「なんだい、クラウド? まだあんたは寝てないのかい? ──え、何? お話をしてくれって?
 まったくしょうがないねぇ……とは言っても、あんた、灰かぶり姫とかスノーホワイトとか嫌いだろ? 何にしようかね……あぁ、そうだ、どうせならニブルヘイムの話にしようか。
 ニブルヘイムの北のはずれにある、大きなお屋敷──そう、神羅屋敷。
 あそこにはね、クラウド、あんたが生まれる……うーんと、そうだね、5年前かね? あたしが14の時に、いなくなったから。
 うん、だからね、あの屋敷に、最後に人が住んでいたのは、今からもう8年も前ってことさ。
 10年以上前には、ちゃーんと人もたくさん居たんだけど、なんかでっかい夫婦喧嘩があったらしくってねぇ。
 そのお嫁さんがね、甲斐性なしの紐にも棒にも引っ掛からないような旦那さんに、小さな赤ん坊を残して、実家に帰っちゃったんだよ。
 は? 実家がどこだって? おかしなことを気にする子だね、あんたも。
 実家って言ったら実家だよ──あぁ、そう、白衣の変な人……医者かね? が言ってたのは、ミッドガルだったかね? まぁいいよ、そんなことは関係ないさ。結局、赤ん坊は嫁さんに引き取られて、だんなもいなくなっちゃったんだしね。
 それでね、その後、奥さんについて来ていたらしい使用人もいなくなって──あの大きな神羅屋敷には、父親と赤ん坊しかいなくなっちゃったんだよ。」







「嫁に逃げられた男」

















 獣脂が燃える独特の匂いが立ち込める粗末な家の中。
 二階建ての部屋の一階は、ダイニングとリビングが一つになった板間で──その中央に位置する古びた木のテーブルに一組の男女が座っていた。
 分厚いカーテンが敷かれた窓の外は暗闇──北方に位置するニブルヘイムでは、夜になると夏でも上着が必要なくらい温度が下がる。
 だから、夏でも窓は閉まっていて、カーテンもぴっちりと洗濯バサミで止められていた。
 先ほどまで火がくべられていた竈は、今はシンと静まり返り、煤がかすかに残る壁の前には、使われたばかりの鍋が、ホカホカと薄い湯気を立てていた。
 それを一瞥した後、彼女は退屈そうに足をブラブラと揺らしながら、テーブルの真向かいに座る男を見上げた。
 夜の闇に浮き立つ不健康そうな白い肌と、伸び放題の黒い髪──残バラに伸びたソレが、肩口で揺れている。
 その肩が強張っているのを認めて、彼女は頬杖を付いたまま、はぁ、と溜息を一つ零す。
 そんなあからさまな溜息にすら気づかない様子で、目の前の男は、端正な眉間に深い皺を寄せて、恐いくらいの眼差しで自分が抱えている「物体」を見下ろしていた。
 裏地が赤く、表地が黒いソレは、つい先ほどまで男が身につけていたマントだ。
 この家を訪問した直後、目の前の金髪の美少女によって剥ぎ取られ、彼が抱えている物体を包み込むのに使われたブツである。
 そのかさばるマントに包まれた中には、白い──男のソレよりもさらに青白い肌を持つ、赤ん坊がいた。
 先ほどまでギャンギャン鳴いていた名残のように、頬や鼻、瞼をプックリと火照らせて──今は、小さなもみじのような手で、必至に口に咥えた哺乳瓶を掴んでいる。たとえ添えているようにしか見えなくても、赤ん坊本人は掴んでいるつもりなのだろう。
 ようやく与えられた──実に3日ぶりくらいの「食事」を、最後まで逃すつもりがないのは、確かである。
 その小さな──成人した男から見れば、小さすぎるほど小さな赤ん坊を、ぎこちなく抱きながら、哺乳瓶を与えている男は、ただ真剣に赤ん坊を見下ろしていた。
 その視線が、近所のガキどもからすれば「恐い」の一言に尽きることを、彼は知らなかった──無自覚だった。
