うららかな昼下がり──暖かな日差しの下、ユリウス達一行は、ベラヌールの町を歩いていた。
その日差しは、酷く温かく──時折吹く風の冷たさが、心地よく感じるくらいだった。
耳を澄ませば、優しい風の音と水のせせらぎが、涼やかに聞こえてくる。
その音に誘われるように視線を向けると、道沿いを流れる水路が見える。
透明度の高い水路を覗き込めば、上流から下流へと、赤い観賞用の魚が、スルリと通り抜けていくのが見えた。
「さすがは水の都ね。」
本当に、綺麗。
水路に向かって、ぽつり、と言葉を落として、リィンは水路の先に建つ建物を見上げる。
城下のように整然と並んだ石畳に、立ち並ぶ白亜の建物。
今のようにハーゴンが世界を支配しようとする前は、このベラヌールは世界の金持ちがこぞって別荘を持とうとした避暑地だったのだと言う。
その頃の名残か、町のそこかしこに、さりげない贅を極めた芸術品が転がっている。
リィンは観光気分で、水路を横目に見ながら軽やかに歩く。
「水は綺麗だし、空気は美味しいし、町並みも綺麗……あら、こんなところにカモメさん。」
水路を通り抜けた魚に目を奪われた拍子に、向こうへ渡る石橋の側面に、彫刻がされているのを見つけて声をあげる。
先ほども、石畳の中の一つに、猫が彫られていた。
こういうところが、町を歩くのが楽しく感じる理由の一つなのよね、と、リィンは頬を緩ませる。
「え、カモメさんが居るの?」
リィンの斜め後ろを歩いていたカインが、キョトン、と目を瞬いて不思議そうに首を傾げる。
そんな彼に、リィンは笑顔で頷いて、自分が見つけたばかりの彫刻を指で指し示す。
「さっきの石橋には、魚が彫られていたわよね。」
「あっ、本当だ。カモメさんだ。」
リィンの横に立ったカインが、石橋の彫刻を良く見ようと、ちょこん、とその場にしゃがみこむ。
そんな彼に、リィンはなんだか幸せな気持ちになって、ゆっくりと空を仰いだ。
美しい蒼の色に、ぽっかりと浮かんだ白い雲。
俗世のことも忘れて、そのまま見続けていたいほどに、綺麗な光景だった。
綺麗な空気に綺麗な水、綺麗な空──そして自分の独り言にも反応してくれる、大切な友人。
これ以上、この空間に何が必要だと言うのだろうか?
「本当──、こうしてると、時間が経つのも忘れちゃいそうね。」
空を仰ぎながら、リィンは、ふふ、と楽しそうに口元に笑みを刻む。
そんなリィンの言葉に、それまで何も言わずにリィンに付き従っていたユリウスが、イヤそうに顔を歪めた。
「お前、半年前に来た時にも、おんなじよーなことを言ってたよな?
アレか? バカの一つ覚えか?」
何が、時間が経つのも忘れそうだ、っつぅの。
今の状況を、こいつらは分かってるんだろうか?
ハッ、と、小ばかにしたように呟いたユリウスの言葉に、カチン、とリィンが片眉をあげる。
「ちょっと、ユーリ? ユリウスの分際で、なんだかとっても、聞き捨てならないことを言ってなかったかしら?」
ゆっくりと──胸の前で組んでいた手を腰に当てて、顎を引いて。
リィンは、下から睨み挙げるようにして、ジロリ、とユリウスを睨みつける。
そのまま彼女は、す、と足を1歩ユリウスの方へと進める。
整った顔立ちをしている分だけ、リィンが、ス、と目を細めて睨み挙げると、壮絶なまでの美しさがあった。
10人中10人が見とれてしまうような──そして、その冷ややかな美貌に、背筋を凍らせてしまうような、そんな美貌……、けれど、ユリウスは、彼女のそういう表情には慣れていたので、鼻先一つで近づいてきたリィンを笑い飛ばすと、
「あぁ? なんだよ、リィン? お前、もう耳が遠くなったのか?
