誕生日プレゼントは手作りで

1主人公:スイ=マクドール





「ということで、何か良いものはないでしょうかっ!!?」
 ぎゅ、と握った拳に、異様に力が入っているのを見ながら、ヨシュアは少し考えるように瞳を細めた。
 目の前ですがるような視線を送ってきているのは、つい最近除名になったばかりの竜騎士見習いの少年であった。
 愛竜を失い、この砦を出ていったのはほんの少し前のことであり、あの時の彼は、疲労が色濃く見えていた。
 けれど、解放軍の砦に移ってから、日常が騒がしいためか、どうなのかは分からないが、だいぶ元気になっていると思う。
 真剣なその顔にも、竜を失ったすぐのころには見えなかった、強さが見え隠れしていた。
 それを微笑ましい思いで見ながら、ヨシュアは口の中で繰り返す。
 フッチが唐突に、この竜洞騎士団に訪れた理由であるところの、「頼みごと」を。
「ハンフリーの、誕生日プレゼント……か。」
 誕生日、という観念が遠くなって、だいぶ経つため、初めはそれが何のことか分からなかった。
 けれど、フッチが願っていることの意味はしっかりと掴んでいるつもりである。
「はいっ! 俺――僕、いつもハンフリーさんにお世話になってるから、こういう時こそ、ちゃんとお返しをしたいと思ってるんですけど……っ!」
 力強く頷くフッチが濁した先の台詞を、良く理解したヨシュアは、なるほど、と頷いて見せた。
 事実、あの無口な男から、欲しいものを聞き出すなど、困難に違いない。
 ヨシュアなら聞き出せるか、知っていると思ってこうして聞きに来たのだろうが、残念ながらヨシュアも情報を持たなかった。
 誕生日プレゼントだなんて、考えたこともなかったからだ。
「それは分かったのだが――ハンフリーが欲しがるような物……か。
 普通、プレゼントというのは、自分が貰って嬉しいものを捜すものだと聞くが……。」
 実際に自分が今まで貰った物を思い浮かべ、ヨシュアはそれ以上口にするのを止めた。
 とても素晴らしいと、相手が思っていようとも、こちらにとっては意味が無い、というものも多いのである。
 例えば、この間ヴァンサン・ド・プールに貰った怪しい香草だとか、マクシミリアンがくれたどこのものか分からない古びた勲章だとか。
 確かに素晴らしいものなのだろうが――。
「………………ハンフリーが使いそうな物とかはどうだろう? 剣の整備のための布や、砥ぎ石などは。」
「鍛冶職人が、五人もいるんですよっ!? 解放軍はっ!」
 泣きそうな顔で叫ぶフッチの表情から考えるに、どうやらそれも思っては見た後のようであった。
「では、タオルとか……。」
「そう考えたんですけど、セイラさんがいっつも、奇麗に洗濯していて、タオルが切れることがあるどころか、いつも溢れかえっているくらいなんですっ!」
 解放軍で、一体どのような生活をしているのか、見たこともないヨシュアには分からなかったが、制している軍主が軍主だから、これもありか、と思ってみる。
「――……ハンフリーが本当に欲しい物といえば、ひとつ、思い当たらないでもないが……。」
「何ですかっ!?」
 ぐぐ、と差し迫ってくるフッチに、苦笑を見せながら、ヨシュアが口を開こうとしたその時。
「ヨシュア様、竜洞の方に……。」
 フッチとともに帰ってきたミリアが、入り口から顔を覗かせた。
 そして、書類を手にしたまま動きを止めているヨシュアと、その彼に真摯な瞳を向けているフッチとを認めて、少し目を眇めた。
「ああ、ミリア。スラッシュの様子はどうだ?」
 解放軍に居る間も竜の事を案じていたミリアは、ここへたどり着き、ヨシュアに挨拶するなり、早々に竜洞へ出向いていた。
 一通り様子を見てきたらしいミリアの、ここへ来たときとは少し違う顔つきを見ながら、ヨシュアは彼女を見やる。
 ミリアは答えるように頷いて、
「ええ、やはりここに居る方が安心するみたいです。今はゆっくり休んでいます。」
 少し微笑む。
 見せた柔らかな表情に、ヨシュアは内心驚きながらも、表面では穏やかに頷いて見せた。
「しばらくはここで休ませようと思うのですが――。」
 言いかけた言葉を、ふい、ととぎらせたミリアは、チラリとフッチに視線を当てた。
 フッチは、話を無理矢理中断されたことへの不満なのか、少し頬を膨らませている。
 彼のそんな表情を見て、ミリアは片方の眉をあげる。
 幼いことが悪いとは言わないが、ヨシュアの前でこのような表情をするのは、良しとは出来ない。
