その兆候に気付いたのは、北風が冷たく感じる──冬の初めのことだった。
天気がいい日は、ティーカム城のレストランのテラスで昼食とオヤツを摂るのが、リオとナナミの日課だった。
今日も今日とて、温かな日差しが差し込むテラスの一角……特に日当たりの良いテーブルを陣取って、温められたそこに懐いていた。
「やっぱりこの季節は、図書館の二階の窓際か、露天風呂か、ココに限るよね〜。」
ペッタリ、と温められたテーブルにスリスリと頬をすり寄せながら、リオがホンワリと呟く。
その幸せそうな笑顔に、彼の前に座っていたナナミもまた、口元を緩ませて笑いながら同意を示す。
デュナン湖のほとりにあるティーカム城は、冬になると強い北風が吹いて、寒さが厳しくなるのだが──、このレストランのテラスは、建物にさえぎられて風が当たらなくなるため、冬でも心地良いお昼寝スポットになるのだ。
テーブルにピッタリとほっぺたをくっつけていると、優しい温かさに眠気を誘われる。
そのまま瞼をくっつけたくなるが、これから今日のオヤツが運ばれてくる以上、スヤスヤと眠るわけには行かない。
「ほんとよね〜! 道場なんて、北側な上に西側なんだもん。寒くて寒くて、とてもじゃないけど、ジッとしてられないよねー!」
頬杖を付いて、柔らかな日差しに幸せ満面の表情を浮かべたナナミは、今朝のことを思い出して、眉間に軽く皺を寄せる。
「あー……うん、朝は寒いよね〜、凍りそう。」
コクコク、と同意を示すリオの真剣な返事に、
「いや、凍ることはないだろ。」
隣の席に着いていたフリックから、突っ込みが走る。
そんな彼の前には、もう3時という時間にも関わらず、本日の昼食(?)メニューが並んでいた。ちなみに、同席しているビクトールの前にも、同じように昼食中である。
「凍ります! 朝はだって、絶対零度なんですよ、道場はっ!!」
グッ、と拳を握り締めて、ナナミは力の限り力説する。
「今朝だってですねっ、フッチ君とサスケ君と一緒に、訓練しようと道場に行ったのは良かったんですけど! あんまりっにも寒くて、冷たくって、最初の一時間はず〜っっと、三人でピョンピョン跳ねてただけだったんですよ!!」
跳ねてる最中に、体がポカポカしてきてから、ようやく稽古にかかれたけど──結局、一時間も無駄に時間を過ごした計算になるのだ。
「だったら、もう少し厚着すればいいだろーが。」
呆れたように頬杖を付いて、フリックは手元のスープにスプーンを突き刺した。
ちなみに、彼が手元においているスープは、なぜか全く具がない。
「フリック、行儀悪いよ。」
すかさず隣から飛んできた言葉には、生返事を返して、フリックは見下ろしたスープを、スプーンでちょっとかき回してみた。……が、どれほどかき混ぜても、具らしいものは見えてこず、何気にへこむハメになる。
「厚着したら、動きにくいじゃないですか〜! 手袋とマフラーも、邪魔なくらいなんですよ!」
もうっ! とナナミは唇を軽く尖らせる。
そんなナナミの言葉には、
「ビクトールみたいに肉布団を纏ってたら、厚着しなくてもあったかいんだろうけどね……。」
先ほどフリックに突っ込んだ人物が、優しげな微笑を浮かべながら、ひどい感想を口にしてみせた。
その、あまりに優しい笑みに、
「そ、そーですよね! 私も、ビクトールさんみたいな肉布団があったらなぁ〜vv」
浮かれた調子で、ナナミが言葉の奥も深読みせずに、語尾を跳ねさせて満面の笑顔でコクコクと頷く。
「……って、オイ、スイ、ナナミ──おまえらな……。」
フリックの正面で、嬉々として和食のランチに箸を突っ込んでいたビクトールが、その段階になってようやく顔をあげた。
「何か、さりげーに俺を侮辱してねぇか、オイ?」
片目を眇めるようにして、l軽く歯を剥き出して威嚇するフリをするビクトールに、ナナミが慌てて顔をむける。
「そんなことないですよーっ、ビクトールさん! ただ私は、ビクトールさんの肉布団がスゴイなぁっ、って話をですね!」
「お前、太ったからなー……。」
顔の目の前で、ブンブンと手を振るナナミの言葉の後に、ぼそり、とフリックが──ランチタイムの残りを押し付けられたとしか思えない無駄にコンモリと盛られたキャベツに手を付け始める。メインディッシュが載っている皿のはずなのに、三分の二がキャベツで埋め尽くされ、残る部分に魚の尾っぽ部分のソテーとお子様ランチについてくるサイズのハンバーグがチョコンと乗っている。
あまりにむなしいランチである。
「だからこりゃ筋肉だっつってんだろ!」
ガブリ、とサバの味噌煮に噛み付きながら、ビクトールが唸るように吼えれば、
「そうそう、寒いと、筋肉がほぐれるのに時間がかかるんだよね〜。」
今までの話を聞いていたのか居ないのか、自分の発言のせいでこんな会話になった自覚のない少年が、ノンビリと紅茶を啜りながら溜息を一つ零す。
「本当──、体を温めるにはやっぱり、鉄板の上が一番だよね。」
更に続く言葉に、フリックがキャベツに突き刺していたフォークの先を、ガリッ、と皿の上を掠めた。
「……オイ、……スイ?」
片頬を歪めて、チラリ、と見上げる先で、スイは気のない表情で──かすかに鼻の頭に皺を寄せて、紅茶の表面を見つめていた。
ハイ・ヨーが淹れた紅茶がマズイということはないだろうが、何か好みに合わなかったのかもしれない。いや、もしかしたら単純に、今日の気分はミルクティだったとか思っているのかもしれない。
「あー……まぁ、鉄板がどうとかはおいておくにしてもよ? ナナミ、リオ、お前ら、寒い中、急に運動するんじゃねぇぞ? 筋肉壊すぞ。まずは手始めにジョギングとかして体を解したほうがいいぜ。」
視線を軽くさまよわせた後、ビクトールは視線を豚肉のサラダに戻し、そこに箸を突っ込みながらリオとナナミを上目遣いに見上げるようにして告げる。
朝早くから軽くジョギングで慣らせば、体も温まるだろうし、その間に日も昇り、少しは道場も暖かくなるだろう。
そんなビクトールの助言に、なるほどー、とナナミが大きく頷く。
「じゃ、明日からはそうしますね!」
「はいはーい! ビクトールさん! 僕の場合、時間が経つほどに道場が寒くなるんですけど、それはどうしたらいいですか!?」
明るく笑うナナミに呼応したように、ビシリッとリオが片手を大きく空に向けて突き出す。
「お前の場合って…………、ああ、そうか、リオはいつも夜だな。」
寂しいランチのセットの中、唯一おなかが満腹になりそうなキャベツを無理矢理口に運びながら、フリックが納得したように首を縦に振る。
朝に弱いリオは、いつも夕飯を食べた後に道場に入って訓練を始めるのだ。
行った先から冷たい床とご対面した挙句、時間が過ぎるほどに道場内は暗く──そして寒々しくなっていくのだ。
しかも、段々と人が増えていって熱気があふれてくる昼間と違い、どんどん道場を使う人が少なくなっていく夜は、はっきり行って、訓練には向かない。
夏なら、暑さもほとぼりが冷めて、いい感じになるのだが……、
「冬の夜はなぁ……いいことねぇから、とっとと寝ろとしか言いようがねぇな。」
ヒョイ、と肩を竦めるビクトールの言葉に、リオは不満そうに眉を寄せた。
「え〜……。…………それじゃ、道場に、ストーブか床暖房つけてもらおうかなぁぁ。」
戦争中の身なればこそ、訓練所にお金をかけるのも、一つの「政策」だよね、と半ば本気で呟くリオに、ナナミはピョンと元気良く背中を跳ねさせる。
「はいはい! 組み手の順番待ちしてるとき用のおこたつとみかんも欲しい! でね、下に敷くのはふかふかのクッション! リンゴの匂いがするやつ!!」
ガタンと椅子から半分体を起こして、ナナミは元気良く片手を空へと突き上げて、にっこりと笑顔で笑った。
さらに、それからね〜、と、続けて指折り数え始めようとするナナミに、
「……っておいおい、さすがに道場にコタツはないだろ、コタツは。」
フリックが昼食を突付くのをとめて、ナナミの願望にストップをかけてくる。
ただでさえでも人数に対して広さが十分あるとは言えない道場で、そんな余計なものがあればどうなるか……想像に難くないだろうが、と、フォークの先でナナミとリオを指差せば、すかさず隣に座っていたスイがフォークの先に指先を当てたかと思うと、、フリックの指先の上でクルリとフォークを反転させて、
「フリック、さっきから行儀悪い。」
ザックリ──と、フォークの先をフリックの手首に突き刺す。
「ぅおっ!!!」
血が出るほどではなかったが、それでもしっかりと刺さったフォークに、慌ててフリックは席から立ち上がり、フォークを腕から叩き落した。
そんなフリックをチラリと見て、スイはふたたび小さく溜息を零す。
ビクトールは、気のない表情を見せるスイに、ニヤニヤした笑みを漏らすと、
「そーだぜ、お前ら? 道場にコタツなんかあったら、ぜってぇ、それを投げて武器にするやつがいるからなぁ〜?」
意味深に、クイ、と顎でスイをしゃくってみせた。
いつもならそこで、秀麗な眉をひょいと吊り上げて、「それはルックのことかな?」なんてしれっと笑って、テーブルの下でビクトールの脛を蹴りつけるところだが、なぜかスイはビクトールに気のない視線を向けて、
「コタツは、入ってると眠くなるよね……。」
湯気が薄く立つ──冷めていくばかりの紅茶を両手で包みこむようにして、口元に運んで儚げに呟く。
そうして、ふぅ、と短い吐息を紅茶に向けて吹きつけながら、スイは緩く首を傾け、フイに、眉間に皺を寄せる。
「……スイ?」
何かたくらんでいるのかと、怪訝そうな視線を向けるフリックも気に止めず、スイは唇を一文字に結ぶと、カチャンと音を立ててソーサラーの上に紅茶のカップを戻す。
「──……。」
無言で口元に手を持って行き、スイは更に眉間に皺を寄せた。
「スイさん、どうかしたんですか?」
不安そうな眼差しで、リオとナナミが身を乗り出して、俯いたスイの顔を覗き込もうとする。
けれど、口元に手を当てたスイは、無言で紅茶の水面を見詰めるばかりで答える様子はない。──いや、その余裕もないのだろうか?
