英雄
──SIDE2──

2主人公:リオ










 吸い込んだ空気は清冽で心地よい。
 大きく深呼吸して、青年は閉じていた目を開いた。
 その目に飛び込んでくるのは、柔らかな木漏れ日──青い空が、はるか高い地点で、重なり合った葉の向こうに見え隠れしていた。
 鼓膜を優しく響かせるのは、何種類もの鳥の声。
 合唱しているかのようなそれらは、静かな森の中に、幾重にも重なって響いていっていた。
 どこかの神聖な森の中に居るようだと、青年は瞳を緩ませた。
 もう日も高いというのに、高い木々が密集するこの森は、ところどころに木漏れ日を落とすだけで、少し薄暗い。
 それでも、圧迫感を感じさせないのは、森全体に動物の気配が満ちているからだろう。
 優しい木々の香りに包まれたこの森は、故郷を思い起こさせる。
 自分たちが暮らしたあの家の近くにも、こんな風に高い木々に囲まれていたのに、優しい光を落とし続けていたのだ。
 夜になれば、あの葉の隙間から、月の明かりが舞い降りてくることだろう。幸いにして、先日満月が過ぎたばかりだったから、夜になってもこの森を抜けられなかったとしても、足元の光に困ることはないだろう。
 困ることは、ないだろうけど。
「────……森を抜けたからって、今の状況が変わるわけじゃないんだよねー。」
 能天気に呟いて、彼は空を仰ぐ。
 人の気配のないこの森は、鳥の鳴き声が響くばかり。
 その、何の変哲もない森の天井を見上げながら、青年はさてどうしようと、顎に手を当てて首をかしげる。
 落胆した様子も無ければ、ひどく切羽詰っている様子もない。
 ただ、森の中に居て、これからどうしようかな、とのんきに考えているようにしか見えなかった。
──実際は、そう能天気に言っていられるような状況ではなかったのだけど。
「今の状況っていうと──荷物も何も無い状態で、どこかわからない場所に放り出された……この状況のことだよね?」
 青年に、呆れたように尋ねたのは、彼の旅の相棒の青年である。
 スラリとした体つきと、線の細い端正な容貌がハッと目を引く青年だ。
 森の中でこうしてたたずんでいる姿は、まるで一枚の絵のように様になっていた。
 ただし、その絵のタイトルは決して、「遭難者」である現状とは相容れない物がつけられるに違いなかったが。
「うん。まだ森は抜けてないけど、もし抜けたとしても、だいぶまずいことには変わりないかなーって思って。」
 切れ長の目であたりを確かめるように視線を走らせている相棒に、小さく笑いながら青年は彼に答える。
 能天気だと、そういわれても仕方がないけれど、今のこの状況を愁てばかりいては道は開けないのだから、これくらいでちょうど良いんじゃないかな、と彼は思うわけだ。
 確かに、食べるための食料も、飲むための水も──それどころか、生活するのに必要な何もかもが無い、まさに身と武器一つで投げ出されたような状態が、辛くないと言えば嘘である。
 まずこの森を攻略して、表に出なくてはいけないと言うことが一番の題材であったが、そのことに関しては、青年も旅の仲間たちも、ひどく前向きだった。
「食べれるものも、飲むものもすぐに見つかりそうだし──森を抜けるのにどれくらいかかるかわからないけど、ソレは大丈夫そうだよね……僕らは。」
 言いながら、日によく焼けた頬を緩ませて、青年は視線を自分の背後へと飛ばした。
 そこには、同じ旅の仲間である娘が、地面にしゃがみこんでセッセと腕を動かせているのが見える。
 本当なら、自分たちと一緒にココへ飛ばされているはずのない存在だ──何せ、もしものことがあるかもしれないと、彼女には近くの宿で待機してくれと、そう言ってあったはずなのだから。
 なのに、実際「もしも」のことが起きて飛ばされてみたら──なぜか彼女もソコに居た。
 まことに恐るべきは、破壊の魔術師、である。
 そんな、旅の連れの一人である娘は、青年二人の会話を聞いているのか聞いていないのか、こちらを向くことなく必死に労働中だ。
 彼女が何をしているのか……長い付き合いになる青年二人には、簡単に想像がついた。
 とび色の髪の青年の視線につられるように、淡い髪の青年も同じようにそちらへと視線をやった。
 そんな二人の視線を感じたのか、娘がフ、と顔をあげる。
「だーいじょうぶっ! この草も食べれるし、ソッチの木の樹液で喉は潤うよっ!」
 にっこり、と、人懐こい笑顔を浮かべて、彼女は今の今までむしっていた草を高々と掲げた。
 すでに今夜の夕飯に使うつもりなのか、いつのまにか脱いでいた上着の中に、どっさりと草を積み込んでいる。
 木の種類は見てわかる。長く旅をしてきていたから、水がなくなった時にどうすればいいのかも頭に入っているし、食べれる野草や果実については、抜群の自信があった。伊達に貧乏生活と貧乏旅行をしてきたわけじゃないのだ。
 幸いにして、今の季節は食べるものがまるで見つからない冬というわけではないようだ。見回した木々は青々とした葉をフサフサにつけているので、しばらくは草でも食べて生活できるだろう。
「それじゃ、当面の問題は、今夜の食事や寝床でもなく。」
 あの草が、どういう味がするのか……いや、まともな味だったとしても、まともな味で食べれるのかどうか、ひどく疑問が残るところであったが、そのことはひとまず横においておくことにして、淡い髪の青年は軽い微笑を口元に貼り付けた。
「そうよね。問題は、どうやって向こうに行くかだねっ。」
 そんな彼に答えて、とりあえず草を摘むのをやめた娘が、パンパンと膝についた土を払いながら立ち上がる。
 青年二人は、どちらも「どこへ行くかわからない状態」でココへ飛ばされてしまったために、精神的な復活も早かったが、彼女に関しては、「さすが」としかいいようがなかった。
 宿の中から瞬き一つでこのような場所に身一つで放り出されて──それでも、とりあえず昼食のために食べれる薬草を探すわっ、と言い出した彼女のしっかり加減には、舌を巻かずにはいられなかった。
 ──まぁ、それほど度胸が据わるほど、いろいろあった旅だっただけの話なのだが。
「生えてる木とか草の種類、鳥の鳴き声から考えると、多分──デュナン共和国内の、どこかの森の中だとは思うんだけどね……。
 森を出てすぐの場所に町か村があったらいいんだけど──もしなかったら、星の位置から大体の緯度を計算するしかないね。……とは言っても、地図がないから、あまり正確にはわからないと思うよ。」
 三人の中で唯一、しっかりとした勉強の教育を受けてきた淡い髪の青年の言葉に、ふむ、ととび色の髪の青年が頷く。
「どっちにしろ、デュナン国内なんだろ? なら別に、そのまま北を目指して歩けば、そのうちハルモニアに入るか、湖が見えるかしてくると思うよ。
 見慣れた場所に入れば、僕が道案内できるし。」
 それに、森を出た周囲の地形で、大体の位置把握はできるんじゃないかな?
