ザッパーンッ!
激しく船体に打ち付ける波を、彼はすぐ目の前で見ていた。
鮮やかな髪に舞い散る海の潮が、開いた目に染みて、キュ、と目を閉じた。
頬や体に波しぶきが当たるのを感じながら、それでも彼はソコから動こうとはしなかった。
ぺロリと唇を舐めると、潮の味が舌先に残った。
ゆっくりと瞳を開いて、上を見上げた。
はるか頭上──視界の片隅で強い風にはためく帆と、視界を横切る荒縄。
頭上に見える手すりに結ばれた荒縄は、そのままダラリと下がり……自分の腰に巻きつけられている。
手持ち無沙汰に、それをイジイジと指先で弄りながら、ボンヤリと呟く。
「──後、どれくらいこうしてたら、いいかなぁー?」
長居をするには不似合いな場所に腰掛け、彼は疲れたようにため息を一つ零すのであった。
男勇者:ユーリル
女勇者:リラ
※二人は双子の兄妹という設定です。
それは、うららかな心地よい日差しが差す昼下がりのこと。
サントハイムの城下町サランで見た「立て札」に従い、北西の島国スタンシアラに向けて出港した一行は、長い船旅に暇をもてあましているような状態が続いていた。
まだ、出港して間もない頃、大陸の沿岸に沿って北上していた時には、見える景色にも変化があって、まだ退屈をしのぐ材料があったのだけど、沿岸を離れて西に船が進路をとり始めてすでに三日。見渡す限り海と空と雲しか見えない状態になってしまえば、もうすることもない。
日差しが心地よい空は、風も雲も何もかもが同じ色で、嵐が来る気配もない。
船に不慣れな頃は──ミントスからモンバーバラへ移動するときは、イヤになるくらい嵐の洗礼を受けたし、ハバリアからサントハイムに移動するときは、モンスターたちの襲撃を朝夕関係無しに受けた。
今度もそうなるかもしれないと、万全の体勢で望んでいるというのに、今度の航海は穏か過ぎて、何か暇をつぶすようなものはないかと、誰もが率先して探しているような状況だった。
「ユーちゃーん? ユーリルー?」
天気の良い南中時間の甲板は、痛いほど照りつける太陽光のおかげで、人気がない。
モンスターの来襲に備えて、数人の人間が甲板の日陰で待機しているくらいのものだった。
その中、戦闘当番ではない少女は人を探して、甲板の上へと姿を現した。
口元に手を当てて、声を張り上げるものの、船が突き進む波音ばかりが返るばかり。
少女は軽く眉を寄せて、探している人物が居そうな場所をグルリと見渡した。──かと思うと、キラリと太陽の光りを反射している見張り台に向けて顎を逸らした。
「ユーリルー? そこに居るのー!?」
少し舌足らずな甲高い声に、ひょい、と見張り台の上に人物が顔を覗かせる。
逆光になって見えにくい顔は、相手が誰なのか容易に分からなくさせるはずだが、浮かび上がったシルエットの体型で、彼が誰なのか、すぐに分かった。
「ココに居るのは私だけですよ、リラさん。」
ニコニコと愛想の良い声で答えてくれるトルネコに、リラは手を振って答えた。
「ありがとう、トルネコさん! 他を探してみますね!」
そして彼女は、今度は船の舳先に向けて歩き出す。
同じところでジッとしているのが性に合わないと言い切るユーリル──彼女の双子の兄であるところの青年が行きそうな場所というと、大体の見当はついている。
厨房でオヤツが出来るのを待っているか──決して手伝ったりするわけではない──、部屋で惰眠をむさぼっているか、甲板で体を動かせているか、興味のあることに顔を突っ込んでいるか、だ。
「見張り台に居ないって言うことは、舳先か……舵かな?
最近、ユーちゃん、舵取りに興味があるみたいだし……。」
軽く首を傾げたリラの耳元を、強い風が吹き抜ける。
一瞬目を細めて、彼女はブルリと顔を振った。
湿った潮風は、クルクルと巻いた彼女の髪をいつもよりも一段と膨らませるから、あまり船の上に出るのは好きではなかった。
それでも、やはりこうして太陽の下に来ると、その痛いほど強い太陽の眼差しに、心地よさすら覚えた。
多分、ユーリルも同じなのだろう。
深い森の中で育った自分達が覚えている「空」は、いつも森の木々に隠れているようだった。
隙間から見える青い色は、どこまでも続いてはおらず、すぐに木々の葉に隠れる。
だから当時は、大地がドコまでも続いているということも──空が果てなく続いているということも、知らなかった。
そんな自分達が、どうしてココまで空に焦がれるのかなんて分からない。
ただ、森が尽きたとき、目の前に広がる大地と空のコントラストに、なぜか2人して涙を流してしまったのは本当だ。
その綺麗な空の色が、あまりにも懐かしくて──あまりにも、心に響いて。
「……──空が見える場所にいたいって、そう思うのは、なんでだろう?」
顎を逸らして空を見つめながら、リラはゆっくりと足を進めていく。
流れていく雲が、様々な形に変えていくのを、興味深く見つめていると、不意に前方から、
「足元を見て歩かないと危ないぞ、リラ。」
声が、聞こえた。
「──……ラッ、イアンさん?」
驚いて足を止めて、リラは目を瞬いて声のした方角を見やる。
船室の影になっている場所で、戦士が一人、座り込んでいた。
その手には抜き身の剣が握られ、組まれた足の傍には砥石が置かれている。どう見ても、剣を磨いている最中である。
「船の上は、縄やらバケツやらが置かれているからな──またこの間みたいに、すっころぶぞ。」
にやり、と、ヒゲの下の唇を捻じ曲げて笑うライアンの意地の悪い表情に、リラは小さく目を見開き、それから羞恥に軽く頬を染めた。
「意地悪言わないでくださいよ──私だって、別に転びたくて転んだわけじゃ……。」
ぷく、と、子供らしく頬を膨らませる少女に、ライアンは小さく笑い声を上げる。
それは、キングレオで出会ったときよりも、ずっと砕けた印象を与える笑いだ。
不器用で堅物で融通の利かない男ではあるが、リラもユーリルも、彼の実直な真面目さをとても慕い、頼りにしている。
「あっ、そうだ。ライアンさん、ユーリル見ませんでした?
さっきから探してるんだけど、まだ見つからなくて……舵の方かなぁ、って思ったんですけど。」
首を傾げて甘えるように見上げて尋ねると、ライアンは顎に手を当てて、首を傾げた。
「いや──舵のところには、船長とミネア殿以外は居なかったと思うが……船室には居なかったのか?」
「一番最初に見たんだけど、誰もいなかったの。」
その台詞に、ますますライアンは首を傾げた。
「──だが、誰も甲板には来てないように思えたがな……。
とは言っても、私もずっと見ていたわけではないからな。
マーニャ殿やクリフト殿、アリーナ姫とご一緒の可能性もあるだろう?」
ユーリルが、良く一緒に居るメンツの名前を挙げると、リラはその言葉にあいまいな笑みを浮かべる。
「アリーナとクリフトは、今まで私と一緒に居たもの。
マーニャは相変わらず、『太陽はお肌の天敵よ!』って言って、部屋でゴロゴロしてたわ。」
「──なるほどな。……だが、この船は一度も停泊していないから、どこかに居るとは思うがな……。」
時々、天気が良くて時間に余裕がある日には、船を適当な場所で止めて、そこで船員達の骨休みをさせることがある。
思いっきり海に飛び込んで泳いだり、釣りをしたり──時には、その瞬間を狙って、マーニャがルーラでエンドールに行っていたりする……船が動いていないなら、ルーラで戻ってこれるから、という理由で。
リラもユーリルも、一度ソレを試してみたいとは思うが、マーニャほど「船の上にルーラする」なんていう荒業をする勇気がなくて、したことはない。
「そうよね、どこかに居るとは思うんだけど──私、もう1周してみますから……ライアンさん、もしユーリルを見かけたら、私のところに来るように伝えてくださいね。」
リラは、ライアンに小さく笑いかけたあと、とりあえず舳先の方に歩いていくことにした。
「──……今日の波も穏か、天気は二重丸、と。」
舵の近くで、ミネアは方角を確かめている船長の横に座り込み、キラリと光りを反射する水晶玉を覗き込んでいた。
ミステリアスな雰囲気に満ちた美女の小さな呟きに、愛想の良い船乗りは、明るく笑って見せた。
「今日も順調で、さぞかしあんた達は退屈でしょう?」
「波が穏かなほうが、薬草の調合が楽に出来ますし、調味料のふりかけに失敗した料理を食べなくて良くて、すごく助かってますよ。」
ニッコリ、とあでやかに微笑み返して、ミネアは吹きすさぶ強い潮風に揺れる髪を、指先で耳に引っ掛けた。
「ミネアさんの作る料理は、とてもおいしいと、船員達からも大人気ですよ。今日の夕飯は、なんですか?」
