月日はめぐりめぐる。
毎日が、光陰の矢のように過ぎていき、ただ、毎日、必死だった。
投手の腕は、消耗品だという言葉を考えながら、模索する時間。
己の足で道を歩むための、行き先を決める時間。
足りない実力を補うための時間。
選ぶ道は、二つ。
腕が寿命を迎えるまでは、決してあきらめる道は選んだりなんかしない。
もし、ここで──あきらめたなら。
「俺は、あいつらに合わせる顔がない。」
「里中さんって、すっごく運悪いなー、とか思いません?」
両手で汗の掻いた紙コップを握りながら、上目遣いにそう尋ねてくる男の、いけしゃあしゃあとした顔を見下ろして、──嫌がらせかよ、と思わず苦く呟く。
その里中の呟きがしっかりと聞こえているだろうに、四角いテーブルを挟んだ目の前の堅いソファに腰掛ける男は、片手で紙コップを持ったまま、トレイの上のキツネ色のフライポテトを取り上げ、
「このタイミングで、腕を壊すって、絶対ありえませんよね〜。」
わざわざそう「運悪い」内容を口にしてから、ポイとポテトを口の中に放り込む。
その、野球選手にしては小柄で華奢な年下の彼を苦々しく睨みつけながら、里中は、どうして俺は彼とこんなファーストフード店に居るのだろうと、顔をゆがめる。
「それを言うなら、お前だってクジ運悪いじゃないか。
ブラコン一直線に失敗したくせに。」
ハッ、と鼻先で笑ってやると、今年のドラフトで一位入団を決めたばかりの男は、眼鏡を押し上げて不満そうな顔になる。
「勝手に俺を、小次郎兄貴にべったり……みたいな言い方をしないでくれますか?」
「でも、兄貴の居るダイエーに入りたかったんだろ? 同じ投手なくせに。」
あの犬飼さんの居るダイエーに入ったら、おまえは抑え専用投手に決定だな──なんて零して、里中は彼のトレイの中からポテトをひとつ奪い取る。
「俺は、里中さんと同じタイプの変化球投手ですが、里中さんと違って、キャッチャーもできるんです。」
眼鏡の奥で、不敵に笑む瞳でそう告げて──四国の室戸大学の現役学生は、頬杖をついて紙コップの中の氷を、ガリ、と噛み砕いた。
そんな彼の台詞に、里中は驚いたように目を見張る。
「は? おまえが? その身体で?」
「──里中さんのキャッチャーの基準は、いまだに山田さんなんですか?」
大きく見開かれた里中の整った顔を見上げて、ヤレヤレと、知三郎はわざとらしく首を左右に振る。
里中と知三郎の世代を言えば、俗に言う「山田世代」である。
当時、ドラフトで指名されたほとんどの名前が「現役高校生」であったことで、一世を風靡させたことも有名であるが、何よりもそれでプロ野球界に入った選手達がすべて、そのチームの「顔」となっているという、恐ろしい事実でも知られている世代である。
ただ、その世代の人間でありながら、その中に入っていない人間もいる。
その「入っていない人間」というのが、このファミリーレストラン内にある窓際の小さなテーブルを二人で陣取っている「里中智」と「犬飼知三郎」の二人組みであった。
高校時代には一度も顔をあわせたことのない二人であるが、なぜか時々こうして会っていたりする。
「俺は、山田さんのことは兄貴達と里中さんから聞いて知ってますけど、実際、戦ったことないですから、そんなに興味ないんですよね〜。どちらかと言うと、岩鬼さんや殿馬さんの方が、興味はそそられる。」
ペロリ、と唇についたポテトの塩を舌先でぬぐう知三郎に、指先についた塩を舐め取りながら、里中は「そういえばそうだったっけ」と、微かな苦笑を滲ませる。
知三郎が高校でも野球を始めた理由は、「打倒山田太郎」に燃える徳川監督だったと言うのは、彼から聞いて知っていたが、その時すでに遅く──土佐丸高校を下して甲子園に出場した年は、明訓が白新高校に負けてしまった、「最後の夏」で。
結局、明訓が甲子園に出てこなかったため、知三郎は「山田」と対戦することは適わなかったのだ。
そのことを今でも彼は「せっかく野球を始めたのに、里中さんのせいですよ」と突付いてきてくれたりする。
初めて室戸大学で彼と顔をあわせたときに、初対面で早々にそう言われた時には、「人の心の傷をほじくりかえしやがってっ!」と、取っ組み合いの喧嘩になったものだが、それが高じてこんなところで一緒に昼食を取っている仲になっているのだから、不思議な話だ。
「……で、何が不満なんだよ、知三郎?」
「何って……俺、里中さんと違って、山田さんには興味がないから、西武なんてなぁ〜……って思ってるんですよね。」
そう、しれっと口にする犬飼家の食えない三男坊に、里中は思わずギリリと手の平を握り締めた。
「おまえな……っ。」
「本当に、変わってあげたいくらいですよ。
室戸に我慢できずに、プロに行くか、ノンプロに行くか……悩みどころですよね〜。」
