天候が穏かなグランエスタードの島の、小さな漁師村……フィッシュベル。
島内で最も有名で勇敢な漁師、ボルカノの家の二階。
太陽が昇る前に開け放した窓からは、暖かな日差しが入り込み、室内を煌々と照らし出している。
その窓の光をまともに浴びる場所に設置された木組みの低いベッドの上には、明け方、ようやく眠りについたばかりの少年が、スヤスヤと寝息を立てていた。
白いシーツに頬を埋め、薄いかけ布に包るようにして寝ている少年……彼が、ボルカノの1人息子であるアルスである。
屈強で精悍な父には似ても似つかないあどけない容貌は、ほんのりと日に焼けていてまだ子供特有の丸みを残している。無邪気な子供の色を濃く残した表情で眠る少年は、実年齢よりもずっと幼く見えた。
少しクセづいた漆黒の髪が、シーツの上に広げ、スゥスゥと、規則正しい寝息を零しながら、彼は身じろぎ一つしない。
平和で幸せな夢を、今この時も手放すまい、としているようだったが──、その穏かな朝の空気を揺るがすように、
「アールス! アルスーっ!!」
下の階から、ビリリと空気を震わす声が聞こえてきた。
ピクン、とアルスの肩が小さく跳ねて反応したが、まだ瞼までは動かない。
それをマーレは知っているのか、ますます声を大きくして、二階と一階を繋ぐハシゴのあたりまで来ると、
「アルスっ! いい加減起きなっ! もう昼ごはんの時間になっちゃうじゃないか!!」
喉を大きく開いて叫ぶ。
先程よりも間近に……そして大きく聞こえる声に、ようやくアルスはうっすらと瞼を開いた。
ぼんやりと見える見慣れた視界に、パチパチ、と目を瞬き、重く熱い感じのする目を、指先でこする。
「んー?」
まだ眠気の残っている声で、アルスはトロリと瞼を落とし始める。
そこをまるで見ていたかのように、
「ほらっ、アルス! 起きな! あんた、いつまでキーファ王子を待たせるつもりなんだいっ!!」
がしゃんっ、と、ハシゴを揺らす音がした。
──と、同時。
「えっ、キーファっ!?」
眠気も吹っ飛んで、アルスはガバッ、とベッドの上に起き上がった。
そのまま飛び降りて、先程まで体に残っていた鈍痛のような眠気も何のその──少し足がもつれはしたものの、アルスは寝巻き代わりに使っているシャツのまま、一階へと続くハシゴまで駆け寄ると、ヒョイ、とソコから顔を覗かせた。
「キーファが来てるの、母さんっ!?」
二階へと続く穴から、ヒョッコリと顔をさかさまに出して叫ぶ息子を、マーレは呆れたように見上げた。
「キーファ王子の名前を出すと、すぐに飛び起きるね、あんたは。
ほら、さっさと着替えて降りておいで。昼食にお弁当を作ったから、2人でお食べ。」
アルスの目がパッチリ覚めているのを認めて、マーレはそう促すと、ハシゴの下から厨房の方へと歩き始める。
そんなマーレを視線で追うように、アルスはキョロキョロと狭い我が家を見回した。
けれど、日差しが良く差し込んだ明るい一階には、マーレ以外の姿は見えない。
キーファが来ていたら、いつも当たり前のように食卓の席に着いているところだが、食卓には誰も居ない。それどころか、テーブルの上には白い紙が一枚乗っているだけ。キーファが居たら、最低でもお茶くらいは出ているはずであるであるが、それすらもない。
「? 母さん、キーファは?」
さかさまに頭を突き出したまま、母のふくよかな背を目線で追うと、マーレは手際よくバスケットの中にサンドイッチを詰め込みながら、
「すぐに、帰ったよ。」
「……ハ?」
どういうこと、と、眉を顰めるアルスを肩越しに見上げて、マーレはクイ、とテーブルの上を顎でしゃくった。
「アルスがまだ寝てるって伝えたら、その伝言を渡してくれって頼まれたんだよ。
そこで待ってるから、ってね。」
ことのついでのように、ヒョイ、と肩を竦めるマーレもまた、それがいつものキーファらしくないと感じているようだった。
もちろん、それをマーレの口から伝えられたアルスにしても同感で、
「…………はぁぁ?」
思いっきり素っ頓狂な声で、アルスは目と口を全開にする。
戸惑いを覚えるだとか、それ以前の問題で……キーファが、寝ているアルスをたたき起こさずに帰ったことなんて、出会った最初の頃くらいのものだ。