明るく笑う彼らは、少し無骨で荒っぽいところはあるものの、基本的に優しくて「紳士」な船乗り達ばかりだ。
人見知りするきらいのあるミネアであったが、彼らに親しむのは早かった。
こうして船長に頼まれて、今日の天気をわざわざ占ってあげるのを、日課にしたのだって、自分達の旅に必要だと判断したためばかりではない。
「そういって貰えると、すごく嬉しいんですけど……今日の夕飯当番は、クリフトさんです。」
ヒョイ、と肩を竦めてそう笑うミネアに、それもそれで楽しみだと、男は笑った。
「あんた達が陸地に行っちゃうと、華やかさも減るが、おいしい料理も減って困る、困る。」
別に船乗り達の料理が下手だというわけではないのだが、料理が趣味だと言い切るミネアの手料理は本当においしかったし、主君であるアリーナに少しでもおいしいものを食べさせようと、努力した結果がにじみ出ている神官の手料理もまた、格別であった。
その味に慣れてしまうと、ソレはソレで、困ったものだと、豪快に船長は笑う。
その、小気味の良い笑い声に、ミネアはチラリ、と流し目を一つ。
「良く言いますね、船長? 久し振りの港に行けば、積荷を下ろした後はたっぷりお楽しみみたいじゃないですか?」
「…………ま、海の男にゃ色々あるんだよ。」
「あぁ、たとえば、現地妻とか?」
ひょい、と片眉を上げて笑う意地の悪いミネアの嫣然とした微笑みに、参った、と船長は舵を取る手を止めずに肩を竦めて見せた。
「それ以上は言わないでくれ。」
「それはすみません。」
ニッコリと笑ってみせる彼女が、「凄腕の占い師」であることを分かっているからこそ──実を言うと、この船の男達の誰もが、ミネアには逆らえないで居た。
何せ、誰もが彼女の腕が本物だということを、あらゆる意味で把握してしまったからだ。
港で待っている妻と子の身の安全を知りたいと願ったばかりに、ついウッカリ余計な弱みまで握られてしまった船員は……何も、船長だけに限ったことではなかった。
それでも、悪い気がしないのは、彼女がそういうことを口外する人間ではないと分かっているからだった。それどころか、そのことでの悩み相談にすら乗ってくれたりもする。
時々、胸に痛いほどの助言は、それでも自分達に身になるものだと分かっているからこそ、親身に助言をしてくれるミネアを慕っている者は多い。
最も、それを言えば、気風の良い姉御肌のマーニャは、船員の一部に熱狂的なファンをつけていたし、元気で明るいアリーナは、船員達から自分の娘や妹のように可愛がられている。──この船に乗っている「勇者さまご一行」は、海の男の誰からも慕われているのだ。
「それにしても、本当に穏かな日が続きますよね──このままスタンシアラまで続けばいいんですけど。」
ふと、話題を変えるようにミネアは視線を転じた。
その視線の先には、見張り台の上で大きな体を縮めるようにして座っているトルネコの姿がある。
なんだか暇そうにしている船のオーナーの姿に、男は口元をほころばせて頷いた。
「暇で穏かな船旅は暇かもしれませんが、悪魔の牙を向けられるより、ずっとマシですよ。
──退屈こそ、最高の幸せです。」
今にもあくびが出てきそうな光景だと、眩しげにトルネコを認めた船長の言葉に、ミネアは険しく眉を寄せた。
「────…………暇? 退屈?」
彼女の形よい唇から零れたのは、どこか非難するような響き。
え、と、目を瞬いた船長が見下ろした先で、美女は視線をゆっくりと下ろし──甲板の上を向こうから歩いてきた少女を認めた。
「船長? それこそ私達には、無縁の言葉だと思いますわ。」
鏡のように自分の顔を映し出す水晶を、しっかりと抱えなおして、ミネアは紫水晶の瞳を正面に向けた。
「──は? 無縁って、そりゃどういう……。」
意味だ、と、そう船長が聞くよりも先に、
「ミネアっ、船長! ユーリル、見ませんでしたっ!?」
ミネアの水晶に、くっきりと映し出された『本日の元凶』は、大きな瞳を瞬かせながら、2人に向かって掌を振ったのであった。
カーテンを閉め切った部屋の中で、マーニャは程よいまどろみから目を覚ましていた。
パッチリ、と瞳を開くと、目に飛び込んできたのは形良い節目の天井。
ここ少しの間に見慣れた、自分とミネアに宛がわれた船室だ。
体を起こそうとすると、寝すぎのあまりか、重いしこりが体の片隅で渦巻いているような感覚を覚えた。
ジン、と痺れるような重圧が全身に圧し掛かっている。
「んー……ちょーっと、寝すぎかしらぁ?」
寝起きでかすれた声でそう呟いて、マーニャはフカフカの太陽の匂いのする枕に頬を埋めた。
船上での生活が長いせいか、少し荒れた肌に触れる心地よい布ざわりを楽しみながら、マーニャは億劫げにため息を零した。
惰眠をむさぼれるのは楽しいが、いつまでもゴロゴロしてはいられないだろう。
掌を上へと差し伸べると、ずしん、と重く感じる。
ヒラリヒラリと、無意味に顔の上で掌を舞わせながら、
「──少し運動してきたほうがいいか。」
そう、一人ごちた瞬間であった。
コンコン。
遠慮がちに、ノックの音が聞こえた。
「誰?」
かすれた声で、扉の向こうに問いかける。
けだるげな動作で顔にかかる髪を掻き揚げながら、マーニャはムックリとベッドの上に体を起こした。
唇から零れるあくびを噛み殺し、目を軽く擦った。
それと同時に、すこしのためらいの後、扉の向こうから返事が聞こえた。
「クリフトです──今、少しよろしいですか、マーニャさん?」
船旅の最中の船の中……マーニャとミネアの私室を訪ねてくる人間なんて、仲間以外は居ない。
案の定、返って来た返事は、良く知る堅物の青年のソレだ。
「どーぞー。開いてるわよー。」
彼が自分の部屋に訪ねてくるなんて、珍しいこともあるものだと、マーニャはベッドサイドに脚を下ろしながら、ふぁぁ、と欠伸を噛み殺した。
「お邪魔します──。」
恐る恐ると言った風に開く扉に、マーニャは眠気が残る表情で笑みを向けた。
「なぁーに? またアリーナが何かしでかしたの?」
「それではまるで、アリーナ様がいつも何かをしているように聞こえるじゃないですか。」
すこし困ったように眉を寄せるクリフトの整った顔を一瞥して、あんまり変わらないんじゃないの、とマーニャは軽い笑い声を立てた。
そのまま、床の上に降り立ち、大きく伸びをしながら──扉を開いた其処に立ち止まっているクリフトに片目を眇める。
「ちょっとクリフト、用があるなら入ってきなさいよ。
あたし、まだスッピンだから、あんまり表に顔をさらしたくないんだけどー?」
言いながら、この部屋にだけ用意されている陶器の洗面器へと歩み寄るマーニャに、クリフトは、すぐに用は済みますから、とゆるくかぶりを振った。
「ユーリルを、見ませんでしたか?」
ヒンヤリとつめたい水をたたえている洗面器に手を突っ込んだマーニャは、いつもよりも楚々として見える美貌一杯に、いぶかしげな表情を宿した。
「ユーリルぅ? 来てないわよ? リラ達と一緒じゃないの?」
「いえ──リラさんとアリーナ様は、さきほどまで私と一緒だったんです……。船内のどこを見回してもいらっしゃらないので、てっきり誰かの私室に入り込んでいるのかと思ったのですが。」
困ったように眉を寄せるクリフトに、マーニャは軽く顔を水で洗い流した後、ミネアが用意してくれていたフカフカのタオルでザッと顔を拭うと、決して部屋の中に入ってこようとしないクリフトに小さく吐息を零した。
「んー……記憶にないわねぇ? さすがに、寝ていたとは言え、誰かが入ってきたら気づくと思うし。」
軽く肩を竦めながら、タオルをヒラリとイスの背もたれに投げ出す。
そしてそのまま、いつもの姿よりも露出度の少ないパジャマ姿のまま、そのイスに腰をかけた。
クルリと体を回転させると、眼の前には大きな鏡のついた化粧台。
上には、ミネアが使っている基礎化粧品と、自分のソレとが並んでいる。
「──まだ寝てたんですか、マーニャさんっ?」
あからさまに非難するような声音を含んだクリフトの声に、マーニャはあくびれることなく、化粧水の入ったビンを持ち上げながら、振り向くことなく答えてやる。
「だって、他にすることもないじゃない。」
コットンを手にとり、それに化粧水を振り掛けると、マーニャは寝起きですこしくすんでいるような気のする顔に、ペットリとソレを貼り付けた。
鏡の中には、化粧水を含んだコットンを頬に貼り付けた自分の顔が、眠そうな顔をして映っている──その頬や額の辺りが、自分にしかわからない程度に荒れていることに気づいて、マーニャは軽く鼻の頭に皺を寄せた。
「だからと言って、寝すぎも体には良くないですよ?」
──寝不足は肌に悪いというけれど、寝すぎも肌に悪いのかしら?