そんなことを言いながら、知三郎はうーん、とわざとらしく顎に手を当ててうなる。
わざとらしい仕草に、本気でいい加減にしろよと、里中は眦を吊り上げかけたが──目の前の知三郎の瞳が、真摯な光を宿しているのに気づき、喉元まで上がりかけていた毒舌を飲み込んだ。
なんだかんだと口調は軽いが、知三郎が本気で「室戸大学 野球部」に嫌気が差しているのは、本当のことなのだ。
代わりに、はぁ、と溜息を零すと、やる気なさげに頬杖を付きながら、
「西武にいけよ、チサ。」
そう──促した。
そんな里中に、知三郎は驚いたように目を見開いてみた直後、すぐにそれを綺麗に眼鏡の奥に隠す。
「……──って、だから俺は、もう一年野球浪人でもして、ダイエーに行こうかな、って……。」
気軽に入った後転職できるような職なら、とりあえず入ってみるかと、そう思うこともあるかもしれない。
けれど、舞台はプロ野球だ。
しかも、本当に行きたい場所は「ダイエー」だと思ってしまっている以上、どうにもすぐに「西武に選ばれたから、じゃ、西武に行くか」とは思えなかった。
何にしても、先が見通せない──そして自分が納得できない世界に、足を踏み込むのはイヤだった。
けれど同じくらい、今年を逃して、果たして来年も同じように指名してもらえるかどうかという疑問もある。
──同じ投手だからこそ、里中もそんな知三郎の不安を見抜いているのだろう。
こういうとき、つくづく思うのだ──自分たちは、似たもの同士なのだ、と。
「一年、また一年って先延ばしにしてたら、俺みたいにノンプロから抜けれなくなるぜ。」
とりあえずノンプロに行くか、って言うのは、ナシにしとけよ、と里中が忠告をくれた。
その整った顔に刻まれた苦い笑みを、知三郎はなんとも言えない顔で見つめる。
「何が先延ばしですか。里中さん、今のチームに入って、まだ1年しか経ってないじゃないですか。」
「その一年で、エースになったんだから、たいしたもんだろ?」
「……レベルが低すぎただけなんじゃないんですか。」
ニヤリ、と笑う里中に、憎まれ口を叩きながら──それでも、そこへ上り詰めるのに、里中がどれほどの努力をしたのか、知三郎は知っていた。
里中がノンプロに行こうか、大学野球に行こうかと悩み、色々なチームを見て回っていた中──おなじように知三郎もまた、東大を受けようか、野球を続けたいから室戸に行こうかと悩んでいたのだ。
種類は違えども、お互い、「野球」をする道を模索して、悩んでいたことは理解できたから……、里中の助言を、軽く蹴散らす真似だけはしない。
「室戸大学ほどじゃないだろ? ──あの、犬飼武蔵を破った弟が進学した大学で野球部に入ったって言うから、どんなもんだと見にいったら──アレだもんな。」
はぁ、と、思いっきり勘の触る言い方で溜息を零してくれる里中に、そうそう、と知三郎は彼との初対面の思い出を脳裏に浮かべた。
結局、プロ野球の世界へ進んだ兄二人に逆らうように、大学の野球を選んだ知三郎──その影には、大学で力を貯めて、卒業後にダイエーを逆指名してやろうという気持ちがなかったとも……言えなくはない。
そんな野望に燃えていた知三郎が、思いっきり大学の野球部の現実にガッカリしていたあの頃──5月のゴールデンウィーク明けに、里中はやってきたのだった。
大学の人間でもないくせに、堂々とグラウンドにやってきて、「明訓の里中……っ!?」と、野球部の先輩達に驚かせた時にはもう、彼はこう口走っていたっけ──、「たいしたことないな、大学の野球部って言うのも」。
「だからって、先輩達をクルクル舞わせなくっても良かったと思いますけどね。」
「何言ってるんだよ、あいつらをあおったのって、おまえじゃないか。」
「あははは、ま、そうなんですけど。」
明るく笑いながら、知三郎はふやけ始めた紙コップをテーブルの上に戻して、ふぅ、と吐息を零す。
室戸の先輩達をクルクルと好きなように回せるほどの実力をいまだに持ちながら、高校を中退していた里中に、思わず憤りを覚えて暴言を吐いたことが懐かしい。
あれから、半年。
里中は結局そのすぐ後にノンプロのチームで無事にデビューを果たし、今ではエースとして活躍している。
本来なら、今年のドラフトで1位指名を貰っているのは、里中であったかもしれないのだ。
──二年前、本当なら、里中がテレビの向こうで呼ばれていたかもしれないように。
にもかかわらず、里中は新しい変化球を研究している最中に、腕を痛めすぎて故障で休養してしまった……この、タイミングで。
「里中さんが腕さえ痛めてなかったら、俺は無事にダイエーだけに指名されておしまい……だったかもしれないのに…………。」
はぁぁ、と、わざとらしく胸の前に手を当てて溜息を零す知三郎に、カチン、ときたように里中は眦を吊り上げる。
