「ねぇ、あなた。」
ふと話しかけられて、馬車の中を振り返れば、柔らかな美貌にまばゆいばかりの笑顔を浮かべた妻が一人、脚を横に揃えて座っていた。
グランバニアへ向かうために、チゾット山脈へ向かう道中──妻になって、まだ数ヶ月にしかならない新妻は、最近編み物に凝っている。
山の中に行くなら、さぞかし寒いでしょうからと、修道院で良く編んだのだと言うマフラーを、今は編んでいるところだ。
「どうしたんだい、フローラ? もしかして、疲れた?」
なら、休憩にしようかと問いかければ、彼女は編み棒を膝において、ゆっくりとかぶりを振る。
その、おっとりとした仕草に、カリアは心がホワリと暖かくなるのを感じた。
サラボナで初めて出会ったその時から──フローラの優しく美しい笑顔は、カリアに優しさと温かさをもたらせてくれる。
間近で微笑んでくれるだけで、とても幸せに感じた。
今もまた、その笑顔を間近に見つめたカリアは、滲み出る幸せな気持ちに、柔らかな笑みを浮かべずにはいられなかった。
──幸せな、優しい、暖かな時間が、ゆっくりと見詰め合う二人の間に流れる。
互いの双眸に互いの微笑みが映っているのを見つめながら、二人は、ますます微笑みを深くする。
そんな新婚夫婦を交互に見つめて──ピエールは、隣を歩いていたブラウンにヒョイと肩を竦めて見せる。
「結婚して数ヶ月になると言うのに、相変わらずですね、このお二方は。」
呆れたような色を滲ませるピエールに、ブラウンが小さく背伸びをして、トントン、と木槌でカリアの脚を突付く。
「ご主人様、フローラ様、おやすみ?」
くり、と愛らしく小首を傾げるブラウンの声に、はた、とカリアは我に返ったように目を瞬いた。
変わらずニコニコと微笑を浮かべているフローラから視線を落としてみれば、自分の足元で、ちょこん、とこちらを見上げるブラウンの小さな体。
フローラも釣られるように視線を落として、まぁ、と、手の平を口元に当てた。
「あらあら、駄目でしょう、ブラウン。
木槌でカリアさんの脚を突付いたりなんてしては、なりませんよ。危ないでしょう?」
めっ、と──愛らしく目元を吊り上げるフローラに、ブラウンは目に見えて、しゅん、と俯いた。
「ごめんなさい。」
肩を落としてそう呟いたブラウンに、フローラは、優しくニッコリと微笑む。
「今度からは気をつけてくださいね、ブラウン。」
少し体を伸ばして、フローラは、よしよし、とブラウンの頭を撫でてやる。
少しチクチクとした痛みを感じる毛の感触に、フローラは、ふふ、と甘い笑い声をあげる。
カリアは、そんな妻と仲間の暖かなワンシーンを見つめて、目元を優しく和らげた。
「そうだね……それじゃ、少しだけ、一休みをしようか。」
チラリとピエールに視線をやって、カリアは彼にコクンと頷く。
そんなカリアの足元に、ぐぉおん、と低い声で呻いて、プックルが摺り寄る。
プックルの柔らかな毛並みを撫でてやりながら、カリアは馬車の中のフローラ達に声をかける。
「フローラ、お茶の用意をしてくれるかい?」
「はい、あなた。」
打てば響くように答えて、フローラはニッコリ微笑む。
その彼女に、同じようにニコリ、と返して──カリアは、本当に幸せだなぁ、と思った。
フローラは、編み棒を横に置くと、馬車の中を振り返り、日用品が置いてある籠の前に立つ。
蓋を開ければ、食器や鍋などが綺麗に整理されて詰め込まれていた。
その中から、ティーカップを取り出しているフローラを、幸せそうな笑顔で見つめていたカリアは、ふと、編みかけのマフラーに目線を落とした。
深い紅色と薄い赤色の毛糸で編みこまれたマフラーは、ついこの間編んでいた物とは違うようだった。
カリアに、と言って編んでいたマフラーは、深い紺色をしていて、見た目も普通のマフラーだった。
けれど、今、フローラが編んでいる物は違う。