 ゴキュゴキュと飲む赤ん坊の勢いは凄く、その吸引力を示すように、あっと言う間に半分ほどに中身が減った哺乳瓶はしかし、残り半分ほどに泡が大きく立っていた。
 その泡を見据えながら……同時に、赤ん坊が飲み下していく角度に合わせて哺乳瓶を傾けようともしない男に、金髪の美少女は、もう一度たっぷりと溜息を吐き捨てると、頬杖を付いたまま、男を見上げた。
「……ヴィンセント? 前から思ってたんだけどね。」
 小首を傾げると、ゆるくウェーブのかかった金髪が、サラリと肩口から零れる。
 部屋の中を隅々まで照らし出すほど大きくはないランプの明かりを反射して、彼女の豪奢な金の髪はもう一つの光源であるかのように、キラキラと輝いた。
 ミッドガルでは対して珍しくもない色の髪だが、この北の辺境とも言える「ニブルヘイム」では、非常に珍しい色の髪だ。というより、彼女以外にはいない。
 聞くところによると、父譲りの髪の色らしいが──この家の住民は彼女と彼女の母しかおらず、そのくだんの金髪の「父親」には会った事はない。
 父親の話になると、途端に口をつむぐ母子の微妙な表情から、特に興味があったわけではないヴィンセントは、それ以上を聞くことは決してなかった。
 そのせいか、はたまた赤ん坊を任せるには余りにも頼りにならない若造のせいか、この家の母子は、ヴィンセントがやってくると、何も言わず中に招き入れてくれた。
──神羅の人間を……それも若い男である自分を、女しかいない家に招き入れるのが、ほかの村人から疎遠にされる原因になると、分かっていながら。
「今、あのお屋敷って、あんた1人だけじゃない?」
 少しだけ突き放したようなぶっきらぼうな口調で、少女は真剣な顔で赤ん坊のミルクを睨みつけている男を見上げる。
 初めて会った時には、都会の男はなんて垢抜けていて素敵なのだろうと思っていたが──今は、そんなこと、チリとも思ってやらない。
「──……いや、一週間に一度は、カンパニーの人間がやってくる。」
 真剣に、泡だらけになっていく哺乳瓶を睨みつけながら答える男の眦が、かすかに険しい色を宿すのを認めて──なんでこんなに鉄仮面の無表情男の表情が見分けられるくらいに、一緒に居る時間ができてるんだと、内心苦く思いながら、少女は唇を歪める。
「それ以外は、ヴィンセント、セフィロスとずーっと2人っきりなわけでしょ?」
「あと、宝条が放ったモンスターが……。」
 ごぽごぽっ、と哺乳瓶が音を立て始めて、ヴィンセントに抱かれた赤ん坊が、ギュゥ、と頬の辺りに力を込めるのが分かった。
 哺乳瓶の中のミルクは残り少なく、それに反比例するように泡が大きく体積を占めていた。
「モンスターがセフィロスのおしめ変えてくれたり、セフィロスのミルク作ってくれたり、セフィロスがおかしなものを口にしたときに叱ってくれるの?」
「そ、れはしないだろう、さすがに。」
 驚いたようにパチリと目を瞬き、見上げてくる彼の瞳の色は赤。
 その血のような色を恐れて、ニブルヘイムの一部の人間は、「あの屋敷で、神羅は吸血鬼を飼っている」と噂する。
 少女に言わせてもらえば、こんな男が吸血鬼だなんて、腹で茶が沸かせるくらいに面白い冗談だ。
 赤ん坊1人世話も出来ずに、おしめの変え方もミルクの作り方も──それどころか、赤ん坊をあやすことすら出来ずに、途方にくれて反省するばかりの「生活無能力者」。
 それが、目の前で赤ん坊を抱きながらミルクをやっている男──神羅カンパニーの社員であるらしい「ヴィンセント・ヴァレンタイン」に対する、この家の母子の評価であった。
 そもそも、いくら真夏だとはいえど、夜には気温が10℃になるニブルヘイムで、「すまないが、ミルクを分けてくれないか」とやってきたヴィンセントが抱えていた赤ん坊──セフィロスは、オムツしか身につけていなかったのだ。はっきり言って、「父親失格」の烙印を額に押したいところだ。
