二年前──空をゆっくりと駆ける気球があった。
青い空を自由気ままにゆく気球から見る夜明けは、とても美しかった。
果てなど永遠に見えない──星明かりが唯一の進路を示してくれる中、暖かな毛布で暖を取り合いながら、空をゆっくりと旅をしたのだ。
旅の終焉を間近に控えていた、そんな空の上で。
夜明けに近い紫色の美しい夜空を、手を繋ぎあって見上げた。
キュ、と握り締めたお互いの手のぬくもりだけが、いつまでも心に残っていた。
──離したくない、この手だけは。
その想いは、旅が終わりに近づくにつれ、だんだんと胸の中で大きくなっていった。
あれから、二年──
世界は、今日も美しく彩られている。
サントハイム城内の東に位置する教会の奥の部屋──少し本がなくなっただけで、ずいぶんガランとした気のする部屋をぐるりと見回し、アリーナは背後に立つ青年を振り返った。
いつもと同じ穏やかな微笑を浮かべて自分を見つめているクリフトに、昨日も口にした台詞を、もう一度繰り返した。
「一週間、だったわよね?」
噛み締めるような問いかけに、はい、と青年が答える。
その彼は、いつもとは違う服装に身を包んでいた。
二年前までは毎日のように見ていた旅の神官服だ──けれど、長く過酷な旅を終えた後は、一度も見たことがなかった服装でもあった。
「なんだか変な気分ね、クリフト。」
そんなクリフトの姿を上から下まで眺めて、アリーナは軽く首を傾げた。
そして自分が着ているドレスを見下ろし、再びクリフトに視線を戻す。
「あなたがそういう格好をしてるのに、私だけドレスなんですもの。」
その口調には、どこか拗ねたような色が宿っていて、クリフトは目元を緩ませて微笑んだ。
「姫様には、公務がおありですから。」
クリフトの答えに、それはそうだけど──と、アリーナは少し寂しげに微笑んだ。
昔は……「公務」という責任のある仕事が無かったから、後のことを考えずに城を飛び出していくことが出来た。
幼いからこそ許される暴挙でもあったと、アリーナは思っている──同時に、今しか出来ないと思っていたからこそできた暴挙でもあると、思っている。
一年もしないうちに戻ってくるつもりが、なんだかんだで長く厳しい旅になり──アリーナはその「世界を救う旅」で、一回りも二周りも大きくなってサントハイムの城に戻ってきた。
それが、つい二年前の話だ。
あの時に脱いだ旅の服には、この二年、一度も手を触れたことがなかった。
復興に勤しむサントハイムのために、簡素な服を着て走り回ったことはあれども、「旅」をすることはなかった。
特に平穏な日々が戻ってきた最近は、二年前の事件から、めっきり老け込んだ父に代わって外交を果たすことが多く、ほとんど毎日ドレスを着込んでいる状態だ。
おかげでずいぶん腕が鈍っているに違いないと、先日二の腕の筋肉の具合を真剣な目で確認していたアリーナの姿を思い出し、クリフトは苦笑を刻み込んだ。
そのクリフトの、二年前と同じ旅の服を見上げて、アリーナは小さく笑う。
「クリフトだけ、旅に出れるなんてずるーい……って、昔なら言ったんだけどね。」
公務さえなかったら、「まだまだ旅路は危ないから、クリフトのボディガードとして着いて行くわ」と目を輝かせて宣言したに違いないことは、お互いに分かっていた。
けれど、まだそれが出来るほどサントハイムが復興を果たしたわけではないことも、分かっていた。
「一週間で、帰ってきますから。」
穏かな微笑みを貼り付けながら、クリフトは、旅をしていたときよりもずっと大人びた印象を与えるようになった少女に答える。
もう、そんなワガママを口にして、公務をサボるような子供ではないことが、少しだけ寂しい……なんてことは、絶対に口に出してはいけない。
「帰って来たら、真っ先に顔を出してよね?」
手を伸ばし、アリーナはクリフトが着ている旅用の神官服に触れた。
いつも彼が着ている神官服と違って、生地が分厚くできている分だけ、ゴワゴワした感触が返ってきた。
あの頃は、毎日の連戦のおかげで、服もいつも擦り切れていた。