いつもなら、まだ寝ているアルスの部屋に堂々と入ってきて、たたき起こすか、気づいたら一緒に寝ているか──そのどちらかだ。
基本的に規則正しい生活を送っているキーファと違って、アルスは漁師の息子だから、時々急な仕事に借り出されることもある──まだ漁師としての腕前は未熟で、力も背もないアルスは、半人前以下の扱いしかされてはいなかったが。
昨日もソレで、破れた魚網の修理に借り出されていて、眠ったときにはもう、太陽がうっすらと水平線に見えているような時間だった。
マーレがソレを説明して、キーファがそれなら、と遠慮したという可能性もあるが──、
「キーファ、いつ来たの?」
体を二階に戻して、アルスは着ていたシャツを脱ぎ捨て、箪笥に駆け寄る。
「めずらしく」キーファが残していった伝言メモを早く見たいという気持ちがあったが、寝巻きのまま降りて行ったら母に怒鳴られるのは分かりきっていた。
慌てて箪笥をひっくり返すアルスに、マーレが大きな声で──アルスにも届くような声で答える。
「さっきだよ。──もうそろそろ起こしてもいい頃だって説明したんだけどねぇ……今日は時間があるから、好都合だとか何とか。」
「……変なの。」
眉を寄せて、アルスはお日様の匂いのするシャツに頭を通し、テキパキといつもの服装になった。
キーファが遊びを誘いに来たということは、確実に「船」か「冒険」に違いない。
忘れないようにベッド際に置いてある道具袋を腰に引っ掛ける。
急いでハシゴを降りたときには、テーブルの上に、昼食が入っているだろうバスケットが置かれていた。
「確かに変かもしれないけど、王子がおかしな行動をするのは、前からだからねぇ」
アハハハハ、とマーレは明るく笑って、バスケットをポンポンと叩いた。
「ちゃんと2人分入ってるから、昼食までに王子のところに行っておいで。」
どうせ、夜まで帰ってこないんだろう。
そう言外に言われて、アルスは素直に頷いた。
「うん、分かった。」
言いながら、バスケットにではなく、テーブルの上に伏せられた白い紙を手にした。
ひっくり返すと、見慣れたキーファの文字で、いつもマーレに口で伝言しているような伝言が、一言書かれているだけ。
『アルスへ、いつもの所で待ってる。』
見た瞬間、アルスは益々いぶかしむような表情で、そのメモを表に裏にとひっくり返す。
しかし、特別おかしなところなど何もない紙には、仕掛けがあるわけでもなかった。
「母さん……キーファ、なんかおかしいところとかなかった?」
思わず眉を寄せて、アルスはマーレを振り返ってそう尋ねていた。
わざわざ伝言メモにする意味が分からない。
そうアリアリと顔に貼り付けて尋ねるアルスに、マーレも小さく笑って頷く。
「あたしもソレを渡されたときに聞いたよ。口で伝えようかって。
そしたら、紙じゃないと意味がないんだって言ってたけど……また、何か新しい遊びでも見つけたんじゃないかね?」
「…………???」
ますます意味が分からないと、アルスは紙を手に取り、マジマジと見つめたが──、
「それよりもホラ、アルス、さっさと顔を洗って、王子んとこに行っといで。
おてんと様が傾いちゃうよ。」
急きたてるようなマーレの促しに、慌てて手にしたメモを折りたたみ、道具袋の中に突っ込んだ。
キーファはきっと、昼食も食べずに待っているに違いない。
マーレもそう思ったからこそ、キーファが出て行ってすぐにサンドイッチを作り始め、出来上がってもアルスが起きて来ないから、アルスを叩き起こすことにしたのだろう。
顔を洗うために表に飛び出していく息子を見送りながら、マーレはヤレヤレ、と腰に手を当てて──サンドイッチを作った後片付けをするために、厨房へと足を向けた。
右手に2人分の昼食の入った大きなバスケットを抱えながら、アルスは砂浜を縦断して、いつもの洞窟の前まで来る。
太陽は高く上り、もうすぐ南中を迎えそうな時間だった。
うららかな暖かさと、沖から吹き付ける潮風が心地よくて、あふ、とアルスは欠伸を小さく噛み殺しながら、薄暗い洞窟の中へと足を進めた。
じゃり、と足元で砂が湿気を含んだ音を立てる中は、ひんやりと涼しく、氷室とまでは行かないまでも、色々なものを保存しておくのには適している。
海がすぐ目の前のため、湿気が多いはずだが、風通しがいいためか、ジメジメはしていない。
