クラウド・ストライフの機密生活
──神羅カンパニー 治安維持部隊 陸軍 機密部隊「D」
そう呼ばれる部隊がある。
存在することは誰もが知っているが、その部隊が実際にどういう任務を受け、どのように遂行し──そして、どういった人物が所属しているかというのは、誰も知ることがない。
確実に存在し、数多くの機密ミッションをクリアしている実績だけは、データ上残っており──手がける任務は、ソルジャーやタークスが負うようなものから、一般事務員や民間警備兵や民間探偵が請け負うようなものまで……雑多に富んでいる。
一部では、神羅カンパニーが民間から請け負った仕事を割り当てられているとも言われており──その機密部隊に仕事を割り振った人間は、「D」というその部隊のことを、こう呼ぶ。
「あ、雑事処理班にまわしとくよ、コレ。」
そう──……雑務係り、と。
さて、ここに一人の少女が居る。
つばの広い帽子を被り、膝下丈のパンツを履いた、見た目は極上の美少女である。
ミュールを履いた足は、まぶしいくらいに白く、スラリとした腕を覆うコットンシャツは、彼女のしなやかな体を引き立てている。
帽子から零れた髪は金色。隣に立つ青年よりも少しだけ濃い色合いは、ハニーブロンド。──とおりすがる誰もが思わず振り返られずにはいられない髪からは、甘い花の香がした。
彼女は、隣に居る青年とぎこちなく腕を組み、恥ずかしそうに地面を睨みつけて歩いていた。
そんな彼女を見下ろす金髪の青年は、稀に見るほどに満面の微笑を浮かべて、とても演技だとは思えないほどの親切さと優しさと下心……いや、甘い声で彼女へと語りかける。
「ディア、疲れてないかい? もし良かったら、どこかでお茶でも飲もうか?」
立て続けに優しい声をかける青年は、本音を言えば、眼もくらむような美少女と腕を組むよりも、その華奢な腰に手を回したくて仕方がないはずだ。
小柄で小さな体を思いっきり良く自分の方へと引寄せて、自慢したい気満々だろう。
「──……っていうか、どう見ても、任務だってこと、忘れてるよねー……隣のヒト。」
「……だな。どう見ても、幸せ満面エロ顔だ。
あんなので、副社長を名乗るだなんて……詐欺容疑で訴えられても仕方がないと思うぞ。」
ちょっぴりぎこちないアツアツカップルの後ろを歩く二人組みの少女が、そんなことを呟いていたが、デレデレとやに下がる顔で美少女と腕を組んでいる青年は、全く気付く様子もない。
うぅん、いくらなんでも、尾行されていることに気付かれないのは、マズイと思いますよ、あのタークス。
「そう言えば、ホンモノって今日、本当は何してるの、カリア?」
黙って地面を見つめている美少女の我慢の限界まで、あとどれくらいだろうかと、暢気なことを思いながら──それでも「ディア」は、任務に忠実な真面目な性格だ。どれほど理不尽な扱いを受けようとも、任務、特別ボーナス、という呪文を唱えてなんとか乗り切ってくれるだろう──、クリスが首を傾げて見上げた先で、黒髪のショートカットの少女は、ん、と簡潔に返事を返してくれる。
「この雑誌によると。」
いいながら、肩からかけたトートバックの中から、今週の神羅タイムズを取り出して、
「副社長は今日、『彼女』と一緒に会食後、とある企業のパーティに参加することになっている──もちろん、『彼女』と一緒に。」
「へー……それじゃ、ディア、パーティに参加しちゃうの?」
そんなことは言って無かったけどなぁ、と呟きながら──というよりも、「ディア」は基本的に、スカートは履かない。なので、ドレスなんてもってのほか。
前回の任務だったカフェ潜入の任務だって、任務特別手当のほかに、カフェで支給されたアルバイト代金は自分の懐に入ると聞いて、はじめは「ディア」がやる気だったくせに──そのアルバイトのウェイトレス制服がスカートだと知った途端に、手の平を返してくれたから。
ある意味、「クラウド」のスカート嫌いは筋金入りだ。
小さい頃から村の人間に「女男」とバカにされ続けていたらしいので、クラウドのコンプレックスは、思った以上に相当のものだと言うことだろう。
