「ただいま。」
ガラガラ、と音がしたかと思うと、間をおかず聞こえてくる声に、ようやく帰ってきたのかとちゃぶ台の上に広げていたノートに落としていた視線を上げる。
すると、すぐに玄関と居間とを区切る戸が開いて、微かに頬を紅潮させた智が入ってきた。
お帰りなさい、と、声をあげて顔をあげるよりも先に、すぐ傍で畳の上に寝転がっていた弟が飛び起き、
「おかえりなさいっ、ママ!」
ころころした体を、彼女めがけて突撃させた。
その、体当たりにしか見えない攻撃に、華奢な体型にしか見えない……けれど、下半身の強さは人並み以上だと日々自慢している「母親」は、あっさりと少年を両手で抱きとめ、ヒョイ、と抱えあげた。
最近、曽祖父ですら抱き上げるのは困難だと零している小太郎を、なんとも感じずに抱き上げる辺り──さすがは「現役」である。
「ただいま、小太郎。」
ニッコリと、やわらかく微笑むその笑顔に、姫はちゃぶ台に頬杖をつきながら、少しくすぐったい気持ちを覚える。
見ているこちらが恥ずかしくなるような、くすぐったいようなやさしい微笑を、自分に似ている顔つきでされると、どうにもむず痒くなるのだ──たぶん親のほうからしてみたら、姫が智に似ている、のだろうけど──。
おそらく、気が強い自分がそんな風に母性愛丸出しの笑顔で笑うことなど、絶対になさそうな気がするからなのだろうけど。
小太郎は、父親によく似たころころした顔に嬉しそうな笑顔を満面に浮かべると、母の柔らかですべすべの頬に頬刷りをする。
そんな兄をうらやましがってか、やはりちゃぶ台の周辺でごろごろしていた末っ子が、畳の上を這うようにしながら母の足元へやってくる。
そして、自分の存在を訴えるように、クイクイ、と母のズボンのすそを引っ張る。
「はいはい、小次郎もただいま。」
小太郎を抱き上げたままかがみこんで、くすくす笑いながら彼女は首を傾けると、チュ、と小次郎のふっくらとした頬にただいまのキスを落とす。
すると嬉しそうに小次郎も小さな手を伸ばし、母の頬に手を当てて、チュ、とほっぺたにキスを返す。
──そういやそんなこと、あたしも小さい頃はしてたなぁ。
ひどく今更なことを思いながら、姫がまだまだ甘え盛りの年齢の弟たちを見ていると、
「ただいま。」
先に帰ってきた母に遅れること数分。
玄関をくぐってきた父の声がした。
姫は、頬杖をついたやる気のない体勢のまま、ちゃぶ台の上の英語の予習に視線を戻しながら、
「おかえり、パパ。」
開いた戸から顔を覗かせた、最近また貫禄が増したような気のする、穏やかな顔つきの父親に声をかけた。
すると父は、ニッコリと顔をほころばせて、
「ただいま、姫。
なんだ、小太郎と小次郎も起きてたのか。」
じっちゃんは? と続けて聞いてくる父の視線が時計に行くのを感じつつ、姫はヒョイと肩をすくめて、
「加代おばあちゃんと一緒に、隣でビデオ見てる。
ご飯はソコ、お風呂は沸いてるわよ。」
指で指し示してやりながら視線を上げると。
その視線の先で母と父が、いつものように、
「おかえり、太郎。」
「ん、ただいま。」
姫はこの光景を見るたびに思う。
母が小太郎や小次郎、自分に「ただいまのキス」をするのはまだ分かる。
だがしかし、どうして同じ場所か一緒に帰ってきた母が、父に向かって「お帰りのキス」をするのだろう?