けれど今日触れた服は、真新しい新品のようにごわついて感じた。
「二年前は、毎日見てたのに、なんだかすごく目新しく感じるわ。」
懐かしい、と言うよりも、なれない感じがすると、そう零すアリーナに、クリフトも居心地悪そうに身をよじって苦笑を刻み込む。
「私もなんだか変な感じです──二年前までは、毎日のように着ていたのに……なんだか、着慣れない服を着ているようで……懐かしいような…………。」
なんだか居心地が悪くて、クリフトは長い指先を襟元に当てて、軽く襟を広げた。
そんなクリフトを見上げて、アリーナもまた、懐かしげに、しんみりとした口調で呟く。
「そうね、懐かしいわね。」
彼女の瞳に宿ったさびしげな色に、クリフトは同じような色を滲ませて微笑んでみせた。
別に、二度と帰ってこないわけじゃないのに、彼女がこんな表情をして、こんな風にシンミリと呟くものだから、なんだか自分まで切なくなってくる。
「姫様……。」
呼びかけると、アリーナは唇に微笑を張り付かせてクリフトを見上げた。
「クリフト、後のことは考えずに、楽しんでいらっしゃいね。」
ニッコリ微笑む顔が、毅然として見えて、クリフトは一瞬息を呑み……それから、小さく笑い返した。
寂しげな色を乗せていたら、クリフトが後ろ髪を引かれることが分かっているから、気遣ってくれたのだろう。そう思えば嬉しくて、口元が自然とほころびた。
けれど、すぐにその微笑を、無理矢理つくった厳しい顔に隠す。
「お言葉に甘えて──と言いたいところですが、姫様? ゴッドサイドには、遊びに行くのではなく、勉強をしにいくのですよ。」
分かってますか? と、少し嗜めるような口調で彼女の顔を覗きこむと、クスクスと笑ってアリーナが頷く。
「分かっているわ。でも、クリフトのことだもの。
頑張って勉強してきて、って言ったら、本当に一生懸命勉強してきて、帰って来る日を忘れちゃいそうじゃない。」
ね? と、小首を傾げて笑うアリーナに、クリフトは、そんなことはありません、と生真面目に答える。
一週間──勉学に勤しむことができるこの期間は、とても大切でありがたい一週間だとは思っている。
サントハイムの復興が、ようやく一段落したとは言え、まだ予断を許さぬこの大切な時期に、わざわざ自分のために取り計らってくださった国王にも神父様にも、頭が下がるばかりだ。
旅の間に勉学を学べなかった時間を思えば、一週間でどれほど遅れを取り戻せるかは分からない。そう考えると、一週間なんて少なすぎるくらいだ。
それを思えば、あと1日……もう1日と、延期してしまうこともあるかもしれない。
けれど、同時に──クリフトは、それがありえないことだと、知っていた。
「そんなこと、あるはずもないじゃないですか……。」
勉強は、したいと思う。
そうして身に付いた物によって、国王陛下を、神父様を──そして目の前の姫君を助けることが出来ればいいと、思うから。
そのための勉強が、たった一週間でどれほど身に付くのか、不安ばかりだ。
でも、それ以上に不安に思っていることがあることを、アリーナは全く気づいていないのだろうか。
「あら、そうかしら?
おとついだって、あと一ページ、あと一ページって──気づいたら朝だったんじゃなかったかしら?」
そんなクリフトの心中を知らずか、アリーナはイタズラ気な笑みを浮かべて首を傾ける。
愛らしく笑うアリーナに、苦笑を零して、クリフトはゆるくかぶりを振った。
「それとこれとは、全然違います。」
「そうかしら?」
首を傾げ続けるアリーナに、まったく……と、クリフトは溜息を一つ零す。
アリーナは、全然わかっていない。
自分にとって、この一週間が、どれほど重く長い一週間であるかということを。
物心ついてから今まで、ずっと見つめてきた──ずっと傍に居ることが出来た人の傍を、たかが一週間とはいえ、離れることになってしまった。
そのことで、自分がどれほどの不安を覚えているのか、本当にアリーナは理解してくれていないのだろうか?