おんなじよーなセリフしか出てこないボギャブラリーの少なさと言い、耳の遠さと言い……お前も、もう年なんだなぁ?」
小ばかにした態度で、右手の小指で耳を弄りながら、やれやれ、と肩まで竦める始末だ。
そんな彼に、カチン、とリィンが眉を跳ね上げる。
そして、そのままいつものように、「あんたに言われたくないわよ!」──と叫びかけたが、すぐにそれではユリウスにしてやられることになる、と思いなおし、彼女は一瞬で表情を入れ替える。
壮絶なまでの怒りの表情から、春のような日差しの柔らかな微笑みへ──ただし、その目だけは、怒りの色が全く取れていない。
「あーら、それは失礼。私、あなたのことを過小評価していたみたいね?」
ほほほほ、と、イヤミっぽく笑い声をあげると、リィンは口元に手の甲を優雅に当てて、チラリ、とユリウスを流し見る。
その目つきが──視線だけで人を殺せそうなほどに、鋭い。
「そりゃ、どういう意味だよ?」
「ほら、私がボギャブラリーを駆使して、詩のように謡ってみせても、あなたは、一つの単語も理解してくれたためしがなかったでしょう?
だから私、このところ、ずーーーーっと、ユーリの脳みそにあわせて話しているつもりだったのよ。」
ここで、わざとらしくユリウスから視線をずらして、少し遠くを見るような仕草をすれば、彼は怪訝そうに顔を顰める。
「けれど、余計なお世話だったようね? ふふ……これからは、もっと素直に、見たものをすべて表現してあげるわ。……私の言葉で。」
ふふふふ、と。
不穏なようにしか見えない表情で微笑むリィンの言葉に、ユリウスは頬を引きつらせる。
「……お、おい、リン?」
「そうよね、ユリウスだって、もう18ですもの……。
どれだけアホでバカで間抜けに見えても、王位継承者ですものね。
多少の難解な単語の一つや二つ、三つや10個、容易く扱えないはずがないんですもの。
もう少し、日常会話のレベルをあげても、構わないのよね……。」
うふ……ふっふっふっふ、と。
リィンはユリウスに見えないように、ぐ、と拳を握り締めた。
ユリウスごときに、ボギャブラリーがない、などと言われたことが、腹ただしかった。
だって、ユリウスなのだ。
筋肉バカで体力バカで、呪文の一つも唱えられないどころか──旅の終焉に近づいてるこのときになってもまだ、薬草と毒消し草の区別さえつかないような、知力バカなのだ!
これで本当に、ローレシアの王なんていうものがやっていけるのだろうか、と常々疑問に思うような──旅をすればするほど、そう心配してやまない相手に、よりにもよってそんなイヤミを零されるとは!
腐ってもこのリィン、ムーンブルク1の才媛にして希代の魔法使いになるだろうと太鼓判を押された──いわば、頭脳においては三国でも十指に入ると言われていたのだ。
その私が、ユリウスにそんなことを言われるとは──……っ!
