井戸の中の蛙は、丸く切り取られた形の空を見上げながら、自分の外の世界は、きっと広いに違いないと思うだろう。
 けれど、井戸を這い上がり、その目で世界を見ないことには、自分が世界でどれほそちっぽけで、自分がどれほど回りが見えていなかったのか、真実の意味で悟ることはない。
 そしてその目で「世界の広さ、大きさ、高み」を知り──、再び井戸の中に戻るのか、それとも見果てぬ世界へと旅立つのか──……、それは、その「蛙」が、自分で決めることなのだ。
















 千葉マリンスタジアムの最寄り駅──海浜幕張駅で降りると、すでに人で埋もれていた。
 電車の中で次々に乗り込んでくる人を見るたびに──その手に持った幕だとかメガホンを認めるたびに、半ばうんざりして居たが、駅を降りた瞬間のうんざりは、電車の中の比ではなかった。
 四方八方熱気溢れた人の体臭に包まれて、顔を顰めながら人の波に乗りながら──こんな中で、今日の試合のチケットを持っている人間に会うことは出来るのだろうかと、ポケットの中から携帯電話を取り出そうとした矢先、
「智っ! こっちだ、こっちっ!」
 グラウンドでも良く響く男の声が、名前を呼ぶ。
 ハッ、と顔を上げた先──逡巡するように視線が迷ったのは、ほんの一瞬。
 すぐに里中は、浅黒く焼けた肌の、目の周りが黒ずんだ……ほぼ一ヶ月ぶりくらいに顔をあわせる高校時代の先輩の顔を見つけた。
 改札口の程近く──人ゴミに半ば埋もれかけた山岡が、ヒラリと手を交互に振って、コッチだ、と繰り返す。
 山岡に気づいたことを示すように、里中も手を振り返して、混み合っている改札を掻き分けるようにして通り抜けると、すでに溢れている人波がスタジアムの方角目掛けて歩いていくのを横目に、山岡の下に駆け寄った。
「鉄司さん……、すみません、待たせちゃって。」
 興奮した面持ちを隠せないたくさんの人達は、誰も彼もが嬉しそうな、楽しそうな顔をしている。
 こんな顔を、昔、見たことがあった。
 あの時の自分たちは、観戦者の「コチラ側」ではなくて、その笑顔や声援を向けられる側ではあったけれども。
「いや、お前のほうこそ、電車の乗り継ぎが大変だっただろ? 疲れてないか?」
 距離的に言うならば、山岡の方が遠いはずなのだが、直結電車の関係上、里中の方がずいぶん時間がかかってしまった。
 結局、山岡を30分くらいは待たせているはずなのだが、彼はまるでそんなことは顔に出さず、里中を見下ろして──
「……って、お前、ずいぶんな荷物だな?」
 軽く眉を顰めながら、里中が肩から提げているスポーツバックに目を落とす。
 どう考えても「旅行カバン」と言える大きさのそれは、初めての一泊旅行をするかのような量である。
 いくら今夜一晩はホテルに泊まらなくてはいけないとは言えど、この荷物はないだろうと、渋面を作る山岡に、里中は憮然と唇を歪める。
「俺だって、持って来たくて持って来たわけじゃないですよ。
 寮の先輩達が、オールスターに行くならコレが必要だとかあれもいるとか、色々突っ込んでくれたんです。
 なんか俺、山田のボードとか持って、テレビに映らなくちゃいけないらしいですよ。」
 コレ、と、カバンとは別に小脇に抱えていた紙袋を示す里中に、山岡はクシャリと顔を崩して笑った。
「ハハ、分かる分かる。俺もほら、これを振って来いって渡されて来たんだぜ。
 場所が場所だから、テレビに映るかどうかは微妙だと思うけどな〜。」
 ほら、と同じように小脇を示す山岡に、どこも同じですねぇ、と頷く里中。
 けれど──と、山岡は先程ロッカーに詰めてきたばかりの荷物と、里中が肩から提げている荷物の量を比べて、どう考えても里中の方が面白いくらいに多いと思う。
 今、同じように駅に溢れている「観戦客」の中でも、一際目立つほどに、細身の体に似合わないくらいの大きなバッグだ。
 実はこの中にバットが入ってるんです、と言われても信じてしまうだろう。
「お前って、ドコに行っても、可愛がられてるなぁ……。」
 思わず山岡が、そうシミジミと零してしまったのもムリはないだろう。
 いつも遠征の試合に行くときに、バットやグラブ、タオルに着替えが入っていたような、そんな大きな旅行カバンが、どう見てもパンパンに詰まっているのである。