「いや、クラウドの行動メモによると、影武者が必要なのは、パーティ会場に行くまでの時間だったから──多分、パーティ会場の手前でホンモノと入れ替わるんじゃないかな?」
そしておそらく、その「ホンモノ」は、どこかの空の上で本命彼女とデート中か、もしくはどこかのリゾートホテルの中で──以下略。
早い話が、反神羅の連中の眼をくらませるための影武者が、そこそこ目立つ通りで、上品にデートしていればいい。──副社長とその恋人が、「ここ」に居て、他のところに居ないのだという、アリバイ工作みたいなものなのだろう。
──多分。
「ふーん──……っていうかさ、普通に考えたら分かると思うんだけど、仮にも神羅の副社長が、こんな5番街とかで堂々とデートしないと思うんだけど。」
一般兵でなおかつ一般ピープルな自分たちには分からないが、五番街でラブラブデートなんてしているエリート社員なんて見たことがない。
そう首を傾げるクリスは、今までも何度か「任務」で、とあるライバル会社の専務だのとイヤイヤお付き合いデートまがいのことをしたことがあるため、その辺のことは少し詳しい。
確かあの時は、2番街でオペラを見てディナーを食べて、そのまま──そう、バーに連れ込まれて酒の中に睡眠薬を入れて、後はタークスに引き継いだんだったっけ。
──まぁさすがに、昼間からオペラはないだろうけど、観劇くらいはするんじゃないかな……上流階級の人は。
そう首を傾げるクリスに、カリアはヒョイと肩を竦めると、
「それはほら、設定が、『副社長のワガママで街中をデートする』らしいから。」
ぎこちなくくっつきあいながら歩く「一応恋人っぽく見える二人」を、顎でしゃくった。
影武者デートの経費として、余裕のあるギルを持たされている二人は、ショーウィンドウに見えるアクセサリや服などを見て──これがまた、クラウドがとてもつまらなそうな顔をしているのが、長い間同居生活をしている二人には分かったが、青年には分からないらしく、クラウドをホンモノの女性だと思っている彼は、ニコニコ笑いながら、「あれ、君に似合いそうだよ。買ってあげようか?」なんて言っている。
確かに似合いそうだとは思うけれど、さすがに、ピンクのフリフリが付いている上に、袖口がスロープになっている服なんてもの──買ってもらっても、どこへ着て行けというのだろう?
二人に手渡された経費で購入した「彼から彼女へのプレゼント」物は、すべてクラウドがもらってもいいことになっているらしいが──あんなの買ってもらっても、クラウドは決して嬉しくはないだろう。
その証拠に、なんとかそれでも演技していたクラウドの口元が、ひくひく、と引きつっているのが遠目に見て分かった。
「……ディア……可哀想………………。」
思わずポツリとつぶやかずには居られないクリスだった。
これなら、見ていてすごくつまらなくても、観劇や映画鑑賞、オペラやクラシック鑑賞などに行ったほうが、ずっとマシだろう。
たとえそのために、正装やイブニングドレスを着ることになろうとも!(ちなみにクラウドは、そのドレスや正装をするのがイヤだという理由で、そういう類の任務はすべてクリスとカリアに押し付けている)
「あのままだと、あの店に連れ込まれて、試着室で着せられそうだよね、スカート。」
五番街マップ、なんていう市民向けの雑誌を広げながら、ぽつりと呟くカリアに、本当だね、とクリスも同意を返す。
女装に慣れてきて、最近ではミニスカートを履くのすら抵抗がなくなってきた二人だったが──どうでもいいことだが、この事実に気付いたとき、二人揃ってひどくショックを受けたものである──、さすがに「あれ」は着たくない。
あれとウェディングドレスのどっちがいいかと本気で迫られたら、本気で悩んでしまうような類のものだ。
チャイナドレスだとかメイド服だとかああいうのは、女装に慣れても──ちょっと、遠慮したい気持ちが、残っている。
しかし、このまま行けば、クラウドは確実に「スカートはイヤ」から、一気に段取りを吹っ飛ばして、ロリータファッションを着込むことになる。