「スイ? ──……まさか、紅茶に何かはいってたのか……っ?」
フリックは、慌てたようにスイの肩に手を置いて、さりげない態度を装って、彼の耳元で囁く。
険しい表情になるのを必死でリオやナナミから隠しながら──ハイ・ヨーが淹れた紅茶にそんなことはないと思うが、それでも誰かがスキを見て「異物を混入」しないとは限らない。
──何せ「トランの英雄」のことを快く思っていない人間は……多いのだから。
「スイ?」
多少の毒やクスリごときで、スイが体調の不良を訴えることはないはずだ。
けれど──もしもソレが致死量だったとしたら?
「おい、スイ? 気分でも悪いのか?」
フリックの懸念と同じことを感じ取ったのか、ビクトールが片手に味噌汁碗を持ち上げたままの体勢で、腰を浮かしてスイの顔を覗きこむ。
顔を顰め、口元に手を当てているスイの顔は、解放軍時代でも滅多に見ることがないほど──真っ青だった。
「スイさん! 顔、真っ青ですよ!!?」
慌てて、リオとナナミが椅子を蹴飛ばすようにしてスイの席へと駆けつけてきたのと、
「……うっ。」
スイが、堪えきれずにうめき声を零すのがほとんど同時。
「スイっ。」
慌てて、フリックがスイを支え、ビクトールが顔を覗きこむ。
スイは、真っ青になった顔色で、つらそうに柳眉を顰めたまま、上目遣いにビクトールを見上げると、
「ビク……、それ……。」
言葉に出すのも気持ちが悪いと言いたげに、顎でクイと目の前のテーブルを指し示す。
「あん? ナンだ!? どれが欲しいんだ!?」
慌ててビクトールは視線をテーブルの上にやるが、スイの飲みかけの紅茶──これがまた、半分ほどしか減ってない──と、フリックのランチタイムの残り物ランチと、ビクトールの和食定食しかない。
「何か飲んだ方がいいか……っ。」
フリックもビクトールと同じようにテーブルの上に視線を走らせるが、飲めそうなものといえば、自分が飲んでいた具なしスープとコーヒー、ビクトールが持っている味噌汁とお茶、そしてスイが飲んでいた紅茶くらいしかない。
水を貰ってきたほうがいいか、と──もしも本当に紅茶に薬物が混入されていた場合、すぐに吐き出すか薄めなくてはいけないが……。
リオとナナミに、水を持ってくるように頼もうと、フリックが彼らに向けて視線を走らせると同時、
「チッ、とにかくスイ、これを飲んで口の中の物を吐き出せっ!」
ビクトールが、自分が先ほど口をつけたばかりの──薬物など混入してないと、自らの口で確認したばかりのものをスイの目の前に突き出す。
──そう、すなわち、手に持っていた味噌汁を。
「……って、おまえなっ!!」
よりにもよって、味噌汁なんかでどうしようって言うんだと、フリックが米神を揺らすのと、
「……飲めるか──っ!」
どごっ!!
口元を覆っていたスイが、ギッ、と涙目でビクトールを睨みつけながら足で蹴り上げたのが、ほぼ同時。
ビクトールは、勢い良く背中から床に倒れ──、
「ぐおぉっ!」
バッシャン、と、頭から味噌汁をかぶり、思いっきり良く椅子から転げ落ちた。
スイは、そんなビクトールを忌々しげに睨み付けると、口元を覆っていた手の平で、にじみ出た涙を拭いながら、
「もう少し、マシなもの突き出せ……っ! 余計に吐くかと思っただろうがっ!!」
真っ青な顔色のまま、唇を強く噛み締める。
その唇すらも真っ青で──、まるで、病人のような土気色だ。
「……リオ、ナナミ、悪いが、すぐに水を貰ってきてくれるか?」
「あっ、は、はい!!」
スイの背中を摩るようにしながら、フリックは難しい表情で、心配そうな二人にそう指示を出すと──彼らが、ハイ・ヨーの名前を口走りながら走っていくのを目の端に止めてから、顔色の悪いままのスイに顔を近づけて問いかける。
「──スイ、何があった?」
低く……密かやな問いかけに、スイは、うっぷ、と吐き気を堪えるように喉を鳴らす。
込み上げてくる嘔吐感を飲み下すと、テーブルの上に乗っているコーヒーやスープ、自分の紅茶をかわるがわる見た後、
「……何も……。本当に、何もないんだ。」
疲れたように溜息を一つ零して──気だるげに椅子の背もたれに背を預ける。
そうしておいて、鼻の頭に皺を寄せると、ズズ、と椅子の足を後退させて、テーブルから遠ざかる。
「なんか……、さっきから、気持ちが悪いとは思ってたんだけど──堪えきれなくなっただけ。」
ふぅ、と零した吐息も熱く見えて、フリックは益々眉を寄せる。
「……紅茶に何かはいってたのか?」
そんな心配はしたくない──本当なら。
この城の中で、スイを快く思わない者は数あれど……実力行使に出る人間が居るなどとは、思いたくないのだ。
フリックの葛藤を知ってか知らずか、スイは気だるい表情を隠そうともせず──リオやナナミが戻ってきた気配を背後に感じて、苦笑じみた笑みを浮かべて、少しだけ背筋を正すと、
「それはない。ただ、食べ物の匂いをかいだら、胃がムカムカして……二日酔いみたいな感じかな?」
緩く首をかしげながら──そう言えば、昨日はグレミオとパーンと一緒に、酒飲み大会をしたんだったっけ、と続けて零して、二日酔いかもしれない、とスイは結論づける、が。
「樽一個飲んでも酔わないお前が、二日酔いってことはないだろ?」
フリックが、それこそ胡散臭いと言いたげに目を細めて鼻から息を吐く。
「胃がムカムカするってことは、食中毒じゃねぇのか?」
「グレミオの料理に限ってそれはない。」
打てば響くように、ビクトールの台詞に答えて、スイは胃の辺りを手の平で撫でながら小首を傾げた。
「二日酔いみたいな感じてことは、頭痛もするのか?」
「頭痛っていうよりも、体が火照ってる感じかな? 食欲が無いわけじゃないんだけど。」
フリックの問いかけに、スイはもう片手で自分の喉元を摩ってみる。
「火照ってるってそりゃ……。」
指摘しようと、フリックが口を開くと同時、
「風邪じゃないですか、スイさんっ!!!!」
「今年の風邪はタチが悪いんですよっ!!」
両手に水を抱えたリオとナナミが、スイの両脇を固めるようにして叫ぶ。
突然左右から現れたリオとナナミに、スイがパチパチと目を瞬いている間に、リオは持って来た水をフリックに押し付けると、グラスで冷えた指先をスイの額に当てると、
「あっ! スイさん、熱いですよ! 熱があるんじゃないんですかっ!?」
「……いや、そりゃ、お前の手が冷たいだけじゃ……。」
リオに持たされた水は、表面に水滴が浮かぶほど冷えている。
それを両手で掴んでいると、手の平が冷たくなりそうだと、フリックはそれを手持ち無沙汰に右手から左手に持ち帰る。
「大丈夫だよ、リオ。心配しなくても、風邪を引いたわけじゃない。
……あ、フリック、その水ちょうだい。」
目の前で心配そうに眉を寄せるナナミとリオに微笑みかけながら、スイはそう断言すると、胃を抑えていた手の平をヒラリと揺らしてフリックに催促する。
フリックは無言で水の入ったグラスをスイの手の平に握らせながら──触れた彼の指先が、リオが言うほど熱を持っていないものの……、
「スイ、お前、やっぱり風邪じゃないのか? ちょっと熱いぞ?」
「ですよねっ!?」
フリックの同意を得たとばかりに、コクコクと激しく頷くリオの隣から、ナナミもニュッと手の平を伸ばして、スイの額に手を当てると、
「熱いですよ、スイさん! 悪寒とかしないですか!?」
「眩暈とか、動悸とか、息切れとかしませんか!?」
姉と弟は、そろって心配そうにそう問いかけてくる。
グググッ、と迫られて、スイはそれに押されるように椅子の背もたれに体重をかけながら、苦い色を口元に刻んだ。
「悪寒とかもしないんだけどね……食欲もあるし。」
「けどお前、何か食べるか聞いたら、いらないっつったじゃねぇか?」
フリックから手渡された水に口をつけながら、吐き気は治まったようだと確認したスイに、ビクトールが心配そうな目つきで問いかけてくる。
「食べたいものが無かっただけだよ。」
心配しすぎだと、苦い色を刻むスイの言葉に、なぜかリオがショックを受けたような顔つきになった。
「食べたいものが無いって……す、スイさん……っ!