 今度、暇なときに芋で「父親失格」と掘って、焼いた後に額に押し付けてやろうかと、彼女は凶暴な気持ちで思う。
 泣いているときは可愛らしくない赤ん坊だが、面差しがとても愛らしいセフィロスは、眠っているときは頬刷りして抱きしめたくなるほど可愛いのだ。
 その可愛い赤ん坊を、10℃の気温の中、オムツ一枚はかせただけで──しかも、ミルクが切れたから三日ほど断食させているとか言う、バカみたいなことまで口にして……あぁ、もう、考えただけでちゃぶ台をひっくり返したくなる。
「だが──ファニーたちは、時々、セフィロスと遊んでくれてはいるらしい……セフィロスがブンブン振り回して上機嫌に笑っていることがある。」
 その、すっとぼけた「父親」は、必死でミルクを飲んでいるセフィロスを見下ろしながら、淡々と語ってくれた。
「あら、そうなんだ? たまにはあのてるてるぼうずも役に立つのね。
 ──ってそうじゃなくって。」
 ごぽごぽごぽ、と激しい音を立て始める哺乳瓶に気づいて、少女はカタンと椅子を立った。
 テーブルを挟んだこちら側にいる彼女ですら気づいているというのに、ヴィンセントは全く気づいてはいないようだった。
 彼の腕の中の赤ん坊は──闇夜に浮き立つような白い肌と、まだ生まれて数ヶ月しか経っていないのに、将来美人になることが間違いないだろうと思わせる整った顔を、真っ赤に染めて、必至に哺乳瓶に残る液体を全て飲み込もうとしているようだった。
 小さな両手でしっかりと哺乳瓶を抱え込む姿は、愛らしくもあり──同時に、滑稽でもあった。
 少女はそんな赤ん坊を覗き込みながら、
「もう一本作ったほうがいいわね。」
「なにをだ?」
「──……さっさと哺乳瓶外してやらないと、窒息するわよ、セフィロス。」
 これほど分かっていない「父親」は、困ったものだと、少女はヒョイと肩を竦めて──母親は、赤ん坊がかわいくないのかしらと眉を寄せた。
 こんな生活無能力者の父親に子供を預けていなくなるなんて──少女達母子の間では、そう決まっていた。きっと、こんな辺境のニブルヘイムに左遷された夫(ヴィンセントのこと)に着いてきたのはいいが、ミッドガルの都会の生活になれた妻には耐え切れず、育児ノイローゼになって、ミッドガルに帰っていったのだろう、と。──、この子の将来が、とっても不安。
 しかも、このニブルヘイムは他者を排斥する風習があるから、たとえヴィンセントがこの左遷された場所で一生を送ることになったとしても、子供もヴィンセントも、住民達に笑顔を向けられることはないだろう。
 ──自分と母のように。
 それでも、彼女と彼女の母親は、人付き合いが上手かったし、何よりも造作が整っていた。男の造作が整っているのに比べたら、美女で人当たりが良くて気さくな性格というのは、利点だ。
 この村に──踏み込めない一線を感じることは良くあるが、それでも上手くなじめていると思う。
 けど、目の前のこの青年は、ダメだ。
 少女は溜息を零しながら、今朝絞ったばかりのミルクを鍋に注ぎ込み、マッチで火を起こす。
 そのまま竈に鍋をかけながら、チラリと背後を振り返ると、両手をバタバタさせている赤ん坊を抱えた男が、困惑気な眼差しをこちらに向けていた。
「……ヴィンセントに育てられたら、絶対、セフィロスは無口になるわ……。」
 思わずポツリとつぶやいてしまう言葉に真実味を感じて、ヤレヤレと彼女は溜息を零して、鍋の中のミルクをクルリと回転させた。
「それでね、ヴィンセント。さっきの話なんだけど。」
「さっき? セフィロスの遊び相手の話か?」
 空になった哺乳瓶をセフィロスの手から取り上げながら、ヴィンセントは首をかしげる。
