まだ早朝とも言える時間──ひんやりとした冷たさが床に染み入る明け方に、ふと目が覚めたのは、何かの前触れだったのか。
 少しボンヤリする頭を緩く振りながら、ぼんやりと部屋の中を見回して……それからルックは、視界に移る見慣れた部屋の風景に、軽く眉を寄せた。
 目覚めてすぐは、視界はなかなか鮮明にならなくて、大抵は──特に寒い冬の朝は、ベッドの上で30分くらいはボンヤリしないと目が覚めないのだが、今日はなぜかイヤになるほど視界がくっきりとしていた。
 窓辺にかかった厚いカーテンは、その向こう側に薄く光を宿している。──夜明けだ。
「──……まだ、あと2時間は寝れるじゃないか。」
 小さく零してみるものの、覚醒した意識が眠りの中に混濁してくれる気配はまるでなく、結局ルックは諦めて、温かなベッドの中から抜け出ることにした。
 身を震わせるほどの冷気に頓着することもなく、手早く着替えを済ませて、ベッドサイドに立てかけたままのロッドを手に取る。
 魔法使いである以上、武器を常に傍に置く必要はないのだが──本拠地内で武器を持ち歩く人間は、ごく一握りであるが──、ルックは、一身上の都合により、常にロッドを持ち歩いていた。
 その一身上の理由というのは、ルックを外見だけで判断して、稀に見る美少女だと口説いてくる旅行者をタコ殴りにするためではなく、主に、昨日の昼頃に見かけた「某英雄さま」のためである。
 約3年ぶりに顔をあわせた英雄さまが、この本拠地に頻繁に顔を見せるまでは、ルックも戦闘に参加する以外では、ロッドを持ち歩いてはいなかった。
 しかし、「アレ」と対等にやりあっていく以上、ロッドは必要だ。更に言うと、ロッドだけではなく、常に紋章は三つとも装備していなくてはいけない。──「アレ」は、そういう相手だ。
 毎朝、ロッドを手に取り、身につけるたびに、今日は何時くらいにあの災害は姿を現すのだろうと、憂鬱気味に目を伏せずにはいられない。
「……あぁ、でも、昨日の様子を見る限り、今日は来ないかもしれないね……。」
 ロッドをクルリと手の中でまわして、そのまま懐に仕舞いこもうとしたルックは、そこでふと昨日のことを思い出した。
 午後から顔を見せたかと思うと、いつものようにこの城の城主とその姉に連れ去られて姿を消し──、唐突に石版の前までやってきて、「気分悪いから帰るから送ってって。」と、心なし青い顔でそう言っていた。
 遠慮も何もないスイの言い分には馴れていたが、あの「スイ」が、自ら「気分が悪い」と告げたのは──もしかしたら、初めてかもしれない。
 傷が痛いだの、胸が痛いだの、腰が痛いだの──そういう痛いとか眩暈がするだとか、そういう台詞は平然と吐くことはあったけれど、気分が悪いから帰る──という、消極的な行動を示すのは、記憶にある限り、ない。
 と、いうことは──もしかしてもしかしなくとも、自然災害のほうが、よほど人間に優しいのではないかと思うくらいの、「人的災害」の代名詞とも言える「アレ」は、近年まれに見るほどに、体調が悪いと言うことだろうか?
「……………………。」
 まぁ、でも?
 解放軍の軍主を勤め上げていたあの鬼才が、自らの体調管理を横にほうっておくことなど、よほどの大事がない限りはないはずだし。
 何よりも、グレッグミンスターのあの家には過保護の集団が待っている。
 スイがナニをしなくても、グレミオが必ずスイのためにアレやコレやと世話を焼くことは間違いない。
 しかも今は、都に神医と呼ばれる男まで滞在している。
 この城の中で、リオやナナミたちに囲まれて、枕元でうるさくされるよりは、数十段はすばらしい待遇で、回復していくことだろう。
「──それに、右手の呪いが、病なんて吹き飛ばすだろうし、ね。」
 心配なんかしなくても、二日もすれば、何事もなかったかのように顔を出して、いつものように笑いながら、「ベッドの中で暇だったから、いろんな本を読破したんだ。コレ、読んだからまわす」──という、日常的な会話をして、本を幾つかよこしてくるだろう。
「……。」
 それなら、随分前に廃刊になって久しい、「紋章砲の理論科学」の本から、読破してほしいところだ。
 今日、暇な時間が持てるなら、スイにそのことを催促しに行こうか、と──そんなことを、無表情に思いながら、ルックは無言で部屋の外に出ようと、足を踏み出した……、ところで。

 ドタドタドタドタ──……っ!!!

 早朝のリンとした雰囲気にふさわしくない、激しい足音が、した。
 その走り方に、なんとなく覚えが……そして心当たりがある気がして、ルックは軽く眉をひそめる。
 だんだんと近づいてくる足音に、イヤな予感を覚えたルックは、手にしたロッドをクルリと回してそれをふところに収めた。
 いつもなら、部屋のドアから堂々と表に出て行くところだが、ソレをしてしまうと、廊下を走っている人物とかちあわせてしまう。
 3年ほど前から、そういう「巻き込まれる事件」に対して磨かれてきた勘が、それは良くないことだと告げている。
「朝から、面倒はゴメンだね。」
 口の中で小さく呟いて、ルックはそのまま、部屋の中から石版の元へ、一瞬で駆けぬけようと、目を伏せて額に神経を集中させようとした──その直後。
「ルックーっ!!!!」
 バンッ!!!!
 ──くだんの足音の主は、ノックもドアの鍵も無視して、ドアを蹴破って入ってきた。
「………………………………………………。」
 まさか、そんな暴挙に出るとは思って居なかったルックは、一瞬で集中力を途切れさせ──うんざり顔で彼を振り返った。
 バフンッ、と、盛大な勢いで床に倒れたドアを踏み越えた、はた迷惑な人間は、荒い息を大きく零しながらルックを見上げると、
「お願いっ! 僕を、グレッグミンスターまで飛ばしてほしいんだっ!!!!!」
 朝から迷惑きわまりない台詞を、部屋中に響くような大声で、のたまってくれた。







命の鼓動が聞えた日 2













 いくつかの諸注意事項を聞いてから、機械が届き次第もう一度検査をすることを約束して──リュウカンの診療所を出たときには、すでに朝日が上りきっていた。
 診療所に来たときには、霜が下りて地面は真っ白だったというのに、朝日に溶かされたのか、今はもう影も形もなかった。心なし空気も暖かさを宿し始めた気がする。
 スイは、そんな中を、体を冷やさないようにたコートやマフラー、手袋をつけて、帰り道を急ぐことにした。
 今頃は、クレオとパーンが心配して待っていることだろう──と、思ったところで、
「──……、なんて説明しよう?」
 はて? と、小首を傾げて呟く。
 コートの上から腹の辺りをなでて見るものの、リュウカンが言ったように鼓動音を感じ取れるわけでもなければ、何かの気配を感じるわけでもない。
 診察所に向かうときは、心配そうなグレミオに何度も何度も話しかけられながら、不安を抱えてきたため、ひどく道のりが長く感じたものだが──その問題がすべて解決したはずの帰りは帰りで、問題が勃発してしまった。
 ものの五分もしないうちに、屋敷に到着すると言うのに、この現状をうまく説明する方法が、まったく思い浮かばなかった。
 自分の現状が「そういう」状態だと分かってしまった以上、一刻も早く対応が必要だ。
 しかし、「対応」と言っても、生まれて20年に見たないスイには、一体何をどうしたら対応できたことになるのかどうか、分からない。
「男が妊娠したって──ただの笑い話にしかならないしね?
 うーん……? なぁ、グレミオ?」
 後ろから付いてきているグレミオに声をかけるが、返答はまったくない。
 スイは小さく溜息を零して、チラリと肩越しに彼を振り返って見れば──グレミオは、自分の世界に入り込んで、ブツブツと何かを呟いていた。
 ──衝撃の診断からずっと、グレミオはこんな調子だ。
 まだ復活してないのか、と、スイは軽く肩をすくめて、再び前を見て、ゆっくり──ゆっくりと歩き出す。
「クレオやパーンに説明して──、レパント達にも、言わないとダメだよな? やっぱり。」
 今も尚、背後からグレミオが低く何かを呟き続ける声が聞えてきたが、スイはそれに頓着しないまま、腕を組む。
「対応策を考えるためには、情報も必要だし──行動に関してもいろいろと考えたいんだけど、それにはやっぱり情報が必要で……となると、情報を獲得するために、どう動くのか、それをまず知りたいところだ。」
 自分の身に関わることだから、クレオとパーンには、現状をきちんと把握してもらわなくてはいけない。
 うーん、と難しい表情で考え続けるスイの言葉は、まるで今から未知の地へ戦争を仕掛けに行く軍主の表情になっていたが──それが達成されなかったからと言って、世界が沈没するわけでもない。
 ──もっとも、関わる人間にとっては、勘弁してくれと叫びたくなるような内容であることに、違いはなかったが。
「情報収集に関しては、そう問題はないだろう。
 ──ただ、一番てこずるのは……、やっぱり。」
 憂いた表情で、スイは溜息を一つ零すと、もう目の前に見えてきた自宅を視界の隅にとどめて、困ったなぁ、と片頬を手の平で包み込んだ。
「その、クレオとパーン達に、なんて説明するべきだろう?」
──問題は、ソコに戻る。
 スイは首を捻って少し歩みを緩めて、グレミオの真横に並び立つと、彼を見上げて、
「なぁ、グレ? おまえも一緒に考えてくれよ。」
 クイ、と、グレミオのマントの裾を引っ張って見たの、だが。
「……そのときのぼっちゃんの愛らしさと言ったら……そう、やはりグレミオがお育てしたぼっちゃんは、どこのお子様よりもかわいいと思ったものでした──あの夏の日からはや10年……。────…………あぁ、そうそう、そういえば、ぼっちゃんがお布団でグルグル巻きと言うのを………………。」
 グレミオは、翠玉の瞳を遠くに飛ばして、まだ独り言の最中だった。
 しかも聞えてきた言葉から察するに、「ぼっちゃん回想録」の只中のようだ。
「………………………………今10歳くらいってことは、あと1時間は帰ってこない、か?」
 スイが頭痛を覚えているその間も、
「あぁ、そうです。あれは五年前の冬のことでしたっけ……。」
 回想録から横道に逸れはじめてくれた。こうなってしまっては、いつ終わるかまるで見当がつかない。
 グレミオに話を振るのは止めた方が良策だろう。
 何せ、ぼっちゃん回想録中のグレミオを、無理やり正気に戻しても、まともな発言をした試しはないからである。
「うーん……僕のことなら何でもアリで受け入れるグレミオですら、この調子だからな……。」
 これは、説明する方法も、もっとちゃんと考えなくてはいけないかと、スイはうんざりした表情で、すぐ眼前に迫った自宅を視界に収めた。
 距離にして、およそ十数メートル。あと数歩も歩かないうちに、屋敷のリビングの窓から、自分たちの姿が確認できるようになるはずだ。
 そうなれば、後はもう、逃げ場なんてなくて。
 一体、どうしたらコトの次第を上手く説明できるだろうかと、眉間に指を押し当てて考えて見るけれど──いい言い訳は、何一つ思い浮かんでこない。
 ──はぁ、と、スイは諦めたように大きな溜息を零すと、
「………………………………やっぱり、真実は飾らずに、直球で行くか。」
 スッパリと、直球で実行することにした。





