選手ロッカー室に、置きっぱなしにされている雑誌を、読んだ。
 書店で平置きにされている雑誌で、表紙には最近の政治事情めいたことが書かれていたので、てっきりニュース系の情報雑誌か何かだと思ったのだ。
 最初は何かの特集で、次に白黒ページがあった。
 何かのスペシャリストらしい人の写真が入っていて、その人のインタビュー記事があったが、興味のない分類のことなので、その人が誰で、何のインタビューを話していたのかは、さっぱり記憶に残っていない。
 そのままページを捲っていった先に、投稿ページというのがあった。
 そういえば、昔──高校の頃、同じ合宿所の後輩が、愛読していた雑誌に投稿しようと、どうでもいい合宿所の日常をハガキに書いて送っていた。
 そういうのは、雑誌よりもラジオに送ったほうが読まれる確率が高いんじゃないかと、微笑が苦い笑みを刻みながら忠告していたのも、覚えている。
 どういう投稿内容が書いてあるのかと、何気に読み始めたタイトルからすでにもう、おかしかった。
「……? 『人妻の激白! 私の蜜壺を味わってください』……?」
 どういう意味だろう、これは?
 そう疑問を抱きつつ、真剣にその下りのタイトルを口にした里中に、
「ぶっ!」
「……って、智っ! お前、それっ、何読んでるんだっ!!」
 周りで着替えていたロッテの選手たちが、慌てたように首を傾げながら雑誌を見下ろしている里中に突っ込んだ。
「何って──、読者投稿のページですけど?」
 これの。
 そういって掲げる雑誌を見た瞬間、その場に居た選手のジットリと据わった視線が、とある一点に注がれた。
 その視線の先に居た男は、肩と首を竦めながら、
「すまん……今度からは、ちゃんと仕舞っておく。」
 片手を顔の前に掲げて懺悔しながら、そう宣言した。
 ──が、今更誓ってくれても、その雑誌が里中の手元にあることには変わりない。
「なぁ、球道? 蜜壺って、ハチミツか何かか? 最近は、ハチミツを手作りするのが流行ってるのか?」
 不思議そうに首を傾げながら、近くに居た中西に問いかける里中の、やらせかと思うくらいの純粋な眼差しに、ロッカー室に居た男達は、ちょっぴり涙を飲んだ。
 そんな里中の問いかけを受けて、中西はロッカーに頭から突っ伏す。
「……養蜂農家かよ……。」
「あっ、そうか、そういうことか。」
 なるほどな、と頷く里中に、納得するなよっ! と裏手で突っ込みたくなる。
 ということは、この投稿記事は、養蜂農家の家の奥さんが、嫁姑問題で苦労してる相談話なのだろうかと──母が良く購入している女性雑誌を思い出しながら、さっそく里中が最初の一行に目を落とした瞬間。
「智にはまだ早いでげすよ。」
 ヒョイ、と瓢箪が雑誌を奪い取る。
 その瓢箪の行動に、オオーッ! と周囲から歓声と拍手があがって、里中は意味が分からないと顔を顰める。
「……早いって……人生相談が?」
 そしてどうして、選手たちは雑誌を取上げたことで喜ぶんだ?
 意味が分からないと、憮然とする里中に──意味が分かってないのはお前だけだと、中西はさらに裏手で突っ込みたくなる自分を必至で堪える。
 瓢箪は取上げた雑誌の表紙に目を落とし、それが自分の想像に違わない、紛れもなく独身寮にゴロゴロと転がっている類の雑誌だと認識すると、とっぷりと溜息を零して、
「こういうのはでげすね、恋人と上手く行ってない寂しい男性が読むものでげすよ。
 智みたいに、順風満帆な男が読むものじゃないでげす。」
 キッパリはっきり言い渡し、瓢箪はソレを持ち主に渡した。
 その持ち主が、「そりゃどういう意味だよっ、瓢箪っ!」とロッカー室の片隅で叫び、瓢箪の襟首を掴んだという事件の発端はさておき、里中はそんな瓢箪の言葉に、考えるように首を傾げた後──、
「………………つまり、恋の悩み相談室ってことか?」
 自分なりの答えを出したらしい里中に、ロッカー室内の面々は、生ぬるい笑みを浮かべるだけで、決して本当のことは教えてやろうとはしなかった。
──ただの、「自慢話」経験談だよ。
 なんてことは、他所様のことには興味がなさそうな里中にとって、何の意味もないことが、分かっていたからである。
 彼らはそう言って、さっさと話を(無理矢理)打ち切ったが、「お前はお子ちゃまだから」あつかいされた里中が、そこで素直に引いたことに、注意を覚えておくべきであったのだ──彼に、この手の雑誌を、絶対に読ませたくないと思っていたのならば。



────話は、そんなひょんなことから始まる。








H STYLE












 試合の後に飲みに行くのは、そう珍しいことではない。
 なんだかんだで仲のいい「明訓四天王」たちは、お互いがライバル球団であるということも気にせず、試合後に仲良く飲みに行ったりご飯を食べに行ったりしている光景を良く見る。
 もちろん、同じ球団の者同士ならば、そうなることは多々ある。
 時にはその面子に、他の球団の面子も加わり、和気藹々と食事会……ということも、ある。
 今回もそれと同じで、いつものメンバー──里中、中西、瓢箪の三人とプラスして、本日の対戦相手であった日ハムの土井垣と不知火が加わって、飲みに行くことになった。
 ちょうど土井垣が、前に日ハムの先輩に連れて行った居酒屋が、球場の近くにあるというので、彼に個室の空き部屋を予約してもらい、そのままの足でゾロゾロと店へ向かうことにする。
「それじゃ、行くか。」
 携帯電話を切って土井垣が振り返った先には、着替えた後の服の上から、それぞれのチームのネーム入りのウィンドブレーカーを着込んだ里中と不知火、中西、そして半そでシャツの瓢箪の4人。
 そのままゾロゾロと歩き出しながら、話題に上るのは今日の試合のこと──とは言っても、自分たちの試合ではなく、他の球団の試合のことだ。
 これであそこは優勝争いから外れただの、今年のあの選手は手ごわいだの……話はそこからずれて、最近の携帯は便利で、試合の結果がメールで来るだとか、それはどこのサービスなんだとか、気づいたら、話題が尽きぬままに居酒屋に到着していた。
 そこへいたるまでの徒歩10分ほどの間──結局里中は、一度も「山田」の話題を口にすることはなかった。