 そう提案する相棒に、そうだね、ともう片方も頷く。
「そうしたら、また北を目指して歩いていけばいいね。」
 この森に来る直前まで居た地へと、前に行った方法を思い出しながら、大丈夫、道はちゃんと覚えているよと、そう淡い髪の青年が言った瞬間、
「ダメよっ!」
 娘が、慌てたように二人に駆け寄ってきて、そう叫んだ。
 え、と、見返す二対の目を、キリリと見上げて、彼女は両手にこぶしを作って力説する。
「ハルモニアを経由して歩いていったら、時間がかかりすぎちゃうわっ! 絶対に間に合わないよ……っ。」
 何に、とは口に出さない。
 出さなくても、二人には通じるはずだ。
「うーん……でもほかに何か方法あったっけ?」
 まさか、空を飛んでいくわけには行かないしねー? と、首を傾げるとび色の髪の青年に、そうだね、と淡い髪の青年も困ったように首を傾げ──ふ、と思い出した。
 自分たちがこれから向かう目的地の近くに、有名な港があると言うことを。
「ああ、それじゃ……船ならどうかな? 確か、港からそう遠くは無いはずだよ。」
「船?」
 異口同音に、そっくりな表情で自分に問い返す姉弟に、うん、と彼は頷く。
「陸路なら一ヶ月はかかるだろうけど、船ならもう少し縮まるはずだよ。わざわざハルモニアを経由することもないから、安全だと思うし。」
 安全、というところで、トントン、と意味ありげに右手の甲を叩く。
 そんな親友の行動に、そうだね──と、もう片方の青年も己の手の甲に目線を落とした。
「じゃ、船かな?」
 普段であれば、ハルモニアをゆっくりとコソコソと旅をしてもかまいはしない。
 けれど今はそういうわけにはいかない。
 時間の予断を許さない理由があるからだ。
 それに──おそらくは心配をしてはいないとは思うが……もう一人の旅の連れと、はぐれてしまっている状態なのも気がかりといえば気がかりだった。
 まぁ、向こうがこちらの心配をしていないのと同様、こちらも彼なら大丈夫だと安心しているのだが。
「──でも、どうやってここから船に乗るの? 結構お金かかるって聞いたよ、船は。」
 川ばかりが多いこの大陸で、主に使われているのは渡し船ばかりだ。
 渡し船では、遠距離は無理だし、かと言って、その地方まで一気に通えるような商船に乗るための旅費はない。──商船に相乗りさせてもらうにしても、それ相応の代価は必要なのだ。
 この森へ飛ばされる前の地点なら──さらに詳しく言うならば、飛ばされる段階で娘が待機していた宿に残してきた路銀を使えば、十分旅費になっただろうが、不幸なことに娘も彼らも、身一つで飛ばされてしまっていた。
 三人は、揃って悩むように首をかしげた。
 ある程度の路銀なら、この森の中で価値のありそうな薬草を摘んで、村や町で売ればいい。
 けれど、船に乗るほどのお金となると──一体どれくらいなのか、今の彼らには検討もつかなかった。
 せめて、もう一人の旅の連れが居たならば、話は違ったのだろうけど。
「うーん──……あ、そうだ。いい方法がある。」
 パチン、と──不意に指を鳴らして、とび色の青年が、パッと明るく頬をほころばせた。
「いい方法?」
 目を眇めるようにしていぶかしげに自分を見上げてくる親友に、彼はニッコリと人懐こい笑みを浮かべると、大きく自信ありげに頷いて見せた。
「うん、そう──とびっきりの妙案だよ。」
 我ながら、いい考えだと……彼は至極嬉しそうに満面の笑みを浮かべた後、
「さぁっ! そうと決まったら、早速この森を抜けようっ!」
 そう言って、まだ不思議そうな顔をする二人に笑って続けて見せた。
 そう──ここがデュナン共和国ならば、自分が使える手段を使えばいい……ただ、それだけなのだと。
 いつもと違って、今回ばかりは、タイムリミット付きの、急ぎの旅なのだから、使えるものはフルに使う。
 それは、旅をする前……ちょうど今から使おうと思っている「人」によって、教えられたことであった。











 デュナン共和国、という、ここ数年の間に改名された国がある。
 首都は広い草原に周辺を囲まれた、見渡しのいい都市……ミューズ。
 民衆により選ばれた初代大統領は、デュナン共和国が名前を変える以前の、一応王制を取っていた──その国王の座につく人間は空位のまま終わってしまったが──「アヴァ国」の重鎮の一人で、名をテレ-ズ=ワイズメルと言った。
 元はグリンヒル市の市長であったが、国民を広くおもんかばる心と、戦争を通して身に付けた決断力、時には非情になりながらも、そのことに心を痛める優しい面を人々から大きく買われて、名誉ある初代女性大統領に君臨したのであった。
 とは言うものの、彼女はもとからの性格上、大統領になったからと言って仕事を他人に任せたり、手を抜いたりできるはずもなく──今では、この国で一番忙しいのではないか、といわれるほどの人物になっていた。
 おかげで、彼女はここ最近、鏡を見るのが非常におっくうになっていた。
 お気に入りの羽根ペンを右手に握り、署名しても、書いても減らない書類の束と戦いながら、フ、とあげた目線の先──ピカピカに磨かれた文鎮にゆがんで映った己の容貌に、ため息が一つこぼれた。
「…………ヤダ……また眉間に皺ができているわ。」
 思わず、左手で眉間に手を当てて、それを揉み解す。
 その仕草が映し出された文鎮に映った顔は、15年前──どこかの執務室で見た誰かの表情によく似ていた。
 と、同時に、この癖を作り出した少年が、「眉間に皺が癖になるよー?」と言って笑っていた顔までもが思い出される。
 その、濃い茶色の髪と、涼しげな瞳を持つ、人懐こい少年の笑顔を思い出すたび、ふ、と胸の内に熱いものとどこか寂しい気持ちとが浮き出してくる。
 それは、あの運命の日──ようやく戦争の終わりを遂げた日の、あの大広間で。
 沸き立つ興奮が、悲しくも冷めていくような気持ちと共に味わった──当時の思い、そのものであった。
 透明感のある輝きを宿す瞳に、ソとまつげを伏せて、彼女は年の兆候が浮き出た唇を苦笑の形に刻み込んだ。
「──今ごろ……何をしているのかしら……リオさまは……………………。」
 グリンヒルをやすやすと落とされた己の身を隠し、一人覚悟を決めかねていた自分の下にやってきた、強い瞳を持つ少年。
 逃げていては、何も始まらない──そう、自分に言い聞かせるように呟いた少年。
 彼が、戦争の最後に見せた決意のような色を、今もありありと思い出せる。
 あの光を思い出すたび、自分はまだ大丈夫だと、そう思い続けてきた。
 自分はまだ、最後まで踏ん張っていない、と。
 そうして……今の自分が居る。
 テレーズは、ふと上半身を引くようにして、机の中引き出しを開いた。
 縦に浅く、横に広く取られた引き出しの中は、彼女の性格を示すように丁寧に片付けられていた。
 その中におかれたファイルを取り出し、中から手紙を取り出す。
 上質な紙に見慣れた字が書かれた「旧友」からの手紙だ。
 何がどうなったのかはわからないが、とりあえず今はゼクセンとグラスランドの中央にある、「私が貸し出し中」になっている城に滞在している、と言う旨が書かれていた。
 彼女からの律儀な手紙は、あちらに放っている偵察人よりも詳しく、そして時間差もそれほど大きく隔てているわけではなかった。
 おかげで、グラスランドの現状がよくわかる。
 よくわかるからこそ──、
「……今、リオさんは、グラスランドに向かっているのね────。」
 「旧友」からの手紙の下──つい先日の「お伺い」に関する返事が書かれた、アヴァ国の元宰相からの手紙を開く。
 相変わらず敏腕を振るっている商人は、同時に多くの情報を扱っていて──彼は時々、自分に当てた手紙に、親切心からなのか、「彼」の情報を小耳にはさむとこうして書いてくれる。
 金髪の棒使いと、とび色の髪のトンファー使い、三節棍使いの娘──と言えば、確かに彼らしか居ないだろう。
 その3人組が、グラスランドに向かうと言って、ハルモニアとの国境を越えたのだという知らせが、一ヶ月前の日付。
 それなら、何か起きてさえいなければ、無事にグラスランドの領域に入っているはずだった。
 無事だったらいいけれど──そんな思いをこめて、テレーズが祈るように目を閉じた瞬間であった。
 ドタドタドタドタ……っ!
 そんな、荒々しい足音のような騒音が、耳に届いたのは。
 ハ、と顔をあげ、テレーズは眉をしかめる。
 ミューズの元市庁舎にあたるこの建物は、今も一般には開放されている。
 開放されてはいるが……ココまで奥まった場所に、誰かが入ってくることは許していないはずだった。
 しかも、足音はどんどんと近づいてきている。
 テレーズが仕事をしている部屋の近くで騒音を立てることなど、まずありえない。
 なら、部外者か……それとも、気を配れないほどの何かが起きたということか──?
 チラリ、と頭をよぎるのは、現在のグラスランドとハルモニアの状況だった。
 つい3年ほど前まで行われていた、ハイ・イースト動乱が頭をかすめる。
 今、一触即発なのは、確かにグラスランドとハルモニアだ。
 けれど、その戦火がこちらに来ないとも限らない。
 ハルモニアが本腰を揚げれば、グラスランドなどひとたまりも無いかもしれないが──「炎の英雄」を引き連れた、新しい炎の導き手を倒すために、ハルモニアが新しい三等市民を旧ハイランド領から連れ去ろうと、そう考えていないとは、言い切れないのである。
 ──まさか、いくらなんでも、そんな無駄なことにハルモニアが兵を裂くとは思えないけれど。
 キリ、と唇をかみ締めて、テレーズは足音が自分の部屋の前で止まるのを予感した。
 そして、その予感はあたっていた。
 何が来るのかと、瞬時に身構えたテレーズの前で、重々しい扉は、まるで荒々しい風が舞い込んだかのように、バンッ、と激しく開いた。
「──……っ。」
 キッ、と、表情を正して見据えたテレーズの視線の先で、
「テレーズさんっ!!」
 部屋中に響くかと思うほどの大声で叫んだのは……見慣れない、一人の青年だった。
「………………っえ?」
 しかもその青年は、心地よい低い声で自分の名を呼んだ。
 キョトン、と目を見張った彼女にかまうことなく、彼はさっさと後ろ手でドアを閉める。
 何かに追われているかのように、背後を気にしながら眉を寄せるさまに、なぜか覚えがあった。
 いや、そう思ってマジマジと見つめてみると、中肉中背の体と、精悍でさわやかなムードをたっぷりと残したいい男ぶりの顔つきに、なんだか知っている面影がチラチラと見える。
 何よりも、テレーズのそんな既視感を裏付けたのは、彼が昔と同じように、額につけていたサークレットの存在だった。
「──……り…………リオ…………さま………………!?」
 まさか、と思った。
 だって、いくらなんでも、ちょうど今考えていたからって、目の前に現れるはずがないじゃないか!