 中を開いたら、修学旅行の時のとある友人のように、「お菓子と、お菓子と、お菓子。」とかいう状態が広がっているような気がしないでもない。
 カバンを見ながら顎に手を当てて、うなった山岡を、里中はキョトンを見上げる。
「──……は? 今、何か言いました?」
「ん、いや、その荷物、重いだろ? ロッカーにさっさと入れて、行こうか。」
 ポン、と促すように里中の肩を叩くと、里中は窮屈そうにバッグを抱えなおして、コクリと頷いた。
 山岡が、自分の荷物を仕舞いこんだロッカーを示して
 そのまま揃って歩き出しながら、里中は前も後ろも見えないような状態にうんざりしたように眉を寄せる。
 しかもその上、今は真夏──ただでさえでも蒸し暑いのに、クーラーの効いてるはずの車内もココも、人の体温と汗で、ねっとりとまとわり付くように暑い。
「あっつ……。」
 小さく呟いて、里中はシャツの袖口に頬を押し付けるようにして顔に吹き出た汗を拭い取った。
 電車に乗る前の駅のホームで、カバンの中からタオルを出して首から掛けておけば良かったと、電車に乗った早々に後悔したことを、今また思う。
「そりゃお前、7月も終わりだって言うのに、長袖なんか着てるからだろ。」
 呆れたように見下ろしてくる山岡は、Tシャツ一枚姿だ。
 そのむき出しの二の腕は、コンガリとアンダーシャツ焼けしている。
 本当なら、タンクトップやノースリーブ姿で居たいところだが、野球青少年などやっていると、赤黒く焼けたアンダーシャツやユニフォームの形がクッキリと鮮やか過ぎるために、普段でも丸首のTシャツに半袖シャツ──までが露出の限界なのである。
 そのアンダーシャツ焼けを見せびらかしたいのなら話は別だろうが。
 里中は、隣に立って歩く、頭半分ほど大きい男をジロリと睨みあげると、
「肩を冷やさない……って言うのもありますけど、混雑するって分かってる場所に、半袖やノースリーブで行くのって、勇気いりません?」
「勇気? ──なんでだよ?」
「……服の上からでも、べッタリすると鳥肌たちますよ、俺。」
 不思議そうに見下ろす山岡にそう答えると同時、里中はゾワリと背筋を震わせる。
 ちょうど隣を通り過ぎようとした男のむき出しの二の腕が、里中の頬をピタリと軽く打ち据えたのだ。
 ぶつかるかのようなそれに、何するんだと激昂するよりも先に、頬に当たった冷たい──他人の汗で濡れた肌の感触に、里中は背筋に一気に寒いものが走ったのを覚えた。
 その、まるで毛羽立ったような反応を示す里中を見下ろして──あぁ、なるほどな、と山岡は納得する。
「けどな──それって今更じゃないか? 俺達、高校の頃なんて、泥だらけの涙混じりの、すっげぇ格好で抱き合ってただろ?」
 もしコレが、こういう野球愛好家の場所ではなくて、閑散とした喫茶店なんかで図れた台詞だったりしたら、回りから興味津々の視線を向けられただろうが──幸いにして、今2人が歩いている場所は混雑している駅の構内。辺りは野球ファンに埋もれ帰っているためか、誰もその台詞に頓着する人は居なかった。
 もちろん、それを発した山岡も、聞いた里中も同じある。
 ゴシゴシとシャツの袖で頬をぬぐいながら、里中は憮然と唇を一文字に引き締める。
「アレは青春の汗。コレはただの脂性の汗。
 なんかべったりして、気持ち悪いんですよ。」
「……………………別にお前、潔癖症ってワケじゃなかったのにな。」
 コリコリ、と顎の辺りを指先で掻きながら呟くと、里中から猛然とした台詞が帰って来る。
「潔癖症なんかだったら、合宿所や寮で暮らせたりしないですよ、絶対。
 高校の合宿所のときはまだ良かったけど、今の寮なんかスゴイんですよ、本当。
 冷蔵庫の中に入れておいた俺のプリンがなくなるのはいつものことだけど、洗濯場に干しておいたパンツまで無くなるんですよっ!」
 グッ、と拳を握り締めて、里中は未だに恨みを持った目で、高かったのに……と呟く。
 その所帯じみたような気のする後輩を見下ろせば、ギリリと悔しげに目を顰めてうなる顔。──思わず見下ろした先に見えるつむじを、カイグリカイグリしたくなるが、やればやったで肘鉄くらいは飛んできそうだと、山岡はかろうじて手を握り締めてその衝動を堪えた。
