「三十八度五分――完全な夏風邪ですね。」
呆れた表情で、細い温度計を振りながら、クレオがベッドを見下ろす。
毎日ふかふかに干されたベッドの主は、珍しくおとなしくベッドの中にいた。
それもゴロゴロしているのではなく、枕に頭を預けて、仰向いている。
けれど、目は閉じているのではなく、うっすらと開かれ、少し潤んでいた。その目元も頬も、心なし紅潮している。
何よりも、額に濡れた布が置かれていた。
「真夏だからって、裸で水浴びなんてしてるからですよ、ぼっちゃん。」
心配しているのはしているのだろうけど、声はどちらかというと、呆れの方が多かった。
喉が焼き付くような感覚を覚えながら、スイは熱に浮かされた吐息を零す。
「裸じゃないよ。ちゃんと水着は着てたもん。」
言葉はかすれていて、スイは一、二度咳き込んだ。そんな彼に、水差しの水を、クレオが差し出した。
受け取って、乾いた唇を湿らせていると、クレオが頭痛を覚えたかのように額を抑える。
「門の紋章戦争」が始まる前、彼女がよく見せた仕種であった。
「ぼっちゃん? いくら水着を着ていても、水浴びする場所が場所だと、そう言ってるんですよ。」
「場所は良いところだったよ。森の中の川。天気も良かったし、水は冷たいけど。」
あまり長い台詞を話すのが辛いのか、一口二口飲んでから、水をクレオに返す。
それを受け取りながら、クレオは更に言い募ろうとした口を閉ざす。耳を澄まさずとも聞こえてくる、荒々しい足音があったのだ。
どうやら、この屋敷で一番の心配性がやってきたようである。
クレオは腕を組んで、だんだんと音が激しくなる足音を指差すように、ドアを示すと、
「同じような言い訳を、グレミオにもしますか、ぼっちゃん?」
意地悪く笑って見せる。
まるで地震でも起こったかのような音を聞きながら、スイは眉に皺を寄せた。
「頭に響く……。」
けれど、スイもクレオも知っていた。
今からこの部屋に飛び込んでくるグレミオこそが、何よりもの頭痛を引き起こしてくれるに違いないのだと。
「ちゃんとした言い訳を考えておかないと、後々大変ですよ?」
「うー……。言い訳っていうかぁ。
素直に、シークの谷で水遊びしてたって言ったら駄目?」
「一ヶ月謹慎を食らってもよろしいのなら、どうぞ?」
しれっとして答えるクレオに、二十歳にもなって、屋敷に謹慎かよ、と熱に浮かれた声で呟く。
その呟きを聞きとがめたクレオとしては、いい年して、シークの谷なんていう物騒な場所で水浴びして遊んでいるぼっちゃんは何者なのか、と追求したいところである。
まぁ、普通に川遊びしたくても、顔が知れ渡っているため、普通に遊べないスイの気持ちも分からないでもないのだが、いくらなんでも、竜に乗ってシークの谷へ川遊びとは――どこの貴族もできないような豪勢さであった。
「だってさぁ、スラッシュが勝手にアイスブレス吐くからぁ。」
「はいはい、言い訳はちゃんと考えてくださいね。」
適当にあしらいながら、クレオがコップの中に残っている水を、再びスイに示した瞬間。
「ぼっちゃーんっっっ!!!!!」
ばぁんっ! と、激しい音とともに、ドアが開いた。
開けた張本人の情熱とも言える熱気が、ドアから流れてきた気がして、クレオは嫌そうに目を細める。
その先には、どこから走ってきたのか、顔を汗だくにしたグレミオが立っていた。片手に抱えきれないくらいの大きさの紙袋を抱えている。
紙袋の頭から、リンゴらしいてっぺんが覗いている。
「ぼっちゃんっ、ぼっちゃーんっ!
大丈夫ですかっ? 身体はどうです? あ、汗出てますっ!? 着替えましょうかっ!?」
そのままの勢いで、ベッドに寝ているスイに間合いをつめると、愚鈍そうな仕種で視線をやったスイを、覗き込む。
「ちょっとは落ち着きな。」
まったく、と呆れた声を出すクレオの声も耳に入らない様子で、
「ああ、熱は下がっていないようですね。喉は乾いてませんか? お腹の具合はどうです?
