マクドールさんちの邂逅
1主人公:スイ=マクドール
「愛が乏しい……。」
ふぅ、と唐突に呟いた少年の顔は、憂いに満ちていた。
柔らかでクッションの利いたソファに身を埋め、小さなガラステーブルの上に乗っている紅茶をすする。
湯気に曇った視界を眇めるように見やって、彼は再びため息を零す。
その吐息は、聞いているこちらが痛いほどの辛い心情に満ちていた。
彼は、そっと視線を飛ばす。
綺麗に掃除された室内は、どこか簡素で白々しくみえた。
広く取られた窓にかかったカーテンは、温かみのある色で統一されていたが、それもまた中身のない空の箱を飾り立てているような感がぬぐえなかった。
綺麗に磨き上げられた銀の蝋燭立ても、煤一つついていない暖炉も、何もかもが空々しく、映った。
そう、愛がないように。
「ああ、愛が欲しい。」
呟いた声は苦悩に満ちていて、眉間に刻まれた皺は、深かった。
誰もが少年に同情し、家族愛に恵まれないだろう彼を、可哀想に思うことだろう。
そう。
「お前、頭ボケてる?」
これが、本当のことならば。
「……失礼だな、誰の頭がノータリンだって?」
むっ、としたように眼をあげた少年の前に、とび色の瞳がある。
彼の対面にあるソファに腰掛けていた少年が、あまりにとっぴな親友の言葉に、顔をゆがめて覗き込んできていたのである。
「いや、誰もそこまで言ってないけどさ。
つぅか、お前もしかして、めちゃくちゃ――暇?」
「もしかしなくても暇。」
きっぱりはっきり答えた少年は、残っていた紅茶の中身をすすりきると、はぁ、と重いため息を零した。
今度は先ほどまでの憂いのため息とは違い、本気のそれであった。
「こんなことなら、父上の遠征に、ついてきゃ良かったよ。」
やれやれと呟く彼の言葉に、おいおい、とクッキーをつまんでいた親友はあからさまに顔をしかめる。
「本物の戦場も見たことないようなお坊ちゃんがついていけるような場所じゃないぜ? やめとけ。」
あっさりとあしらう中に、どこか痛い響きが宿っている。
戦争孤児の親友は、だからこそ父が向かった先にある「辛い現実」を良く知っているということだろう。
けれども、少年に言わせれば、その辛い現実や、痛い現実を知らなければ、父のように立派な軍人にはなれないということになる。
父は、「お前がきちんと自分を理解できる年になるまでは、戦場には連れて行かん。」と言って許してはくれないけれども。
「言っとくけど、子供のうちに、辛い人生見るのが良いわけじゃないと思うぜ? 戦場の辛さを知らないなら、知らないままの方が良いもんだ。
そんなもの、一生知らない人生が一番良いんだ。」
知ったかぶる目の前の少年に、ふぅん、と気のない相槌を打つ。
その言葉は、わざわざ彼に言われるほどでもなく、昔から耳にタコが出来るくらいに、家の居候二人から聞かされ続けていた話だからだ。
あなたが大人になり、誰かを傷つけることのおろかさを知る人になるのは喜ばしいことだけど――テオさまのように、人を傷つけることの意味を知り、それの辛さを知るのは、いいことであると思うけど。
でも、できることなら、何も知らぬまま――人を傷つけなくてはいけないことも、時には人を殺めなくてはいけないことも、知らないままで居て欲しいと、そう思う。
彼らは、悲しそうに瞳を揺らしながら、そう告げた。
時には笑いながら、時には優しく、そう、自分に告げる。
それが叶わないことだと分かった上での言葉。
「でもさ、知らないことには、守れないだろ?」
「あん?」
ぬるくなった紅茶を一気にあおろうとしていた少年は、傾けたカップを止めて、眼だけで先を促す。
それに答えて、彼は口を開く。
「誰かを傷つける辛さを知らないで、守りたい人を守り続けられるとは思わないよ、僕は。
何も知らない子供のままで、父上や、クレオや、グレミオや――テッド、君を守れるとは、思えない。」
まるで、それは宣告のようで――テッドは、身震いを覚えた。
「…………でもさ、スイ。」
カップを持つ手が震えていた。
それを堪えながら、テッドは笑う。
長い旅の間に培った、笑顔を口元に浮かべる。
「お前が無邪気で居てくれることが、俺達を守るってことも、あるんだぜ?」