 代わりに、その手をポケットに突っ込みながら、
「で、ある日見たら、なんか先輩が良く似たのを履いてるんだろ?」
 自分の経験談を笑いながら口にした。
 それは、大学の寮の時の話だ。
「そう! ──って、もしかした鉄司さんもやられた口ですか?」
「やられたな〜……あと、新品で買ってきたタオルやシャツなんかは、名前を堂々と一面に書いておかないと、絶対誰かに持ってかれる。」
「そう、で、古びた使い古したようなタオルが回ってくるんです。」
 まったく、と、憤然と呟く里中も、アレは参るよな、と笑う山岡も──結局、どちらも本気で怒っているわけではないのだ。
 返してくださいといえば、先輩はなんだかんだと軽口を叩きながらも返してくれるし。
 そんな傍若無人の先輩達から、時々恩恵を授かったりもするから、ある意味「フィフティー・フィフティー」であるとも言える。
「それはもう、アレだ。寮の性だな。」
 諦めるしかない……そう腕を組んで呟く山岡に、
「……そういえば、高校の時、鉄司さんたちの部屋も、すっごかったですよね──汚さが。」
 思い出したように里中が、口元をほころばせて彼を見上げる。
 そんな、笑みを含んだ里中の台詞に、ブッ、と山岡は噴出した後、慌てたように里中を見下ろして叫ぶ。
「いや、ちょっと待てっ! アレは俺じゃなくってなぁ〜っ!」
 そのまま、イイワケのように同室だった男の名前を続けようとした山岡から視線を逸らすように前を見て、里中は小さく口元に笑みを乗せながら、続ける。
「大掃除のとき、山田が凄く苦労してたの、今でも俺、覚えてるんですよ。」
 山岡の言葉をさえぎるように呟いて、里中は少しだけシンミリとした目で──懐かしむように、目を細める。
 スルリと口から出た名前を、噛み締めているようにも見えた。
「あー……確かに、お前達にもずいぶん迷惑をかけたような覚えがある。」
 カリカリ、と頭を掻きながら、山岡も当時を思い出すように、一瞬だけ視線を遠くに投げかけた。
 すでに人生の半分にもなる「野球人生」において、たった三年間しかなかった高校野球──自分の左手に立つ人物に至っては、志半ばで中退することになってしまったため、たった二年間しか在籍していなかった。
 そんな、短い時間であったけれど、今も鮮明のあの当時の記憶は残っている。
 部活動が輝いていたためか、高校生活自身の記憶は薄れがちだが、それでも──中学や今の日常よりもずっと、輝いていたように思える。
 それは、多分──今、隣に立つ少年にしても同じことだと、チラリと見下ろした先で、彼は重そうに肩の荷物を抱えなおしていた所だった。
 体に不似合いなくらい大きく見えるカバンに、そういえば、当時もそう見えたっけと、懐かしく思い出す。
「智、ロッカーはあっちだ。列から外れるぞ。はぐれずに着いて来いよ〜。」
「って、子供扱いしないでくださいよ。」
 ぶすりと唇を歪めてすぐさま言い返してくる彼の背中をポンと叩いて──、一瞬、ハ、と表情が強張った。
 思わず視線を落とすと、里中は向こうに行くと言いながら、歩き出す様子のない山岡を、いぶかしげに見上げていた。
 そのまっすぐな視線にぶつかって、山岡はハタと我に返ると、なんでもないと言いたげにかぶりを振った。
「暑いから、さっさと駅の外に出るか。」
 軽い口調で笑いながら、ポンポンと、もう一度里中の背中を軽く叩いて、山岡はロッカーの方に向けて歩き出す。
 そうしながら、先程彼の背中を叩いた手を、ごく自然に引き寄せ──その手を、見下ろす。
 四年前──そう、もう四年も前になる。
 あのときに触れた里中の体は、骨と皮にうっすらと筋肉がついているような、華奢で小さな「子供」だった。
 誰もが少年期から青年期に変化していく中で、入部当初に比べたら身長も体重も増えているはずなのに、体格の良い部員に囲まれていると、まるで子供のように見えたこともあった。
 けれど、四年を経た今の里中の体は──まだ細くはあるが、芯のあるしっかりとした筋肉がつき始めているのが分かった。
 触れただけでも、当時とは違う──彼が、どれほど努力しているのか、まざまざと見せ付けられているようだ。
