大陸でも名を馳せる、赤月帝国の首都、グレッグミンスター。
数多くの貴族が屋敷を構える中央に、黄金宮殿と呼ばれる城がある。
都のどこにいても見上げることの出来る美しい宮殿にあがることが許されるのは、ごくごく一部の人間だけということもあってか、宮殿へと続く一本道を歩む人をうらやむ目で見る人も少なくはなかった。
宮殿へと続く正門には、いつも凛々しい兵士が立ち、とてもではないが、近づけるような雰囲気ではなかった。
だから、たとえ憧れの場所とは言えども、ちょっとした見物がてら――たとえば、扉が開いた瞬間に、ちょっと中を覗いてみようかという気持ち――で覗くことは、到底できなかった。
いつも正門の回りには、ピリピリした空気が流れ、誰一人としてそこに近づくことはできない。そう、宮殿に入ることが出きる人以外には、できない、はずであった。
けれど、今日ばかりは、少し勝手が違った。
まじめな表情で、警戒をあらわにしている門兵達の隣で、青年が一人、壁にもたれて立っている。
兵士というようないでたちでもなく、また貴族というような格好でもない。
普通の庶民のように簡素な姿で、中途半端に伸ばされた髪を後ろで軽く結わえている。その結わえたゴムだとて、これといって立派な物でもなく、ごく普通の安物のように見える。
とてもではないが、宮殿の前で立っているような人物には見えなかった。
本来なら、そのような青年が門の前に立っていたら、門兵が追い払うこと間違いなし、なのに、門兵は、まるで青年がそこにいないかのように正面を睨んでいる。
そして、青年もそれが当たり前のように感じているらしかった。
暇そうに両腕で抱えた大きな籠を抱き直したり、整った顔立ちを空に向けて、何やら物思いにふけったりしている。
一見あまりにもおかしな光景であったが、何故かそれを気にかける人もいなかった。
なぜなら、この光景は、最近良く見慣れた物だったからである。
夕暮れが近づいていた空が、少しずつ陰りはじめ、のほほーんとしていた青年が、さすがに不安を覚えた風に眉を顰めたその時になって、やっと、彼がここに立っていた原因が現れた。
門兵達が、ぴしり、と居住まいをただして、門を囲むように身体を向けた。
内側に開いた門の影から、毅然とした表情を貼り付けた娘が一人、姿をあらわす。
凛、とした姿勢と、涼しげな目元が魅力的な女性である。
彼女は、編み込んだ髪を背中で跳ねさせながら、礼儀正しく頭を下げる門兵の間を通り抜ける。
きっちりと頭を下げた彼らは、彼女が通り抜ける瞬間、ほんの少しだけ頬を赤らめる。
憧れの女性を、毎日こうして見送れるのは、彼らの特権なのである。
娘は、そのまま帰路につこうとして――ふ、とその歩みを止めた。
視線を向けた先には、正門近くで壁にもたれていた青年が立っている。
彼は、籠を抱え直して、にこ、と彼女に笑いかけた。
「お疲れ様です、クレオさん。」
疲れた心をも溶かすような、穏やかな微笑みを向けられて、彼女は唇に笑みを刻んで、ゆっくりと頷いた。
「もしかして、待ってたのか、グレミオ?」
親しげに笑いかけ、近づいてくるグレミオを待つ彼女の背で、門がゆっくりと閉まって行く。
「約束したでしょう? 一週間は、ちゃーんと送り迎えしますってね。」
まるで軽口でも叩くようにそう言いながら、グレミオがクレオの隣に立った。
ここ二年の間に、同じくらいだった身長は、ひょろりと背高になったグレミオの方が、頭一つ分も大きくなっていた。
兵達に囲まれているクレオには、まだまだ痩せ気味の感が拭えないグレミオの身体であったが、背だけは一人前である。
近づけば見上げなくてはいけない彼の身長に、ほんの少し不機嫌の顔を滲ませて、クレオは腰に手を当てる。
「良く言うよ。どうせお使いのついでじゃないか。
で? 今日は何を手伝えばいいんだい?」
さすがに五年も同じ家に住んでいるのだ。今更他人行儀なことはしない。
肩をすくめるようにグレミオをうかがうと、彼はいたずらげに瞳を細める。
「帰りに、買い物をしようと思ってるんです。
それで、ちょっと荷物を持っていただけると、助かるんですけど。」