 彼は、一ヶ月ほど前にハルモニアの国境を越えたはずだ。
 その身である青年が、どうして今、このデュナン共和国に居るというのだろうっ!? 普通に考えたら、おかしいではないか!
 目を白黒させて、ただ羽根ペンを握り締め、テレーズは挙動不審にドアの向こうの気配を探るリオらしき人物……否、そう思って見てみれば、リオ以外ありえない人物を唖然と見つめた。
 15年前に比べて、格段とりりしくなった顔は、そうして真摯な光を宿していると、女たちが黙っていられないほどに整っている。
 精悍さを宿した頬も、笑えばきっと人懐こく優しい表情になるだろう瞳も、パーツの一つ一つにリオの幼かった頃の面影が見えた。
 呆然と、そんな彼の様変わりした──けれど当時の影を残す顔を見つめていたテレーズを、不意にリオは振り返る。
 まっすぐな目を、ひたり、と向けられて、テレーズは困惑を覚えた。
「お願いっ! かくまってくださいっ!!」
 開口一番、そう堂々と叫ぶ彼の言葉には──やっぱり覚えがあった。
「かくまって……って……何かに追われているのですか、リオさま?」
 そう……思い返せば15年前、同じような問答をした覚えもある。
 そしてあの時もリオは、ハッ、としたようにドアを振り返り、慌てて身を翻してテレーズの元へと駆け寄ってきたのだ。
 まさに、今のように。
「そうっ! なんかもう、大ピンチっぽいんだよっ! ちょっとゴメンねーっ!」
 言いながら、リオはヒョイとテーブルを乗り越えてきたかと思うと、身軽にテレーズの椅子の隣に降り立つ。
 かと思うと、彼女の足元にかがみ込み──、
「って、キャッ! り……リオさまっ!!」
 当時したように、何の気負いもなく、テレーズの長く裾引くスカートを翻して、彼女の足元──机の中に入り込んでしまった。
 あの当時でも、思い切り良く体を丸めないと入らなかったのに、……と、慌てて翻ったスカートを抑えながら悲鳴をあげたテレーズは、両膝を抱えるようにして、ちゃっかり机の下に逃げ込んだリオの姿に眉を落とした。
「いいっ!? 誰がきても、僕は居ないって言ってねっ!」
 シィっ、と──無理矢理体を窮屈そうに丸めて唇の前に人差し指を立てるリオの姿にも、覚えがあった。
 なんだかそれが、ひどく懐かしくて──テレーズは思わず目元を緩めて微笑んだ。
 昔を懐かしむのは年を取った証だと、よくそう言われるけれど……なんだかとても心が温まるような、優しい思い出は、いくら思い出しても良い物だ。
 そのたびに、自分が優しくなれるような気がする。
「──はい、わかりました。」
 クスクスと笑みを零しながら、仕方がないなぁ、と──当時もそう思ったに違いない感想をまた抱いて、テレーズは椅子を引いて再び机に向かった。
 当時よりも心持ち椅子を後ろに引いたのは、そうしないと自分の膝とリオの頭がぶつかってしまうからだ。
 大きくなったものだな、と、そんなことを思いながら、テレーズが乾いた羽根ペンの先をインクにつけようとした時であった。
 ドンドンドンッ!!
 まるで扉を蹴破るのではないかと思う勢いで、扉が叩かれたのは。
 とたん、テレーズの足元で、ビクンッ、とこわばる気配がする。
 はぁん、コレだな。
 なんだか15年前に戻ったような気がしながら、テレーズは扉の向こうに軽やかな声で答えた。
 多分おそらくきっと……扉の向こうから現れる人は、記憶の中の人そのものに違いない、と思いながら。
 すると、テレーズの返事を待っていたかのように、扉が激しい音を立てて開いた。
 と同時、
「テレーズっ!!」
 つい先日も、ミューズに商品を売りにきたついでに顔を出してくれた男が、先日とはまったく違う面持ちの表情を、扉から覗かせてくれた。
 これもまた予想通りだ。
 思わずその事実に笑い出しそうになったテレーズだが、顔をあげて彼の姿を見た瞬間、その笑いはフリーズした。
「しゅ、シュウ……どの??」
 覗かせた顔と格好は、予想とは思いっきり反していた。
 思わずテレーズが、目を瞬かせて素っ頓狂な声で彼の名前を呼んでしまうほどには。
 けれど姿をあらわした15年前の優秀な軍師こと、現ラダトの有能な商人は、血走った目でギロリと大統領室を一瞥した。
「ここにリオがこなかったかっ!? いや、絶対に来ているはずだっ! アイツが来るのはここくらいしかないからなっ!」
 荒々しい声で、彼は叫ぶ。
 その声もまた、落ち着きという色がサッパリ見えないほど、険しい。
 いつも一つに結わえている髪はザンバラに乱れ、目は血走っている。
 荒く息をする肩は激しく上下し、どう運動してきたのか、服装もボロボロだ。
 これで出会った場所がミューズの大統領室でなく、どこかの山の中だったら、やまんばかと思って逃げ出しそうだった。
「リオさまが来ているって……一体どうなさったんですか?」
 しー、しーっ、と、リオが唇の前に手を当てているのが気配でわかった。
 テレーズはだから、足元には視線をやらないように、空トボけて、シュウにそう尋ねる。
 リオがどうして足元に逃げ込んだのかはわからないが、とりあえずシュウから話を聞くほうが先決だ。
 そして、リオが一方的に悪いようなら、問答無用で机の下の彼を引き出す覚悟はできている。──15年前と同じように。
「リオを追いかけてきたんだ──っ。」
 忌々しげにシュウが吐き捨てる。
 その口調にもまた覚えがあって、テレーズは思わず吹き出しそうになるのを必死にかみ締めながら、神妙な顔つきでシュウを見やった。
 手にしていた羽根ペンを下ろし、不安そうな表情を取り繕うのは簡単だった。
「追いかけて? ──つかぬことをお伺いしますけど、リオさまは、いったい何をしたのでしょうか?」
 この台詞もまた、15年前はよく口にした物だ。
 もっともあの当時は、「書類をほうったらかしにして逃げた」というのが、大半の理由だった。
 けれど、今は状況が違う。
 同じように……懐かしさに涙すら覚えるシチュエーションでリオが飛び込んできて、シュウが飛び込んでこようとも、二人は同じ城の中で寝起きをしていた軍主軍師の関係ではなくなっている。
 リオはただの旅の人、シュウは敏腕のラダトの商人だ。
 一体、そのリオとシュウとの間に、何があったのだろうかと、そう眉を曇らせたテレーズに、シュウは開いたドアに片手を押しつけながら、忌々しげに髪を掻き揚げた。
「…………アイツは、よりにもよって俺の扱う船の──商船に、密航しやがったんだっ!!」
 叫ぶのを必死に押し殺して吐き捨てた台詞に。
「み……密航………………。」
 思わずテレーズは、ちょっと遠い目をしそうになった。
 密航といえば、隠れて船に乗り込むこと、だ。
 一体なぜそのようなことをリオがする必要があるのか。
 そしてどうしてシュウがそれを知ったのか。
 そうして、シュウの船に密航したということは、二人はもともとラダトに居たはずだろう。もしくは、ラダトからミューズの南の港──コロネまで来たのだと考えられる。
 ソコからミューズまで、一体どれくらいの距離があると思っているのだろう?
 ──もしかして、ずーっと……走ってきた…………?
 いろいろと聞きたいことがあったが、彼女が再び口を開くよりも先に、シュウはイライラと言葉を続けた。
「そうだっ! 何をしにどこへ行くのかは知らんが、ふざけているにもほどがあるっ! さぁ、テレーズっ! 隠し立てしても無駄だぞっ、リオはいったいどこに居るっ!?」
 もう、リオがココに居ると決め付けている台詞だった。
 まぁ、本当に船の停泊地からずっとリオを追いかけてきたのだというのなら、いいかげん堪忍袋の緒が切れてしまっても仕方がないといえば仕方が無いことだ。
 けれど、シュウの怒りはすさまじく──なぜ、リオに密航されたというだけでココまで怒り、ミューズまで逃げてきたリオを執念で追いかけてきたのか理解できないが──とりあえず、この場でリオを手渡すのはまずいと判断する。
 普段は冷徹でクールにすべてを判断するシュウのことだ。
 少し時間さえたてば、いつものように冷静になってくれるだろう──いや、今はとにかく、少しでも時間を稼いで、シュウに冷静さを取り戻してもらわねば困る。
 テレーズは苦い笑みの裏でそう決め付けると、わざとらしく咳払いをして、自分の気持ちを落ち着ける。
 足元でリオがモゾモゾと居心地悪そうに動いているが、それを顔には出さずに、困ったようにシュウを見上げた。
「落ち着いてください、シュウどの? 確かに密航は犯罪ですが、きっと並ならぬ事情がおありだったんでしょう。──いったいどこへの荷に隠れていたんですか、リオさまは?」
 一口に密航と言っても、理由と行き先によっては、考える余地はあるのではないか。
 つい一ヶ月ほど前にハルモニアの国境にリオが居たということは、シュウ自身がもたらしてくれた情報だ。その彼が今このデュナンに居るということは──ハルモニアとグラスランドが一触即発という状況を知り、こちらへ帰って来たのだと考えられる。だから、安全に旅をするために、今度は反対方向の南へ行こうとしているのではないか?