 ──結果。





「なんか、妊娠三ヶ月らしい。」





──爆弾は、常にスイとともにやってくる。
 そういうことわざが、トラン地方に出来そうな気がすると、遠くなりかける意識の中で、クレオは強く思うハメになった。
「──……ぼっちゃん、それは、何の冗談ですか……っ?」
 かすかに声を震わせて、クレオは目線半分落として、スイの顔を睨みつける。
「言っていい冗談と悪い冗談があることくらい、ぼっちゃんは良くご存知でしょう……っ!? 私たちが、一体どれほど心配していたと思っているのですか──……っ。」
 憤り半分、不安半分──そんな表情で、キッと睨みおろしてくるクレオを、スイは困ったような表情で見上げてくる。
 そんな彼に、クレオはギリリと掌を握り締めた。
──これが、本当になんでもないかすり傷や切り傷程度で、診療所に行って来た……その報告で吐かれた冗談ならまだ、笑って交わせる。
 けれど、今、この場で言っていい言葉ではない。
 リビングで突然の来客をもてなしている間中、ずっと気がそぞろだった自分たちの気持ちを、この主は汲んでくれはしないというのか!?
 白い肌を赤く染めて睨みおろしてくるクレオに、スイは首を傾げ──何かをあきらめたような溜息を一つ零すと、チラリと肩越しにグレミオを振り返った。
 クレオも釣られるようにグレミオを一瞥する。
 いつも賑やかなグレミオはと言うと、このスイの一大事に、なぜか視線を落として、ブツブツ独り言を呟きながら、アッチの世界へと旅立っているように見えた。
 いうなれば、暗雲を背負い、死を覚悟しているかのような暗さだ。
 グレミオがこんな表情をするのは、本当に久しぶりで──最後に彼がココまで切羽詰ったような表情をしていたのは、解放軍時代のことだったような気がする。
 ──……そう、ソニエール監獄に行く──、その辺りだったと。
 そんなグレミオの常にない表情と態度に、クレオはふと、陰りが胸の中に湧くのを覚えた。
 知らず、ブルリと背筋を震わせるのと、スイが、閃く紅色の瞳で、クレオの瞳を捕らえるのとが、ほぼ同時。
「──冷静に聞いて欲しいんだ、クレオ。」
 言われた瞬間、体中にドッ、と冷や汗が湧いた気がした。
 玄関のノブを掴んだ手が、かすかに震えるのが分かる。
 この感覚は──知っている。
 けど、あまりに久し振りすぎて──戦いの中から身を退いて、ずいぶんになるから……、だから。
────眩暈がするかと思うほど、ゾクゾクした。
「……ぼっちゃん……?」
 何を口にされても、決して取り乱さないように──グ、と覚悟を決めて、クレオは顔を引き締めた。
「信じられないかもしれないけど、──クレオ。」
 ゆっくりと、噛みしめるように──そして、なんと説明したらいいのか考えるように口にするスイの唇を、ジ、とクレオは見下ろす。
 スイは、そんなクレオを見上げて、口を開きかけ……るが、直球で言っても信じてもらえなかったのは、先の通りだ。
 もう少しうまく説明をしなくてはいけないだろう。
「────……。」
 スイは、ちらりとグレミオを見やる。
 しかしグレミオは、相変わらず使い物にならない様子のまま、「スイの人生の走馬灯」の真っ最中だ。
 屋敷に着くちょっと前に、解放戦争の終わり位の走馬灯になっていたから、そろそろ復活すると思うのだが──、と、期待を込めて振り返って見たが、グレミオはまだ使い物にならない。
 いつもなら機敏に反応するスイの視線にも、まるで気づいていない様子だ。
「ぼっちゃん?」
 しきりにグレミオを気にするスイに、ますます不安感を募らせたのだろう、クレオがひどく心配げに名を呼んでくる。
 それに、スイは笑って大丈夫だと答える。
「……うん、なんていうか──、パーンにも説明しなくちゃいけないし、説明をはじめると長くなるから……、とりあえず中に入ろう、クレオ。」
 中に入って、少し落ち着いた頃なら、グレミオも我に返るだろうし。
 グレミオさえ「こっち」に戻ってこれば、話はもっと簡単に進むはずだ。
 スイの言葉だけでは「またそんな悪戯しようと思って!」と思われるかもしれないが、グレミオの言葉もついて来れば、信憑性も抜群……、まではいかずとも、50%くらいの確率で、信憑性はでてくると思うし。
 スイは、ことさらさわやかな微笑を口元に貼り付けて、さぁ、と玄関に立ちふさがるようにして立っているクレオに微笑みかける。
 ──そこでようやく、スイは、彼女が泣きそうな顔をしているのに気づいた。
 玄関のノブを握るクレオの手が、青白く震えている。
 スイはそれを驚いたように目を見張って見つめ……それから、あぁ、と穏やかな笑みを口元に貼り付ける。
 ソ、とクレオの手に手を重ね、彼女の瞳を覗き込みながら──一番初めに伝えなくてはいけなかったことを、囁いた。
「先にこれだけは言って置かないとダメだよね?
 クレオ、……僕の命は、何の心配もいらない。」
「……ぼっちゃん。」
 重ねたクレオの手は、つい今まで外に居たスイのそれよりもずっと、凍えたように冷えていた。
 その手にぬくもりを取戻すように、スイは彼女の手を撫でさする。
「不治の病でもなければ、流行病なんて言うものでもない。
 体は本当に、健康体そのものだよ。」
 断言してみせ、不敵な笑みを見せれば、クレオは軽く見開いた瞳に、ゆっくりと安堵の色を広げて行った。
 ほぅ、と、クレオの肩から力が抜けていくのを認めて、スイは彼女の手を放すと、
「さ、詳しくはリビングでするよ。」
 さぁ、と、再び促すようにクレオの背を軽く叩く。
 促すようなスイの動作に、クレオは頷いて従おうとするが、ふと上げた視線の先で、ぼんやりと玄関の天井を見つめているグレミオの表情に当たり、顔を曇らせる。
 スイの命に別状はない──これ以上はないくらいの朗報だ。
 朗報だけれども。
 ──それなら、なぜ、グレミオは、そんな風に放心していると言うのだろう?
 命に関わる病ではないと言う以上に、それほどショックを受けるようなことが、あったというのか?
「────……ですが……、それならスイ様……。」
 眉を曇らせ、悲しげに瞳を揺らすクレオの視線の先が、後方に居るグレミオに当てられていることを知りながらも、答える言葉をスイは持たない。
 なぜなら、スイ自身にも、グレミオがどうして走馬灯の只中に居るのか分からないからである。──それ相応のショックを受けたのだろう、と説明するのは楽だが、そういえばまた厄介な方向に話が進んでしまわないとも限らない。
 だから、ことさら明るい表情で、スイはヒョイと肩をすくめると、
「詳しくは長い話になるから、とにかく中に入ろう。
 ──寒いし。」
 最後の一言を、茶目っ気たっぷりに舌を突き出して笑って言えば、慌ててたようにクレオが身を翻す。
「……あっ、すみません、ぼっちゃん。
 どうぞ中へ。お部屋を暖めてますから……それにコーヒーをお入れしますね。」
 スイのために道を開いてから、クレオはトウヘンボクのように突っ立ったままのグレミオの腕を乱暴に掴む。
「ほら、グレミオ! あんたも早く中に入りな。
 ──ったく、そうやってあんたが呆けてるから、勘違いするんだよ……っ。」
 ドンッ、と、八つ当たり気味に彼の背中を荒く叩きつけると、その音に反応したように、ハッ、とグレミオが肩を震わせた。
 そして。
「く、クレオさんっ!!」
 カッ!! と、目を見開き、目の前に居たクレオの両肩を、がっしりと掴む。
 ブツブツと呟かれていた声とは全く違う、ハリのあるすばらしいグレミオの声に、廊下に出ようとしていたスイが振り返りながら、
「あれ、グレ、おかえりー。」
 軽く声をかければ、クレオは自分の肩を掴む彼の手をポンポンと叩きながら、呆れた調子でグレミオを見上げる。
「──あぁ、なんだい、正気に戻ったのかい?」
 全く、あんたと来たら、ぼっちゃんのことになると、すぐに違う世界へ行っちゃうんだから、と。
 ──何気ない動作でグレミオを見上げながら続けようとしたクレオの言葉は、彼のランランと輝く目を前に、ハッ、と飲みこまれた。
 今までに見たことがないほど……切羽詰った、それでいて、どこか嬉しそうな、凶暴な光の宿ったその目が、まっすぐにクレオに突き刺さる。
「クレオさんっ!」
「グレミオ?」
 スイ心配のあまり、とうとう頭がいってしまったかと、クレオが顔を歪めるのと、グレミオが瞳いっぱいに星を浮かべて、見る見る内にキラキラキラと顔を輝かせるのが──ほぼ同時。
「わたしも、夏にはおじいちゃんですよ〜っ!!!」
「──……ハ?」
 バシバシバシッ!!!!
 クゥッ、と照れたように顔を伏せたグレミオは、そのままの勢いで──今にも笑い出すのを必死に堪えるような仕草で、掴んだクレオの肩を、バシバシと叩いた。
 さらにそのまま、クレオの肩口に額を埋めて、グリグリと額を押し付け始める。
 その間、聞える「くふふふふ」と言う声は、紛れも無い──グレミオの笑い声だろう。
「……お、じぃ……、ちゃん?」
 何の話だと、呆然と目を見開くクレオの耳に、
「──……あれ、なんだよグレ? ショック受けてたんじゃなかったのか?」
 ひどく冷静なスイの声が、痛いくらいに響く。
 グレミオは、そんなスイの声に、嬉々として顔を跳ね上げると、
「何をおっしゃってるんですか、ぼっちゃん! それはもう、嬉しくて嬉しくて、うっかり魂が三途の川を渡っちゃうところでしたよ!! がんばって、お小さい頃のぼっちゃんを順番に思い出して、ようやく今! 現代に帰ってきたところなんですよぅ〜♪」
 もう! と、バシバシバシ、と更にクレオの肩を叩くグレミオは、今にも床から浮かび上がりそうに飛んでいる。
 それはもう──スイですら引き戻せないくらいに、激しい喜びようだ。
「ぅわー……ピンク色だな、グレミオ。」
「はい! 三途の川の向こうもピンク色でしたよ! そう、ぼっちゃん、テオ様も向こうで、孫の名前はつけたいとおっしゃってましたし!!」
「いや、父上、三途の川に居ないからな。こっちだ、こっち。」
 パタパタ、とスイが右手を振って示すが、浮かれ切ったグレミオの目には映らない。
 それどころか彼は、
「ささ、ぼっちゃん! 今日から私は、ぼっちゃんのために、妊婦料理に励みますよ!」
 元気にブンブンと腕を振り、今から何か作ろうと言うように腕まくりをはじめる。
「どういう料理だ、それは。」
 思わずスイとクレオが突っ込んだが、浮かれたグレミオの耳に届く様子は全くなかった。
「あぁ……っ! そうです、後でミルイヒさまのところで、妊婦さんにダメなハーブとかも教えてもらわないといけませんね……っ! それから、マリーさんのところに行って、栄養満点の妊婦さん料理を教えていただいて、チャップマンさんに頼んで、マタニティドレスとかも用意してもらわないと!」
 次から次に、「今からやることリスト」を口にしながら、スイの隣を通り過ぎて「まずは妊婦さんの朝食です!」と、厨房に向かおうとしたグレミオは──そこでハッとしたように目を見張り、スイの体を驚愕の眼差しで見つめる。
「ぼぼぼぼ、ぼっちゃん……っ! ダメじゃないですか、そんな寒そうな格好なんてしてたらっ!! ほらっ、早くお部屋に入って、あったまらないと……っ!! おなかの赤ちゃんに障ったらどうするんですかっ!!!」
 慌てたように自分が着ていたマントを脱いで、それをスイの頭の上からかぶせる。
 それは、つい先ほどまで「その格好」で表を歩いていた自分に言うセリフなのかと、ずいぶん今更なことに溜息を覚えながら、スイはグレミオのマントを肩までズリ落としながら、
「──っていうかおまえは、なんで僕に赤ん坊が……とかそういう疑問とか突っ込みとかは、しないのか?」
 ──こちらも、今更な疑問を口にしてくれた。
 それを言うなら、ぼっちゃんだってそうですよ、と、クレオが後ろで小さく突っ込みを入れていたが、身に覚えがあるものはしょうがない。
「ぼっちゃんですから!!」
 グッ、と親指を付きたてたグレミオは、近年稀にみるほどの浮かれ具合だった。
 そんなグレミオの態度に、「あぁ……やっぱりグレは、何が起きても、僕だからって言う理由で全部すませちゃうんだー」と、スイは少しばかり複雑な気持ちになったが、まぁ、それはそれ。
 無事に生まれた暁に、面倒を見てくれる人が出来るのは良いことだ。
 何せグレミオは、スイを育て上げた育児のエキスパートだ。
 きっと(いろいろな意味で)すばらしい子供を育ててくれるに違いない。
「そっか、……まぁ、グレが味方になってくれるなら、これほど心強いことはないしね。」
「はぁーい、まかせてください、ぼっちゃん!!
 ささ、ぼっちゃん、早くリビングに行っていてくださいね〜、グレは今、あったかーいミルクをお入れしますから!!」
 そのまま、踊るような足取りで去っていくグレミオの背を、クレオは、ただ呆然と見送るしかなく──浮かれすぎたグレミオに叩かれた肩に、なんとはなしに片手を当てて、今の2人の会話を思い返すこと、数秒。
 麻痺した脳みそで、ようやくことの次第を理解したクレオは、暗い目で辺りを見回し──無言で吹きぬけの二階を見上げて。
 それから、ゆっくりと視線をスイに戻すと、
「………………──────ぼっちゃん…………。」
 暗い声で、スイを呼んだ。
「………………グレミオが、今、言っていたことは………………?」
 うつろな眼差しで、まさか、と──そんなことが、ありうるはずがないですよね? と、乾いた笑みを零すクレオに、スイは困ったように首をすくめて見せると、
「信じられないかもしれないけど──、妊娠三ヶ月だって言われたのは、本当。」
 さすがに、気まずいのか、照れたように笑ってそう言ってくれた。
「…………………………………………ぼ……、ぼ……、ぼっちゃ…………。」
 パクパクと、口を開け閉めして──それ以上何も言えないクレオに、スイは苦い笑みを零しながら、
「来年の夏には生まれるみたいだけど、詳しい日付とかは精密検査をしなくちゃ分からないってリュウカンが言ってた。」
 困ったような、嬉しそうな──複雑な色を宿した視線で、自分の腹部を見ると、ヒョイ、と肩をすくめてくれる。
 クレオはそんなスイに、ただ、途方にくれるしかなくて──、呆然と、目を見開く。
 信じろと言われて──信じられるほうが不思議だ。
「ぼぼぼぼ……ぼっちゃん?」
「あ、クレオ、そのグレミオの物真似うまいよ。」
「い、いいい、いや──まねしてるわけじゃ……っていうか、今……なんて、言いました?」
「三ヶ月。」
「──な、にが──……ですか?」
「だから、妊娠が。」
「……だれの?」
「僕の。」
 眩暈だとか衝撃を通り越して、死後の世界を見てしまった気がした。
 暗い川の向こうの花畑で、テオとテッドとオデッサが、ヒラヒラと手を招いているのが、一瞬脳裏に走って、慌ててクレオは被りを振る。
 いや待て、私──あの三人は、三途の川の向こうじゃなくって、目の前の人の右手にいるから……っ!!!
 そう激しく言い聞かせて、なんとか正気を取り戻したクレオは、がっしりとスイの肩を掴むと、
「ぼっちゃん……本気で言ってるんですかっ!?」
「できれば僕も本気じゃないほうが良かったんだけど、こればっかりはなんとも言えない。神様の采配だからね。」
 しょうがないよね、と、淡く微笑むスイに、絶句することしか出来なかった。
 というか──他に何を言えと言うのだろう?
 頭の中が真っ白で、何も浮かんでこなくて──クレオは、唖然としたまま、スイの顔を見下ろす。
「……妊娠って──、ぼっちゃん……。」
 どうして、どうやって……そんなことを信じろと、言うのだろう?
 途方にくれたように、スイの顔を見下ろすクレオに、
「すぐに信じてもらえないのは分かってるけど、とにかくこれからのことを相談したいんだ、クレオ。」
 スイが、真摯な口調でそう願い出る。
 そしてそのままクレオを促すように、廊下へと続く扉を──先ほどグレミオが通り抜けて行ったばかりのドアを開く。
「詳しくは、リビングでパーンと一緒に……。」
「スイさんっ!! 今の……今の話、本当なんですかっ!!!!??」
 開いたすぐ間隣から、早朝のマクドール家で聞こえるはずのない声が響いた。
「──リオっ!?」
 声の主が誰なのか──考えるよりも先に、スイは隣国の「軍主」であるはずの少年の名を叫ぶ。
 慌てて首をめぐらせれば、とび色の瞳の少年が、今にもつかみかからんばかりの勢いで、スイに詰め寄ってきた。
「スイさんっ! さっきの──妊娠したって……っ!」
 身の危険を感じるほどに血走った目と、切羽詰った雰囲気そのままに、スイの肩を掴もうとしてくる彼の手を、やんわりと避けながら、スイは後ろに二歩ほど下がって、彼と距離をとる。
 片手を前に差し出しながら、その場で地団太を踏む勢いのリオを、いぶかしげに見上げた。
「──って、ちょっと待ってくれ、リオ? なんで君がココに居るんだ?」
 確か、診療所に向かった時、この家に居たのはクレオとパーンだけだったはずだ。来客はいなかったし、まして泊り客など居ようはずもない。
 あれから、まだ1時間強。外は霜がようやく溶けた時間帯で、早朝と言ってもいい早さだ。
 この時間にココに居るということは、真夜中にジョウストンを出たということになるはずだが──さすがにそれは無いはずだ。何より、わざわざ夜通し駆けてくる理由が分からない。……グレッグミンスターからティーカム城に帰るのならまだしも。
 一体、何時の間に涌いたんだと、眉をひそめて問いかけるスイに、あ、とクレオは口元に手を当てた。
 ──そうだ、うっかり忘れていたが、スイが帰ってくる少し前に、リオとルックが尋ねてきていたのだ。
 クレオだけが玄関まで迎えに来たのは、パーンにリオとルックの相手をしてもらっている間、スイにそのことを伝えようと思っていたつもりだったのだ、と──本当に今更ながら、思い出した。
 スイが帰ってくるなり、素っ頓狂な事を言ってくれるから、頭からスポンと抜けてしまっていたのだ。
「すみません、ぼっちゃん。実は、ほんの30分ほど前に、リオ君とルック君が……。」
「昨日、スイさんが早退したのが心配で、朝早くから迷惑だとは思ったんですけど、どうしてもいても立ってもいられなくって、ルックに連れてきてもらったんです!!」
 クレオが最後まで言い切るよりも早く、リオは取られた距離の分だけ詰め寄って、スイの瞳をシッカと捕らえながら早口にそう叫ぶ。
 そのリオの真摯な瞳を見返して、スイはパチパチと目を瞬いた。
「ルック? ──ルックが来てるのか?」
 あの、ルックを、こんな早朝から連れ出すとは、さすがは「天魁星」と言うべきか。
 驚き半分、あきれ半分で呟きながら、左手で腹の当たりを撫でながら──ふむ、と意味深に一つ頷く。
「……それはタイミングがいいね。
 さすがリオだ。」
 ニッコリ、とリオの顔を見上げて誉めるように微笑んでやれば、それを間近で見ることになったリオは、えへへ、と照れたように笑って──、ハッ、とすぐに我に返った。
「そんなことよりもスイさん!!
 妊娠したって言うのは、本当なんですかっ!?」
 そのまま、ググッ、と鼻と鼻がくっつくかと思うほどの至近距離まで迫り、リオは興奮した面持ちで、スイの肩をつかみ取ることに成功した。
「あー……──、そうだね、その件については。」
 なんて答えようかと、ちょっぴり視線を逸らしながら考えたのが一瞬。
 リオは、スイと視線をまっすぐに合わせながら──真剣なことこの上ない表情で、スイにこう尋ねた。
「それが本当なら──その子は……ぼ、僕の子供ですかっ!!!?」

