あの高みに行くために、足りないものが、ある。

















 筋トレもした。投げ込みの量も増やした。嫌いな魚だって、進んで摂った。
 少しでも、かの地に近づくために、努力を惜しんだつもりはない。
 それでも、身長は決して平均以上になることはなかったし、肉付きも一向に良くなりはしなかった。──ほかの選手に比べれば、華奢とすら形容できる有様だ。
 当然、テレビの中の彼らと比べれば、歯噛みするほどの悔しさと憤りを覚えるばかりで。
 このままではダメだと、トレーニングの量を増やせば、チームメイトから無茶をするなと言われ、高校時代の先輩からは電話先から「体を壊すぞ」と忠告された。
 見下ろした手は、高校時代に比べて分厚くなったような気がするのに──当時に比べたら、持久力も筋力も付いたと言い切れるくらいに成長しているのに。
 見上げた地に居る彼らは、もっと強く、もっと激しく、あの地を駆け上っていくのだ。
 その軌跡を見せ付けられるたびに、胸の内にまざまざと蘇る感情がある。
──10年前に刻まれた、トラウマ。
 自分よりもはるかに長身の少年。弓のようにしなる腕、放たれる白球。
 ベンチの中にすら入れず、ただ転がる白いボールを拾い上げた日々。悔しさに歯噛みして、プライドを殺して「下手投げ」に変えた「原因」。
 野球が出来ないことが、ただ悲しくて悔しくて、たまらなかった、あの日々。
 今は、あの時と事情も何もかも違うはずなのに、良く似た感傷にも似た気持ちを覚えた。
 それでもあの時は、その暗く淀んだ感情から脱出するきっかけがあった。
 中学二年の試合の最中に見た、たった一人の男の姿があった。
 けれど今は、当時と事情が違う。
 自分の力の無さを補う捕手と組むことで、高みに上る道は選べない。
 たった一人のその捕手こそが、高みの極みに立っているのだから。
 彼とバッテリーを組むためには、力の無い自分のままではいけない。
 「足りない」己のままでいてはいけない。
 自分の足りないものを補う相手として彼を求めていては、永遠に彼とバッテリーを組めるはずもない。
 彼の隣に立つためには──あの当時、ともに野球をしてきた彼らと同じ地に立つためには、自分の力のなさを、己の力であがなうしかないのだ。
 あまた居る投手の中でも、自分こそが彼のエースだと選ばれるような力が居る。
 そうしなければ、あの場所で、彼の隣に立つことは出来ない。
──そう、思うのに。