 その哺乳瓶めがけて、セフィロスが手をブンブンと振るのを見下ろして、彼は手にした泡だらけの瓶を見て、セフィロスを見て──そして、それをふたたび、そ、とセフィロスの小さな手に握らせようとしたところで……、
「哺乳瓶は洗って新しいミルク入れるから、とっとと寄越せっ!」
 イライラを隠しきれない少女の怒鳴り声に、慌てて立ち上がり、彼女の手に哺乳瓶を渡した。
 娘は素早く水の中で哺乳瓶を洗い流すと、フツフツと煮立ってきた牛乳を注ぎ込む。
 そのまま蓋をして、シャコシャコ振りながら水につけてミルクを冷まし始める。
 これをヴィンセントにやらせると、牛乳に膜は作るわ、拭き零すわ、ミルクを零すわ、熱いまま飲ませようとするわ、冷まそうとして牛乳の中に水を入れようとするわ、ブリザド唱えるわ──任せられないのが現状だ。
「──……すまん。」
 何から何まで世話になっている自覚のあるヴィンセントは、自分の半分ほどしかない背丈の──さらに言うなら、年齢も半分ほどしかない少女のつむじを見下ろして、腕の中でミルクを寄越せと服を引っ張るセフィロスに視線を落とす。
 生まれたときはサル以外の何者にも見えなかったセフィロスだが、生まれて少しの間、彼の本当の父親の手によって色々検査にかけられているうちに、随分人間らしくなっていた。
 病的なほどの白い素肌と、色素の抜けた銀色の髪。
 眼を開いたときには、その見事な翡翠色に、宝条は歓喜の声を漏らしていた──もっとも彼が歓喜をあげた理由は、そのすばらしい瞳の色ではなく、瞳の中に、魔晄を見出したからに他ならない。
 後は、そのまま魔晄の浸った液体カプセルの中で成熟を見守りながら数値を取っていたのだが……まだ生まれたばかりの赤ん坊に過ぎないセフィロスにはそれが成長の妨げにしかならないことが分かり、彼は「ある程度の肉体強度」を持つまで、成長を待つことになった。
 そしてその間──つまり、成長するまでの間、セフィロスを育てる対象として任命されたのが、ヴィンセントだった。
 もちろん、結婚したこともなければ、子育ての経験もないヴィンセントである。彼は、タークス主任であって、子育て主任ではない。
 しかし、小さな赤子を連れて長い距離を移動できないことや、計画の最初から参加している形になってしまっている上、ニブルヘイムにも慣れている(だろう)ヴィンセントに、その役割が当たるのも仕方がないことだった。何よりも彼は、セフィロスの母であるルクレツィアのことを愛していた──彼女が生んだ子供を、邪険にするような男では決してないことを、宝条は見抜いていたのである。
 そんなこんなの果てに、ヴィンセントは、あれから数ヶ月……子育ての経験も、子育ての本も何もない状況の中、それでも必死にセフィロスと向かい合ってきたつもりではあった。
 あったのだが──結局、数ヶ月たった今でも、この村で唯一ヴィンセントが会話をすることが出来た娘……目の前で牛乳を冷ましている彼女とその母に頼るハメになっているのである。
 そのことを、一応自分なりに後悔しているヴィンセントの、低い声での謝罪に──シャコシャコと哺乳瓶を振っていた娘は、一瞬動きを止めた後……ふぅ、と溜息を零した。
「別に、謝って欲しいわけじゃないよ。
 そうじゃなくって……あのさ──あんた、使用人雇う気、ない?」
「……しようにん?」
「そう。」
 言いながら彼女は、哺乳瓶を自分の頬に当てて──ん、これくらいかな、と呟いた後、ミルクを軽く押し出して、自分の指先に乗せてもう一度確認してから、ヴィンセントに向かってそれを放り投げた。
 綺麗な軌跡を描いて飛んでくる哺乳瓶をヴィンセントが受け取ると同時、きらーん、と眼を輝かせたセフィロスが、両手を突っぱねるようにして哺乳瓶を掻っ攫う……かと思うや否や、ゴキュゴキュとものすごい勢いでそれを飲み始めた。
 よほど腹が減っているようである。