ごん!

「覚えのないことを言うな。」
 スイがとっさに放った回し蹴りは、的確にリオの後頭部に命中した。
 肩を掴んでいたはずのリオの手が空を切り衝撃のまま膝を付く。
 それを尻目に、スイは、トン、と優雅に床につま先を落とした──ところで。
「ああああぁっ!! ぼぼ、ぼっちゃぁぁんっ! なんてことをしてるんですかぁぁっ!!!」
 厨房からグレミオが飛び出してきた。
 両手にはお盆をしっかりと持ち──その上では、ガチャガチャと激しい音を立てて、茶器が揺れている。
 お茶がお盆の上に零れるのも構わず、一気にスイの元まで駆け寄ってきたグレミオを振り返り、スイは自分の足と、廊下に崩れ落ちたリオとを交互に見て、
「……何って……回し蹴り?」
 首を傾げながら──一体、他の何に見えるんだと、胡乱気にグレミオを見上げた。
 ──が、グレミオはというと、それどころじゃない。
 今にも泣きそうな顔で、スイの側にしゃがみこむと、
「なっ、なななっ! ぼぼ、ぼっちゃん!!!
 おっ、おなかの子供が、ショック死したら、どどどど、どうするんですかぁっ!!!
 だだ、大丈夫ですか〜!? ユリアさま〜っ!? マリアさま〜!? アリアさま〜っ!!?」
 スイの腹部に手を当てて、さすりあげながら、まだ生まれても居ないどころか、男か女かすらわかっていない胎児に向かって、話しかけはじめる。
「ショック死って……あのな。」
 呆れた表情で見下ろすスイの表情には気づかず、グレミオはスイの腹を撫で続ける。
──この行為をリオやシーナがしようものなら、問答無用でスイの膝蹴りが飛んできただろうことは間違いない。
 けれど、相手がグレミオともなれば、そんなことをするのもバカバカしいと思っているのか、付き合っていられないと思っているのか、スイは呆れたように腰に手を当てて、グレミオの気が済むのを待っている。
 グレミオは、おなかの子供に向かって囁き、耳をあて──そうして、ようやく胎児がショック死をしていないと納得したらしく、あからさまにホッとした表情になった。
「あぁ、良かった──……。」
 心底心配したのだと、表情だけではなく体全体で物語りながら、グレミオは大切そうにスイの腹を撫でる。
 放って置いたら、そのまま腹を抱えて頬ずりまでしそうな気がして、スイは彼の額を手のひらで押しのける。
「────……グレ、おまえ、もう少し冷静になれ。」
「何言ってるんですかぁ、ぼっちゃん〜? 冷静すぎるくらいに冷静ですよ〜?」
 そういいながらも、スイの顔を見ようとはせず、愛おしそうに腹をなで続けるグレミオに、スイは付けるクスリもナイと言いたげに、ゆるゆるとかぶりを振った。
 こうなったグレミオを止められる人間は、世界中のどこを探しても居ないに違いない。
 20年近い付き合いの中でそのことを熟知しているスイは、自分の腹に懐いている男を、とりあえずそのまま放置しておくことに決めた。
「早く生まれて来て下さいね〜、きっと、ぼっちゃんにそっくりなかわいいお顔をされてて、ぼっちゃんに似ても似つかないような素直ないい子になりますよ〜。」
「おいこら、グレミオ。それはどういう意味だ。」
「もしかしたら、お父上に似るかもしれないですね〜。」
 ぼっちゃんも、目だけはテオ様にソックリですから!
 そう言いながら、ツンツン、とスイの腹を突付いたグレミオは、とろけるような笑顔で腹を見つめて……、
「……………………──────あれ?
 ………………そういえばぼっちゃん、おなかの子のお父さんって、誰なんですか?」
 ふ、と。
 我に返ったような顔で、そんな今更なことを尋ねてきた。
「……あっ!! そういえば、そうですよねっ!!?」
 釣られるように、リオも大きく目を見開いて、スイとスイの腹を交互に見やる。
「スイさん、そうですよ! 赤ん坊の父親が僕じゃないってことは、一体、他の誰がそんな羨ましいことを……っ!?」
「いや、だからね、リオ……。」
 まず何が起きても、リオの子供が僕にできることはないから。
 そうキッパリはっきり言い切って、スイが掌を振るのを見ながら、クレオが酷く複雑そうな表情で、唇を歪める。