 それなら、特にこれと言って怒るような理由もないのではないだろうか?
 そうシュウを説得するつもりだったテレーズであったが。
「──ビネ・デル・ゼクセだ……っ。」
 感情をかみ殺すように吐かれたシュウの台詞が頭ににじみこんだ瞬間、脳裏で綺麗な大陸地図を描き──、
「ぜ……ゼクセン連邦!!!?」
 思わず、悲鳴をあげてしまった。
 ゼクセンといえば、つい先ほどまで考えていた地、そのものではないか。
 確かにハルモニアとの間にはグラスランドが横たわっているから、実質すぐに危険があるとは限らないけれど──それでも、今戦地となっているだろうグラスランドとは目と鼻の先……いや、それどころか、ゼクセンの騎士たちも戦いに参加しているということだから、部外者ではありえない。
 そのような……戦のゴタゴタが起きている真っ最中の港に、よりにもよって真の紋章持ちがいくというのは、普通に考えてもまずいのではないだろうか?
 しかもリオは、こう見えてもデュナンの英雄と呼ばれる。この国の建国者なのだ。
「ハルモニアに入って、グラスランドに向かった人間が、どうして俺の船に乗っているのか、その辺りも問いただしたいところだがな──その前に逃げやがったんだ、アイツは!」
 忌々しげに舌打ちまでして吐き捨ててくれるシュウの怒り具合は相当である。
 まぁ、確かに彼にしてみれば、自分の命とも言える商業の邪魔をされたようなものだ。怒らないわけもない。
「確かに──あの地は炎の導き手とハルモニアが一触即発の状態ですから、入ってくる荷にも過敏になっている状態のはず……なのに、どうして密航なんて……っ。」
 シュウに言ってもラチが開かないのはわかっていたが、テレーズは彼に向けてそう叫ばずにはいられなかった。
 現状、デュナン共和国は、北で起きているその戦いに関しては見てみぬフリを続けている。
 商業という関係でいうなら、ハルモニアともグラスランドともゼクセンともいいように商売をさせてもらってはいるが、それ以上の関与をするつもりはない方面で、態度を貫きとおすつもりだった。もちろん、ハルモニアがこちらにも矛先を向けてくるというのなら、戦うことに関してやぶさかではなかったが。
「そうだ。何をしに行くのかは知らんが、わざわざご丁寧に樽の中に入って偽装までしてやがった。
 まったく、見つかったのが俺の船だったからよかったようなものを……っ。」
 苦々しく呟くシュウの言葉に含められた、言外の意味を捉えられないテレーズではない。
 シュウが危惧しているのは、リオの身の安全だけではないのだ。
 もし、リオが密航してあの地に行ったとなれば──デュナンの英雄を輸出したラダトの商人の立場も、微妙になる。
 さらにしいて言えば、デュナンの顔とでも言える英雄のおかげで、デュナン自身の立場も悪くなる可能性があるのだ。
 堂々と正面から来なかったことから、戦の偵察にきたか、こっそりとハルモニアと手を組んでいたのではないかとか──疑われる要素は、戦争中である以上、いくらでも考え付くはずだ。
 そうなれば、デュナンも後々遺恨を残さざるを得ないだろうし、リオとて……無事ですむとは限らないのだ。
「リオさまは……ハルモニアとグラスランド・ゼクセンが闘いになろうとしているということを──知らないということでしょうか…………?」
 それとも、知っていて、その戦いに参加しようとでも……?
 シュウの船に密航してまで、わざわざゼクセン・グラスランド地方に行く理由が、一体どこにあるのだろう?
 不安そうにそう呟いたテレーズに、シュウがイライラしたまま同意を示す。
「そこまでバカじゃないだろう? ──だが、そうと知っていて俺の船に密航したと言うなら、ただで済ますワケにはいかんな……っ。」
 テレーズは、チラリ、と視線を下に落とす。
 そうすることで見えるのは自分の膝の上の手ばかりで、リオの顔が見えるわけではなかったが、それでもそうせずには居られなかった。
 確かに、一体どういうことだと、そう今すぐ問い詰めたい気持ちはある。
 だが、リオにもリオなりの考えがあるはずだった。
 15年前、彼が苦しみ続けても選んできた道が、正しかったように──彼にとって、正しい道であったように、今もまた、そうである可能性があるのだ。
 たとえそれが、戦地になることが確実なグラスランドへの道だったとしても。
「──もともと、ハルモニアからグラスランドに入るつもりだったけれども、入れなくて……それで仕方なく、シュウ殿の船に密航する形で、ゼクセンから入るつもりだった……ということなのでしょうか?」
 推測にしか過ぎない言葉を零す。
 けれど、それは現状を表すのに、一番的確な推測のような気もした。
 それは、シュウにしても同じだったらしく、
「……そういうことなのだろうがな……。」
 シュウも、その顔に苦いものが走らせながら頷く。
「──だからといって、何も俺の船を選ぶことはないだろうに…………。」
 15年前と同じように、眉間にきつく皺を寄せるシュウの顔に、テレーズはふと懐かしくなり、唇を歪めるようにして笑みを刻む。
 シュウにしてみたら、笑い事じゃない。
 それはわかっている──実際、世界を又にかけて奮闘する商人にしてみれば、戦地に「デュナンの英雄」という大物を送り込む手伝いをしてしまった、という前科ができてしまえば……いくら元はデュナン国の宰相であったとしても、痛手であることには変わりないのだ。
 そうわかっていたから、テレーズは懐かしさに浮かんだ微笑を隠すように、ソ、と顔を伏せた。
 そんな彼女の耳に、
「シュウの船じゃないヤツに乗るわけないじゃん。」
 ボソ、と、零したリオの小さな声が……耳に入った。
 思わず、テレーズは、いや、その言い分もわからないでもないのだけど、と、疲れたように呟きたくなった。
 と同時、
「…………リオ…………そこに居るな?」
 まるで地獄のソコから響いてきたような低い声で、シュウが呟く。
 急激に周辺を支配しはじめたヒンヤリとした風を感じて、テレーズはブルリと身震いした。
 人の声だけで空気が変わるというのはよく聞くが、緊張のためではない変化を、本当に久しぶりに体験した一瞬であった。
「はうっ。」
 机の下で、リオが肩をはねさせる。
 それを感じ取りながら──テレーズは、おずおずと目線をあげた。
 執務室の入り口の扉……そこに、どす黒い異空間が出来上がっていた。
 おどろおどろしく巻き上がるシュウの漆黒の髪がまた、異様なほどのオーラを放っている。
「しゅ、シュウどの……っ!?」
 ひきつった喉が立てたテレーズの呼びかけに反応せず、シュウは乱れる黒髪の隙間から、壮絶なまでの光を宿した目を、ギロリ、と剥き出しにする。
「聞こえたぞ、今のお前の声……っ。」
 その目は、迷うことなくテレーズの机の足元を睨み据えていた。
 思わず彼女は、ずさっ、とイスごと背後に下がる。
──ば、ばれてる……っ!!