すでにカリアの分を編み終えたフローラが、次の──自分の分を作っているのだろうと思ったが、そのマフラーは、彼女が好んで身につけるような色合いではなかった。
それに、その毛糸も──一本が太く、少し荒い毛色のように見えた。
「──フローラ?」
「はい、なんでしょう、あなた?」
淡い微笑を浮かべて、フローラは軽く首を傾げる。
その手には、ポットとカップ、そして茶葉が乗せられたお盆が握られていた。
カリアはそんな彼女に、困惑したような視線を向けた。
「この、マフラーなんだけど……。」
「あ、はい、珍しい毛糸でしょう?」
フローラは微笑を深くしながら、馬車の中から降りてくる。
馬車の外ではすでに、ピエールとマーリンが、焚き火の準備をしていた。
フローラは手際の良い二人にお礼を言って、鍋を取り出すと、馬車の陰で毛づくろいをしていたプリズニャンに声をかける。
「プリズン、ここにヒャドをお願いできるかしら?」
「うにゃっ!」
ぴん、と尻尾を立てて頷くプリズニャンの前に、ことん、とフローラは鍋を置いて、ありがとう、とプリズンの頭を撫でる。
きゅぉん、と甲高い音がして、
「ヒャドっ!」
短く唱えられた呪文は、鍋の中に氷の塊を一つ作り出した。
その間に、マーリンがメラを唱えて、薪に火をつける。
ピエールが、氷の入った鍋をフローラから受け取り、それを遠火にかけて氷を溶かし始めたところで、「お願いね」と、沸騰するまでの間の番を任せると、フローラはヒラリとスカートを翻して、カリアの元に戻ってくる。
「うふふ、お待たせしました、あなた。」
「ううん、いつも悪いね、フローラ。」
馬車の中に置き去りにされた毛糸を見下ろしていたカリアがそう言えば、フローラはフルリと頭を振った。
「そんなことはありませんわ。──私は、まだまだ未熟で、あなたにいつも守られてばかりですもの。
これくらいは、させてくださいませ。」
そ、とカリアの腕に手を添えて、フローラははにかむように微笑む。
白い陶器のような肌が、ほんのりと赤く染まり──見上げる彼女の双眸は、微かに潤んでいた。
それを見下ろして、カリアも照れたように頬を赤く染める。
コリコリ、と頬をかきながら、
「いつも君には助けられてるよ、フローラ。
君が傍に居るだけで、僕は……。」
「あなた──……。」
フローラは、うっとりとカリアの顔を見上げる。
二人の間に、甘ったるい雰囲気が流れ始めた、その時、
「フローラ様、お湯が沸きましたよ。」
ピエールが、ごほん、と咳払いを一つしてから、声をかけた。
は、と我に返ったフローラが、恥ずかしそうに頬に手を当ててカリアから顔を背ける。
その耳まで、赤く染まっていた。
カリアは、そんな彼女を、いとしげに──幸せそうに見つめる。
心の中は、とても温かく……優しい気持ちに満ちていた。
ピエールが、フローラの向こう側で、カリアに「邪魔してすみません」というようにすまなそうな顔をしていた。
カリアは苦笑を浮かべて、なんでもない、とかぶりを振ったところで──ふと、馬車の中に置き去りにされていたマフラーの存在を思い出した。
「そう言えば、フローラ。このマフラーだけど……君の分なのかい?」
問いかければ、フローラは沸いたお湯をポットに入れながら、ふふ、と笑った。
「いいえ、それは、母の分ですの。」
「お義母さんの?」
驚いたように軽く目を見張ったカリアは、困惑したようにフローラと馬車の中の編みかけのマフラーを見やる。
確か──サラボナは一年を通して温和な気候で、マフラーなんてものは必要なかったような気がするのだが。
「はい。母も父も、良く旅行に行くでしょう? その時に、使ってもらえたら、と思って。」
ふふ、と笑った後、フローラは懐かしいことを思い出すように、少し遠くを見つめた。
一番最初に、二人のためにマフラーを編んだのは、イツのことだっただろうか?
