温泉










 1995年、12月。
 二年目のジンクスを目前にした元明訓ナインの元に、山田から自主訓練の誘いがかけられた。
 プロ野球の地で散々揉まれた面々は、気を引き締めるためにも──また同時に、やはり一番お互いを分かっている面々と練習するほうが効果があると、1も2もなく山田の誘いを受けた。
 かくして、1996年1月。正月明け早々、彼らは記者陣には告げず、ひっそりと伊豆のホテル──大観に集ったのであった。












 さすが伊豆。源泉から引いた温泉がホテルに大浴場として備えられているのは当然として。
「へー、露天風呂がある。」
 ロビーの椅子に腰掛けて、大観のホテル説明のパンフレットを開いていた里中が、目ざとく見つけて喜びの声をあげた。
 それと同時に、ルームサービスとホテル内レストランをチェックしていた岩鬼が、パンフレットの上からニョキリと顔を上げて、里中が指差す場所を見下ろした。
「露天風呂け。わいが入れるくらいの、でっかい風呂やろうな。」
 普段、遠征で入る個室の風呂は狭くてあかんわ、と、ぼやく岩鬼に、大丈夫じゃないか、と微笑も里中の手元を覗き込む。
「へー、結構いい風呂じゃん。」
 大浴場の男湯と女湯。露天風呂の男湯と女湯。それとはまた別に、個室の貸切風呂がいくつか用意されている。
 そのすべての風呂から、富士山が一望できるようになっていた。
「風呂はよー、夜に入ると混むづらから、昼間に入るづらぜ。」
「そうだな、せっかく富士山が見えるんだしな。」
 言いながら、里中は少し右腕を気にするようにちらりと視線を向けた。
 確かに、人目があまりないときに入ったほうが……いいだろう。
「なんやっ! 卓球場もあるやないけっ!」
「やらないからな。」
「やらんづらぜ。」
「野球しに来たんだぜ、岩鬼。」
 里中たちが見ているパンフレットに目を走らせた岩鬼が、がばっ、とパンフレットに顔を近づけた瞬間、間をおかず、それぞれが鋭く突っ込んだ。
 一瞬の沈黙の後、
「温泉に来たっちゅうたら、卓球やろっ!」
 バァンッ! と、岩鬼が激しくテーブルを叩く。
 その激しい音に、ギョッとして足を止めたのは、ほんの一部の人間だけだった。
 同じテーブルについているはずの友人たちは、そ知らぬ顔でパンフレットでホテルの設備を確認し続けている。
「ピアノはあるづらな。」
 顔を上げて、ロビーの端に設置されているグランドピアノを認めて、殿馬が小さく呟くが──そのグランドピアノは、いったいいつ、どういう用途で使われているのかはさっぱり分からない。
 もし使わせてもらうとすれば、先に調律が必要なことは間違いないだろう。
「夜に弾いてくれよ、おれ、久しぶりに殿馬の弾いたの、聞きたいな。」
「へーたくそなんか聞いて、どないすんねん。耳が腐るちゅうねん。」
 岩鬼が、目の前に置いたままになっていた缶コーヒーを手に取り、それをヒョイと掲げ持ち、ガバッ、と口の中に盛大に空けた。
「いや、やっぱり殿馬はすごいよ。俺、いろいろクラシックとか聞きに行く機会があったけどさ、やっぱり殿馬が一番だな。」
 微笑がのんびりと顎の下で手を組み、穏やかに笑うと、そうだな、と里中も頷く。
「去年の暮れにさ、チャリティーコンサート開いただろ? あれもすごく好評だったんだろ?」
 音楽は良く分からないけど、やっぱり殿馬の奏でる曲は、特別だ。
 そう言って邪気なく笑う里中に、普段クールな殿馬も悪い気はしないらしく、口元に笑みを刻む。
「優勝した分だけ、客が入ったづらな。」
「オリックスが優勝しただけで、とんまのピアノにそれだけ入るんやったら、わいの演説にゃ、東京ドームが必要やな。」
 腕を組んでそう嘯く岩鬼には、笑いながら里中が同意して、
「そうだなー。岩鬼だったら、声だけで東京ドームくらいの大きさは必要だよなっ。」
「ど、どういう意味やねん、サト?」
