「犬飼さん、こんばんは。」
ニッコリと笑う女に、見覚えがあると思ったのは一瞬だった。
四国アイアンドッグスの打ち上げ会場に顔を見せた女は、健康的にほんのりと焼けた肌と、活発さをあらわすように短く切った髪の──どこで見た女だっただろうと、マジマジと見上げた先で、彼女は当たり前のようにアイアンドッグスの監督である、犬飼小次郎の隣の席に腰をかけた。
そんな彼女に、周囲に居た選手達が、思い思いに目を見開くのが分かった。
別に犬飼監督のプライベートについてアレやコレというつもりはないが、彼女は彼の隣に立つには、活発で明るすぎるような印象があった。
大人の男の雰囲気をタップリ匂わせる、野性味の強い犬飼家の長男の「恋人」や、「恋人候補」と呼ぶには、色香が足りないような気がする。
顔だちは整っているが、小次郎の好みのタイプではないだろう。
どちらかというと、彼女は次男のタイプのように見えた。
──ので、小次郎は無言で隣に座る女を見下ろした後、チラリ、と視線を次男に走らせた。
「…………。」
この馴れ馴れしい女は、お前の知り合いか、と、目線で強く問いかけると、ブルブルと武蔵が首を振る。
その隣に座っていた知三郎も、ついでのようにフルフルと否定のかぶりを振った。
さらについでのようにその彼らの周囲に座るチームメイト達にも視線を走らせるが、こぞって彼らの全てがかぶりを振る。
ただ、何か記憶に引っかかるのが、誰もが同じような表情で、見覚えのあるような気のする女を凝視していた。
犬飼小次郎の隣に平然と腰掛けた女は、着飾った雰囲気とはまるで縁がなさそうであった。年の頃は、20代の後半くらいだろう。
夏だというのに長袖のシャツを一枚と、更にその上にもう一枚羽織っていて、足首まであるゆったりとしたスラックスにスニーカーという井出立ちで、別におかしなところはない。
ただ、先ほどからチリチリと頭の片隅で、知っているような気がすると、警告にも似た声が投げかけられる。
けれど、どれほど脳みそをひっくり返してみても、この年頃の娘と接した記憶はなかった。
そうそう簡単に忘れてしまうような面差しではない……美人な容貌をしている。美人で覚えのない女となると、誰かの妹だとかそういう類だとは思うが、山田の妹なら、不知火や中が知っているはずだ。
「突然すみません、犬飼さん。」
一応申し訳なさそうに断りを入れてから、彼女はニッコリとはにかむように微笑んだ。
かすかに火照った頬が愛らしい、目を惹く美人ではある。
普通の男なら、この顔を見ただけでも許してしまうかもしれないが──小次郎はそうではなかった。
名前くらい名乗ったらどうだと、無言の威圧を発して女をジロリと睨みつけるが、彼女はそれをものともせずにまっすぐに小次郎を見上げると、
「お願いがあって、来たんです。」
そう告げた。
「…………。」
ひたすら無言で見下ろす小次郎を、まったく気にせず、彼女は軽く首を傾げて、どこから話したものかな、と言いたげにゆっくりと目を瞬くと、
「実は今、おれ、妊娠してるんですけど。」
普通にそう話を切り出した。
ブハッ!
周囲で、ちょっと耳障りな音が複数聞こえた。
同時に、「まさか……っ」という視線が四方八方から降り注がれる。
きっとチームメイトの脳裏では、引っ掛けた女を妊娠させた挙句、相手の顔も名前も覚えていない、「アニキ、最低。」と末っ子に言われるような展開が繰り広げられているに違いない。
小次郎はポーカーフェイスの裏で、必死にここ数ヶ月ほどの己の行動を省みてみるが、まったく身に覚えはなかった。
けれど、目の前の女を知っているような気がするのが、引っかかった。
そんな周囲の反応に気づかず、彼女はニコニコと嬉しそうに微笑みながら、
「で、子供が生まれて、もし男の子だったら、犬飼さんの名前を付けたいなー……というか、名前を考えたらもうそれ以外浮かばなかったんですよ。
だから、男の子だったら、小次郎ってつけてもいいですか?」
小首を傾げて、小次郎を見上げる。
その瞬間、背後で反応したアイアンドッグスの面々を振り返るのが、怖くてしょうがなかった。
「──……。」
なんと反応していいのか分からぬまま──それ以前に、目の前の彼女は一体何者なのだと、そう犬飼が口を割ろうとした瞬間であった。
♪ 〜♪♪ 〜♪
携帯電話の着信音が響いた。
聞きなれない音楽に、誰もがお互いの顔を見やる前で、彼女はポケットの中から携帯電話を取り出すと、
「あ、土井垣さんだ。すみません、ちょっと出ますね。」
小さく呟いて、ピッ、と電子音を鳴らして携帯を耳に当てる。
その彼女の口から零れた、聞き覚えのありすぎる名前に──土井垣の知り合いか、この女……というか、嫌がらせか?