 フッチ、と低く呼び、注意を促そうとするが、それよりも先にヨシュアの視線がフッチに当てられる。
「先ほどの話の続きだが、私よりも料理長が良く知っている。
 一度顔を見せてくるといい。」
「……は、はいっ!」
 不満そうな顔を一転させて、頬を紅潮させて頷いたフッチは、そのまま部屋を出て行こうと踵を返しかけ、ミリアの鋭い視線に当り、慌ててヨシュアを振り返ると、きっちりと四十五度のお辞儀をする。
「お忙しいところ、ありがとうございましたっ!!」
 部屋中に響くような声でそう告げると、今度は静かに踵を返し、きびきびと扉まで歩いて行く。そして、静かに扉を開き、ぱたん、と音が立つか立たないかの音を立てて、扉の向こうに消えた。
 ヨシュアは感心したようにそれを一通り見た後、ミリアを見上げる。
 彼女は、鋭い眼差しを扉に向けたまま、満足そうな表情をしていた。
 どうやら、フッチの礼儀教育に、彼女も関わっているらしかった。
 解放軍で、それなりに楽しくやっているという報告を受けてはいたが、事実どのような状況にあるのか、ヨシュアには分からなかった。
 だが、この二人を見るぶんには、それなりどころか、相当良い具合に影響を与えてもらっているようであった。
 できることなら、戦争なんて言うものは経験しないに越したことはないのだが、良い方向へ試練を与えてくれる場所で成長するのは、いいことである。
 二人にとって、解放軍というのは、そういう場所であるらしかった。
 ミリアは、瞳の光を和らげて、フッチが出ていった扉を見つめる。
 しばらく耳を澄ませても、ドタドタという音が聞こえないのに安心してから、彼女は再びヨシュアに視線を戻した。
 そして、自分の視線の先で笑っているヨシュアを認めて、軽く眉をひそめた。
「ヨシュア様?」
「いや、解放軍での生活が見えるようでな。」
 くすくすと笑いをかみ殺しながら、ヨシュアは改めて机の端に積んであった書類を引き寄せる。
 ミリアは困惑したような顔を浮かべた後、首を傾げた。
「そう……ですか?」
 どこか嫌そうな顔も、以前の彼女には見られなかったもので、ヨシュアは更に笑みを深くする。
 ミリアは、どことなく居心地の悪い気分を味わいながら、こほん、とわざとらしく咳払いをする。
「……フッチは、一体何を尋ねに来ていたのですか?」
「ハンフリーの誕生日なのだそうだ。」
 聞いた瞬間、ミリアは軽く目を見張って、それからゆっくりと瞳を眇めた。
「そうか――それで……。」
 納得したようなミリアの言葉に、たずねるような視線を向けると、彼女は困ったように笑って見せた。
「困ったことになりますよ、ヨシュア様。」
 初めにそう告げて、彼女は事の次第を説明しはじめた。






 竜洞騎士団の砦にある厨房で、フッチがいつもお世話になっていた料理長が立っていた。
 彼は、久しぶりに見かけるいたずら小僧の姿に、茶目っ気たっぷりの笑みを見せると、
「わざわざ解放軍から盗み食いに来たのか、坊主?」
 そう言って笑った。
 フッチはそんな言い方をする彼に、不満気な表情を見せたが、すぐにそれを引っ込めると、
「今日は違うってばっ!」
 噛み付くように怒鳴った。
 小さいころから見てきたフッチのそんな態度に、豪快に笑いながら、料理長は近くの椅子を示した。
 乱暴に椅子を引き寄せたフッチは、ドカリとそこへ座り、すぐに自分がここに何の用事で来たのか思い出した。
 これから話を聞こうとしている人相手に、喧嘩を売ってどうするのだろう、自分は。
 とは言うものの、相手の料理長自身は、喧嘩を売られているとも思っていないようであったけど。
 こほん、と咳払いを零し、フッチはまじめな表情で、料理長を見上げた。
「あのさ……ハンフリーさんって、分かる?」
「元帝国の百人将軍ハンフリー・ミンツだろう? 知ってるさ。昔、竜狩りの手伝いを要請しに来たときに、あの人に料理を作ったのは俺だからな。」
 打てば響くように返ってきた返事に、フッチは身を乗り出す。
 ヨシュアの台詞にここへ来たのは、きっとこれに理由があるに違いないと思ったのである。
 キラキラと目を輝かせて、
「それでっ! ハンフリーさんが欲しがるものって、何っ!?」
 ぐぐ、と本題に入った。
 料理長は顔を顰めると、顎に手を当てて首を傾げる。
「欲しがるもの……? あー、そういや、なんか言ってたなぁ。」
「何っ!!? 何々なにっ!!?」