それはそれで、帰ってきた後のクラウドの落ち込みようが見物だと言えないでもないが。
「……どうする、何か助太刀でもするか?」
カリアが、回りに何かないかと視線を配らせながら、クリスに呟く。
視線の先で、若々しいカップルに見える二人が、ショーウィンドウの前で軽い押し問答をしている。
きっとクラウドが、本気でイヤがって、遠慮しますとかなんとか言っているのだろう。
「うーん──でも、このくらいのことで、僕たちが尾行してるのを勘付かれるのもなぁ……。」
多分、あのタークスの人、まだこっちには気づいてないみたいだし。
実力に差があるのは分かっている分だけ、切り札は大目に持っておきたい。
そう告げるクリスに、それも一理あるなとカリアは頷き、いつまでもラブラブカップル……ぽく見えなくもない二人に視線を注いでいては、副社長影武者にばれてしまうからと、お互いに笑いあいながら、ちょうど目の前に見えてきた公園に脚を進め、そこに出ていたアイスクリーム屋台へと向かうことにしたのであった。
──ま、口下手なクラウドが、どこまで遠慮と反対が出来るのか、見てみたい……なんて気持ちがなかったとは……言いきれない。
そんな風に、早々に同僚でありチームメイトである二人に見限られてしまったクラウドこと「ディア」はというと。
腕をとられたまま、まだショーウィンドウの前で、男の熱烈なくどきを受けていた。
近づく顔に、うう……と、顔をそらせつつ──いやいや、今、俺たちは恋人を演じてるんだから、こんなあからさまに青い顔をして逸らしちゃダメだと、そう自分に言い聞かせつつ──、ぐ、と顎を落として、
「あの──ルーさまv(そう呼べとマニュアルに書いてある)」
ちょっと可愛らしく語尾を跳ね上げて(この呼び方もマニュアルに書いてあった)、上目遣いにディアは彼を見上げた。
その視線の凶悪さたるや、こういうタイプは好みじゃないと思っている男でも落とせるほど愛らしいのではないかと思うほどだった──と、後にこっそり見ていた面々は語る。
しかし、ディアだけはそのことを自覚していない。
「なっ、なにかな、ディア?」
頬を赤らめて、慌てたように早口で言葉をつむぐ「副社長の影武者」の男を見上げながら、しまった、やりすぎたかな、とディアは心の中で小さく舌打ちした。
この仕草が自分をより一層子供っぽく見せることを、ディアは知っていた。
何せ、ディアがこの「上目遣い」をすると、大抵の大人たちは、顔を揺るめてディアの言うことを聞いてくれるからだ。
よほど母性本能や父性本能をくすぐられるらしい──と、ディアは理解している。
けれど、さすがに「恋人」にやる仕草ではなかったのだろう。しかも今のディアは、一応「副社長の恋人」なのだ。──あまりに子供っぽい仕草だったので、恋人は恥ずかしい思いをしてしまったのだろう。
だって、顔が赤い。
──ちょっと悪いことをしたかな、と思いながら、ディアは緩く首を傾げて、「副社長」を見上げると、
「お……わたし、服よりも甘いものが食べたいな。」
本人的には、必至に甘えた声で言ったつもりだが、普段の声と同様、あまり抑揚はない。抑揚はないのだけれども、恥ずかしいことを言っているという自覚があるため、声は小さく震えるようで──先ほどアイスを食べに行ったディアの「友人」2人がこの光景を見ていたら、副社長の影武者の青年の胸に、大きなキューピットの矢が刺さるのを見届ける事が出来ただろう。
ディアは、見上げた先で、男が耳元まで赤らめたまま、目をまん丸にして口を開けていた。──副社長はそんな顔をするのか、と冷静に思いながら、分からない程度に柳眉を潜めた。
──なんだ? 反応がない。
もしかして俺は、何か、とてつもないミスをしたのだろうか?
本当は、この店に入って服を見なくてはいけなかったのか? ──だがそれは、何が何でもイヤだ。
それに、うっかり「俺」といいそうになったのは、ちゃんと気づいて変えた。
女言葉で「ですわ」と言わなかったが、それほどおかしな言葉を使った記憶もない。
「──ルーさま?」
何か、俺はミスをしたのだろうか?
どうして目の前の男は動かないのだろうか?