その意味を、君に気づいて欲しいわけじゃ、ないけれども。
そう想いながら口にした言葉は、やっぱりスイには理解されなくて、彼は不審げに眉を寄せてくれた。
「テッド、お前、頭の脳みそ、溶けてる?」
そんな失礼なことを口にして。
結構真剣に言ってのける彼の顔を、テッドは心外だと言いたげに眉を寄せる。
「ま、わかんないのもしょうがないことなんだろうけど――お前、まだお子ちゃまだし?」
嫌味ったらしく顔を近づけてそんなことを尋ねれば、当然ながら不満そうな顔が見返してくる。
「テッドだって同い年じゃん。」
軽く唇を尖らせて反論する彼に、人生経験が違うよ、と軽口を叩きながら――テッドは、もう遠い昔のように感じるときのことを思い出していた。
※
「えーっと……テッド君、でしたっけ?」
軽く首をかしげて自分の顔を覗き込んでくるのは、頬の大きな傷跡がある男だった。
彼は、ひょろいと背が高く、やせっぽっちで、ただの下働きの青年のようだった。
だだっぴろい屋敷には不似合いな人数しか見えないこの屋敷で、初めて見た下働き風の男だ。
「ここが私の屋敷だ」と、テオに連れられてきてからというもの、出会ったのは、彼の腹心の部下であるクレオという美女と、がたいの大きいパーンという男のみだった。どう考えても彼らは下働きではありえない。素人であるテッドにもわかるくらいの武人であった。それに比べてこの優男風の彼は、傷跡を除けば、到底戦場に立つようには見えなかった。
身につけている白いエプロンが似合わない、きつい顔立ちをしている。いぶかしげな顔つきも、それに拍車をかけている。
旅先でいつも見た光景だ。
みんな、戦争孤児だという汚い子供のことを、毛嫌いするように見るのだ。
まるで人がばい菌か何かのように。
どうせこの人もそうなのだろうと思った。
この赤月帝国で、誰からも信頼され、崇拝されているというテオ=マクドールが、小汚い自分に手を差し伸べてくれたことは驚いたが――どうせそれも、ただの将軍の美談つくりの一つに過ぎない。戦争孤児の少年を拾って、お優しくしてあげて、そうやって自分のお株をあげるつもりなんだろう。
汚い大人の駆け引きなんて、長い旅の間にいくつも見てきた。
それなら、こっちもせいぜい利用されてやるだけ。こちらから利用してやるだけ。
上手い汁を吸うだけ吸ったら、さっさとおさらばすればいい。
そうすれば、誰も傷つかないし、誰も傷つけない。
「はい、テッドと言います。」
けど、小汚い泥のついた顔で精一杯笑ってみせたのは、この場所が気に入ったからじゃない。
ただ単に、どうせしばらくとは言え、世話になるのなら、せいぜいいい気持ちで居たいと思ったからだ。
そのためには、自分の世話役になるだろう人に媚を売るのが一番良い。
そう思ったから、自分の世話を任せられたであろう青年に向かって、笑って見せたのだ。
ところが彼は、余計に眉を寄せるだけ。
その瞬間、テッドは悟った。
ああ、これは、最悪なパターンに当たったかな、と。
貴族が表向き「偽善」をするときのパターンの一つに、金を出す、というのがある。孤児院に金を出して、自分が色々してやった気になるというヤツだ。もっともこれは、金が有り余っている貴族しかしないことだから、滅多にお眼にかかることはない。
そして、よくあるパターン――テッドが一番お世話になってきたパターンが、孤児に心を痛めた領主が、孤児を引き取り世話をする振りをするというものだ。
自らは何も手を汚さず、世話役を押し付けて去っていくパターンである。その世話役が優しい良い人ならば、テッドも良い気分で世話を焼いてもらえる。
けど、世話役の人が、孤児を良く思っていないなら、虐待や苛めをされるのだ。
もしかしたら、今回はそのパターンかも、と、テッドは思ったのだ。
もっとも、孤児の世話をするといいながら、その子供をそういう趣味の貴族の屋敷に売る手伝いをしている貴族よりもマシだけど。
「テッド君。まずあなたにしてもらわなくてはいけないことがあります。」
厳しい声で、男は言った。
テッドは、そんな彼を見返し、内心のため息を隠す。
ついた早々、厳しい仕事始めか? この屋敷のだだっ広く長ったらしい廊下を磨けと? それとも、銀の燭台をピカピカにしろと?
