倦怠期














 とてもではないが、快適とは言えない真夏の蒸し暑い夜──観客の熱狂と選手たちの熱い一念からか、その日の球場の不快指数は最上級。
 高校時代の真夏のデーゲームを思えば、そんな不快指数もまだまだだと言いたいのは山々だが──やはり、不快指数で体が疲れるのまでは止まらない。
 試合がようやく終わる頃には、誰も彼もが汗を掻いて疲れた様子を隠せないでいた。
 当然、タオルもすぐにぐっしょり濡れて、アンダーシャツも汗を吸いきっている。
 その、着心地の悪い感触を伝えるシャツは、さっさとトイレで脱いできてはいるものの、着替えたシャツの下では、汗の感触がまだ残っているようで、気持ちが悪いことには代わりが無い。
 自分の首元にタオルをあてながら、里中はうんざりした顔で唇を尖らせる。
「……早くホテルに戻って、シャワー浴びたい。」
 思わず自分のロッカーに向けて、そう零してしまう。
 その里中の呟きを聞きとがめて、すぐ隣でシャツを豪快に脱ぎ捨てていた中西が、意地悪く里中の頭の上に向けて。 
「浴びてきゃいいだろ。」
 ココで、と、笑った。
「なんなら、近くに川が流れてただろ? アソコでもいいんじゃねぇか?」
 カチン、と頭にきた里中は、思わず眼を据わらせて、
「…………………………────あ、足が滑った。」
 しごくわざとらしく、カツン、と中西の足を引っ掛けた。
 と同時、
「わっ!」
 着替えることに頭が行っていた中西のバランスは、あっさりと崩れ、彼はそのまま自分のロッカーの中に頭から突っ込むことになってしまった。
「……ってっ。
 てめぇっ、何しやがんだっ!」
「何のことだよ? サッパリ意味が分からないな。」
 シレッとして里中はロッカーの中の荷物を手早く纏めると、それを肩に掛けて、未だに着替えている最中のチームメイトをにこやかな笑顔で振り返ると、
「それじゃ、俺、先にサロンの方に居ますので。」
 ペコリ、と頭を下げる。
 着替えは先に一人で済ませているので、今着替えている彼らと一緒にいる必要はないからである。
──何よりも、さっさと着替えた身であるにも関わらず、ムアッとするほど汗と男の湿気に囲まれているのは、遠慮したかったからとも言う。
「おー、悪いな。」
 軽く手を上げて声をかけてくれる選手たちに笑いかけた後、里中はそのままドアを開いて廊下に出たとたん──思わず、ふぅ、と漏れでた吐息を止めることが出来なかった。
 頬に触れる空気が冷たくて心地よい……と思う程度に、選手のロッカー室は湿気に満ちていたということだろう。
「換気、効いてないのかな……。」
 高校のロッカールームじゃあるまいし、とげんなりした顔で呟いて、荷物を掲げなおす。
 いつもなら、一人先に着替えた後、着替えているみんなと一緒にロッカールームに残って談笑しているところだが、今日は遠慮したい気分だった。
 そのまま里中は、選手用のサロンに足を踏み入れて、手近な椅子に腰掛けると、緩めた襟元からチェーンを取り出して、それを首から外した。
 取り出したチェーンに通していたリングをはずし、それをいつものように左手の薬指へ。外した後のチェーンは、袋に入れてカバンのポケットの中へ仕舞いこむ。
 そのまま、しげしげとつけたばかりの指輪を見つめた。
 かすかに曇っているような気がして、キュ、と指先でその表面をなで上げた後、なぜか口から零れるのは溜息。
 しばらく何の変哲もない指輪を眺めていたが、気を取り直して今度はバックの中に手を突っ込み、そこから携帯電話を取り出す。
 いつもは試合が始まる前に電源を落としておくのだが、最近は少し思うところがあって、サイレントの状態でカバンの中に放り込んである。
 チェックをするものの、携帯電話が鳴った様子はまったくなく、メールチェックをしてみても、帰って来るのは返事ナシ。
「………………………………………………。」
 思わず無言で携帯電話を睨んでいると、
「智ーっ! そろそろ帰るでげすよ〜。」