「ベビーシッター兼掃除婦兼食事係り。
 今なら格安。」
 言いながら彼女は、ヒラリと指先を回せて、自分の胸元に当てる。
 その行為はつまり──自分を雇わないかと言っているに他ならない。
 母一人、子一人の彼女は、普段から村の人の仕事を手伝ってお小遣い程度のものを貰っているのは知っていた。そのお金を貯めて、将来、このニブルヘイムを出て行くつもりなのも。
 だから彼女は、神羅屋敷と呼ばれて敬遠されている屋敷に、興味本位で近づくことすらしたのだから。──そこに、ニブルヘイム以外の外の情報があるに違いないと信じて。
 そうして、「保育器」と呼ばれる魔晄液のカプセルの中から取り出されたばかりのセフィロスを前に、どうしたらいいのか悩むヴィンセントと出会ったのだ。
 とは言っても、実を言うとヴィンセントは、彼女との最初の出会いをあまり覚えてはいなかった。
 目の前でただひたすらに泣き続ける赤ん坊を前に、どうしたらいいのか思案している最中──突然、明かりも乏しい薄闇の部屋の中に、明るい太陽の光が舞い込んできたという印象だけしか覚えていない。
 まともな手入れもしていないはずの太陽の色の髪は、なぜか日差しの下よりも、濃厚な闇の色のほうが良く似合っていた。初めてその髪を見たときは、闇を照らし出す太陽神の髪のようだと思ったものだ。
 その輝きに、泣いていたセフィロスですら、驚いたように泣き止んでいたような気がする。
 そして気付けば、彼女はごく当たり前のように彼の隣にいて、彼が途方にくれながら抱えていた赤ん坊を抱き上げて、首も座っていない赤ん坊相手に「高い高い」と言って放り投げていたのだ。
──そして、今に至る。
「──いやだが、そんなものを雇っても、仕事がないだろう?」
「……あんた、本気で言ってるの?
 セフィロスのベビー服すら用意できなくって、長い間裸で放置してたり、オムツが何なのか分からなくて、セフィロスの尻の下に紙敷いてただけにしてた挙句、かぶれさせまくった分際で!
 赤ん坊にはアレルギーがダメだって言うのに、埃だらけの虫だらけのモンスターだらけの屋敷の中を放置して!
 なおかつ、自分の飯まで庭に生えたキノコで済ませてるような生活してるくせに!!」
「──……それが何か悪かっただろか?」
「悪いわよ! 一年くらい前にあんたを遠目に見たときは、スーツをビシっと着こなしてて、格好よくって、都会の男はステキだわー、私もあんな人を旦那に貰いたい、だから都会に行ってみせる! とか思ってた気持ちが、一瞬で冷めたわよ、ほんとに!」
 というか、アレを見て冷めなかったら、乙女じゃないだろう。
 思わずググッと握りこぶしをして力説した娘であったが、ぜぃはぁと息を大きく吐いた後、ふと我に返り、
「って、そうじゃなくって……、早い話が、私を雇わないかってことよ。
 神羅のお偉いさんか何かしらないけど、そんな人が居たときは、その人がちゃんとご飯の世話とかしてくれたんでしょ? でも今は、誰も居ない。──なら、別に誰かを雇えばいいんじゃないかってこと。」
 ヒラヒラと、手の平をふりながら、どうでもいいことのように続ける。
 その態度の代わり具合についていけない様子で、ヴィンセントは眼を丸くさせた後、少し考えるように首をかしげた。
 確か──セフィロスが生まれる前は、ルクレツィアや彼女の身の回りの世話をするためにいた女達が、色々してくれていたような覚えがある。
 当時はそのことを意識してはいなかったが、彼女達はルクレツィアのために美味しい食事を作り、快適な空間を用意していたことだろう──生まれる子供がどのようなものかはわからないが、子供にとってもいい空間であるように。
 けれどセフィロスが生まれた瞬間……それは、すべて変化したはずだ。