 フッチが勢いをつけて料理長に迫る。
 間近に近づいたフッチの顔を避けつつ、料理長は天井を見上げ――あ、と暗く呟いた。
「何が欲しいのっ!? ハンフリーさんは、何が欲しいってっ!?」
 料理長は、しばらく黙っていたが、やがて、怪しいくらいのさわやかな微笑みを浮かべると、ぽん、とフッチの肩を叩いた。
「フッチ、プレゼントというのはな、その人にあげたい、と思う気持ちを持つことが、何よりも大切なんだ。
 心を込めて選んだものなら、どんなものだって喜んでくれるさ。
 何も、その人が一番欲しがるものを捜さなくても良いと思うぞ。」
 うんうん、とわざとらしいくらいの言葉でもって、フッチを説得にかかる。
「でも、一番欲しがる物が分かってて、どうして他の物をあげるのさっ!?」
「いや、どちらかというと、あげないほうが良いものとかもあるんだ。」
「………………っ、そんなのは、俺が決めるよっ!!」
 迫ってくるフッチに、料理長は駄目駄目と言いたげに首を振っていたが、フッチに首を絞められ、慌てて上下に首を動かせる。
 目を据わらせたフッチから解放された料理長は、ごほごほと咳き込みながら、喉をさする。
 いらいらとそれを見ていたフッチが、早く、と急かすと、やっと――無駄だと思うけど、といいたげに、料理長が口を開いた。
「竜洞騎士団に来たときに、こう言っていたんだ。
 名物料理、竜殺しを食べたいと。」
「…………………………っ!!!!!!!!!! りりりり、りりりりりりりりりりりりり………………りゆう、ごろし……って…………っ!!!!」
 その時、フッチを襲ったのは、恐怖という名の戦慄であった。
 それは、竜の住む竜洞でしか手に入らない、貴重な食材の名前である。他に何と形容していいのかわからないが、そういう名前の、とにかく「食材」なのである。
 が、フッチは、決してそれを「食材」などと呼びたくはなかった。
「言っとくが、俺はそんなもの、料理したくないからな。」
 はっきりと言い切った料理長に、フッチは焦ったように天井を見上げた。見てもどうとなるものでもないのだが、やらずにはいられなかたのである。
「ああ、プレゼントは、手作りの方が、気持ちがこもってるな。
 ――フッチ、作り方を教えてやるから、お前、作ってやれ。」
「あーははははっは……駄目、駄目っ! それだけは、やだっ!!!」
 ふるふるふるふる、と必死でかぶりを振るフッチに、料理長は、問答無用でレシピを押し付けた。
 そうして、にっこりと笑うと、
「健闘を祈る。」
 まるで、これから初の戦場に出る兵士を送るかのように神妙に、そう告げたのであった。




 ミリアは、ヨシュアがサインをした書類を確認しながら、解放軍で起こった事を説明していた。
 誕生日パーティというものの存在を、フッチが知ったことから始まったのだと。
「売り言葉に買い言葉で、ルック君に言い放ったのが始まりなのですが、実際ハンフリー殿に欲しいものがないとなり、余計にやっきになっているようです。」
 淡々と語るミリアの口調に、その時の様子が眼裏に浮かんできて、ヨシュアは苦笑を刻んだ。
「ああ、それでか。
 フッチは、ハンフリーには直接聞かなかったのか?」
 尋ねたヨシュアに、ミリアの視線が天井を仰いだ。
 珍しく言いよどむ姿を見せるミリアに、ちらりと視線を当てる。
 別に言うように促したつもりはないけれど、ミリアはそう受け取ったらしい。
 重い口調を開くように、そっと唇を開けた。
「聞いたのですが、その時、ハンフリー殿は――その、竜洞騎士団の名物料理は、食べたことがないと、そう言ったので……。」
 最後が、消えるようになってしまうのは、ミリア自身、ハンフリーが食べたがっている物がどういう物なのか、良く分かっているためであった。
 きっと、聞いたヨシュアも、それは無謀だと笑うに違いないと思ったのだが。
 団長は苦い笑みを刻み込み、こう呟いた。
「それなら、まずいことをしてしまったかな?」
「……はい?」
「料理長が知っている、ハンフリーが欲しい物というのも、竜殺しなんだ。」
「……………………………………………………………………。」
「参ったな。」
 口ほどには参っていないような表情で、ヨシュアは次の書類を手に取った。
 無言でミリアはその様子を眺めていたが、すぐ側に近づいてきている足音が聞こえたような気がして、がくりと肩を落とした。
 そうして、ほんの少しの間もおかずに。
ばぁんっ!
