招待状が届けられた時、少年は鮮やかに微笑み、わざわざやってきてくれた使者に篤く礼まで述べていた。
その笑顔は、使者を見送り、玄関の扉を閉めるまでしか続かなかったけれども。
一転して不機嫌な顔になった少年は、受け取った招待状を開きもしないで、そのまま玄関の棚の上に置き捨てる。
そして、全てを見なかったことにしてリビングに帰ろうとしたスイは、廊下へと続くノブを掴んだ。
それと同時、まだまわしてもいないのに、ぐるん、とノブが回る。
慌ててノブから手を離すと、それを待っていたかのようにドアが開いた。
思ったとおり現れたのは、このマクドール家の主婦であった。
「ぼっちゃーん、使者の方を――って、あれ?」
にこ、と笑った金髪の美青年が、驚いたように目を見開け、誰もいない玄関を見やった。
きっちりと閉められたドアの前にも、広い玄関のどこにも、人はいなかった。
あれあれ? と見回す彼の脇を通って、スイは玄関の向こう――廊下へと抜け出した。
口うるさいグレミオが何だかんだと言ってくるよりも先に、さっさと裏口から逃げようと決めたのである。
もっとも、帰ってきてからの落ちる雷の量が倍増することは間違いないのだけど。
やはり、最低でも一週間は――そう、招待状に書かれた日付までは帰ってこない方がいいのは間違い無い。
あまり気は進まないが、山向こうにある同盟国に逃げ込むのも手であろう。
その際の言い訳は、「悪い夢を見て、君が心配だったから」とでも軍主に言っておけばいいであろう。
そう決めたら、後は簡単であった。
通り道にある厨房で、バナーの山を越えるために必要な食料品を盗み取り、適当な布袋を手にした瞬間、
「ぼっちゃん?」
玄関に置き捨ててきた義母に追いつかれてしまった。
ぎくっ、と肩を揺らしたスイは、彼に気付かれないように布袋を隠しながら、笑顔で振り返った。
「なぁに、グレミオ?」
「これは、何ですか? レパントさんからの招待状のようですけど?」
ひらひらと、グレミオが封筒を振った。
仮にもこの国の大統領である者の招待状である。そういう扱いはまずいのではないのだろうか?
「ああ、それ? まだ先の話だよ。」
にっこりと、満点の笑顔で告げてくれたけど、彼を育てた張本人であるグレミオまでだませはしなかった。
グレミオは、わざとらしいくらいのため息を零すと、手にしていた封筒を無言で破った。
「グレミオ! お前、人に来た物を――っ!」
慌ててスイが飛び掛かるのを、ひょい、と避けて、封筒の中から厚い紙を取り出す。手に心地よい感触を返してくる紙は、スイのためにわざわざ取り寄せたのだろう、どこだったかの国のみが原産しているという、最上級の紙に違いなかった。
以前――同じ紙に招待状を書いた時に、スイが来てくれたことを、しっかりと覚えていたのだろう。
どうしても来て欲しい時は、この紙を使うことが多くなった。もっとも、「目立つ社交場」が嫌いなスイを招こうとするのは、いつも「どうしても来て欲しい時」だったのだけど。
上品な香の香りが焚き染められた紙を広げると、そこにはレパントが直筆で書いたのだろう、やや右上がりな文字と堅苦しい単語が並べられ、日付と時間が明記されていた。
それを認めた瞬間、グレミオの眉がキリリとあがる。
スイは、しまった、と言いたげな表情を浮かべる。
グレミオがすばやく目を走らせている間に、そろそろと――彼の脇を摺り抜けようとする。こうなった以上、荷物はあきらめるしかなかった。
着のみ着のままで出かけても、国境でバルカスが、バナーの村ではコウ達が良くしてくれるだろう。
よし、と決めて、そのまま裏口に向かおうとしたその後ろ襟首を、がしり、と掴まれた。
「ぼっちゃん。」
「――――――………………グレミオ、お願い、見逃して。」
じたばたと暴れるが、しっかりと掴まれた手は、まるで剥がれなかった。
「先ほどの使者の方は、どこまで説明してくださいました?」
「――さぁ? 招待状を見てないから、わかんない。」
首根っこを掴まれた猫のような姿で、肩を竦めて見せるが、グレミオは冷ややかな眼差しになっただけだった。
「………………まだ先のおはなしですって?」