様々な荷物がキッチリと置かれている奥──キーファとの「いつもの場所」へ続く場所の前へ座り込む。
そのまま蓋をずらそうとして……アルスは、その蓋にメモが貼り付けてあるのにすぐ気づいた。
白い紙に書かれた文字は、またもやキーファのものである。
何かのゲームなんだろうかと、メモを覗き込むと、
『椅子を見ろ。』
「………………椅子?」
思わずアルスは、キョロキョロとあたりを見回す。
しかし、この中に椅子など存在はしない。
一体何のことだろ、憮然とアルスはその紙を引き剥がし、それも先程のメモと同じように洞窟の中に入れた。
キーファが突然、何か別の遊びをすることは、別段珍しいことではない。
何の説明もされずに始めることもあれば、長々と手順を説明してから始めることもある。
どうやら今回は、前者のようだと、アルスは小さくため息を零しながら蓋をずらし、下から現れた階段に体を滑り込ませた。
ザザ……ァ……。
小波の音が間近で聞こえる中に足を踏み入れると、そこには見慣れた光景。
高い洞窟の天井と、開けた視界。
自然に出来た船のドックには、碇と紐でつながれた中古の船が一つ、堂々と居座っている。
大きな船ではない──決して。
けれど、少年達2人が自ら手にし、海に乗り出すには、十二分すぎるほどの大きさを持つ船だった。
けれど、まだまだ修繕箇所は多く、今のままでは近海を航海するのが精一杯──、2人の約束、「いつか水平線の向こうにある──どこかにある島を見に行こう」という夢を果たすには、手直しが必要な箇所が膨大にある。
それでも暇を見て、色々修繕してきた船を見上げて、アルスは首を傾げた。
「キーファ?」
声をかけるけれど、洞窟内にアルスの声が反響するばかりで、返事はない。
「……船の中かな?」
小さく呟いて、アルスは船の甲板へ続く板へ足を乗せる。
ぎし、と小さく揺れる板の上を、身軽に走りぬけ、広い甲板の上に足を下ろす。
ザザ……ァ……ン。
波が船体に当たっては、ゆるく引いていく音が耳に残る中、甲板の上や見張り台を見回すが、やはりキーファの姿はない。
もっとも、甲板の上に居たなら、アルスが降りてきた段階で、キーファはすぐに気づいて顔を出してくるだろう。
まさか、かくれ鬼とか言うつもりじゃないだろうな?
──先程入り口で見つけた「椅子を見ろ」の伝言メモを思い出しながら、アルスは船の中へ続く扉に駆け寄った。
「キーファー? いるのー?」
太陽の輝きが溢れる海の上ならとにかく、洞窟の中にある船の中は暗くて、かすかな明かりでは奥の方までは見通せない。
耳を澄ませてみても、答えは返ってこなくて、アルスはしょうがないな、と中へと足を踏み込んだ。
修理を始めた当初のように、ゴタゴタしているわけでもなければ、ところどころ板に穴が開いているわけでもない船内は、それなりに快適で……時々キーファは、ココでノンビリと昼寝をしていることもある。
「キーファ。」
いつもキーファが寝床代わりに使っている船室を開けて呼びかけるが、答えは返ってこない。
それどころか、狭い船室の中はガランとしていて、誰かが居るような様子はなかった。
中をぐるりと見回すと、椅子とテーブルが目に入った。
「…………椅子を見ろ……。」
小さくアルスは伝言メモの内容を繰り返し、その椅子へと近づく。
船体の修理に使った木の余りを使って、キーファが作った椅子とテーブルだ。
時々、まだ出港してもいないのに「航海日記」をキーファが書いているのを見かけたことがある。
アルスが近づくと、薄暗闇の中、椅子の背もたれに、ぺったり、と白いメモがまた貼り付けているのが分かった。
「……なんなんだよ、もう……。」
一体コレは、何のゲームなんだと、アルスは乱暴な手つきでソレを剥がし取った。
そして、乱暴な仕草で船室の窓を閉じていた鎧戸を開けると、窓から注ぎ込んでくる光りに一瞬目を細めて──その紙を光りの中に突き出した。
『下を見ろ。』
「下っ!?」
メモにはまた、単調な一言が書かれている。
たった一言だけれど、それがキーファの字であることは間違いない。
アルスは大きく顔を歪めて、自分の立っている位置の下を見た。
けれどソコには何もない。ただの板張りの床があるだけだ。
「──もーっ、何考えてるんだよ、キーファはっ!」
下を見て、何があるって言うんだっ!
