ガサガサガサガサ──……っ!
耳障りな音を立てる茂みを両手で掻き分けながら、メグはつんのめるようにして前へ前へと駆け抜ける。
胸元まである茂みは、掻き分けても掻き分けても、次々にメグに襲い掛かってくる。
それを乱雑な仕草で払いのけると、すぐ目の前に迫っていた枝が、ピシリと頬を掠める。
小さく走った火傷にも似た痛みに、メグは片目を眇めると、
「──あぁっ、もう!」
小さく舌打ちを零して、ブルリと頭を振った。
その拍子に、頭の上で結んでいた髪が、大きくたわむように揺れて──がし、と、すぐ傍の枝に引っかかった。
「うぁっ!?」
グンッ、と、後方に髪が引っ張られて、メグは大きく首をのけぞらせると、倒れそうになる体を必死でこらえて──枝に引っかかった自分の髪をつかみ取った。
そして、片目を眇めるようにして引っかかった髪の毛を睨みつけると、もう片手を腰に当てて、まったく、と唇をゆがめる。
「だからこの道使うの嫌いなのよ。」
グイ、と髪を引っ張るものの、枝に引っかかった髪はたやすく解けてくれはしなかった。
メグはいらただしさを無理やりこらえるように盛大なため息を零すと、しぶしぶ両手で髪の毛を解きほぐし始める。
そうやって立ち止まると、右も左も前も後ろも──どこもかしこも茂みと木々に埋もれてしまったようだった。
今の今まで走っていた獣道は、視界のどこにも見えない。
それでも、足を横にずらせば、メグが今の今まで走ってきていた道の感触がある。他の場所とは違う──むきだしの土の感触。
傾斜が激しく、小石や落ち葉が足元でジャクリと音を立てはするものの、そこには「道」がある。
四足の獣が通るための、小さな獣道でしかなかったけれど。
「もう〜! こんなところで、手間取ってるヒマはないのに……っ!」
指先で強引に髪の毛を解きほぐしながら──これが本拠地の近くの木に引っかかったというだけなら、枝毛もできないくらい丁寧に解きほぐそうとするところだけど……、今は、そんなことをしている場合ではない。
「早く追わないと……取り返しのつかないことになっちゃう……っ。」
小さく呟きながら、メグは焦るように自分の進行方向を睨みつける。
そこには、混沌とした濃厚な緑が広がるばかり──目にはわかりにくい獣道の先は、チシャクランに繋がっている。
チシャクランの正規の入り口──南側にある入り口とは対照的に、茂みに隠されている北側に出るのだ。
「サルなリオさんと、忍者なカスミちゃんは別として、シーナにまで抜かれたのは、やっぱ……スイさん、怒るよね?」
本音としては、このままクルリとユーターンして、何もなかったかのように本拠地に帰りたい。
そして、「スイ対策」に一番有効であると思われる、グレミオさんの部屋に逃亡して、そこでほとぼりが冷めるまで寝起きしたい。
けど。
「……あのピコポンハンマー、スイさんが持ってるしなぁ……。」
ちょっぴり遠い目になって、森の中の平和な鳥の歌声などに耳を傾けつつ、疲れたように独り言を零した。
あのハンマーを取られたままというのは、正直な話、マズい。
苦し紛れに言った「記憶を消す」というウソがばれるのもマズイが、何よりもあのハンマーには、メグの最新からくりが搭載されている、メグの唯一の「武器」なのだ。
あの武器がなくては、「破壊者対策本部(仮)」軍では、到底生きてはいけない。
一応、からくりの紋章だっていつも身につけてはいるけど、これがあの濃いメンツの中で、一体どれほどの効果があるというのか──正直、心細くてしょうがないし。
「ミーナやミリーが、今頃5人に追いついて、すでにグルグル巻きにしてる──なーんて、都合のいいこと、ないかなぁ。」
やる気なさげに髪の毛を解きほぐしながら、そんな希望を抱いて見るけれど、抱くと同時に、無理なことはわかりきっていた。
今までの経験上、少し未来に起きることはたやすく想像できた。
こういう獣道もモノともしないリオとカスミが、自分たちが足止めしている間に、先にチシャクランに付いたメロディの前に、颯爽と飛び出して「そのチョコは僕が(私が)もらいます!」とか宣言して──そう、そして、その結末にニッコリ笑顔を零したスイさんが、おもむろに右手を掲げて、「冥府」なんて……。
「……唱えてないことを祈るぅぅーっ!!!」
一瞬にして、チシャクランが真っ暗闇に包まれ、次の瞬間には何も無い地面ができあがってました──なぁんていう恐ろしい光景を思い浮かべてしまったメグは、悲鳴じみた声をあげて、髪を解きほぐすことをあきらめた。
のんびりと髪を開放させながら、現状から……スイのチョコを狙う面々の足止め係りという大役から目をそらしている場合ではない。
一歩間違えれば、チシャクランはこの世から永遠に消えてしまうのだ。
さすがに、そんなことはしないと思うが……思いたいけれど!
最近、生と死の紋章をすっかり使いこなしてきたあの人は、「吸って出すー」なんていう芸当をしてくれるから……そう、1週間や1ヶ月くらい、一つの集落を消して出す、なんてことも──本当に、してしまいそうで!
「あぁっ、もう! 乙女の命の髪の毛……っ! 覚えてなさいよ、シーナ!」
苛立ちまぎれに、ここにはいないシーナに八つ当たりの声を叩きつけながら、メグは手首につけていたブレスレットを軽く振った。
カシャン、と小さな音を立てて、ブレスレットから小ぶりの刃が現れるのを目で確認する間もなく、メグはそれを自分の髪の毛の切っ先に当てた。
そして、切れ味のいい小刀で、迷うことなく絡まった部分を切り落とすと、ザッ、と髪を揺らして、再び前を見据えた。
「絶対……、止めなきゃっ!」
一瞬のためらいも、躊躇もなく──メグは、キュ、と下唇を噛みしめると、自分たちを追い抜いてチシャクランへと向かったカスミやシーナ、リオたちに少しでも早く追いつくために、ダッ、と地面を蹴り飛ばして、獣道を再び駆け出した。
目指すは、チシャクラン──リグラム城から最短距離の一本の獣道で結ばれている、「今朝までは平和だったはず」の、集落である。
一同がまさに集結しようとしている場所──チシャクランの入り口では今、稀に見るほどの盛大な戦いが繰り広げられていた。
繰り返される聞きなれない剣戟の音に、家の中や地下に降りていた住民達も何事かと屋外へと出てきていた。
「なんだ……何が起きてるんだ?」
不安そうな顔を交し合う人々は、それでも様子を見に坂の上をあがっていこうとはしなかった。
つい先日起きたばかりのハルモニアによるチシャクランの襲撃を覚えていたからこそ、彼らは小さな広場に集まるだけで、それ以上一歩も動くことができない。
絶え間なく聞えてくる音が、「剣戟」の音だと……争そいの音だと、不安に思う心の片隅で理解しているからこそ、彼らは小さなざわめきを持って、クランの入り口を見上げる。
「どうする……?」
「おい、誰かサナ様に連絡を──。」
「いや、それよりも確か、ビュッデヒュッケの人がここに来てたのを見た。あの人を呼んできたほうが──……。」
不安げな顔を見合わせながら、彼らは入り口の戦いが、すぐにこちらにも及ぶのではないかと、浮き足立った様子を隠せずに、あちらこちらへと視線をさまよわせる。
そんな動揺が広がる中──、突然、坂の上から空に向けて閃光が走った。
「──……っ!! ひぃっ!?」
「て、敵襲っ!?」
紋章球を扱う者なら、その光が土の紋章による守護の呪文だとわかっただろう。
しかし、この場にいるのは戦いとは無縁の生活を送ってきた人々ばかり。
彼らはこの光が、ハルモニアの神官将が使っていたような攻撃の光だと、理解してしまった。
高くない悲鳴が喉を震わせたかと思うと、人垣の後ろの方にいた人間が、ヒラリと身を翻して家の方へと踵を返した。
それを皮切りにしたように、広場に不安そうに集まっていた面々までもが、入り口に背を背け、山の奥へと続く森の方へと駆け出す。
そうやって逃げる途中──驚いたyおうに佇む子供に気づいて、女はその子に向けて両手を広げた。
掬い上げながら顔をあげて……そこで、自分の目の前に立つ青年に気づいた。
このあたりでは見かけない、体にぴったりとした動きやすそうな服装に、この辺りでは見慣れない額当て。──漆黒の髪を持つ青年は、チシャクランでは見たことがない顔をしていた。
最近良く出入りするビュッデヒュッケ城に集まっている面々とも違う……ピリリとした空気を持つ青年だ。
とっさに女は、抱えあげた子供の体を己の胸元に強く引き寄せる。
ズザ──と後ず去った女に気づいたのか、青年は険しく寄せていた眉をそのままに、少し困ったような……そんな表情を浮かべた。
「あー……──、あのさ?」
怯えたような──それでいて、腕の中の子供を守るようにキッとにらみあげてくる女に、彼はなんて言葉をつむいだらいいのかわからず、唇をゆがめる。
そうすると、ますます困ったような表情になる青年に、女は一瞬戸惑うような表情になったが、それでも見慣れない男に対する警戒を解くことは無い。
立ち止まった彼女の隣を、数人の男や女が駆け抜けて行って──女は、だんだんと広場からいなくなる人間に、ためらうようなそぶりを見せる。