 明るい瓢箪の声が、サロンのドアの向こうから聞こえてきた。
 慌てて里中は携帯電話をカバンの中に放り込むと、そのままカバンを肩から掛けて、立ち上がった。













 その夜の宿泊先のホテルの一室──ゴンゴン、と乱暴にドアを叩く音がした。
 ちょうどシャワーからあがって、頭を乾かしていた最中だったので、そのまま頭からタオルを被った状態で、ドアの前に立つ。
 覗き穴から覗いた先には、見慣れた顔が一つ。
「球道、俺。」
 ドアの前に立つ中西の気配を感じたのか、覗き穴の向こうえ、ヒラリ、と里中は手を振った。
 それを見下ろして溜息を零すと、中西はチェーンを外してドアを開いた。
 真夏だというのに、長袖のシャツにズボン。
 足元はホテルのスリッパという出で立ちだが、さらに片手には薄いカーディガンまで持っている。
 今は春先かと疑うような姿だが、ホテル内には常に冷房がかかっていることを考えると、里中にとっては標準装備なのだろう。
「どうかしたのか?」
「帰り道で言ったじゃん、お前の部屋に飲みに行くってさ。」
 中西の隣を通り過ぎながら、里中はうわめ遣いに彼を睨み揚げる。
 通り過ぎる拍子に、先ほどまでシャワールームで嗅いでいたのと同じシャンプーの匂いが、ふわり、と鼻先をくすぐった。
 どうやら彼女も、今までシャワーを浴びていたようである。
「今日はトコトン飲むっ! 家に居たら飲めないからな……っ。」
 自分の部屋と同じ間取りのシングルだから、迷うことなく里中は中へ入って行き、中西が止める間もなく冷蔵庫の中を開いて、そこから缶ビールを取り出す。
 どんどんどん、と揃ってビールを取り出した瞬間、
「ちょっと待てっ! せめて下のコンビニで買いに行こうぜっ!?」
 叫んだ中西の貧乏臭い響きは聞かなかったことにして、里中は冷蔵庫の中のアルコールは全て取り出してしまう。
 この冷蔵庫は、中から取り出した瞬間にルームチャージに課金されてしまうシステムである──もちろん、取り出した後で元に戻しても意味は無い。
 さらに里中はツマミまでソコから取り出し、小さな備え付けのテーブルの上に乗せられたそれらに満足できないのか、テーブルの引き出しを開いて、そこからルームサービス用のメニューを取り出す。
「おまえ、自分の部屋から持って来いよっ!」
 コレはダメだと、後ろからメニューを取上げて叫ぶと、里中は顎を逸らすようにして中西を見上げる。
「えー、だって俺の部屋から持ってくると、課金されるじゃん。」
「俺の部屋ならいいってぇのかよ。」
 空っぽになった冷蔵庫に溜息を零す中西を他所に、里中はさっさと一番大きい缶ビールを取上げると、ぽすん、とベッドの上に座る。
 ぷしゅ、と小さく音を立てて缶ビールを開くと、それを顔の前で掲げて、
「ほら、本日のお前の完投を祝って。」
 軽く左右に缶ビールを揺らして笑う里中に、中西は苦い笑みを刻んで、すでにテーブルの上に出された缶ビールを取上げ、ぷしゅ、と同じ用にプルを引く。
 そのまま里中が掲げる缶ビールに、コツン、とお愛想程度にぶつけると、
「おめでとー。」
「ありがとさん。」
 棒読みの里中の祝辞に、やはり棒読みで答えて──、自分はテーブルに備え付けられた一人用のソファに、腰を落とした。
 そうやって、今日の試合の結果だの、ここ数日の調子だのを話ながら、一本空けて、二本空け──、明日は千葉に帰って休日だと言うこともあってか、気づけば里中が冷蔵庫から出したビールは全て空になっていた。
 ほろ酔いまで行かないまでも、アルコールが疲れた体に浸透して、少し気分が浮かれていたのだろう。
 まだ飲み足りないと、ベッドの上で胡坐を掻きながら訴える里中が言うまでもなく、中西自身も「一人分」しか入っていない冷蔵庫の中身の、さらに半分の量のビールでは満足できなかった。
「よし、それじゃちょっくら、買いたしに行って来るか。」
「おーっ、先輩達に見つからないようにしろよ。」
 酒で少し浮かれたいたのも手伝って、中西は自らの財布をズボンのポケットに突っ込んで立ち上がる。