 それでも。
「……──まだ、山田たちには、遠いか……。」
 見下ろした先で、里中は微かに微笑むようにしながら、周囲の雑踏を見つめている。
 けれど、ごく普通に装っているように見えても、その日に焼けた頬が、少し青ざめているのが分かる。
 大きな瞳を覆う睫が、かすかに震えているのが分かる──暑いと口で言いながら、唇が、青ざめているように見える。
 緊張しているのだと、すぐに見て取れた。
 その里中のつむじを見下ろしたまま、山岡が軽く顔を顰め──溜息を一つ零す。
 その拍子に、里中がクルリと首を傾けるようにして山岡を見上げる。
 とっさに、山岡は息を詰めて、考えていることがばれたのかと、狼狽しかけるが、
「鉄司さん、なんかロッカー……全部埋まってるんですけど?」
 よいしょ、と、荷物を抱えなおす里中が指先で示す先──その指先に、白いテーピングが巻かれているのを認めて、山岡は再び零れそうになる溜息を堪えながら、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
 すぐに手の中に金物の音がして、山岡はそれを引きずり出すと、里中の前にそれを掲げる。
「俺の荷物が入ってるから、ここに一緒に入れて置けよ。」
「──うーん、入るかな……。」
「カバンが入らなかったら、中身だけ入れておけばいいだろ。」
 ロッカーの小ささと、自分の荷物を交互に見ている里中にそう告げて、山岡はロッカーの鍵の番号と、ロッカーを照らし合わせている里中の背中を見つめる。
 薄い色のシャツと、ジーンズ姿。その頼りなく見える後ろ姿だけ見ていると、高校時代と何も変わっていないように見える。
 小さく見えるその肩で、その体で、甲子園を三度制したピッチャーなのだと言って、この場に居る誰が信じてくれるだろう?
 彼は、本当に頑張っているのだろう──、山田たちに追いつくために、彼らと同じ地に立つ為に。
 その成果は、目に見えている。
 体ができてきていなかった高校時代に比べて、今触れた里中の体は、しっかりとしていた──ただし、世間の一般人に比べたら、だ。
 野球選手としてみれば、里中は小柄な方だろう。
 小柄で力のない自分のことを良く分かっていたから、里中は高校時代から筋肉トレーニングには重点を置いていたが、岩鬼や山田のようには決してなれなかった。
 殿馬ですら、二の腕の力こぶはスゴイのに──と、文句を言っていた里中に、その代わり握力と手首の力は一球品じゃないかと、山田が誉めていたのを覚えている。
 小柄だから、野球選手になれないわけじゃない。
 力がないから、野球選手としてやっていけないわけじゃない。
 けれど──それが、弱点になることは確実で。
「……山田達に追いつくには、ずいぶん痛い弱点ではあるよな……。」
 彼らと一緒に野球をするのが目標だというなら、それでもいいだろう。
 けれど、里中が望んでいるのはそうじゃない──高校時代から一緒にいた山岡には、里中が口に出していなくとも、彼が考えていることが良く分かる。
 彼はそれこそ、「山田達と同じ世界」で、「対等」に、立ちたいのだ。
 プロの世界でやっていける実力という意味ならば、里中は今でも十分持ちえていると山岡は思っている。
 けれど、山田と同じ世界で対等な立場で──という意味で言うならば、今の里中では、厳しいと言わざるを得ないだろう。
 殿馬のような「天才的なセンス」を持ちえなければ、それは適わないような気もした。
 開いたロッカーの中に、カバンを放り込みかけながら──やっぱり入らないカバンに溜息を零した里中が、しぶしぶその場でカバンの中身を開き始めるのを、遠目に眺める。
 改札口で彼の到着を待っていたときにも思ったが、里中は自分で感づいていないのが勿体無いくらいに、良く目立つ。
 この人込みで、飛びぬけて大きいわけでもない体で──それでも、里中がいる場所には、自然と目が引き寄せられる。
 それは、山岡だけに限ったことではないのは、チラリと見渡した人込みを見ているだけで分かる。
 思わずと言った具合に、里中に視線が行く人が、何人も居る。
 その中の何人くらいが、「彼」が、5年前の甲子園を湧かせたエースだということを知っているだろう?