そんな思いを込めて、ディアは少し上半身を傾けるようにして男の顔を覗きこむ。
少し背伸びをして──ミュールの踵が高い分、本来の身長よりも間近に男の顔が近づく。
これほど近づけば、ディアが犯したミスを、回りに感づかれないように小声で教えてもらえるだろう。──ディアは純粋にそう思って仕掛けたのだけれど。
「なにか……わたし、いけないことでも言いましたか?」
囁くようにひっそりと……私的にも公的にも聞こえるように、少しの憂いを乗せて問いかけるディアに。
「──……ぁ、い、いや……っ、な、なにも──! うん、何も言ってない。」
男は、たまらず──堪えきれないように、ズサッ、と背後に下がって、ブンブンと大きく頭を振った。
その彼の顔は首まで真っ赤に染まっていて──ディアは、何か自分は彼に羞恥を覚えさせるようなことか、もしくは怒らせるようなことをしたのだろうかと、わけのわからないまま首をかしげるしかなかった。
──同室の2人の少年のおかげで、故郷に居たときよりもずっと人付き合いになれてきたとは思っていたが……、やっぱり、良く……わからない。
まだ「任務開始」から2時間も経過していないのに、ドッと疲れたものが肩にのしかかるのを感じながら、ディアは小さく溜息を零すのであった。
そんなディアの様子を、近くの公園の屋台で購入したばかりのアイスを片手に見ていた同僚達が、必死で笑いを堪えて見ていた──と言うのは、また別の話である。
昼食も、オヤツも、デザートも──さすがに「副社長のデート」を模しているだけあって、入る店は予約が必要なところばかりで、味的には至極満足……到底一般兵では食べれないものばかり。
──と同時に、そういう店に入るということは、それなりにマナーにも気を使わなくてはいけないということがある。
慣れないソレに──しかも慣れてないにも関わらず、慣れた顔でしなくてはいけないということを何度も繰り返せば、ドッ、と疲れも来る。
ほとんど1日履いていたミュールに、そろそろ脚のふくらはぎも悲鳴をあげていた。
初めてミュールを履いたときは、一時間かそこらで脚が根を上げて、俺もまだまだ鍛え方が足りないんだと本気で思ったものだが──ミュールよりも高いヒールの靴を履いて、丸1日平気な顔をしている神羅ビルの女性達には、恐れ入る。
それでも、その足の痛みが痺れる前には、任務終了の時間がやってきた。
見上げた空は夕焼けの色を映し出す頃──、ディアは副社長の影武者と一緒に有名なホテルの前へとやってきた。
彼が手元の時計を覗き込めば、時刻はちょうど5時前。
ネオンが点けられたばかりのホテルの入り口には、ディアが任務依頼書で見たパーティの名前が書かれていて、間違いなくココが任務終了地点であることを示していた。
パーティの始まる時間は7時。
6時半を過ぎる頃には、出止まりする車で渋滞するのだろうが、それよりも早い時間に到着したディアたちは、すんなりとタクシーから降りることが出来た。
「ここに部屋を取ってある、ディア。」
男はごく当たり前のように車のドアを開き、ディアをエスコートしながら、ホテルの扉へと向かう。
ドアマンがその姿を確認して扉を開いてくれるのを横目で見やりながら、ディアは青年を見上げる。
「時間まで、そこでゆっくり過ごそう。」
青年は、見ているほうが思わずウットリとするような笑い方をして、ディアの髪の毛を一房手に取ると、それを口元に寄せて、そ、と口付けた。
途端、ディアの背中に言い知れない悪寒が走り、思わずビクビクッ、と背中を撓らせたが──根性で、振り払って投げ飛ばそうとしていた行為を飲み込み、驚いたように見張った顔を、不自然に感じない程度に困った顔に変えて、
「──でも、その……準備とかが、ある、……でしょう?」
「僕がそんなヘマをするとでも?
パーティが始まる時間まで二時間もある。──君はそこでゆっくり……僕のために綺麗になってくれ?」
ディアの腰を引き寄せ、覗き込んでくる瞳が、なぜか本気の色に染まっているのを認めて、ディアはかすかに引きつった顔で、こくり、と頷いて見せた。
それから、恥ずかしそうに顔を伏せるフリをしながら、苦虫を噛み潰すような顔になる。
──なりきってるよ……コイツ…………。
っていうか、副社長って言うのは、こういうクサイセリフを吐くのか? 俺、なんか鳥肌立ってきたんだけど。
出来れば、自分の腰を引き寄せながらフロントへと歩いていく男の腕をすり抜けて、鳥肌だった腕をさすりたい。
けれど、ホテルの部屋にたどり着くまでが任務だ。
そこに入れば、任務は終了。
後は誰にも見咎められないようにホテルの部屋から出ればいいだけだ。
