「英雄って……どういう人なんだろう?」


 その疑問は、サナに会うまで、ずっと心の中で抱いてきたことだった。
 グラスランドで、英雄と言えば「炎の英雄」──50年も前に活躍したその人のことは、ルシアやビッチャム、ルースやジンバたちから聞いて、伝承のような形で伝え聞いてはいる。
 真なる紋章をその身に宿し、グラスランドを征服するためにやってきた強大な国、ハルモニアを相手取り、一歩も引かず……何よりも、グラスランドを一つに纏め上げたという、その敏腕。
 シックスクランに分かれた今のグラスランドが、バラバラに存在しながらも、それでも確固たる協力体制がしかれているのは、あの当時に「炎の英雄」が、一つに纏め上げたからだと言われている。
 そんな功績を残した英雄は、たくさんの大人たちの口から語られる。
 炎の守り手、炎の英雄──誰もが口にする言葉の中に、英雄の「名前」はなかった。
 そしてヒューゴは、その事実に、まるで気付きはしなかった。
──あの日。
 あの運命の日……ヒューゴが紋章を左手に宿すことになった、あの日。
 洞窟の中で。

「私が愛した人は、英雄なんて言う、知らない人じゃない。……私は、アルトという、ただ一人の男を愛した。」

 年月を経ても尚。褪せぬ思いを刻みながら、微笑むその女性の言葉に。
 ヒューゴは、密かに衝撃を受けたのだ。
 「炎の英雄」。
 50年前まではたしかに存在したその人は、今もなお、語り継がれている。
 語られるうちに、尾ひれはひれがついてしまうのは仕方がないだろう。
 けど。
 語られる中に、「英雄の名前」がなかったことが……ヒューゴには、少し、衝撃だった。
 それからだ。
 「英雄」というのは何だろう?
 そんな疑問を──解けない疑問を、胸に抱くようになったのは。
 「炎の英雄」を継いだから、ヒューゴも英雄になれるわけではない。
 ヒューゴはまだ何もしていない。ただ、英雄の持っていた紋章を、手に宿しただけだ。
 それを言うなら、ゲドなんて英雄とともに活躍したその人だし、クリスは英雄の片腕であった男の娘で、その紋章を引き継いでいて──更に言うなら、ゼクセンの銀の乙女なんていう英雄だ。
「英雄って、なんだろう?」
 俺は、どういう英雄を目指せばいいのだろう?
 青々とした空を見上げながら──ゆっくりと風に流される白い雲を見上げながら、ふとそんなことを思う日が増えた。
 英雄。俺がなりたい英雄。
 この左手に紋章を引き継いだときには、確かにビジョンとして眼の前に浮かんだ気のする「英雄」。
 けど、その一瞬のひらめきが、ずっと脳裏に残っていてくれるわけではなく──今現在、「元英雄の片腕の一人」と、「ゼクセンの銀の乙女」なんていう人物達と対等に渡り歩かなくてはならないという、精神的に厳しい状況下で。
 ヒューゴの眼の前には、さまざま時代の節目に現れる「英雄」の名が、次々に姿を見せてくれるのだ。
 例えばソレは、集まってくる仲間達が持ってくる噂の一つであったり。
 例えばソレは、集まってくる仲間達とルシアたちが交わす会話の中であったり。
 ──例えばソレは、ビュッデヒュッケ城の興味深い文献が納められている図書室の中の本であったり、各地に散らばっていた劇の台本そのものであったり。
 たくさんの英雄が、そこには描かれているけれど。
「でも、みんな、名前がない英雄ばかりだ。」
 どんな人だったんだろう。
 彼らも、悩んだり、苦しんだりしたのだろうか? ──するよな、英雄だって、人間なんだから。
 目を閉じて、青い空を遮断して、ヒューゴは頭の中で、ビュッデヒュッケ城に来てから知った英雄の名前を繰り返す。
 その中には、このビュッデヒュッケ城に居る人間が実際にあったことがあるという英雄の名前もいくつかあった。
 ヒューゴが生まれる直前に起きていた戦を制した「英雄」の名前だ。
 ルシアが、決してその「英雄」を、ほかの人々と同じように「英雄」なんて呼ばないから、ヒューゴはその人のことだけは、名前を知っている。
 しかも、 最近見つけてきた台本の一つに、その名前がキチンと記されていた。
 そのおかげで、今現在、ヒューゴが知る過去の英雄の「名前」は、3つ。
 炎の英雄である「アルト」と、ジョウストンの英雄である「リオ」──もっともこの名前だけは、ルシアが「英雄」と呼ぶのを嫌って、リオと呼んだからと言う理由もあるのだが──。
 そうして。

 つい先日、このビュッデヒュッケ城にやってきたばかりの「ひと」の、名づけ元となったらしい──「トランの英雄」の。








HONEY LIFE - Herf Time

H O N E Y   B O Y

*堕楽園にある「HONEY LIFE」な設定を引き継いでます*


















 数日前にブラス城の宿場町の近くで知り合った……わけアリの過去がありそうな少女「スイ」。
 ──いや、正しくは少女ではなく、「少年」なのだが……その事実は、未だにビュッデヒュッケ城内には、あまり知れ渡っていないため、ほとんどの人はスイのことを未だに少女だと思っている。