 この中の何人くらいが、自分たちが「あの明訓高校」の、レギュラー部員だったということを、知っているだろう?
 ふと、胸に湧き出る痛切な懐古心が頭を覆って、山岡は苦い色を口元に刻んだ。
 無遠慮にロッカーの中に荷物を放り込んでいく里中の背を見ながら、口元を掌で覆う。
「……昔を顧るのは、まだ、早い……、か。」
 自分に言い聞かせるように呟いたソレは、昔──五年も前に、「山田」に向かって告げたのと、同じ台詞だった。













 千葉マリンスタジアムの中に入ると、観客の熱気で埋もれていた。
 その中、適当な場所に席を決めて座り込むと、その隣から後ろからと、あっという間に席が埋まっていく。
「やっぱり、オールスターはスゴイ人気だな……。」
 シミジミと呟きながら、山岡は自分の左隣に腰を落とした里中を見やる。
 駅を出てからココまで、人波に流されるようにしてやってきた感が強く、ひどく疲れを感じていた。
 どっかりとベンチに座りこんで、肩に掛けていたディバックを降ろして、チャックを開く。
 チャックの隙間から突き出していた棒──白い布地に、「土井垣」と書かれた旗を取り出して、準備は万全。
「テレビには映らないと思うけどな……。」
「というか俺は、本当にテレビに映って、寮に帰ってから皆に爆笑されるほうがいやです。」
 同じく、中身がずいぶん軽くなった旅行カバンを足元に下ろした里中も、紙袋の中からボードを取り出し、そこに描かれた「山田」と言う文字を見下ろす。
 なんとなく溜息をついて、それを膝の上に乗せた里中は、そのままボードに両腕を乗せて、はぁ、と溜息を零す。
 ぼんやりとした目が、下方の蠢く人と、さらにその下に広がるグラウンドを見つめていた。
 ただぼんやりと、見ているようにも、見える。
 けれど、ボードの上に置かれた手や、まっすぐに見下ろすその目が、微かに強張り、震えているのが分かった。
 ボードを掴み取った指先に強い力が込められていて、指先が青白い。
 ざわめく観客席で、もう少しすれば始まるだろう「お祭り」に、興奮の面持ちを隠せない人たちと比べ者にならないくらい、里中は緊張しているようだった。
 少し青ざめたように見える唇が、キュ、と一文字に引かれている。
 まだ整備している最中のグラウンドを──ベンチの奥に選手の姿も見えてないその奥を、里中は、ただジッ、と凝視していた。
「──……、智、何か飲み物でも買ってくるから、荷物を見ててくれよ。」
 始まるまでは、まだ時間があるから、今からそんなに緊張するなと──そう笑いかけて、ポン、と里中の肩を叩いてやると、彼はハッとしたように顔を上げた。
 見上げる顔が、今にも崩れ落ちそうな、ギリギリの表情に染まっている。
 山岡はそんな彼を見下ろし、笑みを広げると、
「荷物、頼むぞ。」
 ポン、と彼の肩を叩いて、山岡は取り出した旗をベンチの上に置いて、ざわめく観客の合間に向けて歩き出した。
 低い階段を上りながら、満面の笑顔でメガホンを持つ親子とすれ違う。
 頬を紅潮させて、自分を見下ろす父親を、本当に嬉しそうに見上げる子供を振り返りながら──ふと山岡は、視線を自分たちの席の方に当てた。
 引き寄せられるように視線を寄越した先──たくさんのざわめきとたくさんの人に囲まれて、ぽつんと座る青年は、背筋を少し丸めるようにして、前かがみにグラウンドを見つめていた。
 その斜め後ろから見える横顔は、焦燥と緊張の色が見て取れた。
「……目立つよな……智。」
 見失うことがなくて、良いと言えばいいのだろうが──、さすがにこれほどの「野球ファン」が集えば、彼が誰なのか分かる人も居るに違いない。
 特に、「山田世代」のファンの中には、「明訓高校」時代からの熱烈なファンも多いと聞いた。
 ぼんやりとグラウンドを見据えている里中の背中を見やって、山岡はキュ、と手の平を握り締めた。
 飛び跳ねるように階段を下りていた子供が、父親に手を引かれながら、グルリと見回した視線を、ふと里中の辺りで止める。
 そのまま小さく目を見開いた子供は、けれど自分がどうしてそこに視線をやったのかわからないように軽く首を傾げて──、どうした、と声をかける父親に、緩くかぶりを振って、ニパ、と笑んでまた階段を降り始めた。