 一緒に居るのが、土井垣や不知火ではなく、ロッテの選手達なら、それもありえただろう。
 しかし、今日、ココに居るのは、里中が高校の時から良く知っている二人なのである。
 他の誰かと一緒に居るときの里中は知らないが、自分たちと一緒に居てもなお、「今日の山田はホームランを2発だから、これで今年は通算……。」ととうとうと語りだすことがないのは、非常に珍しい。
 居酒屋の中に入りながら、土井垣は唐突にそのことに気づき──思わず里中を振り返ったのだが、後ろから不知火と軽口を叩きながら階段を上がってくる彼の顔には、何もおかしなところはない。
 ここに山田が居たならば、里中の変化にも気づいたのかもしれないが──、
「……ま、どうせ聞いてもくだらないことなんだろうな。」
 今までの過去の出来事から、それは分かりきっていることだった。
 そう思ったからこそ、土井垣は里中のそんな様子に、あえて見てみぬふりをした。
 里中の悩みは、里中自身が解決するか、山田が解決するだろうと──この二人のバカップルに首を突っ込んで疲れる思いをするのは、必要最小限にしたいと、そう考えたのである。
 そのまま彼らは、店員に案内されるままに二階にあがり、用意された部屋でそれぞれ飲み物を頼み乾杯をした。
 その後、いつものように里中が、メニュー表を広げて、自分は食べもしないのに次々に一品料理を頼んでいく光景が見られた。食が細い彼は、いくつもの料理を片っ端から少しずつ突付くのである。
 嬉々としてメニューを頼んでいる里中の姿は、特におかしなところは見えなかった。
 だがしかし、メニュー表を閉じると同時に、緊張した様子の給仕に向かって、締めくくるように、
「あと、冷酒。」
 ──こう続けた。
 里中の口から出たその注文内容に、一瞬動きを止めたのは、土井垣だけだった。
「おっ、冷酒か、それもいいな。」
 里中の隣に座っていた中西は、すでに半分ほど減っている乾杯用のビールを舐めながら、俺はもう一杯ビールな、と給仕のお姉さんに頼む。
 土井垣は無言で自分のビールを見下ろす。
 チラリとあげた視線で確認すれば、里中の目の前に置かれた中型のビールジョッキの中身は、すでに空になっていた。
 どうやら、いつの間にか全部飲み干してしまっていたようである。
 里中は基本的に、酒は一気に飲まないようにしている──それが母からの教えであり、山田からの忠告でもあるからだ。試合の後の腹が空いた状態に、中型ジョッキとは言えどビールを一気飲みするのは、里中にはありえない。
 しかもその上、冷酒まで頼むとは──今日の彼は本気で、「酒」を飲むつもりであることは間違いない。
 自分は好んで日本酒を飲むが、里中はそうでもない。
 山田の祖父が日本酒や焼酎を好んで飲むので、それに付き合い晩酌する程度はたしなんでいるようだが、自分から進んで飲むところを見たことは……数えるほどしかなかった。
 その数えるほどというのが。
────山田とケンカしてやけっぱちになっているときとか、山田になかなか会えなくてイライラしてるときとか、山田と……以下略。
「…………………………。」
 お前、山田と一体何があった。
 そう聞きたくなる気持ちを、土井垣はぐっと拳を握って堪えて、手元のビールジョッキを引っつかみ、それを一気に煽った。
 とにかく今日は、気持ちよく最後まで酒を飲むために、里中よりもさきに酔っ払ってやる……っ!
 土井垣はそう心に決めて、ドンッ、と空になったビールジョッキをテーブルに置くと、
「お姉さん、熱燗一本。」
 早速、酒に酔うための──ちなみに酔った後の介抱は、隣の不知火に任せることに一方的に決めて──、こちらも里中に負けず劣らずの据わった目で、給仕のお姉さんをジロリと睨み挙げた。
 給仕のお姉さんは、そんな迫力の土井垣に、恐れおののいたような表情になったが、コクコクと頷き、それでも丁寧に一礼して去って行った。
 そんな、里中と土井垣の不穏な戦いの火蓋は、知らず切って落とされたわけだが、残念ながらそのことに、だれも気づいては居なかった。
 そうこうしているうちに、酒が運ばれてきて、頼んだ一品料理が来て──気づいたときには、里中の前には空になった冷酒ビンが2つと、さらに畳の上にビールジョッキが1つ。
 乾杯のビールを一気飲みし、続けて頼んだ冷酒も一気に空けた結果である。
 その、いつもの里中に比べて異様だと思えるほどのハイペースのおかげか、里中の白い頬はすっかり赤く染まり、彼の目はすでに据わっていた。
──……弱っ。
 思わず中西が、隣の里中の酒量と酔い方にそう思ったのはさておき、ここまで酔っ払えば、素面のときにあえて山田の話題を避けていた里中の口からも、「山田」の名前が上り始める。
 酔っ払った里中の話題が、いつもは口にしないように気をつけている「山田」のことばかりだというのは、良く知られていることである。
 もちろん、瓢箪も中西も不知火も、そのことは知っていた──というか、実際に被害に遭って来た。。
──が、しかし、その酒の席に「土井垣さん」が加わると、その「山田話」のグレードがアップするということを、彼らは初めて知った。
「やっぱり山田って、スゴイよなぁ……。」
 どこかうっとりした口調で、潤んだ瞳でそういいながら、里中は目の前の冷酒が入ったグラスを指先でなぞる。
 そんな彼を、はいはい、と土井垣は慣れた様子であしらう。
「山田もスゴイけど、岩鬼もホームラン王を狙えそうな勢いだな。」
 常に山田の話を逸らすように、別の人間の話題を出すが、里中はそれを戻すように、
「やっぱり山田は三冠王を狙いますよ、なんてったって山田ですからっ。」
「そうなったらそうなったで、また記者が押し寄せるだろうから、お前は泊まりに行かないほうがいいだろうな。」
 あー、はいはい、と、やる気なさげにあしらう土井垣が、いつものように里中がおかしな暴挙に出ないように、釘を打ったところで。
「…………………………。」
 唐突に、里中が動きを止めた。
「──智?」
 冷酒のグラスを無言で見下ろす里中に、瓢箪が手羽先をつまみあげた手を止めて、驚いたように問いかける。