「ヨシュア様ーっ!!!!」
 泣いているとしか思えないフッチの声が、飛び込んできた。
 彼は、解放軍でハンフリーに「欲しいもの」を聞いたときにも見せた、泣きそうに歪めた顔で、両拳をギュゥと握ると、
「りっ、りっり……竜だましが生息してる場所、教えてくださいーっ!!!!!」
 やけくそ、と言った具合に、叫んだのであった。


――――竜だましというのは、竜洞のみに生息している、幻の食材と表現される、非常に貴重な食料である。
 栄養価も高く、非常食にも向いている、確かに貴重きわまりない食材で、主に竜洞騎士団名物料理、「竜殺し」の料理に使われているものである。
 形状を説明すると食欲が失せるので、見ない方がいいのであるが、味はこの世の物とも思えぬもので、食仕方を間違えると、あっというまにこの世から立ち去らねばならないという代物である。
 その竜だましなのであったが、これを獲得するのは、とてつもなく難しく、昔はプロの捕獲者が存在していたというほどである。
 竜洞騎士団が封鎖されていたということもあってか、今は竜だまし捕獲のプロは存在しなく、それゆえに、滅多に食せぬものとなっていた。
 別に食べなければ食べなくてもそれでいいのであったが。
 ハンフリーが食べたいものがそれだと、決定してしまった以上、フッチはやるしかなかったのである。
 きゅ、と虫捕り網を構えるフッチの隣で、ヨシュアは無言で最近身につけることなどなかった鎧を、ミリアに手伝わせて身につけていた。
 何故か小さな盾を利き腕の逆の上腕部に付け、更にしっかりと兜まで被っている。
 いでたちは、どこかへ戦争に行くようであった。
 虫捕り網を手にしていたフッチは、しっかりと武装したヨシュアを、不思議そうに見上げる。
 そんな彼に、ミリアは無言で胸当てと、兜を差し出した。
「もし、危なくなったら、すぐに戻ってくるんだぞ。」
 言い聞かせるように言うミリアに、フッチはますます不思議そうな顔になる。
 そんな彼に、
「お前も一度、竜だましを見ているだろう? 料理をする直前の物を。
 あれでもまだ、弱っている方なんだよ。」
「……………………え?」
 フッチが持つ虫捕り網は、鋼鉄の網に代えられ、ミリアはご武運を、と囁く。
「ああ、後は任せた。」
 すり抜けの札を手にして、 ヨシュアが重々しく頷く。
 フッチは、完全武装した団長を見上げ、無言で自分の軽装を見下ろした。
 そして、聞いてはならないと思いながら、尋ねる。
「あの――……今までにも、竜だましを捕まえようとした人って――……。」
「聞かない方がいい。」
 即答であった。フッチに最後まで言わせることすらしない。
 フッチは思わず絶句して、自分の軽装を改めて見下ろし、無言で渡された胸当てをつけはじめる。
 しっかりと槍を持ち、正面を見据えて、唇をきつくかみ締める。
 緊張に満ちた顔をするフッチに、ヨシュアは励ますように笑っていった。
「私も付いて行くから――最低の事態だけは避けるさ。」
 しかしその台詞は、フッチの安心感を呼ぶどころか、
「最低の事態って――――何………………。」
 冷や汗を誘うばかりであった。




 暗い洞窟の中は、独特の匂いがした。
 生まれたときから当たり前のように嗅いでいた匂いであったのに、ほんの少し離れただけで、嫌に鼻についた。
 鼻の頭に皺を寄せて、フッチは顔を顰める。
 竜の体臭であると分かっているのに、それが懐かしいというよりも、かぎなれない物として感じてしまう自分が嫌だった。
 そんな自分にか、それとも洞窟内に充満するその匂いにか、不快感をあらわにしながら、落着かなげに、ヨシュアの後に続く。
 慎重に歩みを進めるヨシュアの足音は、まるで空を飛んでいるかのように聞こえない。
 けれど、フッチの遅い歩みの音は、足元の岩を踏みつけたり、石を蹴ったりする音もあいまって、洞窟内に響いて聞こえた。
 それが、あの生き物を寄せ付けるのかと思うと、思わず歩いていた足が止まった。
 ヨシュアはそれでも先に進んでいき、その背中が暗闇に消える前に、慌てて追いかける。それと同時、フッチの足音がまた再開された。
 これも、経験のなせる技なのだろうかと思いながら、解放軍に帰ったら、フウマに足音の消しかたを学ぼうと決める。
 奥へ奥へ――暗闇の広がる場所へ向けて、ヨシュアは歩みを進めて行く。迷いのない足取りは、どこに「あれ」が住むのか、良く分かっているようであった。
 フッチは、ごくん、と息を呑む。
 こんなことになるなら、ハンフリーさんへのプレゼントは、肩叩き券か何かにしておけばよかったのだ。テンプルトンが、そんなものにするのっ!? と、馬鹿にしたように言うから、もっと凄い物をプレゼントしてやるって、意気込んだのが間違いだったのだ。
 そんな後悔ばかりが胸に込み上げてくるのを、必死の思いで飲み込みながら、フッチはヨシュアの背中を見つめる。
 大丈夫、この方がいれば、絶対大丈夫。
 そういう確信はあるけれど、だからと言って、この洞窟の暗闇に対する恐怖が薄れるわけでもなかった。
 ヨシュア様がいても、突然暗闇の影から、あの、恐怖の触手が伸びてくることだってあるのだ。
 緑色の、ぬるぬるした触手に付いている体液は、確か、人の皮膚を溶かすと聞いている。少しでも触れたりしたら、重度のやけどをしたような跡がつくのだと。
 世の中には、不可解な生き物が多いというけれど、竜だましだって、相当の不可解さである。いっそ、絶滅してくれたら、どれほど嬉しいことであろうか?