 そのスイの名前の由来は、グラスランドからはるか南の地──トラン地方で、「トランの英雄」と呼ばれている「英雄」らしい。

──かの人の名は、スイ・マクドール。

 20年近くも前、この地からはるか南方に位置する巨大な帝国を、内側から切り崩し……新たな国を築き上げた人。
 ビュッデヒュッケ城の酒場にある劇場で、時々催される劇の中にも、かの人を扱った題材があるから、ヒューゴもそれなりに話は知っている。
 若くして軍主と言う名を手にしたその少年のことは、今でも「トランの英雄」と呼ばれ、慕われているのだという。
 当時は、近隣諸国でもひどく噂になり、吟遊詩人たちはこぞってその英雄のことを歌ったのだという。
 そしてその声を聞いた人々は、英雄の恩恵にあずかろうと、自分の子供に、こぞって「スイ」と名づけたのだと言う。
 凛々しく、強く、たくましく──立派に。
 今から15年後に生まれたジョウストンの英雄の名前と違い、【スイ】という名前は、男にも女にも使えたから、スイと名づけられた子供は、実に10人に1人と言われていた。さらに、そのまま名づけたのでは芸がないと思った親が、スイの名前を冠したりもじったりしたという事実まで入れると──その年生まれた子供の過半数が、「スイ」にちなんで名づけられたというのは……実に信憑性の高い噂であるという。
 だから、ヒューゴと同じ年代の子供が、「スイ」という名を持っているのは、特に珍しいことではないのだ。
 今、ビュッデヒュッケ城に居る「スイ」も、年頃から判断するに、そのうちの一人だろうと、ルシアはつまらなそうに教えてくれた。
 くだんの英雄はというと──20年も前にトランを去り、現在も行方不明だという。
 そうして、その世代を生きてきた大人たちは、自分の子供たちが「スイ」と呼ばれるたびに、今はどこに居るのか分からないトランの英雄を思い出すのだと言う。
──それは。
「スイ、ねぇ……。名前が気に食わない。」
 はぁぁ、とイヤミったらしく眼の前で溜息を零している、ヒューゴの母にしても──同じこと。
「名前が気に食わないって……、母さんは別に、その……トランの英雄だったっけ? その人に会った事はないんだろう?」
 一体、何度顔をあわせるたびにこの台詞を吐かれるんだろう。
 憮然として、ヒューゴは右手に持った湯飲みを傾けながら、ルシアに批難の口調で問いかける。
 そんな息子に、ルシアは軽く眉をそびやかすと、
「誰が会ったことがないなんて言ったのさ?」
 ふん、と不快げに鼻を鳴らす。
 刻まれた眉間の皺はひどく濃く──その理由を知るビッチャムは、ルシアの背後で小さく苦笑いを刻むばかりだ。
「……会った事あるの!?」
 驚いたように目を見開くヒューゴに、ルシアは温かな湯気の出ているお茶を口に含みつつ、鷹揚に頷いて見せた。
 その渋い顔は、答えたくないと言っていたが──ヒューゴの、純粋な好奇心の宿る目を認めて……諦めたように溜息を一つ。
「会ったっていうよりも……、戦ったことがある、って言うのが本当だろうね。」
「……ぇ、母さん、トランに行ったことなんてあったっけ??」
 確かルシアは、ジョウストンまで行ったことがあるとは言っていたが、その更に南に行ったことは無かったはずだ。
 そう言外に問いかけるヒューゴに、ますますルシアは渋い顔になったが、諦めたように、あっさりと真実を口にしてみせた。
 どうせ出し渋っても、ビッチャムもルースも知っていることだ。
 何よりも、竜騎士の「ぼうや」や、軍師の「おじょうちゃん」に聞けば、渋ることもなく教えてくれるだろうことだから──他人の口から、自分の敗戦の話をされるくらいなら、自分の口から息子に話しておいたほうがまだマシだ。
「トランじゃなくって、ジョウストンでね……。
 あのトランの英雄は……、デュナン統一戦争中に、──リオの味方をしていたから。」
 それで、ね。
 そう呟いて──ルシアは少しだけ目を伏せる。
 白い面差しの……漆黒の髪をした、不思議な色合いの瞳を持つ少年。
 彼に一度だけ、右手の紋章をかざされたことがあった。
 あの瞬間、言い知れない悪寒と恐怖に身をさいなまされた自分を、ビッチャムがとっさに庇ってくれて居なかったら、あの恐ろしい……漆黒の闇の攻撃をまともに受けていたに違いない。
 あの闇に飲まれたらどうなるのか──、今、思い出すだけでも、寒々しい。
 ブルリ、と震えた体に、熱を取り戻そうとするかのように、ルシアは湯飲みを一気にあおった。
 熱いお湯がゴクゴクと喉を通っていくのを、他人事のように感じながら、ルシアは、ふぅ、と一心地をついた溜息を零した。
 リオの話は、時々ヒューゴにしてやっている。
 あの、馬鹿が付くほど天真爛漫で、馬鹿が付いているとしか思えないくらいにまっすぐで、馬鹿がついてて当たり前なほど最後まで純粋であり続けた少年。
 自分が主と認めた少年とは、一枚の紙を隔ててすれ違うほどに近くて──けれど、その一枚の紙を間に、背を向け合っているような関係だった…………「気に食わない英雄」。
