「こらぁーっ! コタっ! ちゃんとコジの着替えを見てあげなさいって言ったでしょーっ!!」
ブンッ、とお玉を振りかざし、キリリと整った眉を吊り上げる美少女の怒鳴り声が、今日も長屋の中に響き渡った。
朝もまだ早い時間──本当なら、これほど大きく叫んでいたら、近所から「うるさい」と文句が飛んできても仕方がないだろう。
しかし、朝の早い長屋の住人は、この声を「目覚まし代わり」にありがたがることはあっても、うるさがることは決してなかった。
そんな少女のリンとした声が響き渡る目の前では、ビックリした顔をして目を大きく見開いている、ぷっくらとした面差しの少年が一人。
さらにその前では、立派な畳の上で、シャツの袖に両足を突っ込んだ子供がコロコロと転がっていた。
「ほらっ、コジの足からシャツを抜いてっ! もー、あんたが小次郎の着替えを手伝うって言うから、お姉ちゃん、ご飯の支度を始めたのに……っ。」
まったく、と、お玉を持った手を腰に当てて、メッ、と怖い顔になる姉に、慌てて小太郎は楽しげにキャッキャッと笑い声を上げている弟の足からシャツを引っこ抜いた。
その拍子に、コロコロコロコロ……と転がっていった小次郎の、ますます楽しそうに笑う声が、狭い居間に響いた。
「──わわっ、小次郎っ!」
慌ててシャツを放り出し、四つんばいになって小次郎の後を追う小太郎の、その年頃にしてはふくよかなお尻を見ながら、ハイハイで追いつくわけないでしょーがと、姫は額に手を当てて、見なかったことにして台所に戻った。
そのままガスコンロでぐつぐつ煮立っている味噌汁の中にお玉を突っ込み、くるくると掻き混ぜながら、
「……と、そういえばおじいちゃん? 今日って、パパが帰って来る日じゃなかったっけ?」
姫は、庭先に続く縁側で、のんびりと新聞を読んでいた祖父に声をかける。
その後ろでは、コロコロと転がり続ける小次郎を、小太郎がハイハイで追いかけている光景が繰り広げられている──しばらくこの遊びを、二人は繰り返すことは間違いない。
「ん? あぁ、そうじゃよ。確か、今日の昼過ぎに駅について──今日明日と、休みじゃと言うとったな。」
「明日も? ……って、あ、そっか。あさっての試合は、東京ドームだったっけ。」
コンロの火を止めて、食器棚に向かって歩き出すついでに、台所の壁に貼られた「食事当番表」をチラリと見やる。
シーズン中ともなると、プロ野球選手である両親は、めったに自宅に居ないため、ほとんどが姫と祖母、曽祖父の当番ばかりになる。
ほとんどが三人の名前が交互に書かれているカレンダーは、明日の朝と夜の分に、父と母の名前が入っていた。
ということは、またもや明日、堂々と台所でバカップルぶりを発揮する両親を見ることになるのは間違いない。
「なら、今日の買出しは、二人の分も入れないとダメか。」
「いや、なんなら、わしは適当に作って食うから、家族で外食でもしてきたらどうじゃ?」
新聞を捲る手を止めて、曽祖父がそう声をかけてきてくれるが──もし家族で外食などすることになったら、じっちゃんだけ置いていくなどということは、父の性格上ありえない。
「それはありえないわ。」
それ以前に、「外食自体がありえない」と、姫はあっさりと曽祖父の台詞を打ち切った。
オフシーズン中ならとにかく、毎晩のようにテレビやラジオや新聞に出ている父と母の顔を、子連れでさらけ出して歩くのは、正直な話──あまりしたくない。
あの二人がしたがっても、姫は、したくないのだから、絶対に外食はありえないのである。
「それに、パパもさとパパも、向こうでは外食ばっかりなんだから、たまに帰ってきたときくらいは、家のご飯が食べたいでしょうしね。」
付け加えるようにそう笑って告げて、姫は食器棚の中から人数分の茶碗と汁碗を取り出した。
きっと明日の夜は、あのいい年してバカップルな夫婦は、お決まりのように他球団の試合を隣同士になって見るのだろう。