 つい最近知ったばかりの、「幻の料理」を思い浮かべて、フッチはため息を零す。
 と、その時であった。
「……っ。」
 不意に前を歩いていたヨシュアの背中がこわばった。
 フッチは、その少しの動作に、とっさに反応して、槍を握る手に力を込める。
「ヨシュア様?」
「…………何か、来る……っ。」
 小さく尋ねると同時、緊迫した声が返ってきて、フッチは大きく背中をしならせた。
 何かというのは、何かであろう。
 とどのつまり、あれ、である。
 この暗闇の中、洞窟の中、来るものといえば、モンスターと――……っ。
「ど、どっちから……っ。」
 慌ててヨシュアの背中に、自分の背中を向けて、見渡せる範囲に視線を走らせる。
 けれど、暗闇に包まれた洞窟は何もみえない。
 ヨシュアがかざすたいまつの炎だとて、そう遠くを照らせるわけじゃない。
 きゅぅ、と、強く槍を握り、フッチは震える体を叱咤した。
 それと同時。
 ずざざざぁっ!!
 遥か頭上から、地面が崩れるような音がした。
「……上かっ!」
 叫んだヨシュアが、意識を手の甲に集中させる。
 とっさの判断であったが、その少しの時間の間に、滅多に人前に現れない紋章が光を放ちはじめる。
 それが、たいまつの光をも凌駕する光を放つ――よりも前に。
 ごぉんっ!!!
「うわぁぁっっ!!!」
 鈍い音を立てて、ヨシュアとフッチの間に、何か固い物が落ちた。
 それと同時、ずさぁっ、と、目の前の地面に土埃が起きる。
 たいまつの明かりも、紋章が放つ光も、何もかもが巻き上がった土埃に掻き消える。
 フッチは、慌ててヨシュアに声をかけようと、口を開くが、崩れた土が落ちたためだろう。辺りに巻き起こる土が口の中に入ってしまい、ただ咳き込むだけとなる。
 フッチのその咳に、声が重なった。
 それは、ヨシュアの声ではなかった。
『何をするっ! 乱暴なっ!!』
 低いその声――音とも思える声は、聞き覚えがあった。
 ただ、どこで、だとか、誰の、だとか――そういうのは、まるで思い付かなかったけど。
『私の身体が欠けたら、どうする気なのだっ!』
 ぷんぷん、と怒った口調で言う「先に落ちてきたもの」は、土埃の中心にいる、「後から落ちてきた物」に文句を言い放つ。
 それを受けて、くすくすと――暗闇の中、笑うのは。
「そうしたら、メースに直してもらえばいいじゃないか。せっかくの巨匠の腕を腐らせるのはもったいないし、いい機会じゃないの?」
 良く聞きなれた……けれど、このような場所で聞いてはいけない声であった。
「あ、う……。」
 咳きを止めたフッチの驚いたような声に、ヨシュアのため息が重なる。
 彼は、手に持ったたいまつを、ゆっくりとずらし――遥か頭上から、滑り落ちてきた少年を映し出した。
 暗闇に浮かんでいたのは、思ったとおりの人の姿であった。
 そうして、どうしてか、ヨシュアとフッチの足元には、真の紋章である夜の紋章そのものである剣――星辰剣が突き刺さっていた。
「………………なぜ、あなたがここに…………スイ殿…………?」
 呆れ半分に訪ねたヨシュアに、地面に半分埋もれかかった星辰剣を持ち上げながら、少年は答えてくれた。
「そんなの、君たちと同じ理由だよ。
 竜だましを取りに来たんだよ――ハンフリーのために、ね!」
 いつもの武器ではなく、星辰剣を肩に担ぐ軍主様は、それはそれは楽しそうに笑った。
 たいまつに映し出されたその顔を見て、ヨシュアもフッチも思ったのだった。
 ああ、なんてこの人は、人生を謳歌しているのだろう、と――。
 それからすぐ、再会を祝すように三人と一本は、たいまつの火を囲んで作戦会議に入った。
 かの偉大なる食材、竜だましを手に入れるためには、綿密な作戦が必要となってくるのである。
「とりあえず、グレミオから聞いたんだけど、竜だましの生息地は、竜洞にある壁の切れ目だってね?」
「風の亀裂が入り込む場所だ。ここでも滅多に見つかることはない。」
 言いながら、ヨシュアは近くを見まわす。
 天井へと続く壁には、所々亀裂が入っている場所が見えたが、そこには風の声が聞こえなかった。
「ってことは、最初におびき出すことから始めるといいってことだよね。」
 結論を導き出して、スイは無言で星辰剣に視線をやった。