 彼のことをほめたことは一度もない。
 けれど、もし──褒めることがあるとするならば。
 ……あのどす黒いトランの英雄を、味方につけれる無邪気さくらい──。
 そう思う程度には、ルシアは「スイ・マクドール」がもつ陰の濃さを理解している。
 正直な話、二度と係わり合いにはなりたくない相手だ。
「……ん、まぁ、いくら同じ名前だからって、中身までもが同じとは限らないんだろうけどねぇ……。」
 それでもやっぱり、「スイ」や、「リオ」という名前を聞くと、拒絶反応を起こす。
 空になった湯飲みをルースに渡しながら、憮然として呟いて、ルシアは息子に視線をやった。
 そこでようやく、ルシアはヒューゴから何のリアクションも返ってきていなかったことを思い出した。
 仮にも、「英雄」が二人手を結んだ事実がある、──と言っているのだから、少しはなんらかの反応を返してもいいのではないかと、いぶかしげに視線をやった先では。
「…………スイ・マクドールと、リオ将軍、か…………。」
 なぜか──遠い昔、ルシアとジンバに向かって、「寝る前にほのおのえいゆうのお話して!」と、ねだっていたころのような輝く光を、瞳に宿していてくれて。
 そう、その表情を表現するならば、「キラキラ目を光らせた、好奇心と興奮」の表情というか。
 イヤな予感に駆られたルシアに、愛息子はというと、
「母さん、俺、ちょっと図書室に行ってくるから!」
 ひらりと身を翻すと、あっと言う間に部屋から飛び出して行き──ルースが新しい茶を入れて戻ってくる頃には、もうすでにその姿はなかった。
「……おやまぁ、ヒューゴは、あのスイちゃんのところに飛んでいったのかねぇ?」
 ノンビリと恰幅の良い体を揺らしながら座り込むルースの手から湯飲みを受け取って、ルシアは憮然としながら、
「近いうちに、真剣にそのスイという子を見てみないといけないね……。
 名前に似合ってない子だったらいいんだけどね。」
 忌々しげに──ようやく一人前の戦士になったばかりだと思ったのに、もう色恋ことかい、と吐き捨てた。
 ルシアの背後では、ビッチャムとルースが、「族長だって今くらいの年齢から……」と目で語ってくれたが、当然ルシアはそれを無視して、温かなお茶を啜るのであった。












 身近にいる「ゼクセンの銀の乙女」や、「炎の守り手の一人」ではない、「英雄」。
 その英雄たちは、自分の身に課せられた運命を、乗り越えていった人たちだ。
 いわば、「炎の英雄のタマゴ」になったヒューゴにとって、先駆者に当たる者達。
 彼らがどのような軌跡を残し、どのようなことをしたのか。
 ……今更ながらに、時代の節目節目に現れる「英雄」たちのことが、気になった。
 自分が追っていた炎の英雄だけではなく──この世界には、「百八星」を導いてきた英雄が、まだ、たくさん居るのだ。
「スイの名前の元になった英雄かぁ……。」
 50年前の炎の英雄の資料は、外に知れ渡っているのと同じような内容しかないということは、一度ココを訪ねたときに、アイクから聞いて知らされてはいた。
 ヒューゴだって、ジョウストンとトランの英雄のことは知っている。しかも知っているという理由も、ルシアからデュナン戦争のことを聞かされていたからとか、この間の劇の台本で名前を知ったとか……そういうことばかり。
 炎の英雄のことは、ゲド……に聞いても教えてくれないかもしれないが、サナに聞けば、彼女はさまざまなことを教えてくれるだろう。
 ──けど、炎の英雄の生き様は、自分の参考にはならない。
 俺は、炎の英雄を継いだけれど……彼のようになるつもりはないのだから。
「せっかく、時代的に近い英雄がほかに二人も居るんだし……、調べてみても、悪いようにはならないよな。」
 うん、と自分に言い聞かせるように頷いて、ヒューゴは図書館に足を向けた。
 確か、この間ゲドさんが見つけてきた「ふるいほん」に、トランの歴史とジョウストンの歴史が描かれていたような気がする。
 あれを見れば、載っているかもしれない──自分と年の変わらない少年が巻き起こした「英雄譚」。
「──……。」
 そう思った瞬間、背筋を駆け上がるようなゾクゾクした期待に心が震えて、ヒューゴは口元に笑みを浮かべた。
 それは──小さい頃、ルシアやジョー軍曹にねだって、寝物語にしてもらっていた「炎の英雄」の話を聞くときの興奮に似ていた。
 母譲りの目がキラキラと輝き、ヒューゴは抑え切れない興奮に、足取りが軽くなるのを覚えた。
 その気持ちを引きずったまま、図書室の扉を開き──ツン、と鼻を刺激する独特の香りに、軽く眉を寄せる。
 人々の雑多な気配が溢れるほかの部屋とは、まるで別世界のような静けさが支配する……かすかな湿気と、遠く聞こえるざわめきの音。
 ヒューゴは、その空気に浅く深呼吸を繰り返して、キョロリと辺りを見回した。
 部屋の天井にまで届く高さの本棚が、所狭しと並ぶ中に紛れ込むように、ヒョロリとした背の男が1人、景色に埋没するように立っていた。