「自信が無いんだと、そう弱音を吐いたら、お前達はなんていうだろう?」

 岩鬼はきっと、俺を発奮させようとして、虚弱児だからだとかからかうかもしれない。
 いや、案外彼のことだから、俺を遠まわしに誉めて、その気にさせるかもしれない。
 殿馬は、自分で選べとそう言うだろう──けれど後で、やるときゃやるしかないんだと、そう発破を掛けてくれるはずだ。
 微笑は、ただ背中を押してくれるだろう。いつまでも蚊帳の外じゃ、見れるものも見れないから、とにかく突っ込めと、そう言ってくれる。
 そして山田は。
「……弱音なんて吐いてるなと、叱られるかな、やっぱり。」
 後1年。
 ノンプロで3年目を迎えるその年に、プロへの意思表明をしようかどうかを、自らの意思で決めようと思っていた。
 今の現状で言えば、自分の仕上がりに満足はしていないが、後はプロへ飛び込んで、野となれ山となれと言うところだと思っている。
──妥当な評価だと、思う。
 けれど。
 ──これではまだ足りないのだと、飢えたように思う己が居るのも、知っている。……その貪欲な欲望に、捕らえられてしまっているということも、分かっている。
────このままではダメなのだと、足りないと、そう叫び続けることだけが正しいことではないのだろう、本当は。
 立つ舞台が違うのだから、比べられようがない。
 だって、俺はまだ、同じ土台にさえ立っていない。
 プロ野球というその世界に──、一度も足を踏み入れていない。
 昔──高校野球の頂点にまで上り詰めたときのライバル達は、そのほとんどがプロ野球の世界に立っている。
 その中に俺が居ないのは、チャンスを逃したからなのか、それとも……本当は、実力が足りないからなのか。
 もし、チャンスを逃がしただけなのなら、俺はまだ、チャンスをつかみ取るために戦う意思がある。
 そう、思っている──いや、思おうとしている、けれど。
──まだ、足りない。
 才能に枯渇するかのように叫ぶ心は、いつも冷静になろうとする理性をしのぐ。
 焦りと、焦燥と、心の内から沸き立つような落ち着かなさを自覚するたびに、腕が、足が、身体が──悲鳴をあげるのだ。
 まだ、足りない。全然、足りない。
 一流選手の中で、超一流と呼ばれる彼らを目指すなら、「この程度の実力」を甘受していてはならない。
 そう思うたび──これから先のことを考えるたびに、めまいにも似た感情が、全身を覆う。倦怠感のような、焦燥感のような…………。
 それを無理矢理違う力に置き換えるために、必至になって練習した。
 ただガムシャラにボールを投げることも、走り続けることもあった。
 その行き過ぎの練習を誰かが諌めるたびに、切ないくらいの激動が湧き上がることもあった。
──分かってる。
 自分に焦る気持ちがあることも、身体がついていかないオーバーワークをしても実にならないことも、それが故障の原因になるってことも。
 全部、ちゃんと分かっている。
 でも、それでも──足りない、のだ。
 足りないと、心と身体が渇望するのだ。
 こんな気持ちを抱え続けて、迷って、立ち止まって、そしてまたガムシャラに走り出して。
 そんなことをしても何もならないのは、分かっている。
 本当はもう少し──「距離」を置くべきだということも。
 足掻いても足掻いても、何も見えてこない暗闇を見ているような気がするたび、距離を置くべきだと、思う。
 同じように、心配してくれる先輩達からもそう言われる。
「山田達のことを意識するなとは言わない。
 けど、智……もう少し、距離を置くべきじゃないのか?
 今のお前は──ただ、自分を痛めつけてるようにしか、見えないぞ。」
 そう言ったのは、先日の──今年最後の試合を見に来ていた『高校時代のキャプテン』だった。
 チームメイトの先輩達に同じ言葉を言われたら、「分かってます」と少しの憤りを覚えて答えたことだろう。
 けれど、彼の言葉には──高校時代の自分たちを知っている彼の言葉には、素直に頷いて、その言葉を呑むことが出来た。
──チームの先輩ではなく、彼にこそ甘えているという事実に、苦笑を覚えずにはいられなかったが。
「なら、鉄司さん──俺は、どうやって距離を置いたらいいんですか?」
 いつもなら、ただ苦笑と共に答えをうやむやにさせたところだが、思わずそう聞いてしまったのは──多分、今シーズンの己の仕上がりに、満足できていなかったせいなのだろう。