 見回せば、駅に居たときと同じように、自然と里中に視線が集まるのが感じ取れる。
 こり、と、山岡は頬を指先で掻いた。
「こりゃ──、里中だってバレて、騒がれるのも時間の問題かもしれないな……。」
 駅でも思ったが、まさかこれほどまでに里中が目立つとは思っても見なかった。
 もともと高校時代から、人の目を惹くところがあったし、エースになって自信をつけてからは、どこに居ても輝いているかのように目に付いたけれど──、何も今日、こんなところで目立つ必要はないだろう。
 というか、今の里中に、「明訓の里中さんですよね?」なんて声をかけられるのは──正直、避けて欲しいというのが本音だ。
「────…………ついでに売店で、帽子でも買って来てやるか……。」
 顔を隠すために。
 そうと決まればと、山岡は人波でごった返す中を、掻き分けるようにして小走りで進み始めた。
















 決して静かとは言えない寮の部屋で、二段ベッドの下に腰掛けながら、山岡は携帯を耳に当てていた。
 片方の耳からは、隣室から聞こえるテレビの音とざわめき。
 携帯を当てている耳から聞こえるのは、高校時代、一緒に合宿所で過ごした「友人」。
『そっか──それじゃ、里中とオールスターに行ったんだ……。』
 少し早口で続いた声の後に、カタカタカタ、とキーボードを叩く音がする。
 おそらくはキーボードの音だろう。今ちょうどパソコンを立ち上げているところだったと、言っていたから。
 その聞きなれた音を耳にしながら山岡は脚を引き寄せて、胡坐を掻きながら、窓の外を見やる。
「あぁ……、智、めちゃくちゃ目だってたぜ。」
『っておいおい、もしかして【明訓の里中】だって、ばれたのか?』
 ふとキーボードの音が止み、驚いたように尋ねてくる相手に、いんや、とパタパタと山岡は手の平を振る。
「ばれてない。一歩手前ってとこだったかもしれないが、その前に始まったからな……みんな意識はソッチに行ってくれたから助かったというか、な。」
 苦い色を刻みながら、山岡は無理矢理かぶせた帽子のことを思い出す。
 売店から戻ってくると、ちょうど整備が終わり、ベンチに選手の影が見え隠れしていたところだった。
 その向こう側に見えるベンチを凝視する里中の耳には、いつの間にかイヤホンがつけられていた。──カバンの中に、中継を聞くためにラジオを忍ばせてきていたのだろう。
 その目が、ジ、とベンチを見つめているのを見下ろしながら、声をかけて帽子を里中の頭に被せてやったが、彼はそれに気づかない様子で、ただ前を見ていた。
『そっか──それなら良かった。
 今の状況で、明訓の里中ですか……なんて聞かれてたら、里中も堪ったものじゃないだろうしな。』
 心底安堵したように、ホ、と胸を撫で下ろす電話の相手に、山岡は苦い色を滲ませて笑った。
『テレビは見てたけど、やっぱりお前らを見つけるのは無理だったな? 石毛達も、里中が一緒だって聞いて、そりゃぜひ見なくちゃとか言ってたけどな。』
 あはは、と軽い笑い声を上げる北に、山岡はオールスターの混雑を思い出して、アレは無理だろうと眉を顰める。
「スゴイ人手だったからな……、っていうかお前らさ、智に会いたいんだったら、アイツのチームの試合を見に行けばいいだけの話じゃないのか?」
『あんなところまで、ホイホイ出かけられないよ。──まぁ、機会があったら、みんなで行くかって話はしてたんだけどな。』
 山田たちは、「会いに行く」ことはできなくても、見ようと思えば新聞でもテレビでも──マスメディアを通して、いつでも「見る」ことはできる。
 けれど里中はそういうわけにも行かない。
『そもそも、山田たちの試合だって、見に行けたのは3年の時までだったな。』
「あー、それは言えてるな。4年の時は、忙しかったしな。」
『それに今は、就職一年目で、もっと忙しい。
 ったく、一年目早々に、オールスターなんていけてるお前が羨ましいよ。』
 皮肉を言う口ぶりが、どこか楽しげな色を宿していて、山岡はそれに釣られたように、羨ましいだろ、と笑った。