「そうですよね……、相手がいるから妊娠するんですよね……。」

 心中を察してあまりあるほどの苦い口調のクレオが、一体、どこをどう間違ったら……と、頭痛を覚えたように掌に額を埋める。
 そんなクレオの同意を得て、リオは大きくこっくりと頷いた。
「そうなんですよ、クレオさん。相手が誰かは知りませんけど、──でも、僕だって、スイさんが女性だって知ってたら、もっと早くに子供を孕ませることだって……っ!」
「そこまで。」
 ゴン。
 再び容赦なく蹴りを叩き落として、やれやれ、とスイは溜息を一つ零す。
 今度は顔から廊下に突っ伏したリオの後ろ頭を見下ろしながら、スイは秀麗な眉を顰めてみせた。
「あのな、リオ? 一緒にお風呂だって入ってるのに、何をバカなことを言うんだ……。」
 一体、僕のどこをどう見たら、「女」に見えるんだ。
 そう、不機嫌さを表に出して問いかけるスイに、グレミオも大きく頷く。
「そうですよ、リオ君っ! ぼっちゃんが女性だなんて、そんなはずはありません!
 グレミオは、小さい頃からずっとぼっちゃんのお世話をしてきましたけど、今は分かりませんが、昔は年の頃に見合った立派なものをお持ちでしたよ!」
「うるさいっ! なんだ、その今は分かりませんがって言うのはっ! 今も昔もちゃんとついてるよ!!」
「なんて会話をするんですか、ぼっちゃんもグレミオも……。」
 しかも、こんな玄関先で。
 クレオは、耐え切れないというように、フルフルと弱弱しく頭を振った──その言葉に、同意するように。
「まったくだよ──君達、頭が悪いんじゃないのかい?」
 あきれたような第三者の声が、割り入った。
 冷たい響きを宿す──冷ややかな、それでいて、透き通るように良く響く声。
 その声の持つ、独特の涼やかな雰囲気に、泥沼化しそうになっていた雰囲気が、一気に吹き飛ばされたような……そんな気がした。
 惹かれるように視線を向けてみれば、彼らが立つ廊下のさらに先──リビングに続く扉が薄く開かれていて、あきれた顔の美少年が一人、立っていた。
 遠目に見ても解るほどに、冷ややかな色を放つ双眸に、さらに凍てつくような光を宿して──ス、と目を細めた彼は、
「さっさと中に入ったらどうだい? ──うるさくてかなわない。」
 外の冷気を招き入れたのではないかと思うほどの冷たい声と表情でそう告げて、スルリとリビングに消えていく。
 離れたココまで届くような、冷ややかな冷気を残して、パタン、と閉じた扉を見つめて、
「……おや……ルック君も居たんですねぇ。」
 こちらは、能天気さながらの口調で、のほほーんと──春の陽気のような穏かさで呟く。
「ずいぶんと、機嫌が悪いようでしたけど──どうかしたんでしょうか??」
「うーん……やっぱり、朝早くに起こしちゃったからじゃないでしょうか??」
 グレミオの不思議そうな声に、リオも不思議そうに答える。
 そんな2人の、まるで答えていない様子に、クレオは堪えきれない溜息を零すと、ヒョイと肩を竦めてみせた。
「来た時は、あれほどじゃなかったんだけどね……。」
 グレミオはその言葉に、それじゃ、どうしたんでしょうね、と呟きかけて──ハタ、と、手に持っているお盆の上に乗ったお茶のカップの数に気づいた。
 リオとルックが来ているなんて思っても見なかったグレミオの持つお盆の上には、マクドール家の人数分のお茶しか乗っていない。
「──あ、もしかして、自分の分のお茶が無かったのに気づいたのかもしれませんね!」
「──……あのね、グレミオ。」
 これは大変です、と、慌てて手にしていたお盆をクレオに手渡すと、グレミオはいそいそと厨房へと戻っていく。
 そんな彼に向かって言いかけた──突っ込みかけた言葉を、クレオは溜息と共に飲み込んで、彼から託されたばかりのお盆を持ち直しながら、スイとリオを見やった。
「とにかく、リビングに行きましょう──。
 ココにいつまでも居ては、冷えてしまいますしね。」
 そう言って、クレオはお盆を持って居ない方の手でスイの背中を押して促す。
 スイはそれに微笑んで頷きながら、クレオとリオと一緒に、リビングへの短い道のりを、軽やかな足取りで歩き始めた。