「違いますよ──もう。」
かすかに憂いを漂わせて、そ、と眉を寄せ、視線を落とすクリフトは、己のそんな女々しい気持ちを振り払うように、小さく奥歯を噛み締める。
そんなクリフトを見上げて、アリーナはおどけるように笑った。
「……クリフトにはいつも心労ばかりさせてるわね、私。」
言いながら、アリーナは手を伸ばし、そ、とクリフトの頬に触れた。
揺れるような眼差しを向けてくるクリフトの目を覗き込んで、アリーナは、じ、と瞬きもせずに彼の目を見つめた。
「この間だって、わたしがちょっと失敗しちゃった後始末、してくれたんでしょう?
だから、たまにはわたしから離れたほうが、少しは気が楽になるかしら、って思って。」
なんでもないように、軽やかに言葉をつむぐ。
クリフトは目ざといから、感づかれないように、必死に取り繕うけれど──それが本当に成功しているのどうかは、クリフトの双眸に写る自分の顔を見つめるだけでは、わからなかった。
それどころか、見上げる瞳に映った自分の顔は、必死で笑っているようにしか見えなくて……クリフトに見破られてはしないかと、心配になる。
何せクリフトは、いつもアリーナのことに関しては酷く目ざとくて──もしかしたら本人以上にアリーナの感情に聡いから……こんな風に心配してほしくないときは、困る。
──あなたが、少しでも離れてしまうのは耐えられないと、そう思っていることを知ってしまったら……、本当に、困る。
行かないで、と──そう口にしてしまいそうだから。
そうしたら、クリフトは本当に困ったような顔をするだろう。
それは、イヤだった。
「……あなたから離れたほうが、わたしにはずっと……心労ですよ。」
クリフトは、切なげにそんな風に笑うアリーナを見下ろし──そ、と彼女の掌を自分の手で覆った。
触れ合う手と手の温もりが、ジン、と互いの胸に響く。
「……楽しんできて、クリフト?」
囁くように、アリーナは微笑む。
少しだけ寂しげな様子を見せる彼女の微笑みには、けれど、クリフトの身を案じる色が強く見えた。
精一杯の思いを込めた、かすかに揺れる眼差しに、クリフトは真摯に頷く。
「はい、姫様。」
頬に当てられたままのアリーナの手の平に、そ、と指を絡めて、クリフトは微笑んで見せた。
アリーナは、そんなクリフトの見せる微笑に、安堵したような笑顔を浮かべて、うん、と一つ頷いた。
触れ合った手の暖かさに、モヤモヤした感情が洗い流されていくように思える。
「クリフトが元気で居てくれるって思ったら、私も頑張らなくちゃって思うわ。」
だから、その気持ちをそのまま乗せたように、ほわり、と笑いかけた。
そんなアリーナの微笑みに……彼女の優しいぬくもりに、クリフトもつられたように微笑み返した。
そして、えぇ、と小さく頷いて、
「私も、姫様が一生懸命頑張っていらっしゃると思うと、早く帰らなくては、と思います。」
少し照れくさそうにそう零すクリフトに、アリーナは心配の色を滲ませて彼を軽く睨みつける。
「だからって、ムリはしないでね?」
クリフトは、いつもそう。
自分だって忙しくて、どうしようもないのに、いつもアリーナを優先しようと、無茶ばかりする。
そうやって、ギリギリまで頑張ろうとして、体を壊して倒れてしまうから、ブライに「虚弱児」と諌められるのだ。
「姫様こそ、わたしが居ないのですから──あんまり無茶はしないでくださいね?