なんだか、だんだんとイライラしてきて、アルスは唇をムッツリと引き結んで紙が張ってあった椅子の下を覗き込んだ。
すると、ソコにも紙が一枚、床に貼り付けてあった。
それも乱暴な手つきではがしとり、先程の紙と合わせて窓辺に突きつける。
光の下、またもやキーファの字で、
『テーブルの裏を見ろ。』
一体コレは、いつまで続くのだろうか?
もしかしてキーファは、この部屋のどこかで自分のこの様子を見ていて、クツクツと笑っているのじゃないだろうか?
そんな気分にかられて、グルリと周囲を見回してみるが、部屋の中に誰かがいるようなスペースもなければ、気配もない。
それじゃ、一体何の遊びなのだろうと、アルスはテーブルの下をヒョイと覗き込む。
すると案の定、テーブルの裏にぺったりと貼り付けられた白い紙。
アルスはそれを剥がしとり、のろのろと窓辺にやってきて、それを見下ろす。
今度は、一言ではなくて文字が複数。
これがこのメモリレーの最後かもしれないと思う気持ちと、今度は何を言うつもりだと、不安に思う気持ちとが半々になりながら、読んだ紙には、
『留守番、ご苦労! 俺は石像の所に居るから、今から来てくれ!』
アルスは、思わずその紙を持ったまま、数秒固まってしまった。
マジマジと、その紙を見つめて、
「……留守番って……何?」
呆然と、呟く。
一体何がどうなっているのか、サッパリ分からなかった。
それとも、自分は何かヒントになるようなものを見逃したり、メモの順番を間違えたりしたのだろうか?
手にしたメモが3枚。
道具袋に入っているメモが2枚。
全てを出して順番に並べてみても、合っているとしか思えない。
それらをもう一度順番に見やった後、アルスはまとめてソレを二つ折りにすると、道具袋の中にしまいこんだ。
考えても分からない。
キーファのすることは、いつも唐突で、いつもビックリすることばかりだ。
「とにかく、遺跡に居るなら……行こう。」
うん、と一つ頷いて、自分に言い聞かせるように呟く。
単純に、「遺跡で待ってる」と誰かに伝言するわけには行かないから、こうして遠まわしに伝言を残した……という可能性もないわけではないし。
でも。
「それならそれで、『例の場所で待ってる』で……通じるんだけどなぁ……。」
いつも、そうだし。
なんだか釈然としないものを感じながら、アルスは今自分が歩いてきた道を、小走りに戻り始めた。
平和なエスタード島にある、唯一の「入ってはいけない場所」──禁断の地。
険しい山脈と深い森に囲まれたその禁断の地にある遺跡に遊びに行くのが、最近のキーファとアルスの一番お気に入りの「冒険」だった。
島内のほとんどの場所で「冒険」を体験した二人が、今一番好奇心と冒険心を擽られている場所──それが、この遺跡なのだ。
遺跡中をぐるりと回ってもなお、好奇心は収まるところを知らず、ほぼ日参している毎日である。
その、何十回となく通り過ぎた森の中の獣道を走りぬけた先──森の木々が不意に切り開かれた場所に、「遺跡」はある。
木々が遠慮しているかのように、ぽっかりと空いた空間──むき出しの地面に、昔は道を作っていただろう壁の残骸がところどころ立ち並び、巨大な瓦礫が横たわっている。
長く風雨に晒されたそれらは、浸食されていたが、まだ形を保っていた。
森の中から、突然、見知らぬ空間に放り出されたような──森奥深くに存在する、「遺跡」。
清清しい森の空気から隔離された、厳かな雰囲気の溢れるそこが目の前に開けると、アルスはいつも鼓動がせわしなくなる。
今日も、森の中を走り抜けた荒い息のまま、リンとした雰囲気の漂うその空気を、目一杯深呼吸して吸い込んだ。
とたん、ストン、と、胸の中に何かが落ちてきて、スゥ……と全身を何かが駆け抜けるような不思議な感覚がした。
それと同時、全身から噴出していた汗も、荒く喉でつっかえていた呼吸も、何もかもが遠く消える。
ゆっくりと──正常に戻った呼吸を静かに繰り返しながら、アルスは両目をしっかりと開いた。
目の前には、薄く靄がかかったような、神秘的で厳かな遺跡──禁断の地。
崩れかけた壁で囲まれた入り口を見上げて、アルスは自然と唇に上る微笑をそのままに、足をしっかりと踏み出した。
森の中から遺跡の中へ。