「くっ、年食ったくせに、地獄耳は健在か……っ。」
 机ごしに視線を感じたのか、忌々しそうにリオが呟いているのが聞こえた。
 まぁ、確かに……15年前から同じようなパターンを繰り返してきたのだから、ばれないと思うほうが、ある意味不思議であったが。
 シュウから放たれる威圧感に、テレーズは泣きそうに顔を歪めながら、チラリと目線を落とす。
 イスごと下がったために、視界の端にリオの足が見えた。
 床に両手をつき、いつでも飛び出せるような状況でいるらしい彼を認めて、更に彼女はガタガタとイスを後退させる。
 いつでもリオが飛び出せるように──というよりも、自分が巻き込まれないように、だ。
 あと少し下がれば、リオの邪魔になることもない。
 そんな距離まで、あと半歩。
 ジリ、と、イスの背もたれに体重を預けながら、足を半歩下げた瞬間、
「出て来い、リオ──たっぷりと久しぶりに説教を聞かせてやろう。」
 不敵にクツクツと、シュウが笑った。
 刹那──、
「じょう……だんっ。」
 グ、と、リオは唇をかみ締め──両手で床を叩いて、低い姿勢のまま、前に向けて飛び出す。
 このまま机の下にいては、籠の中の鳥も同じだ。
「テレーズさん、ごめんっ!」
 目の前にあるテレーズの足に向かって叫び、リオは彼女のつま先の手前で角度を変えるため、容赦なくイスの足を蹴りつけた。
 がくんっ、とテレーズのイスが背後に大きく揺れるとともに、彼女の長いスカートの裾がヒラリとめくれ上がる。
「……キャァッ!」
 小さく叫んで、テレーズは慌てて両手でスカートの裾を抑えながら、立ち上がった。
 上に載せていたものをなくし、ガタガタっ、と激しい音を立ててイスが倒れたが、それを気にしている余裕はない。
 机の横を一瞬で通り過ぎ、リオはそのままの勢いでシュウの隣を駆け抜けていこうとする。
「リオっ! 待てっ! 何をしに行くのかは知らんが、そう簡単にいけると思うなよっ!」
 ヒュンッ、と──持ち前のスピードと若さで、一気に間合いを詰めたリオに向かって、シュウは腕を真横に差し出して扉の前をふさぐ。
 通せんぼするようなシュウの腕に、一瞬リオはたたらを踏み、シュウとテレーズの間で一度足をとめた。
 あのまま激突しても良かったが、すでに若いとは言えないシュウの腕のひ弱さを心配する程度の良心は残っている。
「何をしにって、そんなの決まってるじゃないかっ!」
 すねたように叫ぶリオの声も表情も、15年前のそれとまるで変わっていなくて、嬉しいような悲しいような──シュウは思わず、最近自分でも忘れていた動作で、己の米神を揉んだ。
「決まっているって──何がだ?」
 まさか本当に、グラスランドに戦争をしにいくとか、そういうオチじゃないだろうな、と……ジロリと睨みすえると、リオの肩越しに不安そうなテレーズの瞳とぶつかった。
 リオは、自分が普通の旅人であると信じて疑っていないようであるが、実際は少し違う。
 どこへ行っても、リオもジョウイも「真の紋章の継承者」である事実が変えられるはずはなく、また同時に、たった15年前に持っていた「称号」が、消えてなくなるわけではないのだ。
 だから、戦が始まる地に赴くときは、己の過去の称号もきちんと理解していかなくてはいけない。
 それが、一度でも上に立ったことのある人間の責任なのだ。
 ──また昔のように、それを説教しなくてはいけないのかと、シュウが唇を引き締めた瞬間、リオは満面の笑顔を浮かべて堂々と答えてくれた。
 思い切り良く胸を張って、
「スイさんに会いに行くんだよ!」
 誇らしげに、そう………………。
 瞬間、シュウの顔に浮かんだ苦い表情が、なんともいえない引きつった顔に変わるのを──テレーズは一部始終、目撃してしまった。
 世界広しと言えど、鬼軍師と呼ばれた冷徹なやり手のシュウから、ここまで表情を引き出せるのは、リオたち姉弟とその「英雄」くらいのものだろう。
「──まっだお前……あの男と交流があったのか……っ! それならなおさら、ゼクセンに向かうなんてことを許せるはずがないだろうがっ!」
 ギリギリ、とこぶしを強く握り締めて、シュウが喉も裂けよとばかりに叫ぶ。
 思いっきり感情の──それも怒りの色──込められた叫びに、リオは軽く唇を尖らせる。
「それじゃ、カラヤが焼き討ちにあったらしいから、ルシアさんのお見舞いに行くってことで!」
「今考えたような態度で、今考えたような台詞を吐くなっ! 説得力がない!」
 聞いているだけで、キリキリと胃が痛くなりそうなシュウの怒鳴り声を耳にしても、平気でしれっとしているリオが、リオらしいと言えばリオらしくて──テレーズは泣きそうな気持ちになった。
──確かに、カラヤクランのお見舞いという理由なら、デュナンの英雄がラダトの商人の船で向こうへ渡っても、なんら不思議はないかもしれないけれども。
 けれども──その、くだんのカラヤの族長が、リオのことをあまり好きじゃないと言う事実は、きっとリオの頭からスッカリ抜けているに違いない。
 シュウにしてみたら、ルシアの元に行くことこそ、冗談じゃないと、そう言いたいことだろうが……そこは本当に、戦争の渦中なのだから。
「んー……そりゃそっか。」
 軽く首をかしげて、リオは伺うようにシュウを見た。
 シュウはそんな彼の目を、ジロリ、と睨み返す。
 リオは、その目を涼しい顔で見返し──それから、ニヤリ、と笑ったかと思うと、
「──それじゃ……。」
 不意に体を屈めて、トンッ、と床を蹴った。
「──なっ。」
 短く声をあげたシュウが、とっさに真横に伸ばした腕に力を込める刹那、それを見越していたように、リオはシュウの肘の裏を突く。
 とん、と反動で上がったシュウの腕の隙間を、すかさず低い体勢で通り抜け──、
「じゃぁっねー、シュウっ!」
 そのまま廊下に飛び出す。
「……って、リオっ!」
 まさか、そんな手段に来るとは思ってもいなかったシュウが、リオに強く疲れた右腕を抑えながら、慌てて身を翻して廊下に顔を突き出す。
 先に廊下を走っていくリオの体を認めて、シュウは怒鳴りながら迷うことなく執務室から飛び出す。
「ってこら待てっ! ゼクセンまで行くのに、密航なんてせずに、堂々と船の切符を買えっ!」
 叫ぶ声の余韻を残しながら、ヒラリ、とシュウの髪が廊下へと消えた。
「そんなお金ないもーんっ。」
 それに答えるリオの楽しげな声が、廊下に軽く響く。
 きっと、満面の笑顔を浮かべながら走り去っていったのだと予測できる、ブーツが廊下を駆ける音。
「リオーっ!!」
 続くのは、シュウの怒鳴り声と──そう、久しく聞くことのなかった彼の叫びと、彼の走り去る音。
 それらが一気に遠くなって……テレーズは、呆然と突っ立ったままの自分に、ふと気づいた。
 目をパチパチと瞬かせ、あたりを見回す。
 さきほどまでリオとシュウがいた空間は、特に彼ら二人が来る前と変わりなく、ドアが開かれていて、イスが転がっている以外──何の変化もない。
 走り抜けていったリオとシュウの足音も、もう届かない。
 今のは一体、何だったのだろうと──まさか白昼夢を見ていたわけではあるまいと、小さな台風のような出来事を思い返した。
 ドップリと、疲れたようにため息を零しつつ、テレーズはイスを起こす。
 イスを戻しながら机の下を見て、つい先ほどまでソコにリオがいたのだと思い出し──くすり、と唇に笑みを刻んだ。
 なんだか本当に懐かしくて……辛くて痛い日々だったかもしれないけど、戦争の只中、あの空間にいることができたのは、本当に自分にとって幸せだったのだと思い知らされる。
 甘酸っぱい懐かしさを飲み込みながら視線をあげると、開け放たれたままの扉が目に飛び込んできた。
 しっかりと開け放たれたソレは、そのまま放っておいても閉まることはないだろう。
「…………とりあえず、扉を閉めないと……。」
 仕事になりはしない、と。
 そう続けて、扉を閉めるつもりで足を踏み出した瞬間、
ばんっ!