 何もかも、分からなかった。
 ガムシャラに全てを進めて、後は野となれ山となれと飛び込むのが一番いいのではないかと、自暴自棄に考えても見た。
 けれどそんな方法では、彼らに到底追いつけないような気がして──もしも彼らと同じ土台に立って、それでもともに戦える力がなかったら、その時こそ自分は再起不能になるような気がしてならない。
 一度あのような形で離れてしまっているから余計に、不安だった。
 そう、内心を吐露する里中に、山岡は少し驚いたような顔をして──それでも、かすかな苦笑と共に、そうだな、と指先で頬を掻いた。
「俺には……わからないけどさ。
 ……北が、な。」
「北さん?」
 山岡の口から出てきた、現役で東大に入学した「秀才」の名前に、里中がかすかにいぶかしむように眉を寄せる。
 懐かしい気すらする名前を口に出せば、つい先日の秋の大会で、応援だと言ってスーツを着こんでやってきた──高校の頃から変わらない童顔が浮かんだ。
 スーツに着られているような顔で、入場口で配っていたらしい旗を手にして、「がんばれよー」と応援してくれた、あの先輩が。
「日本国内にいれば、どこにいてもあのスーパースターの噂は耳にはいってくるんだからさ──いっそ、海外に行ったほうがいいんじゃないかってさ。」
 苦笑じみた表情の中、目だけが真摯な色を帯びていた。
「……メジャー?」
 海外、という言葉に、連想的に浮かんだのは、野球大国の地図だった。
 日本の約25倍の面積に、いくつもの野球リーグ。
 その国には、プロ野球選手が何人も行った──メジャーリーグがある。
 思わず呆然と呟いた里中に、山岡は、ふ、と目の色を和らげて、
「アメリカだからメジャーって決め付けることはないだろ? マイナーリーグだってあるし、そこからメジャーにのし上がった選手だっている。」
 続けて、山岡は、俺だって出来ることなら、それを狙いたい、と笑った。
 プロの世界で、もう一度山田達とやりたいと思う気持ちもある。けれどそれと同じ位、かの地で実力を試してみたいと──伸ばしてみたいと思う気持ちもあるのだ。
「ただ俺は、そこまでする勇気と実力が、あんまりなくってな。」
 北から言わせれば、野球で喰っていけることこそスゴイと言うことらしいがな、と、快活に笑ってみせる山岡の──高校時代よりもずいぶんオヤジ臭くなった笑い方に、里中もつられたように笑い声をあげた。
「それに。」
 首筋に手を当てて、山岡は少し考えるように──目元と口元を緩めて微笑む里中の顔色をうかがうようにチラリと彼を見た後で、
「山田達も、あと5年もしたら、FAだろ? 今のプロ野球界なら、あいつらはメジャー入りするかもしれない。
 ……それに合わせて、メジャー入りを目指すのも、いいんじゃないかな、と。」
 ゆっくりと──まるで、言い聞かせるように、そう続けた。
 思わず、ヒュ、と短く息を吸い込み、動きを止めた里中のかすかな動揺に気づかない様子で、山岡は視線を遠くへ飛ばしながら、
「──まぁ、そういう選択肢も、視野に入れておいてもいいかと思ったんだよ。……俺は、な。」
 軽口を叩くように、ことさら明るい声で続けて、笑った。
 その笑い声に、同じように軽く笑って答えようとして──里中は、口が奇妙に捻じ曲がるのを止められなかった。
 そんな里中の顔を見て、山岡は苦い色を刻み込んで、「ただの可能性の話だよ」と、続けてくれた。
 けれど、その後から──10月のあの試合の後からずっと、心の中でシコリのように、山岡の言葉が残っている。
「──……山田は、将来、メジャーには来ない、だろう、な……。」
 彼は野球が出来るなら、どこでもいいと、そう笑って言うだろう。
 だから、山田と野球がしたいなら、わざわざメジャー入りを目指す必要はないかもしれない。
 でも──それでも。
 ムクリと何かが、胸の中で首をもたげたのを、自覚せずには入られなかった。
 時間が過ぎれば過ぎるほど──来年度の契約が目の前に迫れば迫るほど。
 心が、急速に傾いていくのを止められなくなる。
 それは──10年前の……己の心情に深い傷を残したトラウマを乗り越えたあの瞬間に、酷似している。
 俺は、このままココで、彼らの影響を受けて野球をしないほうがいいのかもしれない。
 見れば見るほど、その姿を目の当たりにして耳にするほど、焦燥感や表現できない落ち着きのなさを感じるのなら、いっそ。


