乗せた手ぬぐいを取り外しながら、スイがいそいそと湯船の縁に足を掛ける。
ひょい、と身軽に湯船から出てきた息子に、テオは何ともいえない苦い笑みを刻み込む。
「えーっと、洗い場は……と。」
キョロキョロとあたりを見回したグレミオが、すぐに洗面桶が積み重ねられている一角を発見して、いそいそとソコに座り台を三つ設置する。
そんな彼へ、本日の主役を奪われたビクトールが、お猪口を掲げながら、からかい半分に声をかける。
「って、おいおい、グレミオ、お前がいっつもスイの背中を流してるじゃないか。たまには俺たちに譲れよ。」
「ダメです、これは私の生きがいですからねっ!」
打てば響くように返るグレミオの台詞に、
「そんなものを生きがいにするなよ。」
思わず、疲れたように反論してしまうスイの肩を、ガッシリとグレミオは掴んだ。
ウキウキした表情で、自分が座る予定の一番後ろの椅子の横に、スイを磨くためのセットを置いて、その前の席を手で指し示した。
「はい! ぼっちゃん、コチラにどうぞ。」
「ハイハイ。」
チョコン、とスイを椅子に座らせて、せっせとグレミオは石鹸を泡立て網で泡立てながら、いまだに背後に立ったままのテオに声をかける。
「テオ様も、早くしてくださいね〜。」
誰が見ても、スイがよければ後はどうでもいいと思ってるのが良く分かる光景であった。
「グレミオ、手ぬぐいと石鹸は?」
ヒラヒラ、と手を伸ばしてくるスイの手の上に、グレミオは心得た顔で頷き、そのままテオを振り返った。
「テオ様、手ぬぐいをお借りいたします。」
彼が持っていた手ぬぐいを丁寧に受け取ると、それとともに、洗い場に設置されていた石鹸を手にすると、ニッコリ微笑みながらそれらをスイに手渡した。
「はい、ぼっちゃん。これはテオ様用の石鹸と手ぬぐいですから、ぼっちゃんのお体は洗っちゃダメですよ。」
もちろん、きちんと一言を付け加えることも忘れない。
おい、と思わずテオが突っ込みたくなった一瞬であった。
「ダメなの?」
父が持っていた手ぬぐいを、水で濡らしながら首を傾げるスイに、自信満々にグレミオは頷く。
「はい。テオ様用ので洗ったら、ぼっちゃんの柔肌が傷ついてしまいますからねっ!」
「ふーん、父上の背中は豪肌なんだ、へー。」
「…………………………。」
ため息を一つ零して、テオは何も言えずに、せっせとあわ立てているスイとグレミオの背中を見守った。
どうして自分はココに居るのだろう? そう思った一瞬であった。
「父上、何をしているんですか? お背中流しますよ。」
いつまで経っても自分の前に来ないテオに、スイがいぶかしげに眉を寄せながら、ぽんぽんと前の椅子を叩く。
「──ああ……今行く。」
その言葉に、ようやく重い足をあげ、テオはスイの元へと近づいた。
ことん、とフロ用の椅子に腰掛けると、すぐに背中に乱暴とも言える手つきでお湯がかけられる。
かと思うと、すぐにペタリと手ぬぐいが当てられ、ごしごしと擦り始める。
少し弱い力が、どこか心地よく優しくて──テオは、胸の奥に温かな気配が広がるのを感じた。
そういえば、最後にスイに背中を流してもらったのは──いや、一緒に風呂に入ったのは、イツだっただろう?