子供が、ギュ、と自分の胸元を握りこんでくるのに、大丈夫だと言い聞かせようとして、己の手のひらが震えているのに気づいた。
キュ、と唇を噛み、子供の体をさらに強く引き寄せる女に、青年はますます困ったような顔で、女と子供と──そうして、逃げ惑う人を見やる。
「大変だっ、かあちゃん! 早く逃げるぞっ!」
「ハルモニアよっ、ハルモニアが襲ってきたのよ!!」
逃げる人々が、家々に顔を突っ込み──さらにその中から続く地下へと声を響かせる。
「──……なんだって!?」
聞きもれてくる言葉に、青年は驚いたように顔を跳ね上げ──そうして、険しい色を眉に乗せて、女を見ていた時とはまるで別人のように鋭い視線でクランの入り口を睨みあげる。
女は、青年の戦士のように鋭い視線に、ビクンッと肩を跳ねさせて──ジリリ、と、もう一歩後ず去りした。
顎を引いて、ギュ、と子供にすがるように抱き込んだところで。
「……一体、何があったというのですか?」
騒々しいこの場に不似合いな、おっとりとした声が聞えてきた。
ハッ、と目を見開いて見れば、青年のすぐ後ろに見える二つの人影──現れた二人は、女も知っている人物だった。
「サナさん……。」
女の目の前にいた青年が、声につられるように振り返って、人影の片方の名を呼ぶ。
青年が口にする名前の響きに、ひどく親しげな抑揚が混じっているのに気づいて、女は驚いたように青年と、外に出てきたばかりの長の姿とを見比べる。
サナは、そんな青年をチラリと一瞥したあと、ゆったりとした動作で辺りを見回す。
その彼女の背後では、片目の男が厳しい表情で入口を睨み上げている。──その手は、剣の柄の上に重ねられている。
「ハルモニアが攻め込んできたとは……穏やかではありませんね?」
いつもは穏やかでやさしい笑顔を浮かべているサナの表情が、今は少しばかり厳しい色合いを宿している。
サナはそれから、人の話を聞く余裕を持たず──つい先日のハルモニアの奇襲の恐怖が、彼らの中に根付いているのだろう、逃げることばかりを考えているらしい人々をグルリと見回し、最後に青年の目の前に立ったままの女に視線を止めた。
「ラクラ、一体、何が起きているのですか?」
静かな──やさしく穏やかな声と瞳に促され、女は、強張っていた肩から力が抜けるのを感じた。
は、と詰めていた息が零れ──女は、震える唇で、コクリと頷く。
「それが……、村の入り口で、……誰かが、戦っているみたいなのです──。」
キュ、と眉を寄せながら答える声に、ヒクリ、と青年の喉が鳴る。
「戦っている?」
いぶかしげな低い声をあげたのは、その青年ではなく、ゲドだった。
サナが少し体をずらすようにして、ゲドの顔を見上げる。
「──それはおかしいですね。
ハルモニアが攻めて来ているのだとしたら、入り口で戦っているはずはありません。」
「で、でも──……っ、剣戟の音が聞えてるんです……っ、それに──へ、変な光も──……っ。」
誰かが逃げ始めた切欠であった光を思い出し、女はギュ、と目を閉じる。
そんな彼女に、変な光、と、サナは口の中で呟く。
「それがつい先ほどだと言うなら、紋章の力だろう。
──先ほど、紋章の力を感じたからな。」
ゲドがそんなサナにサラリと答えて、足を一歩踏み出す。
言葉には出さないが、サナの代わりに様子を見てこようと言うことだろう。
「わかりました。それでは、みんなには、家の中で待機するように伝えましょう。」
サナはそんなゲドに向かって小さく頷くと、散り散りに走っている面々を見回し、険しい顔で言葉をつむごうとした──その矢先、
『ゆるす者の印……っ!』
朗々たる響きの声が、脳裏に響くように聞えてきた。
ハッ、と、ゲドが右手を押さえる。
それと同時──力強い「声」に応えるように、クランの入り口で、辺りを飲み込むような力強い光が広がった。
「これは──……まさか……っ。」
低くうめいたゲドの目が、大きく見開かれるのと、
「キャーッ!!!!」
広場に残っていた者や、目の前の女が、恐怖に駆られた悲鳴をあげて、その場にしゃがみこむのとが、ほぼ同時。
みるみるうちに広がった光が、一瞬で収縮して──そして、パァァッ、と、地面が光るように輝く。
坂の上の地面がすべて白く光ったかのように見える光景に、サナですらハッとしたように息を飲み──けれど彼女は、一瞬で我を取り戻すと、慌てふためく民達に視線を向けると、
「みんな、落ち着きなさい! 全員、家に入り、決して表に出ないこと!」
年老いているとは思えないほどの朗々たる声でそう告げると、目の前でしゃがみこんでいる女に手を貸し、彼女を支えるようにして立ち上がらせる。
「ゲド──後は頼みますよ。」
抱きかかえていた子供を地面に降ろし、フラフラと歩き出す女の背を支えるように押し出しながら、サナは厳しい表情でゲドを振り返る。
村の入り口で何が起きているのかはわからない──こちらに戦いの火花が散らないとも限らない。
それを止めるためには、ゲドの力は必要だ。
そう告げるサナに、ゲドはコクリと頷き、光が収まった坂の上を睨みつけながら──右手をヒラリと翻した。
サナはそんな彼に神妙に頷いた後、今度は青年を振り返り、
「サスケ君、あなたも一緒に行ってくれますか?」
声をかけた──ところで。
呆然と、愕然と目を見張っているサスケの表情に気づいた。
「──サスケ君?」
いぶかしげに眉を寄せて、サナはサスケの顔を見上げる。
その彼の目は、サナも女も移しておらず──サナの頭の上を素通りするように、坂の上を見つめていた。
つられるようにチシャクランの入り口へと視線を移せば、慌てて逃げ惑う人々の中を悠然と歩くゲドの背中が見える。
彼が軽く顎をあげて見上げる先──左右の段畑に囲まれた坂の上は、何が起きているのかこの位置からはまるで把握できない。
わかっているのは、剣戟の音がして、紋章の光が炸裂したということだけだ。
──と、そこまで思って、ふとサナはイヤな予感に駆られて、小さく息を飲んだ。
「サスケ君……、さっき、カスミさんの姿を見たと……。」
言っていたわよね? と、そう続く言葉は、唇から零れることはなかった。
その言葉の先を続けるよりも早く、サスケがグシャリと顔をゆがめて──がっくり、と、力が抜けたようにその場に跪く。
何事かと見守るサナの耳に、うめくような小さい声が届いた。
「リオさぁ〜ん……ところかまわず紋章使うなって、シュウ殿にも言われてるじゃんかよ…………。」
「……………………あら。」
サスケを不安そうに見下ろしたサナの口から零れた言葉は、あっけないほど単調だった。
思わず口元に手を当てて、そんな言葉を零してしまう以外、言うべきことが無かったとも言う。
サナは、ゆっくりと首をめぐらせると、坂の上に視線を当てて、
「──ということは、ハルモニアの軍勢と、リオ様が戦っていると、そういうことなのかしら?」
「ぃや……カスミさんがさっき、坂を飛び上がったのを見たし…………。」
多分、アレは──と、サスケは、ガックリと落とした肩をそのままに、顔だけ上げて、うつろな視線で入り口の方を見た。
それと共に、サスケの視力で捕らえることができる一つの影──空中に躍り上がる華奢な体躯は、見事にモズ落としを決めていた。
翻る金髪の髪が見えたけど──リオさんがいるってことは、十中八九ジョウイさんも居るだろうし……ジョウイさんだろうなぁ、モズ落とし決められたのって。
「……ただの内輪揉めだと思う。────いつもの。」
最後の一言は、ひどくイヤそうに零された。
リオとジョウイ、カスミが揃っているとなれば、ナナミだっているに違いない。
そうして、先ほどサナから寄せられた情報を考えるに、この事件(?)には、あの鉄砲娘の代名詞とも言えるメグや、今朝方いつの間にか湧いて出ていたミリーも関わっていることは間違いないだろう。
というかむしろ、
「あら──それじゃ、ただの痴話ケンカかしら? 若いわねぇ……。」
おっとりと告げてくれるサナの言葉に、サスケはますます脱力をせざるを得なかった。
そこへさらに、ひらめく紋章の気配。
今度の紋章の光もまた、リオのソレであることは、想像に難くはない。
サスケはゴッツンと地面に額をぶつけて、まるでサナに土下座しているような体勢になった。
──いや、多分、本当は「あの集団の一員」として、チシャクランの村長であるサナには、土下座をしなくてはならないような展開なのだろう。
「……見て見ないと確かなことはわかんねぇけどさ……。」
っていうかあの人は、15年前から思っていたけど、あまりにも自分の「紋章」に対する危機感がなさ過ぎる。
その上、このチシャクランは、山を隔てた向こうにハルモニアが控えている。とてもではないが、今のように──ただの内輪もめごときに、輝く盾の紋章を連発していいような状況ではないのだ。
「けど、バレンタインがらみで、何かあったんじゃねぇかなー、って思う。」
うなだれ、地面に両拳を当てて、まったく──と、サスケが緩くかぶりを振った瞬間だった。
ピカッ──ピカピカッ……どどぉんっ!