ちゃんとご飯は食べなくちゃいけませんよ! 風邪だって、病気だって、まずは基礎体力からなんですから!!
スイさんの体は、一人の体じゃないんですから、ムリしちゃダメですよ!!!」
ガシッ、と、両手でしっかりとスイの右手を握り締めて、リオは無駄にキラキラしく凛々しくスイの顔を見上げる。
「スイさんに何かあったら……僕…………僕……──っ。」
そのまま、ぐぐっ、とスイに顔を近づける隣で、ナナミが、「いけっ、そこだっ、あと一歩!」と無言の応援をしていたが、目の前に差し迫るスイの整った容貌に顔を真っ赤に染めているリオには、その応援を受け入れている余裕はない。
スイは、そんな必死なリオの様子に、ゆるく首をかしげると、
「──……ん……そうだね……。
大丈夫だとは思うけど、無理しすぎて、体を壊したら、またグレミオに怒られるか。」
最近、無茶らしい無茶はした覚えはないんだけどなぁ……と、他人事のように呟きながら、スイはリオに取られた右手を見下ろし、自嘲じみた笑みを刻む。
解放軍時代や旅のさなかでは、睡眠時間を極限まで削ることも、体力の続く限り戦い続けたこともあった。
そのたびに、グレミオに泣かれ、グレミオに怒鳴られ──それでも大丈夫だと笑って言い切ってみせたものだけど。
今は、そんな風に「ムリ」をするような状況じゃない。
「それじゃ、今日は、ゆっくり休ませて貰おうかな?」
「はい! ぜひ、そうするべきです!!」
スイの体のためだと、リオはコクコクと頷く。
そうしながら、スイさんの寝床はもちろん、僕の部屋で!
天蓋付きのベッドが出来ていたときには、「どうしろっていうんだよぅ〜。」と困惑して思ったものだが──ちなみに、時々義理の姉が『広いベッドに一人だと心細いよね、リオ!』とか言って、嬉々として枕を持ってやってきたりもする──、今ばかりは、あの巨大なベッドに感謝をかんじずにはいられない。
ようやく、あのベッドの正しい使い道が出来そうだと、ニンマリ緩む頬を隠そうともせず、リオはスイの手をしっかりと握り締め、
「それじゃ、スイさん……っ!」
「ん……そうだね。……──さっさと帰って、ゆっくり寝ることにするよ、リオ。
それじゃ、ね?」
行きましょう! ──と、リオが満面の笑みで口にするよりも早く、どこか気だるげな動作で、スイはスルリと自分の手をリオの手から取り返すと、その手の平で、ヒラリ、と、別れの挨拶を寄越した。
そのまま、カタン、と椅子から立ち上がるスイの姿に、
「──……って…………ぇっ!?」
手の平から無くなった温もりの意味に気付かず、目を大きく瞬くリオの視線の先で、スイは首をかしげながら、
「別に変なものなんて食べてないんだけどなぁ……、あ、もしかして、ストレスで胃酸過多かも?」
そんなことを呟きながら、テーブルの横に立てかけてあった棍を取り上げる。
「いや、お前に限ってソレはない。」
キッパリはっきり顔の前で手の平を振るフリックには、
「いつまでも青い人が横に居ると、苦労するんだって、こう見えて。」
わざとらしい仕草で胃を摩りつつイヤミを零し、
「とにかく、グレミオにリゾットでも作ってもらって、ゆっくり休むよ。──風邪だったら、リオたちに移すと大変だしね。」
ルックは、いつもの石版の前に居るだろうか、と──ココから家に帰る手段として、ルックのテレポートを使う気満々な態度で、それじゃ、とその場にいる面々に手を振ってくれた。
ナナミはそんなスイに、ひどく残念そうな表情を浮かべるが、
「残念ですけど、スイさんの体調が悪いんだったら、しょうがないですよね……。
いつでも言ってくれたら、私の元気、わけますからね、スイさんっ!!」
ガッツ、とばかりに、両手を握って、けなげな笑顔を浮かべてスイを送り出す。
スイもそんなナナミに優しく微笑んで頷き返し、今度こそ背を向けて行ってしまう。
「……──いや、だって、同盟軍にもホウアン先生とか……いるんですよぅ、スイさぁーん? 僕、寝ずの看病とかしちゃいますよぅぅぅ〜?」
泣きそうな顔で呟いた軍主が、慌ててスイを追いかけようとしたのだが──ガッシリ、と、フリックによって腕をつかまれて、阻止されてしまった。
「その方が心配だろ……、ほら、リオ、また明日スイのところに行けばいいだろ……。」
手間をかけさせるなと、溜息交じりに呟いたフリックは、そのまま強引にリオを椅子に腰掛けさせると、冷め切ってしまったコーヒーを口に運びながら、
「ったく、病気の時のスイがどれほそ恐ろしいか、お前らは知らないから良く言うよな……っ。」
憎憎しげに、そんなことを吐き捨ててみせた。
──解放軍時代の仲間は、みなが合言葉のように口をそろえて言うのだ。
『リーダーが熱を出したら、最上階は立ち入り禁止! リーダーが咳をしたら、全員半径5メートル以内近づかない! 熱を出そうものなら、グルグル巻きにしてグレミオかクレオをつけて、面会謝絶!』
──この合言葉の意味を知るのは、病気のスイのちょっぴり狂った判断力の恐怖に晒された人間しか、分からないことなのである。
──翌日。
すっきりさわやかな目覚めをしたスイは、やっぱり昨日の体調の悪さは、ただの疲れだったのかな、と思いながら朝食の席についた。
食堂に向かうと、珍しくクレオが先に席についていて、寝起きじゃない顔つきで、コーヒーを飲んでいた。
グレミオがコーヒーを入れたばかりらしく、食堂のドアを開いた途端、コーヒーの独特の香が、辺りに漂っている。
朝食の前には紅茶を一杯飲もうと思っていたが、淹れたてのコーヒーがあるなら、それでいいかと──すきっ腹にブラックは厳しいから、砂糖とミルクを一杯ずつ入れて貰おうと、朝食の席に付きながら、グレミオにそう言おうと口を開いた瞬間──……、
「……うっ!!」
一気に胃から競りあがってきた吐き気に、眼の前がクラリとして──スイは、大きな音を立てて椅子から立ち上がり、ダッシュでトイレに走った。
途中、寝ぼけ眼のパーンとすれ違ったが、何か言葉をかける余裕なんてない。
そのままトイレに駆け込み、胃の中のものを吐き出すと──吐瀉後のなんとも言えない倦怠感と、食道と口の中の気持ち悪さに眉を寄せずにはいられなかった。
「……──昨日は、吐くまでは行かなかったんだけどな…………。」
胃が、ズッシリともたれたように重い。
トイレから出て、胃の辺りを摩りながら、スイはキリリと唇を引き結ぶ。
この感覚には、覚えがあった。
──そう、昨日、フリック達の前で、何気なく「ストレスから来てる」と言ったが……まさに、アレだ。
解放軍時代の、肉体的にも精神的にもきつかったあの時期に、同じような症状を覚えたことがあった。
自分で言うのも何だが、スイは我慢強い方だ──それも、我慢に我慢を重ねすぎて、自分の体や精神にすら、体調を誤魔化すことすらできる類の……過保護なグレミオにとっては、泣いてすがって「お願いですから今日はもうゆっくり休んでください!」というくらいに、我慢するほうだ。
だから、解放軍時代には、ストレスで胃がキリキリ痛もうとも、胃を炒めすぎてうっかり吐血してしまっても、無理矢理前線に飛び出ていったこともあった。
「やっぱり……ストレス性の胃酸過多か、胃潰瘍、かな?」
首を傾げながらも、どうも「ストレス」の原因が分からない。
解放軍時代に血を吐いたときは確か、戦闘配列だの、仲間内での闘争だの、スパイだの、食料不足だのなんだので、問題が山積みになっていて──ちょうど呪いの紋章の意味を知った辺りで……そうだ、それまで我慢して押さえ込んできたストレスが、一気に倍増した瞬間だった。
その時は、掌に血の跡を見つけた瞬間、「なんで血を吐くほど悩まなくっちゃいけないんだ!」とプッツンキレて、カシム・ハジル戦で思う存分前線に飛び込んで暴れまくったら、すっきりして、綺麗サッパリ胃潰瘍がなくなっていた。
やっぱり、ストレスは暴れて解消に限る──ということだろうか?