 しかし里中は、手にした冷酒のグラスをグッと握り締めるだけで、何も言わない。
──いや、そうではない。
 里中は、据わった目を、キッと自分の正面に座る土井垣に向けると、
「土井垣さん……っ。」
 酔っ払い以外の何者でもない目で、切羽詰ったように呼びかけてくれる。
 そんな里中の呼びかけに、土井垣はまだほろ酔いにもいたってない自分の酒の強さを、少しばかり恨んだ。
 翌日が最低な状態になると分かっていても、ちゃんぽんした挙句、頭を振ってでも悪酔いしておけばよかった……。
 後悔してみるが、里中が自分を、ジ、と見つめている時点で、すでに遅いのは分かっていた。
 せめてここで土井垣にできることは、彼がおかしなことを言ってこないことだけだ。
「俺、土井垣さんに、聞きたいことがあるんです……っ。」
「悪いが、山田が今何してるとかは知らんぞ。」
 前に一度、そう言って絡まれた覚えのある土井垣は、最初にきっちりと里中に言い含める。
 たとえ自分が悪くなくても、里中の大きな目で、ジ、と涙目で見上げられたら、罪悪感が湧き上がってくるから、タチが悪いのだ──里中の絡み酒は。
「山田のことは後で聞くからいいんです!」
「……聞くのかよ。」
 呆れたように不知火が合いの手を入れてくれるのに、もっと入れてやって話をずらしてくれと、真剣に土井垣は願った。
 が、しかし、その土井垣の願いは、不知火にも中西にも瓢箪にも届かなかった。
 誰もが、真剣な顔で土井垣を見つめる里中を、見守ってくれている──まったくもって、土井垣にとっては無駄なことである。
「土井垣さんって、恋人と週に何回くらいやってますっ!?」
──ぶはっ!!
 その部屋に居た、5人中4人が、口に含んでいたものを噴出した。
 もちろん、酒に酔った目で真摯に言い放つ里中以外の、全員である。
 もう少し酔っ払った状態で言われるならとにかく、まだほろ酔い加減で、土井垣に至っては素面も同然である。
 そんな中で、聞かれたい台詞じゃない。
 ゴホゴホと隣と斜め前あたりから激しい咳音が聞こえるのを耳にしながら、土井垣は冷静に口元をお絞りでぬぐうと、
「お前なっ……、とつぜん、なんていうことを言うんだ……っ。」
 そう──低く、吐き捨てるように呟く。
 が、しかし、里中はそんな土井垣の台詞を聞かずに、
「通常は5日くらいなんですよね? でも、俺たち野球選手って、今の時期、ほとんどオフがないじゃないですか、そうすると会う日も少なくなるから、やっぱり週1かそのくらいだと思うんです。けどそれは、長距離じゃない場合であって、長距離なら……やっぱり、月に1度か2度くらいですか?」
 お前は本当に酔っ払っているのかと思えるくらいの態度で──いや、こんなことを聞いてくる時点でもう、酔っていることは間違いないのだろうが──、身を乗り出して尋ねてくる里中に、ゴホゴホと咳き込んでいたはずの瓢箪や中西、不知火からの興味津々な視線が感じ取れた。
──酔っていたら、自分もウッカリ口を滑らせてしまっていたかもしれないが。
「だから俺に聞くなっ、そういうことはっ!」
 噛み付くように、土井垣は里中の質問に叫び返してやった。
 答えられるわけがないじゃないか、せめてまだ、里中と自分の二人っきりのときの、真剣な相談なら聞いてやらないこともないが、この居酒屋のこの席で──興味津々な男3人の視線にさらされた状態で、答えたいことじゃない。
 しかも、自分は根っからの野球バカだ。そんなことを聞かれて、「俺はなー」と軽く答えられる神経は持っていない。
 そんな苦い色を刷く土井垣に、里中はバンッと机を叩くと、
「だったら他に誰に聞けばいいって言うんですかっ! 岩鬼や三太郎や殿馬に聞けっていうんですかっ!? それこそ、まともな答えなんて返ってくるわけないじゃないですか!」
 逆切れしてくれた。
 酒を飲んでいる里中は、絡み上戸になりやすい。
 ちなみに山田に対しては、別の意味での絡み上戸になる。その時の山田の嬉しそうな顔は、「ただのにやけ面」と元明訓ナインは口を揃えて言う。
 あまりにイチャイチャしすぎて、視界の暴力になるので、基本的に山田と里中を酒の席に誘うときは、彼ら二人を引き離して座らせるか、里中には酒を回さないようにしなくてはいけない。
 が、そんな心配は今はしなくてもいい。何せ今この場に山田はいないからである。
 よって里中は、迷惑極まりない絡み上戸の状態になっているわけだ。
 そこで土井垣も、里中の逆切れに乗ったように、
「そこに中西が居るだろう、中西がっ! 球道に聞いておけっ!」
 バンッ、と強く机を叩いて、中西を指差した。
 対里中対策、「面倒なことは他人に矛先を回せ」を実行する。
「俺っ!?」
 突然名指しされた中西は、すっとんきょうな声をあげて、ブンブンと顔を左右に振るが、土井垣も里中も見てはいなかった。
 里中は、キュ、と顔を顰めて、
「土井垣さんは俺の先輩じゃないですかっ、(元)監督じゃないですかっ! 何かあったら、いつでも相談に乗ってやるぞって言ってたじゃないですかーっ!」
「どこが相談だっ、どこがっ!」
「だから週に何回くらいやってるのかって、参考に聞いてるでしょうっ。」
 参考。
 その言葉が里中の口から漏れた時点で、誰にともなく溜息が零れた。
 土井垣にいたっては、その台詞だけで里中が何を悩んでいるのかまで気づいてしまい、あぁ……と溜息を零しながら額に手を当てた。
 一気に頭から血の気が引き、疲れが怒涛のように押し寄せてきた。
──────結局、山田絡みか。
 どうしてそういうことを、俺が一手に引き受けなくてはいけないのだと、思わないでもなかったが、目の前に座る里中が、潤んだ瞳でジットリと睨み挙げてくるのに、土井垣はいたたまれないような感覚を覚えて、頭を抱える。
「──あー…………そういうのは、個人差だと思うから、お前の場合は……その……今までの経験で考えたらいいだけの話じゃないのか?」
 チラリ、とすばやく瓢箪と中西に視線を向けてから、かろうじて先輩らしい助言をくれてやる。
──お前の隣に座ってる二人は、お前と山田のことを知っているのかと里中に視線で確認したが、酔っ払いと化した彼がその視線のイミに気づくことはない。