今夜のお飯にありつけるなら、とりあえず何でもするとは言いたいけど。夜が明けない程度にはして欲しいね。
半ばうんざりした気持ちで、テッドがそう思った瞬間であった。
「今すぐお風呂に入りなさい。」
ばし、と叩きつけられたのは、タオル。
真っ白い、良い匂いのするタオルであった。
ぱちくり、と眼を瞬くテッドに、彼はこれ以上ないくらいの鬼のような顔で、告げる。
まるで母親のような顔だと――旅先で何度か世話になったことのある、優しい家庭のおっかさんを思い出しながら、彼の顔を見上げる。
「テオ様は、おなかがすいているようだから、ご飯を先にとおっしゃいましたが、こんな泥だらけの格好でご飯なんて食べたら、不衛生です! 病気になっちゃいますよっ! だから、まず先にお風呂で、その汚れを落としてきてくださいねっ!!」
がしがし、と肩をつかまれて、テッドはほうけたように目の前の顔を見た。
「まったく、テオ様はっ! 戦場から帰ってきたばかりの時は、いっつも常識が一つは抜けてるんですから!」
ブツブツと呟く言葉は、とてもじゃないが、主君に対する台詞ではなかった。それも、その「主君」は赤月帝国の英雄とも言える六大将軍の一人――のはずである。
テッドが見上げた男の、線の細い顔は真剣そのものである。
「えー……と。」
答えに窮するテッドの頭の中では、まるでどこかの物語のような展開だな、という言葉がグルグルと回っていた。
それが何の物語だったのか思い出すよりも先に、
「さぁ、お風呂はこっちです、こっちっ!!!」
男は、ずるずると見た目に反する力で、テッドをお風呂場に引っ張っていったのだ。
あれよこれよと言う間に脱衣所に連れ込まれたテッドは、ぽんぽんぽん、とテンポ良く服を脱がされた。
そして、ぽぽんっ、とばかりの浴室に放り込まれる。
気づけば、ユラユラと蒸気の漂う浴室に一人立たされていた。
湯気の立つ広い――面積が無駄なのではないかと思うくらい広いお風呂には、テッドがみたこともないくらいたっぷりのお湯が張られている。
「………………………………え、えーと…………?」
頭の回転が止まったまま、テッドはそのまま動きを止めていたが、
「テッド君っ! ちゃーんと肩まで浸かって、100数えてから出てくるんですよー。」
そんな呑気な声が、脱衣所から聞こえてきて、思わず脱力してしまった。
なんていうか……――あれ、本気? 本気なんすか、金髪の人?
「たってなぁ……数数えられなかったら、どうするつもりだったんだろ。」
言いながら、テッドは近くの手桶を手にして、ばしゃばしゃと顔を洗った。
ぬるぬるした感触が皮膚の上に残り、眉を顰めながら石鹸を手にする。
白い石鹸は、手のひらの上で茶色の泡を出していく。
「…………。」
それは、テッドの手についた泥の色だ。
石鹸も表面があっと言う間に茶色に染まっている。
テッドは無言でそれを見つめた後、無駄に広い風呂と、たっぷりのお湯を見る。
「……どうせ入れるんだから、贅沢してもいいよな。」
後で、どうせこの分だけ働けとか言われるんだから、ソレ相応の恩恵は受けてもいいだろう。
テッドはそう判断すると、がしがしと、大分層が厚くなっているはずの垢を落とし始めた。
「グレミオ〜。僕の服持ってきたよ。」
暖かなお風呂に浸かって――こんな暖かいお湯を使えるのなんて、一体何年ぶりだろうと思いながら、その至福の一時を味わっていると、脱衣所の方から声代わり前の少年の声が聞こえた。
「ああ、ありがとうございます。お借りしますね。」
答えたのは、さきほど自分をここへ放り込んだ男の声だ。
穏やかで優しい声は、さきほどの自分に対する厳しいものとはまるで違う。
あの人の名前、グレミオって言うのか。
自分には名乗らなかった名前をお湯の中で呟くと、ぼこぼこ、と泡が立った。
「それはいいんだけどさ、グレ。僕さ、お背中流しますサービスしなくてもいいの?」
「………………したいなら、してきたらどうです?」
呆れたような男の口調から察するに、グレミオよりも位が上のものか――と考えて、下働きよりも上の存在って、なんだろう、とテッドは首を捻る。
何せ、長い長い月日を生きてきていても、貴族の屋敷に入ることなどなかったから。
「ほんとっ!? やったーっ! これが世に言う、見せ合いっこってヤツだねっ!」
ぱっちんっ、と指を鳴らすような音が聞こえたと同時、
「今すぐお部屋でお勉強に戻ってください。」
冷静に突っ込むグレミオの声が続いた。事務的な口調は、どこか冷ややかだった。
「えっ!? なんでっ!? 今やってもいいって言ったじゃないかっ!」
「言いましたけど、まだ自己紹介もしていない人と、何考えてるんですか、ほんとに!」
それには、テッドが突っ込みたかった。
「あんたも自己紹介しないまま、俺を風呂場に突っ込んでくれたんっすけど?」
けど、小さな声は風呂場に反響することもなく、ただお湯の中に泡となって消えた。
「裸の付き合いは大切だって、父上言ってたよー。」
少しすねたような声が告げる「父上」という言葉に、テッドは聞こえてくる少年の声が何者のそれなのか悟る。
そういえば、同乗した馬の上で――グレッグミンスターまで戻る道のりで、テオが話してくれた。
テッドと同じ年くらいの子供が居るのだと。
良かったら、あの子の遊び相手になってやってくれ、と。
とすると、この声の主が、テオの言う「子供」になるのだけど――……?