戦闘配列は、「悩んだときは僕が前線に出る」で解決したし、仲間内の闘争は、「てめぇらが好き放題やるなら、僕も好きなようにやってやる」の一言で、なぜか皆収まってくれたし(このことについて、某軍の元副リーダーは、こう語っています。『1人で敵兵の半分以上をなぎ倒した上に、返り血が頬に一滴しかついていないという恐ろしいさまを見せた人が、ニッコリ微笑んでそんなことを言ったら、誰もが手を取り合っても仕方がないと思うんだが……。』)
「……まぁ、まだ血を吐くまでは行ってないし? リュウカンにクスリでも処方してもらうかな。」
何せ、ストレスの原因が分からないのだから、ストレスを解消する方法も何もあったものじゃない。
とりあえずは、胃痛をやり過ぎしながら、しばらく自宅でノンビリとするのが一番だと思うが──というか、同盟軍本拠地で吐き気を覚えるならとにかく、どうして自宅で吐いてしまったのだろう?
「…………うーん……自分で思っているよりも、手遅れなんだろーか……。」
眉を寄せて、そんなことを呟きながら、先ほど駆けてきた廊下をゆっくりと戻っていこうとしたところで、
「ぼぼぼぼぼ、ぼっちゃんっ!!!? どうなさったんですかっ!!!?」
お玉を持ったまま、グレミオが食堂の方から走ってきた。
その右手には、なぜかパーンの後ろ襟首を引っつかんでいて、パーンは苦しそうに喉元を手で押さえている。
──いつもを思い返してみるに、飛び出していったスイを追いかけてきたグレミオが、そこで「ぼっちゃんがトイレに駆け込んでいった」という話をパーンから聞き、「それでぼっちゃんはどんな様子だったんですか!!?」と、パーンの襟首を掴んで詰め寄った……、と言ったところだろう。
そうやってパーンがグレミオに巻き込まれるのは、よくあることだ。
「あぁ……っ! ぼっちゃん、お顔の色が真っ青ですっ!!」
おろおろと、心配そうに右へ左へ身体を動かし、スイの肩に手を置こうとして、そこでお玉とパーンを持っていることに気づいたグレミオは、慌ててそれを後ろに放り出すと、ガッシリとスイの肩を掴んだ。
「いや、……大丈夫だ、ただの胃痛だと思うから。」
──のわりには、胃がもたれている感じがするだけで、痛いわけじゃないんだけどね?
そんなことを心の中で思いながら、スイは片手でグレミオを制そうとするが、それよりもグレミオの顔が迫り、ゴッツン、と額に額を押し当てられる方が早かった。
「あぁ……っ! ぼっちゃん、大変です!! 平熱よりも0.5度ほど高いですよ!!!」
額を離したかと思うや否や、グレミオは慌てたように自分が身につけていたマントを外し、バサリとスイの頭からかける。
「……いや、っていうか、分かるのか、そんなもの?
それにグレ、その程度なら熱が出たなんていわない……。」
かぐわしい朝食の香りが染み付いたグレミオのマントを、もそもそと頭から引き剥がそうとするが、グレミオはそれごとスイを抱えあげると、
「とにかく! すぐにお布団に横になって、──あっ! 朝食はお粥に作り直しますからね! クレオさんとパーンさんは、適当にご飯を食べてくださいね! ──あぁっ、氷マクラも準備しなくては……っ!!」
慌しく、踵を返してしまう。
「……ちょっ、グレっ!?」
慌ててスイは、マントを払いのけて抵抗を試みる。
腕を伸ばして、ギュムッ、とグレミオの頬を抓りあげると、
「グレ、人の話を聞け! 平熱より0.5度上がったくらいで騒ぐなっ!」
そう耳元で叫んでやるが、グレミオはというと、キッ、とスイを睨みおろして、
「何をおっしゃいますか、ぼっちゃん! 二年前にも、おんなじようなことがあったのを、お忘れですか!!?」
「……うっ。」
旅のさなかのことを言われると、スイも口をつぐまずにはいられない。
グレミオの常にない気迫──過保護真っ只中の叱咤を受けて、スイは首をすくめる。
朝食の時に吐き気を感じたけれど、これくらい大丈夫だとグレミオに言い張って、そのまま宿場町を出た後──よりにもよって、山賊に囲まれている時に吐き気と眩暈でぶっ倒れてしまい、身ぐるみをはがれかけたのは記憶にも新しい【失態】だ。
「い……いや、だってアレはその──……、まさか、インフルエンザにかかってたなんて思わなかった……。」
最後の辺りは、グレミオの今にも光りそうな勢いの眼差しに睨みつけられて、モゴモゴと口の中だけで呟くだけになった。
「インフルエンザっ!?」
その、小さなスイの抵抗の中に紛れ込んだ言葉に鋭く反応したのは、食堂から顔を覗かせたクレオだった。
なかなか戻ってこないスイとグレミオに心配になって廊下に出てきたのだろう。
彼女は、なぜか廊下に放り出されて座り込んでいるパーンにギョッとしたような視線を一瞬向けた後、改めてスイを厳しい顔つきで見やる。
「インフルエンザにかかってるなら、どうしてそうとおっしゃってくださらないんですか、ぼっちゃん! そんなところでそんな薄着で……! 早く寝てください!」
──過保護が1人増えた……。
思わずスイがそう思ってしまったのも、仕方がないといえば仕方がないかもしれない。
「まったく、ぼっちゃんはご自覚がないかもしれませんけど、熱が出ると大変なんですよ。」
クレオは、溜息を零しながらグレミオに抱えられたスイの元へとやってくると、額に零れた前髪を掻き揚げるようにして、スイの額に手を当てた。
「──ん、高熱は出てないようですね?」
「いつもの平熱よりも0.5度高いってグレミオが。」
──というか、それ以前の問題で、別に今インフルエンザなわけじゃない……と、続けようとしたスイの言葉は、
「これから熱が出てくるんですよ、ぼっちゃん。」
グイ、とクレオから顔を突きつけられて、口の中に消えてしまう。
「おとなしくお部屋で寝ていてください。クレオが、すぐにリュウカン先生をお呼びしてきますから。──よろしいですね?」
ジロリ、と上目遣いに見上げられて──スイは、小さく笑って見せた。
「それなら、熱が出る前に、リュウカンのところに行くよ。──それじゃダメ?」
「それじゃ、熱が上がるばかりじゃないですか。」
「ダメです。」
スイに可愛らしく上目遣いに問いかけられても、クレオもグレミオも渋面顔を崩さない。
さらに言うなら、床の上からヒョイと起き上がったパーンまでもが、
「そうっすよ、ぼっちゃん。俺がちょっとひとっ走りして、リュウカン先生を呼んできますから、それまでおとなしく布団の中で寝てて下さい。」
そんな風に過保護なことを言ってくる。
その彼らの顔を順番に見回して、
「でも、リュウカンももう年が年だし、さすがに朝も早くから来てもらうのは体に悪いと……。」
──と、反論を呟こうとするけれど、
「ダメです。」
グレミオもクレオもパーンも、ハッキリとスイの意見を叩き落す。
クレオは床に落ちたグレミオのマントを拾い上げると、パンパンと埃を掌で落とし、それをスイに被せると、
「ぼっちゃんが高熱を出したら、しゃれにならないことは、ぼっちゃんがお小さい頃から、よぉ〜……っく、分かっていますから、熱が出そうな行為は絶対禁止です。」
そのまま指先を、びしり、とスイの鼻先に突きつけて断言する。
クレオの真摯なまでの瞳に、思わずスイが言葉に詰まるのと、
「じゃ、パーンさんはリュウカン先生を呼んできてくださいね。
ぼっちゃんは、グレミオと一緒にぼっちゃんのお部屋です。」
「…………──はぁーい、分かりましたぁ。」
素直に、しぶしぶと言った風に頷いたスイに、クレオもグレミオもパーンも、ほ、と胸を撫で下ろした。
何せ、スイが高熱を出すと、本当に厄介なのだ。
普段はこれ以上ないくらいの的確な判断力を有する彼は、高熱になると、その判断力を捻じ曲げて発動させてくれるのだ。
そのことを、マクドール家の人間は良く分かっていたが、解放軍時代に回りにいる面々はそうではなかった。
解放軍時代は、風邪で喉と胃を痛めて、食事が喉を通らないからと、「ご飯が喉を通らないなら、ご飯を体外から取り入れるまでだ!」とか言って、他人の傷口に飯や味噌汁を塗りこもうとしたことから始まり、「熱があるから冷やさなくちゃいけないんだ」と言って、ポンプで湖の水を汲みだし、それを本拠地中に撒いたこともあった。さらに、「風邪は清潔にしてないとだめなんだよ。高熱で殺菌は基本だよね。」と言ったかと思うと、おもむろに火薬を撒き始めて、それに火をつけようとしたときは、力自慢全員で力の限りスイの暴挙を止めた。
──とにかく、病気に対する知識はあるくせに、そのために取る行動が、ちょっとおかしな方向に捻じ曲がるのだ。
だから、高熱があって、判断力が低下するスイは、野放しにしては危険なのである。小さい頃から本当に、色々やってくれた経験上、まだ熱が出ていないものの、いつ熱が出るか分からないぼっちゃんを、屋敷の外に放り出すなんて、とんでもない!