「え、だからそのまま、お前の声が大きいってことなんだけどさ。
 小さい場所だったら、自分の声が跳ね返って自分の耳が痛いだろ?」
「そやな、東京ドームくらい大きかったら、どんだけ跳ね返っても……って、そうやないやろっ!
 そういう意味で、わいは東京ドームがいるというたわけやないでっ!」
 一年ぶりくらいに聞く、里中と岩鬼の漫才を聞きながら、微笑と殿馬は手元のパンフレットを手持ち無沙汰にペラペラと捲り続ける。
 ほどほどに広いホテルの中は、和風の彩を見せる広めの部屋と、情緒が満載の露天風呂。
「やっぱり山田が選ぶだけあって、畳だな。」
「畳のあるホテルに泊まるのは、高校以来づらぜ。」
「まだ1年半くらい前のことなのに、ずいぶん昔に感じるな。」
 殿馬と額をつき合わせて、微笑は指先で美しい庭園を模した中庭の写真を示す。
 今ごろ、サチ子と山田が散歩をしているだろう場所だ。
「このあたりなんか、キャッチボールできそうだよな。」
「また昔みてぇに、里中のためによー、的を張るづらかよ?」
「あほかっ! 前にひろーい道路があるっちゅうのに、なんでせまっ苦しい庭でせなあかんねんっ!」
 思いっきり微笑と殿馬の会話に首を突っ込んで、岩鬼が叫ぶ。
 そんな三人を無言で見詰めて、里中は微かな苦笑を浮かべたアト、何も無かったかのようにヒョイと彼らの前からパンフレットを奪った。
「せっかく伊豆に来たんだから、練習ばかりじゃなくって、体も休めたいよな。
 露天風呂は入るとして。」
「混浴やないやろうな? サチ子に入られたらかなわんで。」
 ギロリ、と睨み上げ来る岩鬼に、里中が軽く首をかしげる。
「え、いいじゃないか、別に? こないだまで一緒に入ってたんだし。」
「いや、よくないだろ。」
 不思議そうな様子の里中に、とりあえず即答で否定してやって、微笑は里中が持っていったパンフレットを指先で捲る。
「露天風呂は男湯と女湯と、きちんと分かれてるぜ、岩鬼。
 その代わりに、ほら、家族風呂って言う予約制の風呂が別にあるんだよ。」
「家族風呂?」
 どれどれ? と、四方八方から覗き込む面々に、ほら、と微笑は指先を示す。
 するとそこには、最近いろいろな旅館やホテルで用いられている、部屋に備え付けの風呂ではない、予約制の少し広めの風呂の説明がされていた。
 家族で、夫婦で、グループでご利用ください、と書かれている。
 人目につきたくない有名人などは、ぜひ活用したいゆったりとできる露天風呂であったが。
「へー。予約制の風呂。」
 なぜかワクワクしたような響きが宿った、里中の声を聞いた瞬間。
「────………………。」
 これから何が起きるのか、分からないような元明訓面子は居なかった。
 すなわち。
「──あー……せめて、その楽しみは最終日にしとけ、智。」
「さすが山田づらな。……計算づくめづらぜ。」
「あほかい、どブスチビもおんのに、計算もないわい。」
「ばーかよー、24時間ってここに書いてあるづらぜ。」
 そんな、あきらめたような響きを宿す会話をする面々に、まったく気づかないまま、里中はパンフレットを手に取ると。
「じゃ、また後でなっ。」
 ニッコリ、と満面の笑みを零して、さっさと中庭向けて走っていった。
 その先を問いかけるような、無粋な人間は、この場には一人も居ない。
 ……というよりも、
「ええかげんにせぇや。」
「それは言わないお約束づらぜ。」
「……まぁ、俺たちも止めないしな…………。」
 残された三人は、ただ疲れたようにため息を零すばかり──。










+++ BACK +++



あほ話だなぁ……と思うんですけど。
でも、伊豆・露天風呂と来たら、やっぱりそうかなぁー……とか…………もごもご。

それにしても、サチ子はこのとき、小学校5年生ですか?
そろそろ大人の事情が分かる頃ですよね(大笑)。