「……………………………………………………。」
チシャクランの民達が、家の中に飛び込みながら、悲鳴をあげている。
子供の泣き声が甲高く響き、地面がかすかに揺れた。
──そういや、さっき、家を飛び出す時にも地面がかすかに揺れたような気がしたけど……あれももしかして、土の紋章か?
「──……っていうかさ……さっきからピカピカピカピカ──……っ。」
ググ、と拳を強く握り締めて、サスケは眉間に濃い皺を刻み込む。
レベル4の紋章はすべて開放したんじゃないかと思うくらいの大盤振る舞いだ。
コレってどうなんだ? ──っていうか、今ひらめいてるアレって……ジョウイさんの黒き刃の紋章だよな? リオさんの紋章を止めるのに、アレほど効果的なものはないと思うけど、でも、だからって……、
「あぁっ! もう! どうやってアレを俺に止めろって言うんだ……っ!!」
ヤケになったように顔をあげて、ガンっ、と地面を叩いたサスケが、そう叫んでしまうのも、仕方がないと言えば仕方がない。
顔をあげた先──視界に飛び込んでくるのは、大盤振る舞いな紋章のレベル4の技と、モズの紋章で飛び上がるカスミの華麗な姿。
さらにそれに対抗するようにリオの紋章がひらめけば、ジョウイの紋章までもが空を彩り──人々の悲鳴はますます大きくなる。
特にジョウイの紋章が開放される瞬間の悲鳴は、耳をつんざめくかと思うくらいだ。
「あいつら、俺には普段から、忍者だってばれないようにしろ、チシャクランで目立つ行為はするなって言っておきながら──何、自分はあんなところでバンバン紋章使いまくってるんだよ……っ!」
ガンガンガン、と地面をヤケになって叩くサスケの気持ちも、痛いほどわかる。
痛いほどわかるのだが──サナは、そんな彼を不憫そうに見下ろしながら、それでもコレだけは言っておかなくはならないと、軽く腰を曲げると、
「それでサスケ君? ……ゲドが、入り口に向かっているのだけど、あれは止めなくてもいいのかしら?」
ばれちゃうわよ、と。
おっとりとした口調に心配げな色をにじませながら、今まさに、坂をあがりきろうとしている、抜き身の剣を手にした男の後姿を指差した。
目の前でひらめく紋章の──紋章と剣戟と見たこともない武器での応戦に、ヒューゴはただ、呆然と目を見張って座り込んでいることしかできなかった。
考えても考えても、何が起きてこうなったのかわからない。
チシャクランに戻ってきて、仲間を探そうと思って──そうしたら、女に話しかけられて、「怪しいバレンタインチョコ」を手渡されようとして。
そうして。
「……あのチョコ、一体、なんなんだ?」
最初にヒューゴの前に現れた娘は、ヒューゴよりもずいぶん後方に避難していて、そこからチシャクランの入り口で繰り広げられている戦いを、見守っている。
その手にはいまだに歌う花が握られていて──強く握り締めているのだろうか、唇の形をした花びらは、しおれたように地面を向いていた。
普通に考えたら、「あの娘が持ってきたチョコを取り上げた男と、その男に襲い掛かった青年が、娘を取り合って三角関係」なのだろうと無理やり予想して、無かったことにしてそのままココから立ち去るのが一番なのだろうけど。
でも、無かったことにして立ち去るには、目の前の戦いは規模が大きくなってきている。
「──さっきから、見たこともない紋章も……なんか、すごい威力で光ってるし──。」
ココは、チシャクランの入り口だ。
ヒューゴも何度かココで一騎打ちをしたことがある身だから、あまり偉そうなことは言えないが、それでも──、一騎打ちならとにかく、こんな大規模な戦いはしてはだめだと、そう苦情を言うくらいはしなくてはいけない場所だ。
というか、直接的に関与しているわけではないが、「プレゼント」が大本の原因だとするなら、ヒューゴも間接的に、この戦闘に関係があると言えることだし。
──あんなプレゼント、いらないけど。
「とにかく、彼女に止めてもらうのが一番、だよな?」
このまま放っておいても、戦闘は激しくなる一方だ。
そう判断したヒューゴは、重い腰をあげた──その瞬間。
ゾクリッ──……っ!!
言い知れない恐怖にも似た感覚が背筋を駆け上った。
何かを考える間もなく、ヒューゴはとっさにその場から飛び退る。
数歩の距離を低く跳躍し、空中でくるりと体を反転させて降り立つ。
ズザ──と、地面を膝が滑るのを堪えながら、チャキンと腰に差した剣を引き抜いた。
そして、キッ、と見上げた先──、ヒューゴがつい今の今まで座り込んでいたそこに、一人の少年がいた。
その姿を正面から認めたとたん、ヒューゴはゾクゾクと背筋を走る悪寒に、ブルリと体を震わせた。
気配も──本当に何も感じなかった。
ただ、ゾクリと毛羽立つような触覚がしただけだ。それも、ほんの一瞬だけ。
なのに、今、「彼」は、そこに立っている。
まるで、ずっと前からそこに居たのが当たり前のように、ヒューゴに何の身構えをさせることもなく。
それはまるで、あの破壊者達のように──、一瞬で、空間を渡ったかのようで。
「──……っ!!」
もし、あと一瞬、彼の存在に気づくことがなかったら、今頃自分の首と胴体は離れていたかもしれないと思うと、震える指先を止めることができなかった。
怖い、と感じる間もなく、ドッと汗が吹き出る。
目に見えない──言葉にならない恐怖が、煽られているかのように、肌が粟立った。
ヒューゴは、奥歯を噛み締めるようにして、その衝動を必死に押し殺し──キッ、と少年を睨み付ける。
震える指先を叱咤するように、ぐ、とルフトの柄を握り締め、剣の切っ先を少年に向ける。
普通ならそこで、何らかの反応があってもいいだろうに、「彼」は、それにまるで気づいていないように見えた。
泰然とそこに佇む少年は、ヒューゴの存在を素通りさせて、激しい戦闘の只中にある位置へ意識を注いでいるようだった。
驚いて、釘付けになっているようには見えない。
彼の静かな琥珀色の瞳には、驚きの色はまったく無く──少年は、ヒューゴが緊迫した空気をかもし出す目の前で、ゆったりとした動作で、小首を傾げる。
かと思うや否や、
「──で、何がどうなって、こんなことになってるんだ?」
ス、と動いた唇から零れる声は、甘美な響きを宿す柔らかで優しいソレ。
白い額に、サラリと漆黒の髪がかかるのを、彼は指先で跳ねのけると、そのまま視線を横手にずらした。──ヒューゴの頭の上を通り越して、ペタリと地面に座り込んでいるメロディの方へと。
「メロディ、なんでナナミが、あのチョコレートを持ってるんだ?」
穏やかに問いかけられた言葉は、心底不思議そうな声音だった。
──付き合いの長い者ならば、愉悦が含まれていることに気づいただろう。
実際、メロディは彼がこの展開に楽しみを覚えていることに気づいて、かすかに強張っていた肩の筋肉から力を抜いた。
とりあえず、今の時点で最大の「助かった」は、チョコレートをナナミに奪われ、なおかつチョコレート争奪戦が起きている事実を、スイが怒っていない、と言うことだ。
「違うんです……初めはちゃんと、ヒューゴ君に渡したんですけど、ちょっといろいろ事故があって、シーナ君に渡って、リオさんとカスミちゃんとナナミちゃんとジョウイ君が……。」
少年に向かって、渇いた笑い声をあげながら説明しつつ、メロディは指先で、グッタリしたまま、一向に復活しない花をグルグルと回す。
少年は、メロディのそんな仕草に軽く柳眉をしかめると、