「そう言っていたと思うけど。」
「そうですね、まだ、先、ですね――言い方次第では。」
「別に急ぐことでもないし。」
「――ぼっちゃんは、急がなくてもよろしいですよ? まだ、三日も先のおはなしなんですからね。
ただし、私は急ぐんです。」
「…………グレミオも、一緒に来る気なの? もしかして?」
茶目っ気たっぷりの表情でグレミオを見上げると、グレミオが冗談など言ってはいられない顔で、
「服の仕立ては、急がせても三日かかるんですよ。」
「――――………………。」
「それだけではありません。ぼっちゃんがなかなか着ないから、放っておいた上着とか、蝶ネクタイとか。」
「ふっざけんなよっ! 誰が真夏のくそ暑いこの季節に、蝶ネクタイなんて付けて、ダンスパーティに出るんだよっ!?」
「おや、タキシードはお嫌ですか? なら、うちにぼっちゃんが着れるようなものは、ドレスしかありませんね――奥方様の。
そうですね、それなら、夏用の涼しいドレスも、たくさんありますよ?」
にっこりと笑うグレミオに、スイは無言で視線をずらした。
やはり、グレミオに知られる前に抜け出さなくてはいけなかったのだ。
にも関わらず、抜け出させなかったのだから――一度見つかってしまったら、ダンスパーティが行われる三日後までに抜け出すことは、不可能に近い。
それは、過去のグレミオとの戦歴が十二分に物語っていた。
「ダンスは……苦手なんだよ。」
苦虫をかみつぶしたように呟くスイに、おや、とグレミオは、わざとらしく片眉をあげて答える。
「ダンスのレッスンの先生は、ぼっちゃんの足運びは見事ですとおっしゃっていましたけど?」
「五年以上も前の話だろうが。」
言いながら、五年前――まだこの帝都で過ごしていたころに、ミルイヒから紹介されて教わっていた先生を思い出す。
スイやテオが苦手とする白いフリルの襟が付いたシャツを着こなし、常に軽やかで洗練された足運びを義務づけたあの人。
今どうなっているのかは知る由はないけど、確かにあの男に教わった事は、役に立った。ちょっとした社交の場で恥をかくこともなかったし、武術でリズムをつけるのにも役立った。
けど、それとダンスとは別の話だ。テオにしても、スイにしても、「ダンスの稽古」は、社交場でダンスを踊るために身につけたというよりも、武術の腕を磨くため、足取りやリズムを身につけるために習ったと言った方がいいくらいなのだ。
それを、何よりも間近で見てきたグレミオ自身が良く知っているだろうに。
「ぼっちゃんの社交界デビューですからねぇ、どのような物をご用意しましょうか?」
うきうきという擬音が浮かんできそうな明るい声で、グレミオはさりげにスイの後ろに隠された食料を元の場所に戻す。
そして、そのままの動作でスイの手首を掴み、にこ、と笑った。
「さ、まずは採寸しましょうね。サイズは変わっていないと思うのですが、五年前よりも細くなられましたし。
昔と違って、夏になると食が細くなられますから、当日の昼食も少な目にしないと。」
「………………………………だから、行かないってば。」
無駄と思いつつも反論を口にすると、グレミオは一瞬驚いたように目を見張ると、
少し考えるように瞳を細めた。
そうして、寂しげに瞳を伏せた。
それは、見ているこちらが胸が痛くなるような、切ない表情であった。
「ぼっちゃんは……。」
ぽつり、とグレミオが呟く。
これが、彼の手段なのだと――分かっているのに、つきん、とスイの胸が痛む。
悲しそうで、寂しそうで、今にも泣き崩れそうな母親かわりの顔に、スイは弱いのである。
「ぼっちゃんは、グレミオがお嫌いなんですね。」
うん、そう。……そう言い切れたら、どれほど後が楽であろうか?
もっとも、言い切った瞬間、グレミオは無言で包丁を手首に当てていること間違いなしなのであるが。
「嫌いなわけないだろ。」
どこかうんざりした口調で答えるスイに、律義にグレミオは力なく微笑んで見せた。
「ならば、うっとおしいとお思いですか?」
まさにそのとおり。――そう言えたら、どれほど楽だろう。
夏のくそ暑い時に、そんなことで神経を使わせるなと、そう叫べたら、どれほど楽だろうか?