 探している本があるなら、こちらに背を向けている図書室の主とも言える男に聞くのが一番早い。
「アイクさん、ちょっと探して欲しい本が……。」
 声をかけながら、隣のスペースに向けて、ヒョイ、と顔を覗かせた途端。
「──……アレ、ヒューゴ?」
 思いもかけない──この場に居るはずのない人物の声が、アイクから聞こえた。
 一瞬、驚きのあまり息が詰まって──跳ね上がるように見上げたアイクの横手……ちょうど彼の影になる場所から、ヒョイ、と顔を覗かせたのは、つい先ほどまでルシアと噂をしていた「スイ」の姿だった。
「ス……スイ!?」
 驚いて声を上げれば、ヒューゴの方に顔を向けたアイクが、渋い表情で口元に指先を押し当てた。
 その仕草の意味に気づいて、慌ててヒューゴは口を掌で覆うと、さらに飛び出そうだった言葉をゴクリと飲み込んで、微笑みを浮かべているスイをマジマジと見つめた。
 スイは、最近ようやく見慣れてきた感のあるミオとお揃いの看護服ではなく、ヒューゴが初めて会った時に着ていたような服を着ていた。
 まさに医務室の天使さながらの微笑を浮かべている時のスイは、どんな美少女と並んでも褪せない輝きを持つ「美少女」に見えると言うのに、旅の軽装に身を包んだ今の姿は、ヒューゴと同じ年くらいの少年のように見える。
「君も、何か本を探しに来たの?」
 柔らかな口調も、桜色の唇に浮かぶ微笑も、いつもと代わりが無いと言うのに、服装が違うと言うだけで、浮かべる表情も口調までもが違って聞えた。
 それが、いつものスイとまったく違う人に見えて、ヒューゴはかすかな戸惑いを覚えながら、スイの問いかけに頷いて見せた。
「あぁ……、ちょっと、トランとデュナンのことを調べてみようと思って……。」
「トランとデュナン?」
 不思議そうに地名を繰り返すスイに、うん、とヒューゴは頷く。
「トランの英雄とジョウストンの英雄が出てくる劇の台本があるんだけど──少し詳しく調べてみようと思って。」
 少し深読みすれば、自分が「スイ」の名付け親とも言える人物のことを気にしているのだと──そう見抜かれてしまうような気がして、ヒューゴはかすかに照れたような表情を見せる。
 そんなヒューゴに気づかず、スイは自然に見えるように視線を伏せる。
 それから、アイクが、あぁ──と本棚に手を伸ばそうとするのを認めて、スイはさりげない動作で彼の隣に手を伸ばすと、並んだふるい本を一つ取り出す。
「……確か、この本に統一戦争のことが書いてあったんじゃなかったっけ?」
 やさしい笑みを浮かべながら、はい、とそれを掲げるスイの手に載せられた本を見下ろして、アイクが、こっくりと頷く。
「そうですね。」
 けれどアイクは、一瞬それに目を落とした後、更に何かを探すように本棚に視線を向けた。
 スイが、かすかに眉を寄せるのに気づかず、ヒューゴもアイクの視線を追うように本棚を見上げた。
 けれど、同じような皮表紙が並んでいるようにしか見えない本の羅列に、ぐぅ、と顔をしかめる。
 アイクの指先は、何かを探すように背表紙の間を揺れているようだが、タイトルすら書いていない背表紙がどういう本なのか、見ているだけではわからない。
 アイクは、その背表紙の中の一冊──深い臙脂色の背表紙のところで、ふと指を止めた。
 極限まで抑えられた窓からの淡い明かりの下、その背表紙はチカチカと光を発しているように見えた。
 目の錯覚かと、ぱちぱちと目を瞬くヒューゴの前で、本棚から姿をみせた臙脂色の皮表紙には、金糸の糸で刺繍が縫いこまれ、ところどころに色とりどりのビーズが貼り付けられていた。
 本の表紙と言うよりは、まるで宝石箱のような様相だ。
「……アイクさん、それは何?」
 目を見開いて、見た事もない形式の本に──クラン以外の場所には、こんな本もあるのかと、興味津々で近づいてくるヒューゴの手に、アイクはその重厚な本を落とした。
「ぅわっ……け、結構、重いね、コレ。」
 見た目よりもズッシリと腕にのしかかる重圧に、ヒューゴは慌てて本を持ち直す。
 少しざらついた感触のする皮表紙からは、独特の香りがした。
「アイクさん、これ──なんて言う本?」
 落とさないように気を付けながら、ぺラリとページを捲ると、レースがヒラリと揺れた。
「──……っ。」
 ビクリッ、と肩を震わせたヒューゴをチラリと横目で見て、アイクは無表情のまま本棚に再び指先を彷徨わせた。
「ふるい本ですと、記述が大まかですから──英雄のことを詳しく知りたいなら、その本をお読みになるとよろしいかと。」
「英雄のことを知るのに……この本?」
 中表紙代わりになっているらしいレースを捲れば、紫色の紙の上に、バラの刻印らしきものが箔押しされていた。
 ふるい本とはまったく違う──装飾華美でしかないその本が、英雄のことを知るのに一番いい本だとは、とてもではないが思えなかった。
 ヒューゴは困惑を隠せないまま、それでもアイクが進めてくれたのだから、少しは読んでみようかと、近くのテーブルに腰を落とした。