「メロディ、ローエンハイムは気管を締めたら窒息するって言ったのに、強く握り締めただろう?」
グッタリとしている、と、「歌う花」を指差して冷静に指摘した。
「うっ──それは……ごめんなさい。」
メロディはその指摘に、慌てたように指を離すと、自分の指の跡が付いてしまったローエンハイムちゃんの茎を認めて、うう、とうめき声を零した。
自分の指先の痕がくっきりと付いた部分に指先を這わせて、ごめんね、と小さく謝る。
スイはそれを認めて、うん、と柔らかに微笑んでみせた。
「後でミルイヒたちに頼んで、生き返らせないか聞いてみよう。切花は切り口を火にかけるとよみがえるっていうけど──どうかな?」
「切花」。
メロディがつかんでいる花に対して、その言葉ほど不似合いな言葉はないような気がして、ヒューゴはヒクリと喉を震わせる。
もう、一体、どこから突っ込めばいいのか、サッパリである。
フルリと弱弱しくかぶりを振りながら、改めて少年を見上げれば、目に飛び込んできたのは青い空の下、色目も鮮やかな──黄色いピコポンハンマー。
少年が腰に当てている右手に、おもちゃのようなソレが握られていた。
ハンマーと言えば、仲間の一人であるベルも小ぶりのハンマーを持っていたが、それよりもさらに一回りほど小さく、軽そうに見える。
そのままさらに視線をあげてみれば、少年が涼やかな微笑を浮かべて、小首をかしげていた。
まるでヒューゴに視線を当てない少年は、ゼクセン人と同じような白い肌をしていた。小ぶりの白い面差しは、アルマ・キナンと同じ漆黒の髪に囲まれ、まるで少女のように整って見えた。
幼い頃から美貌の母のを見て育ったヒューゴですら、思わず目を見張るような……どこか、惹きつけられる風貌だ。
服装は、この辺りでは見慣れない赤いチュニックと、頭には緑色のバンダナ。肩から同色のマントを身に付け、おっとりとした雰囲気を纏っていて、先ほどヒューゴが感じた戦慄を思わせる要素は一つもないというのに──なぜか、右腕がチリチリと焦りにも似た感触を訴えてくる。
油断をしてはいけない相手だ、この人は。
そんなヒューゴの、焦りにも似た警戒を物ともせずに──それどころか、目の前にヒューゴがいることすら気づいていないそぶりで、少年は困ったと言うようにため息を零す。
「それで──なんでシーナたちは、あのチョコレートを奪いあってるんだ?
別に、グレの史上最大の傑作ってわけじゃなくって、僕が作ったものなんだけど……みんな、カンチガイしてないかな?」
ピコポンハンマーで空気を軽く叩きながら、さてどうしよう、と少年は暢気につぶやく。
少年にしてみたら、別に、チョコレート自体はシーナでもリオでもカスミでもナナミでもジョウイでも──誰が貰ってくれてもかまいはしないというのが本音だった。
ただ、目の前で食べれくれて、臨床実験のデータさえ取れればいいのだ。
言葉の裏でそんなことを呟く少年に、メロディはあきれたような──引きつった笑みを浮かべて、こめかみの辺りをもみしだく。
「スイさんが作ったものだから、あそこまで取り合ってるんじゃないですかぁ?」
実際、さっき、カスミちゃんもシーナ君も、思いっきりそう叫んでたし。
そんなメロディの言葉に、少年──スイは、ますます意味がわからないというように片眉をあげる。
「? 今年は惚れクスリ入りなんて作ってないぞ?」
──どうしてそこで、「スイの作ったチョコ」だからこそ「価値」があるのだと思わないのだろう、この人は。
そんな脱力感に駆られて、メロディはガックリとその場に両手を付いた。
スイは、なぜか地面に懐いたメロディを、不思議そうに見た後、ふと視線をヒューゴに当てた。
『って、前は作ったことあるのか?』
ヒューゴは、前触れもなく視線を向けられたことに驚いて、ごくん、と喉を上下させる。
綺麗な琥珀色の瞳が、ヒタリとヒューゴの顔に向けられた瞬間、自分の体に重石が乗っているかのような重さを感じた。
ジン、と、頭の上から痺れるような感覚が振って来る。
スイは、そんなヒューゴを見つめながら、口元に笑みを浮かべると、ヒョイ、と肩をすくめて、
「成功したのは、いまだに一度だけ。──ルックがフリックを押し倒して、すごいことになった。」
クスクスクス──と、ひどく楽しげな響きを宿して笑った。
その柔らかな響きの声は、魅力的だったけれど──それに聞きほれている場合ではない言葉が、スイの口から零れた気がして、メロディはヒクリと頬を引きつらせる。
──っていうか、ルック君がフリックさんを押し倒してって……何? 何がおきたの、そのときにっ!!?
気になってしょうがない。
けど、とてもじゃないけれど、怖くて聞くことはできなかった。
『じゃ、今回のあのチョコには何が入ってるって?』
スイの視線にさらされて、ヒューゴはますます頭が重くなるような感覚を覚えた。
肩までもが重くなった気がして、ヒューゴは唇を一文字に強く結ぶ。
「ほれ薬が入ってないことは確かだけどね。」
そんなヒューゴに、スイは口元に指の甲を押し当てて、くすくすと笑いながら──ふ、と、顔をあげた。
そして、ヒューゴの顔の辺りに当てていた視線を、フラリ、と揺らす。
『お──、気づかれたようだぜ、スイ?』
「このままじゃ、ちょっと……まずいことになるかな?」
よりにもよって、「チシャクランの入り口」で、と、スイは眉をひそめて呟く。
そんな彼の物言いに、ヒューゴはバッと顔をあげた。
「このまま!? ちょっと!?」
冗談じゃない! 今でも十分、まずいことになってるじゃないか、と。
叫んだとたんに、ビリリと震えるように揺れる大地に、慌ててヒューゴは自分の肩越しに背後を振り返る。
とたん、目がくらみそうな勢いで、光がはじけ──ヒューゴは、顔を背ける。
光の直撃は避けたはずなのに、瞼裏で、光がはじけとんだのがわかった。
フルリ、と頭を振って、その残光を脳裏から消し去ると、ヒューゴは再びスイを睨み上げた。
「今でも十分、大事じゃないか……!
こんなんじゃ、クランの人達が戦争が始まったと勘違いするだろう……っ!?」
少年が誰なのかはわからない。
けど、この目の前の状況を見ても、能天気にそんなことを言っているのが赦せなくて、キッ、とヒューゴはスイを睨み付ける。
先ほどの発言からするに、彼もまた、少し離れたところにしゃがんでいる娘と同様に、そこで戦を広げている人間と知り合いに違いない。──なら、どうしてそこで傍観しているのかと……今ごろ、チシャクランの中では、大騒ぎになっているに違いないと、ヒューゴが怒鳴れば、
『真なる雷の紋章の気配が、濃厚にするな?』
「そう──それが一番、問題だ。」
スイは、ツイ、と横手──チシャクランの方角に視線をよこすように、顔を傾ける。
それから、目を細めて、坂の下を伺い見る様子を見せた。
ヒューゴもつられるように、柵を見やる。
けれど、柵から少し離れたこの場所からは、チシャクランで何が起きているのかを見ることはできなかった。
耳を澄ませて様子を伺おうにも、背後から聞える激しい騒音のおかげで、まったく周囲の音が耳に入ってこない。
──けど、チシャクランはきっと、混乱しているはずだ。
これほど大きな音と閃光が走っているのに、チシャクランの人達が怯えないはずはない。
特に彼らは、先日ハルモニアの強襲を受けている。何が起きているのだろうと、戦々恐々としているに違いない。
「──どうすれば……っ。」
走って、坂を降りて。
そうして、広場の中央で、坂の上の戦いはただの私闘なのだと、叫べばいいのだろうか?