クリフトの台詞を右から左に聞き流しつつ、マーニャは慎重にコットンをピタピタと頬に軽く叩きつけるようにして、皮膚に水分を補給してやる。
「わかってるわよ。だから今からすこし運動でもしようと思って起きてきたんだけど──あぁ、ちょうどいいから、運動がてら、あたしもユーリルを探すのを手伝ってあげるわよ。」
たっぷりと水分を補給し終えた後の、すこし熱を含んだコットンをゴミ箱の中に放り投げて、マーニャは手を伸ばして今度は別のビンを手にした。
クルリとビンの蓋を開けながら、マーニャは肩越しにクリフトを振り返って、片目を瞑って提案してやる。
クリフトは、そんなマーニャの人気あるウィンクをさらりと交わして、軽くかぶりを振った。
「いえ、いいですよ──どうせそのうち、おなかがすいたら出てくると思いますし……。」
「そぉ? ならいいんだけど……って、そういえば、どうしてユーリルを探してるのよ? 急ぎの用事?」
ピトピトと、手の平に白い乳液を取り出しながら、マーニャは今更ながらの問いを口にした。
そんな彼女に、クリフトは一瞬目を瞬かせて──首を傾ける。
「急ぎといえば、急ぎ、ですね。」
すこし考え込むような沈黙の後、呟いた台詞に、マーニャは納得できないように眉を寄せたが、すぐにそれを解き去ると、手の平に取った乳液を、ぴたん、と頬に当てた。
「そーなの? なら、ミネアに探してもらえばいいじゃないの──あやふやな場所を探すより、その方が手っ取りはやいと思うわよ?」
もう視線はクリフトにはなく、鏡の中の自分の顔だ。
クリフトがユーリルを探していることなんて、日常茶飯事のことだから、そう深く考えることもない。
急ぎといえば急ぎ、なんていう不確定な言い方をする以上、それほどたいした用件ではなさそうだし。
手伝わなくてもいいというなら、今のマーニャの優先事項は、自分の肌をいかにしてキレイに見せるか、だった。
「ああ……そうですね、これだけ探しても見つからないなら──その方が、いいかもしれないですね。」
真剣な顔で、クリームを手の平につけて、今度は軽く顔のマッサージを始めるマーニャの背中を見ながら、なるほど、とクリフトは納得したように頷いた。
そんな彼に、マーニャはおざなりに頷いて、ミネアの居所を教えてやることにした。
「そうそう。多分この時間なら、船長さんの所で占いでもしてるとこじゃないかしら?」
マッサージするほどに、指先に感じ取れる肌のザラザラした感触に──あぁ、ミネアにお願いして、美容ドリンクでも作って貰おうかしらと、肌を痛めつける潮風に憎しみを覚えた。
丁寧に指先でクリームを広げ終えて、マーニャは上半身を傾けるようにして鏡に映った自分の顔をマジマジと見つめた。
マッサージのおかげで肌ツヤが蘇ったような気のする顔に、とりあえず満足して、今度は別の容器に入った下地用のクリームを取り出す。
そんな彼女の提案に、クリフトは朗らかな声で頷いて見せた。
「それでは、聞いてきて見ますね。──あ、マーニャさんも、良かったらご一緒にいかがですか?」
クルクルと円を描くように下地クリームを薄く広げていたマーニャは、その手を止めて、クリフトをいぶかしげに振り返った。
「いかがって、何がよ?」
「リラさんとアリーナ様のお二人が、今日のオヤツをおつくりになられたんです。
ですから、時間があったら、ぜひご一緒に食べないかと思いまして。」
淡く微笑むクリフトの笑顔に、マーニャは目を丸くさせた。
「へー──リラと、アリーナがっ!?」
思わず叫んだ声は、船室に良く響いた。
クリフトはそれに苦笑いを浮かべながら、コクリと頷いた。
クリフトの仕草に、ますますマーニャは目を大きく見開いた。
「それは珍しいわね、あの子たちが厨房に立つなんて、初めてじゃないの!?」
姫君は厨房に入るべからず──そのことを鉄則のように守るクリフトによって、アリーナが厨房に入る時は、ユーリルと一緒になって、コッソリ摘み食いをするときくらいとなっている。
そのたびに、クリフトとブライに怒られていた事実を思い出しながら、マーニャは感心したように叫んだ後──不安そうに眉を寄せた。
「……大丈夫なの、厨房? 吹っ飛んでない?」
一体何を想像しているのかと思うようなことを、心配そうに口にしてくれた。
「吹っ飛んでたら、さすがのマーニャさんも寝てはいられないでしょう?」
呆れたように問い返されて、それはそう──だと思う、と、断言できないまま、マーニャはその答えを笑みの形で濁した。
「しっかし、晴天の霹靂ねぇ……。」
共に旅をするようになって長くなるが、その間、くだんの二人が料理や調理などといったものをする姿は、一度たりとも見かけたことはなかった。
せいぜいが、お鍋の番や、洗い物くらいだ。
「あまりにも暇だったので、すこし作ってみようって言う気になったみたいです。
……生地を練ったりするのには力が要りますから、アリーナ様もなかなか楽しまれていたみたいですよ。
あぁ、もちろん、味付けは私がしましたし、味見も済んでますから、味の保証はいたします。──いかがですか?」
マーニャの眉間の間に濃く刻まれた皺の意味を解して、クリフトは先手を打って味の保証に太鼓判を押してくれた。
それを聞いて、マーニャはすこし視線をさまよわせた後──ニッコリと唇に笑みを刻んだ。
「いいわね、うん。寝起きに軽く食べるのにちょうどいいかも。
うーんと濃いコーヒーを入れておいてよ。──そうね、時間は……あたしが化粧を終えるくらいによろしく。」
軽くウィンクを飛ばす踊り子が、ついでとばかりに投げキスをよこしてくるのに、クリフトはそれをヒョイと避けてから、
「────努力はいたします。」
小さく笑って、軽く彼女に頷いて見せた。
船の外よりも幾分涼しい気のする船内の廊下を歩きながら、アリーナは口元に手を当てて、声を張り上げる。
「ユーリルー!? ユー・リ・ルー!!
もう、ユーリルったら、どこに行っちゃったのかしら?」
シャラリ、と心地よい音を立てる髪を掻きあげながら、彼女は熱い溜息を零した。
「せっかくのオヤツなのに、冷めちゃうじゃないの!」
まったく、とそう零しながら、ふと巡らせた首の先──船室のあるこの階の更に下に続く扉を認めた。
普段は帆に風を受けて進むこの帆船には、風がない時のために、手漕ぎ用のスペースも用意されている。
そこを通り過ぎたところには、食料などを置く倉庫があり、時々ユーリルは其処で船員たちと遊んでいるのだ。
「──ユーリル、いるのー?」
隠れるには絶好の場所ではないかと、アリーナは久し振りにその扉を開いた。
普段の航行では、決して開かない扉である。
この船の中でも、食事当番を果たしているミネアやクリフト、ライアンやトルネコたちは、良くこの扉を開いて船底に下りる機会があるようだが、アリーナは船に乗ったときに、探検だとばかりに歩き回ったとき以外に、ココに立ち寄った記憶はない。
荷物ばかりが積んであって、面白くもない場所だと記憶しているから、用が無くては近づくことがなかったのだ。
「ユーリル?」
扉を開けた目の前の階段を下っていくと、薄暗い船底にたどり着いた。
船の上とも船室の中とも違う、木の匂いと、冷ややかな空気が、アリーナの頬をなぶる。
それと同時に、彼女の耳に人のざわめきが届いた。
それがユーリルの声なのかどうかはわからないが、誰かいることは確からしい。
おそらくは、この巨大な船を動かせるためにトルネコに雇われている船員であろう。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら?」
だから、アリーナは明るい声を出して、その声が聞こえる方向へと歩いていった。
上手くいけば、その輪の中心で馬鹿笑いしているユーリルにめぐり合えるかもしれないと、そう思ったからである。
だがしかし、
「──……おや、姫様。」
ノンビリとした声で、アリーナの呼びかけに答えたのは──数人の船員たちと共に、何かを詰められた麻の上に、どっしりと腰を落としていた老人……ブライであった。
「……ブライっ!?」
まさか、こんなところで目付け役でもある老人に会うとは思ってもみなかったアリーナは、美しい紅玉の瞳を瞬かせて、白い髭に埋もれたブライの顔をマジマジと見つめる。
突然船底に舞い降りた華奢な少女の出現に、船員たちも驚いた顔を隠せない。──すこし居心地悪そうに身をよじる彼らの中央で、ブライは近づいてくるアリーナに笑いかけた。
「珍しいですのぉ、姫様が船底に下りてくるなんて。」
「それはコッチの台詞よ。驚いちゃったわ、まさかブライがいるなんて思いも寄らなかったんだもの。」
何せ、ここは船底。
手漕ぎ用のオールが置かれ、その更に奥には水樽や食料などが詰まれた倉庫がある──いわば、力仕事の場所だ。
そんなところに、枯れ木のような腕や脚をしたブライがいることに、アリーナは戸惑いを隠せない。
するとブライは、軽やかな笑い声を立てて、
「暑い日ざしの真下や、ムッと湿気のある船室よりも、ココの方が、ジイには体に楽なのですじゃよ。
涼しい上に、体を冷え込ませる風もふきませんしのぉ。」
そう説明してくれた。
「まぁ、さすがにオールで手漕ぎになると、ココは人で一杯になって、蒸し暑くてたまらなくなりますけど、普段はこの通り、ガランとしてますしね。
休憩には最適な場所というわけですよ。」
ブライの言葉を受け継ぎ、船乗りの一人が明るく説明してくれる。
その台詞を受けて、アリーナはグルリと船底を見回した。
確かに、だだっぴろいばかりの船底は、ガランとしていて、広い。甲板の上は景色も良くて風も最高だが、その分日中の日差しがキツイ。
その点、ココは日差しがなく、うす暗いのが難点だが、過ごしやすかった。
「へぇー……なるほどねぇ。」
興味津々に目を輝かせるアリーナは、カンカン、と足先で床を叩いて、いいことを思いついたと、唇に笑みを刻んで見せた。
そんな彼女が何を考えているのかいち早く悟ったブライが、姫様、と低く彼女の名を呼ぶ。
「言っておきますが、こんなところで武術の稽古はなりませんぞ? もし壁に穴でもあけたら、大惨事ですからの。」
「──ま、まだ何も言ってないじゃない。」
そう口早に言うものの、ぎくりと跳ね上がった肩が、雄弁にアリーナの図星を語っている。
だからこそ、ブライはわざとらしく溜息を零して、チロリ、とそんな姫を見上げた。
「言わなくてもわかりますぞ。」
「…………………………。」
アリーナは、何も答えず、空とぼけるように視線を天井へと飛ばした。
そんな彼女に、ヤレヤレとゆるくかぶりを振った後、ブライは気を取り直すように彼女を見上げた。
「それはそうと姫様、ココに一体何の用でいらしたのですかな? リラ殿とクリフトと一緒に、なにやら本を覗き込んでおられたと思うのですが……。」
てっきり、勉強をしているのか、地図で方角を確認しているのだと思っていた。
そう尋ねるブライに、アリーナはココに来たそもそもの原因を思い出して、視線をブライに戻した。
「あっ、そうなの、ブライっ! ユーリルを見なかった?」
「ユーリル殿? ……いや、見てはおらんのぉ。」
首を傾げて思い出すように目を細めるブライに、アリーナはガックリと肩を落とした。
「ココにもいないんだ──どこに行っちゃったのかしら? せっかくリラが、ユーリルのためにお菓子を作ってあげたのに……。」
「お菓子!?」
彼女の唇から零れた、意外な言葉に、ブライは座っていた樽の上から転がり落ちるかと思った。
そのブライの驚きように、不思議そうにアリーナは首を傾げながら、頷く。
「ええ、そうなの。リラとクリフトと三人で、今日のオヤツを焼いたのよ。」
「ひ、姫様がですかっ!?」
思わずひっくり返る声で、ブライはマジマジと眼の前の少女を見つめた。
母である王妃に良く似通った容貌は、美人のモンバーバラの姉妹と並べても遜色のないほど愛らしく、あと1,2年もすれば、引く手あまたの美女と成長するだろうことは間違いない。
しかし、その可憐で華奢な外見と容貌に似合わぬ、王女らしからぬ気性と、ひとところに落ち着かない行動派な所が、彼女を女性らしいとされることから遠ざけていた。
事実、城にいるときにも、お裁縫だの詩集だのを嫌い、護身術や対魔法の戦い方を好んで勉強していた。
そのアリーナが、リラと一緒にお菓子を作ったというのだ。
「ええ、そうよ! あっ、そうだわ、ブライ。ブライもぜひ一緒に食べましょうよ。
味見をしたけれど、本当に美味しく焼けたのよ!」
ぱんっ、と、両手を胸の前で叩き合わせて、可愛らしく笑う姫君に、ブライは感動を覚えた。
「おぉ……姫様がついにそのような女性的なことに目覚めてくれたとは……。」
この旅の間は、もうそのようなことを夢見るのは止めようと思っていたのに、やはり姫様も年頃の娘じゃったかと、ブライが幸せを噛み締めつつ、髭をなで摩る。
そんなブライの眼の前で、アリーナは楽しそうに笑って続けてくれた。
「面白かったわ〜。あんな風に生地をバッタンバッタンして、美味しいお菓子が焼けるなんて思いもよらなかったもの。
今度から、あんなお菓子を作るときは、私もぜひ手伝わせてもらいましょーっと。」
お菓子を作るときには手伝いたい。
この台詞だけを聞けば、ブライも感動をさらに深くすることができたのだが、その前に続く台詞が気になった。
「………………………………ばったん、ばったん……………………?」
──それは一体、どういうお菓子なのだと……そう聞きたくなる気持ちを顔に貼り付けたブライの視線を受けた船乗りたちも、はて、と首を傾げる。
それは、どちらかというと、お菓子ではなく、麺類の作り方ではないのか……?