「……で? スイ?」
 リビングに入ると、暖炉で赤い火が煌々と燃え盛っていた。
 自分ではそう自覚がなかったが、体はずいぶんと冷えていたらしい。
 暖炉で暖められた空気に触れた途端、ホゥ、と安堵の吐息が零れた。
 グレミオに無理矢理かけられたマントが、外の冷気を吸って酷く冷たく感じるほど、部屋の中が暖かくて心地よい。
 頬や指先がジンと熱くなるのを感じながら、スイはクレオに促されるようにして暖炉の側のソファに座り込んだ。
 そんなスイに、一足先にソファに座り込んでいたルックが、冷ややかな視線を向けると、
「どういうことなのか、説明してほしいんだけど?」
 廊下で口にした言葉以上の──冷ややかで……けれど、その中にくすぶる火のような物を抱え込んだ口調で、問いかけてきた。
 スイは、そんなルックにヒョイと片眉をあげてみせると、
「それはこっちのセリフだ、ルック。
 わざわざ朝も早くから、リオを連れてくるなんて──、シュウさんたちにはちゃんと言ってきたの?」
 わざとらしいほどわざとらしく、膝の上でゆったりと指を組み……穏かな微笑みを貼り付けて、ん? と小首を傾げる。
 スイのその言葉に、いそいそとスイの隣に座ろうとしていたリオが、ビクゥッ、と動きを止めたのを、分かっているだろうに──スイの視線は、変わらずルックに向けられたまま。
「この間みたいに、シュウさんから苦情を貰うのは──平時ならいざしれず、今はちょっと……遠慮したい。」
 スイが、困ったように眉をひそめて、ふぅ、と溜息を思すと、リオはズルズルとソファから滑り降り──うう、と短く呟いた。
 ルックはというと、スイの言葉に不本意そうに瞳を細めると、
「それは僕じゃなくって、コッチに言う言葉じゃないの?」
 クイ、とリオを顎先でしゃくったところで。
「すみません〜、スイさぁぁ〜ん。」
 リオが、平謝りに謝り始めた。
 スイはそこでようやくリオを見やると、小さく溜息を零して、
「リオ? 前も言ったと思うけど、君が何も言わずに出てきてしまったら、本当に大変なんだよ? ナナミだって、もしかしたら君が浚われたのかもしれないと思って、無茶をしてしまうかもしれない。」
「……一応、書置きは置いてきたんですけど……っ。」
「だったらなおさらだ、リオ? もしかしたら今ごろ、こっちに向かってるかもしれないだろう?」
「………………はい。」
 しゅん、とリオが肩を落として反省したところで、スイは再び視線をルックへ戻した。
「──で、注意はしたから、それはそれとして置いておいて。」
「置いて置くんですか、ぼっちゃん。」
 すかさずクレオが、どこか疲れたような微笑を口元に貼り付けて問いかけてくるが、スイはアッサリしたもので、
「うん。僕の義務は、リオに今注意したことで終わっただろ?
 それに、リオの迎えに来るのは、ナナミとビクトールとフリックとシーナ辺りだろう? ちょうどいいから、僕の妊娠騒動に巻き込ませてもらうから、むしろ喜んで来いという感じだし。」
 そんなスイの言葉に、ビクトールもフリック達も大変だなぁ、ハハハハ──と笑おうとしたパーンだったが、
「……………………ぼっちゃん?」
 笑い顔の途中で顔色を変えて、くぅるりとスイの方を振り返った。
「い、いい、今、な、なんて言いました? ににに、妊娠騒動って……っ!?」
 動揺もあらわに目を白黒させて問いかけてくるパーンの震える声に、そういえば、パーンにはまだ一言も説明してなかったなと、スイはアッサリ頷いて答えをくれてやる。
「うん、なんかね、アレ、つわりだったらしくってね?」
「…………ぼっちゃん……もう少しこう──、パーンの気持ちも考えてあげてください……。」
 帰ってきた早々に爆弾発言を落とされて、びっくりするより怒りを覚えたクレオとしては、今のパーンの心境が、イヤになるくらいに理解できた。
 だからこそ、たっぷりの溜息と共にそう言ってみたのだけれど。
「婉曲に行くより、直球のほうが理解しやすいんじゃないかな?」
 ニコニコニコ、と微笑むスイの顔を前に、クレオはさらに続けようとした言葉を、溜息と一緒に飲み込んだ。
──こんなに大変なことだというのに……前代未聞の、すごく、たいへんなことだというのに。
 どうやらぼっちゃんは、とても楽しんでいらっしゃるらしい。
「……ぼっちゃん…………。」
 クレオは、頭痛を覚えたように米神に指先を押しあてて、その先でグリグリと自分の米神をマッサージする。
 それから、スイに何と言おうかと考えて見るが──男の身で妊娠したと言うぼっちゃんを前に、何を言うことが出来るだろうか?
 それでも必至に考えて──クレオは、自分がまだ赤月帝国でテオ付きの腹心の部下として働いていた頃の記憶を掘り出してみた。
 確か、昔、未婚の女性兵士が妊娠をしたことがあったはずだ。
 あの時は──そう、半年ほどの遠征が明けたばかりの時期に発覚したおかげで、彼女の子供の「父親」は、首都で彼女の帰りを待っていた恋人ではないことが、たやすく予想できてしまって。
 ──あぁ、あの時もまた、父親が誰なのかで揉めてしまって、大変なことに……いや、そうじゃなくって。
 問題は、父親ではなく──いや、父親が誰なのかもあるのだけど、けど、ぼっちゃんが生むけど、ぼっちゃんは男なんだから、やっぱりぼっちゃんも「父親」になるのか──……?
「────……〜〜っ。」
 考えれば考えるほど、頭の中がグチャグチャになってきて、クレオは思わず頭を抱え込み、床の上にしゃがみこんでしまおうかと思った──そのタイミングで、
「はーい、皆様、お待たせしました〜、あったかーいお茶ですよぅ〜♪」 前触れもなくガチャリと空いたドアから、ウキウキしたグレミオがやってきた。
 背中に羽根が生えているのではないかと思うほど、るんるん気分でテーブルの近くにやってきたグレミオは、今にも飛び上がってターンしてくれそうなほどの勢いで、盆の上に乗ったお茶をテーブルの上に配っていく。
 そして、最後にスイの目の前に温かなホットミルクを置いたかと思うと、そのまま床に跪き、お盆をキュッと抱きしめながら、
「それで、ぼっちゃん? お話は進みましたか? グレミオとしてはやっぱり、赤ちゃんの部屋は、一階のほうがいいと思うので、ぜひ、グレの隣の部屋に!!」
 キラキラと目を輝かせて、自己主張してくれた。
 話は何も進んでいないのに、グレミオの中だけは、ずいぶん話が先走りしているようである。
「あぁ、それは風呂にも厨房にも近くて便利だね〜。」
「でしょ、でしょう、ぼっちゃん!」
 グレミオの、基本をすっとばして進んでいく話にまるでめげず、スイは穏やかに彼の意見に賛成の意を零してくれる。
 そんな主人に、グレミオは我が意を得たりとばかりに、両手を打ち鳴らして喜ぶ。
「もちろん、生まれてくる子は女の子でしょうから、お部屋はピンク一色に染めて──そうそう、大きいぬいぐるみも……。」
 そのままうっとりとした目つきで、新たに増えるかもしれない家族のことに思いを馳せるグレミオに、クレオが脱力を覚え、そしてリオがキランと目を輝かせる。
「えっ、生まれてくるの、女の子なんですか!?」
「そうに決まってますよ〜、なんてったって、ぼっちゃんのお子様なんですから〜♪」
「それなら僕、お婿さんに立候補します!!」
「ええ、もうどうぞどうぞ。お婿さん候補は、たくさん居たほうが、素敵なレディになりますしね〜。」
 跳び上がるように喜ぶリオに、グレミオがしたり顔で頷く。
 クレオは、そんな未確定な未来に思いをはせるグレミオとリオに、たっぷりの重みを乗せた溜息をついて見せた。
──だから、問題はソコじゃなくって。
「もっと他に、問題にすることがあるでしょう…………。」
 フルフルと力なくかぶりを振って、クレオは手のひらに額を埋めた。
「問題?」
「クレオさん、産着の枚数も、バスタオルの名前入り刺繍も、バッチリ私に任せてくれてOKですよ!」
 首を傾げるスイに対し、グレミオの「問題」はまるで意味が違う。
 だから、そういうところじゃなくって──と、クレオは後ろ手に鋭く突っ込みたくなりながら、「問題」を具体的にあげてみせようと口を開きかけてみるのだが。
──問題はもっと他の場所にあるのだと、そう解っているクレオですら、一体、何から問題にしたらいいのか、さっぱりとわからなかった。
 男が妊娠するという問題も問題だし、父親が誰なのかも問題だし、そもそも、ぼっちゃんに子宮があって産道があるのかというのも問題だし──というか、妊娠したのだから、ぼっちゃんは実は両性具有だったり?
 あぁ、まったく、もう……っ、ぼっちゃんはどうしていつも、思いもしないようなことをしでかしてくれるのだろう……!
 頭の中が考えるほどにヒートアップしてきて、頭から何かが噴火しそうな勢いに、唇を大きく歪めた──その瞬間。
「──それで、スイ?」
 静かに……けれど、注視せずにはいられない声で、ルックが口を割った。
 とたん、ハッ、と室内が静まり返り──面々がぶしつけな視線を向ける中、ルックはスイをヒタリと見つめると、
「君が言うなら、妊娠しただとか子供ができただとか……そんなバカな事も本当なんだろう?
 それなら、最初の問題は一つじゃないのかい?」
 鼻先でせせら笑うような表情を作りながら──けれどルックは、その双眸に冷ややかな炎をともしながら、目を眇めてスイを睨み付ける。
「一つ?」
「──その、妊娠の心当たりだよ。」
 クイ、と顎でしゃくるルックの言葉に、リビングに広がった一同の視線が、自然と下がり──スイの腹部に当てられる。
 とたん、弾けるようにリオが頭を跳ね上げた。
「あっ!! そうです、スイさんっ! さっきもその話してたんでしたっけ!
 それでスイさん? 父親は誰なんですか!? 心当たりはあるんですか!?」
 詰め寄るように顔を近づけたリオに向かって、スイは小さく微笑みを刻み込む。
 ──そして、なぜか自信満々な表情で、きっぱりはっきりと、言い切ってくれた。
「ある。」
「ああああっ、あるんですか、ぼっちゃん!!?」
 ギョッとしたのは、その場に居た面々である。
 グレミオですら、この言葉には大きく目を見張って、驚いたようにスイの顔を見つめる。
「ぼっちゃん……っ! さっきは、そんなこと言わなかったじゃないですか!?」
「だって聞かなかったじゃないか、おまえ。」
 今にもつかみかかって問いただしてきそうなグレミオを、手のひらをヒラヒラと振って答えると、スイはゆったりとソファに背を預ける。
 それから、前をまっすぐに見詰めて──自分の向かい側に座っているルックに向かって、ニッコリ微笑みかけると、
「三ヶ月というなら、紛れもなく、ルックが原因だと思う。」

ぶはっ!!!

 一番最初に吹き出したのは誰なのか──、それを悟ることが出来たのは、問題発言を飛ばしたスイだけだった。
「……る……るる、ルック……!?
 えっ、何っ!? ルック、何時の間に……っ!!?」
 驚いたように目を見張ったのは、リオだ。
 彼は、両手を広げて何か叫びかけて──でも、それ以上何を叫んだらいいのかわからず、そのまま、パタン、と手を落とした。
 今にも泣きそうな──尻尾と耳が生えていたら、しょんぼりとうなだれるそれらが見えるような顔で、ルックとスイの顔を、交互に見つめる。
「ぃや、ちょっと待てください、ぼっちゃん。」
 頭痛を覚えた気がして──いや、実際、頭の中に鈍痛を感じながら、クレオは片手で額を押さえながら、待ったをスイにかけてみる。
 しかし、スイはそれを右から左に聞き流して、何かを数えるようなそぶりで両の指を前に広げて見せる。
 その意味深な仕草に、ルックが秀麗な眉の間に深い皺を刻み込むのが見えた。
 何かを探るように目を細めて、考え込むような素振りを見せているが、眉間の皺は深くなる一方だ。
「──思い当たるところはないんだけど?」
 桜色の唇から零れたルックの否定の声はけれど、スイのやや興奮した面持ちの声によって掻き消される。
「そう、確かルックと一緒に酒盛りをしたあの日。考えてみても、あの日以外に外泊したことはないから、計算的にもぴったり!」
 よしっ、と、ガシリと拳を握り締めて朗々と宣言するスイに、グレミオが、ハッ、と我に返ったように目を瞬かせる。
 かと思うと、スイに向かっていた顔を、ぐるりとめぐらせてルックにめぐらせると、
「る、るるるる、ルックくんっ!!」
 気色ばんだ表情で、キッ、とばかりにルックを睨み上げてくる。
 その視線に、ルックは溜息すら覚えた。
「──グレミオさん、スイの言う言葉をそのまま鵜呑みにするのは、どうかと……。」
 言いかけた言葉は、一気に距離を詰め寄ったグレミオの手に、肩をガシリと掴まれたところで途切れた。
 絨毯に膝をついたグレミオが、決死の顔でルックを凝視している。
「る、ルック君……っ! ぼっちゃんに……ぼ、ぼっちゃんに──、ちゃ、ちゃんと女の子を仕込んでくれたんでしょうねっ!!?」

 パコーンッ!!!

「グレミオっ、錯乱してるから、あんたっ!!」
 思い切り良くグレミオの後ろ頭をはたいて、クレオは彼の後ろ襟首を捕まえると、グイと彼の体を引っ張った。
 ルックに詰め寄ろうとしたグレミオを、彼から引きはがすことに成功したクレオは、そのままクルリとグレミオの顔をこちらに向けさせて、
「なんてこと言うんだい、あんたは!」
 鼻先が触れ合うほど近づけた先で、ビシリと叩きつけるように文句を言えば、グレミオは心外だと言うように目を見開いた。
「だって、クレオさん! ぼっちゃんとルック君の子供だったら、ぜったい可愛らしいじゃないですか! それで女の子だったりなんかしたら、グレミオは、女の中の女に育てあげてみせますよ!」
「…………グレ…………。」
 ググッ、と拳に力をこめて、朗々と宣言してみせるグレミオの言葉に、スイは額に手を当てて、低い溜息を零した。
「だって、ぼっちゃんの娘と言うことは、グレミオの孫みたいなものなんですから!!」
 咎めるようなスイの言葉にもまるで反応せず、グレミオはキラキラと光る目で前を見据える。
 そんなグレミオの叫びに、ハッと目を見張ったのはリオであった。
「……スイさんと、ルックの、娘………………。」
 そのまま、キラキラキラキラ、とリオの目が光り輝く。
 そのリオの呟きに、ふむ、とスイは顎に手をあてて首を傾げる。
「……そっか、僕とルックの子なら、男の子だと可哀想だよね……。」
 認めたくはないが、自分も女顔だ。
 それに付け加え、ルックは間違うことがないほどの「美少女顔」だ。
 隔世遺伝でテオに似ない限り、生まれる子供は確実に「愛らしい女の子顔」になるだろう。
 ──そうなると、男の子が生まれてしまえば、両親が揃って味わってきた苦労を、その子もみっちり二倍の確率で味わうことになるかもしれない。
 いや、真の紋章を宿していない分だけ、もっと苦労してしまうかもしれない。
 それはそれで可哀想だよね、と、困ったように頬に手を当てて溜息を零すスイに、そうですよね〜、とグレミオがのんきに相槌を打ってくれる。
 そんな2人の主従に向かって、ルックはとうとう切れたかのように、右手を閃かした。
──とたん。
 ゴゥッ!!!!
 ソファを中心に、小さな竜巻が舞い起きた。
 ピタ、と口をつむぐ面々を、ルックは胸を張って右から左へと視線を
「スイ、グレミオさん、人の話をききなよ。
 僕は、さっぱり記憶にないんだけど?」
 うんざりした顔でルックはスイとグレミオを見据えて、瞳を細くして彼らをジロリと睨み付ける。
 そんなルックに、スイは弾けるように、バンッ、とテーブルを叩いて立ちあがった。
「失礼だな、ルックッたら! 記憶にないなんて!」
「そうだよ、ルック! なんて失礼なこと言うんだよ!」
 スイにつられるように、リオも立ち上がってバンッとテーブルを叩きつける。
 ルックは、ますますウンザリしたような顔で、第三者の立場に過ぎないリオを睨み付けると、柔らかなソファの背もたれに、背中を預けた。
「言っておくけど、男に子供を作らせる方法なんて知らないんだけどね、僕?」
 頬杖をついて、溜息をどっぷり零して見せれば、スイも小首を傾げてルックの言葉に頷く。
「──っていうか、実を言うと、僕にも、どうしてこうなったかさっぱり記憶がない。」
「……ちょっと?」
 ヒョイ、と片眉を跳ね上げて、ルックはスイを軽く睨み付けた。
 スイはと言うと、そんな凍てつくようなルックの視線を物ともせず、腹を優しく撫でると、
「おかしいなぁ……。
 ちゃんと、子供が出来る種が入った酒グラスは、ルックに飲ませたはずなのにね……。」
 ──爆弾発言を一個、投下してくれた。



