毎年、この時期と言えば『春キャンプ』。
目前にせまったオープン戦と開幕戦に向けて、体を作るために、欠かせない「イベント」である。
その春キャンプの日程表を何気に確認する面々の前で、マドンナの顔がパァァァっ、と明るくなっていくのが見えた。
白い頬が紅潮し、目が潤み、みるみるうちに彼女に生気が宿る。
一体、このキャンプの日程の、何がそこまでマドンナをやる気にさせているのだろうと、誰もが視線を落とした先。
2月14日(月)、休日。
月間カレンダー風の試合日程表に記された一言が、目に飛び込んできた。
ここから、物語は始まる。
シラ→ドイで山里でマド→殿ですが、ちょびっと表現的に「シラサト」っぽい所もあります。 話のネタ上、そういう展開になるので、ご注意ください。 また同時に、不知火が不幸になったり、マドンナのオリジナル設定も入ってます。 この辺りもご注意ください。 |
いやに体が重くて、寝苦しいと──そう、思っていた。
寝返りを打とうとしても、左半身が重くて動かない。
腹や胸の上が、ズシリと何かに圧迫されているような苦しさを感じた。
その上、真冬だと言うのに額や首筋に、うっすらと汗を掻くほど暑い。
寝る前に暖房を切り忘れたのかと思ったが、昨夜の行動を振り返ってもそんなことはない。
全身が鉛になったみたいな重みに、もしかしたら風邪でも引いたのではないかという気持ちがこみ上げてきた。
よりにもよって、春キャンプの真っ最中に、風邪。
「………………最悪だな………………。」
去年までの10年間、一度たりとも春キャンプ中に風邪など引いたことなどなかったのに、これは一体どういうことだと、彼は溜息を零した。
思わず呟いた声も、いつもと違う物のように聞こえる。
鼻はグスグス言っていないし、喉も痛くはないが、自分で自覚してないだけで、鼻が詰まっているか喉を痛めているのだろう。
体調管理くらいしっかりしろと、犬飼監督に厳しく言われる姿を想像して──ルーキーじゃあるまいし、なんという体たらくだろうと、溜息ばかりが零れる。
その息すらも熱くて、不知火は自由になる右腕をあげて、フゥ、とそれを額にあてた。
その右腕すらも重くて鈍くて、これは本格的に風邪だなと、苦い笑みを覚えた。
同時に、今日がちょうど休日でよかったとも思う。
風邪を引いたから大事をとって寝ているといえば、放っておいてくれるだろう──もしかしたら、土門あたりが、風邪クスリの差し入れくらいはしてくれるかもしれない。
「…………風邪引いたのなんて、何年ぶりだ……?」
小さく零して、不知火は重くて熱っぽい瞼を閉じる。
野球をしている以上、体が資本となると何よりも分かっているからこそ、風邪を引かないように充分注意はしていた。
練習が終わったら手を洗ってうがいもしたし、少し風邪らしい雰囲気を感じたら、クスリを飲んで暖かくして早めに床にだってついた。
それは今年だって、変わらないはずなのに、どうして今年──それもよりにもよってキャンプ地で、風邪を拾ってきたのだろうと、不知火は考える。
しかし、まだ眠さの残る、ウツラウツラした頭では、考えもまとまらない。
多分、チームメイトの誰かが保菌者で、それが移ったに違いないのだろうけど……。
とにかく、体が重いと文句を零している暇はない。
中か影丸、武蔵あたりに連絡して、薬局まで走ってもらおうと──ヤツらが休日だからと、出かける前に捕まえなくてはと、重い体を無理矢理起こして、枕元の携帯電話へと手を伸ばそうとした時だった。
「ん……。」
自分のものではない、くぐもった声が……左腕の辺りから聞こえた。
ザァァァ……! と音がするほど急激に頭から血の気が引いて、頭の中が真っ白になった。
思わず目が見開き、見慣れない天井を睨みつける。
そのまま、ピクリとも動かないでいる不知火に、声の主は擦り寄るように髪を二の腕辺りに押し付けてくる。
その、どこか甘えるような仕草に、ますます不知火の頭の中から血の気が引いた。
────…………だだだ、誰かいる……っ!!!