この戦いは、たんなるチョコレート争奪戦だと?
「────………………。」
ガックリと、ヒューゴは手のひらを自分の額に押し付ける。
「誰が信じるんだよ……そんなの。」
実際、こうして目の前にしているヒューゴですら、理解できないし、いまだに信じられないのだ。
この──見たこともない紋章の競演が、「チョコレート争奪戦」だなんて。
『近づいて来てるな、確実に。』
「厄介だな……。」
不意に、ぽつりと、少年が呟く。
「厄介だよ! 厄介に決まってるじゃないか!」
今更、何を当たり前のことを呟いてるんだと、ヒューゴは顔を跳ね上げる。
そんなヒューゴの頭の上を素通りして、スイはチシャクランの入り口を睨み付けている。
『紋章使われても厄介だしな……。』
「それ以前に、あんたが見つかる方が厄介だろーが。」
とたんに、あきれたような表情で片目を眇めるスイに、ヒューゴはさらに叫ぼうと口を開きかけて──、
「……あんた? 見つかる?」
誰のことだと、眉を寄せてみせる。
『いや、でもな? ほら、俺、ヒューゴにはぜんぜん見えないみたいだし。
きっとゲドも大丈夫だと思うんだ!』
「亀の甲より年の功と言うから、きっと見える思うけどな、僕は。」
けれどスイは、ヒューゴが頭にクエスチョンマークを貼り付けているのに、まったく構わず、一人で勝手に話を進めて行ってしまう。
──話がかみ合わないどころじゃない、まるで、彼にしか聞えない声と、応答しあっているかのようだ。
「……ちょっと──あの?」
『別に俺としちゃ、ゲドに50年ぶりの挨拶くらいかましてもいっかなー、とか思うんだけどな。──やっぱ、リグラム城のこととかばれるとまずいか?』
「マズイと言う話なら、さっきからそこで、紋章を無駄に開放してるリオ達のこともマズイんだけどね。」
ヒョイ、とスイは肩をすくめた後、ヒューゴの頭の上から視線を横手にずらし、チョコレートを片手に楽しそうに遊んでいる面々を見やった。
彼らはとても真剣にやっているのだろうが、所詮、戦っている理由が理由だ。スイには、遊んでいるようにしか見えない。
「それに──やっぱり、サナに迷惑をかけるわけには行かないし、ここのブドウはおいしいし、今年のワインが値上がりしたら困るし、かと言って……。」
……こんなところでソウルイーターを開放するわけにも、いかない。
最後の言葉だけは、口の中で呟くだけにとどめて、さて、どうしようか、とスイは小首を傾げる。
騒動を大きくしないためには、あの喧嘩を止めるのが一番だろう。
けど、正直な話、あの中に飛び込んで、本気モードの面々を叩きつぶすのは、さすがのスイも骨が折れる。
師匠のカイが一緒なら、協力攻撃で完膚無きまでに叩きのめせるのだが──と、そこまで思って、スイはふと手元のピコポンハンマーに視線を落とした。
軽く右手で持ち上げて見れば、ピコピコと楽しげな音が鳴る。
「──……あぁ、これで殺ると言う手があったか。」
ピコピコ。
ピコポンハンマーを揺らして、コレなら完璧、と呟くスイに、ヒューゴは知らず、グ、と右手を握り締めた。
「そんなおもちゃで、何が止められるって言うんだ……。」
低く──吐き捨てるように呟いて、ヒューゴはギリリと唇を噛み締める。
あんなもので、何ができるというんだ、本当に。
そんな物で、正体不明の彼らの攻撃が、あんな物でおさまると思ってるなら、本物のバカだっ!
「こんなことしてる間にも、チシャクランは、すごい騒動になってるんだろうな……。」
サナ達がなんとか治めているだろうとは思うけれど──それでも、長くもつわけはない。
「なんとかして、コレを止めさせないと──。」
ヒューゴは、ますます右手を握る手に力を込めて、その手の甲をチラリと見下ろす。
薄く刻まれた文様──今だに見慣れないそれが、何かを促すように、チリリと熱を発した気がした。
そうして、何かに惹かれるように視線をずらせば、ヒューゴが頭を悩ませている原因である人々が、チョコレートを奪い合って戦い続けているのが見えた。
チョコレートを持った男は、襲い掛かって来る面々からソレを守るように、懐にすっぽり包み込んでいる。
──あんな風にチョコレートを抱き占めたら……溶けるんじゃないかな。────……熱で。
ぼんやりと、そんなことを頭の片隅で思った瞬間──チリッ、と、瞼裏で火花が散った気がした。
とたん、ヒューゴの右手の甲に刻まれた紋章が、淡く光を発し始める。
『……お? スイ、まずい。火の紋章が開放される。』
リオ達に向けて、ピコポンハンマーを向けていたスイは、
「──火なんて使われたら、せっかくのチョコが溶ける。」
予定が狂ったな、と、つまらなそうに呟いてから──ヒュッ、と、地面を蹴った。
そしてそのまま、目にもまぶしい黄色いピコポンハンマーを掲げ、一瞬でヒューゴとの間合いを詰める。
ブワッ、と、一気に溢れかえった殺気に、ヒューゴがハッと肩を揺らして顔をあげるのと、
「……っ!?」
「……ゴメンね?」
うっすらと微笑んだスイが、手首を返すのとが、ほぼ同時。
掲げられたピコポンハンマーが、風を切り、ヒューゴの額にあやまたず叩き落される……!
ぴこぽん♪
「あ、いい音。」
場に不似合いな、可愛らしい音を立てるハンマーに、スイが思わず呟いた。
その声が、耳に届くかどうかというほどの、急な勢いで、ヒューゴは感じていた五感の全てが遠ざかっていくのを感じた。
「──……っ。」
グラリ、と目の前が揺らぎ、視界が一気に狭まる。
耳の奥で断続的に耳鳴りが聞こえ始め、肌に触れていた風の気配も、チシャの匂いも、何もかもが痺れたように感じなくなる。
「…………っ。」
ガクン、と膝が折れ、全身から力が抜ける。
そのまま体が倒れていくのが分かったが、指先の一本も動かない状態では、どうすることもできない。
視界が真っ暗になり、全身から五感が完全に奪われる。
意識も、すぐに闇の中に消え入りそうになる──その中で。
唯一、右手の甲だけが熱い。
チリチリと何かを訴えるようなその熱だけが、異様なほど熱くて……痛くて。
まるで、自分の意思に反して燃え尽きて行きそうだと、残った意識でふと思った刹那。
『持ち主の意思に反して、力を解放するのはタブーだぜ。』
ひんやりとした感触が、手の甲を撫でた気がした。
そして、それに熱が奪われたように、一瞬で熱も痛みも消え去ってしまう。
「……っ?」
何が起きたのかと、失いそうになる意識をなんとか取り戻して考えようとするけれど、熱さを訴えていた痛みにも似た熱がなくなってしまえば、もうヒューゴの意識をとどめておく物はない。
ガクン、と首を落ちて──後は、一気に闇の中に意識が飲まれていった。
────のを、見下ろして。
『ったく、コイツって、昔から暴走癖あるんだよなー。』
ヒューゴが投げ出した右手の甲をスルリと撫でた指先を、軽く振りながら、呆れたようにアルトが呟く。
その彼の体は半分以上透けていて、霊感が強い者にしか見えない状態だ。
重力のままに倒れこんだヒューゴの髪を軽く撫で付けてやりながら、アルトは彼の幼い容貌を覗き込む。
『それにしても、ソレ、ピヨピヨ状態になるんじゃなかったっけ? なんか、気ぃ失ってるぜ?』
「そのはずなんだけどなぁ? 強く叩きすぎたかな?」
軽く叩いただけなのに、この威力。
これは、成功と言うべきか、失敗と言うべきか──なかなか難しい問題だ。
ぴこぴこ、と軽い音を立ててピコポンハンマーを揺らしながら、倒れたヒューゴの隣にしゃがみこみ、スイも一緒になって覗き込む。
そして、つんつん、とヒューゴの頬をつついてみるが、全く目を覚ます気配はなかった。
『すっげぇな、ソレ! メグちゃんに頼んで、俺も一丁作って貰おうかな〜?』
「どうやって持つんだよ。」
『常にジョウイが俺のために神棚を持てば、問題ナシ!』
ビシィッ、と、無駄に格好いい笑顔を貼り付けて、キラキラと辺りにエクトプラズムを撒き散らしながら微笑むアルトに、あっそ、とスイはやる気なさげな答えを返してから、スックと立ち上がった。
「ま、気絶でもピヨピヨでも、なんでもいっか。無事に炎の紋章の暴走も止められたことだし。」
とりあえずこの場は気にしないことにして、スイは改めて腕まくりしながら、スチャ、とハンマーを翳した。
「それよりも、彼をこんな目にあわせたリオたちに、お仕置きしないとね!」
『自分がヒューゴにしようとしたことは棚上げかよ。』
思わず後ろ手に突っ込んでくるアルトには見向きもせず、スイはピコポンハンマーをクルリと回しながら、最初の狙いを定める。
たとえ、阿呆な理由で争っていようとも、相手は超一流の戦士たちだ。気合いを入れて挑まなければ、ヤラレルのはこちらだ。
スイは、飛び回る五つの人影をヒタリと睨みつけ──最初の一撃を食らわす相手を、今現在チョコレートを手にしているリオに狙いを定めた。