そんな疑問を抱いている面々に気づかず、アリーナはニッコリとブライ達を見回し、
「じゃ、上で待ってるわね、ブライ!」
シャラン、と、軽やかに髪を鳴らして、もと来た道を戻っていくのであった。
舵の前に立つ船長と、その隣に座り込んでいたミネアを見下ろす形で、少し照れたように目元を赤く染めた少女が告げた言葉を聴いた瞬間──ミネアは、過去の思い出が走馬灯のように走り抜けていくのを感じた。
吹っ飛ぶ鍋。呆れたように見つめる姉の眼差し。半泣きで謝るリラ。その隣で、呆れたように「だから母さん、リラにだけ料理を教えなかったんだなー。」と暢気に呟くユーリル。
そして自分は今のように、呆然と目を見開いて、彼女を見つめていたのだった。
「…………リラ、あなたが…………お菓子を………………?」
このパーティ内で最も料理が出来ない人間を上げろ、と言われたら、8人中5人が真っ先に指名するという人物が、「リラ」であり、「アリーナ」である。
その片割れである少女が告げた台詞が、なかなか理解できなくても、それはミネアの頭の回転が悪いせいではない。
「うん……ちょっと暇だったから、アリーナと一緒に、クリフトに教えてもらってたの。」
にこり、とはにかむように微笑む少女に、ミネアは知らず水晶を握る手に力を込めた。
掌の中で、水晶玉はキラキラと細かな光りを発している──ソレが、太陽を反射しての行為ではなく、危険を訴えているような気がしてならないのは、ミネアの気のせい……であって欲しかった。
「へー……お菓子ですか、そりゃいいですねぇ。」
「何も知らない」船長は、無精ヒゲの生えた顎をさすりあげながら、快活に笑った。
ミネアはそんな彼を、少し複雑そうな眼差しで見上げる──知らぬはイイコトだ。
きっと船長達は、勇者さまご一行の料理係りは、交代制ではなく、ミネアとクリフトに決まっているのだと、そう信じているに違いない──その理由など、考えることすらしないだろう。
リラとアリーナの2人が、パーティ中切っての厨房破壊魔だとは、思いもしないだろう。
特に、リラの破壊っぷりは、拍手したいほどだと言う事実も知らないに違いない。
────そんな2人とお菓子を作るなんて……っ、クリフトさん、アリーナに甘いにも程があります。
水晶を握り締めたまま、ミネアは今の厨房がどうなっているのかと、ため息を零した。
そんな彼女に気付かず、リラは、本当に嬉しそうに──満面の笑顔で頷いた。
「うんっ、すごく上手にできたの。
クリフトからも二重丸をもらえたから、ミネアも船長も後で食べてね。」
照れたように笑う顔は、達成感に満ちていて、ミネアは一瞬目を見張らせて驚いたような表情を乗せた後──彼女につられるように唇を緩ませてみせた。
「そう──上手くできたの。それは良かったわね。」
軽く微笑みながら、ミネアは内心、クリフトに感心した。
まさか、リラに「おいしく」お菓子を作らせることが出来るとは……驚きだ。
────アリーナが料理を出来ないというのは、納得できる理由がある。
お姫様であり、武術に興味ばかりを持っていて、裁縫や料理など鼻にもかけなかったというのだから、どちらかというと作れないというよりも、作らない、と言うほうが正しいだろう。
けれど、リラの場合は違う。彼女の場合は、育ての母親から料理をすることを止められていたほどの──想像を絶する破壊魔なのだ。
それは、共に育ったユーリルが断言できるほどのソレである。
「うんっ。私も、料理をしてオーブンや鍋が吹っ飛ばなかったのは初めてだから、本当に嬉しいの♪」
ニコニコと笑うリラが零した台詞に、──あぁ、なんとか厨房の平和は守られたようだと、ミネアはコッソリと胸を撫で下ろした。
「──吹っ飛ぶ…………?」
不思議そうな顔で呟く船長に、リラは羞恥に頬を赤く染めて、プルプルと頭と手を左右に振る。
「うっ、ううんっ、なんでもないの!
あのね、それで──、ユーリルに食べて欲しいから、探してるんだけど……ユーリル、知らない?」
かすかに頬に赤らみを残したまま、リラは上目遣いでミネアと船長に、早口で尋ねた。
ミネアと船長は、チラリ、とお互いの顔を見交わして、首を傾げあった。
「いいえ、見ていないわよ?」
──まぁ、なぜユーリルがリラの前から姿をくらましたのか、分からないでもない。
ミネアもマーニャも、リラの料理の破壊さぶりを知っているから、彼女が味見をお願いしたいと言って来るかもしれないと思ったら、きっと逃げるだろうことは間違いないからだ。
「そっか……船の上には居ると思うんだけど、どうも会わなくって……クリフトとアリーナが、見つけてくれたらいいんだけど。」
リラは残念そうに呟く。
そんな彼女を見上げながら、そうねぇ、とミネアは水晶に視線を落とした。
リラのお菓子が失敗したというなら、ユーリルが可哀想だから見てみぬ振りをしてあげるところだが、今回はそうではない。
生まれて初めて成功したお菓子を、ユーリルに食べさせてあげたいという兄思いの気持ちを、ミネアは応援してあげるつもりで、ソ、と水晶玉を覗き込んだ。
おぼろげな白い靄が、水晶玉の中に浮かび上がる。
それを、ただ静かな瞳で見据えていると、やがて水晶玉の中に見たいものが見えてくる。
ユラユラと揺れる光──、その中に時折ひらめくように映りこむ深い青。それが、何なのか理解できずに、ミネアが眉を顰めた瞬間、
「リラっ! ユーリル、見つかったっ!?」
明るい声が、船の甲板に響いた。
聞きなれた声に、スゥ、と意識が水晶から引き剥がされる。
ハッ、として目を瞬いた刹那には、もう水晶には何も映し出されては居なかった。
「──アリーナ。」
声の主の名を、リラが小さく呟く。
ミネアは、漏れでるため息を殺しながら、視線をあげた。
船室へと繋がる扉から飛び出してきた少女は、身軽な仕草で、トン、と甲板に足をつける。
「そっか──アリーナも、ユーリルを見つけられなかったんだ。」
残念そうに呟くリラの声に、軽く息を弾ませたアリーナも、かすかに眉を寄せる。
「せっかく作ったのに、冷めちゃうね…………。」
はぁ、と、ため息を零すリラに、ミネアはもう一度視線を水晶に落とそうとした。
けれど、それよりも早く、
「なら、しょうがないわね。先に食べちゃいましょう、リラ!」
アリーナが、出てきたばかりの扉を支えながら、あっけらかんと笑って告げる。
「……そうだね……しょうがないか。」
小さくため息を零した後、リラもそれに同意する。
せっかく上手に作れたのだから、双子の兄に食べてもらいたいのは山々だったけれど──、見当たらないものは仕方がない。
そうやって、いつまでも探していては、お菓子も冷めてしまうし、一緒に作ったアリーナやクリフトに申し訳がない。
「それじゃ、私、部屋に戻るわね。」
まだ残念そうな色を残しながらも、ニッコリと笑ってリラはミネアと船長を見上げる。
「あ、もう少し待ってくれたら、私が……。」
身を翻そうとするリラに、慌ててミネアが自分の水晶を握り締めながら、そう声をかけた瞬間だった。
「部屋に戻らなくてもいいですよ、リラさん。」
穏かな声が、アリーナのすぐ傍から聞こえた。
視線を向けると、焼き菓子を山のように盛り付けた銀のトレイを手にしたクリフトが、アリーナが支えている扉から姿を見せた。
それと同時、潮風に混じって、甘い香がミネアたちの元にも届く。
「せっかくですから、部屋の中ではなくて、甲板でみんなで食べましょう。」
ほら、と掲げるトレイの上には、少し形がいびつな種々さまざまなクッキーが山のように盛られていて──けれど、そのどれもがおいしそうにキツネ色に輝いていた。
「みんなで?」
目を見開くリラに、うん、とアリーナは花開くように笑ってみせた。
「後からブライとマーニャも来るわ。
せっかくたくさん作ったんだもの、みんなで一緒に食べましょう!」
「賑やかに食べていれば、匂いにつられてユーリルもすぐに出てくると思いますしね。」
少しイタズラめいた眼差しで、そう笑ってみせるクリフトに、リラはパチパチと目を瞬いた後──ニッコリと笑い返した。
確かにユーリルの性格を考えると、それはいい案のように思えた。
「うんっ! じゃ、ちょっと待ってて、パラソル持ってくるからっ!」
そして、慌しく甲板の上を走り抜けて、焼き菓子を置くためのテーブルになりそうなものを取り揃えてこようとするが、そのリラの行動は、
「いや、樽の上で十分だろう。わざわざ持ってくる必要はない。」
自分の近くに置かれていた樽を指で示すライアンにより、止められた。
剣の手入れを一通り終え、賑やかなこの場所まで移動してきたところらしい戦士は、そのまま視線を移してクリフトを見る。
「──で、いいだろう?」
「ええ、もちろんです。
それじゃ、すぐにお茶を淹れてきますね。」
ライアンが示した樽の上に、手早くお菓子の山が載った皿を乗せて、クリフトは再び通路の奥へと入っていく。
その彼の背を追いかけるように、
「あっ、私も手伝うわっ!」
アリーナも、扉の中へと姿を消した。
そんな2人を見送り、自分はどうしようかとリラが首を傾げると、ライアンが口元に笑みを刻みながら、ポンポン、と皿が置かれた樽を叩いてみせた。
「コレを俺が適当な場所に運ぶから、リラはその上の皿をしばらく持っていてくれ。」
慌ててリラはそれに頷いて、ライアンが指示を出したとおりに、両手に皿を持った。
それでも、まだ樽の上には皿が残っている。
さすがにこれ以上は持てないかなと、首を傾げたリラに、
「私も手伝います。」