 土井垣の遠まわしに遠まわしすぎる答えに、不満そうに顔をゆがめると、
「それじゃ分からないから、聞いてるんじゃないですかっ!」
 里中は、自分の前に置かれた冷酒のグラスを手に取り──それが空なのに気づくと、無言で隣の中西のビールジョッキを奪い取り、一気にそれを飲み干した。
「っておい、里中っ! 俺のビールを飲むなよっ!!」
「うるさいっ! 今日の完投投手は黙ってみてろっ!」
 なぜかなみだ目交じりに叫ばれて、うっ、と中西は身を退く。
「……イミが分からないでげす……。」
 ココまで酔っ払った里中を見るのは初めてだと、何気に里中との距離を置きつつ、呆然と瓢箪が呟く。
「──俺も、何度か里中と飲んだことはあるけど、ここまで酔ったのを見るのは初めてだぜ。」
 そんな瓢箪にコクリと頷きつつ──今日が里中の敗戦試合だったのなら、ここまで悔しがるのは分かるが、そういうわけではない。今日の完投投手は中西だ。
 どちらかというと、今日の場合は、悔しがって飲むのは自分のはずなのだが──、どういうことだ、これは? と、里中の行動の意味が分かっているらしい土井垣に視線をやると、彼はガックリと肩を落として、両手で小さなお猪口を握り締めていた。
「ど……土井垣さん?」
 おそるおそる名を呼ぶと、土井垣は暗くうつろな目で視線をあげて、
「……あぁ……守。お前もう、なんでもいいから適当に答えておけ。」
「──って、俺がですかっ!?」
「先輩から聞いたことでもなんでもいい──お前確か、入ってきた当初に色々先輩達にからかわれて、シーズン中の恋人の扱いとか聞かされてただろう……っ、あれでいい、あれで……っ。」
 決して視線をあげずにそう呟く……断定する土井垣の目は、半分以上据わっていた。
 その目に、思わず体を引きかけた不知火に、
「俺は別に、不知火でも土井垣さんでも、答えが分かるなら、それでいい。」
 キッ、と里中が視線をあげる。
 そのギラギラと焼け付くような強い眼差しは、良くマウンドで見ている闘志あふれるソレ。
 ──こんな居酒屋で、こんな場面で、そんな目を向けられても、楽しくない。
 しかも、本人は迫力たっぷりに睨んでいるつもりなのだろうが、赤く火照った頬と、熱で潤んだ瞳が混じった状態では、闘志というよりも、泣きそうな顔で何かを我慢しているように見えないこともなかった。
 不知火は、そんな里中の目に、参ったように目を閉じて米神のあたりを指先で揉むと、とりあえず矛先を別の方向にずらすことにして、
「中西達はどうなのか、参考までに聞かせてくれ。」
 何気なくそう言ったところ、
「あ、俺はな、3回ってことで。」
「俺は寮でげすからね〜、ま、週1回ってことで。」
 ────でっちあげか、貴様らっ!!
 あからさまに、やる気のない返事であった。
「あんたらな……っ。」
 不知火が、このままでは、こんなところでプライベートを暴露するはめになってしまうと、ひそかに危機感を覚えた瞬間。

 ぽろ……っ。

 この状況の元凶が、不意に大きな瞳から、涙を零し始めるではないか。
 堰を切ったように、ぽろぽろと零れだす涙に、思わず絶句したのは不知火で、
「……さっ、ささ、里中っ!?」
「智っ、ど、どうしたでげすかっ!?」
 動転して慌てふためいたのは、しれっと「嘘」を口にした二人組みである。
 慌てて身を乗り出して、里中の肩を叩くやら、背中を撫でるやらで、焦る二人に対し、里中は顔を俯けると、
「……やっぱり…………飽きられてるんだ………………。」
 小さく、──良く耳を澄ませないと聞こえないほど小さく、里中が呟く。
「何? なんだって、里中?」
「智、悪かったでげす。つい……その……見栄を張ったのは謝るでげす〜。」
 慌てて瓢箪が手の平で里中の肩をなでるが、里中は悔しげに下唇を噛み締めるだけで、答えない。
 グ、と必死で涙をこらえようとしている顔が、いつもよりも数段幼く見えて、慌てたように中西も後ろ頭を掻きながら、
「わりぃ、俺もちょっと見栄張った。」
 ……ちょっと? と、不知火と土井垣が不信感溢れる視線を向けたが、中西や瓢箪が本当はどうなのか、二人とも知っているわけではなかったので、あえてその辺りに鋭く突っ込むことはしなかった。
 里中は、視線を落として、ジ、と自分が飲み干したグラスを見つめる。
 零れた涙で歪んだ視界の中、いつもなら無理矢理飲み下せるはずの、悲しみとも悔しさともつかない感情が、胸から溢れてくるのを留められない。
 止められないまま……ヒク、と喉が引きつる音を立てて、
「…………俺……もう、駄目なんだ…………。」
 グイ、と里中は乱暴な手つきで、目じりから零れる涙を強引に拭い取った。
「ダメ? ダメって里中、まさかお前、その年でもうイ……っ。」
 驚いたように目を見張り、「男としてそれは痛い!」と、いたたまれそうな目で中西が里中を見下ろしておののくのに、
「それ以上は言うなっ!」
 土井垣が一瞬早く彼が何を言おうとしたのか察知して、バシッ、と自分のお絞りを彼の顔面めがけて投げ捨てた。
 見事に顔に当たったお絞りに、「ストライク。」と呟いた不知火に、バカ言うなと、中西はそのお絞りを叩き落す。
「それ以上も何も、ほかに何で悩むっていうんだよっ、土井垣さんっ? そうだろ、里中? ここは酒の席だし、どうせ俺たちしか居ないんだからさ、正直に話せよ。」
 真剣に──おそらく彼も彼なりに、里中のことを思っての発言なのだろう。
 だがしかし、もし先ほど中西が口にしかけたことが「真実」であったのなら……、
「って、球道、そんなことを、いくら酔ってるからって、軽く告白できるわけはないでげすよ。」
 それはあまりんも、酷ってもんでげす。
 そう、フルフルと弱弱しくかぶりを振る瓢箪に、
「…………………………………………──────────────。」
 非常に微妙な顔つきで、土井垣が自分の熱燗に向けて視線を落とした。
 この目の前の二人は、里中と長く付き合っているはずだ──特に瓢箪は、里中がロッテに入ったときからの付き合いだと言っても過言ではないだろう。
──本当にお前ら、気づいていないのか? それとも、俺や守が知らないと思って、とぼけてるのか?