居ない間に、怪我が一つでも出来ていたら……本当に生きた心地はしないんですから。」
「あら、大丈夫よ。まだまだわたしは、そこらの兵士にだって負けないわよ!」
「姫様……。」
胸を張って笑うアリーナに、そうじゃなくって……と、小さく吐息を零して、クリフトは明るい笑顔を浮かべる彼女を見下ろした。
自分の頬に当てられた手を、そ、と引き剥がし、その掌を自らの口元に持ってくる。
暖かな吐息が掌にかかり、ピクン、とアリーナの指先が震えた。
小さく息を呑んで、クリフトの動作を緊張した面持ちで見守るアリーナの目の前で、クリフトはその柔らかな──けれど、絶大な威力を発揮する拳を繰り出す手に、ちゅ、と口付けを落とす。
「たった一週間ですけど──やっぱり、心配です。」
ジン、と、うずくような熱さが指先から背筋を駆け抜けたように感じて──ぶるり、とアリーナは体を震わせる。
名残惜しげに手の平から唇をはがすクリフトに、掠れた声で、アリーナは零す。
「……それは、わたしもだわ。」
それに、と。
切なげに瞼を伏せるクリフトを見上げながら、アリーナは自然と言葉を滑らせていた。
「やっぱり、クリフトの顔が見れないのは、──さみしい。」
口にするつもりはなかった言葉。
けど、こうして、一緒に居ると……やっぱり、切なさがこみ上げてくることを止めることはできなかった。
キュ、と唇を真一文字に引いて、アリーナは掌にキスを繰り返すクリフトを見つめた。
熱いうずきが指先に宿る。
なんだかむずむずして、こそばゆいけれど、だからと言って彼の手を振り払うこともできなかった。
「──姫様……。」
クリフトの揺れる眼差しを見上げて──アリーナは、ことさら明るく笑った。
そうしないと、たった一週間離れるだけなのに、泣きそうになるからだ。
……一緒に居るときは、一週間なんて、本当にすぐ過ぎてしまうのに。
「でもね、クリフト? 寂しくないように、クリフトがちゃんとしていってくれたら、いいんだわ。」
指先に宿る熱を感じながら、少しだけイタズラ気な色を宿して微笑む。
そんなアリーナに、クリフトはきょとんと目を瞬く。
「──ちゃんと、ですか?」
少しだけゆがんだクリフトの目が、何をすればいいのか悩んでいるのを見てとり、うん、とアリーナは頷いて、クリフトの手から自分の手をスルリを引き剥がす。
遠のいた熱に、たがいに寂寥を覚える間もなく、アリーナはそのままクリフトの背中に手の平を回して、グイ、と間近に顔を近づけた。
突然抱きつかれ、大きな赤い瞳で間近に見つめられて、クリフトは目を瞬く。
「あ、アリーナ……さま?」
動揺した色を宿すクリフトに、うん、だから、と、アリーナは笑った。
その彼女の愛らしい顔を見つめながら、クリフトは困惑の色を強く宿す。
厳密に言えば、「残していくこと」は、たくさんあると思う。
たとえば、手紙とか、何か自分を思い出させるようなものとか、色々。
でも、アリーナのイタズラ気な瞳は、それを指しているのではないような気がした。
もっと──何か、確かなようで、そうじゃないもの。
彼女が何を考えているのか、探るような眼差しでジ、と見つめると、ほんのりと少女の頬が上気した。
「あのね……最初は、今夜の分よ。」
自分で言い出しておきながら、言葉が震えた──ためらうように、恥ずかしそうに、アリーナは瞳を伏せる。
「──……え?」
アリーナはそのまま、軽く指先でクリフトの背中を掻いて──睫をかすかに震わせた。
今夜の、分。
それが、アリーナがほしいと思っていることの答えだ。
そう思うと同時、クリフトは、あ、と小さく声を零した。
いつも、していること。
いつもと違って、今日の夜から、できないこと。
「ひ、ひめさま……。」
狼狽したように、胸の中で微笑む少女を見下ろすと、うん、とアリーナはクリフトの焦った様子を楽しげに見つめて、
「クリフト──ね、キス、して?」
クイ、とクリフトの服を引っ張った。
「……ひっ、めさま──……っ?」
もしかして、と思っていた通りの台詞だったけれど、だからと言って動揺しないわけではない。
思わず目を見開いて見下ろした先で、恥ずかしそうにはんなりと頬を染めながら、アリーナがゆっくりと目を瞬いて、小さく笑った。
「おやすみのキスと、おはようのキス。」
そう囁く唇が、いつもよりも魅惑的に動いて──そこに視線が集中するのを、クリフトは止められなかった。
アリーナは、上目遣いにクリフトを見上げて、
「いつもの分だけ……やり溜め?」
「…………姫様…………。」
思わず、ガックリ来るほど色気のない台詞に、クリフトはため息が零れた。