とにかく影武者たる2人は、「朝から出発し、1日街中でデートを楽しんだ後、このホテルの部屋に入」ればいいのだから。
後は、パーティ開始時間に、副社長とその恋人が、何食わぬ顔でパーティに出るだけだ。
青年が慣れた様子でホテルのチェックインの手続きをするのを横眼に、ディアはフロアの中をグルリと見回した。
このホテルにこの時間に入ることを、カシルもクリスも知っているから、「クラウド」の着替えを持って、どこかに二人が待機してくれているはずだ。
任務が終ったあと、着替えてからどこかで軽く夕食を食べようと約束をしているし。
二人を探すように視線をめぐらせれば、すぐに遠目にも目立つ美少女のコンビを見つけた。
品のいいホテルのロビーの一角──ティーラウンジの前、ほっそりとした少女と、栗色の髪をお団子にして結んでいる2人組みの少女。
二人もすぐにディアが視線を向けているのに気付いたのか、一瞥を向けてくれる。そのついでに、黒髪の娘の方が、肩から提げたトートバックを軽く揺するのが見えた。
あの中に着替えが入っているから、任務が完了したらトイレで着替えよう──多分、そういう合図だ。
それにディアは回りに分からないように顎を落とすようにしてコクリと頷いて、カウンターでキーを受け取った青年と再び腕を組むようにして、エレベーターに向かった。
彼が手にしたホテルの鍵の番号は、四つの数字。
思わずディアは、苦虫を噛み潰したような顔になる。
この高層ホテルで4桁の数字と言うことはつまり、階数が10階以上ということだ。
しかも、チラリと見た3桁目の番号も、大きな数字だった気がする。
──つまり、最低でも、その分だけエレベーターに乗っていなくてはいけないわけだ。
……ぅう……俺、エレベーター、苦手なんだけどな…………。
乗り物酔いをする自分の体質に比例しているのか、「クラウド」は、エレベーターも苦手である。ついでに言えば、エスカレーターも少し苦手だ。さらに言えば、動く床なんて言語道断だ。
故郷の田舎では、そんなものは全く必要がなく、生まれてからずっと経験しなかったせいもあるが──あの浮遊感は、気分が悪くなるほどではないが、それでもクラリと眩暈を覚える。
男にエスコートされながらエレベーターの狭い箱の中に入り……そこで、ディアはそのホテルのエレベーターが、外が見える作りになっているのに気付いた。
神羅ビルの中にも、これと同じようなエレベーターがあるのだが、ディアはそれを利用したことがない。──厳密に言えば、利用するような階数まで上がったことがない。
ディアの腰を支えたまま、男が目的の階数のボタンを押すのを見ることもせず、ディアは自分たちの背中に広がるガラスと、その向こう側に見えるこちらに無関心な様子でホテルの前を通り過ぎていく人をものめずらしげに見つめた。
ガラスを一つ隔てただけで、なんだか別の世界のようだと、思わず手の平をそこへ向けて差し出した瞬間──、
フォン……。
「──……っ。」
ガラスの外がきしみ、たるんだ感覚。
かと思うと、グィン、と自分たちの足場が持ち上がり、みるみるうちに外の光景が下へと落ちていく。
それと共に、神羅ビル内で何度か体感した時と同じ眩暈を感じて、ディアはかすかに体を強張らせる。
「ディア? どうかしたのか?」
ディアの脚が揺れたのに気付いて、男が腰に回していた手に力を込めて、ぐい、と華奢な体を自分の方へと引寄せる。
体を覆う浮遊感と、目の前に見える景色がどんどん下へと下がっていく気持ち悪さに──箱の中に居るほうが気持ち悪いはずなのに、どうして景色を見ているほうが気持ち悪く感じるのだろうかと、心の中で悪態づきつつも、それでもクラクラとする頭はひどくなる一方だ。
思わず顔を伏せて、息を堪えるディアを、男はしっかりを抱き寄せる。
鼻先に彼が着ているスーツのザラリとした感触が当たり、男の手は腰の後ろからディアのしなやかな腹部あたりまで侵食してきていた。
点滅するエレベーターの回数を無表情に見上げながら、ディアはその手に自分の手を当てて、引き剥がそうとしながら──この手がしっかりと自分を抱きかかえているのも、悪寒がする原因だ──、あぁ……まだ、任務中だと、その手に力を込めるのは止めた。
代わりに、彼の体から少しでも頭を剥がそうとするように首を捻りながら、
「大丈夫です、ちょっと……エレベーターに、眩暈がして……。」
そう呟くと、自分で思った以上に参っているのか、声が掠れて聞き取りにくかった。
──これじゃ、大丈夫に聞えないかも。
……あぁ、でもいい。どうせもう少し我慢したら、任務終了だし。
そうしたら、こんな窮屈な服も靴も脱いで、気持ちの悪い化粧もすべて落として。