正直、屈辱以外の何物でもなかった。
「見てらっしゃい……ユーリ。
あなたが、『何を話しているのか分かりません、許してください、リィンさま』──って跪いて許しを請うまでは、絶対に、許してやらないんだからっ!!!」
ぐぐ、と、さらに拳を握る手に力を込めて、リィンが心の奥底からそう誓う前で。
「──……お前、何も、そこまで腹立てなくてもさー……。」
こりこり、と、ユリウスが困ったように頬を掻く。
まさか自分の軽い気持ちで零したイヤミが、ここまでリィンを駆り立てるとは思っても居なかった。、
「うるさいわねっ! 誰のせいだと思ってるのよっ!!」
「って、俺のせいかよ!?」
「当たり前よっ! あんたが余計な事を言わなかったら、気づかなかったのにっ!」
悔しいっ、──ものすごく悔しいわ、と。
リィンは臍をかまずに居られなかった。
最初は、なんだか「むかっ」としただけに過ぎなかったのだ。
それだけなら、いつものように軽口を交わすだけで済んだ。
けれど──今日は、どうしてか、何かが引っかかったのだ。
普通に言い返すだけでは、飽き足らない、と。
それが何なのか、さっきまで分からなかった。
分からなかったというのに──自分で言っているうちに、気づいてしまったのだ。
この美しい町に、初めて着いた時。
半年前の、あの時──その翌朝に、最悪な事態が起きた、あの時に。
私は、確かに、今と同じようなことを言った。
今まで見たどの町よりも美しく、芸術的で──洗練された雰囲気が漂う町に、圧倒されて……ありきたりの言葉しか口から飛び出てこなかったのだ。
それが、悔しくて──これほど美しい町なのに、誰でも口に出来そうな
感想でしか表現できなかった自分が、悔しかったから。
だから、次に来た時には、と、そう思ったのだ。
つぎに来た時には、この上もなく美しい詩でもって、この町を褒め称えようと。
……けれど、その「次」は結局、世界樹の葉を持って帰ってきた時で、とてもではないが、美辞麗句なんて考えている暇はなかった。
そうこうするうちに、すっかりそのこと自体を忘れてしまっていて──ユリウスの言葉で、思い出してしまったと言うわけだ。
すっかり忘れていたという事態も悔しいが、忘れていた挙句、また同じ言葉で飾っていたなんて──この上もなく、悔しすぎる。
いっそ、気づかずに居たほうが良かったんじゃないかと思うくらいに、悔しかった。
「何が?」
思った以上に悔しそうなリィンの様子に、ユリウスは不可解そうな表情になる。
まさかリィンが、自分のイヤミごときで、ここまで憤るとは思っても見なかった。
いつもなら、小気味良くポンポンと言い合いをして──そして結局、リィンの言葉にユリウスが負けて、おしまい、だったのだ。
なのに今日は、いつもと少し違う。
これは──アレだろうか。
と、ユリウスはチラリ、とカインを見やる。
カインは、こちらの言い合いをまるで気にも留めていない様子で、道路から身を乗り出すようにして、水路の側面を見ていた。
指先で何かを辿っている様子からするに、側面にも何かが刻んであるのだろう。
「つぅか、落ちるぞ、カイン。」
思わず突っ込めば、カインがピョコンと顔だけこちらに向けて、ニッコリと微笑む。
「大丈夫だよ。落ちても、今日は温かいし。」
すぐに乾くし、寒くないよー、と。
のほほーんとした口調で、ユリウスの懸念と違うことを答えてくれる。
「いやいや、あのな……。」
「ダメよ、カイン。温かくても風邪なんて、軽く引けちゃうんだから。」
それってどうなんだ、と、米神を指先で押さえたユリウスの言葉を奪うように、リィンが綺麗な容貌を顰めてカインに声をかける。
体はユリウスに向けたまま。──肩越しにサラリと髪を払いのけて、顔だけで振り向く。
そして彼女は、形良い唇に困ったような色を乗せて、
「カインも──またこの町で、寝込みたくなんか、ないでしょ?」
苦笑を織り交ぜて、優しく、そ、と呟いた。
その声を聞いた途端、カインは、パチパチと目を瞬いて──あぁ、と言うように、少しだけ困った顔になった。
そして、ユリウスは。
「──なんだ。」
ぽかん、とした気持ちで、そう思った。
なんだ、違うのか、と。
「そうだね、ゴメン、リン、ユーリ。──心配させちゃったね。」
カインが水路を覗き込んでいた体をゆっくりと起こして、苦く笑みを見せる。
そんなカインに、そうよ、とリィンは笑った。
その顔には、先ほどまでユリウスに見せていた険悪な色も──そうして、「あの時」……初めてベラヌールに訪れたときに起きた、あの最悪の出来事の時に見せた、蒼白な色も浮かんではいなかった。
「カインのアレを思い出して、ナイーブになってるわけじゃないのか。」
自分ですら、このベラヌールに再び来なくてはいけないと言うことになった時には──少しだけ、ためらいを覚えたのだ。
だから、実際に倒れ、意識を失い──生と死の境目を彷徨ったカインや、そんなカインのために必死で呪いを消す方法を捜し求めていたリィンは、さぞかしトラウマを持っていることだろう、と、思ったのだけれど。
「そうだねー、おかみさんの料理は美味しいんだけど、薬膳料理だけは、もうイヤかなー。」
リィンは微笑を浮かべて会話をしているし、カインはカインで能天気な感想を零しているし。
これは──、半年前、初めてベラヌールに来た時の悪夢のことは、二人の中でしっかりと消化したと言うことで間違いないだろう。
──なら、一体、何がリィンをあそこまで動揺させたと言うのだろうか?