一体誰が、こんな表現を姫様に──と思うと同時、脳裏にアリアリと浮かんでくる姿があることが、またいけない。
まったく、マーニャさんは、と、そう頭痛めいたものを覚えているクリフトの服が、ね、と、催促されるように再び引っ張られた。
姫様も、と、説教を口にしようとした見下ろした先──ニッコリと笑われてしまっては、抵抗する気も、口にしようとした台詞も、全部吹っ飛んでしまった。
その催促に促されるまま、クリフトはアリーナと向かい合う。
照れ隠しにせわしなく目を瞬くアリーナの顔に、そ、と顔を近づけると、自然と彼女の瞼が降りた。
かすかな緊張を纏わせながら、クリフトは透き通るように綺麗な容貌を見下ろした。
吐息が触れあうほど近く。
「今夜の、ぶん。」
触れ合う寸前、かすれた声で、アリーナが囁いた。
その言葉を閉じるように──、攫うように、触れ合うだけのキス。
そ、と離れた唇を名残惜しむように目を開くと、高窓から差し込む明かりが、イヤに明るく見えた。
差し込む太陽に照らされた中での「おやすみのキス」が気恥ずかしくて、いつもより頬が上気する。
「あと、あしたの──おはようのキスの分。」
その照れくささを隠すように、今度はアリーナが軽くつま先たちをして、クリフトに顔を近づけた。
そのまま黙って受け止めてくれるクリフトの整った顔に触れる寸前まで瞳を薄く開いて──ゆっくりと唇を重ねた。
押し当てるだけの優しい感触──離れる瞬間、柔らかな唇が名残惜しげに吐息を零した。
なんだか照れくさくて、なんだか恥ずかしくて──そのままクリフトの視線を直視できなくて、アリーナはそのまま次を催促するように目を閉じて顔をあげた。
「それから……。」
震える唇が、期待を孕んで呟く。
それに答えるように、
「明日の、夜の分。」
あやまたず、熱い感触が落ちてくる。
今度は、ちゅ、と音を立てて、ついばむようなキス。
「ん……。」
喉を鳴らしたアリーナに、小さく笑うように、
「あさっての朝。」
続けて、もう一度口付けが落ちる。
クリフトの服を握り締めて、そのキスを受ける。
先ほどよりも少し長いキスの後、再び唇が離れて──はぁ、と熱い息が零れた。
そ、と目を開くと、少し潤んだアリーナの瞳が、じ、とクリフトを見上げていた。
「それ、から。」
コツン、と額を付きあわせて──アリーナは、クリフトの服を握り締めていた手を、スルリと彼の首へと回した。
間近で見つめあいながら、近づいた容貌に、お互いに瞳をゆっくりと閉じていく。
それから。
「…………ん。」
クリフトの手が、しっかりとアリーナを抱きしめる。
それに抵抗することなく、すんなりと彼の腕に収まったまま、アリーナもまたクリフトの顔を抱き寄せた。
唇を合わせて、どちらともなく薄く開いた唇から、舌先を絡めあう。
初めは、瞼の裏から差し込む明るい光に気兼ねするように、おずおずと、ゆっくりと。
「…………ん。」
零れ出る唾液を堪えて、小さくアリーナが眉を寄せる。
ちゅく、と、舌が蠢くたびに小さく音が立つのが恥ずかしくて、でもそれから逃げることはしない。
何度か唇を離して、再び合わせて──少し角度を変えて、口腔内を舐めあげる舌に、ゾクゾクと背筋がしなった。
「姫様。」
とろり、と、とろけるほど絡んだ舌がようやく解け、唇が離れる。
「……ハッ……ァ。」
少しあがった息を弾ませて、アリーナは静かに睫を揺らして瞳を開いた。
目の前には、いつもの穏やかなクリフトの──けれど、滲み出る欲情の色を隠しもしない恋人の顔がある。
その唇がシットリと濡れているのを認めて、アリーナは頬を羞恥に染めた。
「──クリフト……。」
甘い声で名を呼び、首を傾ける。
ジン、と腰に残るその声に、クリフトは苦笑を刻みながら、アリーナを覗きこんだ。
「大丈夫ですか、姫様?」
「ん……。」
優しいクリフトの手の平に背中を撫でられながら、コトン、とアリーナはその胸元に頭を預ける。
柔らかなぬくもりに、ほぅ、と短い吐息を零すと、そんなアリーナの背中を、クリフトは優しく撫でてくれる。
軽いキスだけじゃ物足りないのに、少し激しいキスになると、すぐに息があがる。体がもうついてこない。
そんな自分を少しじれったく思うけれど、いつも後からクリフトがこうして抱きしめて、息が整うまで背中を撫でてくれるのは、嬉しいから。
だから、もう少しこのままでも……いいかな、とか。
「……これで……一週間分?」
ゆっくりと瞳をあげて尋ねると、クリフトは曖昧に笑って首を捻った。
「すみません、数えてませんでした。」
それから、少し甘い色を覗かせて、アリーナの耳元に、そ、と唇を寄せて尋ねる。
もう一回、しますか?