ちょっとお部屋の換気でもしましょうか? そうそう、りんごを買ってきたので、擦りましょうか?」
次々にとスイに語りかける。
クレオは駄目だこれは、と肩をすくめると、水を替えてくると、洗面器を手にした。
スイはそれを恨めしそうに見つめたが、そうしてもグレミオの「これ」が直るはずもないと分かっているのだろう。熱い吐息を零し、
「平気……熱があるだけだし。」
けれど、乾いた喉が咳き込み、身体を九の字に曲げて口を手で覆った。
それを見たグレミオが、慌ててスイの背中をさする。
「ぼっちゃんっ! 大丈夫ですかっ!? そうだ、喉に良いように、大根に蜂蜜を垂らした物を持ってきましょうっ! 喉に効くと、オニールさんが言ってましたっ!」
なんで、オニールの言うことを信じるんだ、お前は。
そう思いながらも、咳が酷くて返事が出来ない。
慌てて部屋から出て行こうとするグレミオに、いつもはこういう時、凄く冷静なくせに、と心の中で呆れる。
やはり、昨夜、四十度を越えたのがいけなかったらしい。これほどの高熱を出したのは、ずいぶん昔以来だった。
あの時は、まだこの国は赤月帝国と呼ばれていて、医者を連れてこようとするパーンとクレオを外に出し、グレミオは唯ひとりでスイを見ていたのだ。苦しそうなスイと、ずっと二人で、冷静に処置をしていたのだ。汗を拭い、着替えをさせて、擦ったリンゴを口に含ませ、唇を湿らせ、部屋を換気させながら、ずっと側に付いていた。
状況的には、それよりもずっとマシであるのに、何だろう、この落ち着きの無さは。
「大丈夫だよ。三十八度とは言うけど、そんなに酷いようには思えないしさ。」
ほら、しっかりしたものだろ? と、スイは片手を振った。
その手を握って、グレミオが紙袋から何かを取り出した。
それは、小さな瓶に入った液体だった。
「それ……?」
「リュウカン先生に、特別に調合していただいたんです。熱に良く効くそうですよ。」
さ、飲んでくださいね。
グレミオはそう言いながら、瓶を差し出す。
ベッドの中からそれを受け取ったスイは、無言で日に透かせるように瓶を揺らすと、
「なんていって貰ってきたの?」
熱で潤んだ瞳を、グレミオに飛ばした。
それを受けて、グレミオは無言で紙袋を覗き込む。
「あと他にですねぇ、ロッテさんから、水枕を。マリーさんからは特製健康スープをいただきました。
そうそう、それから……。」
「お前、戻ってくるまでに、どれだけの人に言ったんだ?」
熱があるにも関わらず、スイの瞳は冷ややかな光を帯びていた。
この色を、グレミオは良く知っていた。愛情込めて育てたグレミオの功績ではないこの瞳は、スイ自身が有する天性の瞳――覇王としての目であった。
「え、えーっとぉ?」
グレミオが、愛想笑いを浮かべる。
スイに傾倒する者達ならば、スイのこの瞳を受けた瞬間、ぴしり、と背筋を正すのであったが、マクドール家の住民だけは違った。
特にグレミオは、朗らかな笑顔を浮かべて、
「ぼっちゃんは、皆さんに愛されてるって証拠ですねっ!」
ごまかすような言葉を吐いていた。
スイは、それに更に冷ややかな視線を向けた後、
「だから、誰に?」
先を促すように、顎でしゃくった。
グレミオは、無言で胸の前で手を組んだ後、えへ、と首を緩く傾げ、
「…………リュウカン先生でしょう?」
「ロッテと、マリーと、それから?」
「えーっと……、バレリアさんとか、ヘリオンさんとか……そ、それくらいですかね?」
「へぇぇぇぇ? それだけ? 本当に?」
こくこくと頷くグレミオの、わざとらしさに、スイは小さく舌打ちすると、額にかかった前髪を掻き上げる。汗の滲む額が見えた瞬間、グレミオは小さく息を呑んだ。
額に宿された紋章が、うっすらを光っていた。