「…………………………。」
朝も毎回、同じことをしているが、なぜする意味があるのか、一度聞いてみたいと思っていた姫だったが、母はあっさりと「したいから」と答えそうな気がして、聞いたことはない。
「智、先にお風呂に入ろう。肩を冷やさないほうがいいしな。」
「うん、そうだな。」
そしてこの先の展開も、毎日のことだからいい加減分かっている。──時々腹具合の都合とか、ホテルで風呂に入ってきたという時は、先に食事になる。
お互いに確認しあった夫婦は、小太郎と小次郎を畳の上に降ろすと、
「じゃ、バスタオル取ってくるから、先に入ってろよ。」
太郎が当たり前のように口にするのに、うん、と智が頷いて、姫に向かって、
「それじゃ、俺たちは風呂に入ってくるから、母さんとおじいちゃんが来たら伝えてくれよ。」
「…………──うん、わかったわ。」
──なぜ毎回、あんなに狭い風呂に一緒に入るのか。
聞きたいことはたくさんあるが、年頃の娘としては、あえて飲み込んでおいたほうがいいのだろう。
そう思いながら、ノートに向かっていた姫であったが──見下ろしたノートの端に走っている文字を見て、ふ、と思い出した。
「あ、そういえば、パパ、さとパパ、先週言ってた修学旅行、やっぱり4月になったわ。」
顔を上げながら声をかけると、隣の部屋でバスタオルの準備をしていた太郎と、さっさと風呂に向かおうとしていた智が同時に居間に顔を覗かせる。
「4月? また早いな……。」
「んー……まぁ、7月よりもまだいいかなー、とは思うのよね。今はとりあえず、春の甲子園を目標にしてるけど、正直、優勝できるレベルというには、打撃がまだまだだし。──だから、この春の甲子園は、力ためし程度で考えて、夏に向けて本格始動をしたいから、7月に修学旅行があると困るしね……。」
そう零す「明訓高校の初の女子コーチ」を務めている娘は、うーん、とシャーペンを指先でもてあましながら、知らずノートに夏に向けての戦略を打ち立ててみて……はっ、これは英語の予習ノートよっ、と、あわてて消しゴムをかける。
「で、どこに決まったんだ? 修学旅行は。」
居間に戻ってきた父の手には、ふかふかのタオルと室内着が抱え込まれている。
「………………んー…………。」
微妙に言いたくなくて、姫はグリグリとノートに文字を書きたくる。
ノートの端の方に友人の文字で、「絶対、サイン色紙持ってくーっ!」と書かれている。──そうこれは、前の時間のホームルームで、修学旅行の日付と行き先が決まった興奮が残ったまま、興奮状態で彼女が書いたものだ。
──できることなら、父と母には知られたくない。
そんな姫の思いを裏切るように、
「しこくー。」
ピシッ、と、手を上げて小太郎が余計な台詞をはいた。
「は? しこく? ちこく??」
意味が分からず首を傾げる母に代わり、
「──あ、もしかして四国か、姫?」
「………………────ぁー……うん。」
父が、ピンと来たように視線を向けてくる。
そんな太郎に頷きながら、姫はパタンとノートを閉じた。
「珍しい場所だけど、食べ物はおいしいから、いーかなー、とか友達と話してたの。」
「へー、四国か。」
気づきませんように──という姫の思いが通じているのか通じていないのか、智は首をかしげて顎に手を当てて、何か考えこむように瞳を伏せる。
そんな母を、ほめて、ほめて、という眼差しで見上げる小太郎を、コブシで殴りつけたい気分に駆られながら、姫はことさら明るく、
「まぁ、でもね、せっかくだから、いろいろ調べて遊べるところも探そうかなー、って思ってるし。」
アハハハハ、と笑う。
そんな彼女に、
「……姫。」
智が、真剣な声と眼差しで呼びかける。
その声に──しまった、ばれたか……っ、と、できることなら修学旅行が終わるまで、気づいてほしくなかった事実に、ゴクン、と姫が喉を上下させた瞬間、
「お前、妹の方がいいよな?」
マジ、と、目に真摯な色を乗せて、智が姫を見下ろしていた。
「────………………え、何? 何の話?」
思いっきり身構えていたこととはまったく違うことを口にされて、姫は目を見開いて彼女を見上げる。
スポーツ選手をしているせいか、まったく若さに衰えの見えない、若々しいばかりの母は、うん、とひとつ頷いて、
「四人目。おれ、次は女の子がいいかな、って思うんだけど。」
すごく真剣な眼差しであった。
思わず姫は、クラリ、とめまいを覚えて、額に手を当てる。
「コタとコジも、妹、ほしいよなー?」
さらに母は、ニッコリと綺麗に微笑んで、畳の上に座っている小太郎と小次郎にまで確認をする。
意味が分かっていない2人は、キョトン、と目を見張った後、それから意味の分からぬまま、うんー、と頷く。
「久しぶりに姫が長期で居なくなるわけだし──本音を言うなら、7月に修学旅行のほうが、今期の休みを後半戦の最後だけですむからいいんだけどな……。
ま、今期の後半戦は全部休むとして、来年のオープン戦が出れないくらいですむよな……うん。」
しかも母は、姫の答えも、父の答えも待つことなく、さっさと一人で子供を作って生む方面で話を進めてしまっている。
ここでとめないと、本気で彼女は父を押し倒して自分たちの妹を作ってくれるだろう──っというか、その気になった母に、父が逆らえるはずもない。
「って、さとパパっ!? 何、言ってるのっ!?」
「姫が居ない間に子作りでもしようかと思って。」
「思うなっ! っていうか、それを私の前で言わないでよーっ!!