ハーブが体にいいと聞いたからと、ミルイヒの屋敷に侵入して、除草剤を撒いていたり、汗を掻くと風邪が早く治ると聞いたからと、焚き火の中にジャンプしようとしたりとか──小さい頃からの「スイさま病気異聞」は、両手で数え切れないくらいあるのだ。
「そうですよ、ぼっちゃんは、とにかく、おとなしく寝てて下さいねっ!?」
最後の最後に念押しをするように目つきを険しくさせるクレオに、スイは、コテン、とグレミオの胸元に額を押し付けると、
「分かってるってば。あきらめて、レパントの強襲も受けるよ……。」
はぁぁぁ、と深い溜息を零しながら、──多分、リュウカンを呼んだほうが、ずっと治るのが遅くなると思うんだよなぁぁ、と額をグリグリ押し付けながら呟くスイの言葉に。
「「………………──────。」」
「じゃ、ちょっくらリュウカン先生のところに行ってくるっすよ。」
がしっ!!!!
廊下を階段の方角へと歩きかけたパーンの後ろ襟首を、すかさずクレオが引っつかんだ。
「いや待て、それは確かに……マズイ。」
今更ながらに──そう、スイに呟かれるまで、スッカリ頭から抜けていたが。
言われて見れば、リュウカンは今、「レパントのお膝元」にいるのだ。
そして、レパントといえば──トランで知らぬ者はいないのではないかと思うほどの、「トランの英雄バカ」。
リュウカンを連れてくるということは、スイが寝込んでいるということばばれてしまう。
当然、レパントは国務を放り出してでもスイの見舞いに駆けつけてくるに違いない。
──そう、間違いない。
それも、ゾロゾロと引き連れてくるに違いない。
そうなれば漏れなく、新同盟軍にも連絡が行ったりして、穏便に済むはずだった展開が、一気に、「スイが寝込んで危険だってっ!?」なんて、しゃれにならない状態になり、あっという間に軽い風邪を治すための療養から、風邪を肺炎にまで進化させるための工程が出来上がってしまう。
ソレはまずい。
そんなことになれば、解放軍当時と違って、3つも紋章を宿してしまっているスイを、完全に野放しにすることと同義語になってしまうではないか。
「熱があるときはね〜、中にある毒素を出したほうがいいんだよ〜。」とほんのり火照った悩殺的な潤んだ瞳で、ニッコリ微笑んだ挙句、右手を上げて【冥府】とか唱えてきたあの解放軍時代の恐怖の「暗黒の日」など、軽々しい以外の何物でもない展開が起きるのは、必須。
一気にめまぐるしく、そのことごとくを想像してしまったクレオは、グレミオに抱きかかえられるスイよりも真っ青な表情で──ポン、とスイの肩を叩くと、
「ぼっちゃん……仕方ありません。じゅうっぶん、暖かい格好で、リュウカン先生のところに行きましょう………………。」
──折れてみた。
もちろん、同じ展開を予測し、スイが高熱で倒れて苦しそうになるシーンを予想した坊ちゃんバカことグレミオが、そんな彼女の提案に反対するはずもなく、マクドール家の最後の砦である彼も、コックリと同意を示してくれた。
「……え? なんだ? なにがどうなってるんだ??」
分かってないのはただ一人、パーンのみであった。
東の空が、明るい太陽に照らされはじめた朝──地面にうっすらと落ちた霜の上を、シャクシャクと踏みしめながら、誰かが歩いてくる気配がした。
神医と呼ばれる男が住むには小さな……小さすぎる診療所。
けれど、そろそろ足腰が弱くなってきた己を省みれば、これくらいの大きさがちょうどいい。
それほど動かずとも手に取れるようにと、クスリや診察用具を置く場所にも気を使ったその診療所の窓──明り取りのために大きく取られた窓から、かすかに聞えてきた「音」に、彼はストーブの前に屈みこんでいた体を起こした。
先ほど火を灯したばかりのストーブは、ようやく中心に赤い色を灯らせたばかりで、室内だと言うのに、吐いた息の白さは、目に見えて分かるほどに濃厚。
白い吐息が自分の頬を撫でていくのを感じながら、男はゆっくりと窓辺に近づいた。
その動作の間にも、シン、と静まり返った外からは、霜を踏み砕く人が、近づいてきている足音が絶え間なく聞えていた。
冷たい空気をさえぎるための分厚いカーテンを少し開いて、薄暗い外の景色に目を眇める。
年老いて、目も耳も随分と衰えたとは言えど──日々、患者の変化を見落とすことがないようにと気を張っているせいか、普通の人よりも、少しだけ目がよくて、少しだけ物音も聞き取りやすい。
シャクシャクと踏みしめる霜の音に誘われるように視線をやった先ではくっきりと見て取れる、見慣れた人の姿。
思わず目を見開けば、診療所の入り口に近づいていた「彼」は、リュウカンの視線に気付いたのか、ふとこちらに視線を寄越してきた。
白い──暗闇の中でも浮き出るのではないかと思うほどに、白い、細面。
その中でも一際輝く瞳は、いつもよりも随分と赤みを帯びていて──瞳孔が開いたその目は、まるで猫のようだ。
コートを羽織った上に、口元が隠れるほどにマフラーを巻いて、耳にはふかふかのイヤーマフラー。頭には、いつものバンダナと同色の毛糸の帽子。
温かそうなブーツに、手袋──完全防備なその姿で、少年は、ヒラリ、と手を舞わせた。
リュウカンは彼に向けて、穏かに笑みを浮かべると、窓のこちら側から中へ入るようにと促した。
少年はそれに大きく頷き、それから一度動きを止めて、背後を振り返る。
1人でやってきたのではないらしいと思うと同時、診療所の門を潜り抜けてくる背の高い男が1人……こちらは、金の髪を緩やかに束ねて、いつもの緑色のマントを防寒具代わりに羽織っている。
横に並んで立つと、少年がモコモコと着すぎているのが良く分かった。
「やれ……風邪でも引きましたかのぅ……。」
小さく呟いて──彼はクルリと室内を振り返り、ストーブの上にヤカンを置くために、狭い診療所の洗面スペースに向いた。
下部に焦げ跡が付いているやかんを取上げると、満タンになるまで水を入れて、赤い色を灯したストーブの上にソレを置いたところで、出入り口の方から、カランカラン、と景気の良い音がした。
「朝からゴメンね、リュウカン。」
冷たい空気の中、リン、と響く声が届いたかと思うと、再びカランカランと鐘が鳴って扉が閉まり、
「すみません、朝早くから……、ちょっと、ぼっちゃんがお加減が悪いようなので、見ていただきたいんですよ!」
少年のすぐ後から入ってきた男が、声を張り上げるようにして叫ぶのが聞こえた。
その声に引かれるように、リュウカンは診療所の扉を開けて──ひんやりと冷え込んだ廊下に顔を突き出した。
「ちょうど今、開こうと思ってたところじゃよ。」
朝日が昇ったばかりの玄関先は、外よりも薄暗くて、目の衰えたリュウカンには、二つの人影が立っていることしか見えなかった。
大きい人影と小さい人影。
その二つの人影は、リュウカンの言葉に頷くと、こちらに向けて歩いてきた。
「ほんとゴメン。別に今すぐじゃなくても良いって言ったんだけど、クレオとグレミオが過保護だから。」
部屋の中に入るなり、頭に被っていた帽子やらマフラーやら取り除き始めるスイに、グレミオが目くじらを立てながら受け取る。
「何言ってるんですか、ぼっちゃん!! 朝一番に、あの、ぼっちゃんが、吐いちゃったんですよ!? 一大事じゃないですか!!」
心配で心配でしょうがない。──そんな言葉を顔面に貼り付けているようなグレミオの言葉に、スイは、過保護すぎだと、少しうんざり顔だ。
そんな2人に椅子を勧めながら、リュウカンはまだ全然沸きそうにもないヤカンを横目に、一応お茶の用意だけはしておく。
「おやおや……二日酔い……というわけではなさそうですな?」
──と口にして言うものの、幼少の頃から父に付いて酒を飲みなれたスイが、そうやすやすと二日酔いなどになるはずもないと分かってはいた。
そう思いながら、確かに、朝一番にスイが吐くということは、「一大事」だろうと、検討をつける。
「で、具体的には、どう言った感じですかな、スイ殿?」
スイの前にあるスツールに自らも腰掛けながら、さて、と机の上にカルテを取り出しながら問いかけると、スイは眉を寄せて、
「んー……多分僕は、ストレスじゃないかなぁ、って思うんだけど。」
胃が痛いわけじゃないんだけど、もたれるっていうか、……ムカムカして吐き気がする。
そう訴えながら、スイは胃の辺りに手を当てる。
「ストレス。」
スイの言葉を繰り返したように見えるが、リュウカンは濃い皺と伸びた眉毛の下で、顔を歪めて驚いていた。
解放軍時代のスイならとにかく、今、好き勝手にやっているようにしか見えない彼に、ストレス。
──というか、解放軍時代に、血を吐いて以来、【ストレスはためるものではなく、発散するものだ!】と言い張り、ストレスを感じたらその日のうちにストレスの元を退治するような生活を送っていた人が、今更、何にストレスを感じるというのだろう?