 今度は、扉を叩きつけるように、誰かの手がドア枠をつかんだ。
 かと思うや否や、もう片手をドアに押し付けて飛び込んできた──これまた見慣れない……でもよく知っている顔が現れる。
 スラリとした体つきの、愛らしい面差しを宿した容貌が、キリリと凛々しく顰められている。
 素朴な村娘風の服に身を包んだ娘は、どこにでも居そうな純朴な村娘、に見えた。
「テレーズさんっ!!!」
 けれど、執務室に顔を突き出してきた娘は、村娘と断言するには少し抵抗を感じるような壮絶な勢いで、テレーズの名を読んだ。
 部屋中がビリビリと揺れるような大声だった。
 あまりの大声に、見えない声の塊に押し出されるように思わず背を逸らしてしまったテレーズは、目を丸くして彼女を認めた。
「って……え、ナナミ……さんっ!?」
 そう──リオが現れたのなら、彼女が現れてもおかしくはない。
 久しぶりの挨拶を交わす間もなく、驚きに目を見開くテレーズに、ナナミは鬼気迫る表情で叫んだ。
「すみませんっ! 今ここに、リオとシュウさん来ませんでしたっ!!?」
 異様なくらい力がこもった台詞に、目を白黒させながらも、テレーズは指先で左方向を示してやる。
 さきほど、廊下に飛び出していったリオとシュウが、追いかけっこをしていった方角だ。
「え、ええ──さっき追いかけっこしながらソッチに……。」
 なんとか声を絞り出しながら、引きつった笑みを零す。
 ──これじゃ本当に、15年前の光景そのものじゃないか。
 思わず泣き笑いにも似た表情がテレーズの顔に浮かび上がる。
 これで本当にココがティーカム城であったなら、確実に自分は後15年ほど若返ったような気持ちになっているだろう。
「そうっ! ありがとうございます!」
 ペコリと大きく頭を下げて、ナナミはそのまま、キッと真横を睨みつけた。
 かと思うや否や、15年前には決してありえなかった顔が、ナナミの横から顔を出す。
 しゃらり、と揺れる薄い金の髪に覆われた容貌に、ヒュッ、とテレーズは短く息を呑んだ。
 そんな彼女に、ナナミの横に立った青年は、苦笑じみた笑みを顔に浮かべた。
「あの──お騒がせしちゃって……。」
 当時よりも落ち着いた声音の、当時よりもずっと穏やかで精悍な面差し。
 けれど、見間違えるはずもない──初対面の時には、憎しみを込めてその顔を覚えたのだから……グリンヒルを落とした猛将として。
「…………ジョウイ…………ブライト……。」
 思わず零れたその名に、青年は一瞬だけ瞳に傷ついたような光を宿す。
 掠れたテレーズの声が空気にまぎれるよりも早く、彼はそれをすぐに掻き消し、柔らかな笑みを唇に広げて見せた。
 その彼の腕を、当然のようにナナミが掴む。
「ジョウイ! 行くわよっ!!」
 そのまま、乱暴にグイッ、と引っ張る。
 ぐらり、とかしいだジョウイの体を無視して、ナナミは勢い良く身を翻す。
 それに慌てて倣いながら、
「て、ちょっと待って、ナナミ──あ、あのっ、本当にすみませんっ!!」
 ジョウイは、慌てた様子で頭を一度下げる。
 そのさまは、15年前……ハイランドの「成り上がりの皇王」と呼ばれた人間の冷徹な表情など見えもしない。
 ナナミやリオが昔話してくれたような、心優しい青年の顔が見えるばかりだった。
「いえ、こちらこそお構いもせずに…………。」
 グイグイと、ナナミに引っ張られるジョウイに、どこか苦笑を誘われながら、テレーズは彼に会釈を返す。
 来た道を早く戻ろうとするナナミと、それになんともいえない表情を浮かべるジョウイと──二人の背中が、廊下を歩いていく。
「んもーっ、リオったらドンくさいなーっ! なんであそこでシュウさんにつかまっちゃうんだろうっ!」
 今にも駆けて行きたそうなナナミの台詞を聞けば、彼女たちがリオと一緒にシュウの船に乗り込んでいたことが理解できた。
──ナナミとジョウイの笑顔が僕の宝物なんです……。
 そう、昔微笑んで告げてくれたように、今も3人は、仲良く旅を続けている。
「いや、ドンくさいっていうか、リオがシュウ殿に読まれてるっていうか……。」
 困ったように眉を寄せるジョウイの顔が、ありありと想像できて、テレーズはかすかな笑みを唇に浮かべる。
 そして、今度こそ扉を閉めようと、ソ、と手を扉の取っ手にかけた瞬間だった。
「あ、いたっ! リオーっ!!」
 廊下の端──執務室へと続く廊下の切れ目まで歩いていっていたナナミが、唐突に叫んだのは。
 それと同時、再びけたたましい足音が聞こえたかと思うや否や、曲がり角を大きくカーブを描いてこちらの部屋へ続く廊下へ走りこんでくる青年の影──彼は、バサバサと髪を揺らしながら、自分の義姉と親友の姿を確認する。
「あっ! ナナミ! ジョウイっ! パスパーッス!」
 足を緩めることなく、リオはそのまま二人を追い越したかと思うと、唐突にグルンと急ブレーキをかけて、驚くナナミとジョウイの背中に回りこんだ。
「って、何? 何がパスっ!?」
 目を大きく見開いたナナミが肩ごしに振り返ると、リオはジョウイの背中に己の背中を合わせるようにして立ち止まっていた。
 その格好のまま、リオがナナミに向かって怒鳴り返す。
「シュウだよっ、シュウっ!」
 返された言葉に、ナナミとジョウイが、悲鳴にも近い声をあげようとした刹那、リオが曲がってきた角に現れる人影──。
 ガンッ、と、乱暴に角を曲がるために手をついた壁を叩きつけて、ナナミたちが立っている廊下に現れたその人は、テレーズのところに飛び込んできた以上に鬼気迫った形相で、ギンッ、と一同を睨みつける。
 思わず、ビクンッ、とナナミとジョウイの肩が跳ねあがった。
「リオっ!!」
 普段のクールな面差しをかなぐり捨てて叫ぶシュウに、リオは眉をきつく寄せて、もう追いついてきた……と、うんざりした表情を見せると、クルン、背中を上げて、ジョウイの背中を睨みつける。
 そして、強引に両腕を突っぱねるようにして、ジョウイの背中を前に押し出した。
「後は頼んだーっ!」
 グイグイっ、と思い切り良く押されて、ジョウイの背中が伸び上がる。
「って、こらっ、リオっ! 何を……っ。」
 目の前に迫ってくるシュウの顔に、ひそかにあせりながら後方を振り向くが、リオは全体重をかけるようにしてジョウイを押し出してくれるばかり。
 思わずコッチも足を踏ん張ってしまうので、グイグイと押される背中ばかりが前に押し出され、足がグラリと傾いだ。
「わわっ──り、リオっ! 押し出さないっ! 頼むから〜っ!」
 腹を前に突き出すような状態で、バランスをとるためにジョウイが手を上下に振る。
 このままでは、シュウに向けて歩み寄ってしまうじゃないか、と──ドッチにしても逃げ場がないのだが──、ジョウイは体を横にずらしてリオの攻撃を避けようと考えた。
 けれどソレよりも早く、ジョウイの前に、ゆぅらりと立ち上がる一つの影。
 ハッ、と、顔をあげたジョウイとナナミの前に、ザンバラ髪の山姥が立っていた。
 しなだれる黒髪と、その奥から見える蒼白に近い顔色の肌。そして、異様にぎらつく目。間近で見てしまっては、今夜の夢に出てきそうな悪夢の元だった。
「キャァァッ!」
 思わずナナミが口に悲鳴をあげて、壁にドンッ、と背中をぶつけたくなる気持ちが、ジョウイも良く分かった。かく言うジョウイもまた、ヒュッと息を呑み、その迫力ある顔から目が離せないのだ。
「……ようやく捕まえたぞ……この悪がきどもっ!」
 怒りを無理矢理抑えこんだ声は、確かにシュウその人の声。
 ナナミは、泣きそうな顔で壁にしがみついた目を、大きく見開き──、
「しゅしゅしゅ、シュウ……さぁん?」
 涙のにじんだ声で、自分の目の前でヌゥっと立つ男に呼びかける。
 シュウは、そんな彼女に向かって、ふんっ、と鼻を鳴らすと、片手で前髪を掻き揚げ、己の容貌をあらわにした。
 その仕草だけで、先ほどの悪鬼のような様相は一転して見えた。
 恐ろしい妖怪のように見えたぎらつく目は、今はただ苛立ちと不快を宿した冷ややかな眼差しでしかなく、ザンバラ髪の間から見えた山姥のような様相は、少し年を取った中年の美形の顔だ。
 そんな彼が、あのような様相で追いかけてくるとは──思わずジョウイは、リオの偉大な影響力を思い知らされるとともに、シュウに申し訳なさを感じて仕方がなかった。
 確か、荷を詰め込むときのシュウは、これほどまで険しく、なりふりかまわない状態ではなかったのだ。
 遠目から見ても、浜の人妻たちが、「シュウさまってステキv」と言うほどの美形ぶりを見せびらかしていたし、なかなか紳士風のいい男だったのだ。
 あれから少しの時間の間に──そう、自分たちを見つけ、リオが逃げ出したときから今まで……どうしてアアなってしまったのだろうと思うと、なんとなく同情を覚えないわけでもない。
 正しく言うと、ココまでシュウを変貌させたリオに感心すると共に、15年前まではずっとそうだったのかと──ため息ばかりが零れた。
 ナナミは、そんなジョウイのため息に気づかない様子で、ただおびえたような眼差しをシュウへと向け──悪鬼から人へと容貌を戻した彼を、上から下へとマジマジと見つめた。
「ナナミ──お前もお前だろうがっ。」
 吐き捨てるように呟いたシュウの声に、ようやく彼女は目の前の男がシュウなのだと理解して、ほぅ、と安堵したように微笑を広げた。
 そして、自分を一瞥して苦い表情を見せるシュウに向かっていった第一声が、
「ぅわー……シュウさん、ちょっと見ないうちに、ずいぶんジジくさくなっちゃったのね…………。」
 コレ、だった。
 さしものジョウイも、かばいきれない一言である。
 そう、間近で呟かれたナナミの悪意のない台詞に、シュウの米神が大きく揺れるさまを、ジョウイはしっかりと目撃した。
 ──来る、と身構えるまでもなく、
「誰のせいだと思ってるんだ!!」
 ほとんど真上から、シュウの怒鳴り声が降ってきた。
 そんな彼に、キョトン、と目を瞬くナナミの顔と、ジョウイの背を押すリオの力が消えた。
 ココで、2人が何を言うのか、長い付き合いになるジョウイに分からないはずはない。
 絶対、シュウの怒りに油を注いで風で仰ぐ、なんていうことまでしてくれるに違いないのだ、この幼馴染2人はっ!