小次郎は顔を歪めて睫を伏せる彼女を見下ろした。
「もしもし? どうかしたんですか?」
ごく当たり前のように耳に当てた携帯に向かって話しかける女に、携帯の向こうで土井垣が何と反応しているのか……いや、本当に携帯電話の向こうは、あのスーパースターズの監督であり、犬飼小次郎がライバルとして認めている土井垣将なのだろうか?
固唾を呑んで見守る一同の前で、彼女はごく普通に、
「今? 今は、犬飼さんの所に来てますよ。
ハ? え、どうしてって──だから、子供の名前を小次郎にするなら、ちゃんと許可を取っておかないと、後々面倒かなー、って思って。」
話を進めていく。
彼女の電話の相手が本当に「土井垣」のような気がして、小次郎は今度は土井垣の知り合い方面で、記憶を攫っていく。
しかし、土井垣の女の知り合いとなると、ずいぶん枠も狭く──……一体、どういうつながりなんだと、奥歯を噛み締めた瞬間、
「え、犬飼さんに代われ? 別に俺は迷惑なんてかけてませんよー? 座ったけど、誰も飲み物とか勧めてくれないし。──は? いいから代われ? 犬飼さんと久し振りに話がしたいなら、自分の携帯からかけたらいいじゃないですか。」
土井垣相手に、ずいぶんズケズケという女である。
まさか、土井垣を尻に敷く、彼の「奥さん」とか言うオチじゃないだろうなと、犬飼が苦虫を噛み潰した顔になる前に、彼女はヒョイと携帯電話を差し出した。
「すみません、なんだか土井垣さんが、犬飼さんに代われって言ってますので、聞いてやってください。」
ハイ、と──差し出された携帯は、目の前でストラップがユラユラと揺れていた。
良く見てみれば、それは自分達の宿敵とも言えるスーパースターズのマスコットキャラだった。
やはり彼女は、スーパースターズの……土井垣の関係者に違いあるまい。
そう思いながら、差し出された携帯を、イヤイヤ手に握った瞬間、耳元から良く知った声が聞こえてきた。
「やはり土井垣か……これは一体、どういうことだ?」
まず最初に謝りの言葉を口にしてくる土井垣に、低く問いかけると、向こうでも呆れたような──疲れたような答えが帰って来る。
『すまん、気づいたら居なかったんだ……悪いが、お前らの打ち上げの場所を教えてくれないか? 山田を迎えに行かせるから。』
やはり土井垣の知り合いかと、溜息を零しながら──そんなことに使われる山田に少々の同情を覚えつつ……というか、あの山田をそんなことに使ってもいいのかと、思いながら、店の名前と場所を告げる。
「いい迷惑だ、まったく。」
苦い笑みを刻みながら、小次郎がチラリと横を見ると、彼女がきょとんと目を瞬いているのが見えた。
そうしていると、初めに抱いた印象よりも幼く見える。
その顔を一瞥した後、興味深そうに自分を見ているチームメイトたちをジロリと睨みつける。
──今度土井垣に会ったら、一杯奢らせるだけではすまさんぞ。
そんなことを思う犬飼に気づいてか気づかずか、
『迷惑ついでにすまんが、里中に酒は絶対に飲ませないでやってくれよ。』
土井垣は、当たり前のようにそう告げる。
その言葉には、心配の色が濃厚に見え隠れして──いや、犬飼は、そんなことまで気にしている余裕はなかった。
土井垣の口から出た台詞に、携帯電話を持ったまま顔を凝固させ──息を、小さく吸いこんだ。
そんな犬飼を、電話の向こうの土井垣が気づくはずもなく、
『守達にも、酒を勧めないようにしてくれ。まぁ、タバコは野球選手だから吸ってるヤツはいないとは思うが、今、五ヶ月目だから、その辺りは充分注意してくれよ。』
ツラツラと、慣れた調子で続ける土井垣の台詞は、犬飼の耳を右から左へと素通りしていった。
ギギギギ……と、音がしそうなほど鈍い仕草で、犬飼は自分の隣に当たり前のように腰掛けている「彼女」を見た。
ラフなシャツの上からでも、分かる胸のふくらみに、だまされた──というと聞こえが悪いが、「女」だという認識のベールを剥いで、改めて見てみれば。
「──ん? どうかしたんですか、犬飼さん?」
首を傾げる「女」は、確かに──、一年に数回は必ず顔をあわせるドコソコのピッチャーと同じ顔をしていた。
柔和な雰囲気と容貌になっていたから、分からなかった……などと言ってしまえば、自分達の観察不足だと突っ込まれそうな気がする。
固まっている犬飼に気づかないのか、土井垣はそのままツラツラと心配性なことを口にし始める。
『まったく、苦労してスタメンからも外したって言うのに、ホイホイ出歩くからな、里中は……っ。』
「──……土井垣。」
低く、犬飼は電話の向こうの同輩の男の名を呼んだ。
なんだ、とすぐさま帰って来る声に、うんざりした色を滲ませつつ──あぁ、そうだったな、そういえば、里中はここ二ヶ月ほど、登板していなかったな、なんてことを思いながら、クイ、と隣に座る「女」を顎で示して、