けど、そう言ってしまったら、厨房に首吊り死体が出来てしまうこと間違いなしである。
スイは、ため息を押し殺しながら、グレミオを見上げた。
「そんなに、僕にダンスパーティに行かせたいの?」
使者からの話を聞いている分にも、それほど重要なダンスパーティであるようには見受けられない。
どちらかというと、貴族の娘がこぞって集まって、いざ、英雄の花嫁の座を射止めようの場、という風に見受けられる。
そんなものに参加するつもりなんて、サラサラないスイとしては、さっさと敵前逃亡でもなんでもしたいところである。
無駄な勝利はいらないのだ。
一体、このパーティのどこに、グレミオがそれほど熱心になる理由があるのだろうと、スイは招待状を面倒そうに一瞥した。
「お前がそうやって訴えてくる策の意図が分かっていながら、毎回毎回はまってる僕も僕だけど――そういうときは、どうしてもでなくちゃいけない時だってのは、ちゃんと分かってるつもりだよ。
ああ、必要だからといっても、出たくないのには変わり無いけどね。」
だいたい、れっきとした大統領が席についているのに、何故にわざわざ「建国の英雄」が出向いて、食事会で微笑んで、相手国の使者に愛想を売らなくてはならないのだ。
三年前の、門の紋章戦争での英雄スイ=マクドールが、戦争後に忽然と姿を消したのは、有名な話である。
それがゆえに、余計に人々の感心は高められ、未だに近隣諸国では、スイ=マクドールの名は、さまざまな意味で、知れ渡り、有名人扱いである。
旅に出ている間は、自分がそんなに有名であることに気付かなかったが――何せ、解放軍時代から、解放軍リーダーといえば、行く先々で有名であったから――、首都に帰ってきて、一瞬自分の不用意さに涙が出たものである。
帰ってきた自分を迎えに来てくれた人々のことは、嬉しい。とても温かく感じたのは本当。
でも。
「帰ってきてから、何かにつけちゃ、近隣から使者がよこされ、ぜひ英雄と一席を交えて食事をしたいだの、パーティを開きたいだの、そんなのばっかりじゃないか。」
そういうのに、参加するいわれはありません、と、スイが言い切る。
グレミオは、泣き落とし作戦にかかろうとした体勢のまま、曖昧な微笑みを浮かべた。
でも、英雄が帰ってきたと言う言葉に反応したのは、昔の仲間達だけではなかったのである。
おかげで、毎日毎晩、宴会だのパーティだのに誘われ――。
「ったく、身体の休まる暇もないってのは、このことだよ。わかってる? グレミオ?」
可愛い可愛いいとし子が、疲れ果ててもいいの?
つい、と指先を突きつけたスイの、その指を握り込み、グレミオが瞳を細める。
「ぼっちゃん。人様に指を突きつけてはいけません。」
「この状況でいうことはそれか?」
笑顔で尋ねたスイに、ああ、ととぼけた回答を零す。
「そうですそうです。ダンスパーティの服の色は何色にしましょうか?」
「……だからさ、話を聞けよ。」
言っても無駄なのはよくよく分かっている、何せ、付き合いは自分が赤ん坊のころからであるのだから。
「僕は、行かないって言ってるんだよ。」
「無理ですね。」
「即答かよ。」
ちっ、と舌打ちするスイに、グレミオがはしたない、と眉を顰める。
「で? 今回のダンスパーティは、何を議題にするんだって?」
「それすらも聞いていなかったんですか、ぼっちゃんは。」
あからさまに呆れた様子のグレミオに、スイは申し訳なさそうな表情もせずに、行くつもりなかったんだから、当たり前だろ、と睨む。
それを受けて、グレミオはスイがヒラヒラと揺らしている封筒を手に取ると、
「お盆ですからね。戦死者の方達の慰安のためのダンスパーティらしいですよ。」
にっこり笑って、そう告げた。
「…………………………あー……そういえば……………………。」
「どこだったかの国の、盆踊りとかいうのを真似てみようと、アイリーンさんが提案したそうですね。」
グレミオがヒラヒラと揺らす招待状を見ながら、スイはかくり、と首を傾ける。
それから、精神的攻防のすえに浮き出た額の汗を拭い、そのままの動作で髪を掻き上げる。
そして、重く吐息づいたあと、
「行くか。」
ぽつり、と呟いた。
確かにこれに、「解放群リーダー」が参加しないわけには行かないのである。
観念したようにグレミオを見上げたスイに、彼は至極満足そうに微笑んだ後、
「それでは、サイズ、計りましょうね? メッシュ入りにしますから、ちゃーんと、タキシードにしましょうね?」
どこからともなくメジャーを取り出すのであった。
「ええっ? ちょっと待てよっ! それは無しっ!!!」
叫んだスイの言葉も、手慣れた様子で、するすると体中にメジャーを巻き付かれては、消えゆくばかり――なのであった。