「「「「…………………………………………………………。」」」」



 スイの言葉が、頭の中を駆け巡るのが一瞬。
 そして、脳みそがゆっくりとスイの言葉を噛み砕いてくれたのが、──次の瞬間。
 あまりと言えばあまりのことに、誰もが唖然と目を見張り──そうして。
「……それって……、ルック君のせいとかそういうのではなくて。
 ……そもそもの根っこの原因が、ぼっちゃんのせいだったって……言いませんか?」
 クレオが、かすれた声で呟いた瞬間、スイが、うん、と大きく一つ頷いて。
「いや、まさか、自業自得の種を、自分で摘むことになるとは思わなかったよ、うん。」
 悪びれず──けれど、優しさと愛しさだけは失わずに、腹を撫でながら、スイは、起きたことはしょうがないけどね〜、と、のんきにそう続けた。



──スイ・マクドール。
 時には、人生を転がっていく失敗をすることもある。













「と、ゆーことで、ルック、しばらくお世話になります。」
 ペコリと頭を下げた少年の肩口から、少し伸びた黒髪がサラリと音を立てて零れ落ちた。
 その下がった頭が、もう一度あがるよりも早く──、
「ささ、ぼっちゃん、お腰が冷えるといけませんから、ここへどうぞ。」
 少年の後ろについてきていた青年が、すかさず背中に背負った巨大なカバンの中から、大きなフカフカのクッションを取り出すと、それをドッカリと石版の前に置いて、さらにその上に毛織物のクッションカバーを敷いた。
 少年がそのクッションの上に素直に座り込むと同時、青年はその上からひざ掛けを乗せ、更にオマケとばかりに自分が羽織っていたマントを取り外すと、それを彼の肩にかけてやった。
 それから、スックと背を伸ばし、腰に手を当てると、辺りをキョロキョロと眺めて、憮然とした顔を顰めた。
「あー、それにしても、ダメですね、ココはっ! こんなところじゃ、ぼっちゃんの大事な体が冷えてしまうじゃないですか!」
 まったくもう、と、グレミオは一人で勝手にそう叫ぶと、肩から下ろしたバックの中から、茶器セットやら、お茶缶やら、箱に包まれたお菓子らしきものやら──そんなものを次々に出してきては、床の上に置いていく。
 ルックは、眉を顰めて、どんどん広がっていく「グレミオのお店」を見下ろす。
 もちろん、主婦の鑑であるグレミオが、広げたお店をそのままにしておくはずもない。
 ルックの目の前で、グレミオはてきぱきと取り出したそれらを的確な位置に、次々に配置して行く。
 気づけば、戦闘の時もこれくらいの早さで攻撃をしてくれれば──と思うような素早さで、石版以外には何もなかったはずの空間に、居住区が誕生していた。
 色気がまったく見えなかった壁にはタペストリーが掛けられ、むき出しの床には上質の絨毯。
 その絨毯の上には茶棚が組み立てられていて、アンティークの質の良さそうな揃いのティーポットとティーカップ、更には何種類かの紅茶缶まで入っていた。
 吹きぬけの天井や玄関ホールが丸見えになるのを避けるためだろう、上には布が張られ、さらに左右には階段からの目隠しとしてパーテーションが立てられる。
 グレミオはそれらをテキパキと組み立てた後、それでも不満そうに、
「これでは、風が通りぬけちゃいますね……、やっぱり、ちゃんと壁は作るべきでしょうか……。」
 顎に手を当てて、真剣な顔でそんなことまで目測し始めてくれる。
 その段階になってようやく、ルックは、ハッ、と我に返り──何が起きているのか説明を求めるように、スイに向けて視線を落とした。
 スイはと言うと、肩にかけてもらったはずのグレミオのマントを、頭からすっぽり被って、茶棚の中を探っていた。
 後ろ姿を見る限り、どこかの家に入った盗人のような態度である。
「……スイ。」
 そんなスイをジロリと睨み付けて名前を呼べば、スイはマントの片隅からルックを見上げた。
「なに、ルック? ちゃんとルックの分のお茶もあるよ。」
 ほら、と、ペンペンと叩くスイの手の下には、ミニコンロが一つ。──ちょっとした遠征で使うタイプの物だ。
 こんなものまで持ちこんでいるのかと、あきれを覚えながら、ルックは眉を顰めて不機嫌そうな声を出す。
「……君、ココで湯を沸かすつもりかい?」
「妊婦は冷えちゃいけないっていうから、コレなら湯気で温まるし、沸かしたお湯で体の中も温まるし。」
 ね? と、微笑んだスイは、早速お茶でも淹れようかと、コンロを設置しはじめるのに、ルックは憮然とした表情で言葉を続けた。
「スイ、ココで火を焚かないでくれるかい?」
 少しきつい口調で、ルックがそう言い切った瞬間──不意に、パンッ、と、グレミオが両手を打ち鳴らした。
 無言で視線をやれば、グレミオはウキウキした態度で、ルックとスイをクルリと振り返って笑う。
「ちょっと今から、ぼっちゃんの胎教のためにいいものをたくさん揃えてきますから、ルック君、あとは楽しみましたよ! ──あっ、ルック君じゃなくって、今日からは、お父様でしたね、ふふふ。」
 一方的にそういいつけると、含み笑いまで残して、グレミオは空になったバックを担ぎなおした。
 中に入っていたものをすべて出し尽くしたらしいバックは、ぺっこりとへこんでいて、ひどく軽そうだった。
「おっけー。ついでに、ヒマ潰し用の本もいくつか持ってきてね〜。」
「もちろん、胎教にいいステキなご本をさがしてきますからね!!」
 気分が高揚しすぎるあまり、今にも飛んで行っていきそうな勢いで、グレミオはブンブンとスイに手を振った。
 かと思うと、そのままクルンとターンして背を向けると、スキップをしながら階段へと向かって行く。
 階段を下りる時に、トーンと大きく跳ね上がって、どさくさに三回転くらいしたようだが、それはまぁ、見て見なかったフリをするとして。
「……本気で、スイをここで面倒見ろって……?」
 そう──問題は、グレミオが残して行った、台詞の方だ。
 グレミオが居なくなったとたん、シン、と静かになった玄関ホールで、ルックは目の前に広がった悪夢に、ズキズキと頭痛を覚えずにはいられなかった。
 スイが、「妊娠」したって言う事実だけでも、信じられない上に、頭痛を覚えて仕方ないと言うのに──僕の子供だって?
 冗談じゃない──そう、本当に、冗談じゃない。
 苦虫を噛み潰したような顔で……喉元まで吐き気がこみ上げてきたのを覚えて、ルックは顔に皺を刻み込んで、口から零れそうになる悲鳴を飲み込んだ。
 今すぐ隣に座っている少年を、叩きだして、追い出して──そして、そのままどこか遠くへ逃げてしまいたい衝動で、胸の中が一杯になる。
 実際、そうしてやろうかとすら思って、右手の風の紋章に意識を奪われかけながら、チラリとスイに視線を移す。
 もしここでスイが、子供のために編み物なんていう、ごくごくありきたりなことをしていたら、ルックは想像したことをすべて、やってしまっていたかもしれない。
 それほどまでに、自分の「子」が目の前に宿っているかもしれないと言う事実に、悪寒と嫌悪を覚えた。
 ブルリと体を震わせて──冗談じゃないと、ルックは握りこぶしを握りしめて、恐ろしい者を見るかのような目でスイを見た。
 スイもスイだ。
 自分の体の中に……男である己の体の中に、自分以外の「もの」が住んでいるのに、何も感じないのか!?
 嫌悪とか、おぞましさとか──そんなものが湧き起こってこないのかと、視線を落とした先──、スイは、くつろいだ様子で、コンロの中に墨を放り込んでいた。
 トングで墨の位置を調整させたかと思うと、おもむろに左手を閃かせて──、
「炎の矢。」
 ボッ。
 ……コンロに火を灯した。
 当然、ルックの「火気厳禁」について、まるで聞いていなかったということである。
「……スイ。」
 こいつは、自分がやったことを、ちゃんと分かっているのだろうかと、イライラしながら、ルックは咎めるようにスイの名を呼ぶ。
 けれどスイは、どこ吹く風の様子で、グレミオが置いて行った水筒を手にすると、それをそのままコンロの上に設置した。──どうやらその水筒は、耐熱仕様で、そのまま火にかけられるらしい。
 そんなマイペースなスイに、言ってもしょうがないことを分かっていながら、それでもあえてルックは、冷ややかな苛立ちを宿した声で、スイの名前をもう一度呼んだ。
「──僕は今、ココで火を沸かすなと言わなかったかい?」
 今すぐ消してやろうかと、右手に風の力を宿し始めるルックに、スイはわざとらしく溜息を一つ零す。
 そして、紅茶缶を取り出そうとした手を止めて、スイはルックを振り返った。
「ルック。」
 静かにその名前を呼んで、スイは真摯な表情でルックを見上げる。
 輝くような──吸い込まれるような綺麗な双眸に、一瞬、意識も何もかも吸い取られそうになって……そんなことになればスイの思惑通りだと、グ、とルックはそれを堪えて、彼を睨み下ろす。
 スイは、氷付きそうなほど冷ややかなルックの視線をまっすぐに見上げて、
「そんな冷たい言葉は言わないでくれる?」
「……どういう意味?」
 ──ケンカを売ってるなら買うよ、と。
 問答無用でグレッグミンスターにノシつけてテレポートさせてやる。
 そんな苛立ちを宿しながらルックはさらに凍り付きそうな眼差しでルックを見下ろせば、スイはその視線を受けて、フ、と柔らかな表情を浮かべて見せた。
「胎教に悪い。」
「………………………………。」
 サラリと言ってのけた後、スイは柔らかな表情で自分の腹部を見下ろし、その部分を手のひらで撫でる。
 その──スイの、見たことも無いほど穏やかで、温かげな表情に、ルックはクラリと眩暈を覚えた。
 クラクラと連続して襲ってくるめまいに、ルックは額に手を当てて、倒れそうになるのを必死に堪える。
 スイは、そんなルックを見上げて、クスクスと軽い笑い声をあげた。
「そんな顔しないでよ、ルック。」
 スイはティーポットの中にお茶の葉を入れて、お茶の準備をサクサクと始める。
 涌き立ったお湯を注ぎ、ティーポットの蓋を閉めて、その上からティーコジーを被せて──砂時計をひっくり返す。
 ──それから、ふと自分の腹部に視線を当てて……、不思議そうな表情で、手の平を腹部に滑らせた。
 そのまま、少しだけ力を込めて、腹を押さえ込むような動作をすれば、自分の体温なのか……それとも誰かの体温なのか、いつもよりも温かい気がするぬくもりが、手のひらから伝わってきた。
 スイは、ゆっくりと首を傾げると、 
「まだそんなにおなかは大きくないんだけどねー、なんか鼓動はするんだよ。不思議だねぇ……。」
 瞳を伏せて、かすかにくちびるに笑みを乗せるスイの表情に、何か言おうと口を開きかけたルックは、そこでハッとしたように目を見開いた。
 そして、何かを振り払うようにフルフルとかぶりを振ると、このままスイのペースに巻き込まれてはいけないと、気合をいれるように、どっぷりと溜息を一つ。
「──……あのね、スイ?」
 額に手を当てて、うんざりしていることを示すように溜息を零せば、スイは柔らかな微笑を浮かべたまま小首を傾げる。
「うん?」
「なんで僕が君の世話をしなくちゃいけないんだい?」
 うんざりだと言いたげに眉を曇らせるルックに、スイは驚いたように顔を跳ね上げた。
 ──ガシャン、と、小さな音がスイの手元で鳴り、彼はそのまま唖然と口を開く。
「!! なっ、何言ってるんだよ! 他ならないルックが、僕を妊娠させたんじゃないか!!」
 驚愕のまま、ルックに向かって叫ぶスイの悲痛な叫びに、しかしルックの対応は冷たかった。
「させてない。」
 きっぱりハッキリ、つけいる隙もないほどイヤそうな顔と声だった。
 そんなルックに、スイは不満そうに眉を寄せたのが一瞬──どういう形でルックを言い含めようか決めた後、キリリと眦を厳しくさせる。