「で、竜だましの好物って、何?」
 星辰剣は、顔の形をした柄を歪めると、
『ピチピチの少年だ。』
「ああ、ちょうどいい生け贄がいるな。」
 にっこりと、即答したスイに、ヨシュアが顔をしかめる。
「スイ殿がどうしてもとおっしゃるなら、あなたがおとりになることに、協力はしますけど。」
 けれど、軍主たるものが、そのような危険な目にあうのは、と、ヨシュアは憂い顔になった。
 スイはそれを聞いて、ああ、そのこと、と軽く返す。
「捕まえる張本人がおとりになってどうするの?」
 小首を傾げて、見上げるように笑うスイに、ぞくりと背筋が凍った気がしたのは、フッチだけであった。
 寒さに粟立った肌を撫でながら、フッチは辺りを見やる。
 けれど、悪寒はそこから来ているわけではないので、何もフッチの目には映らない。
「いえ、捕まえるのは私がしますから――。」
 ヨシュアが、フッチを庇うように身体を動かせるが、
『スイにおとりは無理だ。竜だましは、真の紋章の力を嫌うからな。』
 星辰剣の、嫌になるくらい冷静な声が、それを止めた。
 スイが、とどめを押すように、にっこりと笑った。
「そういうこと。
 だから、フッチ?」
 ヨシュアの腕をかいくぐり、フッチに近づいて、スイは彼の華奢な手を取ると、きゅう、と強く握り締める。
 そうして、少しこわばった気のするフッチの顔を下から覗き込むと、
「ハンフリーに、プレゼント――するんだよね?」
 まるで狙ったかのような台詞をはいた。
 フッチはそれを聞いて、ぎゅ、と拳を握る。
 それは、彼の決意の表明であり、横目でそれを認めたヨシュアは、こみあげる吐息をかみ殺すしかなかった。
 ――乗せられた気がしながらも。




 竜だましというのは、壁の切れ目に住む、大きさとしては、だいたい人の三分の一から半分くらいの大きさの、ちょっと大き目の生物と言ったくらいである。
 けれど、それが脅威になるのは、彼らの好物が、ぴちぴちの若さを持った子供ということなのである。
 子供の栄養満点な生物エネルギーを大好物とする竜だましは、普段は竜洞で眠る竜の生体エネルギーを盗み食いして生きている。
 けれど、時々迷い込む子供を包み込み、その触手に纏わり付く粘膜で溶かして食すのだ。
 たいまつの、細い明かりを便りに、古い書物の紐を解いて読み下すスイの声を聞きながら、フッチは汗を流す。
 声は良く響き、奏でる声音は確かに耳に心地よかったが、話される内容は内容であった。
「竜だましは、美味ではないものの、その独特の味わいと高い栄養価から、古くから食材として扱われてきた。
 主な料理としては、竜殺しと呼ばれる物がある。
 竜だましがそう名づけられた理由は、定かではないが、ひとつにはその姿が竜に酷似していることがあると……。」
「嘘ですっ! 絶対それは嘘ですっ!!!」
 フッチの、悲鳴に近い声は、すぐ間近から聞こえる、ずる、と言う音に掻き消される。
 それは奇妙に大きな音であった。
 フッチの瞳が、恐怖に歪められるのを見ながら、ヨシュアは無言で手に意識を集中させる。
 久しぶりに解放する力に飲まれないように、慎重に力を沸き立たせて行く。
 その波動を感じつつ、星辰剣が揺れる。
『すまないが、ヨシュア殿、私を持ち上げてくれるか?』
 近づいてくる――謎の音の主を見つめながら、伝えられた言葉にヨシュアは無言で従う。
 しっかりと柄を握り締めると、星辰剣が低く唸る。
『協力攻撃というのを、ご存知か?』
「……昔、少しだけ。」
 答えたヨシュアに、満足そうに星辰剣が揺れたかと思うや否や、
「竜だましの弱点は、未だ解明されず、また息の根を止めてしまうと、死体が猛毒の塊となってしまうことからも、竜だましを使った下手な料理の総称は、竜殺しとも呼ばれている。
 へぇ、竜だましを料理するには、殺しちゃ駄目なんだぁ。」
 未だ呑気に本を熱読していたスイが、のんびりと呟く。
『うむ。竜だましを料理するには、まず仮死状態で捕らえ、一度息を吹きかえさせてから、火薬を使って”まだ動ける状態”まで追い込むのだ。このバランスが微妙で難しいと言われている。一歩間違えば……。』
「料理人の死につながります。」
 答え、ヨシュアは油断なく辺りに視線を飛ばす。