「ぼぼぼぼ、ぼっちゃんっ! 同盟軍にお手伝いに行くのはいいんですけど、そういうお借りしたものは、帰ってくるときに返すのが一番だと思うんですよぉっ!」
「いいんだよ。同盟軍で、これと相性がいいのは、限られてるんだから。」
汗に濡れた前髪の下、蒼き門の紋章が光っている。
「も、もう! 自室で紋章を使うのも、禁止ですよぉ。」
「大丈夫。昔から良くやってたことじゃないか。」
「誉められません、ぼっちゃん……。」
にこにこにこにこ、と、片方は熱で汗を出し、片方はそれ以外の理由で熱をたらしながら、けれど表面上は穏やかに微笑みあう。
クレオがこれを見たならば、呆れかえることであろう。
そのまま微笑みあう二人の、緊迫したムードは、その「クレオ」によって遮られる。
がちゃり、と扉が開く音がして、クレオの声が聞こえた。
「グレミオ、あんた、表で何しゃべってきたんだい?」
彼女は、持っていった洗面器を持っていなかった。
変わりに、あでやかな花束を抱えていた。
かすかな風と共に、むせかえるような匂いが部屋を埋め尽くす。
クレオの顔を覆うくらいの巨大な花束は、抱えているというよりも、クレオを食い尽くそうとしているようであった。
「それは……?」
嫌な予感に顔を顰めたスイに、そうですよ、と言いたげにクレオが頷く。
「ミルイヒ様からの、お見舞いです。」
「……………………………………グレミオ?」
「あ、そ、それはですねぇ。風邪に良く効くハーブを貰おうと思いまして……。」
淡々としたクレオの言葉に、スイが冷ややかな眼差しを向ける。
慌ててグレミオが両手を組み合わせ、笑顔で語る中、
「それから……。」
と、クレオが続け、部屋の中に入り、す、と横にずれた。
一体そこに何があるのかと、視線をやったスイは、瞬間、グレミオを射殺すかと思うくらいの勢いで、睨みを利かせた。
「スイ殿っ! お風邪で寝込まれているとお聞きしましたが、大丈夫ですかっ!!?」
飛び込んできたのは、やはりレパントであった。
「………………公務放ってまで来るなよ…………っ。」
小さく舌打ちしたスイの視線から逃れるように、グレミオが、ズカズカと入ってきたレパントの背後に移る。
それを見ながら、スイはしぶしぶ身を起こそうとする。が、レパントがそれをとどめる。
「スイ殿はそのままで。お加減はいかがですか?」
「さっきまでは普通だったんだけどね。」
言われた通り、横になったままレパントを見上げる。
見舞いに来た相手が、白い頬を紅潮させ、熱を持った風であるにも関わらず、レパントはどこか嬉しそうであった。
恐らくは、こういう時でもない限り、プライベートでスイと会えないのを良く分かっているためであると思われる。
まぁ、バレリアに会っただとか、ヘリオンに話した、という時点で、レパントの耳にも入っているだろうことは分かっていたし、彼の性格上、「使いをやらせる」ということが皆無なのも良く分かっていた。
多分、本人が来るのだろうなぁ、と予感はしていたが、まさかこんなに早いとは思っても見なかった。
というか、早すぎである。絶対公務をサボってきたに違いない。
レパントも学習能力がついたのであろう。もう少し遅かったら、スイのガードが固くなることを良く分かっているのだ。
「ああ、それはいけませんね。ゆっくりお休み下さい。何せ、スイ殿は、このトラン共和国にとっても大事なお方ですから。」
「ああ、名前だけはね。」
「いいえっ! その御身も大事ですともっ!」
「例の英雄の部屋の銅像で十分だろう?」
にこやかに返してくれるスイの言葉に、レパントはヒヤリ、と背筋が凍るのを知った。
「スイ殿、そんな悲しいことをおっしゃらないでください。」
「そう思うなら、あの英雄の部屋、撤去してくれる?」