 とっさの判断で、ジョウイは慌てて上半身を乗り出しながら、一歩シュウに向かって踏み出した。
「あっ、あのっ……シュウどのっ!」
「なにかな、ジョウイ殿?」
 必死で叫んだ声に、間髪入れずに帰ってきた凄みの効いた睨み──蒼白な容貌と、青筋が浮いて見える顔が、なんともいえず恐怖感をそそる。
 思わずゴクンと喉を鳴らしたナナミは、こっそりとジョウイの背後に向かって、小さく叫んだ。
「ねね、シュウさん、なんであんなにお岩さんになってるのっ!?」
 そして、彼女の話し掛けた先には、当然、彼女の弟がいるわけで。
「わかんないけど……やっぱり年なんじゃないかな?」
 真剣にボケをかましてくれる姉と弟の会話に、ジョウイは、だから、君たちのせいだからっ、と泣きそうになった。
 頼むから、これ以上シュウさんのこめかみを揺らすような会話は止めてくれ、と。
 案の定、ナナミとリオの会話がバッチリ聞こえていたらしいシュウの米神に、青筋が増えた瞬間を見てしまい、ジョウイは慌てて口を割った。
 このまま自分もシュウも黙っていたら、リオとナナミは久し振りに会うシュウの機嫌を損ねていくだけだ。
 なんだかんだ言いつつも、この姉弟に甘いシュウのことだから、結果的に船を貸してはくれるだろうが、一度機嫌を損ねてしまったら、その「結果的」が、何日後のことになるのか分かりはしない。
 そんなことになろう物なら、予定していた日付には間に合わなくなってしまうのだ。
 なんとしても、二週間後──決行日には、ビュッデヒュッケ城にいなくてはいけないというのに。
 そのためには、ココは何がなんでも、シュウの持つ船で、出来れば今日中に旅立てるようにしなくてはいけない。
 持ち金もなく、コネも無いような状態で、ゼクセンへ入るには、シュウに頼み込むのだけが唯一の方法なのだ。
「──……あのっ、……僕たち、どうしてもビュッデヒュッケ城に行かなくてはいけないんです──っ。」
 具体的な地名を出すと──シュウは胡乱げなまなざしをジョウイに当てた。
 その目を自分に向けさせたのを由として、ジョウイはそのまま彼の目を見つめたまままくし立てる。
 商才を持つ男相手に、下手な交渉なんて出来るはずもない──それも相手は、元「新同盟軍の軍師」なのだ。
 自分ごときが勝てる相手ではないのだ。
 なら、誠意を見せるだけだ──そう、昔から知っているからこそ遠慮のないリオやナナミでは頼りにならない以上、自分が誠意を見せずして、一体誰が誠意を見せるというのだろう?
「どうかお願いです……っ、その……お金はあんまりありませんけど、払えるだけは払います! ですから……ビネ・デル・ゼクセへの船に、乗せていただけませんかっ!?」
 ジョウイの、必死の声を効いて──それでもシュウは無言でジョウイを見下ろしていた。
 ジョウイは、そんな彼の表情を映さない黒いまなざしを、じ、と見つめ返す。
 シュウもまた、色素の薄いジョウイの瞳の奥を探るように、ジ、と見つめた。
 ナナミは、間近で交わされる、お互いの真意を測るような沈黙で見詰め合う2人の整った容貌を交互に見やった。
 少し不安そうなまなざしを揺らして、キュ、と唇を噛み締める。
 かと思うや否や、乱れたシュウの袖を強く引きながら、彼女も真摯なまなざしで叫んだ。
「あのっ、船の甲板掃除だってするし、もちろん、お料理だってしますっ!」
 瞬間、シュウをそのような乱れた格好にした張本人が、ジョウイの背の後ろからすかさず突っ込んだ。
「ナナミに料理を作らせるのは、さすがにマズイと思うけど……。」
「うん、沈むのだけは勘弁してほしいよね……。」
 突っ込まずにはいられなかったリオの気持ちを汲んで、ジョウイも小さく同意を示す。
 もちろん、シュウだってそう思っているはずだが──彼はナナミの目を見返す瞳にも、そんな色を一つも写すことはなかった。
 ただ、しばらくの沈黙の後、ポツリ、と呟く。
「………………船の料金は高いとわかっているのか?」
 冷ややかな眼差しが向けられた先は、ジョウイだった。
 その言葉の意味が、自分たちの持ち金や働きだけでは足りないほどの料金だぞ、と語っているように思えて、ジョウイはグッと言葉に詰まりかけたが、それでも今の自分たちには彼に頼るしかないとわかっていたので、必死に喉を上下させた。
「……か、体で払って足りない分は……──いつか、必ず…………っ。」
 その、旅に出ている自分たちの「いつか、必ず」が、どれほど当てにならないものなのか、口にしたジョウイ自身が良く分かっていた。
 もちろん、鬼才の商人として敏腕を誇るシュウだとて、それくらいは見抜いているはずだった。
 だからこそ彼は、腕をゆったりと組み、上から見下ろすようにして、ジョウイ、ナナミ、リオの三人を順番に見やった。
「──────…………船の乗車賃は、三人分で1万ぽっちだ。それ以上は1ポッチも負からない。」
 厳かに告げられた言葉は、戦争地に向かう船の代金としては妥当──けれど、三人としては破格の高値であった。
 思わず、絶望と共にジョウイがため息を零す。
 その彼の後ろと右隣から、
「ええーっ! シュウ、絶対横暴〜っ!!」
「シュウさんの陰険ヘビ男ーっ!!」
 弟と姉が、揃ってブーイングを唱える。
「って、リオ……ナナミ…………っ。」
 そんなことをして、シュウさんが1万ポッチでも足りないって言い出したら、どうするんだよ! ──と、ジョウイが慌てて2人を振り返った瞬間、
「────〜〜……っ、出世払いでいいと言おうとしたが、やはり、今すぐ実費で払ってもらおうか、お前らっ!!」
 シュウが、肩を震わせてそう叫んだ。
 とたん、ぱたり、とやむブーイング。
 それどころか、目を大きく見開いたジョウイを飛び越えて、リオとナナミは、シュウに向かって飛び出した。
「シュウ、男前ーっ! 太っ腹っ!」
「だけどちゃんとおなかは引っ込んでるわよっ!」
 ギュムッ、と、ハグハグのために飛び出したナナミとリオは、慌ててソレを避けようとするシュウを見事にキャッチして、右と左から彼を羽交い絞めにした。
「リオっ、ナナミっ!! ったく、都合のいい……っ!!」
 忌々しそうにそう叫んだシュウの顔に、けれどもどこかあきらめたような、優しい色を認めて、ジョウイは顔を思い切りほころばせた。
「────…………ありがとうございます!!」
 思い切り良く頭を下げて一礼すると、シュウはナナミとリオの姉弟を自分から引き剥がす努力をしながら、疲れたように呟く。
「そうでもしないと、お前ら……またうるさくしそうだからな……ったく。」
 けれど、その彼の頬がかすかに赤く染まっていることを──結局自分が彼らに甘いことを自覚しているという事実を、しっかりと目撃したリオとナナミは、コッソリと視線を交し合って笑いあった。
 そんな彼らの──心温まる光景を見つめて、テレーズもまた、浮かんでくる微笑を惜しげもなくもらし……パタン、と、部屋の扉を閉じたのであった。
 「密航」のことは、見なかった振りをするために。















 ビュッデヒュッケ城の、穏やかな午後の昼下がり──心地よい湖から吹き付ける風に体をさらしながら、銀の乙女は我侭娘のティータイムにつき合わされていた。
 オープンレストランの白いテーブルの上には、湯気を立てる紅茶のカップが二つ。
 その一つは深い紅の色が美しい物で、ティーカップのソコが透かし見えている。
 一方のティーカップは、カフェオレ色をしていて、こちらは重そうな色合いを称えていた。
 カラカラと、音を立てながら金色のティースプーンでミルクティーを混ぜながら、赤毛の娘はテーブルに頬杖をつく。
「まったく、本当に驚いたのよっ!? クリス、あんた、竜って見たことある?」
 身を乗り出すようにして問い掛ける娘に、
「見たことあるも何も、ブライトは竜ではないの?」
 整った顔をしかめて、逆にクリスは問い返した。
 透き通るような白い肌と、煙るような銀色の睫が美しい、思わず見とれてしまうような顔を困ったように傾げるクリスに、目の前の娘は一瞬目を泳がせ、
「それはそれ、これはこれよ。」
 どん、と、かき回していたティースプーンを持った手で、テーブルを叩いた。
 その拍子に、ティースプーンの先から、ミルクティーのしずくが白いテーブルをぬらした。
 隣のテーブルからその光景を見ていた赤毛の娘の従者は、布巾を貰ってこなければ、と小さく呟いた。
「人が楽しいティータイムを取っていたら、突然牧場に向かって飛んでいくんだもの。何事かと思ったわよ!」
「だが、それは──フッチの客人を運んできただけ……だったのだろう?」
 軽く笑って紅茶を口に含みながらも、クリスはそのすみれ色の眼差しに真摯な光をチラリと宿さずにはいられなかった。
 いくら急ぎの用であったとしても、タダの客人を、先触れもなく竜で運んでくるものだろうか?
 そのことに関しては、本当になんでもないのだというフッチの台詞を信用したようではあったが──いくらなんでも、現状で戦争がおきている地に竜で飛んでくるなど……打ち落とされても文句は言えないようなことを、竜洞騎士団の団長は、平気で出来るというのか?
 それとも、その危険を冒してでも、その客人を届けることが重要だったと?