──そうだ、大学の最初の頃は、時間や休みを合わせて、良く一緒に試合を見に行ったものだった。
 せっかく夏休みに帰省しても、山田たちは試合をしていることが多くて、顔を見ることはできなかった。
 代わりに揃って試合を観戦しに行って、ビール片手に騒いだものだった。
 あの時、俺が抱いていたのは、少しの羨ましさと、後輩への誇りだけだった。
 けれど。
 オールスターの時の里中は、違った。
 差し出した飲み物の存在にも気づかず──試合前に、見ているほうが心配するほど緊張していた彼。
 何を思い、何を考えているのか……残念ながら、山岡には分からなかった。
 でも、分かったことは一つある。
 試合が始まった途端、里中の体から微かな震えも何もかもが消え、ただ彼は、真摯な眼差しで前を見据えた。
 その、燃えるような眼差しは──遠く昔、同じグラウンドで見たことがある「それ」と、全く同じものだった。
 彼は、ただ、前を見据えている。
 足掻いてでも、何をしてでも、その舞台に上ることを、考えている。
「面白かったぜ、オールスター。」
『そっか。』
「ああ。」
 里中は、試合中、食い入るように見ていた。
 そして呟いた一言が──ざわめきや歓声にまぎれて、ぽつんと山岡の耳に響いた。
──────すごい…………。
 その、たった一言が、オールスターに連れて来た山岡の行為への、答えだったのだと、思う。
「──……あの時から、里中は、変わった気がする──。」
『……え? 何がだ?』
 突然、ポツリ、と呟かれた台詞に、北は驚いたように問い返してくる。
「──んぁ?」
『だから、里中は変わった気がするって──何の話だよ?』
「あ……悪い、声に出してたか?」
 とっさに口元に手を当てて、山岡は苦い色を滲み出す。
 オールスターが終って、もう世間ではお盆が目の前に迫っているような時期だというのに、耳の奥にはまだ、里中のあの声がこびり付いているのだ。
『だから、何の話なんだってば。』
「いや……里中のな、チームメイトから、苦情の電話が掛かってきてな。」
『苦情って──……、里中のチームメイトから……お前にかっ!?』
 素っ頓狂な声が飛んできて、山岡はとっさに耳に当てていた携帯電話を耳から離した。
『なんでそんなものが掛かってくるんだよっ!?』
 一体、どういうことだと、そう叫んでくる携帯電話の送信口に口を近づけ、頼むから落ち着いてくれと、山岡は告げた後、改めて受話口を耳に当てる。
「俺とオールスターに行った後から、里中の練習方法が変わったんだそうだ。
 変化球に固執するんじゃなく、ただがむしゃらに練習するようになったらしくてな……。」
『あぁ……なんか、里中らしい気がするよ。』
 言われてみれば、高校時代もそんなことがあったような気がする。
 そのたびに、自分の体をわざと苛めているようにしか見えない里中を、山田が止めていたような──時には増進させていたような。
「そう。で──、里中のチームメイトのヤツがな、俺が余計なことを言ったんじゃなかって、俺に電話してきてさ──……。
 なんか、里中って、どこに行っても愛されてるよなぁ……て思うな。」
 耳元で、喧々囂々と叫ばれたのは、ほんの一週間ほど前のことだ。
 そんな彼らが叫ぶ内容を総合すると、確かに無茶なことをしていると思うことばかりだから、チームメイトが心配するのも仕方がないと言えば、仕方がないことだろう。
 けれど、だからって──多分言っても里中が聞かなかったのだろうが──俺に話を持ってこられても、困るじゃないか。
 里中に練習をするなと止めようにも、山岡は今、青森に居るのだというのに。
『うーん、分からないでもないなぁ……里中は、なんかそういう、特別なオーラみたいなのが出てたよな。』
「特別なオーラって言う意味で言うなら、あいつら全員、そうだっただろ?」
 目を閉じれば、今にも思い出すことができた。
 グラウンドの中で、指先ほどの小ささでしか肉眼で認めることができなかった、久しぶりに会う「彼ら」。
 バックの中から出してきたオペラグラスで覗き込んだ先、彼らは柔らかに微笑んでいた。