少しだけ、どうしようかと水晶を眺めていたミネアが、それを懐に仕舞いこんで立ち上がった。
手早く駆けつけ、ぬくもりを持ったままの皿を持ち上げると、それを待っていたとばかりに、ライアンが斜めに傾がせる。
コロコロと、樽のソコを上手く転がしながら、中央へ手際よく運んでいくライアンの後を、リラがチョコチョコと追いかける。
その光景が面白くて、ミネアはクスクスと笑いながら、自分が手にした皿を見下ろした。
ふわり、と鼻腔をくすぐる良い匂いに、リラもアリーナもやるじゃない、と知らず微笑みが零れる。
そんなミネアのはるか頭上から、声が降って来たのは、ちょうどその時。
「私もちょーっと、降りて行っても、いいですかねーっ!?」
顎を反らして見上げると、マストの上から、トルネコが身を乗り出しているのが見えた。
ミネアは少しだけ逡巡して──チラリ、と舵を持つ船長を伺った。
今、見張り台の人間がいなくなっても大丈夫かと、そう尋ねるための視線に、船長はニヤニヤと笑いながら頷いてくれた。
ミネアはそんな彼に軽く会釈をした後、微笑んでトルネコに向かって叫んでやる。
「どうぞー!」
海の匂いと焼き菓子の香。
心地よい空の色と海の色。
楽しい時間が、訪れようとしていた。
樽をいくつも並べた上に、アリーナが持ってきたテーブルクロスを広げる。
それだけで、なんだかちょっとしたティーパーティの雰囲気をかもし出す。
本日のティーパーティの主役は、素朴な焼き菓子たちだ。
少しいびつな形のクッキーも混じっているけれど、そこから漂うバターと砂糖の香は最高の調味料。
そんなステキなお菓子が、自分たちが作ったものだと思うと──リラとアリーナは、照れたように笑いあった。
「姫様が、こんなに立派なクッキーを作れるようになるとは……1年前までは、焦げたケーキを作ってクリフトに食わせておったのにのぉ……。」
ヒョイ、と摘み上げた星型のクッキーに、しみじみと呟くブライに、アリーナは軽く唇を尖らせる。
「それは言わないでよっ、ブライっ!」
同じように、恐る恐るクッキーを口に運んだミネアは、素朴だけれどしっかりとしたバターの味に、驚いたように目を瞬かせる。
「あら──おいしいわ。」
小さく呟いたミネアの声に、リラがパァッと顔を輝かせて笑った。
「本当っ!? ありがとう、ミネアっ。」
今にも飛び上がりそうに喜ぶリラに、ミネアはシミジミと感慨深くクッキーの山を見つめた。
「すごいわ、リラ──本当に頑張ったのね……。」
確かに、鍋をふっ飛ばしていた頃のことを思えば、そう呟きたくなるのも道理だ。
「うん。」
かすかに苦笑を滲ませてリラは頷いた後、自分の掌の上に視線を落とした。
綺麗な紙ナプキンに包まれた見たこともない形のクッキーに、ミネアは小さく目を瞬く。
コンガリと焦げ茶色のソレは、焼きすぎて焦げ付く寸前──のように見えなくもない。
「リラ、それは──失敗作?」
にしては、大事に抱きしめているのは、どうしてなのだろう?
そう尋ねたミネアに、リラは少し寂しげに笑って、かぶりを振った。
「ううん、コレは、ユーリルに食べてもらいたくて、作ったの。だから、クリフトにお願いして、こうして別にしてもらったのよ。」
こういうお菓子なの、と、リラが摘み上げたのは、コンガリと香ばしく焼けた長方形型のクッキー……というよりも、サブレに近いものだ。
どう見ても、バターを溶かしすぎて焼きすぎたお菓子のようにしか、ミネアの目には映らなかったが。
「……お母さんが、良く、私とユーリルに作ってくれたんだ。
見よう見真似で覚えたのを作ったんだけど、結構おいしくできたから……。」
だから、ユーリルに食べてもらいたいの。
そう──はんなりと笑うリラに、あぁ……と、ミネアは苦笑を滲ませた。
──だから、あんな風にユーリルを探して走り回っていたのか、と。
「そろそろ、出てくるわよ、きっと。」
見回した甲板の上は、楽しげに笑う仲間達で溢れかえっている。
クッキーを割って、その一欠片を空中に放り投げて口に入れるという芸当をしてみせたマーニャに、アリーナが感動して真似しようとして、ブライとクリフトに怒られていたり。
甘いクッキーに、更にジャムとクロテッドクリームをつけようとするトルネコに、ライアンが心底嫌そうな顔で何か言っていたり。
こんな賑やかで楽しそうな雰囲気を、ユーリルが見逃すはずなどないのだ。
だから、自信たっぷりに微笑んで言いきった。
「──そうだよね、うん、出てくるよね、きっと。」
そうしたら、一番初めにコレを食べてもらおうと、リラはお菓子をまた紙ナプキンで包みなおした。
そして、それを大事そうに抱きなおして、気を取り直して、自分もお菓子を摘もうと、その手を伸ばした瞬間であった。
「あーっ!!!」
甲高い悲鳴が、甲板にとどろき渡ったのは。
ハッ、と、その場にいた誰もが、悲鳴の主──マーニャを視線で追う。
たるんでいた緊張の糸が、ピンッと張られ、その場に居た全員の体が、自然と戦闘体勢に入る。
厳しく眉を寄せて睨みすえた先で踊り子は、ダッ、と甲板の上を横切るようにして、手すりにかじりついた。
そして、
「…………あーあ……海に落ちちゃったわ………………。」
がっくり、と、彼女は手すりについた腕に、顔を埋めて呟いた。
とたん、緊張が走った体から力を抜いて、一同が苦い笑みを貼り付けあう。
どうやら、モンスターが現れた、ということではないらしい。
「もうっ! 姉さんったら、せっかくリラたちが作ったクッキーを、そんな食べ方しているからよ!」
どうせ、空中に放り投げて口でキャッチしようとしていたクッキーが、ちょっと力を入れすぎて遠くまで行ってしまった──そんなところだろうと、ミネアは呆れたように腰に手を当てて眉を寄せた。
まだ未練たらしく海面を睨みつけているマーニャに、ライアンが苦笑を滲ませる。
「まぁ、海に落ちたものを探すのは、無理だろう。
次からは普通に食べるんだな。」
そのライアンの後ろでは、クリフトがアリーナに向かって、
「ほら、姫様。あのようなことになりかねませんから、真似してはなりませんよ。」
と、アリーナに軽い説教を加えていた。
アリーナは、一口サイズに割ったクッキーを、無言で見つめたが──自分が作ったお菓子を粗末にするわけにもいかないかと、渋々普通に口の中に入れる。
マーニャは、それらを背後に、ジー、と海面を睨みつけている。
しかし、どれほど目を凝らしても、落ちてしまったものが戻ってくるわけでもなければ、見つかるわけでもなかった。
「姉さん、諦めたら?」
いつまでもそうやって手すりにかじりついているマーニャに、ミネアが声をかける。
そんな彼女の隣から、
「クッキーなら、まだたくさんあるし。」
リラも、そう声をかけ、マーニャにコッチに来るように促したが──マーニャは、はぁっ、と、大きな溜息を零した後、乱雑な仕草で髪を掻き揚げた。
「──クッキーはいいんだけど、……もったいなかったなぁ…………祈りの指輪。」
キュ、と眉を寄せて呟かれた一言に、貧乏臭いわねぇ、と言いかけたミネアの口の動きが止まった。
今、聞き逃してはならない単語を──アイテム名を耳にしたような気がしたのだ。
だから、彼女はまさか、と言う思いを込めて、震える声でマーニャが呟いた言葉を口の中で繰り返す。
「…………祈りの、指輪………………?」
「そうよー、指に適当に嵌めておいただけだから、すっぽ抜けちゃったみたい。
やっぱり、きちんと大きさをあわせなくちゃダメねぇー。」
もう一度未練タラタラで海面を睨みつけるマーニャの台詞に、ようやく彼女が何を海に落としたのか理解したミネアの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていった。
「──なっ、なんてことしちゃったのよっ、姉さんったらっ!!!」
「あぁ……もったいない…………。」
貴重なのに、と、トルネコが眉を落として呟くのに、ミネアはますます眦を険しくさせた。
そうだ、まったくもってそうである。
祈りの指輪というのは、本当に貴重で──何度か使えば崩れてしまうからこそ、大切に大切に使っていかなくてはならないものだった。
そんなものを、姉に預けたこと自体がそもそもの間違いだったのだ。
戦闘時に、使ってなくなってしまったというなら諦めも付くのに、よりにもよって、こんな甲板の上のティーパーティで、クッキーを放り投げて食べようとしてなくした、だなんて──とてもではないが、サラリと聞き流せることではない。
「う、うーん──……でもまぁ、あの……いつかは無くなる物だし……。」
あははは、と、渇いた笑いを零してリラが何とかマーニャをフォローしようとするのだが──やっぱり、貴重なアイテムを失ってしまったというショックに、少し困ったような表情は消えなかった。
「そーんなガミガミ言わないでヨ……あたしだって、結構ヘコんだんだから〜。」
ぷりぷりと怒るミネアに、マーニャは首を竦めて溜息を一つ。
そして、先ほどまで指輪が嵌っていた指を見つめ、やっぱり飛んでいったわよねぇ──と哀しそうに呟いて、視線をガックリと落とした。
船が軽快に突き進む海は、波が立っているばかりで、あんな小さな指輪が一つ、落ちたかどうかもわからない状態だ。
「まったく、あんなことで飛んじゃうなんて、根性が足りないわ。」
ブツブツと、指輪に責任転嫁をしながら──ふ、と、視線を止めた。
自分が圧し掛かっている手すりの一本に、なにやらロープが巻きつけてあるのに気づいたのだ。
コレって、何か吊るしていたっけ……?