 その視線は、いつ敵が襲ってくるのか分からないためというよりも、どちらかというと――。
「な、なんだか、気温が下がったような気がしませんか?」
 ぶるりと身を震わせて、フッチがとまどいの光を瞳に宿す。
 その理由を、ヨシュアも星辰剣も、良く知っていた。
「でもさぁ、死んだら猛毒の塊になるんだったら、胃の中ではどうなるの?」
 スイが本を閉ざしながらヨシュアを見あげると、強い光を宿す男の目が、壁の一点を見据えているのに気付く。
 のんびりとそこに視線を当てたスイは、そこで初めて気付く。――そういえば僕、武器を持ってくるの忘れたよ、と。
「人間の胃液に溶かされると、猛毒にはならないのです。おそらくは、空気に触れることが駄目なのではないかと言われています。」
 ヨシュアの答える声に、微妙に緊張が混じっているのに気付いて、フッチが驚いたように顔を上げた。
 そして、慌てて槍を握る手に力を込めて、ヨシュア、スイ、星辰剣が見ている壁を見やった。
 ずぅぅ、と音がして、びくんっ、とフッチの肩が跳ね上がった。
「…………なるほど。ってことは、今やるべきことは、いかに彼らを仮死状態に追い込むか、だね。」
 納得したようなスイの言葉に、フッチの眉が寄せられる。
「彼……ら?」
 何故に複数形なのか、と尋ねるよりも先に、目の前の壁の亀裂から、風の吹き込む音が聞こえ――。
「どうやら――産卵時期だったようですね……っ!」
 忌々しげに呟くヨシュアの声が、すぐ間近で聞こえ……。
『残念というか、幸いなことというか、成体はいないようだな。』
 星辰剣の、最後の一言に泣きそうな気分になったその瞬間、
ぐぎゃぁぁぁぁっ!!!
 戦闘は、開始された。




「なんであなたは武器を持ってきてないんですかっ!」
「いやぁ、そう言われても、星辰剣を持ち逃げする方に気をとられちゃってさぁ。」
 一体や二体なら何とかなったのだが、それが小さいとは言え、群れをなしているとなると、話は違ってくる。
「スイがいると、いっつもこういう状態が起きないっ!? そう思うのは、俺だけーっ!!?」
 ダッシュで走りながら、槍を振り乱すフッチの叫びに、同じように逃げているスイが、うーん、と首を傾げる。
「昔からトラベルメーカーとは言われるんだけどさ、なんでだろうねぇ?」
 あははは、と笑う声は、楽しそうであった。
 フッチが叫ぶ悲鳴とはまた違うのである。
 ヨシュアが、背後をチラリと振り返ると、スイに握られている星辰剣に声をかける。
「星辰剣殿っ! 奴等を黒焦げにすることはできますかっ!? 全身くまなく墨で覆えるような……っ!」
『できないことはないが、全身くまなくというのは……。』
 難しい、と答える星辰剣に、ヨシュアの顔が険しく顰められる。
「烈火の紋章クラスでも、最後の炎くらいではないと――っ。」
 奴らの皮膚を墨にすることは難しいと、ヨシュアが忌々しげに呟く。
 相手が一体であれば、なんとでもなるのだが、背後から迫ってくるブツは、十数体はいるのである。
 これらをことごとく相手にし――なお且つ殺さない程度に動けなくするなんて、絶対無理である。
「最後の炎なんて、こんな洞窟で使ったら、酸欠になるよ。」
 軽い足取りで、歩きにくい洞窟内を走るスイが、特に困っている様子でもない状態でそう口にした。
 それを聞いていたフッチが、本気で涙目になりながら、スイを睨み付ける。
「だったらどうするんだよっ!!!」
「えー? プレゼントしたいのはフッチだろうー? なんとかしてみせたらぁ?」
「スイ殿、今はそういうことを言わず……っ、くっ!」
 飛び込んできた一体を、手にしていた槍で払い、ヨシュアはその場で振り返る。
 べたんっ、と地面に落ちた幼体――とは言うものの、見た目はどう見ても一メートルはある――へ向けて槍の先を突きだし、フッチとスイを背後に庇うように立つ。
 フッチも、慌てて走る足を止めて、ヨシュアを振り返る。
「……仕方ないっ。フッチ、先に走り、竜達をこの洞窟から出してくれっ!」
「ヨシュア様っ!?」
 驚いたように目を見張るフッチの前に飛び出してきた竜だましを、ヨシュアが叩き落とす。
 不気味な動きを見せて、竜だましは、地面でバウンドして向こうへと跳ねた。