「……で、どうして里中が、俺のところに来るんだ?」
「だから、長男が小太郎だから、次男は次郎だとおかしいから、小さいをつけて、小次郎かなー、って山田と話しあったからですよ。」
何を言うのやら、と顔を顰める里中の言葉に。
「……………………………………。」
「………………──────。」
長い沈黙が、その場に舞い降りた。
そして一拍後。
「そういえば、すっかり忘れてましたけど……里中さんって、女性でしたっけ。」
「それも、山田と結婚してたよな……。」
うんざりした顔で、誰も彼もが頭を抱え込んだ。
言われてみてマジマジと見てみれば、試合の最中のピリリとした空気はまるで無い上に、柔和な面差しになってはいるが、紛れも無く里中その人だと言うことが分かる。
誰の知り合いだと、もめていたのがウソのように、あっさりと賑わいが戻ってきた打ち上げ会場に、里中は1人、ワケが分かっていないように首を傾げる。
そんな里中へ、で、結局お前は何をしにここへ来たんだと……最近、スーパースターズでも登板してなかったじゃないか、と、軽口を叩こうとした不知火であったが。
「────…………って、お前っ!? 妊娠してるって……、次男って──……!」
唐突に気づいた。
現在、山田家には、子供は娘と息子が1人ずつしか居ないはずだ、という事実に。
そんな彼に、里中は照れたように笑って、
「そう、今、五ヶ月目。」
最近登板してなかった理由を、アッサリと告げた。
「まぁ、それはおめでとうございます。」
ニッコリとあでやかに微笑むマドンナに、同じように花ほころぶように笑って、
「ありがとう。」
幸せ満面だと、そう表情だけで告げる里中には、もう何も言う気力がなくなった面々は、とりあえず。
今年はもう、スーパースターズのエースが登板しないことを、喜んでいいのやら、その理由を思って悔しさを噛み締めていいのやら。
突然ふって沸いたライバル球団の妊婦さんの始末を、もてあますしかないのであった。
「なんて言うときに、妊娠してるんだ、お前は……っ。」
「だってしょうがないだろ。出物腫れ物、ところ構わずって言うし。」
「それは意味が違うっ!」
──というか、山田、さっさと迎えに来い。
+++ BACK +++
山田が迎えに来たとき、何の違和感もなく鉄犬面子の中に混じっていてくれると最高デス。
えーっとですね、なぜ里中さんが一人でここへ来たかと言うと、早い話が、登板しなくて暇だったからです(笑)。
自宅に居ても、姫とサチ子が家事を全部してしまうし、「散歩でもしてきたら」だとか、「暇ならパパを応援でもしてらっしゃい」だとか言って追い出されてしまうので(笑)、どうせだから、忘れないうちに犬飼さんのところに許可を貰いに行こうと思い立ったんですね。で、そこで早速、不知火の携帯に電話してみたんだけど、彼は練習中か何かで連絡が取れなかったので(笑)、吾朗君に連絡を取って(大笑)、土門さんの動向を常にチェックしている吾朗君情報で、本日の鉄犬の打ち上げ場所をゲッチュー。「なんだ、思ったより近くだな。これなら一人で行けるや」とばかりに、早々におでかけになったのです。ついでに、不知火や土門や影丸や中たちの顔も見ておくかと言う、適当な理由もあったんですよ、きっと。
そして、SSの方も、打ち上げに里中でも呼んでやるかと思ったら、思いっきり里中さんが行方不明だった、と。しかも不穏なメールが山田の携帯に入ってたり。
「ちょっと犬飼さんのところに行って来るな。」
それを見た山田さん、「……って言ってるんですけど、里中……あの、連絡取ったほうがいいですよね?」なんてのんきなことを言っている間に、土井垣、即効で自分の携帯で里中に電話。
そして本編に続く。
──ということですね!
そんなこんなのうちに、山田さんが迎えに来てくださるわけです。
「すみません、犬飼さん、智が迷惑をかけたようで。」
「誰も迷惑なんて掛けてないぞ。」
「それはお前がそう思ってるだけだ。」
「え、俺がいつ、不知火に迷惑をかけたんだよ?」
「まぁまぁ、だがしかし、里中……その、体には充分注意しろよ。」
「あぁ、分かってるって。さすがに三人目ともなれば、慣れもあるしなー。」
「ほら、智、帰るぞ。」
「うん。」
「ぅわ……ラブラブ……手、繋いでるよ、あの2人。」
「────…………土井垣も大変だな…………。」
「あの2人に懲りて、コッチに来ないかな……土井垣さん…………。」
さまざまな思惑を秘めつつ……(笑)。
いくつになっても隣で笑いあっていてくれればいいと。
思うんだけどなぁ。
──もう少し犬飼小次郎さんを、格好よく書きたかったヨ……。