さらに試合を見ながら、熱い討論を交し合い、明日の練習でもしておくかと、庭で素振りをする父に付き合って、母が縁側に座るに違いない。
そうなると、小太郎と小次郎も、遊んでもらうチャンスだとばかりに、二人にわらわらと付きまとうのだ──自分も小さい頃、それを繰り返したばっかりに、父と母のバカみたいな練習量に付き合う羽目になったっけ。
そういう【貴重】な時間があるから、余計に外食はしない。
「ねーちゃーんっ! ねえちゃん、ねえちゃんっ! コジが大変〜っ!!」
お盆の上に食器を並べて持ち上げた姫は、慌てたように叫ぶ小太郎の声に、
「何っ、どうしたの!?」
「小次郎っ!?」
曽祖父と揃って居間に駆け込んだ。
慌ててガシャンと音を立ててお盆を机の上に叩きつけ、姫は部屋の隅っこに座る小太郎に近づくと、泣きそうな顔で自分達を見上げる小太郎の隣で──、
「うぅー。」
仰向けになって頭を抑えて、なみだ目でこちらを見上げている小次郎と目があった。
「…………頭をぶつけたのね……。」
一目見て分かる光景に、呆れたように溜息を零す姫の隣から、じっちゃんが腕を伸ばし、
「どぉれ、じいちゃんに見せてみろ。」
小次郎の身体を、ヒョイ、と抱えあげた。
とたん、火がついたように泣き出す小次郎に、小太郎はオロオロと目を左右にあわただしく動かすが、
「コタ、あとはじっちゃんに任せて、あんたはおねえちゃんの手伝いをしなさい。」
ポン、と姫に軽く頭を叩かれて、大きく目を見張った後、コクン、と頷いて、台所に戻っていく姫の後を、小太郎はトテトテと追いかけたのであった。
東京に帰った翌々日のスケジュールを確認するために、それぞれ手に手帳を持ち、それを広げる。
一同の正面に立つ土井垣が、同じように手帳を広げながら、明日以降の予定を口にするのを、おのおのが確認しあい──それで本日は解散、となった。
「そう言えば、もうすぐ小太郎の誕生日だな。」
広げた手帳をそのままに、里中が隣に立つ山田に首を傾げるようにして告げると、それに頷いた山田ではなく、
「あぁ、そういえばそうだったな。
なぜかオールスターの真っ最中に誕生日があるから、よーく俺も覚えてるぞ。」
にこやかに笑う、監督の土井垣であった。
その口調に棘を感じない人間はいない──ハズなのだが。
「まだ根に持ってるんですか、土井垣さん? しつこいですよね。」
里中は、あっさりとその会話を終わらせた。
はうっ、と、一瞬周辺の選手達が肩を強張らせたが、里中の言葉を受けた土井垣は、苦い笑みを刻み込むだけで特に怒っているような様子は見えず、ホ、と胸をなでおろす光景がソコかしこで見られた。
「そんなことよりも山田。」
里中は改めて山田を見上げると、軽く首を傾げて、
「ちょうどあさっては東京ドームだし、明日あたり、一緒にプレゼント買いに行かないか?」
「こっちで買うのか?」
どうせなら、遠征先とかの方が、あの辺りでは手に入らないメーカーものがあるのではないのか、と問いかける山田には、
「うん、だってやっぱり、俺達が普段買いなれてる所のほうがいいだろ?」
何を買うのか、非常に分かりやすい台詞で答える。
「あぁ、あのスポーツ店か。」
「うん。」
すぐに思いついたらしい山田に、コクリと里中が頷く。
まったくもって、分かりやすい誕生日プレゼントである。
──というか、
「今年の小太郎へのプレゼントは、グローブなのか?」
微笑が軽く笑いながら尋ねる。
小太郎と小次郎も、山田と里中が投球練習をする隣で、自分達の真似をしているんだと、山田が嬉しそうに話していたから、そろそろマイグローブを買ってやるつもりなのかと、そう思ったのだが。
「ううん、今年はバット。」
「グローブは、姫が昔使っていたのがあるから、それを使わせてるんだ。
使い込んだヤツのほうが、最初はいいしな。」
子供にとったら、使い古しよりも新品のほうが嬉しくてしょうがないと分かっているのか分かっていないのか、二人は懐かしい話題を口にしてくれる。