「何を言うかと思ったら──。
 今朝、白状したばかりじゃないか。
 あんまりにも僕がウキウキしてるから、きっとこれは何かあると思って、グラスを交換したんだって。」
 ──しかもテレポートで。
 さすがに、テレポートでグラスを変えられたら、いくら僕だって気づかないよ。
 そう言って、ヒョイと肩をすくめて見せたスイは、砂が落ちきった砂時計をチラリと横目で見やって、ティーカップに紅茶を注ぎはじめる。
「だからそもそも、それは君の自業自得じゃなかったっけ?」
 確かに、グラスを交換した覚えはある。
 たかが3ヶ月前のことを忘れるはずもなく──特にあの時は、スイが何か企んでいるような気がして、彼に気づかれないようにテレポートまで使ってグラスを交換させたから……良く、覚えている。
 慎重に──スイに気づかれないように事を起こしたと言うのに、交換したグラスを空けたスイが、突然苦しむことも眠ってしまうことも、何かおかしな変化を起こすこともなくて、がっかりしたような落胆したような気持ちを覚えたのは、久しぶりだったから──本当に良く、覚えている。
 ……まさか、そんな「種」を仕掛けていたなんて、思いもよらなかったが。
 そう考えれば、また頭痛がこみ上げてきた気がして、米神に指先を押し当てて、はぁ、と溜息を零すルックに、スイは悪びれる様子なく、暖かな湯気を立てるティーカップを一客、ルックに向けて差し出した。
「えー、だってさー、僕、ルックに僕の子供を生んでもらおうかなー、って思ってさー。」
「なんでそこで僕が君の子供を生まなくっちゃいけないんだ……。」
 スイが差し出すティーカップの──つややかな白さと、そこから柔らかに立ち上る白い湯気とを睨み付けて、ルックは組んだ腕を指一本解くことなく、彼を見下ろす。
 スイは、そんなルックを不思議そうに見上げて──ゆったりと、首を傾げながら問いかける。
「えーっと……アイシテルから?」
「疑問系で言うな。」
 すぐさま突っ込んだルックに、スイはニヤリと口元をゆがめて、キラキラしく笑って見せた。
「じゃ、アイシテルからに決まってるじゃないか、ルック。」
「無駄にキラキラするな。」
「じゃ、どうしろって言うんだよ、わがままだな。」
 ルックに差し出していたカップを手元に引き寄せて、スイは少しだけぬるくなったそれに口をつけた。
 そのまま芳醇な香と味を確かめて──うん、とスイは満足げに頷いた。
 ゆったりとした動作で、カップ一杯分の紅茶をたっぷりと味わってから、スイは空になったカップを絨毯の上に置いて立ち上がる。
 眉を顰め続けるクールビューティを、下から覗きこむように見上げて──鼻先が触れ合うほど間近で、スイはニッコリと花開くように、あでやかに微笑む。
 ツイ、と、指先でルックの顎先を少しだけ上げて──、スイは、親指で彼の唇をなぞり上げる。
「昔なら、そのワガママなところがかわいいよ、ルック。とか言ってやったところだけど。」
 そうして──無駄にとろけるような男前な笑顔で、ルックの頬を一撫ですると、
「これからお父さんになるんだから、ワガママはダメだよ、ワガママは。慎んでくれたまえ。」
 ペチペチ、と軽く頬を叩いて、ニ、と笑って見せた。
「君がいつ、ワガママなところがカワイイとかいったことがあるんだい?」
 ルックは、溜息を零して、ぺシンとスイの手のひらを叩くと、追ってくるスイの手を邪険に退けながら、バカバカしいと背を向けようとする。
 けれどスイは、そんなルックの手をかいくぐって、彼の首に腕を回した。
 ハッ、として体をとっさに離そうをするルックよりも早く、そのままグイと彼の体を引き寄せて、わざとらしく上目遣いにルックを見上げる。
 108人を垂らしこんだ伝説の微笑みを浮かべて見せれば、ルックがとたんに苦虫を噛み潰したような顔になるのが分かった。
──なんだかんだ言ってルックは、僕の「微笑」に弱いのは、よーく知ってるんだけどね。
「気持ちの上ではいつでも。
 ワガママが言いたいなら、ルックが母体になってくれれば良かったのに。」
 ん? と首を傾げるスイに、ルックはこれ以上ないくらいに顔をしかめて見せた。
「──冗談じゃないよ。男が子供を生めるような体になるって……どんな得体の知れないクスリを盛ろうとしたんだよ。」
 得体が知れない、と。
 ブルリと体を大きく震わせるルックの震えを体で受けて、スイは、あぁ、そんなこと、と明るい声で答える。
「ルックと僕の子供の種をね〜、取り出してあったんだけど、それを両性具有の昆虫のDNAと、とある寄生虫のDNAを混ぜて作った薬に……。」
「もういい。」
 嬉々として更に続けようとしたスイの言葉を、そこで強引に遮った。──遮らずにはいられなかった。
 スイが、セルゲイやジュッポならとにかく、このティーカム城でアダリーやホウアンのところに、いそいそと通っていたのは知っていたが──何もよりにもよって、そんな三年前よりもグレードアップしたクスリなんて作らなくてもいいじゃないか。
「え、もういいの!? でもルック、気になるでしょ? 第二子の時は、ルックがクスリ飲むんだから。」
 すかさず遮ったルックに、スイがキョトンと呟いた言葉の方こそ──ルックは気になった。
「第二子って何!?」
 思わず──本当に思わず、すっとんきょうな声で叫んだルックが、逃げ出さないようにスイはしっかりと彼の背中に腕を回しなおすと、嬉しそうにニッコリ笑って、額をコツンとルックにぶつけて。
「男の子も女の子もほしいだろ? ルック似の女の子と、僕似の男の子〜。」
 ごく、当たり前のように、そう教えてくれた。
 その、ニコニコと微笑む顔に、思わず毒気を抜かれて──絶句して、呆然とスイの顔を見つめるしかなかったルックだが、すぐにハッと我に返り、慌ててスイの肩を掴んで彼の体を引き剥がす。
「だから──……っ、なんで僕と君との間に子供を作る必要があるって言うんだ!?」
 信じられない、と──顔をゆがめて叫ぶルックに、スイは何を今更、と軽く目を見開いて、
「だって、ルックの場合、こういう既成事実を作らないと、縛られてくれそうにないじゃない?」
 ──あっけらかんと、そう、言い切ってくれた。
 その、あまりと言えばあまりな「既成事実」に、ルックは唖然と目を見張った後──開いたままの……今にも悲鳴が飛び出そうな口元に、自分の手を当てた。
 背中が、ゾワゾワと悪寒を訴えている。
 目の前に立つ少年が──自分にとって、非常に不本意きわまりないことだが、それでも、ルックにとって、一番自分に「近い」存在だと思っていた「スイ=マクドール」が、まるで知らない人間のように思えた。
 その胎の中に。
 自分ではない命を宿して。
 既成事実だと、そういい切る。
──虫唾が、走った。
「──……っ。」
 本来なら、生まれるはずのない「形」、「命」。
 そう考えただけで、心よりも体が拒絶反応を起こす。
 頭の中で、しきりに白い光が瞬いて──心の奥底に沈めた、恐怖が、ゆったりとカマ首をもたげはじめたような気すらした。
「バカ……じゃないのか、君は──……っ。」
 けれど、そんな震える自分の心を、スイに知られたくはなくて──この、トラウマにも似た恐怖を、誰かに感じられるのだけは許せなくて。
 ルックは、震える声を叱咤して、嫌悪を感じているという表情で、声で、スイにそう告げた。
 とにかく今は、目の前から──「胎」に生まれるはずではない命を抱えた少年を遠ざけたかった。
 冷静になって考えようにも、元凶が目の前にいては、この言いようのない嫌悪と拒絶が、それを許してくれないからだ。
 なのにスイは、拒絶を示すルックの冷たい声音にも、身を震わせるほどの雰囲気にも、まるで頓着せずに、チラリと白い歯を見せて笑って見せる。
「だって、せっかく子供が出来る機会があるんだから──そりゃ、アイスルヒトとの子供がほしいな、って思っても、不思議はないだろ?」
「──……あ、のね。」
 当たり前のように零れたスイの言葉に、今度と言う今度こそ、頭を抱えてその場にうずくまりたくなったルックは、なんとかそれを堪えて、スイをジロリと睨み付けた。
「本来、できるはずもないものを作り出そうと言うのが……気持ち悪いって、君は思わないのかい……っ!?」
「思わない。」
 即答だった。
「……………………、っ。」
 あまりに、まっすぐに答えられて、ルックは呆然とスイの瞳を見つめずにはいられなかった。
 スイが何を考えているのか分からないのはいつものことだけれども、今日と言う今日は、本当に、心から──何を考え、何を言おうとしているのか、分からない。
 だから、付き会っていられないと、そう、彼の手を跳ねのけるつもりだったのに。
「だってルック?」
 スイは、自分の肩を付き離そうとするかのように上げられたルックの手を取り、その手を自分の腹部へと導く。
 ヒタリ、と当てられた人の肉の柔らかさが手のひらから伝わってきて、思わずゾクリと背筋を震わせたルックの手のひらごと、自分の手のひらで包み込んで、スイは自慢げに彼を覗きこむ。
「ここにあるのは、僕と君が作り出したモンスターとかじゃなくって。
 正真正銘、本物の、命だ。」
「……──っ。」
「そりゃ、ほめられた作り方じゃなかったかもしれないけど、ちゃんと僕とルックの性染色体も使ってるし、僕のお腹にも子宮じゃないけど、それに似た機能が作られてる。──そして、そこに、子供がいる。
 だから、僕と君は父親と母親になる。──それ以外に、今、何の説明がほしいの、ルック?」
 無邪気に──まるで邪気のない微笑を浮かべて、そう問いかけてくるスイには、突っ込みどころが本当にたくさんあった。
 何の説明がほしいって……、それはもう、何もかも説明がほしいことばかりだ。
 どうしてよりにもよって、その対象に自分を選ぼうとしたのか。
 そもそも、一体いつのまに、そんな人のDNAを取ったのか。
 というか、そのクスリ、ちゃんと人体実験はしてるのかだとか。
 本当の本当のところは、実はヤラセのウソだったりしないのか、だとか。
 いろいろなことが、頭の中でグルグル回って──気持ち悪いだとか、嫌悪が走るだとか、そんな言葉が口の中から飛び出していこうと、喉元まで競りあがってきた。
 なのに、実際、口を開いて出たのは、
「──あ、そ。」
 ──いつもと変わり無い、その言葉だけ。
 スイは、そんなルックに、とろけるように笑って見せると、腹部に当てさせたままのルックの手の甲をサラリと撫でて、うん、と一つ頷いた。
「うん、そう。
 だから、今日から一緒にパパママ学級を受け──……、ん……っ。」
 笑って小首を傾げかけた体が、不意に強張った。
 重ねていた手を、ギュ、と握り締めて、スイは眉をきつく結ぶ。
「スイ?」
 突然、自分の手を握って背を丸めて何かを堪えるような表情になるスイに、ルックがいぶかしげに声をかけると、スイはそれに緩く頭を振りながら、大丈夫だと言うように口を開きかけ──けれど、開くのすらダメな様子で、キュ、と唇を噛み閉める。
「…………ん……っ、う…………。」
「スイ、何が…………。」
「気持ちわる…………。」
 覗き込んだスイの顔は、見たこともないほど真っ青だった。
 とたん、ルックは戦慄にも似た恐怖を覚えた。
「……………………!!」
 つわりか……っ!
 声に出さずそう思ったと同時、堪えきれなくなったようにスイはルックをドンッと突き飛ばすと、そのままダッシュで二階へあがる階段を駆け上っていった。
 ルックは、そのスイを、ただ呆然と見上げるしかなくて──それから、無言で己の掌を見下ろし、
「──……それで、一体……僕に何をしろって…………?」
 うんざりした面持ちで、スイの体温を感じ取っていたばかりの掌で、前髪を掻きあげ──溜息を零した。