確か、まだスイの体がテオの背中ほどの大きさしかなかったときのような気がする。
小さいスイは、テオの肩を擦るために、背伸びをして一生懸命テオの背に両手を押し付けていたのだ。
それは、戦士のテオにしてみたら、撫でられているとしか思えないほど、弱い力であった。
その当時に比べたら、今のスイの力は力強くあったが──それでも、まだ、テオ自身が体を洗うよりもずっと弱弱しい。
「………………スイ。」
普段、テオの背中を流そうとしてくれる人間というのは、アレンやグレンシールなどの腹心の部下ばかりだ。
まだ屋敷にいた頃は、グレミオやパーンが背中を流してくれることも合ったが──今のスイの力は、そんな彼らよりも弱い。
そう思うと、それで解放軍軍主が勤まると思っているのか、だとか、それで本当に戦いを切り抜けていくつもりなのか、だとか──そういう叱咤の気持ちがこみ上げてきた。
それらの思いを押し込めて、テオは低くスイの名を呼ぶが、帰って来る返事はなかった。
代わりに、テオの背中を洗い流すスイの手に、どんどんと力がなくなっていく。
不審に思って、テオはもう一度スイの名を呼んだ。
「スイ……?」
今度は、完全に背中を流す手が止まってしまい、テオは戸惑いを抱えながら、そ、と肩ごしに背後を振り返った。
それとともに、くすくすと堪えきれない笑いを零すスイの楽しげな声が聞こえた。
「スイ?」
一体何をしているのだと、振り返った先。
「ちょっとグレミオっ、くすぐったいっ、くすぐったいってばっ。」
テオの背中に当てている手ぬぐいを必死に握りながら、スイが笑い声を堪えつつ体をひねっていた。
その彼の背中に、泡を纏ったグレミオの手の平が、ペッタリと押し付けられている。
そう、グレミオが用意していた絹の手ぬぐいでもなく、ヘチマスポンジでもなく、彼の生手の平である。
柔らかな泡に包まれた手の平を、グレミオは真剣な眼差しでスイの背中に滑らせる。
その指先が脇を掠めると、スイが堪えきれず小さく笑い声を零した。
「我慢してください、ぼっちゃんっ、これが美への道なんですっ!」
キッ、と眦を上げて告げるグレミオに、スイは笑い声を必死に堪えた表情で、眦に涙まで浮かべながら、体をひねってよけようとするが──目の前にあるテオの体が邪魔で、上手く逃げ切れない。
「いや、美なんてどうでもいいから、普通に手ぬぐいで洗ってよ。手はヤだ〜っ。」
「何を言いますっ、お肌は、泡で丁寧に洗うのが一番いいんですよ! ほら、見てください、この柔らかできめ細かい泡をっ! はい、ぼっちゃん、手を上げてっ!」
「や〜だ〜っ、くすぐったいもんっ。」
あははは、と笑って──スイは手ぬぐいを握り締めたまま、グレミオの手を止めようと体をひねる。
つるん、と滑ったグレミオの手の平が、スルリと彼の体を抱きとめる。
「ぐ……グレミオ……──っ。」
低くうめいて、テオは振り返った体勢のまま、動きを止めた。
まさか、グレミオまで──そう、グレミオまでそんなことをしているとは……っ。
ショックを受けて、呆然と事を見守っているテオを置いて、順応力の早い解放軍面子は、グレミオとスイにとっては非常に楽しい──けど、第三者から見たら卑猥に見えるやり取りに、いそいそとお湯から出てきて、嬉々としてソレに加わろうとする。
まずは、グレミオが脇に置いた泡立ちスポンジと石鹸を手にしたシーナが、手の平に泡を擦り付けて、
「手で洗っていいなら、俺も洗ってやるぜ〜、スイ。ほら、コッチ向け、コッチ♪」
嬉しそうに、スイを手招きする。
その彼の頭上に、ごっつんっ! と拳を落とすのは、顔を真っ赤に染めたレパントである。
「シーナっ、貴様というヤツは……っ!!」