 そんな彼に、里中も目の前のピーナッツを食べながら、ヒラヒラと手を振って賛成の声とともに、忠告を零す。
──何せ、同じホテルに泊まっている先輩選手に見つかって、ビールを取上げられた……という悲しい話も、あるのだ。
 風呂上りの体にアルコールを入れたことも手伝って、ほんのりと白い頬を上気させて笑う里中に、そんなヘマするかよ、と笑って答えて、中西は部屋を出た。
 静かなホテルの廊下は、もうすぐ日付が変わる時刻だと言うことも手伝ってか、ひどくシンとしていた。
 ロビーの受付にも人はいなく、誰かに呼び止められることもないまま、中西は無事にホテル近くのコンビニでビールを購入することが出来た。
 ガチャガチャと、かすかに耳障りな音をさせるコンビニのビニール袋を片手に、再びホテルのロビーを通り抜ける。
 来たときと同様、誰も居ないエレベーターに乗り込み、自分の部屋のある階の廊下に踏み出した瞬間、
「…………あ、ツマミ買ってくるの忘れた。」
 ぴたり、と足を止めた。
 見下ろした袋の中には、二人分には充分だと言えるくらいの缶ビールが入ってはいたが、そのツマミになるようなものはない。
 確か、部屋に用意されていたつまみも、里中が先ほど食べていたピーナッツで最後だったような気がする。
 かと言って、今からまたコンビニまで行くのはおっくうだった。
「──ま、いっか。酒だけ飲んでてもさ。」
 別に、空腹時に酒を詰め込んでいるわけじゃないんだし、そう悪い酔いすることもないだろう。
 あっさりとそう結論づけて、中西はそのまま軽快な足取りでホテルの部屋の前まで戻ってくる。
 そして、ドアを開いた先。
「おー、今戻ったぜ……………………。」
 思わず彼は、絶句した。
「あ、球道。日付が変わったらルームサービス終わるって言われたから、今のうちに頼んどいた。」
 あたり前のようにベッドの上でそう宣言する里中と、空の缶ビールが数本立てかけられていたテーブルの上に並ぶ料理の数々が、中西を出迎えてくれた。
 思わず、扉を開けたまま、がちゃん、と床に向けて袋を取り落としてしまった中西を、責めるわけには行かないだろう。
「……って、里中──っ! お前、何考えてるんだっ!?」
 とてもではないが、ビールのツマミだとは思えない量の料理に──というか、ホテルのルームサービルで使われている「ツマミ」なんて、一体どれくらいすると思ってるんだと、そう目じりを釣り上げる中西に、里中はヒョイと肩を竦めて、ベッドの上に置いた皿の上のチーズをツマミあげながら、
「これくらい食べるだろ? で、ビールは何を買ってきたんだ?」
 なんでもないことのように、ヒョイとベッドから降りて、里中は入り口に突っ立ったままの中西の元まで歩いてくると、
「……何、突っ立ってるんだ? さっさとドア閉めろよ。」
 彼の手からコンビニの袋を奪いながら、怪訝そうに問いかけてくる。
 そんな彼女へ、誰のせいでこうなってるんだと、そう叫びたくなったが──目の前に鎮座しているルームサービスの品々が、それで無くなるわけでもない。
 はぁ、と、思わず重い溜息が零れて、中西は無言で後ろ手にドアを閉めた。
「あっ、アサヒがある。俺、キリンよりも生アサヒがいい。」
 ゴトゴトゴト、と、景気のいい音をさせながら、里中は机の上に缶ビールを並びたて、残りのビールが入った袋ごと、再びベッドの上へと移動する。
「多分そういうだろうと思った。」
──っていうか、高いもんばっかり頼みやがって。
 思わずテーブルの引き出しの中から、ルームサービスの一覧のパンフレットを取り出して、逐一金額を確認したいという凶暴な(?)気分に駆られたが、そんなことをすれば、この酒がヤケ酒に変わるか、悲しい酒に変わるかのどちらかのような気がしたから、あえて手を触れることはしなかった。
「ま、いいぜ。今日はとことん飲んでやるっ!」
「そうこなくっちゃなっ!」
 どうせ請求が来るなら、とことん飲んで、とことん食べてやるっ!
