真夏の怪談


 がたがたがた……。
 夏にしては強めの風が窓を鳴らしている。
 いつもは蝋燭を使って明るい室内は、今日はテーブルの上に一本だけの蝋燭が灯され、広い室内には、薄暗い闇が落ちていた。
 その蝋燭を手にとり、彼女は白い面を照らし出すと、長い睫を伏せる。
 睫の影が、薄く頬に落ちた。
 陰影を濃く映し出すつややかな唇をそっと開き、
「これは、本当にあったおはなしです。」
 まるで演技するように、わざとらしく低い声で囁く。
 その声は、目の前に掲げた蝋燭の明かりを揺らした。
 ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえ、それを聞いた後、彼女は少しの間を取って、再び口を開いた。
「今から少し前のことです。
 そう、まだ各地が戦争の痛手から立ち直っていない時のことです。」
 ゆらり、と揺れる蝋燭を持った女は、テーブルの差し向かいに座る聞き手達を一瞥する。
 真ん中に座る少年は、きゅ、と幼い顔立ちをしかめ、隣に座る青年の袖を掴んでいた。
 真剣な顔は愛らしく、思わずいじめてしまいたい気分になる。
「テオ様の命を受けて、その男はサラディに住む人を訪ねました。」
「ち、父上の……。」
 女の――クレオの声に、少年の瞳が歪む。
 見知らぬ噂話ではなく、実の父である男の名前が出てしまったことで、否応なく現実味が高まってしまったのだ。
 これから話される内容に、嫌でも意識が集中してしまった。
 うまく少年の意識を集めることに成功したクレオは、微笑みたくなるのをこらえ、先を続ける。
「サラディに住む人は、戦争の後から、奇妙な現象に悩まされており、テオ様に相談を持ち掛けていたのです。
 男は、その人からどのような状況であるのか、詳しく聞き、報告書に纏めると、そのままサラディを立ちました。」
「奇妙な現象って、何っ!?」
 どこか上ずった声で聞いてくる少年に、クレオはちらり、と意味深な瞳を向けると、にこりと笑い、
「それは、もう少し先で。」
 と告げた。
 おどろおどろしい声ではなく、いつものクレオの声であったのに安心したのか、少年は緊張にこわばる唇を少しだけ綻ばせる。けれど、隣に座るグレミオの袖を握る手は、力を込められたままである。
「さて、寝ずに山越えをするつもりの男でしたが、最近はこの辺りに山賊が住み着いているという話を聞いて、腕に自信の無い彼は、頂上近くの宿屋で一泊することにしました。」
「……悪かったですね。」
 ぽつり、と呟いたグレミオの声は、真剣に話を聞いている少年の耳には入らなかった。
 同じように、クレオの唇から語られる話に、真剣になっているパーンも聞こえなかったようだ。用意された冷えたグラスを握り締めたまま、微動だにしていない。
 ただ、少し離れた場所に座るテオだけが、肩を震わせるようにして笑いをこらえている。
 クレオは、グレミオの声を右から左へと聞き流し、素知らぬ顔で先を続ける。その時、必死で笑いをかみ殺しているテオに、忠告の一瞥を与えることを忘れない。
「遅くに宿を求めたためもあって、少しのスープを貰い、部屋に入ったのは、日付も変わろうかという時間でした。
 思ったよりも身体が疲れていたのでしょう。彼は、部屋に入るなり、ベッドに沈み込んでしまいました。
 そうして、そのまま眠りにつき――。」
 クレオは、そこでいったん言葉を切った。
 そうして、自分に視線をあてている少年と、パーン、テオを見比べ、最後にチラリとグレミオを見やった。
 グレミオとテオだけは、この話の続きを知っている。
 グレミオは、一人素知らぬ顔でテーブルの上に置かれたナプキンと格闘していた。見たところ、ナプキンで作られているのは鶴のようであった。
 テオはテオで、面白そうな顔で、パーンと息子の反応を見つめていた。
 そんな彼らに、冷ややかな視線を当てた後、クレオは気を取り直して、長い間を開けてしまった話の続きにかかった。
「どれくらいたったのか、ふ、と男は目を覚ましました。
 辺りは暗く、窓からは月明かりが差し込んでいました。
 ぐっすり眠っていたのに、どうして唐突に目が覚めたのか分からぬまま、男は再び目を閉じました。」
 少年が、しっかりとグレミオの袖口を掴む。
 思いもよらず力強い指先で袖を引っ張られて、グレミオが視線をあげると、少年が震える唇を真一文字に結んでいるのが見えた。
「奇妙な感覚が、彼を包んでいました。
 かけたはずの毛布の重みが、まるで感じられず、にも関わらず、足や腕には、毛布の柔らかな感触が、いつもより鮮明に感じるのです。
 そして、目を閉じても、いっこうに眠りは訪れてくれませんでした。
 それどころか、ますます頭がすっきり冴えていきます。」
 何が起こるのだろう、一体どうなるのだろう?