そうして、カシルやクリスたちと一緒に、今日食べた「マナーばかりが気になって味が分からない」料理よりも、ずっと美味しく感じるファーストフードでも食べるんだ。腹いっぱい。
そんなことを自分の楽しみにしながら、ディアは親の敵を睨むかのような眼で、少しずつ高さを増していくエレベーターの表示を睨みつけた。
そんなディアの──自分の胸元で揺れる金色の髪を見下ろした男が、高揚とした気持ちで、ゴクリと喉を鳴らしたことに、……強いては、自分の貞操の危機が密かに迫っていることに、ディアは全く、ぜんぜん、気付いてはいなかった。
その階には、部屋はたった三つしかなかった。
俗に言う、「スイートルーム」と言う奴だろうと検討をつけながら、クラウドは踵が埋もれそうなほど深い絨毯の毛に気をとられながら、必死で男の隣を歩く。
ホテルに入る前までは、ミュールを履いているために足取りが重い自分の歩幅に合わせてくれていたのに、なぜかエレベーターから降りた途端、彼は足が速くなった。
彼もきっと、クラウドと同様に、早く任務を終らせたくて仕方がないのだろう。
クラウドもまた、その気持ちに反対する心は無かったので、絨毯の反発に必死で抵抗しながら、男の後に小走りについていった。
クラウドが任務を一刻も早く終らせたいと思う気持ちと、男が任務を早く終らせたいと思う原動力は、だいぶすれ違っていたが、そのことにクラウドが気付くことはない。
男は、手元のキーの数字を素早く確認して、三つの部屋の一番奥──重厚な雰囲気の扉の前で足を止めた。
「ここ?」
確認するようにクラウドが見上げると、男はキーの番号を彼に見せて、プレートをコツンと手の甲で叩いた。
「間違いない。」
それから彼は、何か口にしようと唇を開きかけたが、まだ自分たちが任務中だと言うことを思い出して、キュ、と唇を結ぶと、少しでも早くと焦るようにカードキーを認証させる。
そうして、認証が終るのを待つ時間ももったいないというように、タッチパネルでドアを開くと、彼はクラウドの腰を押すようにして室内へとエスコートしてみせた。
ドアを潜り抜けると同時、シュン、と小さな音を立てて、背後でドアが閉まる音がした。
──これで、任務終了だ。
思わずクラウドは、ほぅ、と胸を撫で下ろして、長い任務がようやく終えたことを悟った。
たとえどれほどくだらない任務であっても、無事に終了したのは、とても嬉しい。──クラウド的には、まだ女装している最中なので、女装を解くまでは任務中みたいなものだが。
それでも、かすかに笑みを浮かべて、よかった、と頷いたクラウドは、隣に立つ男が未だに自分の腰に手を回しているのに気付いて、少し困惑したように眉を寄せた。
もう誰の目にさらされているわけでもないのだから、これは外してもいいと思うのだが──。
無理矢理色々詰め込んだ小さなポシェットを手に取りながら、
「あの──お……わたし、任務終了の報告の電話をしたいんですけど。」
固い感触を返すPHSを布の上から確認しながら、クラウドは、男の顔を見上げた。
その先──顎を逸らすようにして見上げた先で、男は、なぜか幸せそうな笑みを浮かべていた。
クラウドはその表情に、頭の中でハテナマークをたくさん飛ばす。
──なんだ? なんでこの人は、こんな嬉しそうな顔をしてるんだ? 任務が終ったからか? ……あぁ、そうか、任務が終って早く帰れるのが、嬉しいのか。
しかし、それは俺も同じことだ。
というか、任務が終って帰れるのが嬉しいなら、どうしてこの人は、未だに俺の腰を抱いてるんだろう?
少し考えれば、ホテルの部屋に「密室」状態で、「二人きり」で、しかも「任務は終ったあと」という、あまりにマズイ状況が揃っていることに気付いたはずだが、クラウドの頭の中には、そんな危機感は全くなかった。
自分が女顔であることを自覚しているくせに、思わず見入るほどの美貌の主だという自覚は、全くないからである。
首を傾げて見上げた先で、タークスの男は、クラウドの腰に回していた手にかすかに力を込めて、もう片手で少年の頬に手を当てる。
とたん、クラウドの背筋にゾゾゾと鳥肌が立った。
「ディア。」
優しく呼びかける男に、クラウドは唇を一文字に結び、なんとか悲鳴をあげるのを堪えると、
「ななな、なんですか?」
ジリリ、と顔を後ろに逸らす。
そんなクラウドの下がる腰を強引に引寄せて、彼は上半身をかがめると、
「今日は一日、疲れただろう? 少し休んでから──そうだな、ルームサービスでもどうかな?」
「え、いや──お、わたし、友達と夕食食べに行く約束がありますし……っていうかあの、手を離してくれないと、報告が……。」
なぜ、こんな部屋の入り口で、こんな押し問答をしなくてはいけないのだろう?