 そう勢い良く宣言する中西に、おーっ! と、里中もとことん援護してやる気満々で、さっそくコンビニの袋に入った缶ビールのプルを開けることから始めるのであった。










 なんだかんだで空き缶の数が、十数本を越える頃になってくると、体が疲れていることと、風呂上りに飲んだことの二つが合わさって、すっかり酔っぱらいになっていた。
 そして、酔っ払った里中の話題はと言えば、
「──って言うわけでさー、山田が手首の故障で苦しんでたときに、俺、何もできなかったんだよな……昔、俺が苦しんでたときには、いつも山田に励ましてもらったのに…………。」
 ──やっぱり、山田の話題ばかりであった。
 普段の里中は、愚痴を零したり、人に弱音を吐くことは決してない。
 彼女は頑固とも言えるほど、そういう感情を表に出すことはない。闘争心や負けず嫌いな一面は、見ていて分かるほど豊かに顔に出るのに、そういうことだけは悟らせまいとする傾向が強い。
 そして同時に、西武の山田のことを口にすることも、驚くほど少なかった。
 話を振られれば、ノロケられているのではないかと思うほど幸せそうに話してくれることはあるが、決して自分から山田の話題は振らないのだ。一応、山田がライバル球団の人間だと言うことで、セーブしているようである。
 ……が、しかし、何度か酒を飲み交わしたことのある面々だけは知っている。
 里中は、酒を飲めば、そういう理性でセーブしている「ライバル球団の山田のことを口にしない」「弱音をはかない」と言ったことに対する箍がゆるくなるのだ。
 結果として、今日の里中の話題は、今日も山田が連絡をくれなかっただとか、この間の怪我のことを、俺は知らなかっただとか、その話題に尽きる。
 正直な話、聞いている中西にしてみたら、ただののろけにしか思えないのだが。
「そりゃしょうがねぇだろ。俺達と山田じゃ、球団が違うんだからさ。」
 頬を赤く火照らせて、ぷっくりと赤く染まった唇を尖らせて拗ねる里中を、椅子の背もたれにもたれながら見下ろして、中西は缶ビールを一口煽る。
 コンビニを出た時には冷たかったビールも、すでに温く、喉越しがいいとは思えなかったが、酔っているため気にならない。
「実際お前だって、肩の故障の時とか、山田に話さなかったじゃん。」
「……あれはだって、二年目のジンクスのこともあるのに、そんな余計なことで山田に心配かけたくないじゃん。」
 中西の口から当たり前のように零れた台詞に反論して、里中はキッと彼を睨みつけるが──すぐにアレ、と目を瞬く。
「球道、お前確か、俺が故障してた時、居なかったよな?」
 誰から聞いたんだ、と尋ねようとして、すぐに可能性に思い当たる。
──瓢箪さんか。
 いや、それ以外にはありえない。
「そりゃま、色々とその時の話は瓢箪さんから聞いてるしな。」
 そして、里中が思ったとおりの名前を、あっさりと中西は吐いてくれた。
「変な話してるなよ……。
 それになー、俺が言いたいのはソコじゃなくって──そりゃ、山田に相談もしてもらえなかったのは、ショックだったけど、でもしょうがないかな……とは思ってるんだよ。山田は昔っからそういうところ、あったし。」
 ぐび、と生ぬるくなったビールを飲んで、里中は眉間に皺を寄せる。
「で、里中は山田のために、温泉のパンフレットとか、真田に連絡を取って軟膏を譲ってもらおうとしたりとかしたんだろ?」
「うん、そう。」
 新しい缶ビールを開けながら言う中西に、その話の出所はドコだと追求することはしない。
 やはり分かりきっているからだ──同時に、自分がロッテの選手の端々に、「打ち身に効くのって何があります!?」と聞きまくっていたという自覚もあるからだ。
「でもなー、そんなことしてるうちにさ、岩鬼が武蔵坊に連絡を取ったらしくってさー────…………。」
 我ながら目が据わっているなと思いながら、里中は缶ビールを傾ける──が、ちょうど先ほど全部飲み終えてしまったらしく、缶の中からは雫しか滴ってこなかった。