 そんな思いで、少年がグレミオの腕をしっかりと握るのに、グレミオは小さくため息を零す。
 そりゃ、確かに、グレミオだとて彼に怖い話をすることはあるけれど――さすがにあの話は、彼にはまだ早いのではないか、と思う。
 このまま少年の腕を掴んで、部屋から出ていってもいいのだけど、好奇心旺盛な少年は、話の先を知りたがるのであろう。
 怖い話をされたあとは、一人でトイレに行くのも怖いくせに、一人で寝るのも怖いくせに――人一倍好奇心は旺盛なのだ、子供というものは。
 グレミオは口元に微笑を浮かべながら、目尻に涙を溜めている少年の頭を、そっと撫でてやる。
「と、その時でした。
 ドアの外から、ヒタヒタヒタ――誰かの足音が聞こえたのは。」
「……っ。」
 少年が小さく吐息を飲む声が聞こえた。
 グレミオは、変わらない手付きで頭を撫でてやる。
 少しでも彼が、落ち着くようにと。
「足音は近づいてきました。
 誰か宿泊客かと思った男ですが、足音は、彼のドアの前で止まりました。
 そうして、すぐ後――トントントン……ドアを叩く音がしました。」
「ややや、宿屋の人かなぁぁ?」
 少年が、引きつる声でクレオに尋ねる。
 何か言っていなくては気が済まないようであった。
「いや、真夜中に来る者っていったら、決まってますよ、ぼっちゃん。」
 自信たっぷりに言い張るのはパーンであった。
 そのパーンの「言い方」に、何が来るのか悟ったテオが、
「スイにはまだ早い。」
 教育的指導を入れる。
 理解できないような表情の少年に、グレミオは愛想笑いを入れながら、クレオに先を続けるよう促す。
 それを受けて、クレオは再び蝋燭をかざし、唇を開く。
「男は、宿屋の人が何か言い忘れたかなにかだと思い、声を掛けましたが、返事がありません。立ち去るような音も聞こえず、彼はドアを開けました。
――その前にはっ!」
「わわわわっ!?」
「――――誰も、立っていなかったのです。」
「え、えええええっ!!!?」
 涙目になったスイが、しっかりとグレミオの腕にしがみつく。
 その背中をなだめてやりながら、グレミオが優しく声をかける。
「きっと、他の部屋に入って行くのを聞き間違えたんですよ。」
 ね? と、覗き込むようにあやすと、スイは眉を絞り、必死に涙をこらえる。
 スイが泣くかどうか、一瞬言葉を止めて待っていたクレオは、彼がこらえたのを見て、先を続けた。
「男もそう思い、寝ぼけていたのかもしれないと、ドアを閉めました。部屋に戻り、ベッドに横になり、今度こそ寝ようと目を閉じた、その時です。
 部屋の隅の方で――ペロリ……舌なめずりする音が――っ!!!」
「うわっうわっ、うわっ!!!!」
 抱き着くようにグレミオの腕に身体ごと体当たりしたスイに、グレミオが慌ててふんばりながら彼を支える。
「けれど男は、生来の呑気者だったので、ねずみの声だと思い、そのまま眠りについてしまいました。
 その耳に、かすれたような”待って……”という声を聞いたような気がしたまま。」
「ひゃう! ひゃうひゃうひゃうーっ!!!」
「…………そそそそ、それって、まさか、まさ……ゆ、のつくものじゃねぇよなぁぁぁ?」
 悲鳴とも呼べない悲鳴をあげたスイが、必死の表情でグレミオの腕に顔を埋める。
 さしものパーンも、クレオの語り口調と醸し出す雰囲気に、言葉の端々が揺れていた。
 唯ひとり、テオが悠然とワインを傾ける。戦場での気を紛らわせる手段として、こういう話は良くされていたからである。――そう、慣れているのだ。
 同じように、語り手として慣れているクレオの口調は、おどろおどろしく、恐怖を醸し出すのにたけていた。
「さぁ、どうでしょう?」
 クレオが、意味深に笑う。
 グレミオは、苦笑を滲ませながら、スイをおびえさせている彼女を軽く睨み付けた。
 直後、テオが半分に減ったワインを揺らしながら、
「その続きを当てて見せようか、クレオ?