他に言い方はないのかと、われながら思ったが、それ以外に言いようがない。
そう思って意識を集中してみれば、先ほどから重いと感じていた腹や胸の上に、自分のものと違う温もりが落ちているのが分かる。
動かないと思っていた左腕の上には、どうやらその人物のものらしい頭が乗っているということも。
しかも自分の左腕は、しっかりと相手の肩を抱いているようだ。ワキワキと動かした掌が、滑らかな肌の上をなで上げるのが分かる。
「………………──────っ。」
知らない間に隣に女の人が居て、しかもその女に腕枕をしているらしい、この状況。
一体こういうとき、どうしたらいいのだろうと、必至に衝撃を堪えながら──叫びだしたくなる気持ちを堪えながら、不知火は奥歯を噛み締めた。
現実から逃げているだけだと分かっていながら、あえて左側には視線を落とさずに、何もない壁を睨みつける。
昨日の夜──そう、昨日の夜の記憶をさらってみればいいのだ。
グルグルと色々な思いがこみ上げてくるのを強引に飲み込みながら、不知火は必至に左腕の人物の存在を忘れて、昨日のことに思いを馳せる。
昨日は確か、今日が休みだということもあって、夕食後にみんなで飲みに行くかどうするかという相談をしていた気がする。
そんな風に、色も花もない休みの話をしているところに、ジャジャーンッ、と銀色の盆を持ってマドンナが、なぜかピンク色のフリル付きのエプロンと、三角巾で入ってきて、
『みなさーん、明日はハッピーバレンタインですので、チョコレートを焼いてみましたの。よろしかったら、デザートにどうぞ。』
と、いびつな形のゴルフボールサイズの黒い塊を、ニコニコと差し出してきたのだ。
そこから放たれる焦げた匂いに、ウッ、と引いた人間が何人居たかというと、食堂に集っていた全員といおうか、なんと言おうか。
どうやらホテルの厨房を借りていたらしいが、素人が「チョコレートを焼く」という表現をすることも怖かったし、その彼女の手に握られた銀色のお盆そのものも怖かった
翌日のバレンタインの休みには、東京スーパースターズ1軍のキャンプ地に行く気満々のマドンナは──今は日本国内、行こうと思えば数時間で行ける──、満面の微笑みでそのチョコレートの「試作品」を、逃げる男どもの口の中にポイポイと投げ込んでくれた。
あの時の味は、できることなら思い出したくなかった──……。
今からでも、グゥ、とこみ上げてくる吐き気を堪えるように、不知火は右手の平で口元を覆った。
それほどの味のものを、男ども全員の口の中に放り込んで、マドンナはニッコリと美しく微笑んで、自信たっぷりにおっしゃってくださった。
『甘いのが苦手な皆さんのために、苦ーくしてみましたんですの。』
口の中のものを、噛むことも飲み込むこともできずに苦しんでいた被害者側から言わせて貰えば、アレは苦くしたのではなく、焦がしただけだと言いたい。
しかも、
『色々工夫をして、具も入れてみたんですけど、どの具が一番でした?』
とか言う恐ろしい台詞まで後に続いてくれた……。
炭の味しかしないのに、どの具が一番も何も、あったものじゃない。
一体自分の胃には、何が入っているんだと、一同揃って机に突っ伏した記憶も新しい。
そんなイザコザの後、口直しに酒を飲みにラウンジに行く者、コンビニで適当に買って部屋で飲むという者──誘われて、中たちと一緒にホテルのラウンジに言って、数杯ビールを飲んだのは覚えている。
しかし、その後すぐに彼らと一緒に引き上げてきて、部屋の前で別れて──そう、部屋に入ったはずだ。
シャワーを軽く浴びて、テレビでニュースを確認したのが12時過ぎ。
あとはそのまま…………、
「ベッドの中に入って、寝ただけだぞ……?」
もちろん、シングルルームの狭い一人用のベッドで。
なのに、なぜ──。
チラリ、とこわごわと視線を落とした先には、布団に目元のあたりまで隠れた、黒い髪の人影。
耳を澄ませば、スヤスヤと心地よさそうな寝息まで聞こえてきて、不知火は慌てて視線を逸らした。
それと共に、左腕が妙にジンジンと重みを感じて痺れだす。
一度意識してしまえば、自分の左半身にのしかかるような相手の体だとか、滑らかな肌の感触だとか……いやに生々しくリアルに感じ取れた。
──いやまて、落ち着け、まだ何も、「何か」あったとは分からないじゃないか!