「──うるさいな、どっちにしても、今の俺程度じゃ、プロの二軍にもごろごろ居るんだから──先を目指すなら、新しい変化球がほしいんだよ……。」
ギュ、と──強く拳を握り締める里中の目に宿る強い光に、知三郎は何も言わず氷と水ばかりになったアイスコーヒーを一気に飲み下した。
確かに、冷静に考えても今の里中の実力では、プロの二軍でも上位に入るくらいだろう。
いくら高校時代に比べて体ができてきているとは言えど、突然プロの世界に入って、山田達と同じ位置に立てるとは思わない。
変化球にさらに切れが出て、ストレートの球威が増したくらいじゃ、控え投手になるのが精一杯だろう。
──けれど、その程度じゃ、プロの世界で山田達と対等に戦えるわけがない。
「あぁ、俺のドッグルみたいな。」
新しい変化球。
そう口にしながらも、まるで先の見えていないらしい里中の口調に焦りが見えるのを、見てみないフリをしながら、知三郎はそう呟いた。
とたん、
「……そう、おまえの性格の悪さがにじみ出たみたいな球がな。」
必要なんだ、と──里中は、真剣なのか冗談なのか、そう真摯に頷き返してくれた。
一瞬、知三郎は動きを止めた後、
「──……で、里中さんは、一足先に俺がプロの世界に行っちゃっても、ぜんぜんOKだったりするんですか?」
とりあえず、ソコから話を逸らしてみた。
そんな知三郎に、チラリ、と──悔しげな色を少しだけ滲ませた後、里中は苦い笑みを口元に貼り付けて、ソファに背を預けるようにして身体を少しだけそらした。
「なんだよ、知三郎? まさかおまえ、一人で行くのが怖いとか言うんじゃないだろうな?」
軽口じみた声にも、どこか暗い色が宿っているのはきっと、里中も今このタイミングで壊れた右腕に、苛立ちを覚えているからに違いない。
──そう言えば、彼はいつも大切な戦いの前には、傷を負っていたのだった。
それは、すでにもう彼の中でジンクスにでもなっているのだろうか?
「そんなわけないでしょ。
ただ俺は──……。」
眉を寄せて、知三郎は口を割ろうとして──結局、その口を閉ざした。
何を言おうと、自分がたった一人で挑むだろう世界が、怖いのだと……そう胸のうちで思っていることを、里中に追求されてしまいそうな気がしてならなかったのだ。
闘志はある。これ以上ないくらいに、やってやると、心から思っている。
けれどそれと同じくらい、不安がある。
──行きたいと思っている球団と違う球団に行って、一体俺は、どこまで満足できるのだろう?
室戸大学で一度失敗している分だけ、二の足を踏まずには居られないのだ。
俺の前に広がる道は、4つ。
どこか大学で野球を続ける。──俺の頭なら、この冬の試験にだってすぐに受かるから、これは問題ない。
このままどこか有望なノンプロに入る。──この場合、里中と初対戦なんてことも夢じゃない。実を言うと、明訓の投手と戦ってみたいという気持ちもあったので、それはそれで一度やってみたいことではある。
野球浪人をして、もう一年待つ。
今年、おとなしく西武に入る。
どれもこれも、できそうなことばかりで、選択肢に本当に悩むのだ。
──贅沢な悩みだと、分かってはいるけれども。
「西武には山田が居るんだぜ? おまえでも、すぐに一軍で投げれるさ。
──何よりもおまえには、嵐ばりのドッグルがあるんだからさ。」
「…………それ、褒めてます? けなしてます?」
つまらなそうに──けれど笑って告げる里中に、思わず知三郎は顔をゆがめてそう尋ねた。
そんな彼に、里中はヒョイと視線を向けると、ニッコリと相好を崩して笑った。
「どっちでも好きなように取れよ。
ただな──、ひとつだけ、俺から言えることはあるぜ。」
「里中さんの助言ですか?」
それって、役にたつんですかと、顔をゆがめる知三郎に、里中は自信満々に頷いて。
「きっと数日のうちに、山田と岩鬼の両方から電話があるぜ。」
──そう、予言した。
今日会ってからはじめてみせる、本当に嬉しそうな、誇らしげな笑顔で、
「悩んでる『投手』を、あいつらは放っておきゃ、しないからな。」
絶対だ。
里中は、思わず知三郎が見とれるような明るい声で、断言した。
+++ BACK +++
いろいろ、里中がノンプロに入る過程とか考えてたのですが、長くてつまらなくなりそうなので削りました。
とりあえずそのうち触れるかもしれないのですが、こんなところで説明を↓
1年目 夏 大学野球とノンプロと、色々見学することにしながら、大検を受けることにする。
今年は捨てるのを前提に、2年目に活動を開始。
2年目 夏 大検試験を受ける。秋〜冬 ノンプロに入団。
3年目 春 知三郎と室戸大学で取っ組み合いの喧嘩をする。その後、なぜかファミレスで朝まで討論をした末 お互いの連絡先を教えあって別れる。後、時々会うようになる。
と言った感じです