 椅子の上に座って最初のページを捲れば、興味をそそられたのか、ふるい本を手にしたスイが、ヒューゴの正面の席に腰を落とした。
「──……劇の台本と言えば──トラン共和国の、ミルイヒ・オッペンハイマーが書いたって言う……『帝国、その愛』──だったっけ?」
 トン、と、手にしていたふるい本を机の上に立てて、スイは柔らかな微笑を見せて、小首を傾げる。
 さらりと零れた漆黒の後れ毛が、透き通るような白い肌の上を滑って、やわらかな色あいを宿す。
 彼がニコリと微笑んだだけで、図書室の中の淀んだ空気が、パッと華やいだ気がした。
 本棚の方を向いていたアイクまでもが、思わず振り返り──その、あでやかな微笑みに視線を奪われるほどの威力。
 ヒューゴが大きく目を見張るのを見つめて、ニコニコと──更に微笑みを深くしたスイは、違った? と、目元を緩めて問いかけてくる。
 その、破壊力がありすぎるつややかな微笑みに、頬から首元──額、そして一気に指の先まで熱が上がっていくのを感じて、ヒューゴはグッと唇を一文字に結んだ。
「──……ぇ、あ……、う、うん。
 誰が書いたのかまでは覚えてないけど、タイトルはそんな感じだった。」
 コクコク、と激しく首を上下させるヒューゴに、スイはにこやかな微笑を保ちつつ、そう、と穏やかに頷く。
──穏やかに見えているだけだと言うのがわかる人物がココに居ないのは、非常に残念なことである。
 もし、アップルやフッチと言った、彼を良く知る面々がココに居たならば、すぐに警笛が鳴らされ、避難勧告が出されているところだったはずだ。
「……ヒューゴ様にお渡しした本は、トラン共和国のミルイヒ・オッペンハイマー著『わが敬愛なるのろわれし覇王』と言う本です。
 あの劇の台本と対になるものとして書かれておりまして、イワノフ氏の挿絵が使われております。」
 コホン、と、小さく咳払いを残して、アイクが机の上に別の本を一冊差し出しながら、装飾華美な本の正体を告げてくれる。
「……のろわれし、覇王……?」
 それはどういう意味だと、ヒューゴがぱちぱちと目を瞬いて問いかければ、スイの微笑みが更に深くなる。
 その微笑の深さに、危機感を覚える人間がこの場に居ないのは、とても残念なことである。
 彼の被った猫は、この十数年のうちに、ずいぶん厚くなっているらしく──「あの頃」は、どれだけ微笑みをもらしていても、黒いオーラが駄々漏れになっていたものだが、今はそうではなかった。
 ──ただ、微笑みが深ければ深いほど、冷ややかな空気が、そこはかとなく室内を満たしていくだけで。
「ええ、噂によりますと、トランの英雄は、真の紋章のひとつ──生と死の紋章という、のろわれた紋章を宿していたそうですから、おそらくはそのことでしょう。」
「……のろわれた紋章………………。」
 その言葉に、軽く眉を寄せたヒューゴが、何かを考え込むように視線を落とす。
 本を掴む左手の甲──そこにまざまざと刻まれた炎を模した紋章を見下ろす視線は、険しく……、辛そうに見えた。
 その紋章に何を見ているのかはわからない。真の紋章を宿すこと事態が、のろわれていると言えば、のろわれている。
 今はまだ、そう感じる経験がヒューゴにはないけれど──この紋章が伝える記憶は、いつも、苦しく、切なく……悲しい想いばかりだ。
 グ、と──その記憶を握りつぶすように手のひらに力を入れたヒューゴを、アイクは無言で見下ろした。
 それから、アイクは、コホン、とわざとらしく咳払いをすると、先ほど自分が置いた藍色の背表紙の本を指先でつついて、
「それから、こちらは、ティント共和国のマルロ大臣著『誇らしき薫風王』です。
 ジョウストンの英雄、リオ殿の事に関しては、彼のこの本が一番詳しく乗っております。」
 実際、マルロ大臣は、あの戦争に参加していたらしいですからね、と──そう続けて、アイクはヒューゴ達に背を向けて、再び書庫の整理に戻った。
「……ありがとうございます、アイクさん。」
 ヒューゴは苦笑を刻みながら、その「誇らしき薫風王」という題名であるらしい本を、手元に手繰り寄せた。
 そうして目の前に、二冊の本を置いて──さて、どっちからみようかと、首を傾げる。
 正直言えば、目の前で華やかに微笑んでいる「スイ」の、名前の元になったという「英雄」の方にこそ、興味がある。──特に「のろわれた覇王」などと言う、意味深な名前で呼ばれていたのなら、余計に。
 けど、目の前にその人が居る前で、堂々とそれから手を付けるのも、なんだか気恥ずかしくて──ヒューゴは、気になる臙脂色の表紙を蓋して、藍色の本を手に取った。
 そして、表紙を捲ったところで、
「リオのことなら、ヒューゴのお母さんや、アップルやフッチに聞いた方が、詳しくわかるんじゃないの?」
 見るともなしに古い本をペラペラと捲っていたスイが、意味深な表情で、視線をあげて問いかけてきた。
「──……ぇ。」
「だから、ヒューゴのお母さん──ルシアさんは、リオと戦ったことがあるんだろう?