そうだ、もしかしたら同じ階の誰かが、部屋を間違えて入ってきただけなのかもしれない。
それなら自分は、昨夜寝たときの服のままだし、相手だってそうに違いない。
──というか、それで本当に布団を捲って見て、中に中だとか影丸だとか武蔵だとか居たら、彼らを窓から放り出してるかもしれない……。
そんな小さな希望に──いや、良く考えてみたら狭いシングルベッドに、そんなヤツラが入り込むスペースなんてないと、すぐに分かることなのだが──すがりながら、そろそろと、不知火が視線を落とした先。
「んん……?」
ピットリと体を寄せて、腕に小さな頭を乗せていた住人が、微かに瞼を震わせる気配がした。
慌てて──動転して、不知火はその場から、思い切り良く身を引きかける。
けれど、少し引いたところで、ドンと壁にぶち当たり、それ以上体は動かない。
体の上に折り重なるようにしていた体が、微かにずれただけで、先ほどと何も変わらない──いや、それどころか、先ほどよりももっと、マズイ場所が密着したような気がする。
相手の女性の脚が、ちょうど自分の物の真上に来たというかなんというか。
息を詰めて、不知火は相手を伺う。
視線をこわごわと落とす先で、白い額とそれに零れ落ちる柔らかそうな髪が見えた。
それと共に、驚くほど長い睫と、ほんのりと赤く染まった頬。
あどけなく無邪気に眠るその顔を認めた途端、なんとかかろうじて残っていた冷静さが、不知火の頭から吹き飛んだ。
──と、同時。
「……ぅん……?」
あまりのありえない衝撃に、フリーズする不知火の前で、腕の中の人物は、ソロリ、と薄い瞼を開いた。
微かに震える睫の奥から現れる、大きな黒曜石の瞳──寝起きのせいで少し焦点が合わないそれは、どこか夢見がちに潤んでいて、微かに震える唇とともに、色香すら感じた。
ふんわりと鼻先に香るシャンプーの匂いは、昨日不知火が使ったホテルのソレとは違うもの──少しだけ華があるそれは、目の前の彼に良く似合っていた。
──というか。
「…………さ……と、なか?」
ありえない、何があっても驚かないと言いたいが、これだけは絶対、ありえないっ!!!
心の中で絶叫しながら、背に当たる壁にさらに背中を押し付ける不知火に、ぼんやりとではあったが、起きたばかりらしい同衾者が、ふあぁ、と可愛らしいあくびを一つ。
自分の頭の下から抜けた「枕」がないことに、微かに首を傾げて──緩慢な仕草でシーツに頬を摺り寄せながら、まだ寝たりないと言いたげに、指先で目を二度三度擦り上げている。
そんな目の前の人物は──そう、考えたくもないが、どうやら同じベッドで寝ていたらしい人物は、不知火が穴が開くほど凝視しても、変わらなかった。
いつも自分たちの前で見せているものとはまったく違う、無防備で甘えた仕草と表情であったが、間違いようがない。
彼は、元明訓高校の不動のエースにして、東京スーパースターズのエース、「里中智」である。
高校時代からその可愛い面差しとそれに似合わない男っぷりから、年上のお姉さまから非常にもてていた、あの、彼である。
「……………………な、なな……なんでお前が、ココに居るんだ……っ!!!?」
眠気も衝撃も何もかもが、一瞬で吹き飛んた。
愕然と、不知火は彼との間に距離を取り──とは言っても、シングルベッドで取れる幅など決まっている。
無理矢理背中を壁に押し付けてみても、ベッドの中央近くに寝そべる彼との隙間は、ほんの10センチかそれくらい。
里中が少し体をずらせば、彼のむき出しの肩が腹の辺りに触れてしまうことは間違いなかった。
──とその事実を目で認識して、さらに不知火は泣きたい気分になった。
里中……お前、どうして服を着てないんだっ!!