 男は翌朝になって気付くんだ。自分が体験したこれは、その日サラディの男から聞いた話の内容と同じなのだと。」
 にやり、と笑った。
 スイが眦に涙を溜めた目で、そんなテオを見る。
「そ、それって……?」
 少し濡れたような声は、しゃくりあげる寸前であった。
 グレミオは彼をあやすように、自分の膝に抱き上げるようにして頭を撫でてやる。
 きゅぅ、と強く力を込めて、スイはグレミオの胸元に顔を埋める。
 そんな息子を、苦笑とともに見ながら、テオが続ける。
 彼もまた、この話は息子には早すぎたと理解したのだろう。クレオの話にオチをつけようとするかのように、口火を切った。
「そう、つまり、彼は話を聞いたために、そのことを夢に見てしまったということだ。――良くあるだろう? おはなしを聞いた後に眠ると、同じような夢を見るということが。
 それと同じだ。」
 だから怖がることはないと、テオがスイをあやすように笑う。
 けれど、スイはどこかとまどうような表情でクレオとグレミオを交互に見やる。
 クレオは、テオの言葉を受けて、もっともだと言いたげに笑った。
 そうして、蝋燭をテーブルの上に奥と、手の平を組み合わせた。
「ええ、そうです。テオ様のおっしゃるとおり、その男もそう思いました。奇妙な話を聞いたから、同じようなことを夢に見たのかもしれない、と。」
 神妙に続けるクレオの唇が、微笑んでいた。
 どうやら彼女は、このまま怖い話を済ませるつもりはないようであった。
 ぞくり、と背筋をはうような恐怖を味わいながら、スイは彼女をジッと見つめた。
 そんなスイとクレオの様子を、テオが眉を顰めて見つめるが、ここまで来てしまったら、最後まで聞かないと息子の気が済まないと思ったのだろう。おとなしくワインを傾ける。
「そしてそのまま彼は眠り、翌朝、宿を立ちました。
 その帰り、彼は偶然にミルイヒ将軍に会いました。彼もまた、グレッグミンスターに帰るところでした。
 心優しいミルイヒ将軍に送っていただき、彼は無事グレッグミンスター入りを果たしました。」
 何事も無かったかのように進んで行くクレオの話に、ホッとしたように胸をなで下ろしたスイに、クレオが、一段と声を潜める。
「家に帰り、その夜再び眠りにつきましたが、何も起こりませんでした。
 ああ、やはり夢だったのだと、彼がそう思った数日後のことです。
 目に隈を作ったミルイヒ将軍がテオ将軍をたずねてきたのです。」
「………………。」
 ごくん、とスイとパーンが息を呑む。
 この先を、テオもグレミオも良く知っていた。
「ミルイヒ将軍は、グレッグミンスターから帰ってきたその日から、奇妙な現象に悩まされているというのです。」
「そそそそそ、それって………………っ!」
 声を震わせたスイに、ゆっくりと頷きながら、クレオが続ける。
「そう――夜中に目を覚まし、誰かが戸を叩くのだと。
 けれど戸を出ても誰も居なく、部屋に代えると舌なめずりをする音がする。」
「うわわわわあっ!」
「猫ではないのかと言ったのだがな。」
 テオがひょうひょうを口にして、顎を撫でた。
 けれどその声は、幸いにも、話に真剣になったスイにもパーンにも聞こえてはいなかった。
 もしも聞こえていたのなら、これが「真実の話」であることを裏付けてしまっていることに気づいて、大変なことになっていただろう。
「ミルイヒ様が出会った現象は、サラディの男の怪奇現象と、まったく同じだったのです。
 不思議なこともあるものだと、男は思いました。
 けれど、その日の夕暮れ、届いた手紙によって、それは不思議な現象ではなくなったのです。
 手紙は、サラディの人からでした。
 彼は手紙でこう書いてきたのです。」
 クレオはそこで一拍置いた。
 緊張するようなパーンとスイの、息を呑む音が聞こえた。
「彼が訪ねてきたその夜から、ぱったりと奇妙な現象は止まったよ、と。」
「わわわわわっ!!!!」
「うっわぁっ!!」
 派手にパーンが椅子を鳴らし、スイが叫んでグレミオにしがみついた。
「そう、つまり、その男の怪奇現象は、グレッグミンスターからやってきた男の元に移り、更にミルイヒ様の元に移ったのです。
 そのミルイヒ様も、テオ様を訪ねたその日から、ぱったりとやんだそうです。
 つまり、その先は――………………。」
「わーわーわーわーわーわーっ!!!!!」
「言うなっ! それ以上は言うなーっ!!!!」
 スイとパーンが、仲良く声を揃えて叫んだ。
 そして、スイはしっかりとグレミオにしがみつくと、テオとクレオを涙めで睨むと、
「きょう、グレミオと一緒に寝るっ!!!」
 そう、叫んだ。
 テオもクレオも、何か言いたげな表情になったが、すぐにそれを引っ込めると、早々にテーブルの上に立つ蝋燭を点けに席を立った。
 夏の夜の怖い話は、これでお終い、というわけである。
 だんだんと明るく為って行く室内を見ながら、パーンが身を震わせ、見えもしないのに、辺りを探る。
 温かい飲み物でもどうだい? と、からかうようにパーンに笑うクレオを見ながら、グレミオが小さく苦笑してみせた。
 腕の中で、しっかりと自分に掴まっている幼子は、半泣き状態である。このまま一緒にベッドに行くまで、離してくれないこと間違いなしである。
 そんなスイの背中を撫でながら、
「…………実はその、テオさまの使いの男って――私なんですけどね…………………………。」
 グレミオは、ぽつり、と心の中でそう呟いたのであった。
 更に続くお話――ミルイヒから、「とある人」への媒体になったのも自分であった、ということは、きっと言わないで居る方がいいのであろうことは、目にみえて分かっていることであった。







数年後──怖がりのぼっちゃんが、こういう話に滅法強くなることを、まだ誰も知らない……