たった一歩進んだだけだと言うのに、アルスをまとう空気が変わって見えた。
その違う雰囲気に染まった遺跡の独特の空気に、ブルリ、と身を震わせて、アルスはようやく人心地つく。
汗で濡れた髪を頬から払いのけながら、キョロリと辺りを見回す。
船で見たキーファの伝言が本当なら、彼はこのどこかに居るはずなのだ。
遺跡の中で、キーファが自分を待っているような場所といえば、二箇所しかない。
一つは、この入り口から右手に向かった先にある地下から続く、美しい入り江──虹色の光を放つ不思議な入り江。
一つは、入り口から左手に向かった先にある、入り口の開かない神殿のような建物がある場所。
昼食を食べるなら、入り江のほうがいいけれど、待ち合わせの場所なら、神殿近くにある像のほうがいい。
そのどちらに居るのだろうと、アルスはバスケットを抱えなおして、手のひらを口に添えて大きく叫んだ。
「キーファーっ!」
答える声がなかったら、キーファは地上には居ないということになる。
静かな遺跡には、思いっきり叫んだ声が端々まで響き渡るのだ。
これで答えがなかったら、アルスはこのまま右手に折れて、入り江の入り口まで向かえばいいだけだ。
アルスはそのまま手のひらを耳元に当てて、ジ、と耳を澄ませた。
アルスが叫んだ声の余韻が空気に掻き消え、シン、と静けさが落ちても、キーファの返事は返ってこなかった。
「……入り江のほうかな?」
首を傾げて、アルスはバスケットを抱えなおすと、右手に向かって歩き出すために、アルスは右足を踏み出した──その瞬間、
「アールスー! こっちだ、像の方っ!」
今日、初めて聞くキーファの声が、反対側から響き渡った。
聞きなれたキーファの声に、アルスは思わず、ホッと笑顔を見せた。
「……良かった……居た……。」
あの最後のメモまでもが、ただの伝言メモのリレーの途中だったら、どうしようかと思った。
くるりと方向を変えて、アルスはキーファの声がするほうに向けて──神殿が建つ方角向けて、走り出す。
崩れかけた壁をいくつか折れた先──見栄え良く建つ像が、視界に写った。
「キーファっ。」
弾んだ声で呼びながら、ヒョイ、と覗き込むと、像の下で、キーファが地面に座り込んだ体勢で、体をひねるようにしてこちらを見上げていた。
「よ、アルス。」
にやり、と笑って片手を挙げてくる能天気なキーファの顔を認めた瞬間、ムカッ、と、たとえようのない苛立ちが湧き上がる。
「よ、アルス、じゃないだろ……っ。」
自分の道具袋にしまわれたままのメモの存在を思い出しながら、むっつりと眉を寄せるアルスに気づかず、キーファは明るく笑いかけてくる。
その笑顔に、さらにむかむかと苛立ちを感じたアルスへと、
「どうだ、俺の暗号、なかなかだったろ?」
キーファが、目元を緩ませて笑った。
瞬間、
「…………暗号?」
何のことか分からず、アルスはキーファの元へと歩きかけていた足を止めて、きょとん、と目を見張る。
そんなアルスに気づかず、キーファは満足げな顔で一人腕を組み、うんうん、と勝手に頷き始める。
「すっげぇ苦労したんだぜ、あの暗号作るのに。」
「……暗号。」
自分の聞き違えではなかったらしいと、アルスは口の中でキーファの言葉を繰り返した。
暗号。
──おそらくそれは、キーファが自分のために残したメモのことに違いない。
いつものところで待ってる。
これはどう考えても、暗号には思えない。そのままではないか。
さらに次の、「椅子を見ろ」──椅子がどこの椅子のことなのか悩みはしたけど、これもすぐに見つかった。
そして「下を見ろ」も、そのままの意味だった。
「テーブルの裏を見ろ」だってそうだったし、その言葉どおりにテーブルの裏に貼り付けてあった紙だって、意味の分からない「留守番ご苦労! 俺は石像の所にいるから、今から来てくれ!」で。
「特に最後のなんて、すっげぇ頭をひねったぜ──俺があそこまで考えるのって、絶対珍しいよな。」
うんうん、と一人で納得したように頷いているキーファの台詞に、ますます意味が分からなくなって、アルスは首を傾げて彼を見下ろした。
「──……何の話? キーファ? あのメモの、どこが暗号なのさ?」
さっぱり意味が分からない。アレは暗号ではなく、ただの手紙ではないのか?