 ルクレツィアは出産のあまりのショックに、発狂した。何を見たのかは分からない。けれど彼女は出産の最中、人ではないものに何の言葉か分からないもので話し掛け、叫び続けた。宝条はそれをすべて記憶させるようにテープレコーダーを回していた。
 それから、セフィロスが生まれてからは、誰も彼もが研究室に閉じこもり、ルクレツィアは──……。
「────………………。」
 ずん、と、一気に重くなるヴィンセントの表情が、苦悶の色に染まる。
 娘はそんな彼を見て──こり、と頬を掻いた。
 まったくもって、扱いにくい男だ。
 こんな男と縁を持ってしまったのは自分だが、はっきり言って、持ってしまったことを後悔してしている。
「いや──……雇うわけには、いかん。」
 ヴィンセントは、自分の腕の中で必死にミルクを飲み下している赤ん坊を見下ろし、ぽつり、と呟いた。
 ──そうだ、誰かを雇い、あの屋敷に入れるわけにはいかない。
 それくらいならカンパニーに書簡を出して、研究員の誰かを従士扱いで派遣させなければいけない。
 あの屋敷には、色々な機密が封印されているのだから。
 セフィロスの出生のこと、古代種のこと、そして──……魔晄炉にいる「あれ」のこと。
「なら、早いこと赤ん坊の扱い方くらい覚えなさい──ほら、ヴィンセント、あんたまた手が違う。」
 呆れたように隣から手が伸びてきて、彼女の手に促されるままにセフィロスを抱えなおさせられる。
 そうすると、先ほどまでかかっていた腕の負荷が柔らいだ気がして、ヴィンセントは軽くなった重みに、なんだか居心地の悪さを感じた。
 けれど抱かれていた赤ん坊の方は、先ほどよりも居心地が良くなったのか、ますます勢いを増してミルクを飲み干していく。──三本目も行きそうな勢いだ。
「せめて、ちゃんとミルクを作って、おしめ替えて、体を洗ってやるくらいのことは出来るようになりなさいよね。」
「──……努力する。」
「もっと努力して。何ヶ月その台詞を繰り返してると思ってるの。」
 その言葉は言い換えれば、一体、何日に一回の確率で、セフィロスの体を洗ってやってくれと、この家に来ているんだという台詞につながる。
 ますます体を縮めるヴィンセントに向かって、彼女は小さな胸を張って、しっかりしなさいよ、と零した。
「あんたがしっかりしなかったら、セフィロスは、大きくなれないんだから。
 生きることができないんだから。」
「──………………。」
 偉そうに講釈ぶる幼い娘の言い分を聞きながら、ヴィンセントは腕の中の温もりを見下ろす。
 けれど、と──思わないでもないのだ。
 もしかしたら、と。

──この子にとったら本当は、このまま死なせてやるほうが、ずっと幸せなのかもしれないのだ。

 手の中の赤ん坊は暖かく、必死に生きるためにミルクを飲み込んでいた。
 白いスベスベの頬も、月の光をつむいだような銀色の髪も。
 ぷっくりと柔らかそうな口も手も。
 まだ幼い子供のソレは、庇護を求めている。
 逆を言えば、庇護さえしなかったら、この子は生を終えることができる。──何も知らないまま。
 それは、一種の誘惑にも似ていた。
 罪は、犯される前に閉ざすことも大切なのではないのか、と。
 そう──チラリと思うのに。
「あら──やだ、飲んでるうちに寝ちゃったみたい。」
 腕の中で、フイに動かなくなった赤ん坊に気付いて、少女が手を伸ばしてくる。
 ヴィンセントの手に比べて、一回りも二回りも小さい娘の手の平は、哺乳瓶に添えられているセフィロスの手から、そ、とミルクを抜き取る。そのセフィロスの手は、彼女の手よりもずっとずっと小さかった。
 もうほとんど空の哺乳瓶は、先ほどと同じように泡でまみれていて──そして、必死にミルクを飲み込んでいた赤ん坊は、口の回りを白く汚していた。