 それから、アップルとフッチは、リオの仲間だった。……なら、彼らに聞いたほうが、いいんじゃなかな、と思って。」
 ペラペラ、とページを捲り──スイは、そこに記述されている一点で目を止めて、ス、と視線を細める。
「あ、あぁ……そのふるい本に載ってました?」
 当時のカラヤが、グリンヒルと敵対していたのは、調べればすぐにわかることだ。──それが故に、カラヤの族長となったばかりのルシアが、ハイランドの手勢の一人として、ジョウストンの新同盟軍リーダーと戦ったということも。
 ルシアはその時のことを、時々話してくれたけれど──ルシアの話には、彼女の主観が入りすぎていて、「リオ」という英雄は、英雄と言うよりも、ラッキーマンのようにしか聞えなかった。
「それはそうなんだけど──俺が知りたいのは、なんていうか……、リオっていう人の素顔とかじゃなくって、英雄としてのその人のことだからさ。」
 だから、ルシアやアップル、フッチに聞いて知る話とは、少し、違う。
 なんて言ったらいいのだろうと、カリ、と下唇を噛みしめるヒューゴに、スイは納得したように頷く。
「──……あぁ、英雄としての、偶像と言うこと?」
「……偶像…………。」
 その表現に、驚いて軽く目を見張ったヒューゴに、スイはごく当たり前のように頷いて返し、ふるい本をパタンと閉じる。
 それを脇に避けて、ヒューゴの前に置かれた派手な本を自分の手元に引き寄せると、臙脂色の皮表紙を開く。
 ヒューゴが見て取った紫色の中表紙には、バラの箔押し以外にも、「どこぞのナルシスト貴族」の家紋までもが透かしで入っていて、スイはあきれたようにそれを指先で軽くはじいた。
 ──後でモデル料をせしめに行くとして。
「ヒューゴが知りたいのは、英雄の……いや、リオやスイの素顔ではなく、彼らが英雄としてあがめられていた姿だって言うことだろう?」
「……あがめられていた、っていうのはどうかわからないけど……でも、それに近いかな。」
 笑おうとして──でも笑えなくて、ヒューゴは視線を落として、藍色の表紙の本を見つめた。
 ほんの数ヶ月前まで、ヒューゴは英雄に憧れ、一人前の戦士になろうとする、ただの子供に過ぎなかった。
 もちろん、母がカラヤの族長であることから、他の子供達よりも厳しく育てられた自覚はある。──けれど、戦いの只中に比べたら、ずいぶんと自由な雰囲気があったのも確かだ。
 そんな中で──再び争そいが起きて、その争そいの火種が、互いではない第三者にあると知って……英雄を追い求めて、あの地に集い──────、そうして。
 亡い英雄の代わりに立ち上がらなくてはならないと思った時にはもう、左手に真なる火の紋章を宿していた。
 あの場に居た、ゼクセンの英雄でもなく、炎の英雄の片腕であった男でもなく──ただの、カラヤの少年に過ぎない自分に。
 英雄になれて、嬉しいと思う気持ちはある。無いとは言えない。
 けれど──それよりももっと重い重圧でもって、「英雄」と言う名がのしかかる。
 自分が知っている英雄は、「炎の英雄」と呼ばれた、偉大なる炎の導き手くらいのものだった。
 つい先日までいさかいを起こしていた二つの種族をまとめあげる「英雄」としての──「箔」がほしかった。
 けど、まともな戦を一つもこなして居ないヒューゴは、正直な話、何をどうしたら「英雄」らしくなれるのかわからなかった。
 さらにその上、いろいろな英雄の話を耳にして──余計に、どうしたらいいのか、わからなくなった。
「とにかく、どういう人が、英雄って呼ばれる人なのか──……そういうのを、知りたいんだ。」
 自分と同じ年頃に、たくさんの人を集わせ、彼らを統率したリーダー。
 カリスマの覇王と呼ばれ、英知なる青年王と呼ばれ──そうして、今も周辺諸国に名をとどろかせる英雄達の、「英雄」としての顔。
 今、ヒューゴが知りたいのは、そういう顔だ。
 どういう人が、「英雄」と呼ばれていたのか──知りたい。
 グ、と、本を握る手に力が篭るのを感じながら、ヒューゴは無言で中表紙を見つめた。
 簡素な白い紙が挟まれただけのソレは、先ほど手にした本よりもずっと地味で質素で──けれど、どことなく荘厳めいた雰囲気がした。
「それで、調べて──ヒューゴは、どういう英雄になろうか、決めようとしたんだ?」
「──……っ!!」
 とっさに、顔を跳ね上げた。
 視線を上げた先で、スイはかすかなとげを含ませた言葉を吐いたとは思えないほど、穏やかな、やさしい微笑を浮かべていた。
 何も知らない人が見たら、ヒューゴをいとしげに見つめているようにすら見えたかもしれない。