いぶかしげに目を眇めるクラウドに、男はクラウドの頬に当てた手をそのまま滑らし、先ほどホテルの入り口でやったときのように彼の髪を手に取ると、そこへ口付けようというかのように顔を伏せて──、
「あっ、の──……っ。」
任務は完了したはずなのに、さすがにこれ以上の戯れには付き合えないとばかりに、クラウドは慌てて彼の腕の中から身を翻そうとした──その刹那。
「し……静かに。」
その耳元に、囁くように男が呟く。
「──……ぇ?」
その声が、先ほどまでと違ってひどく真剣みを帯びているのに気付いて、大きな瞳を瞬かせてクラウドが視線をあげれば、男が自分を見下ろしていたときとは違う──真摯な面差しで、目を据わらせていた。
一瞬で表情が変わるその光景を、クラウドも見たことがあった。
そして、それが意味することも。
とっさに、ポシェットの中に隠してあった短銃の固さを確認しながら、クラウドは目を自分に留めたままで奥の気配を探る男と同じように、ホテルの奥──入り口からはもう一つ扉を隔てて見えない「スイートルーム」の方へと意識を向ける。
この部屋は、自分と男が「任務完了」させるために用意された部屋で──パーティの後にホンモノの副社長と恋人が使う予定にはなっているが、それまでは誰も近づかないはずの部屋。
にも関わらず──、
「一人……いや、二人か?」
鋭い眼差しで、男が囁くように呟く。
けれど、まだそこまで熟練しているわけではないクラウドは、人の気配があるということしか分からなくて──顔を伏せる。
少し、悔しい。
そうだ──本来なら、部屋に来たからといって安心するのではなく、彼のように中にも気を配らなくてはいけなかったのだ。
そう──この部屋を副社長と彼女が使うことが分かっているのなら、中へ入って、盗聴器や怪しいものの類がないかどうかも確認する。……そこまでして、初めて任務完了なのではないか?
その事実に行き当たり──同時に、遅すぎる認識に、クラウドは内心で臍を噛む。
そんなクラウドの、悔しそうでありながら愛らしい顔を見下ろして、男は大丈夫だというように彼の腰を抱えなおすと──しかし、なぜそこで腰を抱えなおして自分を更に引寄せる必要があるのだと、クラウドは心の中で首を傾げる。
「ゆっくり──俺の少し後ろからついてきて。」
ちゅ、と、軽く音を立ててクラウドの髪に口付けると、彼はそのまま──まるでホンモノの恋人を守るような仕草で、クラウドを引寄せながら、部屋と入り口を隔てるドアへと近づく。
クラウドは、そんな彼を尊敬するような、気持ち悪がるような、微妙な顔つきで見上げながら、こっそりと片手でキスされた髪をパッパッ、と払ってみた。
男が向こうの気配を探るように──クラウドの腰を支える手とは逆の手が、拳銃の位置を確認するようにスーツの中へと差し込まれるのを見ながら、クラウドもまた、ポシェットの中に手を入れた。
それをチラリと横目で確認しながら、
「大丈夫だ。何かあっても、ディアは俺が守るから。」
男は自信たっぷりに微笑み、演技ではない愛しげな視線をクラウドに注いでくるが、クラウドはそれに全く気付かない様子で、大丈夫、と唇だけで囁き返す。
「自分の身は自分で守れます。」
そんなクラウドを、男は少し驚いたように──けれどすぐに、甘い笑みを浮かべて、そ、と微笑むと、
「……あけるぞ。」
囁きかけてくる。
そんな彼に、ええ、と頷いたクラウドの言葉を待たず、部屋を隔てる扉がシュンッ、と軽い音を立てて開かれ──……、
「随分遅かったじゃないか。」
豪奢なシャンデリアが飾られているスイートルームの、ふかふかのソファの上に、青年が一人、ふんぞり返っていた。
手にしていた短銃の矛先を向けるのを、クラウドが一瞬ためらった間に、タークスの男はすぐさま視線を走らせ、現状を認識したらしい。
慌てたように銃を仕舞いこみ、ピシリと敬礼をする。
「申し訳ありません、ルーファウスさま。」
「……るー……ふぁう、す?」
その素早い対応に乗り遅れたクラウドは、手にした銃をそのまま床に向けて降ろした体制のまま、呆然と青い瞳を見張った。
目の前には、見たことがないほどゴージャスなリビングルーム。