軽く首を傾げて、マーニャはそのロープを指先で辿り、ひょい、と何気なく船のすぐ真下を見下ろした。
波を掻き分けるようにして突き進む船の側面──覗き込むと船室の窓が見えるソコに、縁があるのはマーニャも知っているけれど、そこに、見慣れた色が見えた。。
「………………あらぁー?」
素っ頓狂な声をあげて、マーニャは手すりに両手を置いて身を乗り出した。
甲板の上で、マーニャへの愚痴をボロボロと零していたミネアは、マーニャの声に即座に反応する。
「姉さん、今度は何? 金の髪飾りでも落としたのっ!?」
どこか刺が入った口調で、キッ、と目を険しくさせるミネアの視線の先で、マーニャはつま先を立てて、思い切り良く上半身を手すりの外に投げ出している。
かすかに眉を寄せて、ミネアがもう一度姉の名を呼ぼうとした瞬間、
「何やってるのよ?」
マーニャは呆れたような声で海面に向かって呟いた。
そんな彼女の背を見つめて、トルネコとライアンが視線を合わせて首を傾げあう。
「──モンスターでも出たか?」
「えっ、モンスターっ!? どこどこっ!?」
元気良く、ピョンッ、と飛び跳ねて、アリーナが颯爽とマーニャの元に駆け寄る。
そんな彼女を、慌ててクリフトも追った。
「姫様っ、武器も持っていらっしゃらないのに、無謀ですっ!」
今の戦闘当番は、自分たちではないから、武器などは船室に置いたままだ。
もともと武器などを使わずに戦うことが出来るアリーナだが、さすがに船の上から海上の敵を素手でなぎ払うのは、感心しない──もし、しびれくらげが相手だったら、どうする気だろう。
しかし、追いすがるクリフトも無視してアリーナは嬉々としてマーニャの隣にたった。
そして、そのまま手すりを越えるかというほどの勢いで、アリーナは海面を見下ろし──、
「……あ!」
小さく、驚いたように叫んだ。
そんなアリーナを見上げた顔が、顔の前で人差し指を立てた。
「しーっ、しーっ、しーっ!」
しかし、そんな口止めも聞かず、アリーナは不思議そうに首を傾げると、
「何やってるの、ユーリル?」
──さきほどマーニャが口にしたのと同じ台詞を、相手の名前入りで──呟いた。
瞬間、
「……え、ユーリルっ!?」
アリーナの後を追ってきていたクリフトも、マーニャの背を見ていたミネアも、驚いて手すりに近づいた。
まさか、という思いが先に立つ。立つと同時に、ユーリルならやるかもしれない、とクリフトもミネアも思った──リラがお菓子を作り始めた時からずっと、船の外壁の縁に、ずーっと座っているという、暴挙を。
揃って見下ろす先──船の壁にへばりついている勇者さまの片割れ(男)は、確かにいた。
髪も服も、間近でバシャバシャはねている波に濡れて、ぐっしょりと濡れねずみになったいい男に、
「リラが、ずーっとあんたを探してたわよー? ユーリルー?」
軽くからかいの色を滲ませてマーニャがそう声をかけると、キッ、と顔をあげてユーリルは叫び返す。
「しーっ、しーっ、しーっ! マーニャっ、僕はココにはいないっ! ていうか、リラにばれると面倒だろーっ!」
「って、もう遅いと思うのですが…………。」
叫び返された内容に、クリフトは困ったように眉を寄せて振り返る。
案の定、アリーナの声に反応したリラが、ちょうど手すりに駆け寄ってきたところだった。
「ユーリルっ!」
ガシッ、と、手すりを掴み、リラは身を乗り出してマーニャの隣から顔を覗かせた。
ザパーンッ、と打ちあがる波が、海を突き進む船の船体を強くたたきつけている。
その波が届くかどうかというギリギリのラインにある縁──ちょうど船室の窓が設置されている上辺りに、人一人が腰掛けられるかどうかという縁があるのだが──、その上に、チョコン、と座る見慣れた少年の姿があった。
リラはそれを認めて、ただでさえでも大きな瞳を、ますます大きく見開いてみせた。
「なっ、何やってるのよ、ユーちゃんっ!? 危ないじゃないのっ!」
慌ててリラは、手すりから身を乗り出して右手を差し伸べようとするが──当たり前だが、その手が届くことはなかった。
キュ、と唇を噛み締めて、リラは一瞬の思案の後、隣で呆れたようにユーリルを見下ろしているマーニャを見やった。
「──……マーニャっ、私の足を持ってくれる!?」
「──は? 足?」
突然何を言い出すのかと言う顔をになるマーニャに頷きながら、リラは、ガシリと手すりに足を掛けた。
そしてそのまま、さらに身を乗り出そうとするから──、
「きゃーっ!! リラっ、危ないでしょうっ!!?」
慌ててミネアが、リラの腰に手を回して、後ろから抱きつくようにしてそれをとめた。
「でも、ユーちゃんがあのままじゃ、海に落ちちゃうしっ!」
顔に、「必死」と書いて、体ごと手すりから飛び出そうとするリラに、ライアンが手近にあったロープを引っつかみ、走ってくる。
「そんなにマズイ状態なのかっ!?」
マーニャの暢気な態度に、一同は揃って、また何をやっているのかと思っていただけだったが──リラの必死な表情に、これはマズイのかもしれないと、揃って手すりに向かって走り出す。
その先で、マーニャがヒラヒラと手を振ると、
「落ち着きなさい、リラ。
──ほら、ココにロープが結んであるでしょ? ……ユーリル、ちゃんと命綱つけてるから。」
ツンツン、と、その手で自分がもたれかかる手すりの一本を指差した。
そして、マーニャはそのまま再び下を見下ろすと、ハラハラした表情でリラを見上げているユーリルに向かって、クイ、と親指で上を示す。
「いーから、あがってらっしゃい。このままだとリラ、紐ナシでバンジーするわよ?」
「────…………わかった…………。」
片目を眇めるマーニャの凄みに負けて、がっくり、とユーリルは肩を落として答えた。
そして、自分の腰に巻かれている命綱を握り締めると、ロッククライミングの要領で、来たときと同じように側壁に足を掛けるのであった。
ヒョイっ、と身軽に手すりを越えたユーリルを見た瞬間、まだミネアに後ろから抱きしめられた格好であったリラは、ほぉ、と安堵の吐息を零した。
双子の兄である少年が、自分よりも運動神経に長けているのは知っていたが、だからと言って、移動中の船の縁に腰掛けるなんていうのは、あまりにも危険すぎるではないか。
「ユーちゃん……っ。」
キッ、と、目を吊り上げて彼の名を呼ぶと、ユーリルはすごく情けなさそうな顔で、そんな彼女を見やった。
少し視線を逸らすようにしているのが、一応自分がしていたことが、妹に心配をかけたのだと自覚している証拠だった。
「あー……えーっと…………。」
コリコリと米神を掻いて、ユーリルはびっしょりと濡れた髪を掻き揚げた。
そして、ティーパーティの最中だった仲間達をグルリと見回し、唐突に腰を折った。
「ゴメンなさいっ! 心配かけてっ!」
豪快に頭を振った拍子に、濡れた髪や服から水滴が飛んで、マーニャは一歩後ろに退く。
「──ずーっと、探したんだからね……っ。」
唇を一文字に引いて、リラがユーリルを睨みつける。
するとユーリルは、蛇に睨まれたカエルのように、ツゥ……と汗を滴らせた。
「いや──だってさ……リラがお菓子作るとか言うから……、ちょーっと、隠れてよーかなぁ、とか……モゴモゴ…………。」
やっぱりソレが原因かと、ミネアとマーニャは苦笑を噛み殺す。
リラの破壊的な料理の腕前は、ミネアとマーニャ、そしてユーリルしか知らないことである。トルネコと合流する以前に、リラには料理禁止令を出していたから。
だから、知らない面々は、何を言っているのかと眉を顰めるしかなかった。