それとも、何か見逃したメモか何かに、暗号でも書いてあったのかと、そう問いかけるアルスに──キーファは、驚いたように両目を見開いてアルスを見上げた。
「なんだよ!? もしかして、ぜんぜん気づいてないのかっ!?」
「気づいてないって──だから、ただのメモだろ、これ?」
ほら、と、道具袋からキーファが書いた紙を取り出そうとするアルスに、キーファはガリガリと髪をかきあげながら、もう片手でアルスの行動をとめた。
そして、げんなりした顔で、
「俺と違って、アルスってそういう謎とか解くの得意だしなー、って思って、結構がんばったんだけどなぁ。」
まさか、まるで気づいてもらえないとは。
そう嘆くように零すキーファに、アルスは困ったように眉を寄せて、道具袋を見下ろし──、腰をかがめてしゃがみこんだままのキーファを覗き込む。
「謎って──……キーファからのメモに、暗号があったんだ?」
「──んー……。」
そのために、わざわざこんな面倒なメモ形式をとったのかと、そう目で問いかけると、キーファは曖昧に答えて──ふぅ、と一度吐息を漏らした。
それから、チラリと不思議そうな顔をしているアルスを見上げて、シニカルに笑った後、
「ま、いっか。」
あっさりと呟いて、ヒョイ、とその場に立ち上がる。
「ま、いっかって……キーファ??」
勝手にポンと放り出されたような気がして、眉を寄せるアルスの頭に、手の平を置くと、キーファはなぜか照れたように笑った。
「らしくないことするなってことだろうな、きっと。」
「? ──って、意味が分からないよ、キーファ。」
ポンポン、と二度三度、どこか乱暴に頭を叩かれて、アルスは手にしたバスケットを抱きしめながら、困惑の色をあらわにしてブルブルと頭を振った。
頭の上に乗せられたキーファの手を振り払おうとするかのような動きに、キーファは小さく笑って手を離す。
それから、オッ、と目を瞬いて、アルスが抱きしめているバスケットに気づくと、
「これ、もしかしてマーレさんの作ってくれた昼飯?」
バスケットの蓋を、断りもなくヒョイと開いた。
同時に、バスケットの中からふんわりとおいしそうなパンの匂いと、こんがりと揚がった魚の香りが漂ってきた。
「おっ、フィッシュサンドじゃん♪」
「キーファ……。」
舌なめずりをせんばかりに満面の笑みを浮かべるキーファに、アルスは先ほどの「暗号」を問いただそうと口を開くのだが。
「先に食べようぜ、アルスっ! いつものように、虹の入り江でなっ。」
ヒョイ、とアルスの腕の中からバスケットを取り上げて、もう片手でアルスの手を取る。
さぁ、と促されるように強引に腕を引かれて、アルスはなんとも言えない顔でキーファを見上げたが──微かに頬を赤く染めたキーファの横顔に、結局開きかけた口は言葉を発することは無かった。
先を急くように歩き出すキーファに、小走りについていきながら──アルスは、握られた自分の手のひらを見下ろす。
ギュ、と握り締めてくるキーファの手の平に、ジンワリと汗がにじみ出ているのを感じながら──アルスは、握られている手とは違う手で、道具袋を軽く撫でる。
──……結局、何が、どこが暗号なんだよ?