──完敗だ、スイ=マクドール。



 その時のルックの表情を、誰かが見ていたなら──彼らはきっと、誰もが総じてこう思ったに違いない。
「……お前、ほんっとうにスイに甘いよな…………。」
 







「あー……気持ち悪かった。」
 走っていった時には持っていなかったはずのタオルを首からぶら下げて──ちょうどいいから顔も洗ってきたのだろう。少しさっぱりした表情でやってきたスイの前髪が、かすかに濡れていた。
 薄い青のタオルに見覚えはあったが、あえてルックはその主を誰と問いかける事もなく──スイがこの城で問答無用でタオルを奪う相手など、考えるまでもない──、口元をぬぐっているスイに向けて、ひらりと掌を差し出す。
「はい。」
「……何これ? レモン?」
 ルックの白い掌の上に乗っているのは、紛れもなく──黄色い、つややかな果実だ。
 マジマジとそれを凝視するスイの掌の上に、無理矢理るっくはそれを乗せて、顔を歪める。
「すっぱいものを食べたくなるもんなんだろ? 妊婦って言うのは。」
「……──ん? さぁ……どうだろう?」
 右手から左手へ──レモンを放り投げながら、スイはあいまいに首を傾ける。
 胃の中の物を外へ出した後のせいか、空腹を感じない今は──目の前のレモンを食べたいと思うことはなかった。
 何よりもこのレモン、キレてないしね? ──さすがにリンゴじゃあるまいし、丸かじりするのはどうかと思うなぁ。
 それでもルックの、非常に珍しい好意なのだから、ここは彼に頼んで、「切り裂き」できってもらうべきかと、スイが首を傾げながら思った刹那だった。
「それに……吐いた後なら、コレですこしは口の中がすっきりは……するんじゃないの?」
 ルックが、少しだけ視線を逸らして呟く。
 その言葉に、スイは大きな瞳をますます大きく見開き──驚いたように小さく呟いた。
「──……すごい……。」
「は?」
 怪訝げに聞き返すルックに、スイはシミジミとレモンを握り締めながら、
「僕って、愛されてるんだねぇ………………。」
「…………………………………………。」
 ──瞬間、大きく顔を歪めたルックが、「何を今更」と思ったのか、「余計なことをした」と思っているのかは、本人にしかわからないことだ。
 けれど結果として、ルックはそれに反論することはなかった。
 代わりに、重い──重い溜息を一つ、わざとらしく零しただけで。
 スイは、そんな彼に、小さな笑い声をあげて笑った後、
「…………あ、そうそう、レックナートさまにも、『子供ができました☆ミ』って報告しておかないとダメだよね、そーいや。」
 レモンのすがすがしい香りを鼻一杯に吸い込みながら、楽しげに提案してくれる。
「するな。」
 思わずコメカミを震わせて即答するルックの言い分を聞かず、スイは更に天井を見上げながら、
「こうなった以上、レパントにも連絡しないといけなくなるんだけど──。」
 うーん、と、眉間に皺を寄せて、面倒は避けたいよね、とかわいらしく首を傾げて問いかけてくる。
 ルックは、軽々しく発言された言葉の中に宿る、避けようもない面倒の予感に、ジリリと眉を絞り込んだ。
「──……戦争してるどころの騒ぎじゃなくなるんじゃないの?」
 というか、今ですら、この城が戦争の只中だと言うことを忘れそうになるほど──能天気で穏やかだと言うのに。
 ウンザリした様子で零したルックの言葉に、スイは、そーだねー、とやる気のない同意を打ちながら──あ、と、何か思い突いたのか、ポンと手を叩いた。
「そうなったらそうなったで、ルック、魔術師の塔に篭ろっか。」
「──…………は?」
「奥さんが妊娠してる最中に浮気する旦那が多いって言うから、浮気防止になるしね〜?」
 にこにこにこ、と笑いながら提案してくるスイの言葉が、どこまで本当なのか分からない。
 分からないけど。
 ルックは、頭痛を覚える頭を軽く振りながら、この数分の間に、ドッと疲れた体を壁に凭れさせて──ずず、とその場にしゃがみこんだ。
「ルック?」
 不思議そうに、首を傾げて覗き込んでくるスイの──その、いつもと代わり無い面差しも、元荒くれ者のリーダーだとは思えないほどの華奢な体躯も。
 何もかも、いつもと、変わり無いのに。
「……きみは、バカだね。」
「そ?」
 はんなりと微笑んでみせるような、言葉じゃない。
 なのに、スイはあでやかに笑って──ルックの口から続く言葉が何であるのか、分かりきってるように、微笑む。
 それが、癪に障って……けれど、今更、言おうとしていた言葉を変えることもできずに、ルックは小さな溜息を飲み込みながら、自分を覗きこむ少年に向かって、手のひらを伸ばした。
「……今回の件は、諦めるけど──。」
 伸ばした手は、スイの頬に──滑るように首筋に。
 そして、一瞬ためらってから、彼のしなやかな腹部に。
 膨れてもいない、撫でただけじゃ鼓動も何も分からない。
 なのに、触れたそこが、……ひどく、熱い気がした。
「既成事実を否定しはしないけど、せめて──前もって、何か言うものじゃないの?
 こういう──……、その……家族計画っていうのは、さ。」
 言っているうちに、自分らしくない台詞を吐いているようだと、ルックは白い頬を羞恥に赤く染める。
 その恥じらいを紛らわせるように、ジロリ、とスイを睨み付ければ──その視線を受けた少年は、驚いたように目を見開いて、
「………………おぅ。それは気付かなかった。」
 そうのたまってくれた。
 その答えを聞いたルックが、その時何を感じたのかは──……彼のみぞ、知る。












──ちなみにこの後、数ヶ月に渡り、妊婦さんにも関わらず、一人カヌーで湖に乗り出し、
「さすがに九ヶ月目になると、おなかが邪魔で、こぎにくいね〜。」
 とか言っているトランの英雄を、血相を変えた魔術師の弟子がテレポートで回収していたりとか、
「バンジージャンプをすると逆子にならないらしい。」
 とか言って、城の頂上からダイブしようとしていた妊婦さんを、やはり旦那様がテレポートで回収していたり……。
 なんていう、「世間の眉唾伝説」を、このついでに片っ端からチャレンジしている、非常に行動派な妊婦さんと、それに振り回される面々の姿が拝めたらしい……というのは、永遠に残されない、ここだけの記録である。












+++ HAPPY END +++


波乱の予感を残しつつ、めでたく終了しました〜♪
最後まで長くのお付き合い、ありがとうございまーっす。

イロモノネタに挑戦だーっ! と思って書いて見たものの、終わって見れば、ルク坊らしいシーンがありませんでしたね。

……あれぇぇぇ〜?

あ、一応、ここで説明させたもらいますけど、この2人、ちゃんと両思いですよ(微笑)? いつもうちのルク坊は、そういう両思いっぽい描写がありませんけど、互いに両思いだって分かりあってる上のかけあいですからご安心くだされ。






ちなみに、生まれるシーンまで書いてませんが、子供は女の子です。グレミオさんの祈りの勝利(笑)。

スイよりもルックに似てるんですが、色彩だけはスイ似。小さい頃は色素が薄く、瞳は金色に近いのですが、大きくなるにしたがって、紅玉の瞳になり、「ソウルイーターの一部とか受け継がれてたら困るねぇ〜?」とスイが呟いて、周りがズサリと後ず去りする──なんて1コマも。

グレミオに溺愛され、リオに「将来僕のお嫁さんになるよね〜?」と、生まれて一ヶ月目から、強引に約束させられてます(大笑)。一応「婚約者」?? ……になるのか??(笑)

でも、本人はフリックさんがお気に入りで、「だー。リーック(フリックのこと)」と呼んでは、フリックのマントにじゃれついたり、髪を引っ張ったりして遊んでます。時々フリックさんの髪はよだれまみれ。
「よっ、色男、モテモテだな!」(ビク)
「ぅわ〜、フリックさんの性質を、今から見極めてんだなー……先行き怖いぜ。」(シーナ←どれほどかわいい女の子になっても、スイとルックの子供だって言うだけで、俺は絶対、嫁にはいらん!)

スイは嫌がらせのように、ソニアの前に娘を差し出しては、「ほーら、おばあちゃんですよ〜」「……だれがおばあちゃんだ、だれが……っ!」「ソニア。」「私は、確かにおまえの母になると覚悟を決めたことはあるが、だが、今は……っ。」「ばぁば?」「……うっ…………っ、…………スイ……どうしておまえ、生むなら、テオ様に似た子を生んでくれなかったんだ……っ!!(涙)」「そんなこと言っても、僕、父上の子供を生んだわけじゃないし……。」「いやいや、ぼっちゃん、それは言う台詞がおかしいですから。」

──みたいな感じで、ホノボノして、いいですよねー……(遠い目)。
ちょっと書いて見たかったり・(笑)

ゆりかごは、ルックの風の紋章の力ですね! 空中でキャッキャッと遊んでる娘見て、フリックさんが大慌て。そのまま突っ込んで抱きとめようとして、うっかり、ルックの紋章の力で、ひゅーんと空高く舞い上がっちゃうの。

スイママ(本人はスイパパだと言いはる)は、教育ママ。小さい頃から、英才教育。

夢は広がるルックとスイの子供……(大笑)。