 ちぇ、と舌打ちをして、ポイと缶を放り投げ、新しい缶ビールを開けようとする里中に、
「武蔵坊?」
 どこかで聞いた名前だなー、と、中西は首を傾げる。
 しかし、その疑問を抱いた中西には気づかず、里中はプルトップに指を引っ掛けようとしながら──けれど、うまくプルトップに指先が引っかからず、はぁ、と溜息を零して里中はそれも一緒にポイとシーツの上に投げ出す。
 そのまま、ぽすん、とひっくり返るようにベッドに背中を預けて倒れこんだ。
 ずいぶんアルコールが回っているのか、そうやって倒れこむと、天井がグルグルと回っているような感覚を覚える。
 目を閉じると、今度は倒れこんだベッドが回っているようだった。
「………………俺、明訓時代には、山田のことを一番良く分かってるのは俺なんだって思ってたけど、離れてみると思うんだよなー……結局、岩鬼には、勝てないのかなー、とか。」
 ぽつり、と零した瞬間、今の今までこらえていたことが、急激に胸から喉にかけてせりあがってきた。
 ぐ、と顎を引いて、奥歯を噛み締めようとするが、アルコールの回った体は言うことを聞いてくれない。
 ほかほかと体の中から燃え滾るようなアツイ感覚が、そのままのど元を通り過ぎて、目頭まで昇ってきそうになった。
──この熱さが、本当は飲みすぎから来た吐き気であったのなら、中西のベッドに吐き捨てるだけで済むというのに。
「────…………里中……、お前、もう飲むのやめて、部屋に帰ったらどうだ?」
 岩鬼と自分を比べるとは、相当里中もアルコールが回っているに違いない。
 呆れを含んでそう声をかけると、ゆっくりと里中が上半身を起こした。
「……なぁ、球道?」
 ベッドの上に、ころん、と転がった空いていない缶ビールを、再び手繰り寄せながら、里中はチラリと上目遣いに中西を見上げる。
「なんだよ?」
 片手に持った缶ビールを傾けながら、答える男に、両手でぬるくなった缶ビールを握り締めながら、
「俺、今日、ココに泊まったらダメか?」
「────……ぶっ。」
 ちょうど口に入っていた飲み込む前のビールを、中西は思いっきり噴出した。
 そのまま、ゲホゲホと咳き込む中西に、里中は手元の缶ビールを持て余すように、右へ左へと手の平を行き来させる。
「なんかさー、昨日その話をサッちゃんから聞いてからさー……っていうか、どうしてその話を山田本人じゃなくってサッちゃんから聞かなくちゃいけないんだとか、色々思うところがあるんだよな、俺も。
 山田のヤツ、携帯電話持ったくせに、滅多に俺にかけてこないし、未だにメールは使いにくいから使わないとか言うし。」
 プルトップに指をかけては、カリ、と空振りする里中に、あーあ、と小さく溜息を零して、中西は椅子から立ち上がった。
 そのまま里中の傍に近づき、彼女の手からヒョイと缶ビールを取り上げると、
「……おまえ、相当、たまってるな……。」
 ぷしゅ、と代わりに開けてやる。
 そのまま炭酸と麦の匂いのするビールを里中の前に戻してやると、彼女はそれを受け取って、素直に口をつける。
 うなだれたように見えるうなじが、うっすらと赤く火照っているのを見下ろして、中西はなぜか視線を逸らして天井を見上げた。
「あんまり飲むなよ……って、そうじゃなくて、だからって、なんで俺の部屋に泊まるって言うんだよ…………。」
 コリ、と頬を指で掻いた中西に、里中は缶ビールを両手で包んだまま顔を上げる。
 軽く首を傾げながら、里中は隣に立っている中西を見上げる。
「ダメか?」
「………………っ。」
 思わず息を呑んだ中西を、ジ、と見上げて、里中は微かに頬を朱色に染めた。
 酒に酔っ払ったためではなく、自分でも恥ずかしいことを口にしようとしていると分かったからこその、火照りであった。
「だってなんか、一人でいるとさー、ずっとウツウツと考えそうなんだよな。」