好奇心旺盛なのは、何もキーファだけではない。
気になってしょうがないじゃないかと、アルスは俯きながら、忙しなく前へ前へと進むキーファの足をジ、と睨みつけた。
しかし、キーファは先ほどの様子から察するに、自分で考えた暗号なのに、自分の目の前で見られることはイヤなようである。
「……自分勝手なんだから。」
小さくぼやくと、前を小走りに歩いていたキーファが振り返る。
「何か言ったか、アルス?」
キュ、と、強く手を握られて、アルスはチラリと彼を見上げた後、
「何も──ただ、キーファのおかげで走り回っておなかがすいたって言っただけっ!」
せめてもの意趣返しだと、ベ、と小さく舌を突き出して、握られた手のひらを、強く握り返してやった。
日が暮れるまでの間、キーファと遊んだ後は、たいていマリベルに呼び出される。
いつもは億劫なその行事も、今日ばかりは待ち望んでいたとばかりに、逆にマリベルの家に押しかけたアルスに、彼女はひどくイヤそうな顔をしたが、アルスを追い返したりはしなかった。
毎晩のように出るフィッシュベルの半分を覆う広い砂浜に出ると、マリベルは潮風に巻き毛をさらしながら、で? と、目線でアルスを振り返った。
「キーファと何があったのよ?」
何かあったの、ではない。
何かあったのは確定のようである。
そんなマリベルに、うん、とアルスは頷くと、大切に取ってあった道具袋の中のメモを取り出す。
そしてソレを手のひらで扇状に広げて見せると、マリベルは秀麗な眉を寄せた。
「何よ、これ? キーファからあんたへのラブレター?」
そんなの、自慢にも何もなりはしないわよ、と、腕を組み、フン、と鼻先で笑ったマリベルに、アルスは頬を朱色に染めながら、ブンブンとかぶりを振る。
「ち、違うよ──これは、キーファからのメモなんだけど……。」
ほら、と、すねたように唇を尖らせて差し出してくる白い5枚の紙に、胡散臭げな表情になったマリベルであったが、彼女は何も言わずキーファからの「伝言メモ」を受け取ってくれた。
そして興味なさげにそれに目を通すと、
「──で、コレが何よ?」
あんたら、くだらない遊びをしてるのね。
言外にそう告げるマリベルに、アルスは困ったように眉を寄せて、彼女を上目遣いに見上げる。
「マリベルも、分からないよね?」
「分からないって……何がよ? ただの物取りゲームか何かじゃないの?」
ほら、とつき返されて、素直にアルスはそれを受け取る。
そのアルスを目を眇めて見やりながら──マリベルは、口の中だけで小さく舌打ちした。
このメモのやり取りをどこでしたかは知らないけれど、アルスの家でもキーファの部屋でもないことは確かだろう。
アルスの家で、マーレさんに見つからないように椅子やテーブルなんかにこの紙を貼り付けることはできないし、キーファの部屋には常にメイドが居るから、それも同じ。
──ということは、絶対この2人は、自分たちだけの隠れ家を持っているに違いない。
それも、絶対に自分に内緒の!
思いっきりその事実を暴露していると──マリベルがそれを察するほどに勘がいいことを、アルスは気づいているだろうに、気づいていないのだ……まったく、間抜けもいいところである。
「キーファ、これが暗号だって言うんだけど──僕には、ただの伝言メモにしか見えないんだよね。」
「──暗号?」
眉を寄せて、マリベルは貸してみなさいよ、と再びアルスの手からメモを奪い取った。
そこに描かれている文字は、キーファのものである、小汚い文字。
見慣れたその文字を読み取るのに、さしたる苦労はなかった。
「キーファが無い頭を絞って考えたんだって言うなら、あのバカのことだから、どんな暗号だったのか自慢でもしそうなものじゃない?」
なんでアルスが解けないような難しい暗号を考えたにも関わらず、あいつは謎のままにしておくのよ?
一枚目、二枚目、三枚目、四枚目、五枚目。
捲りながら、マリベルはハッと吐き捨てる。
──問題は、至極、簡単だと言うことに、ようやく気づいた。
「そうなんだよね……なのにキーファ、聞いても、もういいとか言うし。
解けなかったから怒ってるのかと思うんだけど、なんかそれとは違うみたいだし──ね、マリベル? その暗号って、何?」
「…………キーファの鳥頭程度で考えられる暗号って、所詮、こんなものよね。」
ヒラリ、とマリベルは興味を喪ったかのように、アルスの問いかけにそう答えて、ひらり、と手にしたメモをまとめて放り出した。
ひらひら、と風に舞う白い紙に、あわててアルスは手を伸ばすが、強い風にあおられた紙は、そのまま海へ向かって泳いで行ってしまった。
あわてて追いかけるものの、風の勢いにアルスが適うはずもなく、足が数歩前に出ただけで、アルスは遠くなっていく紙を見送ることしかできなくなってしまう。
「マリベル〜っ!」
なんてことをするんだよ、と、唇を一文字に結んで振り返るアルスは、振り返った先に彼女の姿が無いのに、驚いて目を見開く。