……そういう自分の生き方にか?
「風邪だと思うんですよ、私は! それもインフルエンザじゃないかと!」
グレミオが、ググッ、と拳を握りながら、体を前に出して力説する言葉のほうが、よっぽどスイには似合っているような気がする。
「インフルエンザ──というと、熱が出ておるのかの?」
そう問いかけながら、リュウカンはなぜか心なし後ろの方に後退する。
スイはそんな彼に、不思議そうな顔で小首を傾げて見せるが──同伴したグレミオには、その気持ちが良くわかった。
何せ、解放軍時代に、スイが熱を出した時に、逃げたくても逃げられなかった人こそが、「リュウカン」だったからである。
「熱はまだないんですよ、リュウカン先生。でも、平熱よりも0.5度ほど高いんです、きっとこれから上がるんだと思うんですよ!」
「ほうほう。」
必要以上に力を入れて断言するグレミオに頷いて、リュウカンは聴診器を自分の首にかけながら、
「今年はまだ、インフルエンザの患者は出ておらんじゃ。もし、スイ殿がインフルエンザだとすると──今年の第一号じゃな。」
スイ殿が最初に掛かるなんて──今年のインフルエンザは、さぞかしタチが悪いことだろうと、溜息を零しながら呟くリュウカンに、それはどういう意味だと、スイはジットリと彼をにらみ揚げる。
「インフルエンザって言うけど、グレミオが勝手に言ってるだけで、本当にそうとは限らないだろ?
僕はどっちかって言うと、胃のムカムカ感が、三年前の吐血事件の時に似てるから、ストレス性の胃潰瘍だと思うんだけど。」
どこにストレスを感じているのだろうと疑問に思うような声と態度で、胃の辺りを撫でるスイに、リュウカンは苦い色を刻んだ。
スイが、精神的な苦痛を、綺麗に隠すことが出来る人間であることは、解放軍に居た人間ならだれもが知っている。
彼は、大切な人をその手で討ったときですら、軍主の表情を崩さず、敵の将軍に敬意を示す態度を一貫した。──誰の前でも。
冷血漢だとか、父親殺しだとか、人食いだとか……さまざまな言葉で叩かれても、彼はいつも表情一つ変えずに、微笑みすら浮かべて、「悪鬼というのは、褒め言葉だ」と笑った。
その彼が、傷ついていないはずないのだと、少年の身近に居た人々は常に心を痛め──その結果、親友をその右手に喰らったその後から、少しずつ、精神を痛めるようになった。──眠れないから睡眠薬をくれと、精神安定剤をくれないかと、そう……どこか悔しげに言った彼が、胃の痛みを訴えることは一度もなかったけれど。
でも、ストレス性の胃潰瘍で血を吐いたのは、それから一ヶ月もしないうちだった。
あの時の──どうして気付かなかったのかと、神医と呼ばれる己が、なぜ軍主の不調に気付かなかったのかと……頭をかなづちで殴られたような衝撃は、今でも忘れることはできない。
「まぁ、とにかく、一通り見てみましょうか。」
ストレスを感じているのかもしれない、と、あっさりと口にしてくれるということは、もしそうであったとしても、それを隠すツモリが無いということだろう。
そう的確に受け取って、支度を始めたリュウカンは、傍の診療台を示して、スイに上着を脱いで横になるように伝えた。
ストーブの上に置いたヤカンは、シュンシュンと白い湯気を放ち始め、部屋の中は随分と温もりを広げていた。
まだ少し肌寒いだろうが、裸になるわけではない。
グレミオが心配そうにセーターを脱ぐのを手伝いながら、
「ぼっちゃん、辛くなったらすぐにグレミオに言ってくださいね!」
「はいはい、グレミオも、暇になったらすぐに僕に言ってね。」
「そっ、そんな──……っ! グレミオは、いつだってぼっちゃんを見ていたら、暇なんて感じませんよ!!?」
「そうかぁ?」
「そうなんです! ぼっちゃんを見ながら、お肌の角質チェックをしたり、髪の天使のワッカチェックをしたり、服装チェックをしたりしなくちゃいけないじゃないですか!!」
「────…………、じゃ、思う存分僕を見て暇つぶしをしててくれ。」
「もちろんそのつもりです!!」
──この主従の会話は、聞いているほうが疲れるときが多い。
さすが、この主にしてこの従者、この育て親にして育てられた子だと、回りに言われるだけのことはある。
「見ている限りでは、元気そうなんじゃがのぅ。」
手を洗って、清潔なタオルで水分をふき取り、手の平にアルコールを拭きつける。
その動作の間に、スイはシャツ一枚になって、白い診察台の上に仰向けになって横になっていた。
頭の辺りでは、グレミオがせっせとスイが脱いだ服を折りたたんでいる。
「見ている限りっていうか、僕が自覚してる限りでは元気だよ。」
「本当にかの?」
「日常生活においては、主治医に嘘を付くことはありません。」
片手をあげて、クスリと笑いながら軽口を叩くスイは、ふたたび手の平を胃の辺りに当てて、
「実際、胃がむかむかしたのって、昨日──同盟軍に行って、リオたちのオヤツに付き合ってたときと、今朝、食堂に入った時だけなんだ。
昨日の夜の夕飯の時には、何ともなかったし。」
「ちなみに、昨日の夕食は、ぼっちゃんが胃がおかしいというので、リゾットとスープにしたんです。寝酒も控えてましたし──。
朝は、パンとベーコンエッグとサラダとスープだったんですが、ぼっちゃんは結局、食べてませんし。」
食べ物を見て、吐きそうなくらい気持ち悪いと思うのは、ご飯を食べ過ぎて胸焼けがしているときとか、ナナミ料理を食べて口の中の味覚がおかしくなっているときしか経験がないが──あんな感じだった、と、スイは眉を絞って続ける。
その話を聞きながら、リュウカンはスイの胃の上に手の平を置いて、そこから少し撫で摩りながら、
「痛いところがあったら言ってくださいよ。」
「特にない。」
手の平をシャツの上から滑らせながら、リュウカンは眉毛の下からスイの表情を取りこぼすことがないように、ジ、と視線を注ぐ。
スイは、リュウカンの手の平の感触に痛みを覚えることはない様子で、自分を見下ろしてくるグレミオの髪を引っ張って遊んでいる有様だ。
「……ふむ。」
シャツの上からだけではなく、直接肌に触れて胃の辺りを触診してみたが、特に何かある様子は見えなかった。
少し皮膚が突っ張っているような感じがするが──それだけだ。
スイも痛みを訴えるでもなし、手の平を脇のほうにやったときには、くすぐったい、と笑いながら抗議されたくらいで。
吐血を伴う胃潰瘍をした場合、再発する可能性が高いから──もしかしたらと思ったが、胃潰瘍が再発している様子も見えない。
ただの胃もたれか、胃が少し荒れているのかもしれない……グレミオの言うとおり、平熱より0.5度体温が高いというなら、風邪の初期症状の可能性もある。
「ちょっと、聴診器を当てますぞ。」
首からかけていた聴診器を耳に引っ掛け、リュウカンはスイに断りを入れてから、先を彼の肌に当てた。
良く神経を研ぎ澄ませて音を拾う。
肺は正常、心臓の音も正常、消化器系の音も正常。それから──……。
「……………………………………スイ殿。」
「ん?」
「ちょっと、腹の部分で、大きく息を吸って、吐いてもらえますかな?」
「ん。」
要求に従って、素直にスイが大きく息を吸って吐くと、彼の細い腰が膨らんで閉じた。
その瞬間に聞えてきた音に、リュウカンは眉を寄せて、渋い表情になる。
「リュウカン先生っ?」
何か発見したのだろうかと、不安そうな眼差しと声で問いかけるグレミオに、大丈夫だと言いたげに片手をあげてその先をとどめながら、リュウカンはマジマジとスイの腹を見下ろす。
そして、恐る恐る手の平を腹の上に降ろし──今度は、先ほどよりも丁寧に、じっくりと指先を落とした。
「なんかマッサージされてるみたいだ。」
スイが喋ると同時、触れた手の平がビリリと揺れるような感触が伝わる。それと共に、ふたたび違和感がリュウカンの手の平に当たった。
「………………これは…………、まさか…………そんなことが………………?」
まさか、と──眉間の間に、ますます深い皺を寄せながら、信じられないような表情で、リュウカンが渋く呟く。
「リュウカン? 何かあったのか?」
リュウカンの顔に驚愕の色が浮かんでいるのを確認して、スイは軽く上半身を起こす。
けれどリュウカンは、そのスイの問いかけにも気付かない様子で、深刻な表情のまま、スイの腹の一点に指先を押し当てた。
「……レントゲンを取れば……いや、レントゲンでは、まずいか………………。」
「レントゲン!? あの……もしかしてぼっちゃんったら、こ、骨折してたりとか……っ!?」