 その視線の先には──決して、自分たちは居ない。
 オールスターならではの、山田と不知火のバッテリーも見た。
 あの頃のように豪快に、バットを振り回す岩鬼も見たし、渦巻く風をうまい具合に使って打つ殿馬の姿も見た。
 彼らは本当に、特別なオーラに包まれていた。
 遠目に見ても、輝いていると思うくらい。
『あはは……ま、そりゃそっか。
 才能、あったもんなぁ……あの頃から。』
「特別なオーラって言うなら、里中も特別なんだとは思うんだけどな。」
『──……特別、か。』
 電話の向こうのトーンが、一つ落ちた。
 どこか沈んだような声に、山岡は無言で視線を落とす。
『里中……やっぱり、プロの世界にどうしても入りたいのかな……?』
「そりゃ、諦められないだろうさ。」
 答えて、山岡は視線を外へと飛ばした。
 暗い色に染まり始めた空は、オールスターの後、見上げた空に似ているような気がした。
 試合中、他のどんな声も耳に入らない様子で、ただジと見つめていた里中の顔が、厳しい色に染まっていたのを、覚えている。
「──……別に、な。
 ノンプロに居るからって、プロ野球選手に劣ってるわけじゃないって、俺は思うけどさ──智の場合、追いつこうとしてる対象が、プロの世界でも『特別』だろ?」
『うーん……そうだなぁ……。
 俺からすれば、野球で生計立てられる、お前も里中も、別格だけどな。』
 少しだけ茶化すように声を笑みの色に染めて、北は喉元で軽く笑った。
 その後、停止していたカタカタという音が声に重なるようにして始まる。
 音に耳を済ませるように一度目を閉じて、
「今のままじゃ、智、つぶれるんじゃないかと──そう、思うんだけどな……。」
 大学野球で4年、ノンプロで3年。
 その期限まであと1年。
 俺は、どうしたいんだろう?
 里中は、決して弱音を吐くことはないけれど、心の中でそう思っているのは、見ていて分かった。
 その一年の短さを、里中は今、砂を噛む思いで噛み締めているはずだ。
『──……里中のことだから、実際に山田たちの実力を見たら、負けん気の強さで頑張るだろうと思ってたんだけどな……。』
「ん、俺もそう思ったんだけどな──、智はどうも、同じ土俵に上がらないと、『隣の芝生は永遠に青く見える』タイプなのかもしれないな。」
 プライドが高くて自信たっぷりな癖に、おかしなところで彼は自分を過小評価する。
 ──いや、プライドが高いからこそ、「プロ野球界では通じる」程度の実力では、彼は満足できないのかもしれない。
 あくまでも、「山田たちと同じ土俵」に上がりたがるのだ。
 溜息を零した山岡の言葉に、北はキーボードを叩く手を止め──口を噤んだ。
 いくつかの呼吸の後、ふいに北は、口を割った。
『……………………………………里中はさ……。』
「……え?」
『──ココで、山田たちの影響を受けないほうが……いいのかも、しれないな。』
 さまざまな色を滲ませた、深い──深い色の声。
 落胆とも、寂寥とも似たその色の声に──山岡は、ゆっくりと目を瞬き、静寂の後。
「────…………あぁ……そうかも、しれないな………………。」
 ただ、そう、紡いだ。













【山田たちと同じ場所に立つ為。】




それは。

今のようにがむしゃらに……故障するかもしれないほど必至に、下手をしたら野球人生を棒に振るかもしれないほどの猛練習と引き換えに手に入れるほど、魅力的なものなのだろうか?



「そこまでして、山田たちと野球をしたいのか?
 ただ──こうして、野球をして、成果を残すだけじゃ……ダメなのか、里中?」




 ただ、野球をする事が楽しいと思えたのは、小学校まで。
 勝つ野球を──己を認められる野球をしたいと願ったのは、中学の時。
 自分が立った場所を、何が何でも守り抜き、勝利を導きたいと願ったのは、高校のとき。



 それなら、今、俺は。











 何のために野球をしているの?












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