「わいがサインしてやったグローブやな。
大切に家宝にしとったとは、やぁーまだのくせに、感心やで。」
岩鬼が腕を組んで、うんうん、と頷いて呟くのには、
「何が家宝づらぜ。グローブ買ったのはおじいちゃんづら。」
殿馬が呆れたように突っ込んだ。
そう──初めての初孫が可愛いおじいちゃんは、両親がキャッチボールしているのを見て、「姫もやりたい〜」と言った幼き日の孫娘に、グローブを買ってやったのだ。
今、思うと、初孫の娘にやった初プレゼントがソレというのも、どうかと思うのだが──まぁ、その点に関しては、殿馬や微笑も人のことは言えないような類のプレゼントをしているので、あえて必要以上に触れることはない。
「懐かしいな……姫ちゃんも、太郎とキャッチボールしたくて、グローブ買ってほしいって言ってたんだっけ。」
顎に手を当てて、あれは何年前だったっけ、と懐かしげに目を細める微笑に、
「そう、で、買ってもらった早々、岩鬼にサインされて、大泣きしてたよなー。」
岩鬼がサインをした時の過程を、里中があっさりと暴露した。
祖父にねだって買ってもらったグローブを、本当に嬉しそうに抱きしめた姫を見下ろして、「そのグローブをもっと価値のあるもんにしたるわ。」と、世界に一個しかない、ダイエーの岩鬼のサインやで、と親切に──そしてかつ、いつものようにすばやく、姫からグローブを取り上げてさっさとサインをした岩鬼。
ぽい、と返されたグローブを見下ろした瞬間、姫は落書きされたと大泣きしたのだ──まったくもって、懐かしい思い出である。
そう──何もかもが懐かしい思い出である。
あまりに微笑ましい思い出に、あの後大変だった、と里中はうんざりした表情を浮かべた。
「というか、すまん、岩鬼。おまえにサインされたグローブは、ほら……姫が使いすぎて破れて…………。
……いや、捨てては、ないけどな。」
山田が苦笑を滲ませて、そのグローブの行方を正直に白状した。
頭を軽く下げるのは、彼が人が良いからだ──普通に考えたら、そんな13年も前のグローブが、新品同様に山田家の家宝になっていると思うほうがおかしい。
まだ子供相手にどこまで手加減したらいいのか分からなかった明訓五人衆に必死でついて回った姫は、その新品のグローブを、あっさりと使い込みすぎて破れさせてしまったのだ。
それでも、大切に持ち続けて、コレじゃないとイヤだとダダをこねていたのが懐かしい。
「なんやとぉっ!?」
すまなそうに頭を下げる山田に、カチンと眉を吊り上げる岩鬼。
しかし、その岩鬼に反しあっさりと、
「……って、あ、そうだよ、そういや、破れて大泣きして、大変だったよな。」
微笑が記憶の蓋を開いて、何が起きたのか思い出したようであった。
思わずガクンと憤りを崩した岩鬼に明るく笑いながら、里中も微笑に頷く。
「そうそう、で、殿馬が自分が使ってたグローブを姫にやったんだよ。
懐かしいなぁ。」
「づら。」
思い出をしみじみと噛み締めながら、そんなことを零した後、里中は改めて山田を見上げた。
「姫にも、今度新しいグローブとバットを買ってやらないとな。」
「そうだな。」
ニコニコ、と笑顔を交し合う。
そんな懐かしい会話を交し合う明訓5人衆に、いつの間にか蚊帳の外にされてしまっていた土井垣は、己の苦労をいたわるように米神を軽く揉みこみ──小さく、溜息を零した。
「──……まぁ、あえて今更色々おまえらに突っ込むのも疲れたから、これ以上突っ込むことはしないけどな…………。」
自分も、ずいぶん忍耐強くなったものだと、つくづく土井垣は思う。
この明訓高校面子が見せる「奇跡」に、魅せられた立場であると同時に、彼らによって急性胃腸炎になるかと思うくらいの苦労も背負い込んだ自覚もある。
時折真剣に、「オレは良くこんなヤツラの監督なんてしてて、自律神経をやられないもんだと思うよ……」と、寝床で思うこともあった。