レントゲンといえば、骨折。
そんな言葉がグレミオの中にはあるのだろう。
ビックリしたように叫ぶグレミオに、ぽん、とスイが気楽な動作で手を叩く。
「なるほど、折れた骨が胃に突き刺さってるとか、圧迫してるって言うなら確かに、胃がもたれてもおかしくはないな。」
「いい、胃に刺さってるんですかぁっ!? それじゃ、ぼっちゃんの体の中は、血だらけじゃないですか〜っ!」
ひぃぃっ、と両手で頬を押さえるグレミオに、だから最近、血が足りなくって、朝が起きれないのかなー、と能天気にスイが続ける。
そんなぼっちゃんの独り言には、「ぼっちゃんが朝、なかなか起きてこないのは昔からじゃないですか。」と、当然のようにグレミオが突っ込む。
「………じゃが──、うぅむ……そんなことがあっていいものか…………。
ふむ──ハルモニアで使われてるという、なんとか内視鏡とか言うのを購入しておけば良かったのぅ。……さて、どうするか。」
スイの腹の辺りを一撫でしながら、リュウカンは渋い色を崩さない。
ふたたび聴診器を耳に当てて、目を閉じて音を拾いはじめる。
その真剣きわまりない表情に、スイもグレミオ、ピタリと口をつぐんでお互いに視線を絡ませあった。
──何か、発見したらしいことは、分かるのだけど。
「ふむ──ふぅむ……。」
何度も何度も触診し、聴診器を当てて──それから、思い出したようにスイの目の中と、舌と喉を覗き込んだ後、リュウカンは考え込むように手の平に顎を埋めた。
おとなしく診察台に横になって待っていたスイだが、リュウカンは何か考え込むように、診察室の一角にあった本棚をごそごそと探り始める。
そんなリュウカンに、グレミオは居ても経っても居られない様子で、胸の前で両手を組んだ。
「りゅ、リュウカン先生! ぼぼぼぼ、ぼっちゃんは……ど、どんな病気なんですか……っ!!?」
てっきり、風邪かインフルエンザだとばかり思っていたのに、この様子は──神医と呼ばれる男が、判断に悩む病気とは……、一体、どういうことなのだろう?
不安で不安でたまらない表情で──グレミオは、診察台の上に座り込んだスイの肩に、自分のマントを羽織わせて、ギュ、とスイの肩を抱き寄せた。
グレミオの手の平がかすかに強張り、震えているのを感じ取って、スイは無言でその手の平の上に自らの手を重ねる。
「大丈夫だよ、グレミオ。」
柔らかに微笑みながら、大丈夫、とグレミオを落ち着かせるように繰り返す。
そうしながら、彼はチラリと自分の右手の甲に視線を落とした。
さりげない仕草であったけれど、つられたようにグレミオもまた、そこに視線を落とした。
「ぼっちゃん……。」
心配そうなグレミオの声音に、大丈夫、と──今度は自分に言い聞かせるように胸の中だけで呟いて、机に向かっているリュウカンの少し丸まった背を見やった。
いつもの皮手袋に包まれた手の平は、じんわりと暖かく──それを、キュ、と力を込めて握り締めると、スイは小さく呼吸を繰り返して、一度目を閉じると……覚悟を決めるように一瞬間をおいた後、
「リュウカン、何が分かった?」
静かに……厳かに、リュウカンを促すように名を呼んだ。
スイの肩に手を置いていたグレミオが、グ、と手の平に力を込める。
振り返らなくても、グレミオがどういう表情を浮かべているのか分かる。
リュウカンは、スイの呼び声に答えるように肩ごしに、ゆっくりと振り返るが──その表情は、ひどく渋く、ひどく苦い。
「──……、それが……いいにくいのですが……。」
目を伏せて、まさか、そんなことがありうるはずがない、と──皺と骨ばかりの手の平を、ギュ、とリュウカンは握り締める。
「リュウカン先生……っ。」
心配そうに──今にも恐ろしい言葉がリュウカンの口から出てくるのではないかと、グレミオはきつく眉を寄せる。
「中を見てみないことには分からないことですが……おそらく──……いや、だが……ありえない………………。」
歯切れの悪い言葉を零しながら、リュウカンはふたたび眉をひそめて、口を閉じる。
そしてふたたび、棚から取り出した本を眺めると、
「こんなことは初めてじゃ──まさか……スイ殿が…………。」
緩く──まるで諦めたようにかぶりを振るリュウカンの動作に、グレミオがスイの肩を握る手に、強く力を込めた。
ギリ、と──食い込むようなグレミオの爪の痛みを感じながら、スイは奥歯を噛み締める。
──リュウカンが、こんな風に歯切れが悪くなるのを見るのは、グレッグミンスターに攻め込む前の夜……マッシュの枕元で、病状を聞いたとき以来だ。
自らの力が及ばないとき、彼は、自分の力があまりに足りなさ過ぎるのを痛感するように、目を伏せ、悔いるように手の平に爪を立てるのだ。
今の彼の仕草は、そのときを思い起こさせる。
──────それは、つまり。
「……リュウカン。」
もう一度、ゆっくりと彼の名を呼ぶ。
そうしながら、自分の顔に無表情に近い仮面が張り付くのを覚えた。
グレミオが、まるでそれを感じ取ったように、小さく息を呑むのがわかった。
そのグレミオの──悲痛の感情を感じ取りながら、スイは丸まったリュウカンの背中を見つめる。
「それは、病名が分かっているけれど、僕には言えないということか? それとも、──お前の力を持ってしても、断言はできないような……そんな難病だとでも?」
「……もっと……ちゃんとした精密検査をしないことには、断言はできません……そういう、類のことです。──いや、もしかしたら、精密検査をしても……原因は分からないかもしれん。」
重い溜息を伴ってリュウカンは呟き──困惑したような眼差しで、スイをゆっくりと振り返った。
途方にくれたような……患者の前で見せるには、あまりにも不安定に感じる表情に、スイは柳眉を顰めて見せた。
「リュウカンでも、分からないということか?」
「分かりません。──いや、何が起きているのか、分かっているが……いや、分かってはいないか。」
不透明な言い方をして、リュウカンは首を振る。
混乱しているかのように、彼は指先で本のページを捲り、苦難の色を宿した。
そのリュウカンの表情に、グレミオが堪えきれないように顔を伏せた。
「リュウカン先生……っ! 一体……、一体、ぼっちゃんの体に何が起きているというのですかっ!?」
ぐぐ、と、痛いほどに肩を掴む手に力を込められて──それでも痛みを口にせずに、スイは自嘲じみた笑みを浮かべて顔を伏せた。
知らず、右手の甲に左手の指先を這わせて──、
「……何ヶ月だ、リュウカン?」
「…………スイ殿。」
「何が原因なのか分からなくても──それくらいは分からないか?」
真の紋章の主は、不老だけれど──不死ではないのだ。
だから。
たとえ今目の前で、「あなたは不治の病にかかっている」と言われても不思議はない。
けれど。
──そんな顔を、させたいわけじゃないんだ。
お前たちよりも、長く生きる覚悟はしたつもりだった。
親しい人を、失っていくツラさも、覚悟していたつもりだった。
ソウルイーターを宿している限り、他人の死は近くても、自分の死は遠いものだと思っていた。
だから、考えもしなかった。
僕のほうが先に逝く可能性もあるだなんて。
──ジリジリと、身のうちを焦がすような感覚が競りあがってくるのを覚えて、スイはブルリと身を震わそうとしたが、すぐに肩にかかったグレミオの手の平に気付いて、動きを止めた。
リュウカンは、そんなスイをひどく痛ましそうな表情で見つめた後、一拍おいて、
「──……多分、二ヶ月か三ヶ月──くらいかと。」
そう──囁きにも似た小ささで、呟いた。
「────…………っっ。」
息を呑んだのは、スイではなく、グレミオだった。
大きく目を見開き──息をすることも忘れたような表情で、リュウカンを凝視する。
リュウカンは、そ、と目を伏せながら、
「とにかく、早急にハルモニアから器具を取り寄せて、体内を見てみないことには、はっきりとした月日は分かりませんが──だいたいは合っているかと思われますじゃ。」
「二ヶ月か、三ヶ月。」
リュウカンの言葉を繰り返すように小さく呟いて──スイは、グ、と膝の上で手の平を握り締めた。
それ以外に、ナニを口にしたらいいのか……ましてや、どう行動を起こしたらいいのか、まるで分からなかった。
心が、急速に冷えていく。
死ぬときは……絶対、誰にも悟られないようにしようと思ったのに。
どうして僕は……、リュウカンやグレミオに悟られるようなことをしてしまったのだろう?