テッドは、興味に駆られて、耳を済ませて見せた。
「いえ、だからね。」
「さらに見せ合ってこそ男の友情だとか言ってたよ。」
「だから……。」
「恥じらいは男の美学に反するって言ってた。」
グレミオの何かを正そうとする言葉を聞こうともせず、トウトウと語る少年の未来が、なんとはなしに心配になるテッドであった。
「…………………………ぼっちゃん。」
「ん?」
グレミオが、低く相手を呼ぶ。
その呼びかけに、やっぱり相手の少年はテオの息子なのだと悟った。
それと同時に、息子直々に着替えを持ってくるって、どうよ? と、テッドは心の中で突っ込む。
この風呂場を見る限り、貧乏なようには見えないが、まさかこの屋敷、下働きが「グレミオ」しか居ないくらいに、貧乏貴族とか?
いや――仮にも六大将軍の一人である男が、そんなはずはない。
「健全に育ちたかったら、テオ様の言うことは右から左です。はい、復唱。」
「父上みたくなりたかったら、父上の言うことは、右から入って頭に上る。はい、復唱。」
「ぜんぜん違うでしょーがっ!!」
叫ぶグレミオの声が、ビリビリと浴室の扉を震わせた。
けれど、そのグレミオの怒鳴り声すら慣れているのか、少年は楽しそうに笑う。
「あはははは! わかってるよーっだ! それじゃ、グレミオ! 先に行って待ってるからねっ!」
「ぼっちゃんっ!! ――んもう、逃げ足は早いんだから。」
ブツブツと最後に呟く声が聞こえ、やがてその声も扉を閉める音と共に消えた。
それら一連の会話を聞き終わって、頭の中で繰り返してみて――テッドは、呆然と湯船の中で固まる。
今のは一体――なんだったんだろう?
ちょっと変わった家族なんてのは、一つの町に一つくらいはあるものだ。それが貴族であったとしても、これだけ大きな赤月帝国の首都ならば、ありえるかもしれないし。
……この屋敷は、今までのどの場所とも、どこか違うような気もするけど。
でも。
「……どうせ、少しの辛抱だしな。」
呟いて、テッドはユゥラリと天井を仰ぐようにして、お湯にその身を浮かせた。
脱衣所に用意されていたのは、簡素でありながら、質のいい生地を使った室内着のようであった。
少しゆったりとした作りのそれは、テッドが着てもちょうどいいくらいの大きさである。
とすると、さきほど声のした少年は、自分と同じくらいの大きさと言うことになる。
向こうはきっと、自分のことを同じ年くらいの少年だと思っているのだろう。
テッドは不意にそう思って、苦笑を口元に刻み込む。
同じ年くらいに見えるだけで、実際の年齢はまるで違う。
まるで違うけれど、それを知られるわけには行かないから、この年頃に見合う見せ方をしなくてはいけない。
今までしてきたように、この年で父を母を亡くしたように振舞って――いや、ここは軍人の家だ。今までに孤児を見てきているはずだ。
そうしたら、いつの記憶を使えばいいだろうか?
世話になっていた人を、この右手が飲んだ時の苦しみ?
祖父に逃げろと言われ、一人滅びた村を逃げ出したときの苦しみ?
いつの記憶を使って、苦しむ風を装えばいい?
