父親 岩鬼君







 上部に点灯したランプのついたドアの前で、右へ左へとウロウロする兄の姿は、いつものドッシリ構えているときとはまるで別人で、見ているこっちが呆れるほどだった。
 だから、思わずその背に向けて、
「もぅっ! お兄ちゃんったら、情けないなぁ。」
 腰に手を当てて、呆れたようにぼやいてみせた。
 その台詞にしかし、いつもなら色々と突っ込んでくれる兄の友人達までもが、上の空。
 そんな男どもを見回して──看護婦さんが、「こういう時の男の人ってね、全然頼りにならないのよ」と、笑っていたのをサチ子は思い出した。
 ──確かに、ぜんぜん頼りにならない。
 サチ子は眉を寄せて、広いわけではない廊下に、びっしりと詰め込むように立ったりしゃがんだりして落ち着かない男どもの顔を見回した。
 扉の前に立つ兄は、無言で無機質名な扉を見上げたかと思うと、またソワソワと歩き出す。
 数年前の小林君の手術のときは、ドッシリとドアの前にしゃがみこんでいたというのに、すごい違いである。
 さらにその近くで壁にもたれている微笑と殿馬。前者はイライラと、後者はリズムを取るように指先を軽くトントンと鳴らしている。
 見た目ドッシリと床に座り込んでいるように見える岩鬼も、落ち着かなげに何度もお尻をモゾモゾさせていた。
 そして、待合室風に横に並べられた椅子に座る祖父ですら、ソワソワと落ち着かない。
 椅子の向こうで円陣を組むようにして床にしゃがみこんでいる「後輩」達に至っては、肩を揺らしたり、体を揺らしたりと、落ち着かないばかりだ。
 ボソボソと聞こえる話し声も、上の空で途切れたり、突然再開されたりと、イライラと募らせる材料になるばかり。
「まったくもう、この男どもときたらっ!」
 そう呆れたように続ける──かく言うサチ子とて、落ち着いているわけではない。
 落ち着けるワケがないから、そうやって周囲の様子を逐一伺っているのだ。
 そんな風に、ソワソワと──つい右へ左へ動く兄につられて動き出そうとしたサチ子へ、
「サッちゃん。」
 穏かな声が、かけられた。
 せわしない男どもに混じって、1人椅子にドッシリと腰を掛けていた、穏かな微笑みを浮かべていた女性である。
 振り返った先で、綺麗な顔にニッコリとあでやかに微笑みを咲かせて、
「サッちゃん、まだかかると思うから、座りましょ。」
 ポンポン、と自分の横の椅子を叩いてくれた。
 そんな女性を見て、サチ子は素直にそれに従った。
 兄や祖父、兄の友人達を見ていると、自分も焦ってしょうがなくなるばかりだと思ったからだ。
 この場に居る唯一の女性であり、「経験者」である女性の傍でなら、自分も落ちつくことができるかもしれないと思った。
 すとん、と椅子に腰掛けたサチ子に、彼女はニッコリと益々優しげに笑った。
「だぁいじょうぶよ、そんなに心配しなくても、あの子はやるときはやる子なんだから。」
 どこか安心したような笑みを浮かべて、彼女は視線を扉へと転じる。
 そして、やっぱりウロウロしている山田を認めて、プッ、と小さく笑った。
 そんな里中の母親に、サチ子はなんとも言えない顔で頬を染めた。
──やっぱり誰が見ても、あれはみっともないと思うよなぁ。
 それを言えば、分娩室のどまん前で円陣を組んでいる明訓高校の後輩達も後輩達なのだが。
「里中ちゃん、大丈夫かなぁ? すっごく汗掻いてたよ。」
 自分以上に真剣な顔で、切羽詰った顔で居る男達の中にいては、決して言えなかった台詞が、フイにポロリとサチ子の口から零れた。
 思わず目を見張ったサチ子の頭に、ぽん、と優しい手が落ちてきた。
「産むまではね、大変だから。」
 ノンビリとした声だった。
 けれど、その声に滲む響きは、酷く優しかった。
 そっか、と、なぜかサチ子は納得して、ストン、と焦燥感が胸の中から転がり落ちていくのを覚えた。
 大丈夫、大丈夫──と、うわごとのように繰り返す祖父や、兄の台詞よりも、こういう時は経験者の女性の台詞が一番説得力がある。
「それに、まだ入ったばっかりだし──今から根を詰めていたら、コッチが先に参っちゃうわよ。」
「時間、かかるんだ?」
「そうねぇ……わたしのときは、三時間くらいかかったかしら?」
「三時間もっ!?」
 思わず驚いて声を張り上げたサチ子は、ぞぞっ、と自分の背筋に冷や汗が流れるのを感じた。
 そんなサチ子に、ギョッ、としたいくつもの目が向けられる。
 けれど、いつかわが身になると分かっているサチ子にしてみたら、それどころではなかった。
「そ、そんなに大変なの?」
 確かに、普段よりも一回りほど大きくなかったおなかを抱えていた里中は、酷く動きにくそうにしていたのを覚えている。それだと腕がなまるからと、ゴムボールを握ったり、鉄アレイを上下させたりして、山田を心配させていたのはつい先日のことだ。
「うーん、確かに、痛かったし、苦しかったかもしれないけど、もう忘れちゃったわ。」
 ふふふ、と加代は笑って、懐かしげに目を細めた。
 あの時、手を握って励ましてくれた人はどこにもいない。
 でも、確かのあのとき、あの瞬間……この体の中からうまれ出た命は、目の前に居るのだ。
 それも、今度は自らが命を産み落とすために。
「だって、あの生まれたときの──あの感動に比べたら、本当に……どうでもいいことなんだもの。」
 口元に微笑みを貼り付けて、加代はそう呟いた後、自分をジ、と見上げているサチ子の髪を掌で梳いてやった。