 クルクルと缶ビールの表面を指先でなぞりながら、なんとなく缶ビールの表面を見つめて、里中は小さく──桃色の唇から、溜息を一つ零す。
「家に居たら、しなくちゃけいけないことがあるから、それしてる間は考えなくて済むんだけど……なんかこういうのって、考え出すとドツボに嵌ってきてさ。
 かと言って、瓢箪さんにお願いして投げ込むって言うのもどうかと思うし。」
 だったら俺はいいのかと、中西が口を開くよりも早く、里中は大きな瞳をゆっくりと瞬いて──それも酔いが回っているためか、とろんと焦点が微かに合ってない上に、潤んでしっとりと濡れている。
 間近に見えた里中のその黒い瞳に、思わず言葉に詰まった中西は、ガンと頭を殴られたかのような衝撃を覚えた。
 そのまま絶句する中西に、さらに追い詰めるように、里中は上目づかいに、
「明日はもう千葉に帰るんだし、今日一日くらい、徹夜でもいいだろ?」
 な? と、お願いする。
 その強烈なまでの打撃力に、中西は思わず一歩後じさった。
 里中本人は、まったく自覚をしていないようだが、ひどく顔形の良い里中の容貌は、普通にしていても見とれる者が続出する威力がある。
 その強力な武器である容貌で、いつもとまったく違う、少しの不安を宿した繊細な表情で、ジ、と見つめられれば、不自然に胸が騒ぎ出しても、おかしな反応ではないはずだ。
 白い滑らかな頬に、ほんのりと走った朱色。パッチリとした瞳は、アルコールが回ったために、潤んでしっとりと濡れている。
 上目遣いに見上げられると、なぜかドクンと心臓が忙しなく動き出す。
「──里中、そりゃな、俺も泊めてやってもいいって言いたいとこだけどな……お前も結構酒飲んでるし、このまま野放しも危ない気もするし。
 でもさ、お前──その……一応、女じゃん?」
 ドクドクと強く鳴る心臓に気づかぬフリをしながら──必死に中西は、平静を取り繕いつつ、口早に告げる。
 その目が天井辺りをウロウロとするのをとめられない中西が、酒のせいではない赤い色を頬に走らせているのに、まったく里中は気づかない。
 それどころか、天井を見つめている中西を見上げたまま、パァッと満面の笑みを浮かべると、
「えっ、泊めてくれるのかっ!? サンキュー、中西! やっぱり持つべき物は同僚だよな〜。
 そうと決まったら、今日はトコトンまで飲むぞっ!」
 あー、安心した、とばかりに、ガブ、と缶ビールをあおる。
 そんな里中に、慌てたように中西は彼女を見下ろす。
「誰も泊めるって言ってないだろっ、こら!」
「泊めてやってもいいって言ったじゃん、今。」
 胡坐を掻いて、新しいつまみに手を伸ばす里中に、言ってない、と苦い色を濃く刻んで、里中の顔を覗きこむようにして叫ぶ。
「だからって、お前は女で、俺は男なんだよっ。わかってんのか、その辺っ!?」
 指先を彼女の胸元に突きつけるように怒鳴れば、里中はキョトンと目を見開いて──プッ、と噴出した。
 枝豆を掴んだ左手で、里中はパタパタと手を振ると、
「何言ってるんだよー、アハハハハ。そんな俺が女だとか、今まで全然気にしてなかったくせにー。今更だろ、今更。」
 何を言ってるんだか、とまったく相手にせずに、枝豆を口に放り込んだ。
 朝まで飲むとなると、酒が足りないなー、と、コンビニの袋の中に残る缶ビールの数を数える里中へ、
「気にしてなかったのは、お前だろ、お前っ!
 いくら下にシャツを着てるからって、ロッカールームで普通に着替えてるほうも、着替えてるほうだろ……。」
 ガリ、と首筋の裏の辺りを掻きながら、──なぜか、異様にその当たりがこそばゆく感じてしょうがない──、中西は苦虫を噛み潰す。
「──ってそうじゃなくてよ、今は状況が状況だろ。
 スキャンダルとか言われたらどうする気だよ、お前。」
 一応、男と、女。
 それも、同じホテルの部屋で、二人きりで酒盛り。
 普通なら、何かあっても、おかしくないだろ?