――ああ、普通に働いて暮らすなら、別にこんな孤児の苦しみを装わなくてもすむのにな。
乾いた良い匂いのするタオルを頭からかぶって、テッドはため息を零した。
実を言うと、誰かに構われたい気分ではなかった。
しばらくは、できることなら、人と関わりたくなかった。
目の前で人が死に、右手が熱く燃え――その時の感情の、暗く冷たい感情の、なんと表現したらいいことか。
あれを抱くたび、テッドの背中に恐怖が走るのだ。
今度は誰を飲んだのだろう? 今度は誰の人生を奪ってしまったのだろう?
この中の屍の、一体どれが、本来なら死なずにすんだはずの死体なのだろう?
思わずしゃがみこんでしまったのは、綺麗な女性の遺体の前だった。彼女だけ、ほかの死体に比べて損傷が少なかったのだ。本当なら助かったかもしれない命。でも、テッドが近くに居たから、吸われてしまったかもしれない、命。
そう思ったら、そこから動けなくて、いつものように、祈りをささげるでもなく――いや、ある意味祈りをささげるように、テッドは彼女の前にしゃがみこんでいた。
そこへ、テオが、やってきた。
テオは、彼女をテッドの母か何かだと勘違いした。
テッドはそれをいいように利用した。
そして、自分へ差し伸べてくれたテオの手を、取った。
戦場になった後の地の周辺は、色々な意味で、食べることの出来ない地になってしまっているから。
荒らされた畑には作物はなく、家々の食物庫も荒らされ、この森へやってきた兵の足跡で野に出来る食物も絶たれ。
近くの森を走る動物は、不穏な人間の気配に、里の方へ近づこうとはしなくなる。
鳥を射抜き食らうことは出来ようが、さすがのテッドも、死体をつつこうとやってくる鳥を食べるつもりはなかった。
だから、食料をくれてやるという誘いに、乗ったのだ。
そうして連れて来られた屋敷がここで。
「まーさか、こんなでかい屋敷だなんてなぁ。」
ぐしゃぐしゃとタオルで乱暴に頭を拭いて、テッドが一人ごちたその瞬間、
「テッド君? 着替え終わりました?」
グレミオの声が扉ごしに聞こえた。
あわててテッドはそれに答える。
「あ、はい! 終わりました。」
ついでにあたりを見回し、自分の髪の毛や泥が落ちていないか確認する。
こうるさい世話役は、テッドが体を洗うのに使った場所が汚れていないのか、きっちりチェックしてくる――そのことを、テッドは長い経験でよく分かっていた。
水浴びなどをして、気持ちよくなった体を、汗にまみれて掃除することになるのは、三度もすれば十分だった。
そ、と開かれたドアから、グレミオの整った顔が覗き込む。
そして、少し大きいシャツを着込んでいるテッドを、上から下まで眺めると、眉を引き絞った。
慌ててテッドは、あたりを見回す。
自分は何かしただろうか? それとも、用意してあった服を着たのがいけないのか!? だが、これ以外服がなくて――もしかして、裸でいろとか、そういうことなのか? 実はそういう趣味?
内心あせるテッドに、グレミオは近づいてきたかと思うと、その手を伸ばす。
びくん、と肩を震わせたテッドに、グレミオは少し眼を見開いて……。
「ちゃーんと髪を拭かないと、風邪引きますよ? いくら温暖な気候だとは言っても、湯冷めはどこの地方でもあるもんなんですからね。」
くすり、と小さく笑いながら、テッドの持つタオルを手にすると、やんわりと髪を拭き始めた。
その手つきは、優しく――テッドが自分の髪を拭く手よりもずっと、丁寧だった。
ぱふぱふ、と仕上げに水滴を拭い取って、グレミオはニッコリと笑ってテッドを覗き込む。
間近に迫る男の顔に、じり、と後退したテッドを、満足げに彼は見つめた。
「良かった。ちゃんと顔色もいいみたいですね。」
「……………………。」
なんて答えたらいいのか分からず、口をつぐむテッドの唇が、真一文字に結ばれた。
それに構うことなく、グレミオは笑う。
「さっきみたいに泥まみれでしたら、顔色もわかりませんから、何を用意したらいいのかも分かりませんから。」
「――……あ、の…………。」
おずおずと、口を開くと。
「さぁ、行きましょう、テッド君。
みなさん、お待ちですから。」
彼は、濡れたタオルを手にして、すい、と身を翻した。
「遅いぞ、グレミオっ!!」
入るなり怒鳴ったのは、もちろんパーンであった。