確か、父が修道院近くまで仕事で訪れたときに、修道院に立ち寄ってくれて──その時、冬の只中だったせいか、父は、とても寒そうにしていた。
だから、今度父が来るときに、寒がらずに居てくれるようにと、マフラーを編んだのだ。
そうしたら、母が、ずるいと言うから──……。
ふふ、と、フローラは懐かしい思い出に笑みを零しながら、カリアを見上げた。
「最初に作ったのは、とても下手で──、全然形になっていなかったんです。目も、たくさん飛ばしてしまっていて。
けれど、父はとても喜んで──サラボナでも、身につけてくれていたそうなんですよ。」
後で母から手紙でそう聞いて、フローラは恥ずかしさのあまり顔から火を噴きそうになったものだ。
あのようなへたくそなマフラーを、サラボナで──しかも、寒くもなんともない場所で身につけ続けているなんて、と。
とてもじゃないけれど、恥ずかしくて恥ずかしくて、しょうがなかった。
だから──次の年には、新しくまた編み直したのだ。……今度は、母の分も。
「あれから、毎年、マフラーを作るようになったんです。
今では、綺麗に作れるようになったんですよ。」
うふふ、と楽しそうに笑って、フローラはお茶の葉を入れたポットを横に置いた。
「それは、チャビープリントの毛糸なんですよ。母がいつも着ている服に合うと思って──。」
それから、と、フローラは立ち上がり、カリアの横に立つと、毛糸を入れた小さな籠を手元に引き寄せた。
籠を開くと、色々な毛糸の塊がゴロゴロと詰まっていた。
フローラはそれを指差しながら──落ち着いた色のアルパカ毛糸を指差すと、
「これは、父の分の毛糸で、こっちが私の分ですの。」
次にパステルカラーの綺麗な細い毛糸を指し示す。
示された毛糸は、まるでこれから作られる本人を映し出しているような気がして、へぇ、とカリアは楽しそうにのどを震わせて笑った。
そのフローラの指が、もう一つの毛糸を指し示す──太い毛糸の、明るい色のものだ。
それは誰をイメージしているのか分からなくて、首を傾げたカリアに、フローラは優しくニコリと笑って、
「これは、アンディの分ですの。」
「──………………アンディ?」
カリアは声を出したと同時、その声が存外に低いのに気づいて、しまった、と思った。
フローラは気にしていないだろうかと、チラリと視線を落とすが、フローラは気づいていない様子で、毛糸が入った籠の蓋を元に戻していた。
「ええ、前に父と母に作ったのを見たアンディが、自分の分も欲しいと言ったから、それから一緒に作るようになったの。」
初めて作ったときは、アンディ、とても喜んでくれて──と、続けるフローラに、カリアはなんともいえない顔になった。
それから、カリアは、困ったように眉を寄せる。
「……フローラ、もしかして……、今年もアンディの分を作るつもりなのかい?」
思い出すのは、サラボナで最後に見たアンディの顔だった。
アレは……そう、フローラと自分との結婚式の日だった。
フローラのために大怪我を負い、体中火傷だらけになったアンディは──まだ完全に癒えきらぬ体で、それでも、フローラと自分に「おめでとう」と言ってくれた。
体に残る傷だけではなく──心に負った傷もまた、癒えきらないような、そんな顔ではあったけれど。
あの、アンディに。
「ええ、もちろんですわ。」
ニコリ、と微笑むフローラに、カリアは、ああ、と溜息にも近い気持ちで空を仰いだ。
それは──さすがに、マズイんじゃ、ないだろうか?