 けれど、彼が口にした棘を確かに感じたヒューゴには、その微笑が──ジクリ、と、にじみこむ毒のように感じた。
「そ、れは──。」
 ジクジク、と、毒がしみこむような──そんな痛みが肺に走る。
 息を付くたびに、ずくん、と痛む痛みに、ヒューゴは知らず唇をわななかせた。
 スイは、そんな彼に優しい微笑を広げながら、
「僕はね、ヒューゴ。──誰かの生き方に口を挟めるほど、偉い人でもなければ、人生経験が豊富なわけでもない。」
 そう口にして微笑むけれど、その微笑と瞳に宿った光そのものが、その言葉を裏切っているような気がした。
 スイは、緩く首を傾げて、ヒューゴを見上げるような仕草で、ますます微笑みを深くする。
「けれど、これだけは言えるよ、ヒューゴ?」
「──……スイ?」
「英雄は、自らなろうとして、なるものじゃない。」
 どこか達観したような瞳で、ヒタリ、と見据えて呟かれた言葉は、いつだったか聞いたサナの言葉に、良く似ていた。
 ──そんな気がした。
 思わず、ゴクリと喉を上下させたヒューゴに、スイは少しだけ自嘲じみた笑みを浮かべる。
「……なろうとして、英雄になった人は、逸物だね。
 ──けれど、ほとんどの過去の英雄は、皆、英雄になろうとしてなったんじゃない。」
「なら──なぜ英雄になったんだ?」
「守りたい物を守っただけ。」
 少し身を乗り出すようにして、問いかけてくる真摯な瞳に、スイは目を細めるようにして答える。
 端的に、答えを一つ。
「──そうしたら、名声と名誉が後から付いてきた。
 求めていても、求めていなくても、英雄と言う名は、自分で付けるものじゃなく──、それを見てきた人々が、そう勝手に評価するだけ。」
 つまらなそうな口調で……けれど、その奥に何か見えないものを隠し持ったような口調で、スイは微笑みながら手元の本を、パタン、と閉ざす。
 そして、手のひらを伸ばして、ヒューゴの前に置かれた本の上に手を置くと、机に覆いかぶさるように視線だけをあげて、笑みを深くしてみせた。
「ヒューゴ……君が、娯楽としてこの本を読むというなら、僕は止めない。
 でも──英雄としての指標を求めるというなら、これは読まないで。」
「スイ……。」
 ヒューゴが視線を本に落とさないように、ヒタリとヒューゴの目を見つめて、スイは中表紙に置かれた彼の手に、自分の手を重ねた。
 少しだけヒンヤリとしたスイの手が、かすかに震えるヒューゴの手を慰めるように表面を撫で上げた。
「ヒューゴが、ヒューゴらしくあるから、その紋章は君を選んだのだと思う。──その紋章に宿る、アルトの遺志が。」
「……………………。」
「だから、ヒューゴ。
 難しいとは思うけど、君は、君の英雄を目指せばいい。」
 ぴくん、と、ヒューゴは指先を震えさせて、戸惑うように瞳を揺らす。
 スイは、ヒューゴのその指先に自分の指を絡めて、ね? と、微笑む。
 柔らかな──柔らかすぎる微笑に、思わずヒューゴは、彼から視線を逸らす。
 ツイ、と下ろした視界に、小麦色の自分の手の甲に重なった手が見えた。
 とたん、なぜか、喉が熱い感触に襲われた。その感覚が、一気に瞼裏まで駆け上ってくるのを覚えて、ヒューゴは、グ、と唇を噛みしめる。
 スイの柔らかな視線が、自分の顔に注がれているのがわかる。
 その視線は、決してヒューゴを責めているものではない。──なのに、なぜか、その視線が痛くて。
「──……、って……。」
 堪え切れず、ヒューゴは、小さく──搾り出すように声を漏らす。
「ヒューゴ?」
 促すような優しい声で名前を呼ばれて、何かを考えるより先に、拳を握り締めていた。
「……だって──……それを……どうしたらいいのか……、わからないから………………。」
 気づいたら、そう──呟いていた。
 それと同時、ドッ、と後悔が押し寄せてくる。
 しまった、と、心からそう思った。
 今の言葉は紛れもなく、「弱音」だったからだ。
 左手に宿る紋章を宿してからずっと、「英雄」としてあろうと、そう振舞ってきてずっと──一度も、口に出していない、自分の心の弱みだ。
 英雄となった以上──炎の英雄の名を継いだ以上、弱みは、決して見せてはいけないものだと思っていた。
 だから、母にも、軍曹にも……誰にも、この心の震えは、見せたりはしなかった。──気づいていたとは思うが、彼らもまた、それに触れることはなかったし、見て見ぬ振りをしてくれていた。
 この問題は、ヒューゴ自身が、自分の手で解決しなくてはいけないことだと、わかっていたからだ。
 戦いを繰り返すうちに、きっと答えは自分の手で掴み取ることが出来るのだと、そう思っていたのに──なんで俺、こんなところで、スイ相手に、こんな弱音を吐いてるんだろう。