──そう小さく聞かれて、アリーナは目元を赤く染めて、クリフトの胸に頬を摺り寄せた。
ドキドキと、高鳴る音が響くのは、自分の分の鼓動だけじゃない。
「……………………まだ、足りない……かな。」
強請るように、そのまま顔を上げて──そ、と目を閉じた。
同時に、クリフトがゆっくりと顔を傾ける気配がして、キュ、とクリフトのシャツを握っていた手に力を込めた。
その瞬間。
──────コンコン。
「クリフト、クリフト──まだ部屋にいるんですか?」
ドアが軽い音を立てて、ドアの向こうから聞きなれた神父の声がした。
慌てて二人は、ズサッ、と揃って左右に飛びのく。
頬を紅潮させたまま、アリーナは、すす、と、ドアから見えない方向へと体を隠した。
別に、出発前のクリフトの部屋にアリーナがいることは、おかしなことではない。
そう分かっているのに、後ろめたさが、ついそんな行動に走らせていた。
クリフトも、慌てて居住まいを正して、ドアへと歩いていく。
途中、ごほん、と一度咳払いして冷静さを装うと、何事もなかったかのように、自室のドアノブに手をかけた。
「はい、神父様、すみません──。」
動揺しないように必死に取り繕った顔と口から零れたのは、自分で思っている以上の穏やかな声だった。
ガチャリと開いた先──ドアの外では、声の主である神父が、ニッコリと微笑んで立っていた。
「もう時間が迫っております、姫様と陛下にもご挨拶をしていらっしゃい。」
「あ……は、はい。」
両手を体の前で組み、首からは銀の十字架を下げた神父は、旅の服を着込んでいるクリフトを、満足そうに見つめた後、ぽん、と彼の肩に手を置いた。
「クリフト、楽しんで勉強をしておいで。
姫様と離れていて寂しいかもしれないけれど、それもまた、姫様にとっても、お前にとっても、良い勉強になるでしょう。」
にっこり、と笑う神父の言葉に、ぎょっとしてクリフトは目を見開く。
「神父さま──……っ。」
いつもは取り澄ました顔をしている年若い神官が、取り乱して自分を呼ぶのを認めて、それはそれは面白そうに神父は口元を緩めて微笑んだ。
そして、動揺を示したクリフトを追求することなく、ポンポン、とクリフトの肩を叩くと、
「さぁ、クリフト、準備が終わったら、外にいらっしゃい、馬車の用意がすんでますからね。」
そのまま踵を返して教会の中へと戻っていった。
クリフトはそれを見送り──なんともいえない顔でドアを閉ざしながら、背後を振り返る。
ちょうどドアから見えない位置──死角に体を入り込ませたアリーナと、視線が交わる。
「そういえば、私も、お父様から似たようなことを言われたわ。」
どうやら神父の声が聞こえていたらしい。
首を傾けてそう教えてくれる姫君の言葉に、あぁ……と、クリフトは手の平を額におしあてた。
隠れて付き合うようなことだけはしたくない。そう思っていたので、アリーナとのことは、隠しとおしてはいない。しかし、オープンでもなかったはずだ。
表向きは、旅に出る以前と同じように行動しているはずだ。
だから、アリーナとクリフトが「恋人同士」であることを、まだ国王も神父も知らない……はずなのだが。
なのに、どうしてみんな知っているのだろうかと──少しの頭痛を覚えた。
けれど、そんなクリフトの心痛を知ってか知らずか、
「でも、良かったわ。みんなに祝福されてるって……ことだものね?