 どうやら、卵から孵ったすぐ後らしく、ひどく興奮しているようであった。
「彼らを殺す……。死体は猛毒の気体を発するから、ここをしばらく閉鎖する手続を取ります。それからスイ殿は、リュウカン先生を呼んでください。毒の中和を……。」
 槍を構え、手に宿る紋章の力を意識しながらそう告げるヨシュアに、フッチが悲壮な表情で唇をかみ締める。
「俺……俺の、せいで…………っ。」
 ヨシュアは、ここで彼らを食い止めるつもりなのだ。
 フッチとスイが外に出て、竜を避難させ、この洞窟を閉鎖するまで、ここで彼らを食い止めるつもりなのだ。
 そうして、全ての準備が整ったら、彼らを殺し、――へたをすれば、自分自身も危ないというのに、それを行うつもりなのだ。
「大丈夫だ。私にはすり抜けの札があるし……。」
 それに、紋章の加護があると、ヨシュアは続けられなかった。
 不意に、ヨシュアの横手から、竜だましが飛び込んできたからだ。
「……っ!」
 目を見張ったヨシュアの目の前で、びたんっ、と竜だましが床に激突する。
 視線の端に、星辰剣を鞘ごと叩き付けたらしいスイの姿が見えた。
 彼は、険しい瞳でヨシュアの隣りに立つと、無造作に右手の手袋を脱ぎ捨てた。
 その手の甲に宿る黒い紋章が、微かに光を放っている。
 強大な気配に、力の波動に、ヨシュアの紋章もまた、鼓動を始める。
「全てを闇に飲み込むのは容易い――けれど、望んでいるのはそれじゃない。」
 このような場合だというのに、彼はまだ竜だましを捕らえることを考えている。
 その非常識さに、眉を寄せるヨシュアに、スイは、静かな眼差しを向けた。
「さっき、星辰剣が言った言葉、覚えている?」
「…………。」
 無言で視線を当てるヨシュアの前で、恐怖を感じたのか、竜だましの幼体達が、じりじりと後退して行く。
 スイはそれに薄く微笑むと、
「逃がすものか。」
 冷たく、囁いた。
『協力攻撃ならば、力は倍となる。』
「……だが、それは……っ!」
 限られた者同士、気が合う者同士でしか、というヨシュアの言葉は、冷静なくらいの星辰剣の言葉により遮られる。
『禁断の技――真の紋章同士の共鳴は禁じられているが……これもまた、やむを得まい。』
「………………っ!!!」
 あまりの無謀さに、絶句したヨシュアの目の前で、スイの髪が逆立つ。
 力の波動が少年の全身を覆いはじめ、彼が手にした星辰剣の刀身が、黒い霧を纏いはじめる。
「ヨシュア様っ!」
 悲鳴に近いフッチの声が聞こえ、竜だまし達が尻尾を巻いて逃げて行くのが見える。
 けれどそれらは、まるで見えない壁にぶつかったかのように、ある一定以上先には進めない。
 がりがりと、見えない空気の壁を引っかく音がした。
 眼を見張るヨシュアに、星辰剣から漏れる唸りが聞こえた。
 そうして。
 かっ、と、空気を鮮やかに染めるように、毒々しい闇の紋章が浮かび上がる。
 闇という闇が、辺りを染め上げ、力の動きに伴う風すらもが、闇色に染まり――。
「ヨシュアっ!!」
 叱責するようなスイの叫びが聞こえた瞬間、ヨシュアは手をかざしていた。
 閃くのは、狂暴なばかりの力の波動。
 闇の声と黄泉の蠢き。そうして、異界の咆哮……――それらが何の物なのか、悟るよりも先に、あまりの力の強さに、意識が負けた。
 聞こえるのは、悲鳴に近い「何か」の叫びと。
「あ、たき火の火消してくるの忘れた。」
 こういう時にも関わらず、冷静な「誰か」の声であった。







 銀の丸い蓋がかぶせられた皿が乗せられたワゴンを押しながら、フッチは語る。
「俺、絶対に無謀なことはしません。」
 そう誓われたハンフリーは、何のことだかわからないまま、頷いてやった。
 何にしろ、フッチの片腕にまかれた包帯は、その「無謀なこと」によって出来た傷のためであることは、まず間違いないからである。
 とりあえず分かることは、この日からしばらくの間、竜洞騎士団の中で、名物料理が食べれたことと、竜洞内のとある区域が、立ち入り禁止になったこと。
 そうして。
「フッチ……あんまり無茶するなよ。」
 彼を挑発したという自覚のあるテンプルトンが、優しく声をかけてくれたくらいであった。






HAPPY BIRTHDAY