「あら、それじゃ、今度カインが寝込んだら、私が作ってあげるわよ、精がつく料理。ベラヌールの名物の湖蛇の御粥なんてどうかしらね?」
「それ、ダメダメ。ぬるぬるしてて、生臭くて、ドロ臭かった。」
パタパタ、と手を振るカインに、そうなの? とリィンが顔を顰める。
そんな二人の会話を聞きながら、ユリウスはコリコリと頬を掻く。
まぁ、何だか良くわかんないけど。
機嫌直してくれたんなら、それでいっか、と。
わきあいあいと、ベラヌール産地の怪しい食材の話に花を咲かせる幼馴染二人を見て、ユリウスは優しげな笑みを浮かべると、ふぅ、と息を零した。
見上げた空は、美しい青色。
この空を越えた向こうに──ハーゴンが待っているけれど。
それでも。
大切な仲間と共に見上げる空は、いつも綺麗だと。
今日もそう思って──ユリウスは、明日から始まるだろう激戦を思い、フ、と不敵な笑みを口元に浮かべたのであった。
久しぶりにこの3人を書いたので、最初のユーリとリィンのかけあいが、上手くかけない……_| ̄|○i|||i
ちなみに、ユリウスの体力バカ的関係に対するリィンとカインの見解は、以下の通りです。
「アレが跡継ぎなんて──ローレシアの将来って、すごく心配だわ……。」
「大丈夫だよ、リン。」
「そうかしら? だって、いまだにあのバカ、薬草と毒消し草の区別もついてないのよ?」
「それは普通に心配だけど、ユーリはさ、国に帰ったら王子様でしょ?」
「それは、カインも同じじゃない。」
「うん、だからさ、国に戻ったら、薬草と毒消し草の区別なんてつかなくっても、専門の侍医が用意してくれるでしょ? だから、区別なんてつける必要はないじゃない?」
「それはそうかもしれないけど──、問題は、そういうことじゃないでしょ?」
「同じことだよ、リン。
王の知力が足りなくっても、それを補うために、宰相って言う役職があるんだから。」
「──……、あ、そっか。そうよね。
お父様は、宰相なんて持っていなかったから、うっかりしていたわ。
そうね、確かにユーリには、宰相がいるわね。」
「うん、宰相さんさえしっかりしてたら、何も問題はないと思うよ〜。
ほら、ユーリって、信頼を集めたりする人望とかは、すごくあるしね。」
「それは認めるわ。確かに──、真面目にしてさえ居たら、人望は集るわよね。
……この船だって、ユーリの功績が大きいし。」
「うんうん。
けど、その宰相さんをつけるなら、気をつけないといけないよねー。」
「──……あぁ、そうね、二心があるかどうか、でしょ?」
「そそ、下克上されちゃうと、困るしね〜。」
「そうね。それじゃ、ユーリが王になって、宰相を持つようになったら──私とカインで、しっかり審査しないとね!」
「面接官だね、僕たち!」
「ふふ、そうね。」