──何も見ず、感じず、己の力量だけを見つめていける世界に、飛び込んでしまえばいい。













「里中──お前、アメリカに行かないか?」











監督のその言葉を聞いた瞬間。
────誰も彼もが、俺に甘いなと…………、そう、思った。

































 キャンプ地は、西武ファンで賑わっていた。
 その中──内野席の最上段から見下ろした球場は、本当に小さく見えて。
 遠く小さく見える球場の中に散らばる選手の姿は、指先ほどにしか見えない。
 本来なら、その人影の中から、目当ての人物を探し出すのは、至難の業のはずだった。
 けれど、見下ろした球場の中──迷うことなく、逡巡すらなく、目は自然とそこに行った。
 去年のオールスターのときに、本当に久し振りに見た「生身」の彼らを、決して見逃すことがなかったように、里中の目は、すぐに目当ての人物を捕らえた。
 あの人影が誰だと思うよりも早く、山田だ、と確信する。
 思わず目を細めたのは、懐かしさからか、郷愁にも似た甘痛を感じたからか──自分でも分からない。
 ユニフォームに身を包んだ山田は、球場にまばらに居るファンの声援に答えるように、向こう側の内野ベンチに向けて、ひらりと手を振って、走り始める。
 遠目に見ても、決して早いとは言えない速度でゆっくりと走っている彼の隣へ、にこやかな笑みを浮かべて走りこむのは──こちらも見覚えのある知三郎の姿だった。
 昔の自分と同じように、山田の隣で彼にスピードを合わせて走る知三郎の姿に、チリ、と胸に走る痛みを無視できるほど、大人になったつもりもなければ、冷静になったつもりもなかった。
 けれど今は、そこから視線を逸らすこともできず、外野の壁際を走る彼らを目で追う。
 去年の少し前までは、西武に入るのはイヤだとダダを捏ねていたとは思えないほど、明るく無邪気な笑顔で、知三郎は山田を見上げている。
 ──信頼しているのだと、誰が見ても分かるだろう。
 その姿は、まるで数年前の自分のようで──苦い色の笑みが、口元に浮かんだ。

──『俺が居なくても、代わりなんていくらでもいるじゃないか。』

 昔、一度だけそう叫んだことがあった。
 辛くて、苦しくて──本当なら、プライドが故に決して弱音などはかない俺が、ただ一度だけ、そう言って彼に弱音を吐き出したことがあった。
 その台詞は、同時にザクリと自分の胸を射抜いて──自分で自分に吐き気がした。
 俺は、決してこの台詞を口にしてはいけないのだと、そう心から思うほど、痛い、台詞だった。
 同時に、それを否定してほしい気持ちが込められた、吐き気がするほど気持ちの悪い言葉だった。
 そして当時から最高の相棒だと自他ともに認められていた山田は、里中のそんな自棄であり甘えを含んだ言葉を、きちんと否定してくれた。
 俺の代わりなど、どこにも居ないのだと。
 明訓のエースナンバーは、お前しか居ないのだと。
 ──それが。
 俺が認めたたったひとりの捕手から伝えられたその言葉が、何よりも俺のプライドを刺激し、何よりも俺を責めている言葉だと、分かっていながら。
 叱咤と激励と、甘えを許さない──針のムシロに立たされていると、心から思った。
 彼の前で弱音を吐くたび、自分が追いつめられているような感覚を覚えていた──いつも。
 それでも、弱音を吐くのは、彼の前だけだった。
「………………──────。」
 その彼も、今は隣に居ない。
 それがあたり前の日々が、いつの間にか、一緒に居た月日を凌駕してしまっている。
 その事実にふと気づいたときの、胸に吹き荒れた寂寥とした感情は、今でも何と口にしていいのかは分からない。