 哺乳瓶をテーブルの上において、少女は赤ん坊をくるんでいるヴィンセントのマントの裾で、そ、と赤ん坊の口の周りを拭ってやる。
 思わず、おい、と低い声で凄んだヴィンセントには全く気を払わず、彼女はそのままプクプクのセフィロスの頬を指先で突付いて、ふふ、と笑った。
「かぁわいい。泣いてるときは本当に、ノイローゼになりそうなくらいうるさいと思うけど、こうしてると天使みたいよね。」
 天使。
 そんな言葉は、この子には似合わない。
 一瞬、そう本気で思ったが、彼女の言葉につられるように見下ろした先で、赤ん坊は無邪気な寝顔で眠っていた。
 すり、と、頬を寄せるようにしてヴィンセントのマントに顔を半分埋めて、にぎにぎと小さな指先を動かす。
 その様子が可愛らしくて、思わず動きを止めたヴィンセントの代わりに、少女がくすくすと笑う。
「泣いてる時なんて怪獣以外の何者でもないのにね〜。
 私も、母さんじゃないけど、本気でトードかけちゃおかって思ったこともあるもん。」
 ──実際、彼女の母は、一度セフィロスにトードをかけたことがある。
 ミルクが欲しいと泣き叫ぶ赤ん坊を連れてきたヴィンセントの目の前で、「ミルクが作るまで黙らせよう」と言って、赤ん坊に向かってトードを唱えたのである。彼女いわく、「どうせ鳴くなら、耳に痛い怪獣声よりも、カエルの合唱のほうが聞きなれていてマシだろ」──とのことである。
 ミルクを作り終えるまで、赤ん坊はずっとカエルの泣き声をあげ続けていた。
 そのことを思い出して、むむ、と眉間に皺を寄せるヴィンセントに、少女は軽い笑い声をあげて、冗談よ、と続けた。
 それから、セフィロスの寝顔を見下ろして、つんつん、と頬をつつき続ける彼女の指先を見下ろしながら──そんなことをしたら、起きてしまうじゃないかと、邪険に思う自分に戸惑いを覚えずにはいられなかった。
「──……お前、セフィロスのことを可愛がってるんじゃなかったのか?」
「可愛さ余って憎さ百倍って言うのよ、そーゆーのは。」
 くすくすとさらに楽しげに喉を鳴らしてから、彼女はテーブルの上の哺乳瓶を取り上げ、それを洗って煮沸消毒するために、ふたたびかまどに向かう。
 そうしながら、肩ごしにヴィンセントを振り返ると、
「ほら、何やってんの。赤ちゃんにミルクを飲ませたら?」
「ひっくり返す。」
 促されて思い出し、慌ててヴィンセントはセフィロスの体をクルリを抱え直して、彼の背中を軽く叩きはじめた。
 ぎこちない動作は、あまりたたきすぎるとセフィロスが泣き出したりするせいでもある。──必ずゲップをしてくれるわけではなく、放っておいてもゲップをすることがあるのだから、赤ん坊は良く分からない。
 ぽん、ぽん──と、まるで太鼓を抱えて叩くような調子のヴィンセントの様子に、彼女は笑いを堪えるのに必死な表情で、哺乳瓶を分解し始める。
 どうせヴィンセントに任せておいたら、哺乳瓶のまともな殺菌もしないに違いないのだから、今のうちにやっておこうということだ。
 そうしていると、沈黙ばかりが部屋の中を占める。
 もともと無口なヴィンセントと、喋ることのできない赤ん坊は、その静けさが気にもならないようだった。
 ぽん、ぽん、と──随分ゆっくりとしたリズムの音を耳にしながら、彼女は荒いものを一通りすませ、沸き始めた湯を見下ろしながら、ふと口を割った。、
「もし、あんたがセフィロスの世話で、どーしようもなくなったらさ。」
「ぅん?」
 突然話しかけられて、驚いたように眼を向けるけれど、娘は背を向けたまま、こちらを向くことはなかった。
 何のことだと尋ねたつもりだった声はけれど、先を促すように聞えて──彼女は、うん、と一つ頷いたあと、
「あの屋敷を出るって言う手もあるってこと──覚えてといてね。」
 そう、続けた。
「……っ……?」