「それは駄目です。あれもまた、トランの経済効果に貢献しておりますれば。」
「知ってる。英雄まんじゅうだとか、せんべいだとかは許せるけど、さすがに英雄肖像画とか、英雄像とかを売ってるのは、笑止千万、即刻焼死って感じだけどね。」
本当に熱があるのだろうか、と思うような弁舌に、レパントはなるほどなるほど、と頷いている。
その結果、
「つまりは、食を追求する土産物というのを用意してみるのもいいとおっしゃるのですね?」
レパントの出した結論は、それであった。
いや、誰もそんなこと言ってない、とスイが突っ込むよりも先に、
「確かに、都市同盟の方では、美食を追求する動きもありますしね。
いや、さすがスイ殿。同盟軍にお手伝いをしながらも尚、トランの事を考えてくださるとは。
ああ、やはり次の大統領はスイ殿が優勢かと。」
「レパント?」
感動に身体を震わせる大統領に、にこやかに英雄は笑いかける。
その頬が紅潮し、瞳が潤んでいるところが、彼を愛らしく見せ、いつもの怜悧な面は影を潜めている。
が、声は限りなく冷ややかであった。
「そんなに、自分の寝室がトラップルームに化してるところ、見てみたいの?」
大統領の自室に、どうやって罠を仕掛けるというのか――そういう疑問は、全てこの少年の前には掻き消える。
何せ彼には、忍者の強い味方が三人もおり、コソドロ達のうまい扱い方法も熟知しているのである。
「あ……いえ……その。
あ、そうそうっ! お見舞いに何かお持ちしようと思ったのですが、時間がなく、ご用意できませんでした。
ですから、何かおっしゃってくだされば、すぐにご用命にお応えしますよ。」
無理な話題転換をするレパントに、スイは一度瞳を瞬かせてから、そうだね、と小さく呟いた。
それから、上目遣いでレパントを見上げると、
「それじゃ……ひとつだけ。」
少し照れたように笑う。
レパントも大きく頷き、答えようと言いたげに笑ったその刹那。
「良く吹き飛ぶ爆弾をね……英雄の部屋に、設置しといてくれる?」
「…………………………………………………………。」
レパントの笑顔が凍った瞬間であった。
ベッドで寝込む人よりも、尚顔色が悪いレパント大統領が出ていってすぐ、グレミオが良く冷えたお茶を盆に乗せてやってきた。
彼は、顔色が良くなったような気のする主の顔を覗き込み、グラスを渡すと、
「あんまりレパントさんをいじめちゃだめですよ。」
そう忠告した。
「失礼だな。」
ひょうひょうと呟くスイの顔色は、朝よりもだいぶ良くなっていた。
けれど、ここで気を抜いては夜に熱がぶりかえすだけである。
グレミオは、リュウカン特製の薬をベッド脇に置きながら、ベッドの端に腰掛け、汗が滲んでいるスイの頬に布を当てる。
「お昼ご飯は、消化のイイモノにしましょうね。食べれますか?」
「どうせ寝てたら直るよ。」
心配するグレミオに苦笑いを見せながら、汗でべとつく感じのするシーツを引っ張る。
その仕種だけで、スイが望むものが何なのか悟ったグレミオが、すぐにシーツを変えますねと、立ち上がるのに、
「ついでに寝間着も代えるから、変わりの服と、あと、身体を拭えるような布くれる? べたべたでさ。」
話を聞いている限りでは、スイはまだ元気そうである。
普通、三十八度も出していたら、天上が回るだとか、息を荒くしながら寝ているのが普通であろうに。
もしかしたら、熱が下がってきたのだろうかと思ったグレミオの予想は、触れた肌の熱さから、間違いであると判断された。
とどのつまり、数年前と違って、基礎体力ができているので、多少の熱では体力が負けることがないのかもしれない。
「そこで待っててくださいね。動いちゃ駄目ですよ。」