 あの頃は、山田のその言葉にしがみつくようにして、投げていたような気がする。
 俺の存在意義。
 俺の居場所。
 俺の作り上げたもの。
 冷遇の中学時代を恐怖するように、俺はただ走っていた。
 ふと気づけば、幾つかの衝突はあったものの、俺の周りにいる仲間達は、俺をいつも優しく暖かく迎えてくれた。
 それは、今のチームメイトも同じだけれど──懐古する思い出は鮮やかで美しく、決して幻滅することはない。
 こまごまとしたことを思い返せば、岩鬼とはしょっちゅう取っ組み合いのケンカだってしたし、同室だった山田とも、つまらない諍いを起こしたことだってある。
 それでも、あの合宿所の中は……明訓の中は、俺の世界の全てだった。
 あの頃は。

「……あの頃は良かったなんていうようになったら、お前は終わりだぞ、か。」

 けれど、明訓を卒業してから、何度そう思わないように努力しても、いつも里中の胸にはその言葉があった。
 あの頃は良かった。あの頃に戻りたい。
 だから、今、頑張る。
 彼らとともに野球をするために。
 山田とともに、同じ場で、野球をするために。
 今度は、山田に全てを依存するのではなく、ちゃんと自分の足で、自分の力で、あの場所に立ちたい。
──でも。
 今の俺には、まだその力はない──ないのだと、思う。

 見下ろしたグラウンドで、山田が誰かに駆け寄っているのが見える。
 その隣に立つ、まだ10代にしては出来上がった体の「投手」を認めて、里中は軽く目を眇めた。
 並んで走リ始める人影を見据え続けると、ふいになんとも表現しがたい感情がこみ上げてくる。堪えるように、キリ、と唇を噛み締めて、かすかに視線を落とした。
 内野席の前の方──数段下では、西武の色とマークが入った野球帽を被った子供が、片手にメガホンを持って、それを振り回して笑っている。
 その両隣に座っている男女──その子の両親らしき2人が、顔をほころばせながら、小さな男の子の背に手を当てながら、ほら、と促すように前を指差す。
 その指先につられるようにして、子供と一緒になって、里中は再び視線をあげた。
 グラウンドでウォーミングアップを開始したばかりの選手たちの中に、見知った顔があることが、どこか奇妙に写った。
──もしかしたらあと1年待てば、俺はあの輪の中に加わることが出来たかもしれない。来年の今ごろは、山田の隣で彼らと一緒に走ることが出来たかもしれない。
 そう思えば、チリ、と胸の中に焦燥にも似た感情が走るのを覚えた。
 少しだけ、後悔しているのだと、思う。
 ──投手の肩や肘は消耗品だからこそ、時間を大事にしたいからこそ、焦っていたのに……ますます遠ざかるような道を選んでしまったのではないかと……思わないわけではなかった。
 決断を監督に伝えてから、三ヶ月の間、考えなかったわけじゃない、悩まなかったわけじゃない。
 もし彼らと共に野球生活を歩めるようになっても、その月日はどれほど短くなるのだろうかと、不安を覚えなかったわけじゃない。
 俺の第一希望は、あくまでも日本のプロ野球界で、山田たちと共に野球をすることだ。
 どんなすばらしいキャッチャーにめぐり合っても、どれほど気があう人たちと野球をしても──それでもやはり、山田が一番俺のことを良く分かっていてくれているという思いが胸の中にある。
 そうある限り、今している野球こそが、人生で最高の野球だとは、どうしても思えない。
 けれど、彼らと同じ場所で──あの高校時代以上に望む野球を手に入れるためには、今のままではダメだと思う。
 このままでは、自分は潰れるしかないのだと……分かっていたからこその、決断なのだと、苦渋の思いで決めたはずなのに。
「……──くそ……っ。」
 短く吐き捨てて、ギリリと掌を握り締めた。
 ポケットの中で、じっとりと湿った掌が、痛いくらいに白くなる。
 それをますます強い力で握りこんで、里中は視線を落とした。
 頬に当たる風は冷たいばかりだというのに、指先がジクジクと熱を訴えるようだった。
 そのまま、強く目を閉じて、唇を真一文字にひき結ぶ。
 頭の中でめまぐるしいほどの多くの感情が、グルグルと回っていた。
──ざわめきが遠い。
 肌を掠める冷たい風が、身を切るように感じる。
 小さく開いた唇から吐息が零れ、白い湯気となって鼻先を掠めていく。
 それを追うように視線をあげれば、遠く豆粒のような「一流の選手たち」の姿。
 その中に見える一人が、ふと視線をあげるのが見えた。
 視線がさまようように外野を巡り、内野の──この辺りをさまよう。
 思わず、息が、途切れた。
 まさか、と思う。見えるはずがない……いや、見える。
 見える、けれど──気づくはずがない。
 彼がどこを見ているのかすら、この位置からは分からない。だから……分かるはずはないけれど、彼のさまよう視線に、緊迫した息が喉元で止まった。
 気づいて欲しいと思っているのか、そうではないのか、自分でも分からなくて、里中は戸惑う表情を無理矢理引き締めて、顎を引いた。
 日本を離れる前に、一言二言、言葉を交わしたいという欲求はある。ただ、何と話せばいいか分からなくて──何と言ったらいいのか分からなくて、結局、今日まで連絡はしていない。
 今、山田に気づいてもらえたとしても、何といえばいいのか分からなかった。──それでも、会えて言葉を交わしたら、自然と言葉は零れていくものなのだろうか?
 足は自然と前に進み、コンクリートの浅い階段を、一歩下る。
 そのまま、階段をゆっくりと下っていこうとした矢先──小さな小波にも見たざわめきが、周囲で起きた。
「……なぁ、おい……アレ……。」
 見てみろよ、と隣を突付く声、視線。
 その慣れた感覚に、里中はさらに下ろうとしていた足を、ピタリと止めた。
「里中……じゃないか、……アレ……?」
 小さな言葉が零れた瞬間、ざわめきで包まれていた内野席が、かすかに色を変えたのを感じた気がした。
──3年も経っているというのに、いまだに言われるのは……これも有名税というヤツか。
「え、里中って……?」
「ほらっ、明訓の、エースだった──。」
「──……うそっ、どこ? どこにいるのっ? 私、ファンだったんだぁ……っ。」
 広がっていくざわめきに、浮き立つ気配。
 里中は小さく息を零して、ズボンのポケットに突っ込んでいた帽子を取り出す。
 そのままさりげない動作で目深に被ると、クルリときびすを返して、出入り口に向かって歩き始めた。
 背中の向こうで、残念そうなざわめきと視線が追ってきたが──当然、里中は振り返ることはなかった。



