その隣に腰掛ける形になっているクレオは、彼の言葉に軽く眉を顰める。
「遅いって言われても、いつもの夕食時間より、ほんのすこーし遅れただけじゃないですか。」
呆れたように眉を寄せるグレミオが、テッドをテーブルの着かせる。
ここですよ、と用意された椅子は上等のもので、テッドは一瞬座っていいのかどうか迷った。
ちらり、とあたりにやった視線の先で、外見が同じ年くらいの少年が、キラキラさせた眼でこちらを見ていた。
この部屋に居るのは、テオとクレオ、パーンを入れて六人だけだから、この少年が先ほどの声の主なのは間違いなかった。
早く紹介してほしい、話したい、と見てわかるほどにワクワクした顔で、こちらを見ている。
「ここが、テッド君のお席ですから。お飲み物はジュースでいいですよね?」
座ろうともしないテッドに、グレミオが席を引いて示す。
そのまま立っているわけにもいかず、テッドは椅子に座る。
座りながら椅子を引き寄せようとしたそのタイミングで、グレミオが席を戻してくれた。まるで一流レストランのボーイさんか何かのようであった。
そんなことをされたことなど一度もないテッドは、驚いたようにグレミオを見上げるが、彼はすでに給仕係りとして、鍋の方へ歩いていた。
「はいはいっ! 僕がテッドにジュース注ぐっ!!」
元気良く片手を挙げて宣言したのは、テオと同じ色の髪をした少年である。良く見ると目元がテオに似ている。
「ぼっちゃんが?」
嫌そうに顔をゆがめるグレミオに、
「それはどういう意味だよ、グレミオ?」
眼を眇めて見上げてみせる。
グレミオは、良く冷えたジュースのビンを掲げながら、少年の顔を見つめると――。
「ま、今日は許しましょう。その代わり、夕飯時のジュースは、一日二杯までというお約束、きちんと守ってくださいね。」
「大丈夫大丈夫。夕飯時のジュースは、ちゃんと二杯で済ますってば。」
「ほんとですか?」
「うん。…………夕飯終わってからの保障はできないけどね。」
「…………………………そんっなに、ジュース禁止令出して欲しいのですね、ぼっちゃんは?」
にこりと、冷ややかな笑みを浮かべるグレミオに、同じく少年も冷ややかな微笑みを浮かべてみせた。
「砂糖入りのキャロットジュースなら、糖分取りすぎになるから禁止の理由はわかるけど、これは、オレンジジュースだろ? なぁんで飲んじゃいけないわけ?」
「理由は簡単ですよ、ぼっちゃん。」
「何?」
見ている方が冷たい気のする微笑を浮かべあう二人を、パーンはどこか苛々と見ている。そんな彼に、まだ食べるなよ、とクレオが注意を入れている。
少年の隣に座るテオは、微笑ましい表情でそれを見ている。
どうやらこれは、日常的な光景らしかった。
「夜、ジュースをたくさん飲むと、おトイレが近くなるでしょう?
夜中に、ぼっちゃんがお一人でおトイレにいかれるのは困りますから。」
「――……は?」
間の抜けた声を零したのは、テッドであった。
夜中に、ぼっちゃんがトイレに行くのが怖いというのが困るから、というなら分かるのだけど?
一人理解不能な顔をしているのは、テッドだけである。
ほかの皆は、コクコクと頷いていた。
「いいじゃん。一人でトイレ行けるし。」
「一人で、トイレに、いかれるのが、問題なんですってばっ!」
叫んで、グレミオはキュポンッとビンの口を開いた。
そして、コポコポとテッドのグラスにジュースを注ぐ。
香と色の素晴らしいオレンジジュースが、テッドの喉を鳴らせる。
それと同時に、ぐぐぅ、とテッドのおなかが鳴った。
いろいろなことがありすぎて、おなかが空いていたのを忘れていたのだが、相当、空腹なのだ。
「……先にご飯にしましょうか。」
くすくすと、微笑みを零しながらグレミオが鍋の蓋を開けた。
とても良い香が室内に充満して、皆が幸せそうな微笑を零す。
ただ一人、ぼっちゃんを除いては。
「……………………僕が注ぐって言ったのに……………………。」
低く呟く彼に、グレミオは困ったように眉を寄せると。
「それじゃ、ぼっちゃんのお皿が一番のりってことで、どうです?」
クリームシチューを掬ったお玉を見せて、彼の顔を見る。
それを受けた坊ちゃんは。
「――くっ、卑怯者っ!」
そう舌打ちしながらも、しっかりと自分の皿を差し出していた。
テッドは、なんだかそのみょうちきりんな光景を見やりながら――なんだか、不思議な予感に駆られ始めていた。