ヒュンッ、と棍を振り回すときの癖のように、ピコポンハンマーを掌の上で回転させる。
そしてそのまま、ハンマーの取っ手を掴みなおすと、リオが空中に躍り出た瞬間を狙って、左足で地面を蹴ろうとした──そのタイミングで。
『あ。スイ、マズイ。ストップだ。』
襲撃を停止しようとしているとは思えないほどのんびりした声で、アルトの制止が入った。
それを無視して、リオをピコポンハンマーで撃墜するのはたやすい。──が、いくら今は一介の(幽霊)宿星に過ぎないとは言えど、かの有名な「炎の英雄」の助言を、無視するわけには行かない。
特にこういう状況で、彼が制止をかけると言うことは、なんらかの理由があるに違いないのだ。
「襲撃は、急に言われても停まれないものだよ、普通は。」
そう言いながらも、飛び出そうとした勢いをその場でタタラを踏む事で堪えたスイは、そのままの動作でチラリとアルトを横目で見やる。
アルトはと言うと、スイの言葉を受けて、ヒョイ、と肩をすくめてから、
『停まってくれないと、現行犯逮捕だぜ、スイ?』
「……現行犯?」
何の話だと、柳眉を顰めて顔を向けるスイに、アルトは唇の端を吊り上げて微笑みかけると、クイ、と顎で背後を示してみせた。
『ゲドと目があった、俺。』
無駄なくらいにまぶしい笑顔だった。
そのアルトの言葉を確かめるように、視線を横手へずらせば──坂の端をぐるりと囲むチシャクランの柵が途切れた場所に、一人の男が立っているのが確認できた。
「………………………………。」
遠目にも鍛え抜かれているとわかる、屈強な体躯を持つ戦士だ。
その手には、太陽を鈍く反射する抜き身の剣。遠目にもわかるくらいに、切れ味の鋭そうな刃だ。
その「彼」の眼帯に覆われて居ない方の目は──地面に突っ伏しているヒューゴを見てはいない。
それよりも少し上──、男は、ヒューゴの背の上にのしかかっている「そのひと」を見据えていた。
「──アルト。」
男は、自分が見ている「人物」の名前を、呟いてくれた。
低くうなるように聞えてきたその「言葉」に、スイは無言で、ス、と目を細めた。
「……………………──────だから見えると思うって、言っただろうが。」
男に負けず劣らずの低い……冷ややかな声でスイが呟けば、えへ、とアルトが何かをごまかすように笑う。
『これは、やっぱり、アレだよな? ゲドと俺が、50年前から熱い絆で結ばれてるっていう証拠……。』
うんうん、とアルトが1人納得して頷くや否や、ギンッ、と、刃物が切れそうに鋭い視線が、チシャクランの入り口の方から飛んできた。──が、当然のことのように、アルトもスイもそれをキレイに無視することにした。
「アルトの戯言はさておき、あんたがヒューゴ君の上にのしかかっている以上、下手な言い訳はできない。──というかむしろ、ゲド殿はきっと、アルトがヒューゴ君を犯したと思うに違いない。」
──さて、どうしようか。
ため息交じりにそう呟きながら、スイはピコポンハンマーを持った手を腰に当てて、首を傾げる。
『ってこらちょっと待て、スイ。おまえ、今、『侵した』って漢字が違わなかったか!?』
はいはい! と片手をあげてアルトが抗議してくるが、
「話しかけるな。今、話かけられたら、まるで僕が君と知り合いで、なおかつ共謀していたかのように思われるだろっ!」
険しい顔でスイはその抗議を切り捨てる。
さらに続けて、
「それに、僕は今、『ココで争いを起こしている面々とは、まったく無関係な、チシャにワインの試飲をしにきた旅人』っていう設定なんだから!」
ピコポンハンマーの先で、リオ達のほうを示して、堂々と胸を張って宣言してくれた。
『ヒューゴを気絶させたのはおまえだろっ、お・ま・えっ!』
すかさずアルトが裏手で突っ込むが、そんな言葉に反省するような精神をスイも持ち合わせてはいない。
「いや、そもそも、ヒューゴ君が紋章を暴走させかけた原因はリオにあるわけだから……。」
そんな風に、一人と一幽霊は、楽しげな会話をポンポンとキャッチボールしていたが──ゲドが、それをいつまでも黙って見ているわけはない。
ゲドは、無言でアルトとスイの二人を一瞥すると、おもむろに、ザ、とわざと音を立てて脚の位置を変えてみせる。
途端、ゲドのその動きに反応するように、バッ、と2人が鋭く振り返った。
50年前には、炎の導き手のリーダーとして立っていたアルトはとにかくとして、些細な動きに素早く反応する少年に、ゲドは険しい顔をますます険しくさせる。
「──……まずは、何を考えてこんな真似をしているのか、教えてもらおうか。」
チャリ──と、相手に聞えるように音を立てながら、剣の柄を握りなおす。
とたん、一気に辺りに緊迫感が走り、その場から一歩も動けないような雰囲気が広がった。
一瞬で変化した雰囲気に、アルトは、口元に苦笑を浮かべた。それから、その苦い色を消し去るように、わざとらしい仕草で大きく頭を振って、ヒョイと肩をすくめると、
『まぁまぁ、ゲド。せっかく久しぶりに会ったんだからさ? そんな殺気しまって、サナんところで茶ーでもしばこうぜ?』
ことさら明るい声を出すように心掛けながら、ニッコリと明るい笑顔を貼り付けて、誘いを掛けてみた。
……みたものの、アルトには分かっていた。
──ゲドが50年前の性格のまま、あんまり変わってなかったら……、彼はきっと、そう。
「ふざけた事を言うな。」
ゲドの返事と共に、剣先がキラリと光った。
『あー……そう言うと思ったぜ。』
ゲドの目がさらに剣呑感を増し、ヒューゴの背中に乗っかったままのアルトを、ギロリと睨みつける。
『スイ、パス。』
アルトはそれを見て取るや否や、抵抗することもなく、さっさとサジを投げることにした。
そしてヒューゴの背中の上に、フラフラフラ……、と折り重なるように寝転ぶと、
『ゲドの冷たい言葉に俺はヤラれた……。……あ、後は頼む……っ。』
先ほどまでの底抜けに明るい口調をガラリと変えて、苦しげに胸元を抑えながら、スイに視線を飛ばす。
さすがはリグラム軍きっての演技名人。伊達に50年前に炎の英雄なんていう英雄の仮面を被っていたわけではない。
その仕草にも表情にも、声の抑揚に至るまで、苦しげな色が出ていたが──この場でそれを見ていたのは、残念ながらその演技力を評価してくれる人ではなかった。
「今更犯られたからって、困る体でもないだろうに……。」
『って、だからおまえ、ヤラレルっていう漢字がなんか違わなかったかーっ!?』
一瞬でガバッと跳ね起きて、アルトが叫ぶが、スイはソレに皮肉げな笑みを浮かべるだけで、視線を向けることもなかった。
その代わりにスイは、ゆったりとした仕草で顎を上げ──改めてゲドと正面から視線をかち合わせる。
「さて、ゲド殿。
まずは、誤解がないよう説明させて頂きますけど──これは、チシャ襲撃とかそういうのではなく、単なるチョコレートを奪い合う、新しい競技なんです。」
『言い張ったな。』
──見られてしまった以上は仕方が無い。
ココは、本当のことを真摯に話すのが一番だ。
そう思っての発言だったが……、自分で言いながら、あまりにもうそ臭い真実に、片頬の辺りに苦い色がにじみ出るのが止められなかった。
事実、視線の先のゲドの反応は鈍い。
「──……。」
かすかに眉を動かすゲドの、チラリとも変わらない表情と──その剣呑な光を宿したままの瞳を、飄々とした目で見返しながら、スイは頭の片隅で、さて、どうしよう、と首を傾ける。
この場をうまく収めるには、この状況にまるで感づいていないリオたちを、ことごとく叩き伏せ、土下座させるのが手っ取りはやいけれど──「面々をことごとく叩き伏せる」ためには、ゲドが邪魔だ。
何せ、達人クラスの彼らを相手に、肉体のみで黙らせるのは、骨が折れる。
ソウルイーターを使うわけにも行かなければ、左手と額に宿した紋章で合体魔法を見せるわけにも行かない──今、ゼクセン・グラスランドは、「強い魔力の主」に、ひどく敏感になっているから。
かと言って、このままリオたちを放って置けば、ゲドとの戦いになることは目に見えて分かっている。
そうなれば、内輪揉めの最中のメンツも加わり、戦闘は益々悪化し、チシャクランは壊滅の危機になってしまう。
──何よりも。
「ビュッデヒュッケの人間に、僕達と正面から事を構えた記憶が残っていられると、厄介なんだけどな……。」
くるん、とピコポンハンマーを回して、スイはチラリとヒューゴを一瞥する。
ヒューゴはこの一撃で、アッサリと気を失った。
メグの言葉が本当なら、このハンマーで叩けば、直前の記憶が、「記憶喪失」になるはずだ。
まぁ、もしそうならなくても、気を失っている間に、夢か何かを見たのだろうかと、そう思わせておけばいいだけの話だ。
幸いにして、チシャクランにはサナが居るし、村人達も口裏を合わせてくれるだろうし。