 なすがままにされている彼女の肩を抱き寄せて、
「いつかきっとサッちゃんも、そう思うときが来るかもしれないわね。」
 そう囁いた。
 その彼女の幸せそうな微笑みをまげて──サチ子も、うん、と一つ頷く。
 それから、加代の腕に抱かれながら、なんだか懐かしいような、くすぐったいような──微笑みを口に浮かべながら、30分ほど前に閉まったばかりの扉に視線をやった。
 がんばれ。
 ただ、今は、そう言うしかできないから。
「……うん、よしっ。」
 ぴょこんっ、とサチ子は椅子から降りて、両腕を後ろに組んだ。
「サッちゃん?」
 不思議そうに問いかけてくる加代に、ニッコリ、とサチ子は笑いかける。
「おばさん、サチ子ね、明訓の応援団長だったこともあるんだよ。」
「──……あら。」
 何をサチ子が言いたいのか察して、クスリ、と加代が笑う。
 そしてそのまま、小さな背をコチラに向けて、ウロウロしている兄の真後ろに立つと、
「お兄ちゃん、邪魔っ、退いてよ。」
 パンパン、と大きな足を叩いた。
 ギョッとしたように振り返る太郎に、ニッコリと笑ってから、サチ子は両手を背中に回し──ぐ、と胸を張った。
 その仕草に、覚えのない者はこの場には居なかった。
 応援団長の男子の横で、彼女がそうして音頭を取る姿を、野球部員達は何度も見てきたからだ。
 ス、と、腕が前へ差し出される。
「フレー、フレー、さーとーなーかっ!」
「……さ、サチ子……っ!」
 リン、と響いた幼い声に、慌てて山田がサチ子を止めようと体を折り曲げる。
 その手が、華奢なサチ子の体を後ろから抱きとめるよりも早く、
「とめるな、やーまだっ!」
 サチ子の声と同じくらい大きな声が、ビリリ、とその場をさえぎった。
「って岩鬼……ここは病院なんだぞっ!?」
 叫んでもいいものなら、自分だって叫んでる。
 そんな落ち着かない様子の山田を、じろり、と帽子の縁の下から睨みあげて、岩鬼はいつもの迫力で、がばっ、と立ち上がった。
「それがなんじゃい! サトは今、がんばっとるんやろがっ! それを応援して、何が悪い!」
「そうだそうだーっ! お兄ちゃん、離せよっ!」
 脇を掴まれたサチ子が、ジタバタと暴れるのに、山田は益々困ったような顔でサチ子と岩鬼を見上げた。
──ココが自宅で、産婆さんに来てもらっているとか、そういう状況なら話は別だろう。
 しかし、ココは総合病院なのだ。
 他の場所では手術もしているし、診察時間外とは言えど、基本的に病院は静かにしていなくてはいけない場所である。
 サチ子を抱きとめたまま、複雑な顔になる山田へと、
「まぁ、いいじゃないの、山田君。」
 穏やかに微笑みながら、加代が視線を扉へと向けた。
「智も、そのほうがいつもみたいだと、がんばれるわよ、きっと。
 今までだって、サッちゃんの応援で、がんばってこれたんだもの。力んで、あっという間に生まれちゃうかもしれないし。」
 その穏やかな眼差しに、山田は一瞬言葉につまり──そらみろっ、と叫んでいるサチ子を見下ろした。
──どちらにしても、このままだとサチ子も岩鬼も、騒音を撒き散らすことには違いない。
 山田はサチ子を下ろして、
「サチ子、里中を応援するのはいいけど、声は抑えろよ。」
「なんだよ、兄貴のケチ。」
 サチ子の前で、しぃ、と指先を押し当ててそう囁くと、サチ子はツンと顎をそらして小さく膨れた。
 そんな彼女に、ケチとかそうじゃないだろ、と小さく怒った山田は、そのままフゥとため息を零して……視線を元の場所に戻す。
 視線の先──閉ざされたままの扉の向こうで何が起きているのか、すかし見えることはない。
 サチ子は、そんな山田の隣を通り抜けて、
「がんばれーっ! 里中ちゃーんっ!」
 ぴょんっ、と飛び上がって叫んだ。
──わかってない、と、額に手を当てた山田に、くすくすと加代が小さく笑った。
 更にそんな山田の背後から、ガバッ、と岩鬼が立ち上がる。
 わなわなと拳を握り締め、ハッパを震わせ、彼は堂々と仁王立ちをすると、
「サトーッ! きばれやーっ!!」
 ビリッ、と響き渡る声で、叫んだ。
 その顔が、真っ赤に染まり、岩鬼はワナワナと拳を震わせる。
「い、岩鬼……。」
 サチ子以上の怒声に、おいおい、と慌てた山田に目もくれず、
「男なら、死ぬ気で生めーっ!!」
 血走った目で叫ぶ。
──どうやら、忍耐がそろそろ切れ掛かっているようである。
 そんな岩鬼に、がく、と面々が肩を落とす。
「男が赤ん坊を生めるかーっ!」
 サチ子が、勢い良くそんな岩鬼の足をけりつけた。
「う、うるさいわいっ!」
 そんなサチ子に目もくれず、岩鬼は真剣な眼差しで扉をにらみつける。
 その顔に──なんだかんだ言って、岩鬼が一番心配しているらしいと、山田は苦笑をにじませて、ぽん、と彼の背中を叩いた。
「岩鬼、そんなに心配しなくても大丈夫だよ──里中なら、大丈夫だ。」
 何せ、あの灼熱の夏の甲子園を、乗り切ったエースなんだから。
 そう、穏やかに笑う山田に──つられたように、ナインたちが頷いた。
 見る見るうちに落ち着きを取り戻した……ように見える山田に、
「……良く言うよ、兄貴ったら。さっきまで自分が一番オタオタしてたくせに。」
 腕を組んだサチ子が、しょうがないなぁ、と呟いた。
 そんな彼らに……クスクス、と漏れ出る微笑をこらえることもできずに、加代はもうすぐ生まれてくるだろうわが孫に思いを馳せた。