アンディはきっと、送られて来たフローラのマフラーを見て──涙にくれるに違いない。
それは……恋敵じゃなくても、物凄く不憫だ。
「フローラ。」
カリアは、苦笑を滲ませながら、彼女の名を呼んだ。
「はい、あなた?」
フローラは、不思議そうな表情で夫を見上げる。
カリアはそんな彼女の肩に、そ、と手を置くと、その顔を覗き込む。
真っ直ぐな瞳で、じ、とカリアを見つめるフローラに、彼はこほん、と咳払いをしてみせると、
「その──アンディにマフラーを作るのは、今年から、止めにしないか?」
「え? どうしてですの?」
キョトン、と、フローラは目を瞬く。
「その──……えーっと……。」
こり、と頬を掻いて……カリアは、照れたように苦い笑みを刻み付ける。
その真っ直ぐな双眸に、カリアはジリ、と胸の奥が痺れるような痛みを覚えたのに気づく。
──あぁ、そうか。
アンディに可哀想だとか、そういうんじゃなくって。
ただ単に。
「…………僕が。」
掠れた声で、小さく……カリアは呟く。
「はい。」
フローラが真っ直ぐに答えるのに、カリアは苦い……苦い笑みを零しながら。
「──……こんなことを言えば、君は、イヤな気持ちになるかもしれないけれど。」
「はい?」
「……君が、アンディに──ほかの男にマフラーを作るのが……イヤなんだ。」
切なげに眉を寄せて、そ、と吐露した。
その切ない声音に、フローラは軽く目を見張って──薄く唇を開く。
「他の男って──でも、あなた? アンディですのよ?」
何を言うのだろう、と言いたげな表情で問いかけるフローラに──あぁ、アンディ。君は、あそこまでしたのに、フローラには「男」とすら見られていないよ、と、心の中で呟かずにはいられなかった。
それに、微かな喜びを覚える自分に、みっともないな、とますます苦い気持ちを噛み殺しながら、
「それでも。」
言葉をそう重ねて見せれば、フローラはゆっくりと目を瞬いた後──、少し考えるように首を傾げる。
「──……さすがに、お義父さんとお義母さんの分まで作らないで、とは言わないけれど──、その、僕以外の男の人の分を作るのは、してほしくないかな、なんて。」
苦笑を交えながらの言葉に、フローラは目を軽く見開いて──、まぁ、と、小さく零した。
「あなた……。」
「ごめん。──心が狭い男だって、そうガッカリする?」
眉を落として問いかけるカリアの顔を、マジマジとフローラは見つめた。
そして──くすり、と、フローラは笑みを零すと、
「いやですわ、あなた。
私が、あなたをガッカリすることなんてありません。
毎日……その、……素敵だと、そう思うばかりですのに。」
ぽ、と、頬を赤らめて、フローラは頬に手の平を当てた。
「え、あ……。」
ボッ、と、フローラの赤らんだ顔を見下ろして、真っ赤になるカリアに、もう、とフローラは更に恥ずかしがるように両手を強く組んで、首をすくめて見せた。
「でも、あなたがいやな気持ちになるのなら、もう、アンディには編みませんわ。」
「……すまない、フローラ。」
「いいえ、あなたが──一番大事ですもの。」
そ、と二人は間近で見つめあい、甘い雰囲気が再び間に流れた。
その二人の──新婚ホヤホヤの雰囲気を見ながら……。
少し離れた場所で、その光景を見ている視線があった。
ピエールたちモンスターである。
スライムの上で正座をするピエールの前には、先ほどフローラがお茶っ葉とお湯を入れたポットがおいてある。
「……このお茶……そろそろ出がらしですけど……。」
そのポットは、すでにもう湯気すら立ち上っていなかった。
「さてはて。」
ピエールの声に答えたマーリンは、困ったのー、と、まるで困っていない調子で答えながら──この先の旅路が、更に遠くなる予感を感じて、やれやれ、と溜息を零すのであった。
なぜかいちゃつきすぎたような気がします……。
初フローラ……(笑)