 そう言外に呟く中西の台詞に、里中は何がおかしいのか、大きな目をますます大きく見開き、おかしそうに腹を抱えて笑い出す。
「あはははは! なーに言ってるんだか。俺、結婚してるんだぞー?」
 先ほどまで枝豆を持っていた手を、ヒラリ、と空中に回せて、彼女は試合が終わったあとにつけたばかりの銀色のリングを中西に向ける。
「そんな、何かなんてあるわけないじゃん。」
 あははははは、と、聞いているこちらが思わずムカリとするくらい、あっけらかんと里中は断定する。
 そのまま、缶ビールをあおる里中の、のけぞった白い喉が上下するのを見ながら、中西はなんとも言えない脱力感と、それに反発するように浮かび上がってくる、なんとも表現しがたい感情。
 思わず手の平に顔をうずめたくなって、中西はその欲求に従いながら、指の間から里中を見下ろす。
「……あのな、里中……。」
 ドクドクと心臓が強く脈打っているのは、今更ながら酒が回ってきたせいだ。
 中西はそう言い聞かせながら、声が上ずらないように気をつけながら、低く彼女の名を呼んだ。
 里中はちょうど、自分が手にしていた缶が空になったので、中西の足元に置いてあったビニール袋の中に、缶を放り込もうとしていたところだった。
 ベッドの上から上半身を折り曲げるようにして中西の足元に手を伸ばしていた里中は、上から呼びかけられた声に、そのままの体勢で中西を見上げた。
「ん?」
 首を傾げて、見上げてくる里中の、無頓着とも言える態度に、中西は唇をゆがめる。
「…………里中。」
「だから、なんだよ。」
 ベッドの上に戻り、里中はもう一度自分の名を呼んだ中西を、いぶかしげに見上げる。
 いつもなら、里中のそんな顔に、何かを感じることなんて絶対にないと言い切れた。
 けれど、少しずれたシャツの襟元から見えるまぶしいほど白い鎖骨だとか、ホンノリと朱色に火照った頬とか、ふっくらと濡れた唇だとか──いつもは「女」に感じないその色が、突然、鮮やかな色を持って目の前に訪れた気がした。
 どくん、と一つ鼓動が高く鳴る。
「球道?」
 そんな彼女を見下ろして──中西は、腰を折るようにして里中に顔を近づける。
 アルコールの匂いが、ぷん、と鼻先に香った。
 なのに、そこに混じって、自分も使ったホテルのシャンプーと同じ匂いがする。
 それが、目の前の女性からしていると言うだけで、知らず喉が上下した。
「……人妻って言葉にな……男はそそられるもんなんだぜ。」
 ほんの少し驚かすつもりでそう口にしたのに、口から言葉になって零れたとたん、それは中西の中で形をとった。
 人妻。
 目の前の里中をそういう目で見たことは、決して無い。
 何せ、球団の同じロッカールームで着替えていても──さすがに中のシャツなどは、ほかの更衣室やトイレで着替えているようだが、里中は基本的に平気でロッカールームで一緒に着替える──、彼女に「女」を感じたことは一度もない。
 にも関わらず、目の前の里中が「人妻」だと思った瞬間、ズクン、と背筋が震えた。
 色気のかけらも無いと思っていたはずの里中の顔が、ほろ酔いした火照った頬と潤んだ目が、自分に「色」を売っているように見えた。
 ゴクリ、と、喉が上下する音が聞こえるかと──そう思った刹那。
 
ピッピロピッピロ、ピッピッピ。

 ひどく場違いな軽快な音が聞こえた。
「…………なんでココで頑張れドカベンが流れてくるんだよっ!」
 思わず裏手で、ドコともなく空気に向かって中西が突っ込んだ瞬間、
「あ、山田だっ!」
 ピョコンッ、と反応するように、里中は肩を跳ねさせた。
「お前の着信音かよ!」
 さらに中西が突っ込むよりも早く、里中は手を伸ばして、この部屋に入ってきて早々にシーツの上に置き去りにしていた自分の携帯を取る。
 キラキラとLEDランプを輝かせる携帯電話を、迷うことなく耳に当てると、里中は受話口に向かって話しかける。
「もしもし?」
 今の今まで話していた声と比べて、まったく違う色を持つ声に、中西は一瞬で頭が冴えるのを覚えた。
──絶対、今の里中は、無自覚なのだろう。
「……うん、今? うん、平気。何もしてないから。」
「思いっきり人のルームチャージで酒飲んでるだろっ!」
 幸せそうに笑って頷く里中に、中西は声を荒げて里中に──いや、電話の向こうに居るだろう山田に突っ込んでみた。
 けれど里中は、中西の方向から顔を背けて、手で受話器の周囲を覆うと、
「ん? 声? あぁ、中西だよ。
 今、中西の部屋で飲んでるんだ。
 うん? いや、全然飲んでないよ。」
 何でもなかったかのように、微笑みを零して電話の向こうにささやく。
 ほんのりと火照った頬と、潤んだ瞳で、嬉しそうに笑みを零す里中が、いつになく女っぽく見えたが、今はそれよりも、
「………………お前が飲んだ缶ビールの数数えて叫んでやろうか……。」
 そのあたりを、電話の向こうの山田に教えなくてはいけないような、そんな気がした──が。
ぎゅにゅっ。
「──……つ!!!」
 電話をしながら、里中は中西のほうをチラリと見ることもなく、指先で思いっきり彼の太ももをつねり上げてくれた。
 おかげで、里中の飲んだ本数を、山田に教えることはできなかった。
 思わずその場にしゃがみこみ、中西は己の足を引き寄せてうめくが、山田との電話に集中している里中は、そんな彼の様子に、まったく気づくことはなかった。
「平気、平気。明日の朝はもう帰るしさ。──え? 明日?