思いながら、右手をソッとさする。
死ぬ前に──この紋章を、封印しなくては、いけない………………。
あと、最高でも3ヶ月?
タイムリミットは、たった、それだけ?
あまりにも短すぎて──この呪われた紋章を、誰かの手に託すことなんて冗談ではない。
封印しなくてはいけない。
──でも、どうやって?
与えられた期限の短さに、そして冷静を保とうとしているけれど、思った以上に強く受けたショックに、何から考えていいのか分からなくなる。
分からなくて──スイは、グ、と下唇を噛み締めた結果、
「……くそっ……ルックは確実に巻き込んでやる。」
呪詛にも近い憎憎しげな一言だった。
そんなスイの、棘のある言葉に、グレミオがハッと自失状態から我に返った。
グレミオは、ざあああっ、と音がするほど一気に顔を真っ青に染めると、
「──りゅ、リュウカン先生……っ、なんとか──……っ、なんとかならないんですかっ!?
眦に涙を浮かべて、悲鳴じみた声で叫んだ。
「なんとかと言われても──わしにも何が起きてこうなったのか、さっぱりなんじゃ。」
リュウカンは、グレミオの視線を受けて、ヒョイと肩を竦める。
その言葉に、グレミオがショックのあまり真っ青になるのに、それも仕方が無いと言わんばかりに、コックリと頷いた。
「とにかくじゃな──ハルモニアから診察機を取り寄せるから、その機械で精密検査をするまでは、絶対安静じゃな。」
「……はい。」
神妙に頷くスイに頷いて、リュウカンは机の中に仕舞いこまれていた紙を取り出すと、「超音波診察機」と書かれた注文書を見下ろし、渋い顔になった。
ハルモニア宛てと記されたそれの単価は高く、とてもではないが普段なら購入する気は起きないところだが──今回は、あの「スイ=マクドール」の精密検査がかかっているのだ。
そう口にすれば、レパント大統領は金額をまともに見ることもせずに採決のハンコを押してくれるだろう。
「原因はさっぱりわからんが、──なぜこんなことになったんじゃろうなぁ? 不思議じゃ。さすがはスイ=マクドールといったところか。」
リュウカンは、診察機の注文書にサインを走らせ、それを専用の封筒に入れる。
「だからこんなことって……一体、どういうことなんですかぁっ!!?
私……、わたし、ぼっちゃんが助かるなら、なんでもしますよぅっ!!!??」
泣きそうな顔で──いや、実際、涙でグシャグシャにしたグレミオが、スイの体を後ろからガッシリと抱きしめて怒鳴る。
「たとえ、地の果てにある薬草が必要だと言われても、わたしはそこまで行って、二ヶ月以内に必ず戻ってきます! ぼ、ぼぼ、ぼっちゃんを──絶対に、死なせませんっ!」
「…………グレミオ…………。」
驚いて──思わずその名を零せば、グレミオは当然だというように頷いて、スイの肩を正面から抱えなおした。
「ぼっちゃんも! 諦めてはいけませんよ!? ぼっちゃんは、ぼっちゃんなんですから! だから……、だから、最後の最後まで、助かる道を探すんですよ!」
もうナニを言いたいのかもわからないような顔で……涙で顔をグシャグシャにさせて、それでも、グレミオは、真摯な顔でそういう。
リュウカンの言葉を聞いて、スイが何を考えていたのか分かっているかのような言葉に、スイは目を見張って彼を見上げた。
「──助かる、道。」
「そうです、ぼっちゃんなら、絶対に見つけられます。
二ヶ月しかないんじゃなくって……二ヶ月も、あるんです。
ぼっちゃんの命が危ないともなれば、皆、必死に協力してくださいます。
レパントさんだって、トラン六将軍だって、もちろんリオ君たちも──シュウ殿は、敏腕の商人だって言いますし、それにアンジーさんやメロディさんとかフー・スー・ルーさんとかは世界各地に飛んでますしっ!」
叫んでいるうちに、段々感極まってきたのか、グレミオはスイの肩を握る手に、グッと力を込めて──くしゃりと顔を顰める。
「それに……それにっ!」
苦しそうに、唸るように続けようとする言葉に──スイは、フ、と肩から力を抜いた。
ぎこちなく筋肉が強張るのを感じて、自分が知らないうちに全身に力を入れていたのだと気付いた。
「そうだな。……助かる道があるなら、最後の最後まで……諦めない。
諦めちゃ、いけないんだよな。」
解放軍時代には、当たり前のように呟いていた言葉だった。
なのに──自分の命が掛かっているというのに、どうして自分はそんな風に、命を諦める道を受容しようとしたのだろう?
呪いの紋章を封印するから、封印する方法を探したい──なんて、ルックに言っていたら、「馬鹿じゃないのか、君は……っ!」と、殴り倒されるところだった。
それは、とても──面白くない。
「二ヶ月もあれば、原因も判明して、ルックと一緒に、抗体を作ることも出来るよな?」
「はい、もちろんです!」
大きく頷くグレミオに、スイは微笑み返して、自分たちを呆然と見ていたリュウカンに視線を戻した。
「リュウカン、それじゃ、精密検査の件は頼む。
その機械を取り寄せている間に、僕は僕で、病の治し方を調べようと思うから──僕の病状について、詳しく説明してくれないか?」
キリリ、と顔つきを改めて、スイは口元に笑みを刻み──解放軍時代のように、余裕と自信に満ちた表情で、リュウカンを見据える。
あの当時、リュウカンが魅せられた……108星が魅せられたそのあでやかな表情に、リュウカンは一瞬目を奪われる。
さぁ、と、穏やかな目つきで促されて、リュウカンは手にした注文書を見下ろし、それから改めて、ハンカチで涙を拭い、チーン、と鼻を咬んでいるグレミオを見た後、
「いや……病状も何も──、鼓動音がするとくらいしか……。」
「鼓動音?」
困惑したリュウカンの説明に、スイが険しく眉を寄せる。
「はぁ……先ほど触診したときに、腹の下辺りに張りを感じましてな、その辺りに聴診器を当てたら、鼓動音がしたんですよ。それで……。」
そこでなぜか一度言葉をとめたリュウカンは、最初の時のように、渋い表情になると、
「……これを口にしていいのかは──、超音波診察機が届くまでは、やはりはっきりとは言えないのぅ。」
顎髭をしごいて、首を傾げる。
グレミオはその言葉に、また不安になりそうな自分を叱咤し、たとえどんな難病であろうとも、絶対になんとかしてみせると、最後まで諦めないと、拳を握って誓う一方で、
「鼓動音。腹の下。」
そのキーワードに、なぜか不穏な表情でスイが顔をゆがめて俯く。
それから、右手の平を見下ろし、無言で人差し指と中指を示して立たせたあと、考え込むようにその指を自らの米神に当てた。
昨日と今日と、ムカムカしていた胃は、今はとても静かだ。
その代わり──言われて見れば確かに、胃のあたりが張っている……いや、胃と言うよりも……その下?
「…………リュウカン。」
米神を揉み解しながら、続けてその手を広げてソコに額を埋めた。
リュウカンが顔を上げて問いかけるのに、スイは右手の平に額を当てたまま、左手をヒラリと舞わせた後、
「僕の記憶が確かなら、三ヶ月だ。」
「──は?」
「ぼ、ぼっちゃんっ!?」
目を見開くリュウカンと、驚いたように名を呼ぶグレミオに向かって、スイは溜息交じりに顔をあげると、
「リュウカン──お前の見立ては間違いない。」
「……! それではスイ殿……っ!?」
がたんっ、と──自分の診察結果が半分以上信じられない状態だったリュウカンが、椅子を蹴り上げるようにして飛び上がるのに、スイは重々しくコックリと頷くと、チラリとグレミオを見上げて、驚くなよ、と前置きした後、
「予定日は11月だ、グレミオ。」
「──……はぁっ?」
すっとんきょうな声で、目を白黒させるグレミオの肩に、ぽん、と手を置くと、スイは彼の顔を覗きこんで、
「喜べ、グレミオ。初孫だ。」
日常生活を普通に送る分には、あまりにありえない台詞を吐いてくれた。
+++ BACK +++
あははは〜、ルック坊ですよ? グレ坊じゃないですよ? 坊総受けでもないですよ??(大笑)
どこでとめようか真剣に悩んだのですが、とりあえずココで。
っていうかすでに、シリアスから一転してギャグへ落ちる〜……はずだったんですが、なぜか最初からギャグ風味……おかしい………………。
最後の二行を読んでくださった方には、すでにこの話がどういう話なのか分かったことでしょう。
超今更ですが、苦手な人はゴメンなさいv
そして、ルック坊だけど、前編通してルックの名前が6個しかなくってゴメンなさい……っ!!(涙)
次は、次はちゃんと出てくるから!!(←出てこないとまずい)