 土井垣がその判断に、非常に強く悩んでいる間に、中西は里中の肩を強く握り締め、力強い表情で、
「で、里中? お前、どれくらいやってないんだ?」
「だから聞くなよっ!!」
 土井垣は思わず、手にした熱燗を投げかけたが、
「ど、土井垣さんっ、それはさすがにまずいです!」
 隣に座っていた不知火から羽交い絞め状態で止められる。
 そんな不知火に向けて、それじゃお前は聞きたいのかと、そう泣きたい気持ちで叫ぼうとした先で。
「……………………オールスターの後……。」
 里中は、自分の涙をぬぐったお絞りを、ギュ、と握り締めた。
 その答えを聞いた瞬間、土井垣はガックリとそのまま机の上にうつぶせそうになった。
 普段の里中は、決してこんなことを自分から話したりしない。ついうっかり喋ってしまったり、キスマークがついているのにきづかずに堂々と着替えをしてしまい、思わず「知らされてしまう」以外、知りようはなかった。
「………………そういや、今年のオールスターの後、なんでか同じ部屋に泊まってたなぁ……っ。」
「あー……そういや、朝、同じ部屋から出てきてたな……。」
 ひたすら脱力する土井垣の心情を理解して、不知火も頬杖を付きながらそんなことを吐き捨てる。
 そんな脱力する日ハムバッテリーを前に、ロッテの投手と捕手は、
「それならまだ一ヶ月少ししか経ってないじゃないでげすか。」
「だぜ。なーんだ、俺はてっきり、一年とか二年とかやってないのかと思ったぜ。」
 それは絶対ない。っていうかお前ら、一度でいいから、箱根の旅行空けの里中とかを見て来い。あの年末年始ラッシュの後の里中と山田は、はっきり言って、長年の付き合いである土井垣ですら近づきたくない。里帰りに実家に帰ったところへ、新年の挨拶に来る後輩を、あれほど疎ましく思ったことはないと思うほどのすごさなのだ。
──そしてそれは、同じように神奈川の実家に里帰りしている不知火も、偶然何度か立ち会ったから、知っていることだった。
 土井垣の米神が揺れている理由を十分に理解できた不知火は、何も言わずに自分の分のビールを飲み干す。
 どちらにしても、オールスターから今日まで会ってないのなら、別に何の問題はないじゃないか。
 一体、何を悩む必要があるのだろうかと溜息を零しながら、
「中西と瓢箪さんの言うとおりだぜ、里中。お前は考えすぎだろ。
 そもそも、シーズン中の前半丸々会わなかったりとかだってあるだろ、お前らは。」
 不知火が、うんざりした顔でそう零す。
 事実、春のキャンプで調整が完全に仕上がったとは言いがたい時などは、登板予定が迫るほどに、必至で肩を作り上げようとする──プライベートを、挟む余地はないはずだ。
 呆れた様子でそう続ける不知火に、ハッ、と顔を上げたのは里中ではなく、
「……えっ、し、不知火は智の恋人を知ってるんでげすかっ!?」
 肩を大げさに跳ね上げさせた瓢箪であった。
 さらにそれに続き、呆れた様子で中西が、
「しかもどういうエッチ周期なのかまでお見通しかよ。」
「………………そういう表現はやめろ、中西。」
 なんだか自分が、ヤツラの同行を逐一チェックしているストーカーのようだと、心外した風に顔を歪める不知火に──、彼はそのまま安堵したように笑う。
「あははは〜、なんだ、土井垣さんは絶対知ってると思ってたけど、不知火はどうかと思ってたからなー、なーんだ、隠し通す必要なんてなかったんだ。」
 良かった良かった、と、安心したように目の前の厚焼き玉子に食いつく中西に、土井垣は諦めたような、生ぬるい笑みが自分の口元に浮かぶのを知った。
「────あぁ……やっぱりそういうオチか。」
 出来ることなら、俺も何も知らないんだと、そう押し通したいところだったが、先ほどから「土井垣さん」と指名で里中が「相談」してきていることから、ムリだということは分かっていた。
 知っているどころか、いつ頃から付き合いはじめて、いつ頃から深い仲になったのかまで、だいたい把握している──まぁそれは、元明訓ナインのほとんどに共通していることだからいいとして。
 クソッ、他人の恋愛ごとに首を突っ込むのは、面倒だからイヤなんだが、と──このままでは、全てのことをコチラに押し付けられそうな予感満々で(たとえば、『里中と山田の毎晩のラブコールをどうにかしないと、キャンプ中のルーキーがかわいそうでかわいそうで』というような、「ヤマサト被害相談窓口」になってしまうとか……思えば監督を辞めた後も、しばらく後輩達からそういう苦情……いや、相談の電話がかかってきたっけ……)、土井垣はうんざりしたような顔を掌に埋めた。
 そんな土井垣の隣で、中西に「お前も知ってるんだな」と明るく笑いかけられた不知火は、
「あー……すまん、中西。俺も誰が相手なのかまでは、詳しく聞いてないんだ。」
 あからさまに視線を逸らした。
 途端に、ダンッ、と土井垣がテーブルを叩いて、不知火の視線を強引にコチラに戻す。
「ってこら守。ウソをつくな、ウソをっ! お前だって高校時代に、散々辛酸を舐めてきてるだろうが……っ!」
 知っているんだぞと、そうギロリと睨みつければ、不知火はさらにあからさまに視線をずらす。
 山田の偵察にと、幾度となく明訓高校に足を運び、雲竜と共に慰めあって帰った青春のメモリーが、むなしく胸を吹き荒れていく──。
 そのたびに、明訓高校の野球部のヤツラは、精神も凄くタフなのだと、シミジミしたものだったっけ。
「土井垣さーん……。」
 せっかく、「知らぬぞんぜぬ」で押し通そうと思ったのにと、恨みがましい睨みが隣から降ってきたが、土井垣は当然だろうと言うように、ジロリとその目を睨み返してやった。
 そんな2人の会話に、当然のように中西は頷くと、
「やっぱり高校時代からか……だろうと思ったぜ。」
 当時からすでに、そういう雰囲気が満々──だと、真田が言っていたと、続ける。