ユーリルにしてみたら、リラの破壊的な料理を食べるよりは──船の縁に腰掛けて、危険が去るのを待っていたほうが、よっぽど楽なのだ。
「──ユーリル。」
はぁ、とため息を一つ零して、クリフトが濡れたままのユーリルの前に立った。
これはお説教確実かと、ビクリ、と肩を竦めるユーリルに、
「はい、あーんして。」
ニッコリ微笑んで唐突に、そう告げた。
「──……は?」
何を言うのかと口を開いたその隙間に、クリフトは手にしていたクッキーを、強引にねじりこんだ。
「──……んぐっ!」
突然何をするのかと、目を白黒させたユーリルは、そのままクッキーを吐き出そうとするが、ニュッ、と背後から伸びたマーニャの手により、口をふさがれてしまう。
「んんーっ!!」
「よーく味わって食べなさい。──ビックリするから。」
ユーリルの肩に顎を乗せるようにして、マーニャはしっかりと彼の口と鼻をふさぎながら、ニヤリと笑った。
しぶしぶユーリルは口の中のクッキーを粗食し、飲み込み──驚いたように目を見開いて、リラを見やった。
その視線の先で、リラはユーリルが言いたいことを悟り、はにかむように笑んで見せる。
そこでようやくマーニャはユーリルを開放し、どうだ、と言わんばかりの笑みを唇に貼り付けた。
「すごいでしょ?」
自信満々に言い切ってくれたマーニャの台詞に、
「姉さんが功労者じゃないでしょうが……。」
ミネアが疲れたように呟くのと、ユーリルがリラの元へ駆け出したのとが、ほぼ同時だった。
「リラっ! すっごいじゃんっ! おいしいっ! ちゃんと美味しいぜっ!?」
「ホントっ!?」
ユーリルの言い方もずいぶんなものだが、リラはその言葉を受けて、本当に嬉しそうに心から笑った。
事情を知らないライアン達は、そんなユーリルとリラに、ひたすら首を傾げ続けるしかなかった。
「うんっ。すごい! ちゃんとクッキーの味してたぞ!」
「あのね、鍋も吹っ飛ばなかったし、オーブンが爆発することもなかったし、ヘラと泡だて器はちょっと壊しちゃったけど、包丁が天井に刺さることもなかったし、まな板が飛んじゃうこともなかったの!」
「えっ、それじゃ、ボウルに穴が開くことも、皿が溶けることもなかったのか!?」
「うんっ、なかったの〜っ!」
手を取り合って、ピョンピョン跳ねて喜び合う兄妹は、本当に微笑ましいほど可愛らしいものであったが、話している内容は、おかしかった。
鍋が吹っ飛ぶだとか、オーブンが爆発するだとかは、まぁ、料理を始めてする人間の間でたまに聞く話だが、包丁が天井に突き刺さるだとか、まな板が飛ぶだとか、皿が溶けるというのは……どうだろう。
「……クッキーが消し炭になったとか、そういうレベルじゃないんですか……?」
思わずトルネコは、一緒にクッキーを作ったというアリーナとクリフトを見やった。
アリーナは、お茶を飲みながら、うん? と軽く首を傾げる。
「あら? 今回のクッキーは全部上手く行ったわよ? ね、クリフト?」
「はい、そうですね。」
ニッコリとクリフトは、姫君に微笑み返す。
「ヘラと泡だて器が壊れたとか、リラ殿は言うておらんだか?」
すかさず、クリフトへとブライが突っ込むが、そんなジイやに答えたのは、ぺロリと舌を出したアリーナであった。
「ヘラを壊したのは私なの。バターをクリーム状に練るって言われて、つい力を入れすぎちゃった。」
「いえ、両方とも根元が折れただけですから、すぐに直りますし──。」
穏かに微笑み、フォローを入れたつもりのクリフトの言葉に、無言でトルネコは自分の掌を見下ろした。
ネネに頼まれて、トルネコも卵の泡立てをしてやることはあるが──アレが、根元から折れるというのは……一度見てみたいものである。その見事な破壊っぷりを。
なるほど、道理でユーリルが逃げるはずだと、ライアンとトルネコとブライが納得しているのを見て、ミネアはクスクスと笑いながらクリフトを見上げた。
「まぁ、結果よければ全てよし、ですね──。厨房は荒れてはいないのでしょう?」
最後の一言だけ、コッソリとクリフトに確認する。
クリフトはそれに頷いて、ミネアに安心させるように笑って見せた。
「大丈夫です。大事なところは全て私がしましたしね。」
そんなやり取りをしながら、視線をやる先──リラは、いそいそとユーリルの前に、彼のために焼いたお菓子を差し出した。
白い紙ナプキンに包まれたお菓子は、生地の中にピーナッツを織り交ぜて焼いた、素朴な焼き菓子だ。
「あのね、コレ──見よう見真似で、作ってみたの。」
ヒラリ、と目の前で広げられたそれを見て、ユーリルは零れんばかりに目を見開いた。
「これ……母さんの…………。」
呟いた声が、驚きの色を含んでいるのに、リラは少し照れたように笑った。
「うん、お菓子を作るなら、絶対コレも作りたいって、お願いしたの。材料とか、そういうのはうろ覚えで──大分クリフトに助けてもらったけど、でも、ちゃんと母さんの味になったと思うの。」
砂糖の味と粉の味ばかりが目立つ、お世辞にも美味しいと言えるようなものではないそれは、本当に素朴なただの焼き菓子だった。
けれど、焼きあがってすぐに味見をしたリラの、とろけるような微笑みを見たアリーナとクリフトには、そのお菓子が、どんなものよりもリラとユーリルにとって、ご馳走であることを知っている。
だから、コッソリと2人は視線を合わせて微笑みあった。
今からそれを食べたユーリルが、どういう顔をした、どういう風に笑うのか──それを見たリラが、どれほど嬉しそうに笑うのか。
今から考えただけでも、見ているこちらが笑ってしまいそうだった。
ユーリルは恐る恐る焼き菓子を摘み上げて──ふわり、と笑みを広げる。
「──あは、そのまま……母さんの焼き菓子だ。」
ジッ、と見つめるリラに、いただきます、と小さく呟いて、ユーリルはそのお菓子に、ぱっくりと食いついた。
焼き菓子がユーリルの口の中に消えるのを、固唾を飲みながら、リラはキラキラと目を輝かせてユーリルを見上げる。
そのリラの眼の前で、
「…………………………………………。」
口の中にお菓子を放り込んだっきり、ユーリルは動きを止めた。
その頬の辺りや目元の辺りが、ヒクリ、と小さく引き攣る。
「ユーリル?」
ワクワクと、兄の姿を見上げるリラの眼の前で、ユーリルはしばらくそのまま固まっていたが──すぐに、ゴクン、と喉を上下させたかと思うと、ブルリと身を震わし、
「──……水っっ!!」
ダッシュで、一番近くにいたアリーナに近づき、彼女の手から強引にお茶を奪い取った。
「きゃっ、ユーリルっ!?」
戦闘時でも、あれほど早く飛び出ることはないのではないか、と思うほどの速さで近づいてきたユーリルの突然の行動に、アリーナは目を白黒させる。
その目の前で、ユーリルは奪い取ったカップの中の残り少ないお茶を、一気に飲み干した。
ごくごくと豪快に揺れる喉に、アリーナは呆然と目を見開く。
余りのことに、誰もが反応することも忘れた。
空になったカップをアリーナに返し、グイっ、とユーリルは口元を拭い取った。
そんな彼の動作に、ハッ、といち早く我に返ったクリフトが、険も露にキッとユーリルを睨みつける。
「ユーリル! 姫様のお茶を奪うとは、どういうつもりですか!」
そう睨みつけた先──ユーリルが、ギュ、と唇を引き結んで、クリフトを見返した。
その目じりには──涙が浮かんでいた。
思わずその涙に一瞬息を詰めたクリフトに、ユーリルは八つ当たりをするように叫んだ。
「クリフトっ! お前、どういう味付けしたんだよっ!? 味見したんじゃなかったのかっ!!?」
「味見……? 味見でしたら、リラさんがしてましたけど?」
もしかして、調味料が間違っていたのか?