 首を落として、キリリと唇を噛みしめ、手のひらに爪を食い込ませるヒューゴを和ませるように、スイは彼の手の甲を撫でて──それから、少しためらった後、右手の平で、ヒューゴの左手を握った。
「英雄になろうと思うから、わからないんだ、ヒューゴ。
 人は、英雄になりたくて英雄になるんじゃない。──人が、英雄を作り出すんだ。
 だから……君はただ、君のあるがままに──君らしく、あればいいんだと思う。」
 そこで一度スイは言葉を区切って、目を閉じて、何かを思い返すように沈黙した後──ゆっくりと、ヒューゴの顔を見つめる。
 まだ英雄ではない……けれど、英雄に選ばれた人を。
「そうすれば、未来、君は英雄と呼ばれるかもしれないし、呼ばれないかもしれない。
 ──でも、それならそれでいいじゃないのかな?」
 …………英雄と呼ばれた人が、皆、幸福なわけじゃない。
 その言葉を、あえてスイは口にせず、彼を安心させるように微笑を広げて見せた。
「君が英雄と呼ばれる日が来るのなら、それはきっと、君のあるがままの姿を、人々が英雄と認めた時なんだと思うよ。
 ……うん、だから、難しい事なんだけどね。
 ヒューゴは、英雄を目指すとかそういうのを考えないで、ただ、自分が守りたい物を……貫きたい信念を、貫けばいいと思う。」
「……守りたい物、……信念。」
「そう。──、一番難しいのは、それらを、最期まで守り抜くこと。
 でも、それを達成した人間は……英雄にしろそうではないにしろ、賞賛に値する。」
 噛み締めるように口の中で呟いたヒューゴの言葉に、ゆったりとした動作で頷いて、スイはやさしい笑みを浮かべると、ヒューゴの手を握る手のひらに力を込めて──ギュ、と、握り締めながら、
「だから、ヒューゴには──そんな『英雄』になってほしい。」
「……………………。」
「一国の英雄だとか、部族の英雄とかじゃなくてもいい。
 ──たった一人の英雄でも……いいんじゃないかな?」
 微笑んだスイが言った言葉は、たぶんきっと──「自分自身の英雄」と言う意味だったのだと思う。
 けれど、目の前で柔らかに……華やかに微笑むスイの顔を見ていると、それは──少しだけ、違う意味に聞えた。
「……俺の、信念。」
「うん。──僕が言えるのは、それだけ。
 ……英雄なる道は、人それぞれだからね。──ただ、その一番大切なものを見失ったら、意味は無い。」
 見下ろした視線の先に、スイの皮の手袋が見えて──ヒューゴは、口元に笑みを刻んで、うん、と一つ頷いた。
 それから、彼の手のひらを避けるようにして、自分の手をずらすと、スイが小首を傾げた。
 ヒューゴは、そんな彼に、少しだけ笑いかけて……開きかけた藍色の背表紙の本を、パタン、と閉ざした。
「ヒューゴ。」
 呼びかける声に、うん、と、もう一度頷いて──それから、照れたように笑って、
「これ、は。──全部終わってから、読む。」
 そう言った。
 そう呟くヒューゴの表情は、図書室に入ってきた時よりも、ほんの少しだけ明るく──吹っ切れたように見えて、スイは、そう? と、淡く微笑みかけながら、自分の手を手元に引き寄せた。
 そうして、両手を組み合わせて、頬杖を付きながら、
「それじゃ、全部終わったら──僕も、とっておきの英雄の話を、君にしてあげるよ。」
「……とっておき?」
 目元を緩めて、ニッコリと微笑むスイに、ヒューゴはぱちぱちと目を瞬く。
 わざわざそういうからには、今広げていた本の「英雄」ではないのだろうと、そう見当を付けて視線で問いかければ、スイはそれに鷹揚に頷いて──、
「うん。僕の英雄。
 ──百戦百勝と呼ばれた一人の男の、ね。」
 ちょっとだけ懐かしそうに……少しの悲しみをたたえて、そう呟いた。
 そんなスイの表情と、表現しがたい「英雄」の表現に、ヒューゴはそれ以上何も聞けなくて──、無理やり浮かべた微笑を口元に浮かべて、コクリ、と頷いた。
「──……楽しみに、しておくよ。」
 そう答えながら──目の前の麗人は、本当に底が知れないと……そう、苦く思わずにはいられなかった。











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リクエストありがとうございました〜。
2年もお待たせして申し訳ありません──それはつまり、HONEY〜開始から3年が経過したのだと言うのと同じこと……うぅ……;


ホノボノを予定していたのですが、ずいぶんシリアスちっくになりました。


時期的には、ヒューゴやベル達にスイが「男」だとばれて、まだ英雄だとばれていない辺りです。
ちなみにヒューゴは、自覚アリ、でお願いします。