怖くて自分の体は見下ろせない。
でも視線を前にやると、白い肌もまぶしい里中が、シーツにうずくまるように横になっているのが見える。
けだるげに黒い髪を白いシーツに押し付けながら、彼は不思議そうにこちらを見上げてきた。
「? なんでって……昨日、一緒に寝たじゃん。」
何を言っているんだと、酷く不思議そうな目が里中から注がれた。
その純粋無垢に見えないでもない目に晒されて、不知火はさらに動揺を抱えて自問自答する。
俺の記憶、しっかりしろっ!
昨日の夜は、ホテルのラウンジで飲んで、そのまま部屋に帰ってきて、ベッドの中に入った。
それに間違いはない。
そして──起きたら、コレ?
──ありえないだろ、普通。
「……ね……寝た……っ!? 一緒にっ!? 俺が、お前とっ!?」
スーパースターズだって、春キャンプの真っ只中のはずだ。
その、一軍のエースの男が、なぜ四国アイアンドッグスのホテルの中の、しかも俺の部屋のベッドの中に居るんだっ!?
絶対、ありえないっ!
そう青ざめて叫ぶ不知火に、里中はキュ、と顔を顰める。
「何、言ってるんだよ? もしかして寝ぼけてるのか?」
いぶかしげな目で、手を伸ばしてくる。
その手が、自分の頬に触れるかどうかの位置まで迫ってくるのを、恐怖の眼差しで見下ろす。
恐怖と混乱と動揺で、身動きできない不知火の首に、スルリと里中はしなやかな腕を絡ませて、息を呑む彼の間近で微笑む。
朝から浮かべるにしては、いやに艶めいた微笑みだった。
「今日は休みだからって、お前が誘ったんじゃないか。」
ほんのりと赤く染まった目元と、今にも触れそうな唇の艶やかさに、一瞬目を奪われるが、今はそれどころじゃない。
「って、ちょっと待てっ、待て、里中っ!」
グイ、と手で里中の体を押すと、里中はますます困惑した顔になった。
そんな彼の肩を掴み、
「悪いが、俺には本当に覚えがないんだ。
なんぜお前が俺の部屋に居て、俺のベッドで、しかも裸でいるんだ!?」
真摯な眼差しで、里中を見下ろす。
困惑した眼差しの里中の細い鎖骨や、そこから続く胸元に、くっきりと赤い刻印が幾つも刻まれているのを見て、不知火はさらに動転して、恐れおののくように顎を引いた。
──ちょっと待て、これは一体、どういう冗談だっ!?
「もし、こんなところを土井垣さんに見つかったら、どうしてくれるんだ……っ。」
「土井垣さん? 土井垣さんが俺たちの部屋に入ってくるわけないじゃないか。」
おかしなことを言うな、と首をさらに傾げる里中に、不知火は「俺たちの部屋」ってなんだと、頭を抱える。
「──……そ、そうかっ、そういうことかっ。これは、昔はやったドッキリカメラとか言うものだな?
俺が起きたら、里中が裸で中に入ってて、どうするかとかそういう設定なんだろうっ!?」
キャンプ中にそういうことをするのもどうかと思うが、逆にだからこそ目をつけられたのかもしれない。
だったら、俺が寝ている間に、里中が布団の中に居たのも納得できる。
フゥ──と、額の汗をぬぐう仕草をする不知火に、里中は小さく目を見張った後、恐る恐ると言った顔で、不知火を見上げる。
「……山田……もしかしてお前、記憶喪失とか……言わないよな?」
心配そうな色を滲ませ、不安げに瞳を揺らす里中に、分かってるから、もう演技なんてしなくていいんだぞ、と不知火は乾いた笑いをあげかけて──、
「…………………………………………は? ……お前、いま…………なんて言った……?」
「山田、俺のことがわかるってことは、最低でも高校のときの記憶はあるんだよな?