そのままレパントは、グワシッ、とシーナの両肩を掴み、鬼気迫る形相を彼に近づける。
シーナは、本気で目が怒っている父の顔に、ひく、と引き攣って、慌てて両手を振って泡を落とした。
「オヤジっ! たんま、たんまっ!!」
「問答無用だね。」
アッサリと、シーナの背中を蹴りつけるようにして彼をレパントの元に突き出すのは──もちろん、ルック。
そんなやり取りが繰り返されている隣では、
「って、うわっ、ちょっ、ちょっとくすぐったいってば、グレミオっ、そこはダメっ! ダメだってば〜っ!」
明るい声をあげて、グレミオの手から逃げようと、まだスイが身体をひねり続けていた。
「ぼっちゃんっ! 逃げていたら、キレイになりませんよっ!」
「だって、くすぐったいんだもんっ! グレミオ、絶対に狙ってるだろっ!」
伸びてくるグレミオの手を軽く払いのけながら、スイが軽い笑い声を立てる。
明るく笑い声を立てていると、不意に頭の上に人影が落ちる。
ソレが誰だろうと認識するよりも先に、脇に手を突っ込まれたかと思うと同時、ヒョイ、と抱きあげらられてしまう。
「グレミオ、そこまでだ。」
ニヤリ、と笑って、スイの脚を自分の腕に抱え上げ、
「それじゃ、スイは俺が貰っていくぜ〜♪」
な? と、面白そうにビクトールが笑った。
スイは、キョトンと間近に見える彼の顔を見下ろし──ウィンクをしてくれるビクトールに、あぁ、そういうことか、と合点が行ったように頷いた。
つまり、グレミオから助けてくれるということだろう。
「それじゃ、後は頼む。」
スチャ、とビクトールに片手を上げて、スイは素直に彼の首にかじりついた。
だがしかし、それを簡単に許すグレミオではない。
「ってこらっ! ビクトールっ!」
ガシッ、と、スイが座っていたイスを手にしたかと思うと、
「はっ、そんなもの投げたら、スイにも当たるぜーっ!?」
軽口を叩くビクトールに構わず、勢い良くソレを真横になぎ払い──、ガツンッ、と、弁慶の泣き所向けて、たたきつけた。
「──……っ!!!!!」
「ぅわっ!」
瞬間、悶絶のあまり、スイを抱えていたが震えたビクトールの手から、スイの体が零れ落ちる。
「スイっ!」
「ぼっちゃんっ!」
待ち構えていたように手を差し伸べるグレミオと、慌てたように駆けつけてくるフリック、そしてギョッとするシーナやレパントやルックの顔を認めたスイは、とりあえず倒れ行くビクトールを援護するように彼の体を足で蹴り飛ばし、空中でバランスを取り戻して──すとん、と舞い落ちる……はずだった。
しかし、無事に床に脚をつけるよりも先に、ずしり、と重量感のある腕に、背中から受け止められた。
「──……アレ?」
上手くビクトールを蹴飛ばしたから、無事に着地できるはずだったのだけど──と、目を瞬いて見上げた先……疲れたような声と表情で、スイを抱きとめた人物は彼の名を呟いた。
「──スイ。」
「…………父上??」
いつの間に、と目を瞬くスイに、テオは深い溜息を一つ零した。
「濡れた床の上に着地するのは無謀だから、止めなさい。」
「はい、わかりました。以後気をつけます。
父上、ありがとうございます。」
いい子の返事を返してくれるスイの、即答に近い返事ほど信用がないということは、血のつながりのある父も良く知っている。
キリリ、と表情を改めて笑いかけてくれるスイに、テオも引き攣った笑みを零し、内心、自分が彼を抱きとめることが出来たことにホッと胸を撫で下ろしていた。
あの瞬間、技を仕掛けたグレミオは当然のことながら、一体何人の人間が自分の体を受け止めようとしていたか、スイはきちんと理解できているのだろうか?