「身体が熱いし、だるいなぁ、とは思うけど、そう辛いわけじゃないんだよ。動いてたら、熱、下がらないかな?」
ゆっくりと首を傾げるスイに、
「そんなことしたら、ベッドに括り付けますよ。」
びしり、と持っていた布でスイを指差し、グレミオが宣言する。
多分そんな答えが返ってくるのではないかと思っていたスイは、はいはいと、口先だけで頷く。
そんな高熱を出しているはずの少年を見つめて、グレミオが吐息を零したその時であった。
不意に、庭の方で声が聞こえたような気がした。
グレミオは、軽く首を傾げながら窓の外を見やった。
庭を覗き込むようにしてグレミオは身を乗り出し、あ、と呟く。
その声に、どこか不穏な物を感じたスイが、寝間着を脱ごうとした手を止める。
「何かあったの?」
「………………えーっと…………ヘリオンさんに言ったのが、いけなかったみたいですね。」
えへ、と振り返ったグレミオの額に、一筋の汗が滴っていた。
スイは、剣呑に瞳を細めると、
「……で? 誰が下に来てるって?」
脱ごうとしていた手を、完全に止めた。
「スイさん。肺炎になったと聞いたんですけど……っ。」
「大丈夫?」
ひょこ、と顔を覗かせたのは、この辺りでは見掛けない花を抱えたキルキスとシルビナであった。
二人のエルフは、忙しいであろうに、焦りながら来てくれたのだろう、額を汗でぐっしょりにさせていた。
スイは、ベッドの上に身を起こし、グレミオに椅子を用意するように指示出しながら、花を受け取る。
「肺炎だなんて、大袈裟だよ。ただの夏風邪だって。」
「でも、四十度も出たと聞いています。」
不安そうな表情でスイを見るキルキスに、こくこくと頷きながらも、シルビナの瞳は少し剣呑である。病気で倒れているスイの心配をしているのはしているのだが、愛するキルキスが他の人のことで心が一杯になっているのに、嫉妬しているらしい。
あいかわらずの二人に微笑を浮かべながら、密かにグレミオを睨む。
ただの夏風邪で、寝ていれば直るというのに、そういう事を言うから、こうなるのだ、と言いたげである。
けれど、わざわざ忙しい合間を縫ってやってきてくれたキルキス達に、そんな事をいうわけもなく、
「見ての通り、熱があるだけで、そう辛いわけでもないんだよ。
でも、心配してくれてありがとう。」
「いえ、当然のことをしただけですから。
でも、無事で何よりです。」
にこ、と笑うキルキスに、シルビナも、にっこりと笑う。
そんな二人に頷きながら、
「こんな機会に感謝するのもなんだけど、でも、本当――君たちの元気な姿が見れただけでも、風邪を引いた甲斐があったって感じだね。」
「…………スイさんったら。」
「……もうっ! 何照れてるのよ、キルキスっ!」
そういうシルビナだとて、顔が赤い。
ばしばしとキルキスを殴る手が、どこか照れ隠しにも似ていて、キルキスが慌てたように彼女の手を掴む。
「痛いっ、痛いってば、シルビナっ!」
けれど、そういう彼の声は、どこか笑いを含んでいて、幸せそうで、スイは思わず微笑みを零した。
「――と、それじゃ、スイさん。これでお暇しますね。」
彼女がおちついたころを見計らって、キルキスが唐突にそう呟いた。
二人のじゃれあいを、微笑ましそうに見つめていたスイは、はた、と我に返ったような表情になった。
「でも、今来たばっかりじゃないっ!」
シルビアも不満そうに唇を尖らせる。
キルキスはそれに微笑みながら、
「スイさんは、体調が良くないんだから、長居するのも失礼だよ。
それに、僕たちも強引に近い方法で出てきたから、早いところ戻らないとね。」
「そうかぁ。」
しゅぅん、と首を落とす彼女に、キルキスは小さく頷くと、改めてスイを見た。
「ルビィが、風邪が直ったら一度顔を見せて欲しいと言っていました。本当は一緒に来たかったのですが――……。」