「……普通、荷物持ちは男の仕事、だと思ったんだけど?」
「大丈夫ですよ、ほら、クレオさんは、男顔負けだって聞いてますし。」
しれっといて言い切るグレミオに、クレオは面白くもなさそうに背高の彼を睨み上げる。
けれど、そこにはどこか面白そうな色があって、決して本気で怒っているわけではないことが、グレミオには良く分かっていた。
「またテオ様だね、そういう事をあんたに吹き込むのは。」
「優秀な片腕だと、誉めてらしたんですよ。」
「こういう時まで言われても、嬉しくないね。
あんたも、たまには私に付き合って、稽古をつければいいんだよ。別に弱いわけじゃないんだからさ。」
いつもはマクドール家で 家事一切を負っている彼ではあったが、クレオ自身から飛び刀の手ほどきも受けているし、テオからも時々、体術を学んでいるのを知っている。
一般市民というには戦士よりで、戦士と言い切るには役不足。それがクレオが彼に抱いているイメージであった。
もっとも、普段の彼を見ている分には、一家の主婦以外の何者でもなかったけれど。
「うーん……前から言ってると思うんですけど、私、戦いとかそういうのって嫌なんですよね。」
「人を守るためには、力がいるもんだよ。」
グレミオの籠の中に、無造作に手を突っ込み、そこからツヤツヤと照り輝くプラムを手にしたクレオは、指先で皮を拭ってから、かぶりつく。
柔らかに歯にあたる感触に、微笑みを零すクレオを横目で見やりながら、
「それ、ぼっちゃんのおやつにって、ミルイヒ様から貰ってきたんですよ……。」
そうぼやいてみるが、籠の中には、まだいくつかの果物や野菜があったので、それ以上注意することはしない。
唇の端から垂れる汁を、指で拭いながら、クレオは笑う。
「いただいてきた、だろ? ったく、あんたの頭の中は、あいかわらずぼっちゃんばっかりだね。」
「何言ってるんですか、クレオさんっ! ぼっちゃんの、あの天使のような笑顔を前にして、正気を保っていられる人がいたら、それはもう、化け物ですよ、化け物っ!!」
「あんたほどメロメロになるのも、ある意味化け物だと思うけどね。」
握りこぶしで力説するグレミオに、軽く肩を竦める。
確かにテオの息子である坊ちゃんは、可愛いし、愛らしいとは思う。良くあれだけ放っておかれて――いや、グレミオからは異常なくらいの愛情を注いでもらっているようであったが――天使のような笑顔を浮かべる素直な子供に育っているものだと思う。
まぁ、時々見せる天性のやんちゃ坊主なところは、素直と呼ぶよりも、子悪魔の片鱗とでもいうべきであったけど。
「クレオさんも、ぼっちゃんから、愛らしさのステータス貰ったらいかがですか? きっと、モテモテですよー。」
「あんた、そこの噴水で水浴びしてくるかい?」
にこにこと、邪気のない笑顔で言われても、それが悪気があるようにしか聞こえない。
無言で正面を指差すクレオに、グレミオは籠を抱え直しながら視線をやり、あれ、とすっとんきょうな声をあげた。
「………………なんです? あれ?」
驚いたように目を瞬かせるグレミオに、今度は何があったのかと視線をやったクレオは、自分が指差した先の噴水が、人だかりで埋もれているのに気付いた。
確かにこの噴水は、名物とも呼べるものであったから、それなりに人が集まってはいたし――何よりも、ここから見える黄金宮殿の景色は一品だと有名であったし――、にぎわってもいたけど。
黒山の人だかりを前に、二人は足を止めた。
人々は何かに熱中しているわけでもなく、ただ左右に流れて行くだけのようにも見えた。
ただ、彼らの顔は一様に笑顔で、手には見なれないものが握られていた。
それを認めた瞬間、二人は互いの顔を見合った。
「夏祭りかっ!」
思わず叫んで、二人は改めて正面の通りを見やった。
人込みが凄くてわかりにくかったが、確かにいつもと違うランプが吊り下がっていたり、ちょっとよそ行きの服を着た人達が、出店で買ったらしい食べ物を手にしているのが見えた。
「そうか、もうそんな時期なのか。」
最近特に忙しく、城につめっぱなしの日が多く、日付感覚もなくなっていたクレオは、しみじみと呟く。