それでもどうにもならないようなら、ビクトールやフリックが、シュウの的確な指示の元、情報操作に走り回ってくれるはずだ。
何も問題はない。
──そう、目の前のゲドを、気絶させさえすれば。
「……問題は、と。」
薄い微笑を口元に浮かべながら、一向に隙を見せようとしてくれないゲドと、視線を絡み合わせる。
相手もまた、スイが油断ならない人物だと思っているのか、ジリリ、と開いた歩幅が──戦闘のスタイルに近づいている。
やはり、一戦交わすのは、逃れようのない現実のようだった。
それは、もう仕方がないことだと思える。
けど──問題はそこではなくて。
「……………………彼に、ハンマーを叩きこめるかどうか、……かな。」
100年以上生きている戦士相手に、対等にやりあえる自信はなかった。
ほんの一撃、彼に叩き込めばいいのだろうが、その一撃を許してくれるかどうか……そして、そこにいたるまでに、自分が彼の一撃を食らって気を失わずに済むかどうか、自信がない。
もともとスイは、棍使いであり、同時に体ができて居ない少年の体だ。大人の男に比べて、力が弱く、体が軽い。
ゲドのように、体躯がしっかりと作られていて、力も付いている上に、技量まである男を相手に、どこまでやれるかは──まさに運次第だ。
「ビクやフリックみたいに、癖を知っている相手ならなんとかなるけど──。」
初対面の相手で、しかも老成した技量まで身につけていて、潜り抜けてきた修羅場の数は、アッチのほうが断然上。
弱音を吐くつもりはないが、勝てる見込みはないような気がしてきた。
──ソウルイーターで無理やり体の自由を奪おうにも、彼もまた、真の紋章の主だし?
コレで、今持っている武器が天牙棍だったなら、リーチだけでも対等になるところなのに……、よりにもよって、ピコポンハンマーのリーチは、おもちゃのような30センチ程度。
彼にコレを当てるには、ふところに入る必要がある上、
『ゲドは、防御型戦士だからな〜。』
のんきに観戦モードのアルトが教えてくれた言葉が本当なら、攻撃型戦士のように隙ができる可能性も少ない、と言うことだ。
「一騎打ちは得意な方だけど……。」
はぁ、と、小さくため息を零して、それでもスイはピコポンハンマーをくるくると指先で回して──、飛び出す!
「──……っ!!」
とたん、グッ、と剣の柄を握りなおした男の全身から、肌を刺激するような威圧感が飛び出した。
それと共に、全身から隙と言う隙が見当たらなくなる。
本来ならここで、飛び込む角度を変更せざるを得ないのだが──今は、目的が違う。
素早く頭の中で、目標との目算を計算して──いける、と、スイは一気にゲドまでの間合いを詰めた。
「──……無謀なことを……。」
あきれたように呟いたゲドが、ス、と前に進み出るのと、スイがゲドの剣の間合いに入るのとが、ほぼ同時。
ヒュンッ、としなるようにして襲い掛かってきたゲドの剣を、スイは飛び上がって避ける。
ゲドの頭を飛び越そうとするほど高く飛びあがりながら、ピコポンハンマーを手元に引き寄せ──、「目標」向けて、ハンマーを投げつける!
「サスケ!!」
朗々とスイが叫んだ瞬間、ゲドは振り下ろした剣を手元に引き寄せながら、彼が着地する方角に体を捻ろうとしているところだった。
ハッと、自分の頭上を飛ぶ少年を見上げると、すでに彼の細い腕には、黄色いハンマーは無かった。
太陽の逆光の中、まばゆいほどの白い肌を持つ少年の指先が、ゲドをからかうように小さく揺れた気がした。
そして、その白い肌の中……赤く熟れた唇が刻んだのは、紛れも無い、微笑。
「──……っ。」
しまった、と──スイが発した言葉の意味を理解したのが先か、それとも今までに踏んだ修羅場の数から来た野性の勘が体を動かしたのか。
ゲドは、空中に身を躍らせた少年の方を向きかけていた体を、大きく開き、そのまま無理やり上半身を捻り、後方を振り返る。
見開いた片目に、飛び込んできたのは──黄色い、丸い、断面。
「………………っ。」
なぜ、気づかなかったのかと。
顔をゆがめながら──間に合わないとわかっていながら、それでもゲドは、剣を横なぎに振るった。
その剣先が、感触を感じ取るよりも早く……。
ピコポン♪
額で、軽やかな音が鳴った。
──その音が、聞えたかと思うや否や、急激に五感が閉ざされていくのを覚えた。
それでも、ゲドはそのまま剣を振りきるが、振ったその剣に手ごたえがあったのかなかったのか……それすらもわからない。
「──……っく……。」
短く零したはずの言葉すらも遠く……ガクン、と膝を折ったはずだと、そう思ったのが、最後。
それ以上何も考えられないまま──意識が、なくなった。
男が振り向いた瞬間、殺らなければ殺られると思った。
頭の中は真っ白で、ただ、全身が鳥肌立つような感覚だけが鋭敏に感じ取れた。
右手に持っているのが、つい先ほどスイから受け取ったハンマーだと──殺傷能力のない、ただのおもちゃのように軽いハンマーだと、わかっていたけれど。
それでも、それを持って、攻撃せざるを得なかった。
そうしなければ、自分が地面に倒れ付すことになるのだから。
「サスケ、額だっ!」
空中で身を翻したスイが、叫ぶ。
その声が何を意味するのか──わからないまま、サスケは右手に握った物を、振り下ろしていた。
自分を鋭い眼差しで睨み付けるゲドの右手が、意思を持って閃いた瞬間……、ヒュッ、と、サスケは短く息を飲んだ。
ハンマーを叩き落としながら、それを軸に自らも飛び上がる。
きらめく刃を避け──けれど、避けきれない切っ先が、ピッ、とサスケの頬に一筋の痛みを走らせる。
「──……ちぃっ!」
ピコポンハンマーを手放し、サスケはそのまま後方へ身を躍らせた。
スイが空中から飛ばしてくれたハンマーを手放し、トントントン、と地面を反転しながらゲドの間合いから遠く離れる。
地面に足を付けると同時、ふところからクナイを数本取り出し、キッ、とゲドを睨み付けた。
そのとたん、地面に膝を付いていたゲドが、めまいを堪えるように米神に指先を押し当てたかと思うや否や──グラリ、と上半身を傾がせた。
──……ドサッ。
「──……っ!! スイさんっ! 一体、何やらかしたんですか!!?」
ゲドが地面に突っ伏した瞬間、サスケは、グイ、と頬についた血をぬぐいながら、声を荒げる。
乱暴な口調と目つきで見やった先では、サスケが放り投げた黄色いハンマーを取り上げているスイの姿があった。
「なんで、どうして! カスミさんがそこで戦ってて、それでもって、どうして、俺がゲドさんをハンマーで叩くはめになるんだよ!!」
「本当。ちょうどいいタイミングで、ちょうどいい位置に立ってるんだもん。」
「ちょうどいいって……あれは……っ!」
ムッとして、鼻の頭に皺を寄せて反論しかけたが、サスケが先をつむぐよりも早く、スイは口元をほころばせて柔らかな微笑を浮かべると、
「助かったよ、ありがと、サスケ。」
少し首をすくめるように上目遣いで、礼を口にした。
「うっ……あ、いや……その──……、おぅ。」
その微笑を正面から認めた瞬間、どうにも言葉に詰まってしまい、サスケは
軽く小首を傾げて、上目遣いに微笑まれて──うっ、と、サスケは言葉に詰まった。
なんとなく、釈然としないものを感じ取るが、微笑みながらピコポンハンマーを持っているスイには、どうにも逆らいがたくて、サスケは無言でそっぽを向いた。
その目元の辺りがかすかに赤く染まっていることに、本人も気づいては居ない。
『──んで、スイ? これからどうするんだ?』
「ん、とりあえず、これ以上チシャの人に迷惑をかけるわけには行かないから、リオ達を止めるよ。」
ヒューゴの目もゲドの目も無いなら、問答無用で紋章を使うことができる。
そう呟いて、スイは右手の手袋に手をかけようとしたが──ふと、その動きを止めると、
「アルト、この間試していた、協力攻撃をやってみるって言うのは、どう?」
「……って、ちょっと待てよ、何をするつもり……っ。」
にんまり、と楽しげな笑みを刻み付けるスイの表情に、イヤな予感に駆られたサスケが、とっさに間に割って入ろうとするが、しかし。
『あ、いいな〜、ソレ! サナも、昔っから派手なの好きだからな。
惚れ直されちゃうかも?』
「いや、サナさんはリアリストだから、惚れ直したりしないと思うよ。」
サスケが止める間もない。
2人は楽しげに軽口を交わしながら、お互いに左手を掲げあう。
「──……って、ちょ……っ!」
『真なる火の紋章よ、おまえの先の主として、おまえとのつながりを持って、おまえに命ずる……っ!』
「わが左手に宿りし烈火の紋章よ──。」
朗々と謡いはじめるその文句に──サスケは、ザァァッ、と血の気が吐く思いがした。
「ちょ……っ、ま、ま……っ! カスミさん、リオさんっ! 早く、逃げ……っ!!!」
ココに、凶暴な放火魔が居る……っ!!!!