チラリ、と視線を向けると、リラが不思議そうな顔で自分が持っている焼き菓子をツマミあげ、ポイッ、と口に含んでいるところだった。
一同の視線が集中する中、リラは何事もないかのように、シャクシャクとお菓子を粗食し──ゴクン、と飲み込んだ後で、ますます不思議そうな顔でユーリルを見た。
「美味しい……と、思うんだけど?」
リラの視線を追って、再び一同の視線がユーリルに集まる。
ユーリルは、苦虫を噛み潰したような顔で、クリフトに再度確認する。
「つまり、リラ以外は味見をしてないんだよな? もしかして、最後の味付けもリラがしたのかっ!?」
「そうですね──基礎生地を私が作った後に、リラさんがピーナッツを混ぜて、型に流し込んで──あぁ、そうそう、焼きあがった後、砂糖を振っていたと思いますけど。」
焼きあがった後に、この上に白いキラキラしたものがかかっているのだと説明されたので、粉砂糖を渡した。
基本的にクッキーなどは、基礎生地自体に味付けがされているから、この場合の「最後の味付け」は、ピーナッツと、その粉砂糖くらいになるのだが──まさか、それで味付けを間違えるはずはない。
確かにリラは、自分が手渡した粉砂糖を振っているのを、クリフトは眼の前で確認している。
ということは、自分の作り方が間違っていたのだろうかと、クリフトは眉を曇らせてユーリルを見下ろした。
「もしかして、甘すぎたとか、脂臭かったりとかしました?」
リラが味見をして、大丈夫だと太鼓判を押してくれたから、自分は味見をしなかったのだが──もしかしたらリラは、クリフトが作ってくれたからと、我慢をしていたのかもしれない。
そう思って、不安そうに問いかけたくリフトに、フルフルとユーリルはかぶりを振った。
「それじゃ、焦げていたとかそういうの?」
小首を傾げて、空になったカップを弄びながら、アリーナは首を傾げる。
でも、見た目は少し漕げているような色合いに見えるが、これはそう言うお菓子なのだとリラは断言していたし──焼きあがったあとも、焦げているような匂いはしてなかったと思う。
「いや──っていうか……塩。」
まだ口の中にその味が残っているような気がして、顔を大きく顰めながら、ユーリルは口元に手を当てた。
ぼそ、と小さく呟かれた単語に、クリフトは首を傾げる。
「──はい?」
そんなクリフトに、クイ、と、ユーリルは顎でリラの手に持たれた物を示した。
そして、苦い顔で、
「イヤがらせかって思うくらいの、塩の味がする。」
そう──ぼっそりと零したユーリルの台詞に、え? と、クリフトは首を傾げた。
塩の、味。
──ということは。
「もしかして、私が塩と砂糖を間違えたとか……。」
いや、それにしてもリラが味見をしているのだから、と──そう零してクリフトに、心底げんなりしたような顔で、ユーリルが米神に手を当てた。
そして、更に続けて──心底嫌そうに、吐き捨てるように呟く。
「…………リラが味見したっていうのが、そもそもの間違いなんだよ。」
それがどういう意味なのだと、クリフトが尋ねるよりも先に、
「え、だって、でも……美味しいよ?」
首を傾げて、リラがもう一口焼き菓子を口に入れる。
そんな彼女に──まったく自覚のない妹に、だからっ、と、思わずユーリルは声を荒げた。
「リラは、味覚オンチなんだから、味見しても意味がないだろっ!!」
双子の兄が叫んだその「真実」を、その場に居た一同が理解するのに、一瞬の間があった。
しーん、と舞い落ちる沈黙。9人の耳に届くのは、ひたすら穏かな波の音。
言われてみれば、どこの宿でも、どこの店でも、どんな食事でも、リラは文句も言わずにパクパクと食べていたような記憶はある。
良く食べるわねぇ、とか、良く食べれるなぁ、とか、思ったことも一度や二度じゃなかったが──そういわれてみたら、なるほど、と納得できるというか。
「──……マジ……………………?」
呆然と、マーニャはリラを指差しながら、ユーリルに確認する。
ユーリルは、コックリ、と、重々しく頷いてやった。
「紛れもなく、マジ。」
言い切ったユーリルに、そんなことないもん、と、リラが唇を尖らせて反論する。
そして、その一瞬後。
「……ちょっ、ちょっとすみませんっ!」
フリーズ状態から回復したクリフトが、慌ててリラの手の中から焼き菓子を取上げ、それを一口サイズに割りとり、恐る恐る口に突っ込む。
まずは、舌先で生地の表面にまぶされている白い粉を舐め取る。
ふわりととろけるように広がる甘い味は、確かに粉砂糖のもの──クリフトが用意したソレだ。
そして、その生地は、サクリと口の中でほどけ、なんとも言えない砂糖とバターとピーナッツとアーモンドプードルと。
さらになぜか。
「………………………………………………………………っっっ。」
混じるどころか打ち勝つように、潮っぽい味が、口の中一杯に広がった。
苦いような、しょっぱいような、──無理矢理、ゴクリ、と喉を上下させると、口の中に残った塩の味に、ブルリと肌があわ立つのを感じた。
なんとも言えない顔で、クリフトは己の口を手の平で覆い隠すと、さきほどのユーリル同様、泣きそうに顔を歪めてリラに視線を当てた。
「…………リラさん──……っ、もしかして、焼く前に…………生地の上から、岩塩…………振りませんでした…………?」
まさか、と──そう思った。
けれど、この味は、どう考えても岩塩の味に似ているような気がした。
そんなものを振るなんて、おかしいとは思うけれど。
──問い掛けるクリフトの、非常に苦い声に、打てば返るように答えを返してくれたのは、
「あ──……そういえば、ピーナッツ混ぜてるときに、一緒にキラキラしたのを入れてたわね、リラ。」
一緒にお菓子作りをしていた、アリーナだった。
「………………ピーナッツを混ぜるときに…………入れてた?」
言われてみれば、ピーナッツを手渡した後、ちょうど焼けたばかりのクッキーに視線を奪われてしまい、リラがピーナッツを混ぜているのを見ていなかったような気がする。
確かに、あの時なら……「岩塩」を入れることが出来るだろうが、どうしてソコで、岩塩を入れる必要があるのだろう?
クリフトは、問い掛けるように視線をリラに向けた。
アリーナもまた、確認するように視線を彼女に転じた。
アレがそう? と聞くような二人の視線を受けて──リラが、恥ずかしそうに目元を赤らめて、首を竦めた。
「え、と……母さんが焼いたのに、キラキラって光る甘い粒が入ってたの──焼く前に、それを生地に練りこんでいたのを、思い出して…………クリフト、忙しそうだったから、自分で入れたんだけど…………。」
ぎゅ、と手の平で押しつぶすように握り締める焼き菓子に、リラはシュンと肩を落とす。
「でもね、焼きあがったら、なんだかキラキラしてなくて、クリフトに聞いて……そしたら、クリフトが粉砂糖をくれたの……やっぱり、キラキラはしなかったけど…………。」
そんな彼女に、少しばかり遠い視線でミネアは、正解を口にしてやった。
「──────……お母様が入れてたのは、多分……ザラメ、だと思うわ………………。」
クリフトは、それに大きく頷いた後、気を利かせたトルネコが差し出してくれたお茶で喉を洗い流しつつ。
「……ぜんぜん気付かなかった……リラさんって、味覚オンチだったんだ…………。」
ユーリルとリラ以外の誰もが、心の中で思っただろうことを、ぼっそりと、呟くのであった。
それと同時に、彼らは、彼女に料理をさせるときは、必ず、誰かが傍に四六時中付いていなくてはならない、ということを決意した。
「とにかく、そのお菓子は……リラが食べろよ?」
ユーリルは、口直しだと、樽の簡易テーブルの上に置かれたクッキーに、パクリと食いつく。
その口に広がる味は美味で、ん、と、彼は小さく笑った。
「えー……せっかくユーちゃんのために作ったのに…………。」
不満そうな声をあげるリラに、ユーリルは嫌そうに顔を顰めて叫んだ。
「僕が塩分の取りすぎで病気になってもいいのかっ、リラはっ!?」
「良くないけど……。」
ガックリ、と肩を落とすリラに、あー──……と、ユーリルはこめかみを掻いた後、
「──リラも、塩分の取りすぎになると困るから、ソレは……クリフトに頼んで処理してもらえよ?」
「………………何かに使える? クリフト?」
「そうですね、スープか何かに入れるようにしますよ。」
よろしくお願いします、と、リラから差し出された紙ナプキン入りの焼き菓子を、クリフトはソ、と受け取って──、砂糖と岩塩とピーナッツ入りのお菓子を、一体どういうスープの味付けにしたらいいのかと、少しばかり途方にくれた。
──まぁ、クルトンだと思って……使えない、かなぁ?
「──で、今度また暇なときに、またクリフトに手伝ってもらって、作ったらいいだろ?」
シュン、と肩を落とすリラの頭を、ポンポンと叩いて、ユーリルは笑った。
その彼の、潮の匂いのする服の裾を、ツン、と引っ張って、
「……ちゃんとクリフトが美味しいって言ったら、食べてくれる?」
リラは、軽く首を傾げて尋ねた。
それには、ユーリル破顔して頷いてみせた。
「今度は、僕とリラだけじゃなくって、みんなに食べてもらおうな──リラ。」
そう……優しく、笑いながら。
今日も軽快に、導かれし者達の船は突き進んでいく。
時折、そんな小さな騒動を巻き起こしながら……。
THE END
あとがき……
すみません、おしまいです。
ちょっといつもよりも、お兄ちゃんな男勇者と、可愛らしい女勇者を目指してみました。
オールキャラを目指して頑張ろうと思っていたら、予想以上に長くなってしまい、最後はほとんどW勇者でお終いです。
ということで、裏設定1、女勇者は料理破壊魔で味音痴。
書いているうちに、「男勇者×女勇者」っていうのもいいなー、とか馬鹿なことを考えていたのは内緒です(内緒になってない・笑)。
それでは、企画にご参加いただきまして、本当にありがとうございますv
駄作ではありますが、楽しんでいただけたなら幸いでございます〜v
さて、一体どうやってアリーナとリラにこのようなお菓子を作らせることができたのかと、そう疑問に思えてきて、ミネアは少し離れたところで微笑ましそうにアリーナを見つめていたクリフトの傍に近づいた。
「クリフトさん、少しお伺いしたいのですが──どうやって成功させたんですか、アレ?」
出会って間もない頃、リラに料理を教えていた身としては、非常に気になることであった。
「粉を振らせれば、道具ごと壊してたんですよ、リラは。」
「アリーナ様も、バターが柔らかくなるまで練ってくださいね、とお願いすると、ヘラを壊してましたよ。」
船の手すりに背を持たれかけさせて、隣に並びながらコッソリと囁くミネアに、クリフトは苦い笑みを貼り付けながら答えてくれる。
なら、なおさらどうして──と、目を瞬くミネアに、クリフトは酷くアッサリと、種明かしをしてみせてくれた。
「──大きな町のお菓子やさんでは、すでに配合した後の粉が売っているんですよ……あとは水を入れて混ぜるだけ、とか、そういうのが。
あれを見て、便利だなー、って思ったので、この間暇なときに、そういう『種』を、たくさん作っておいたんです。」
目を丸くさせるミネアに、クリフトは、ね、と笑いかけた。
「危険ですから、オーブンの調節は私がしましたし──、アリーナ様とリラさんがしたのは、生地を綿棒で伸ばして、型を抜いてオーブンに入れるトコロまでです。
もしくは、水を混ぜるまでは私が説明しながらやって、その後型に入れるのをしてもらったりとか……ね。」
「──……それ、お菓子を作ったというよりも、手伝った、って言うんじゃ…………?」
「──内緒、ですよ?」
しぃ、と、指先を唇に当てて笑うクリフトに、ミネアは目を瞬いて……それから、小さく笑った。
「ふふ──確かにその方法なら、まだ、厨房を破壊されたりはしませんね。」
「何度かこういうことをしていけば、そのうち……1からご自分で作れるようにはなると思うんですけど……。」
さすがに今のアリーナとリラに、1から触らせるつもりはない。
何せ、任せたが最後、どうしてこうなるのかわからない物体が出来上がることはまず間違いないのだ。
「そうですね……。」
クリフトの台詞に頷きながらも──ミネアも本当はわかっている。
多分二人は、料理をするのには、ぜんっぜん、向いていない体質なのだということを……。
「………………やっぱり、料理当番からは、リラもアリーナも抜いた方が……賢明ですね…………。」