隣で、グレミオも大きく頷いて同意する。
「月日って、早い物ですよねぇ……。」
クレオはそんな彼を見上げて、少し呆れた視線を向ける。
「ってあんた、さっきもここを通ってきたんじゃないのかい?」
クレオを迎えに来るときに、ここを通ってきたはずだろうと、胡乱げな目を向けられて、グレミオは、ゆっくりと首を傾げる。
「そーいえば……騒がしいなぁ、とは思ったんですけど。」
天然な青年に、呆れたように額に手を当てたクレオは、今更だとすぐに気付き、緩くかぶりを振った。
クレオの髪が左右に揺れて、グレミオの腕にぶつかった。
つい、と視線を当てたグレミオは、彼女の髪を掴むと、
「去年は、テオ様とぼっちゃんと一緒に、いろいろまわりましたよねぇ。」
懐かしそうに、呟く。
クレオは乱暴に自分の髪を奪い返す。そして、人込みを指差し、嫌そうに彼を見上げる。
「で? ここを通って、買い物をしていくって?」
とてもじゃないけれど、屋台にたかる人や、どこからか涌いてきている人の合間を縫って、普通に買い物を済ませられそうには見えない。
「もちろんですよ。夕飯の材料、まだ買ってないんですから。」
しれっとして言い切る青年の顔と、人込みとを見交わして、クレオは知らずこめかみに寄っていた皺を揉み解した。
そうして、静かに、彼を見上げると、
「去年みたいに、そこらの屋台を覗くんじゃないよ?」
指先を突きつけて、キッと睨む。
グレミオは、間近にある彼女の顔を見下ろして、そらとぼけるように、顎に手を当てた。
「そうそう、あの時は、いろいろありましたよねぇ。」
「あれは、あんたも一口噛んでいただろ。――ったく、珍しい料理のことになると、すぐ理性が無くなるんだから。」
肘でグレミオの腰をつつきながら、しぶしぶ歩き出したクレオが、お小言のようにグレミオに続ける。
「だいたいねぇ……。」
「あっ、クレオさん! あれは何でしょうっ!?」
「言ってる側から行くんじゃないっ!!」
ぐいっ、と、半ば乱暴にグレミオの後ろ襟首を掴み、自分へと引き寄せる。
そして、少し背伸びをして、彼の耳元に剣呑な表情を近づけると、
「ほんっとうに、わかってんのかい、あんたはっ!」
「だってぇ、あれ、見たことないんですよぉぉー? おいしそうな匂いもしてますし……ね? ねね? クレオさん??」
すがりつくように瞳を瞬かせ、上目遣いい間近で見つめられ、クレオはにぃっこりと笑った。
直後、
「そんな顔しても可愛くないよ、この大馬鹿っ!」
ぎりりりっ、と、音がするかと思うくらい力を込めて、グレミオの耳を引っ張った。
痛がる彼を無視して、強引にその場から連れ出しながら、いつもの店の前までやってくると、
「後で来ればいいだろ。」
やっと、グレミオを手放す。
ヒリヒリする耳をさすりながら、彼が涙目で尋ねてくる。
「…………ほんとですかぁ?」
「ほんとほんと。約束しよう。」
どこか投げやりなクレオの返事に、けれどグレミオは満足したらしい。
笑顔でクレオに笑いかけた。
「…………それじゃ、さっさと御用事すませて、ぼっちゃんを連れて、来ましょうねっ!
きっと、ぼっちゃんも喜びますよっ!」
「…………あんたって、ほんとに――……。」
どこか呆れたようなクレオの声も耳に入っていない状態で、グレミオはいそいそと買い物を始める。
その際、自分が今まで抱えていた籠をクレオに渡すことを忘れない。
籠をクレオに押し付けながら、グレミオが朗らかに笑った。
「さ、早く戻りましょうっ、ぼっちゃんが待ってますっ!」
天真爛漫とも言えるその笑顔に、クレオは笑みを誘われながら、意地悪げに返した。
「バクチクでも仕掛けてね……。」
――と。
ぱんっ、ぱんぱんぱんぱんっ!!
「わーい、グレミオひっかかったぁっ!」
「ぼ、ぼっちゃーんっ!!!!」
やっぱりこうなったのか、という光景を見ながら、先にグレミオから奪い取った荷物を抱え直しながら、クレオはのんびりと屋敷の中に入った。
屋敷のすぐ外では、煙に咳き込んでいるグレミオと、楽しそうに笑っている幼子の姿が、微笑ましく――見えていたのであった。