その悲鳴半分の声は、言葉になることはなかった。
なぜなら、無駄に詠唱スキルの高い二人が唱えた詠唱は、サスケの台詞が終わるよりも早く、終わっていたからである。
「『 』」
──ちゅっっどぉぉぉーんっ!!!!!!!
・
・
・
・
・
・
・
・
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その日、チシャクランの入り口で目撃された巨大な火の球は、まるで空を赤く燃やし尽くしそうに見えたと言う。
「うぅ……クタクタ──……。」
息も絶え絶えに、フラフラフラ──……と、森の中から出てきた娘は、最後の茂みを飛び越えるなり、ぺたん、とその場にしゃがみこむ。
そのままクタリと上半身を傾けて、地面に頬をつけた彼女は、そこでようやくホッと息を吐こうとして──鼻先に香った地面が焦げるような匂いに、ムッ、と眉間に皺を寄せた。
「……こげくさい??」
疑問に思いながら、疲れを訴える体を起こせば、少しだけ眩暈を覚えた。
片目をゆがめて、メグは指先で米神を押さえながら──、
「結局、リオさん達が勝ったのか、それともスイさんが…………。」
顔をあげた瞬間、言いかけた言葉が、途絶えた。
メグは、見る見るうちに大きく目を見張って──そして、マジマジと、昨日も来たばかりのチシャクランの入り口を見つめる。
森の濃密な木々に囲まれた、素朴な雰囲気が広がる、むきだしの大地に生い茂った草地の──……、
「…………………………えー、と……。」
ぺたん、と地面にしりもちをつくように座り込んで、メグは目の前の光景を、どう判断していいものか悩んでみた。
けど、腕を組んで、首を捻って考えても、何がこの場所に起きたのかはわからなかった。
とりあえずわかることは、大きな隕石が落ちてきたかのように、半球の大きな穴ができていて、その周囲がこげているということ。
穴の中身にも、焦げた痕がある。
もう少し早く来る事ができたなら、地面から白い煙が噴出していたところを目撃できたかもしれない。
「とりあえず──、スイさん?」
ぐぅるりと周りを見回して、メグは気を取り直して、村の入り口の柵に腰掛けている少年の名を呼んで見た。
メグが茂みの中から姿をあらわした時から、頬杖を付いて、自分の足元に座り込んでいる青年を見下ろしていたスイは、彼女の呼びかけに、ん? と小首を傾げてみせる。
「何かな、メグ?」
ニコニコニコ、と邪気のない微笑を乗せて視線をメグへと移すスイに、彼の足元で地面に座り込み──動きを止めていたサスケが、あからさまに、ホッ、と胸をなでおろすのがわかった。
そんなサスケに、
「サスケ、そのチョコレートは、僕が君にあげた、『お礼』なんだから、全部食べろとは言わないけど、せめて一口くらいは食べてね? ──僕の前で。」
メグに視線をやろうとしていたスイは、チラリとサスケに目を落とし、ニッコリ、と邪気のない笑みを向けた。
とたん、ぎしっ、とサスケの動きが強張る。
サスケが、泣きそうな顔で、自分の前に置かれている豪奢と言えば聞えがいいラッピングを見下ろした。
つられるようにメグもそこに視線をやり──ぎし、と、おなじように動きを止めた。
「スイさん……そ、そのラッピング……。」
フルフル……と、震える指先で、サスケの前に置かれた、ちょっぴりリボンが焦げた派手なラッピングを指で示せば、
「うん、リオ達もちょっと焦げちゃったのに、このチョコは溶けなかったんだよ。だから、ご褒美にサスケにあげたんだ。」
ニッコリ、と、朗らかな微笑みで答えてくれる。
「────………………リオさんが、焦げちゃった……、んですか……、へーぇ……。」
あえて、どうして人が焦げるほどの炎が出たのかだとか、チョコが溶けなかったとか、それってどういうことなんだとか──そんなことは、聞かなかった。
というよりも、長年の付き合いで、ココで突っ込んだら、いやおうなく後片付けに巻き込まれるのがわかっていたので、聞くのはすべてが終わってからにしようと思った。
一瞬でそのことを決断したメグは、渇いた笑い声を零しながら、チラリ、と──すぐそこの地面で横たわっている面々を一瞥して、ドッ、と疲れたようにため息を零した。
そして、気を取り直すように、小さく掛け声をかけて立ち上がると、
「スイさーん、私、今から森の中で、ミーナとミリーとカレンを探して戻ってきますから〜! 帰ってきたら、サナさんにお茶よろしくって言っておいてくださーいっ!」
この分だと、もう、チョコレートを買いに行くのは無理だろう。
──というか正直に言うと、スイさんに巻き込まれた時点で、あきらめていたのだけど。
口元に手を当てて、ブンブンッ、と手を振りながら叫ぶと、スイはサスケに圧力をかけていた笑顔のまま、頷いてくれた。
そのスイの笑顔に手を振りながら背を向けて──メグは、鬱蒼と茂った森の中に再び分け入りながら、
「スイさんって、存在そのものが、トラブルメーカーだよねー……。」
答える人物のない呟きを、なんとなく零して──まったく、今更だよね、と、メグは苦笑をにじませた。
──そんなメグが、森の中で、ボナパルトの口の中に入ったミリーとミーナとカレンに会うのは、あと少し後の話である。
+++ BACK +++
サナの家で出されるお茶請けは、スイが作ったチョコだったりするのだろうかとか思いつつ、エンド。
……ご……ごごご、ゴメンなさい……っ!
ぜんっぜん、総受けじゃない……っ!!!(涙)
オールキャラにしようと狙ってたら、洒落にならない長さになりまして。
削ったエピソードがいくつもあるんですが、そのことごとくが、「メグとカスミの会話」だとか、「スイとヒューゴの絡み」だとか、「フリックとビクトールの平和な本拠地の会話」だとか、「シュウさんがチョコレート戦争に巻き込まれるネタ」だとか、「グレミオさん、嬉々としてぼっちゃんへのチョコレートを作ってる話」だとか、「ぼっちゃん、新たにルックにチョコを作ろうとする話」だとか……。
──……どうなんだろう、全部ギャグだよ。
あんまりにも総受け風味じゃないので、そのうち、SSSダイアリーで、せめて「ルックにはいアーン」するぼっちゃんくらいは書きたいと思います。
あぁ……新天地はならなかったか………………。