 えーっと…………球道、明日の朝って、何時にホテルを出るんだったっけ?」
 自分が今したことは、まったく頭にないかのように、里中は受話器に手をあてながら、床にしゃがみこむ中西を見下ろし──、
「……何やってるんだ?」
 自覚がまったくないまま、そう問いかけた。
 中西は、そんな彼女をジロリと睨み上げたが、あえて口にすることはなく、忌々しげに顔をゆがめた後、
「朝食後だったんじゃないか……?」
 吐き捨てるようにそう答えた。
 その、中西の声の奥に隠れた凶暴な響きにまったく気づかず、里中は再び彼に背を向けて電話に向き合うと、
「うん、うん──ん? うーん……でも山田だって今日は……え、あ、そうか、そうだな。うん、ん? うん。」
 話せば話すほど、ニッコリと解きほぐれていく微笑みに、彼女の電話の相手が何を言っているのか、容易に想像できた。
 嬉しげに微笑んだ口元や、少女のようにほんのりと火照った頬。
──お前ら、新婚ホヤホヤかと、そう突っ込みたくなるくらい、いつ見ても里中は嬉しそうに山田と話す。
「…………分かった、うん、おやすみ、また明日な。」
 そして、中西の想像に決定打を押すような一言を残して、里中は今にも受話器にキスしそうなほど嬉しそうな顔で、ソ、と携帯の終了ボタンを押した。
 そのまま、ニコニコと笑顔で携帯の画面を見つめる彼女を、床にしゃがみこんだ体勢のまま、見上げる。
「──会うのか、明日?」
「うん。」
 綻ぶ微笑と、幸せがあふれる声。
「……良かったな。」
「うん。」
 噛み締めるように笑う里中の顔に、中西はポツリと思った。
「………………──────嫌がらせにキスマークの一つでもつけてやろうか、この野郎。」
 携帯電話を大切そうに見つめて、ニコニコ笑っている里中に、「もう山田への愚痴はいいのか」と問いかけたかったが、あえてそれは口にせず、中西は変わりにコンビニの袋の中に残っていた缶ビールを取り出すと、ペタ、とそれを里中の頬に当ててやった。
「で、里中、徹夜で飲むんだったら、ビールたりないんだろ? 追加はどれくらいいるよ?」
 足りない分は、今から買ってくるぞと、そう告げると、里中は携帯電話をシーツの上において、その手で中西が差し出したビールを受け取ると、フルリ、とかぶりを振った。
「ん、もういい。これ飲み終わったら、部屋に帰るよ。」
「──いいのか?」
 山田から電話がかかってきたら、もう満足したのか、と──思っても口にしないのは、単に里中の返って来る答えが、100%理解できたからだったのだが……、中西の問いかけに、ホロリと綻ぶように笑って答えた里中の返事までは、想像だにしなかった。
「うん、山田に夜中に他の男の部屋にいるなって言われたから、帰る。」
 思わず中西は、ホテルに備え付けの時計を見やった。
 その針は、里中が風呂上りにこの部屋を来襲してから、すでに4時間ほどの時間が経過していることを示していた。
「────────………………もう今更だなー、とか思わないか?」
「明日は山田、千葉まで迎えに来てくれるんだってさ〜。」
 中西の、当たり前のような突っ込みは、里中の浮かれた声にかき消された──ようで、ある。










+++ BACK +++



ちょびっと中西→里中。
題名は倦怠期だけど、倦怠期じゃー、ありません(笑)。







「あ、山田っ。」
「なんだよ、また携帯か?」
「やーまーだーっ!」
「って、実物かよ!!」
「昨日、山田が千葉まで迎えに来るって言ったじゃん。」
「まさか駅まで来てるとは思わないだろっ!」
「やまだ〜。」
「ってこら! 待て、里中っ! 俺はお前のだんなから、昨日のルームサービス代を貰わないと気がすまないんだからなっ! このために、ホテル側に恥を忍んで、領収書を切ってもらったんだぞっ!」


「いやー……仲がいいでげすねぇ〜。」


──って言う関係だったら、楽しいなぁ…………(笑)