今日が何年何月何日か、言ってみてくれ。」
ヒクリ、と引きつった不知火に気づかず、里中は真摯な眼差しで彼を見上げると、
「山田っ、さぁ、今日は何年の何月何日で、お前は何歳だっ!?」
ぐい、と、その端正な面差しを近づけて迫ってくる。
さすがは投手だけあって、不知火の肩を掴む手は、ギリギリと食い込むほどに痛い。
「──……里中……今、お前、俺をなんと呼んだ?」
「まさかお前、俺のことは分かるのに、自分の名前まで忘れたって言うんじゃないだろうな?
山田だよ、山田太郎っ。」
「……………………────ちょっと待て…………。」
いくらなんでも、このドッキリはないだろうと、不知火は溜息を零す。
確かに、「不知火がある日突然山田太郎になったら!?」というドッキリなら、目の前の里中は必需品だろう。
けれど、朝起きたら同じベッドの中に裸の里中が居て、首筋や胸元にキスマークつけてるような映像を、お茶の間に流すのは、いくらなんでもおかしいだろう。
ということはコレは、四国アイアンドッグスと東京スーパースターズの、揃っての共謀か? ──いやそうだとしても、さすがに今年からプロ野球界に入るルーキーもいるのに、この冗談は命取りになりかねないぞ。
「山田──……。」
心配そうに繰り返し自分に向けてそう呼ぶ里中の、演技力はたいしたものだと思う。
高校時代から見てきたが、彼はどう見てもそういう演技だとか嘘だとかは、苦手な部類の直情型人間にしか見えなかった。どちらかというと、嘘をつかないように見えながら、ニッコリと隠し事をするのは山田や殿馬、微笑の三人組だ。
不知火は、手を頭に当てながら──その髪の毛の感触もいつもと違って感じて、まるで坊主頭のようだと……まさか、寝てる間に頭を「山田カット」にされたんじゃないだろうなと、不安がムクリと起き上がった。
「あのな──里中、いい加減にしてくれ。」
溜息を零しながら、不知火は自分の肩を握り締める里中の手を振り払う。
驚いたように目を見張り──呆然と口を開く里中の顔を見下ろしながら、不知火は上半身を起こす。
「俺を山田と呼ぶなよ……お前の演技がうまいのは分かったけどな、俺はお前の山田じゃないし、お前にそんな格好されても、俺は困るんだ。」
そのまま──あぁ、里中が体の上に居ないというのに、やっぱり体が重く感じる。どうやら疲れが残っているか、昨日のアルコールが残っているか……この騒ぎで疲れを覚えたかなと、何気に視線を落とした不知火は、そこで、ありえない光景に動きを止めた。
「…………やまだ………………?」
途方にくれたような、不安に揺れるような──そんな瞳で、里中は泣きそうな顔で不知火を「山田」と呼んで見つめる。
そんな彼の顔や表情なんて、一度も見たことがなかった。
それを言えば、先ほど起きたときから彼が見せる顔のどれもが、自分の覚えのない表情ばかりだったが。
しかし、不知火はそんな里中を見ている余裕はまったくなかった。
自分の落とした視線の先──起きる前から、異様に体が重いと思っていた原因が、広がっていた。
見下ろした自分の体は、予想にたがわず、体に何一つとして身につけていなかった。
──それはいい、ある程度覚悟はしていたから。
ただ問題は、そっちじゃなくって、見えたその素肌が、ありえないくらい……、
「な……んだ……この肉………………。」
膨れていた。
妊娠5ヶ月くらい?
電車の中で見かけた、妊婦さんのおなかが頭の中に浮かび上がる。
これは一体、何でできてるんだろうと、恐る恐る指先で押し込むと、弾力が返って来る。と同時に、内臓が圧迫される感触も感じた。
間違いようもなく、脂肪だ。
「………………し、脂肪…………注入……………………?」
ありえない──絶対、ありえない。
一晩でこんなに太るはずがないっ!
日本ハム時代には、「守の腹筋は、引き締まっていていいな。」と朗らかに褒めてくれた自慢の腹筋が、一晩でこんな状態になるなど、ありえるはずがない!
まさか、昨日のマドンナの「炭チョコ」のカロリーかっ!? あの中身に何が入っているのかまったく分からなかったチョコが、いけなかったのかっ!?