その辺りを呟くと、「類は友を呼ぶって言いますしね」と、あっさりと里中が自分と山田のことは頭数にいれずに微笑んでくれたことは、最近の記憶に新しい。
「小太郎のバットと一緒に買いに行くのか?」
はいはい、と微笑がニコニコと笑顔を交し合い、二人の世界に入った夫婦に質問を飛ばす。
この辺り、なれた調子である。すでにもう、二人の雰囲気を飛ばしまくる二人に引く人間は、スーパースターズには居なかった──ルーキーやトレードでやってきた選手達も、毎日のように繰り返されれば、キャンプの一ヶ月くらいでなれるからである。
「いや、姫の方は、次の誕生日だな。」
「三人も居ると、誰か一人に特別な贈り物をすると、ほかが煩いからな。」
あっさりと里中が零した台詞には、色々心の中で突っ込むことがたくさん土井垣にはあったが──たとえば、「スーパースターズに入った後は、3年は二人目がほしいとか言うな」とか言っていたにも関わらず、あっさりと「妊娠休暇ください」とか言ってきた二年目のこととか──……っ。
「そっか、じゃ、明日はプレゼント買うのにそれほど時間はかからないよな?」
にんまり、と微笑が笑うのに、山田が「ん?」と首をかしげる。
それに対し、里中はイヤな予感がして、軽く顔をしかめた。
「──って待て、まさかおまえら……。」
これでは、いつものパターンのような気がする──。
そう、戦慄めいたものを覚えた里中に、
「それじゃ、明日は久しぶりにみんなでスポーツ店で買い物だな。」
当たり前のように微笑がニッコリと相好を崩して告げた刹那、イヤな予感は現実となった。
「やぁーまだとサトが使うとる店なんかに、わいが使うとる一流品があるんかいな。」
「一流はよ、どんなもんを使っても、一流っちゅうづらぜ。」
──着いてくる気だ、こいつらは。
「……ぁー…………。」
何か言いかけ……けれど、何を言ったらいいのか困ったらしい山田が眉を寄せて、さて、どうしようかと首を傾げる横で、
「ちょっと待てっ! 誰がいつ、おまえらも一緒に来いと言ったよっ!?」
里中が激情のままに叫ぶが、
「いやー、智と一緒に買い物するなんて、何ヶ月ぶりだろうなー。」
「おまえらのケチな目ぇだけには、まかせとられへんからな。」
「バットもよ、リズムが必要づんづらぜ。」
もちろん、素直に耳を傾けてくれる三人ではなかった。
こっの、やろうども……っ、と、思わず拳を握る里中を、慌てて山田が背後から止めながら、
「ま、まぁいいじゃないか、里中。たまには、賑やかに買い物をしても……。」
「賑やかな買い物だけですめばいいけど、絶対こいつらは、その買い物の後までついてくるに決まってるだろっ!」
せっかく久しぶりに、映画行ったり、喫茶店行ったりとかしようと思ってたのに、絶対、バッティングセンターとかに行くことになるに決まってるっ!!
そう、断固として宣言する里中には、とりあえず冷静に、
「いや、俺らがついてかなくても、おまえら、いっつもそのコースだから。」
パタパタ、と微笑が手を振ってまで断言してくれた。
そんな、仲の非常によろしい一同の休日計画を耳にした土井垣は、無言で額に手をあてながら、
「……なんでよりにもよって、トラブルメイカーどもが、休日に一緒に行動したがるんだ…………。」
その気持ちが知れない、と──人知れず、胃の辺りをなでながら、そ、と溜息を零す姿が見られたという……………………。
+++ BACK +++
ハイ、果てしなく何が言いたかったのか分からない話に、最後までお付き合いありがとうございました。
結局なんだったんだといいますと、ただの「日常」です。意味はありません。
前回「新婚旅行」に続き、たまの休みは山田と里中のデートについていってみよう、大作戦。
多分、なんだかんだでみんな別行動するような気がしないでもないですが……。
普通に高校時代も、みんなさりげに別行動なのに、山田と里中だけいつも一緒だったしネ。
けど、有名人が5人も集まったら、さぞかし目立つことだろうと思います。