がんじがらめにされているような、自分から縛られにいくような。
そんな……決してありえるはずのない、感触を、しっかりと、感じ始めていた。
※
「そもそも、はじめから強烈だったよな、マクドール家。」
しみじみと呟いて、テッドはソファに背を預ける。
正面には親友が座っている。いつのまにか真剣な表情で、小型ナイフでノートに、何かを切り刻んでいる親友が。
「テッドも強烈だったよ。」
ぎぎぎぎ、と硬いものを斬る音とともに、スイが答える。
何が? と尋ねるテッドに、
「汚さが。戦場から戻ってきた父上以上の泥まみれってのは、僕も初めてだった。」
実はテッドが屋敷に入ってくるのを二階から見ていたスイが、あっさりと答える。
テッドはそれを聞いて、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「あー……あれはな、俺のせいじゃないんだぜ?」
「じゃ、地べたで寝ていたところに雨が降ってきて、勝手に地面が泥になったせいとでも言うつもり?」
ちらり、と眼をあげて尋ねるスイに、テッドは胸を張って腕を組んだ。
「いんや。アレは、テオ様が雨上がりの道で、馬を走らせている最中に、ついうっかり水溜りを踏みつけたせいで起きた事故だ。」
「…………ははーん、さては! 馬に二人乗りしてて、テッドが前だったために、父上にかぶる泥を一人わが身で受け止めたねっ!!」
びしりっ! と指先で判定されなくても、真実はそれである。
おう、とテッドは低く呟くことで答えると、
「しかも、当時の俺は可愛げあったからさ。これもテオさまが急いでいるためだから、途中で泥を落とすために止まることもなかったのも、しょうがないんだって思ってたんだよ。本気で。」
「いえいえ、真実は違いますよ、奥さん。
父上はね、もともと戦場で汚れてばっかりだから、そういう汚れに、ものすんごく、雑なの。疎いの。気が回らないの。
たとえて言うなら、戦場では洗濯物がたまるタイプ。」
例えなくてもそうである。
ぱたぱた、と手を振りながら答えるスイに、おう、とテッドが頷く。
「それが分かったのは、ここで厄介になりはじめてからなんだけどさ。
血の汚れはきちんとぬぐうのに、泥とかは平気なのな、テオ様。」
「そりゃーね。偵察とかで、顔に泥塗って目立たないようにすることもあるって言ってたし。多少の汚れは気にしないみたい。」
あの時のテッドの汚れは、「多少なんかじゃないですよっ!?」と、グレミオが居たら叫んでいたことであろうが、残念ながらこの部屋には居なかった。
彼は今日も綺麗に白くなった洗濯物を干しているところである。
「俺、ここへ来て、クレオさんとパーンさんに紹介されてすぐにグレミオさんに引き渡されて、風呂入って来いって言われたな。」
それに対するスイの答えも簡潔であった。
「だって汚かったもん。クレオもパーンも、すかさずグレミオを紹介してくれたでしょ?」
今なら――マクドール家の一癖も二癖もある人物達を知っている今なら、何の先入観も無しに説明できる。
わざわざスイにそうやって説明してもらわなくても、アレがどういう基準で動いていたのか、ちゃんと分かる。
暖かい、優しい志なのだと、疑いもなく信じることも出来る。
「ああ、グレミオさんったら、自分の自己紹介するのも忘れて、俺を風呂場に連れ込んだぜ?」
「そのおかげで、僕は、テッドがお風呂に入ってる間に、お前が汚していった廊下の足跡! モップで拭く羽目になったんだからなっ!」
びしり、と再び指を突きつけられて、テッドはその指先を握りつぶした。
「んなこといまさら言われてもねー。」
人様を指差すなよ、と注意してから、スイの指を解放してやる。
「ふふ――まぁ、いいんだけどさ。」
「あん?」
「だって、僕、グレミオに言われたことを、忠実に聞くくらい、嬉しかったんだもん。」
「? 何が?」
「……テッドが、うちに来た事。」
にこり、と全開の笑顔で微笑まれて、テッドは一瞬息に詰まった。
「――あー……んー……。」
なんとなく視線を遠くに飛ばして、赤く染まった頬を拭い取る。もちろんそんなことで、頬の赤い色が取れるわけはなかったが。
ちらり、と視線を飛ばすと、その先でスイがニヤニヤと笑っているのが見えた。