……きっと、元気で生まれてくる。

「皆、あなたを待っているのよ……。」






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岩鬼はなんだかそう叫びそう……(笑)。

いや、ウロウロする山田と、叫ぶ岩鬼を書きたかったんだよ。
そして本当の題名の意味は、生まれた赤ん坊を抱いて出てきた看護婦さんは、「怒鳴っていた岩鬼が父親だと信じて、赤ん坊を彼に差し出して、『はい、パパですよ〜』という」という話だったのですが(笑)、書いているうちに恥ずかしくなったのでやめました。

病院では静かにしましょう。


ちなみにそのころの「扉の中」





「サトー! きばれやーっ!!」
 突然、怒号のような声が、扉の外から聞こえて来た。
 その声に、びっくりしたように顔を見合わせる看護婦さんたち。
 里中は、その声が誰のものなのかすぐに気づき──なんだか、笑いたくなってきた。
 それでも、今は笑うわけにはいかないからと、さらに必死に神経を集中させようとした矢先。
「男なら、死ぬ気で生めーっ!!」
 クスクス、と笑う看護婦さんたちに──さすがにいろいろな「父親」を見てきただけあって、噴出す人間はいなかったが。
「……岩鬼…………。」
 なんだか、力んでいた力が、ふ、と抜けていくような脱力感を覚えつつ、それでも突っ込み体質は、突っ込まずにはいられなかった。
「………………男は生めないって。」
 ──まったく、もぅ。
 緊張感、そがれるなぁ……岩鬼は。