 お前は気づいてなかったのかと、不知火が呆れたように突っ込む傍ら──里中たちの高校時代を知らない瓢箪は、
「すごいでげすね〜、かれこれ何年の付き合いになるんでげすか?」
 感心するばかりだ。
 野球ばかりの人生において、野球を中心に生活する自分たちについてきてくれる女性なんて、あまり居ない。
 それを言うなら、明訓の5人が5人とも、別の球団にあっても尚、いまだに仲良く付き合いがあるのだと言うのだから──そしてオールスターのたび、やはり誰よりもお互いのことを理解しているのは、その5人なのだと思い知らされるたび、「高校時代の友は生涯の友」だという言葉が、頭を回らないわけでもない。
 それでも、まともに会う時間もないだろうに、良くここまで続くものだと、感心しきりの瓢箪の隣で、 
「………………高校時代………………。」
 里中が、小さく呟いた。
 その、どこか暗い響きを宿す声に、また泣き出すのかと思わず身構えた彼らの前で、
「──考えてみたら、確かに高校の頃は、山田、良く、キツイって言ってた………………。」
 空のグラスを握り締めながら、ボソリ、と零す。
「………………は?」
 突然何の話だと、不知火が眉を寄せるのに、土井垣がすかさず左手を彼の前に突き出すようにして、
「……聞き返すな、なんか聞き返したら、すごくマズイ展開になるような気がする……っ。」
 あからさまな仕草で、今の里中に触れるなと言わんばかりに、彼から視線を逸らす。
 そのまま、次の料理でも頼むかと、メニューをわざとらしく広げる土井垣のナナメ前では、中西が目じりに新たな涙を浮かべる里中を覗き込みつつ、
「キツイって、何がだよ?」
「だから聞くなって言ってるだろう、中西!」
 ばごっ!
 激しい音を立てて、土井垣が投げたメニューの角が、中西の顔に狙い違わずクリーンヒットした。
 勢いのまま思いっきりのけぞる中西の後頭部がゴンッと壁にぶつかる。
 それに慌てる瓢箪と、ビックリした不知火と、何をするんだと俊敏に起き上がる中西が、次なる行動に移る瞬間を、狙ったかのように、里中はガバッと机に伏せながら、叫んだ。
「やっぱり俺……俺、やりすぎてゆるゆるになっちゃったんだっ。」
 ぶはっ!! ぶーっ!!
 何も口に含んでないはずの面々の口から、色々なものが噴出した。
「さ、ささささ、さとなか……っ!」
 慌てて顔を赤くしたり青くしたりしながら、里中ごしに中西を介抱しようとしていた瓢箪は、暴言を吐いた里中から遠ざかるように、ひたすら窓側の壁に背を押し付け。
 思いっきり良く後頭部を壁にぶつけた中西は、そのまま畳にヒクヒクと沈没し。
 不知火は思いっきり噴出したまま、背を丸めて激しくその場で咳き込み。
 土井垣は、思いっきり後頭部から自分の背後の壁にぶつかり──そのまま、天井を仰ぎ見た。
 何の前触れもない、名詞もない唐突な台詞だったが……みんな、里中が何を言っているのか、分かったらしいということだけは分かった。
 そのまま、一同がショックと動揺から立ち直れないのを他所に、
「ガバガバだと、やっても、全然気持ちよくないんだって、雑誌に書いてあった。──山田、俺がそんなだから、エッチしてくれないんだ……っ。」
 里中は一人でそんな不安を打ち明けている。
「……わー……ききたくねぇ…………。」
 畳の上で転がっていた中西は、里中の俯いての言葉が良く耳に届くのか、ゴロリと寝返りを打って、両耳を掌でふさいだ。
 ガックリと机に片肘を突いて、もう全て力尽きたと言わんばかりの態度を取っていた不知火は、焦燥した眼差しで隣の土井垣を見上げると、
「……土井垣さん。」
 万感の思いを込めて、ここで一番「対里中」に慣れているだろう人物の名を呼んだ。
 そんな不知火の尻馬に乗るように、体面の机の上と下から、
「土井垣さん、後は頼みます。」
「慣れてるひとに任せるのが一番でげすね。なんてったって高校の頃からでげすから。」
 うんうんと、無理矢理責任を押し付けられる。
 思わず土井垣は、拳を握り締めて──ソレを机に叩きつけて、「お前等の球団の投手だろうがっ!」と叫びたくなったが、すがるような眼差しで一同から見つめられ……その憤りに握られた拳の行き場は無くなった。
 結局土井垣は、なんだかんだ言ってもスポーツマンの兄貴タイプなのである。
 頼られたら、不承不承でもそれを受け入れてしまう体質なのだった。
 非常にイヤそうな顔で、土井垣は自分の目の前で机に突っ伏してしまった里中のつむじを見下ろす。
 はぁ……と、重い溜息を零して、今日何度目かの血管が切れそうになった米神をもみつつ、
「……さ、里中……あのな…………えーっと……お前のカンチガイじゃないのか?」
 ──もうなんと触れていいのか分からず、土井垣はとりあえずソッチ方面から責めてみた……が、里中はその言葉に、がばっ、と顔を上げると、
「でも、高校の頃はキツイって言われてたのに、いつ頃からか全然そう言われなくなったってことは、俺がそうじゃなくなったってことですよねっ!? 俺、ぜんぜん締め付け悪いってことですよねっ!?」
 勢い込んで、目の縁を真っ赤に染めながら、泣きそうな顔で詰め寄ってくる。
 その潤んだ目と、酒に酔って火照った頬と唇は、息を呑むほど綺麗であったが、叫んでいる内容が内容なので、見とれている場合じゃない。
「俺にきくなっ! そんなことは山田に聞けっ!!」
 売り喧嘩に買い喧嘩の調子で、土井垣が里中の勢いをそのまま叫び返すと、その言い方にカチンと来たらしい里中は、バンッ、と机を叩きつけると、キッ、とばかりに強い眼差しを土井垣に向ける。
「聞けるわけないじゃないですかっ! だったら土井垣さんは、不知火か小次郎さんに聞けるんですかっ! 俺は締め付け悪くてガバガバなのか、なんてっ!」
 ブッ!