 何を言われたのか分からなくて、セフィロスの背を叩く手も止めて、ヴィンセントは彼女を見つめる。
 まだ15にもならない娘は、子供と言えるほど小さくて、華奢で──けど、この村で一番の美人だ。金色の髪ですらなかったら、もう今の時点で村のほとんどの若者から求婚されていてもおかしくはない。……いや、金の髪であっても、彼女はあと2、3年もすれば、引っ張りだこだ。数年後には、ステキな夫を捕まえて、子供を抱きかかえているかもしれない。──そんな年頃だ。
 その彼女の言葉の意味が、分からなくて。
 パチパチと忙しなく眼を瞬くヴィンセントに、彼女はさらに背を向けたまま、続けた。
──屋敷に誰も入って欲しくないって言うなら、あんたが出ればいいだけのこと。
「たとえばさ、村の誰かと一緒に住むとか、結婚するとか。」
「……俺が……、か?」
 まるで、遠まわしにプロポーズをされているようだと、顔を顰めるヴィンセントに、そう、と彼女は頷いて──沸騰し始めたお湯の中に、とぽん、と哺乳瓶を突っ込んだ。
 そのまま、ぐつぐつ煮込むように菜ばしで哺乳瓶を沈めながら、ごく当たり前のように、しれっとして。
「そう。例えば、男やもめの宿屋のオヤジのところに嫁に行くとか。」
「──────………………だれが?」
「ヴィンセント。」
 きっぱりはっきり。
 言葉にはよどみが一つもなかった。
 そのあまりにはっきりとした言い分に、そうか、──と頷きそうになったヴィンセントだが、今ばかりはそういうわけにも行かない。
 そうか、と頷いたら最後、翌日には頭にリボンでも巻かれて、宿屋のオヤジの部屋に突っ込まれそうな気がしてならなかった──多分にそれは、正しい勘である。
「──……男だぞ、俺は?」
 セフィロスの顎を肩に乗せたまま、顔を顰めて呟くヴィンセントに、知ってるわよ、と彼女は笑って答える。
 菜ばしの先で煮沸消毒させた哺乳瓶を取り上げながら、それをフリフリ振って。
「いいんじゃない? だって、宿屋のオヤジには子供もいるし、あんたにもいるし。跡継ぎには困らないじゃない?」
 ニッコリ、と──綺麗な顔に、綺麗な笑顔を貼り付けて、笑ってくれた。
──ロマンスが、生まれるわけはなかった。
 ヴィンセントは、しばらくそのまま呆然と彼女の背を見ていたが、彼女はその間に手早く哺乳瓶を袋に詰め込むと、トタトタと彼の元にやってきて、その手に強引に哺乳瓶を入った袋を手渡すと、
「明日の朝のミルクも入れておいたから、自分で温めなさいよ。
 さ、さっさと、帰った帰った。
 もう夜も遅いんだから、こんな遅くまで、女に逃げられた男に居座られちゃ、悪い噂が立っちゃうわ。
 私、嫁入り前なんだから。」
 とっとと出て気と、思いっきり露に言われて、あれよこれよという間に家から放り出された。
 ぽん、とセフィロスを抱えたまま放り出されたヴィンセントの背後で、ばたん、とドアが閉まり、ガチャリとカギまでかけられる。
 ヴィンセントは、呆然とその音を聞きながら、視線を斜め前に──まだ明かりがついている宿屋の方角に向けると、心底イヤそうに顔をゆがめた。
「──……嫌がらせにも程があるぞ…………。」
 小さく零すが、夜の来訪者をようやく追い出すことが出来たストライフ家から返事が返ることはなく。
 ヴィンセントは、寒々しい風を受けながら、行きよりも重くなった右手の袋と、スヤスヤと耳元で寝息を立てる左手のセフィロスとを見比べた後。
 ほっこりと暖かい赤ん坊の頭に頬を寄せるようにして、小さく、呟いた。
「……………………かえるか…………………………。」
 視線の先で──満天の星空を従えた神羅屋敷が、暗闇の中に沈んで見えていた。









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