父は、非常に複雑である。
「……………………で、父上…………降ろしてほしいんですけど?」
ブラブラと脚を揺らして、スイはテオの腕を叩きながら、催促する。
しかし、テオは離したらお終いだというかのように、しっかりとスイを抱え直して、周囲を見回した。
「グレミオっ! てめぇっ、危ないだろっ!」
脚を抱えて、床に蹲ったまま叫ぶビクトールに、腰に手を当ててグレミオが叫ぶ。
「何を言うんですっ! 私はただ、虫を排除しようとしただけですよっ!」
すかさずフリックがそんなグレミオに反論して、それにレパントたちがうんうんと力強く頷く。
「ビクトールを狙うのはいいけど、アレじゃ、スイも危ないだろうがっ!」
「私がぼっちゃんが危なくなるようなことをするはずがないじゃないですかっ!」
「というより、やっぱりクマが問題なんじゃないの?」
イヤそうな顔で美少年が呟けば、アレはどうのこうのと、四方八方から声が飛ぶ。
あっと言う間に、賑やかな喧騒に塗れた温泉から、テオは腕の中のわが子に視線を落とした。
いつまでも自分を抱えている父のたくましい腕に、「の」の字を書いては、「どうして僕の腕はこんな風にならないんだろう……」と呟いているわが子は、すぐに父の視線に気づいて、不思議そうに首を傾げて見上げてくれた。
「はい? どうかしました、父上?」
キョトン、とした顔は、わが子ながら可愛らしいと、昔から常々思ってはいたが……、
「………………おまえ、やはり、考え直す気はないのか?」
「え、何を??」
────まさか本気で、こういうことを心配する日がこようとは、想像もしなかった。
「──俺は……お前を残していくのが、非常に不安だ。」
はぁ、と……溜息を零して、テオは解放軍の──そう、帝国軍とは違い、自分の守護が届かない範囲の人物を、グルリと見回して、腕の中のスイを、しっかりと抱えなおした。
頭上から落ちてくるテオの溜息に、ヒラヒラと髪を舞わせながら、スイは、父が見ていると思われる温泉浴場をぐるりと見回し──、
「──────…………は?」
いつもの状況にしか見えない光景に、一体父が何を不安に思っているのか理解できず、ますます首を傾げるのであった。
ドワーフの村の宿──いつになく明るく響く女性陣ばかりが集っている一角で、クレオは冷えたグラスを傾けながら、ふぅ、と頬杖をついた。
チラリと横目で見やる先には、しどけなく襟ぐりを開いたジーンやカミーユに突付かれて、顔を赤くしたり青くしたりと世話しない若い戦士の姿があった。
「うふふふ──何を赤くなっているのかしら? ほら、もう手元のお酒が空っぽね。」
ウットリとした微笑を見せ付けるジーンの隣から、
「あんたたち、テオ将軍の部下だって? それなら、ちょっとあの人に、借金払うように言ってくれない?」
カミーユが、ほらほら、と豪快に彼らのグラスに酒を注ぎ込む。
テオの身を守るために鎧を決して脱ごうとしない二人の美青年を隔離するためだと言う名目で、こうして宿で女性陣で囲んでいるのだが──、
「どう考えても、ただの暇つぶしの玩具を見つけたようにしか、見えないな──ったく。」
クレオの隣で、バレリアが見事な灼熱の髪を掻き揚げつつ、はぁ、と溜息を零す。
クレオもまた、その呟きには賛成だったから、小さく笑って彼女に同意してみせた。
「今ごろ、スイ様──楽しんでいたらいいんだけど。」
言いながら、その場に参加できない自分を思い、ほんの少しだけ寂しげに笑みを浮かべる。
そんなクレオに、バレリアは少しだけ瞳を細めた後──あぁ、でも、と眉を寄せた。
「男ばっかりで、調子に乗ってなかったらいいんだがな。」
「…………………………あぁ…………そうだね………………。」
何せ、解放軍の男連中ときたら、女性が居なければ歯止めが効かないんだから。
そう──呆れたように零すバレリアに、クレオはどこかうつろな笑みを浮かべて──キュ、とグラスを握り締めた。
温泉を掘り出している最中の男達の真剣な顔をアリアリと思いだした瞬間、なぜか唇から零れたのは、どっぷりと重い溜息であった。
「スイ様は元気でやっていると、テオ様に、安心してもらおうという計画でもあったんだけど──。」
そこで一度言葉を止めて、クレオは溜息を今度は細く長く吐き捨てて、
「逆効果、だったかも…………しれないねぇ…………。」
──今、何が温泉場で起きているのかなんて、考えたくはない。
考えたくはないのだけど。
「────────………………やだなぁ…………。」
想像がついてしまう自分の額に手を当てて、クレオはその場に突っ伏すのをかろうじて堪えることしか、出来なかった。
きっと今ごろ、あの場所は──パラダイス。
THE END
お疲れ様でございました〜。
5周年記念にご参加、まことにありがとうございました!