これがホテルの中とは思えないほどの見事な室内に、当然のように治まる人影が、二つ。
一つは、二人が部屋に入った途端に、かすかな苛立ちを込めて呟いた青年──三人掛けのソファの中央に腰掛け、少し顎をあげてこちらを見下すような冷たい視線を向けている……「ルーファウス・神羅」。
白い額に乱れた金色の前髪を乗せて、彼は、ス、と目を細めて、飛び込んできた「自分の影武者」を上から下まで見定める。
同じ色に染められた髪、コンタクトで色をつけた瞳、そして、タークスの誇る技術で似せられた「顔」──まぁ、遠目にみれば、鏡を見ているようだと思うかもしれない。
その作品を認めて、ふん、と鼻を一つ鳴らしたルーファウスは、そのまま視線を横にあて──ほぅ、と片眉をあげた。
驚いたように零れそうな瞳を見開いている少女……柔らかそうなハニーブロンドの髪に、透き通るような肌理の細かな白い肌。パッチリと大きな瞳は湖の青。その造作は幼さを隠せないながらも、形良く整っており、先ほどまで一緒に居た女性の影武者など、もったないくらいの美少女だ。
愉悦に自分の目元が緩むのを感じながら、ルーファウスは彼女を満足げに見つめてから、己の背後に立つ男へと一瞥をくれる。
「ツォン、彼女ならかまわない。」
合格だ。
傲慢にそう告げる主に、ルーファウスの背後にひっそりと立っていた男──黒いスーツに身を包んだ「もう一つの人影」であるところのツォンは、は、と短く答えて、入り口に立つ二人へと視線をやった。
まずは、自分の部下でもあるタークスの男へのねぎらいと任務終了の言葉を。
彼はそれに答え、頭を下げて──それから、困惑した表情を浮かべている隣の美少女を見下ろした。
同じくツォンも彼女へと視線を向けると、少女はその時には我を取り戻し、手にしていた銃をポシェットの中に戻して、敬礼を取っていた。
その慣れた敬礼の仕草に、見た目は蝶よ花よと育てられた令嬢のようだが、やはり兵士であるというのは本当らしいと、ツォンは認識を改める。
その彼女にもねぎらいの言葉をかけると、少女は儀礼にのっとった報告を述べ、タークスの男と共に、ルーファウスかツォンが退出の声をかけるのを待つ。
けれど、そんな二人へ向けてツォンが退出を命じたのは、タークスの男にだけであった。
驚いて、自分と少女を見比べる男に、もう一度ツォンは退出を命じる。
男はそれでも未練を残したように隣に立つ娘を一瞥したが、これ以上ここに居るわけには行かないことを察して、踵を返して出て行く。
それを見送って、少女は少し不安そうな表情を浮かべる。
ホテルの部屋に到着したら任務完了──そこに、副社長達が居たからと言って、特に驚くことはない。
PHSでの報告義務がなくなっただけだと、そう思っていたところに、片方だけの退出命令。
「──……?」
これは一体、どういうことなのだろうかと……いぶかしげな視線を向ける少女──「ディア」に向かって、ツォンは後ろ手を組んだまま、向き直ると、
「ディア、あなたには新しい任務が下ります。」
「……お……わたしに、ですか?」
静かに告げるツォンの言葉に、彼女は驚いたように目を見張る。
そのあどけない──見た目の年齢よりも幼く見える顔に向かって、ツォンは少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せると、
「緊急で申し訳ないのですが──これより2時間後に行われるパーティに、ルーファウスさまのパートナーとして、出席していただきます。」
申し訳ないという思いを全く感じさせない口調で、朗々と任務を謳いあげた。
──クラウド・ストライフ、14歳。
女装しなくてはいけないのは我慢するけれど、スカートだけはイヤだと駄々をこね続けてンヶ月。
とうとう年貢の納め時が来たのはいいのだが──、初のスカートはどうやら、パーティドレスになるようである。
+++ BACK +++
また続く(←おいおい)。
えー……みなさま、お話にはついてこれてるでしょうか?(笑)
……え、何? もう着いていけない? アハハハハハハハハ(笑ってごまかす)。