愕然と目を見張り、ふくよかな腹を見下ろす不知火は、ショックの色を濃厚に映し出したまま、フラリと視線を横に飛ばした。
白いシーツにシワが寄ったベッド。
その下に広がるのは、ベージュ色のカーペット。
周辺の壁も同じ色で塗られ、薄いカーテンから差し込む朝日が、ベッドの上にチョコンと座る里中の不安げな表情を照らし出している。
ベッドから降りた目の前には、テレビが載った机が一つ。
ドアを入ってすぐ左手にクローゼットがあり、その奥の扉はユニットバスだ。
扉からはベッドが見えないようになっているこの構造は、ホテルのシングルルームには共通した配置であるように思えた。狭い空間を最大限に利用して過ごしやすいように配置されているのである。
が、問題はソコではない。
「…………ココ……どこだ………………?」
呆然と、呟く。
自分が寝る前に見た部屋と、今見回している部屋は、まるで違うように見えた。
そう、唖然と呟く不知火に、里中はますます眦を落とすと、
「やまだ──…………昨日、もしかしてあの時、頭をぶつけたのか?」
もしそうなら、もう一発殴っておくかと、結構真剣な顔で聞いてくる。
ぐい、と身を乗り出して不安そうに不知火を見上げる里中の大きな目を見やると、その黒い瞳には、自分の顔が映っていた。
ただし、そこに映るのは、いつも見慣れた顔とは違う──というか、自分の顔ですらなかった。
「……………………………………………………。」
グワングワンと、頭の中が何かで殴られているような気がする。
「山田……。」
今にも泣きそうな目と顔で、里中が手を伸ばしてくる。
その手に逆らうような余裕もないまま、不知火は必死に考える。
里中が、不知火の頬に手を当てて──それから彼は、キュ、とそれを握り締めた後、やおら視線をキッとあげ、
「山田っ!」
らんらんと目を輝かせて、不知火の太くなった腕をしっかりと掴んだ。
「お前が忘れてるというなら……俺が思いださせるまでだっ。」
「──って、おいこら、里中っ、お前、なんか目が血走ってるぞ……っ。」
イヤな予感に駆られて、ジリリ、と後ず去ろうとするが、当たり前だが狭いベッドの上、移動できることはない。
しかも無理矢理動こうとすれば、シーツがずれて見たくもない人の下半身がもろ見えになってしまう構造だ。
──逃げ場はなかった。
「山田……昨日のこと、俺が──。」
近づく唇から、熱い吐息が零れる。
そのふっくらと膨らんだ唇を見下ろしながら、不知火はダラダラと汗を流した。
──ど、土井垣さん……っ。
心の中で強く土井垣の名を呼ぶが、答える声は当たり前ながら、ない。
かすかに頬を赤らめながら、里中はしっかりと不知火の腕を握り締め、そ、と睫を伏せる。
近づいてくる里中の顔に、ますます恐怖を抱きながら──このままじゃ、俺の唇の貞操が……っ、いや、唇どころの騒ぎじゃなくなる! それ以前に、俺の唇と体じゃなくって、山田のなんだけどっ!