そしてそして、お待たせいたしまして、大変申し訳ありませんでしたっ!!
ようやく出来上がりました品は、坊への愛が炸裂するあまり、異様なくらい長くなってしまいました。
ということで、前後編でお送りさせていただきました。
ここまでお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
坊総受けで、愛され〜v を目指した結果、
ビクv坊・シーナVSルック→坊、レパント→坊、フリ坊、グレ坊、テオ坊っぽくなりましたね♪
……オヤジ率、高っ!
ソノ上後半はすべて裸ばっかりv
いちゃつく全てが裸で行われていると思うと、なんだか18禁ぽいような気も…………しませんね、ゴメンなさい(汗)。
テオ「────……スイ…………父とともに来いっ! このままココに居ては、お前の貞操が危ないんだっ!!」
スイ「は? 何を言っているのさ、父上? 僕の貞操って……何の話?」
シーナ「あー……やっぱりテオ将軍にはばれてるぜ……オヤジ。」
レパント「なっ、何を言うんだ、シーナ! 私は別に何も……っ、そう、キリンジに誓って、何もやましいことなど……っ!」
ルック「往生際の悪いおじさんだね。」
フリック「っていうか、いいのか、あのままで? スイのヤツ、連れ去られたりとかしないか?」
グレミオ「テオ様、一体どうしたんでしょう? どうして私まで、ぼっちゃんに近づかせてくださらないんでしょう……っ。
お風呂上りのぼっちゃんのおみぐしを梳くのは、私の仕事ですのに…………。」
ビクトール「ま、なんでもいいだろ? スイのことだから、そのうちテオ将軍をぶっちぎって逃げてくるさ。」
マッシュ「…………というか、あなたたち……私が少しドワーフの村で仕事をしている間に、何をしてたんですか、何を?
テオ将軍に何かしたのではないでしょうね?」
ハンフリー「……………………………………………………。」
サンチェス「……沈黙が、なんだか、怖いですねぇ……。」
フリック「って、ハンフリーが無口なのは昔からだろ、サンチェス……っ。」
グレンシール「……一体何があったんだ──テオさまは。」
アレン「さぁ……俺たちが女性陣にもみくちゃにされている間に──何をされたのだろうか……くそっ、俺たちも、まだまだだな……っ。」
グレンシール「────あの宿のことは、できれば忘れたいところだな…………。」
アレン「どちらにしても、もう来ることもない。──そうだろう、グレンシール?」
グレンシール「……確かに、な…………。」
スイ「ちょっと、アレン、グレンっ! 父上、なんとか説得して連れ帰ってよ。さっきから、なんかもう、ずーっと僕の後ろにへばりついてガン垂れて困るんだけど?」
テオ「何を言う、スイっ! 父はな、父は……お前が道を外すまいと思ってだな……っ!」
スイ「いや、父上とはすでに道が違うから、外すも何も、同じ道を歩いてるわけじゃないのに──。」
テオ「………………スイ…………っ、私が説いているのは、そういう道ではなくてな……っ!」
アレン「────……何があったんだろう、テオさま……あんなつらそうな顔をして。」
グレンシール「……………………………………知らないほうが、いいと思うぞ………………。(←なんとなく見当がついた)」