 里中のことは土井垣に任せて、揃って見物モードに入っていた残り三人が、同時に口に入れたばかりの酒を噴出す。
 その酒が、テーブルの上の食事に豪快に降りかかったが、そんなことを気にしてはいられない。
 中西と瓢箪の視線が、土井垣と不知火の間を行ったり来たりする。
「なっ、なんでそこで守と犬飼が出てくるんだっ!!!」
 動揺した三人同様──いや、もっと動揺した土井垣が、慌てて里中に怒鳴り返すが、里中は、グルリと首をめぐらし、ブンブンとかぶりを振っている不知火をキィンと睨みつけ、
「そうだろっ、不知火っ! お前だってやっぱり、やりすぎてがばがばしてたら、イヤだよなっ!?」
「え、あ……ちょ、ちょっと待て里中、なんでソコで矛先が俺に向くんだ……っ!?」
 というか、どうしてお前は、土井垣さんと俺と犬飼さんを題材に出すんだっ!?
 悲鳴じみた声でそう叫ぶ不知火に、そうやって動揺するところがあやしいと、瓢箪と中西が視線を交し合う。
「いやっ、だからそれは誤解ですってっ!」
 慌てて不知火と土井垣が、ひそひそと内緒話を始める中西と瓢箪に向けて、ブンブンと両手を振って説明しながら──その返す手で、
「里中! お前もなんとか言えっ!!」
 もう、泣きたいのはコッチだと、酒乱ちっくな里中にうんざりしながら叫ぶが、元凶の里中はというと、空のままのグラスを握り締めながら、 
「どうしよう──……もし、、山田が知三郎と浮気してたら………………。」
「いや、ありえないことで悩むな、お前はっ。」
 速攻で土井垣に突っ込まれそうなほど、ありえないことで頭を悩ませていた。
 普段はシレッとした顔をしているが、どうやら心の奥底では、色々悩んでいるらしい。
 ──別に色々悩んでいても構いはしないが、それをこんな席で、自分が居るところでぶつけてくれなくてもいいのではないかと思う。
 というか、普段イチャイチャしてる分だけ、その辺りの不満も、ちゃんと山田にぶつけて来い……っ!
「だいたいそもそも、やってないも何も、お前らこのあいだのオールスターの後にやったんだろっ!? あれから一ヶ月も経ってないじゃないかっ!」
 そういうバカげた悩みこそ、「犬も食わない」ってものだろうと、苦々しげに吐き捨てる土井垣に、里中は、ギュ、と拳を握り締めて、
「こないだの西武戦の時だって、会って話してご飯食べて、それで別れただけなんですよっ!?」
 絶対、ありえないっ、と、叫ぶ。
──酒が入っているからこそ、堂々と言えることだろうとは、無言でお絞りでテーブルを拭いている不知火の心の声である。
 コイツ絶対、明日の朝、起きてからこのことを覚えていたら、死ぬほど後悔するぞ……。
 そんな里中を挟んで、ロッテの2人はボソボソと、
「……あぁ……やっぱりあの後、里中の姿が見えなかったのは、山田か……。」
「あえて誰も突っ込んでなかったでげすけど、そうでげしょう。」
 うんうん、と納得したように頷きあっている。
 どうやら、里中が西武戦の最終日の後、夜にホテルに居ないのは、公認らしい。
 いいのか、そんなんで。
 頭痛を覚える土井垣に、里中は更に体を前のめりに突き出し、土井垣の苦悩に満ちた顔を覗きこむと、
「土井垣さんっ、どうしたらいいんですかっ!?」
 本当に、切羽詰った表情で、そう助言を求めに来る。
 これが、野球選手らしい悩みであったなら──そう、たとえば肩の故障だとか、スランプだとか──そういう類のものなら、先輩ぶって色々と助言してあげたり、調べてあげたりしてあげるところなのだが。
 どう考えても、ただの里中の杞憂以外の何者でもない上──そんな問題に、誰が好き好んで首を突っ込みたいと言うのだろう。
「────…………付き合いはじめて10年近くなるんだから、ふつうはそんなもんじゃないのか………………?」
 見下ろした熱燗は、すっかり冷たく冷えていた。
 その残り数滴を口の中に放り込み、土井垣はイヤに酒臭い匂いを放っている気のする、目の前の刺身に手を伸ばす。
 疲れが全身からにじみ出たような土井垣に、里中は拗ねたような顔で、
「──だって、球道と瓢箪さんが、週に1回〜3回くらいだって言ってじゃないですか……。」
「……中西……瓢箪………………。」
 刺身を取りかけた手の中の箸が、バキン……と音を立てるのが分かった。
 その音が、イヤに大きく部屋の中に響くのを感じながら──そして同時に、隣の不知火が、ざざっ、と座布団ごと自分から遠ざかっていくのも理解しながら、土井垣は里中の左右に居る男2人を、ジットリと睨みあげた。
「ど、土井垣さん、眉間に皺と青筋が出てますよっ。」
 焦ったような声で告げる不知火の声もまったく耳に入らない様子で、土井垣は折れた箸を握り締め──さて、どうしてくれようかとフツフツと湧いてくる怒りに身を任せようとした瞬間、
「俺だって、お互い忙しいんだからしょうがないって思ってたけど、でも……でも、今日見た雑誌に書いてあったことが、考えてみれば当てはまるし……っ。」
 キュ、と里中が下唇を噛み締めて、そんなことを呟くのに──、ガバッ、と瓢箪と中西が顔を上げる。
「って、雑誌って…………里中っ! お前、アレを読んだのかっ!!?」
「読んじゃだめって言ったでげすよ!」
 揃って過保護なことを口にする二人が、里中の顔を覗きこむのを認めて──土井垣は、ガクリと力が抜けるのを感じた。
 肩と頭が重力に従って下に落ちると同時、右手に握っていた割れた箸が、ポロリと手の平から零れて行った。