グルグルグルと恐慌状態になる不知火にかまわず、里中はそのまま吐息が感じ取れるほど近くまで顔を寄せると、
「──俺が……思い出させてやるから……。」
チュ、と、触れるだけのキスを一つ。
かすかに震えたやわらかい唇が、一瞬の温もりを不知火の唇の上に落ちる。
その、刹那。
「……だ……駄目だっ!」
ドンっ、と、全身で不知火は里中を拒絶した。
思いっきり強く里中の肩を押すと、まさか拒絶にあうとは思っても見なかった里中が、あっさりと背中からベッドに落ちる。
そのままベッドの端から落ちそうになるのを、慌ててシーツを掴んでとめたものの──、里中には、「山田」から拒絶を貰ったことがショックだったらしい。
「……やまだ……?」
不安そうに目を揺らす里中の手の高速が解けた瞬間、不知火はベッドから飛び出していた。
呆然と、ただ唖然と目を見開く里中の隣をすり抜け、彼はドスリと大きな音を響かせて、床に着地する。
ハッ、と振り返る里中にかまわず、不知火はそのままその場から逃げ出す。
「山田っ!」
追いすがるように名を呼ぶ里中にかまわず、部屋の扉から外へと飛び出そうとした不知火は、扉のすぐ手前──出て行く前に姿がチェックできるようにと置いてある、姿鏡の前で、とつとつに足を止めた。
愕然と目を見張り、不知火はそのままフラリと足をふらつかせる。
どすんっ、と大きな音を立てて、その場に尻から転げ落ちた。
そのついでに、ガコンと頭が壁にぶつかる。
不知火はそのまま、ただ呆然と鏡を見つめた。
──と同時、彼は鏡を見たことを心底後悔した。
誰も、山田のマグナム級なんて見たかったわけじゃない。
「……っていうかお前ら……やった後に下着くらい履いてから寝ろ………………。」
涙が滲みそうなほど、脱力感を覚える不知火のもとへ、
「山田っ! どうしたんだっ!」
慌てて里中が走りこんでくる。
すっぽんぽんで飛び出した不知火と違って、彼は上着を肌の上に羽織っていた。
短いワンピースみたいな形になっていて、直視できないような姿だったが。
「──里中…………。」
不知火は、走りよってくる彼を認めて、ガックリと、床に両手をついた。
そんな不知火に、里中は困惑した色を顔一杯に浮かべて、
「山田──一体どうしたんだ、お前?」
ただひたすら、疑問系である。
どこかいつもの山田と違うというのは感じ取っているようだが、中身が違うなんていう可能性は一つも思い当たらないらしい。
確か里中は、土井垣さん同様、リアリストだったな。
そんなことを思い出しながら──ハッ、と、不知火は思い出したように顔をあげた。
「そうだ、土井垣さんだ……っ。」
「……土井垣さん?」
首を傾げる里中にはかまわず、不知火はその名をもう一度口の中で呟く。
そう、土井垣さんだ。
日ハム時代、9年間もバッテリーを組んだ彼なら、きっと自分だと分かってくれる。
いや、信じてくれるに違いない!
たかだか高校3年間しかバッテリーを組んでなかったようなこいつらとは違い、土井垣さんなら、きっと!
グ、と拳を握り締めて──それに土井垣ならば、四国アイアンドッグスの犬飼小次郎とも連絡が取れるから、向こうにいる「俺」のことも、聞いてくれるはずだ。
この流れで行くと、おそらく自分の体には、「山田」が入っているのだろうが──……考えるだけで、何が起きているのかめまいがする。
俺の体で、朗らかに「おはようございます、犬飼さんっ!」と挨拶をする山田。
俺の体で、バクバクとご飯を食べて「今日はあまり食べれないな」という山田。
俺の体で、俺のファンからチョコを貰い、「いつもありがとう」と勝手に返事をする山田。
──困る、絶対困る、気持ち悪い。
「里中っ! 土井垣さんは、どこの部屋だっ!?」
こうなったら、土井垣さんしか居ない。
そう決意の色を滲ませて叫ぶ不知火に、里中は困惑した様子を隠せないようだったが、それでもとりあえず、
「一つ上の階の5号室だって……お前も知ってるじゃないか?」
教えてくれた。
「一つ上の階の5号室だな。」
コックリ、と頷いた後、不知火は重い体を持ち上げて、そのまま部屋から飛び出していくべく、扉のチェーンを外しかけたが──、
「って、山田っ! 服っ!!」
慌てて声を掛けられて、ハッ、と身を震わせた後──どうも他人の体は勝手が違う──、慌ててきびすを返すと、ベッドの下に散乱していた山田の服を集めると、それを取るも取らずと言った体で慌てて着込み、
「すまん、里中っ! 」
そのまま、ダッ、とばかりに部屋から飛び出す。
バタンッ、と乱暴に閉まるドアの中で、里中はそんなおかしな「山田」を、止めることも追いかけることもできなかった。
何が「すまん」で、何が「駄目」だと言うのだろう?
音も荒々しく閉まった扉を見つめていた里中は、
「………………………………山田…………まさか、土井垣さんと浮気する気じゃないだろうな………………?」
ありえないことを本気で心配して、キュ、と唇を噛み締めた。
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