「ううん、こっちこそ、無理に来てもらったみたいで、悪いね。
ルビィにも伝えておいて。
直ったら、面白い手土産もっていくってね。」
スイがおっとりと笑う姿に、背筋が凍るような感覚を覚えたのは、キルキスだけだったらしい。
「ほんとぉっ!? 待ってるねっ!!」
ぱふ、と手を合わせて喜んだのは、シルビアであった。
キルキスは、どこか薄ら寒い物を覚えたまま、両腕を抱きしめ、
「待ってますね……。」
と、そう呟いた。
続いての来訪者は、キルキス達が帰ってすぐのことであった。
「今度は誰さ……。」
確かに、動いた方が熱が下がるかも、と言っていたのはつい先ほどのことであった。
出来ることならお帰りをお願いしたい所なのだが、滅多に訪ねて来ない昔の仲間達が、わざわざ忙しい中を縫ってやってきたとなれば、一目でも顔を見せて安心させてやりたいとは思うのだ。
「やっぱり、お帰り願いましょうか?」
はらはらとグレミオが眉を顰めるのに、大丈夫だと、スイが片手で制する。
「で、誰なの?」
「フッケン殿達です。」
「ああ、念仏のひとつでも唱えてくれるかねぇ?」
「不吉なことをおっしゃらないでくださいよ。」
そうこうするうちに、トラン共和国内に残っていた元仲間達がほとんど集まり、次から次へと見舞いをしていった。
普通の状態でも、これほどの人数の相手をしたら、疲れ果てるに違いないはずなのだが――。
「なんだか、ぼっちゃんの顔色がだんだん良くなっていくように思えるのは――私の気の性かい?」
そうクレオが言うほどに、スイの顔色が良くなっていった。
機嫌も良くなっていっているような気がする。
「来ている人の生気を毟り取っているようですね。」
「そんな感じかね?」
なるほど、と同意したグレミオは、疲れている「はず」のスイに、暖かなミルクを差しだそうと、ドアをノックする。
中から返ってきた返事は、軽快としか思いようのない返事であった。
部屋に入ると、案の定スイは、朝よりも気分が相当良くなった顔色で、上半身を起こし、本を読んでいた。
「ぼっちゃんっ! 何やってるんですかっ!!」
「カマンドールがさぁ、面白いって持ってきてくれたんだよ。」
結構面白いよ、と答えるスイに、グレミオは頭痛を覚えたようにこめかみに指を当てた。
「あの人は――っ! ったく、昼間は熱が下がるから、元気に思えるんですけど、問題は夜なんですよ、夜っ!?」
ぶつぶつ呟きながら、グラスをテーブルに置いたグレミオは、そのまま箪笥を探りはじめる。
そして、真新しいシーツを、肌触りの良い寝間着を取り出す。
「さ、お客様が絶えている間に、着替えましょう。シーツも代えましょうね。」
「はぁーい。」
ぱふ、と本を閉ざしたスイが、おとなしくベッドから降りて、寝間着を脱ぎはじめる。
スイが服を脱ぎおわるまでの間に、手慣れた手つきでシーツを剥ぎ取り、くるくるくる、と纏める。
その後、スイの肌に濡れたタオルを押し当て、汗を拭き取ってやる。
「お疲れでしょう? ぼっちゃん?」
「そうでもないけど――あ、でも、ミーナが来たときは、さすがに疲れたなぁ。」
「ファンの人をいっぱい連れてきましたしね。」
ごめんねぇ、と笑いながら見舞いの品を抱えてきた少女を思い出し、グレミオが苦笑を浮かべる。
スイの肌を一通り拭った後、彼に着替えの寝間着を手渡し、自分はベッドにシーツを敷いた。
用意された寝間着を広げ、それを被ろうとした瞬間、耳にあわただしい音が聞こえた。
それは、誰かの足音のようで、ふ、とドアを見る。
――と。
「スイっさぁぁぁーんっ!!!!」
「インフルエンザで死に掛けって、本当ですかっ!?」
「いや、癌の末期症状で、もうすぐ死ぬというのは、本当なのかっ!?