────待っていてくれ。


 時間はかかるかもしれない。それでも俺は、野球、してるから。
 いつかお前たちのところへ……お前と一緒に野球ができるように、がんばるから。

 俺はいつも、お前に待っていてほしいと言ってばかりのような気がするけど。
 これが、最後にするから。

 だから──……。




 待っていて、ほしいんだ。























 叶うか叶わないかわからない、約束を、した。







 あれから、10年──……。







 「山田世代」の「FA宣言」が、紙上をにぎわせていた。














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ようやくココまでたどり着きました……ふう。
結局、ほとんど書き直してしまいました。

後、1話で完結予定です。

ちなみに、上で言っている「10年」っていうのは、高校3年の春から10年なので、プロ9年目って言う意味です。……一応。



ところで、話の中では、里中と山田が連絡を取り合っているかどうかについては、常にぼかし続けているのですが(笑)、連絡は取っていない方向で書いてます。もしかしたら、ノンプロになることが決まった時点で、プロを目ざすことは内緒にして、ここのチームに居るんだ、くらいの連絡はしたかもしれませんけど。
でも、里中が連絡してこなくても、山田は行方を捜してそうです……。
それで遠目に、里中が元気に野球をやっているのを見て、そ、と微笑んで帰って行くとか……それもいいなぁ…………(←笑)。