まさか、さっさとかえってしまったのかと、マリベルの家の方角を見るが、そこにも彼女の姿はない。
では、いったいどこへ? と、視線を落とした先──先ほどまでマリベルが立っていた場所に、彼女はきちんといた。ただし、砂浜の上にしゃがみこんで、手にした棒切れで砂浜に何かを書いているようであった。
「? マリベル?」
何をやっているのかと、アルスが彼女の隣にしゃがみこむと、マリベルはポイと棒切れを放り投げて、砂浜に書いた自分の文字を見下ろし、うん、と頷いた。
つられるように見下ろしたアルスは、そこに、「キーファの伝言メモ」が、描かれていることに気づく。
横に一列に並べられたソレは、
「あるすへ いつもの所で待ってる」
「いすを見ろ」
「したを見ろ」
「てーぶるの裏を見ろ」
「るすばんご苦労! 俺は石像の所に居るから、今から来てくれ!」
と書かれていた。
上から順番に読み取ったアルスは、感心したように溜息を零す。
「すごいね、マリベル、全部覚えたんだ。」
「…………あんたね、わざわざ分かりやすいように書いてやったのに、これみてもわかんないわけ?」
はぁー、と、膝で頬杖をついて感心するばかりのアルスを、マリベルは額に手を当てて呆れたようにジロリと睨みつけた。
その鋭い視線を受けて、アルスは目をパチパチと瞬くが──さっぱり理解できず、軽く首をひねる。
「分かりやすいように書いてって……やっぱり、キーファのこれって、暗号だったんだ?」
「そーね。バカ王子のことだから、どーせ『最後は苦労した』とか言ったんじゃないの?」
ハンッ、と、鼻で笑って、マリベルはスカートについた砂を払いながら立ち上がる。
「って、ちょっとマリベル……っ! 暗号、解いてくれるんじゃなかったの!?」
あわてて後を追うように立ち上がると、さっさと自宅に帰るために歩き始めていた彼女は、そこで足を止め、クルリ、とアルスを振り返ると、腰に手を当てながら顎を逸らした。
「乙女に夜更かしは天敵よ。それくらい理解しなさいよね、ボケアルス。
そもそも、その程度の暗号しか考えられないようなキーファの、くっだらない暗号を理解できないあんたは、ボケ、以外の何者でもないでしょうけどねっ!」
ボケ、に必要以上に力を込めて叫んだ後、苦々しい表情を宿して、マリベルはこれ以上話すことはないとばかりにブンと髪を振って、ガツガツと砂浜を東へと歩いていった。
自宅へと帰っていくマリベルを、それ以上とめる勇気はなくて、アルスは差し出しかけた手を、そのまま降ろした。
そして、何か分からないけれど、怒った様子のマリベルの背を見送って──アルスは、眉を落として彼女が書いて去っていった「暗号解読ヒント」を見下ろした。
どう見ても、あの伝言メモと同じものとしか見えないのだけど──、
「あ、でも、平仮名になってる。」
それも、一部だけが。
これがヒントかな? と、チョコンと目の前にしゃがみこむこと少し。
無言でジッと見つめていたアルスは、しばらくジ、とそれを見つめた後。
「………………………………あ。」
ボッ、と、顔を赤く染めて、アルスは膝の間に頬をうずめた。
そのまま、顔を大きく歪めて、アルスは唇が緩むのか歪むのか分からないまま、アルスはフードを目深に下ろした。
誰も見ていないとは分かっているのだけど。
「……──ま、マリベルに見られた…………っ。」
自業自得だと分かっているからこそ、どうしようもなくいたたまれなくて、アルスはその場から動くに動けなくなった。
「き……きぃふぁのばかぁぁぁ。」
ただの八つ当たりにしか過ぎないと、分かっていたのだけど、それでもアルスは、ひたすらその場にしゃがみこんだまま、自分の膝に向けてそう吐き捨てるしかなかった。
いったい自分は、どういう顔をして、明日からマリベルに顔をあわせたらいいのだろう──考えるだけで、頭が熱でいっぱいになって、どうしようもなくなった。
「ぅわぁぁぁーんっ。」
頭を抱えて叫んだアルスは、もうしばらく叫ぶまでは、その場から動けそうにはなかった。
そして、そのアルスを、遠く自宅の窓から眺めていたマリベルは、いつまでたっても動こうとしないアルスを見下ろしながら、バッカじゃないの、と、吐き捨てた。
「そんな、今更恥ずかしがるような状態だと思ってんのかしら、あのバカ。」
それよりも、明日、アルスがキーファの「愛の伝言」に気づいたと、【バカ王子】が気づいたときの反応のほうが──今から想像しても腹が立つ。
「あーっ、もぅ、本当にあいつは、バカなのよねーっ!」
ガンガン、と力強く窓の桟を叩きつけて、マリベルは明日、どうやってキーファの首を締め上げようかと──そう考える方に思考をひねり始めるのであった。
5周年企画にお付き合いくださり、ありがとうございました。
長らくお待たせしていました、DQ7のメッセージをお届けいたします〜。
なんだかもう、ラブっぷりよりも、バカっぷり満載って気がして、困りました。
久しぶりのキーアル〜♪
暗い色抜きのキーアルは、なかなか書くのが難しいですねっ!(笑)