「スイ様っ! スイ様に逝かれたら、私、私……っ!」
「スイっ! お前のような魔神でも風邪って引くものなのかぁっ!?」
「これ、レックナート様からの見舞い品。」
ドアが爆発でもするかのように開いたかと思うや否や、怒涛のような勢いで、声という声が飛んできた。
始めに飛び込んできたリオが、そのままの勢いで、立ち尽くすスイに抱き着く。
続けるように、ナナミが反対隣に抱き着くと、二人の姉弟は揃って声を合わせた。
「スイさんっ! 風邪を移して直るものなら、移してください〜っ!!」
「ああん、スイさんの素肌、すっべすべ〜っ!」
寝間着を着ようとした体勢のまま、スイは右腕にリオ、左腕にナナミをぶらさげることとなる。
「自分が軍主だって自覚あるの、君?」
グレミオに、そうめんを手渡しながら、ルックが突っ込むが、そんなことをリオが聞いているはずもなく。
「なななな、ナナミさぁーんっ!!!」
泣きそうなカスミの声に、ナナミも反応するはずもなく。
「あの……二人とも、僕……着替えたいんだけど。」
服を手にしたまま、スイが困ったように二人を見比べる。
慌ててグレミオが、シーツを引っつかみ、スイの身体にかけてやった。
そして、強引に、リオとナナミごと、ベッドの上に沈めると、
「ところで皆さん、どうしてぼっちゃんが具合が悪いと、知ってるんですか?」
改めて、フリック、ビクトール、シーナ、ルックを見やった。
カスミは、慌てたように、いえ、あの、とか呟いていたが、それがまともな返事にならないことを知っているからこそ、一同は苦笑を見せた。
「さっき、バルカスに聞いたぜ?」
フリックが当たり前のように頷くのに、
「そうそう。で、トランの入り口で、カスミに会ってな。」
「きゃーきゃーっ!! そ、それは言わない約束でしょうっ! ビクトールさん!!!」
慌ててカスミがビクトールの口を塞ごうとする。
ビクトールは、それを笑って躱す。
シーナがそれを笑いながら、二人の姉弟に、「気遣っている」振りをしながら、ほぼ押し倒される格好のスイを見下ろす。
「けど、なんで風邪なんて引いたんだよ?」
「どうせ、またくだらないことしてたんだろ?」
ルックも覗き込み、スイの額に手を当ててたり、やっぱり熱があります、と首筋に手を当ててたりしているリオとナナミを見やった。
これも相当くだらないけどね、とルックが心の中で続けたことは、確かであった。
そんな二人の悪友を、上目遣いに見ながら、
「そう他人事でいられるのも、今のうちだよ?」
にやり、と、笑った。
その笑いは、ただの負け惜しみというには、あまりにもわざとらしくて――……。
「スイさぁーん?」
猫撫で声でたずねてくるシーナに、にっこりと笑いかけると、
「ああ、ほら、来たみたいだね。」
と、窓の外を指差した。
裸で冷え切ったスイの身体を暖めてあげようと、悪乗りしていたリオとナナミも、その声に、ふ、と顔を上げた。
窓の外に見えるのは。
「…………竜………………?」
呆然としたリオの言葉に、ビクトールが眉をきつく寄せる。
「竜洞騎士団からも、見舞いが来るのかよ?」
まさか、と、フリックが笑い飛ばそうとしたが、それは舌で止められる。笑うに笑えない――そんな状況であった。
竜が、風に乗って飛んでくるのが見えた。
グレミオは、ひょい、とそれを覗き込むと、
「ぼっちゃんが風邪を引いたのは、自業自得ですから、お見舞いはいいって言ったんですけどねぇ。」
「あのヨシュアが、それで済ませるはずないだろう?」
しれっとしてそう告げた後、呆然とするリオとナナミの下から抜け出し、さっさと寝間着を着込む。
それからスイは、満面の笑顔で、こう告げた。
「竜騎士に、ちゃーんと、君たちのこと――頼んであげるからね。」
シーナとルックを、しか、と見据えて。
とどのつまりは。
「…………つまりお前、一日寝ていて、暇なんだろう?」
ビクトールが指摘した通りなのではないかと。
「さぁね?」
翌日から、同盟軍でも風邪が流行ったのは――夏風邪を引いている人の所へ、見舞いへ行こうと言った軍主が考えなしだったのだと、軍師に怒られるリオの姿が見えたとか、どうとか……。
さて、一体諸悪の根元は、どれなのだろうか?
ARE YOU HAPPY?