それからパパも、照れてないで突っ込んでっ、お願いだからっ!」
すかさず後ろ手に、照れたように頬を掻いているだろう父に叫んで、姫は頭を抱えた。
サチ子が嫁に行ってからというもの、いくつになってもバカップルを地で行く父と母の──正しくは、時々暴言と暴走を突っ走る母をとめるどころか見守ってしまう父の──、止め役は、自分しか居ない。
年頃の娘だと言うことを、もう少し2人とも分かってほしいものである。
もうすでに弟たち2人も、世間様には物事が分かる年齢なのだし……というか、幼稚園に小次郎を迎えにいって、「姫ちゃんちのパパとママは、仲がいいのね……うふふ」とか、意味深に保母さんに笑われる己の身にもなってほしい。
「いや、でも、子供はたくさんほしいしな。」
「だよなー?」
笑顔で相槌を打つ智に、いや、だから……と言いかけた姫は、そのまま何も言えずに口をつぐんだ後、
「────…………あたしよりも体力のあるさとパパに、いい加減年と体力を考えろっていうのも、間違ってる気がするしなぁ…………。」
どうしよ、ホント。
このままでは、修学旅行から帰ってきてしばらくしたら、満面の微笑みで、「一緒に産婦人科行ってくるな〜♪」とか、三年前とか、六年前と同じことをしてくれそうで、たまらない。
うぅ……と零した姫は、そのまま閉ざしたままの英語の補修のノートを見下ろした瞬間──あ、そうだった、と、ひどくいまさらなことを思い出した。
子作りに励もうも何も、私が修学旅行中って……。
「………………………………──────────。」
ここで2人を諌めると、姫は修学旅行が終わるまでの間、ずっと黙っていたいと思っていた事実を、ばらさなくてはいけなくなってしまう。
──そう。
今回の修学旅行が4月になった理由と、場所が四国になった理由。
それは──本年度の坊ちゃんスタジアムで行われる、四国アイアンドッグスと東京スーパースターズの3連戦に、日付を合わせたためなのだと……いうこと。
スーパースターズの主力選手が明訓のOBであることと、今年の明訓の野球部の「女子コーチ」を指名したのが、彼らであること──数年ぶりに彼らが高校に顔を出したこと、などから……今年の修学旅行先が、決定してしまったとも言う。
「────……ま、あたしが修学旅行中、パパたちは試合だもんねぇ。」
絶対、無理。
…………だと思う。
消極的な一言を心の中で付け加えながら、それでもこっそりと姫は思ってみたりもする。
もう17歳だから、いまさら兄弟は要らないけど(ここ数年で一気に2人増えてしまったが)、妹は……ほしいかなぁ、なんて。
口に出したら、がんばってくれそうだから、怖くて言えないけれども。
+++ BACK +++
いくつになってもバカップルでいてほしいという願望ヨリ。
それで結局、この後、
「それじゃ、姫が四国に修学旅行に行くって、犬飼さんとか不知火にお願いしとこうか。」
「ああ、それはいいな。高知に行くなら、ぜひ知三郎にも頼もう。きっといろいろといい場所を紹介してくれるぞ。」
とか夫婦揃って言い始めて、里中が不知火の携帯に電話しようとしたりするのを、姫、必死で止めるとか(笑)。さしもの里中+サチ子÷2でも、本家本元にはかないません。
ちなみに長男は、ちょっぴりころころした太郎君似で、次男はなぜかじっちゃん似。背が高くなるのです。