 土井垣はそのまま、右手の平を自分の額に押し付けると、自分と同じように脱力した不知火を横目で見やり──……、疲れたような呟きとともに、
「…………雑誌って何…………って聞かなくても、なんとなく分かるもんだな、守。」
 もう、どうでも良くなったような気がする──と、そう語った。
 そんな土井垣に、不知火も乾いた笑い声をあげると、
「アハハハハ……うちの宿舎にも良く転がってますしね……。」
 間違いなくアッチ系であろう。
 ──というか、もういい年した男に、その手の雑誌を見るなというロッテも、ずいぶんと過保護なものだ。
 どこか呆れた様子で、不知火は残り少なくなったジョッキの中のビールを飲み干すと、ふぅ、とようやく一心地ついた。
 土井垣はそんな不知火を見上げながら、とりあえず話は「まずい系」から、そうじゃない系へとずれしていけそうだと、安堵めいた溜息を零す。
──が、そんな土井垣の安堵を跳ね飛ばすように、里中は身を乗り出すようにして、
「土井垣さんっ。先輩として、俺に飽きられないエッチの助言をくださいっ。」
 真摯な瞳で、そう頼み込んできた。
 ……もう今度は、里中のこんな暴言にも、噴出すことはなかった。
 代わりに不知火は、疲れたと言いたげにガックリと肩を落とし、土井垣は額に当てていた手の平に顔をうずめた。
「…………お前…………俺をなんだと思ってるんだ…………犬飼だとか守だとか………………。」
 そのまま、自分の手の平にうずくまってしまいそうなほど、ゲンナリしているらしい土井垣に、あははは、と乾いた笑いを零して、不知火はすでに飲むものがなくなったテーブルの上をグルリと見回した。
──新しく注文を頼みたいところだが、こんな会話の真っ只中に、給仕の人を呼ぶわけにも行かない。
 一体、どうすれば元の雰囲気に戻るのだろうと……なんで俺はこんなところにいるのだろうと、土井垣と同じようにたっぷりと溜息を零した不知火に、対面から中西が身を乗り出してきたかと思うと、
「──で、実際のところはどうなんだよ、不知火? ん?」
 口元に手を当てて、にんまりと目元を緩めて聞いてくる。
 その、どう見ても面白がっているようにしか見えない中西の顔を、不知火は軽く睨みすえると、
「ノーコメントを貫き通します。」
 全くその気のない声と表情で、そう言い切った。
 そんな不知火に、
「ぅわ、うそ臭いコメントでげすね。」
 瓢箪も口に手を当ててそう呟くが、不知火はそれにカチンと来るどころか、ひたすら呆れるばかりだ。
「というか、ありえないことくらい聞いてて分かるでしょう?
 土井垣さんが、二股とか掛けれそうな人に見えるかよ?」
「見えん。」
「見えないでげすね。」
 返って来る答えは、言った不知火自身が満足するほど、完結極まりないソレ。
 誰もが、里中が口にした台詞を信じているわけはない──もし彼が口にしたのが、「犬飼」か「不知火」か、そのどちらかだけだったなら、信憑性もあったかもしれないが。
「──だろ? つまり、そーゆーことだよ。」
 うんざりした顔でそう告げる不知火に、どういうことか、と頷く中西と瓢箪。
 その三人の、どこか穏やかな会話を聞きながら──土井垣はいまだに絡み上戸を全開で、自分に絡んでくる里中を見て、指差し……残り三人に向かって叫んだ。
「ってお前等なっ、そこで和気藹々としてないで、里中をなんとかするのを手伝えよっ!」
 が、しかし。
 そんな土井垣に向かって返って来るのは、
「適度ある、先輩らしい助言をしてやってくださいでげす。」
 スチャ、と額に手を当てる瓢箪と、
「山田を誘惑する方法の一つでも伝授してやれば、それで話は終わるっすよ、きっと。」
 さぁって、今度は何を飲もうかなー、と、里中に完全に背を向けてメニュー表を広げる中西の、非常にありがたく暖かい言葉だけだった。
「きっさっまっら……なぁっ!!」
 このまま机をひっくり返してやろうかと、土井垣が机の縁に手をかけるが、
 バンッ、と机の上を叩く里中が、全体重を机にのしかけながら、
「土井垣さんっ! あの犬飼さんとかそこの不知火を誘惑した技を、俺にも伝授してください……っ!」
 里中が、真剣きわまりない声と顔でそう叫んでくるから──……。
 土井垣の血管が切れるまで、あと数秒。
 それが目に見えて分かったからこそ、不知火も中西も瓢箪も、何も言わずに無言で耳を覆った。










──結局、下世話な話は、この後、数十分ほど続くことになる。










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さぁ、ここまで来たならば、タイトルのイミも分かることでしょう(笑)。

はい、そういう意味の下ネタっていうか、下品ネタっていうか……Hネタ?

一度はこういうことで悩むだろうと思ってみたんですけど──書いた瞬間後悔したような……。
この小説は、「据え置き希望」がない限り、閉鎖と同時に撤去します。──だってなんか、やっちゃいけないような下品ネタのような気がするんだもん……。


というわけで、題名は「エイチスタイル」ではなく「エッチスタイル」と読んでください。



>>>>ちなみにこの「H STYLE」は、この後「小ネタ 腐女子マネージャー編」に続き、さらに「16 OVER STYLE」に続きます(笑)。
 多分それぞれでも読める……と、思います……。