それって、ステキなことだわ。」
アリーナは、ニッコリと微笑んで、そう同意を求めた。
そんな彼女の言葉に、クリフトが逆らえるはずもない。
クリフトは、こめかみを抑えようとしていた手を止めて──アリーナを愛しげに見つめてから、はい、と頷いた。
そんなクリフトに満足したのか、アリーナは微笑んだまま、手の平を彼へとむけて差し伸べた。
「それじゃ……クリフト、一緒にお父様のところに行きましょう。」
その手に己の手を重ねようとして──あ、と、クリフトは小さく零す。
「アリーナさま。」
「──ん?」
見上げるアリーナの唇に、軽くキスを一つ、落とす。
「──……っ。」
思わず目を見張って動きをとめたアリーナは、キョトン、とクリフトの顔を見上げる。
すぐ間近に見えたクリフトの顔が、ゆっくりと遠のいて──、唇に、柔らかな感触だけが残った。
「数えてみたら、一回、足りなかったから──。」
それが、本当のことなのか、照れ隠しなのかは、分からなかった。
照れたようにニッコリ笑うクリフトに、アリーナは、何をされたのかようやく悟った。
「……………………っ。」
かぁっ、と、顔を赤らめて、アリーナは、指先を柔らかい感触の残る唇に押し当てた。
まだ濡れた感触の残るソレに、恥ずかしそうに唇を震わせて、ジトリ、とクリフトを見上げる。
「──ずるい、クリフト。」
可愛らしく睨み上げるアリーナに、すみません、とクリフトは笑った。
けれど、その滲み出るような幸せそうな笑顔は、すまないと思っているようには見えなかった。
そんな彼へ向かって、ぐい、と手を伸ばし、アリーナは彼の襟首を掴み取った。
あっ、と、短い悲鳴をあげるクリフトに向かって、ツイ、と背伸びをすると、チュ、と──キスを一つ、押し付けた。
「姫様……っ!?」
驚愕に目を見開くクリフトの、すぐ目の前に見えた瞳に映りこんだ自分の顔が、クリフトにとても綺麗に映るように心がけながら、
「……でも、好き。」
ニッコリ、と──勝ち誇ったように、アリーナは微笑んで見せた。
オレンジペコさまからのリクエストにより、作成させていただきました。
ペコさまに捧げさせた頂きます。
ラブラブあまあまなクリアリということで、「ちょーっとやりすぎたかなぁ?」と、プロット当初は思っていたのですが(笑・ひたすら山なし、オチなし、意味なし、なラブアマにしようとたくらんでいた。)、出来上がってみてビックリしました。なんて色気のない文章なんだっ!!
ネタは甘いと思うんですけど…………。
好きな人が居ると、楽しいけれど、辛い気持ちになることがあります。
今までなんとも思ってなかったことが、ひどく嬉しかったり、ひどく辛かったり。
アリーナは、クリフトの側を離れていたときがあるのですが(パデキア)、あのときはそれを意識する暇は無かったはずです。一人だと痛感したことはあっても、それ以上にクリフトを喪うことを恐れていたはずだから。
そして、初めての別居生活(笑)が、恋人になった後っていうのは……辛いはず……なんですよね、やっぱり(たとえ周囲からはバカップルにしか見えなくても)。
そんなバカップルぶりを書こうと思って頑張ってみました♪
でも、文章に色気がない〜(涙)。
あまりに文章に色気がないので、出来上がった後、なんども手直ししようと試みたところ、「クリアリでは恥ずかしいから絶対にやんない!」と言っていた、キスシーンの描写が少しだけ生々しくなりました(笑)。
そして諦めました。文章に色気がないのはいつものことながら、これ以上書くと、本当に15禁をつけたくなるからっ!
何よりも自分が恥ずかしいからっ!!
────こっそり。
今、脳内に浮かんだバカップルコネタは、「結婚後、毎日アリーナの基礎体温を測るクリフト」っていうのなんですが……(笑)。あんまりにもネタが……ねぇ? そのうちSSSとかにアップしてたらごめんなさい。