ぎくん、と両肩を強張らせたテッドに、
「テレてる?」
意地悪く聞いてくる。
テッドは、片手の甲を頬に擦り合わせたまま、引きつった笑顔でスイを見やった。
目元をかすかに染め上げて、テッドはスイの顔を指の隙間に持ってくると、
「つぅか、お前、天然で恥ずかしーヤツなんだよ。」
「じゃ、テッドは僕にあえて嬉しくなかったんだ?」
意地悪く語尾を跳ね上げさせるスイに、
「――嬉しかったよ。」
小さく、答えてやる。
長い間生きてきたけれども、こんな恥ずかしい台詞を口にするのは、初めてだった。
なんで口説いてるわけでもない相手に、こんなことを言わなくちゃいけないのかなぁ、と半ば投げやりに考える。
するとスイは、嬉しそうに目元を緩めると、
「それは良かった。」
完結してみせた。
おい、と思わずテッドは突っ込みそうとなった。
かろうじてそれを飲み込んだのは。
「テッドくーん、ぼっちゃーんっ! ちょーっとお手伝いしてくださーい。」
グレミオさんの声が、中庭から聞こえてきたからであった。
とたん、テッドもスイも、鋭く視線を交わすと、こくん、とドチラともなく頷いた。
そして、グレミオがリビングに続く窓を開けるよりも先に、ダッシュで部屋から飛び出した。
「ぼっちゃん? テッド君?」
ひょい、とグレミオが顔をのぞかせたときには、すでに二人はもぬけの空だった。
小首をかしげるグレミオは、
「いつのまに遊びに行ったんでしょう? せっかく草刈を手伝ってもらおうと思ったのに――。」
不思議そうに室内の中を覗き込んで、そのまま窓を閉めなおした。
仕方なさそうに鎌を手に、グレミオは一人で草刈をし始めるのであった。
その光景を、そっと開いたリビングの扉から覗き込んでいたテッドとスイは、うんうん、と頷きあった。
「やーっぱり草刈か。」
「そろそろ伸びてきてたもんな、庭の雑草。」
納得した二人は、間近で目を交し合って、笑う。
「んじゃ、グレミオさんにばれないうちに、さくっと出かけますか。」
「表から出るとバレバレだから、裏から出よう。」
ぱたん、とリビングのドアを閉めて、二人は厨房に向かった。厨房には、裏口へと続くドアがあるのである。
そこから逃げ出せば、中庭に居るグレミオには見えないから、見咎められて草刈を手伝わされることは免れるはずだ。
揃って厨房に飛び込み、ついでに冷やしている最中のマフィンを幾つか盗み取ると、
「今日は丘の方まで行こうぜっ。」
「あそこの木苺が、そろそろ食べごろかもね。」
口々に言いながら、裏口のドアを全開に開いた。
二人の頭の上に、影が落ちる。
それを認めた瞬間、裏口のドアを開けた体勢のまま、二人は動きを止めた。
「――……お二人で、どちらへ行かれるのですか?」
静かな声が、頭上から落ちてきた。
引きつった顔のまま見上げたそこには。
「ああ、もしかして、今からお手伝いのために、出てきてくださる所だったのですか?」
金髪の、整った顔立ちの――暗雲を背負った鬼が立っていた。
はう、と小さく零したスイとテッドに、グレミオは鬼夜叉の顔のまま、笑みを広げて見せた。そうして、手にした二つの鎌を差し出すと、
「さぁ、やりましょうか。」
二人の懐から、マフィンを取り上げると、グレミオは苦く視線を絡み合わせる二人の悪がきを、ホラホラ、と急かすのであった。
見事綺麗に刈り上げられた庭に、息を切らした子供が二人しゃがみこむ頃。
「ご苦労様です、お二人とも。」
笑顔でグレミオが、暖かで良い匂いのするお茶と、美味しそうなマフィンを抱えてやってきた。
ぴくん、とそれに反応する二人の前に、白い布を芝生に敷くと、その上にピクニックのようにマフィンとお茶を置いた。
疲れきった様子も綺麗に吹き飛ばし、スイとテッドは、いそいそと白い布の上に乗りあがった。
キラキラ輝く目の子供に、グレミオはクスクス笑いながら、二人のカップにお茶を注いでやった。
「これを食べ終わったら、丘の方に木苺でも摘みに行きましょうか。」
「うんっ! ジャム作って、ジャムっ! でね、スコーンに塗るのっ!!」
さっそくマフィンをぱくつこうとするスイの手を叩き、グレミオは濡れたお絞りを渡す。
同じようにマフィンに噛み付こうとしていたテッドにも、お絞りを渡して、
「はいはい。それじゃ、明日のおやつは、ジャム付きのスコーンですね。」
グレミオはそう言って笑った。