「──……リリィ……私はまだ、その客人に会ってはいないんだけど──その人は、どういう人だったのかしら?」
 今のところは、サロメもルシアたちも、フッチの言葉を信じて、何ら警戒などの必要はないと考えているようであった。
 だが、多少の警戒はしているのだろう──所用でブラス城に戻っていたクリスを、こうして呼び戻すことを提案したくらいなのだ。
 とは言っても、現状の段階では、フッチの客人がこの城に滞在しているということを告げられただけで、特に何かするように言われたわけではなかったが。
「どういう──って……。」
 クリスの質問に、リリィは目を丸くさせて、当惑したような表情を乗せる。
 「彼」がこの城に来て、早三日ほどになるが、正直な話、まともに顔をあわせたことがないのだ。
 竜に乗ってやってきた客人、ということで、早速アーサーが壁新聞に何かを載せようと彼を探して走り回ったらしいのだが、どこにいるのやら──まったく見つからなかったと零していたのも聞いた。
 そして、彼がどういう類の人で、なぜ竜に乗ってフッチに会いに来たのか……何よりも知りたい内容は、フッチが決して口を割ろうとしない。
 事実、リリィもその場に居合わせて気になるのだからと問い詰めてみたのだが、フッチは口を割ることはなかった。
「私もまともに会っていないし、フッチだって、『それは僕が聞きたいくらいです』って言うばっかりなのよ? クリスたちの方が詳しいんじゃないの?」
「って、私は今朝、この城に戻ってきて……リリィに誘われたコレが、今日始めての食事、という状態なんだけど?」
 ブラス城で片付けなくてはいけない仕事は、まだまだ残ってはいたけれど──あんまり長い間ビュッデヒュッケ城を留守にしているわけにも行かないと、竜に乗った客人来訪の知らせを受けて、そのままブラス城を出たのが朝日が昇る前だ。
 それからこの城まで一気に駆け抜けて戻り、朝食をとる暇もなく、ルシアとサロメたちに現状報告。
 竜に乗った客人のことを聞いて、特に変ったことがないことを報告を受け──もし何か怪しいことがあるなら、ワタリたちに頼む旨を確認して、開放されたのが昼過ぎ……そう、つい先ほどだ。
 さすがに腹が減ったかと、オープンレストランに向かおうとしたところで、噴水の広間でリリィに捕まってしまったと言うわけだ。
 興奮した面持ちの彼女に付き合うには、正直疲れすぎていたこともあるが、彼女が「竜に乗った客人を見た」と言うことを口にして、ココまで一緒に来てしまった──というのが、現状の状態だった。
 正直に言うと、公務や義務だという前に、その竜に乗ってやってきた少年、というのに興味があったということもあった。
「ああ、そういえばそう言ってたわね。久し振りにブラス城で息抜きが出来たんじゃないの?」
 ニヤリ、と笑いかけてくるリリィに、そうだったらいいのだけど、と少し疲れたような微笑を返して、クリスはもう一度紅茶に口をつけた。
 軽い食事にと、ティータイムにとってもおかしくないようなサンドイッチを食べたおかげか、とりあえずおなかは満足していた。
 そろそろ、ヒューゴとトーマスが城の中の見回りに出る時間かと、クリスは空を見上げて思う。
 フッチの客人の少年のことも気に関わらないわけではない──もし良かったら、自分も一緒に見回りに参加させてもらうべきか、と……何気に視線を湖に移した瞬間だった。
「──……なっ!!」
 ガタンっ、と、音を立ててイスから立ち上がる。
 呆然と目を見開いて見やる先──瞬きをしても、身間違えようもなく見えるものがあった。
「ちょ……クリスっ!?」
 驚いたように目を見開くリリィにかまっている余裕もなく、クリスはその場からオープンレストランの端……ガケの方角へと駆けていく。
 能天気に湖の風にマッタリと全身の毛を任せていた二匹のダッククランの隣に立ち、クリスはそんな顔見知りの二匹に厳しい表情で問い掛けた。
「2人ともっ! あの──あの船は、一体いつからあそこにあったっ!?」
 突然上から降ってきた美声に、二匹はビックリしたように尾羽を震わせた。
 そして、目を大きく見開いて、厳しい顔のクリスを認める。
「なな、いつからって……きょ、今日はまだ、ココに来たばかりですよ?」
 レットがオズオズと羽をつつきながら答えると、クリスはその言葉に小さく息を呑み、鋭い視線を湖へと走らせた。
「今日はまだ──ということは、あの船は毎日きているということなのか……っ!?」
 それは、どう考えても怪しいではないか。
 なのに、なぜサロメたちから報告が無かったというのだろう? それとも、彼らもまた、気づいていなかったとでも?
「えっ、ふ、船──ですか?」
 レットの隣から、ワイルダーが困ったような顔で見上げてくる。
 クリスは、重々しくそれに頷くと、
「そうだ、船だ──すまないが、すぐにサロメたちとヒューゴたちを呼んで来てくれ。」
 2人に向かってきっぱりと言い切った。
 視界に映る船は、どこかの商船のように見える。
 けれど、商船のフリをした何かの目的をもった船、だという可能性だってあるのだ。
 何よりも、商船であったのなら、どうしてわざわざビュッデヒュッケ城に直接つけるような真似をするのだろう?
 ココまで来てしまったら、高いガケしかないということくらい、誰もが知っていることだ。
「よよよ、呼ぶん、ですか……っ!? あっ、あのっ、別にその……訓練をサボっていたわけじゃ……っ。」
 バサバサと慌てて叫ぶレットの声に、クリスは軽く眉を寄せた。
「──訓練? 何の話をしているんだ?」
 いぶかしげな彼女の視線に、レットとワイルダーの2人は、あれ? と視線を合わせた。
 そこへ、
「あっ、本当だわっ! 船じゃない!」
 リリィが、ようやくクリスが何を見つけて駆け出したのか理解したらしく、額に手を当てて遠くを見つめて感嘆の声を零す。
 この湖の中に入ってくる船というのは、なかなか珍しい。それも、大型船ともなると、ハッキリ言えば、ビュッデヒュッケ城に突き刺さっている船のような用途ではない限りは珍しいのだ。
 ああいう風に、密輸に使われる船ならばなおさら、昼間に動くことはないはずだ。
 なのに今、ぽっかりと湖の中央に船は浮かんでいた。
「あー……結構遠いっすけど──……昨日まではいなかったんすけどね、あんな船。」
 ヒョイ、と、リリィに続けてやってきたリードが呟くのに、クリスは表情を曇らせて彼を見上げる。
「本当か? だが、レットとワイルダーが、毎日きているというようなことを……。」
「いやっ! かか、勘違いでしたっ! あんな船を見るのは、今日が始めてですっ! というか、見たことないよ、ココに船が入ってくるのなんて。」
 バッサバサと、激しく羽根を動かせながら自分の先ほどの台詞を否定するワイルダーに、クリスはいぶかしげな目を向けて画──それ以上何も言うことはなく、そうか、と細い顎に手を当てた。
「とにかく、あの船が何の目的でこの湖に入り込んだのか聞かなくてはいけないだろう──誰か呼んで来てくれ。」
 こちらも船を出して近づくべきか……。
 そう低く呟くクリスに、レットとワイルダーが「誰か」を呼びに行くために走り去ったのが分かった。
 バサバサと耳障りな音を立てていくダックに、ヤレヤレとリリィは肩をすくめる。
「いっつもサボってるから、サボっているのを見咎められたら必要以上に慌てちゃうんだわ。」
 人の話くらい、ちゃんと聞けばいいのに。
 そう顎を逸らして呟くリリィの台詞に、
「そりゃお嬢さんにも言えることじゃないっすか。」
 不用意な発言を零したリードの足が、ガツンッ、と激しい音を立てた。
 もちろん、その場にいた誰もがその音が何の音なのか知っていたため、わざわざ見ようとすることはなかった。
「それはそうと──あの船、ラダトの船じゃないですか?」
 不意に──それまで黙り込んでいたサムスが、何かを思い出すように目を細めて呟く。
 その言葉に、クリスは目を眇めて同じように船を見つめるが、何かそれらしい特徴は見あたらず、あきらめたようにサムスを見た。
「それは確かか?」
「──ええ……前に一度、乗せてもらったことがあるので…………たぶん、ラダトのシュウ殿の船だと思うんですけど。」
「あぁっ! あの、いけすかない元宰相っ!!」
 びしっ、と、唐突に指を突きつけて怒鳴ったリリィに、サムスとリードは苦い笑みを交し合った。
 そうして、困惑した表情のクリスに、こう告げる。
「────現デュナン共和国……元アヴァ国の宰相、シュウ殿の商船です。」
 ──どういう目的で、ココに来たのかは分からないが、間違って迷い込んだ可能性はまず無い、と…………そう、暗にこめて忠告しながら。
 クリスは、険しい目でその船を睨みつけた。
 これが、ただの商品運搬などなら、どれほど幸せだろうかと……不安を噛み締めながら。










NEXT>>> SIDE3



ようやく第二部…………。
はぁ……まだ3英雄揃わない……(笑)。

今回は、同盟軍面子編&クリス編。
異様にリリィが出張ってますが、書きやすいのですよ♪
それに、ラダトの船だって分かる面子が欲しかったのでv
次回、ようやく面子が揃います。
イヤー、SIDE3で収まりが着くのかな、とかなんとか(笑)。

それでは次回──は年明けにお会いしましょう〜♪