見上げた空の色が、濃い青の色を纏い始めた7月の中旬。
太陽はギラギラとアスファルトを焼付け、まさに夏本番──めまいを覚えるよな真夏の暑さは、目前に迫っていた。
草野球の「今シーズン」が始まった頃は、試合開始時間になっても、ようやく太陽が見えてきたという程度だったと言うのに、最近は試合が始まる時間には、太陽の突き刺すような視線を感じ始めるありさま。
試合が終わるころには、もう真夏だといわんばかりの日差しが、カンカンと照りつけ、帽子を被っていないと眩しいばかりだ。
「おーっ、今日も満員御礼っ! お茶は空っぽになりました〜!」
ふざけたように、本日の「お茶係り」が、空になったクーラーボックスと大きな水筒を両手で持ち上げて笑う。
その彼の背後で、まだ朝の8時前だと言うのに、ジリジリと照りつける太陽に焼かれたグラウンドで、試合の後の整備をしている連中が、悲鳴に近いどよめきをあげた。
「何ーっ!? 俺達の分は無いのかよっ!?」
「おいおい、冗談だろー?」
ローラーを担いだ男が、首から提げたタオルでびっしょりと掻いた汗を拭いながら、顔を歪めて忌々しげに舌打ちする。
「今日はみんな、良く飲んだからなー。」
その、早朝のたった二時間だけの野球にも関わらず、野球メンツたちは、みんなおそろいの「野球焼け」スタイルで、チームのキャプテンが朗らかに笑いながら、自分のポケットに手を突っ込むと、財布を取り出す。
「それじゃ、俺が特別サービスで、なんか買ってきてやるよ。
ソコの自販機のでいいだろ?」
チャリ、と小銭入れを揺らすキャプテンに、おおっ、と本日の整備係りから歓喜の声があがった。
「俺、お茶ならなんでもいいっすよ。」
「すみません、井澤さーん。この御礼は来週、お茶係りで返しますからっ!」
「って、お前はもともと来週のお茶係りだろ!」
あははは、と明るい笑い声が帰る整備係りに、まだまだ元気そうじゃないかと憎まれ口を叩いて、井澤は自分のバックをベンチの上に下ろして、立ち上がった。
そして本日の相手チームのキャプテンに挨拶を交わすと、自販機のある方角に向かって歩き出そうとした──その手前。
「おい、里中、お前もちょっと手伝ってくれ。
一人じゃ運べそうにない。お前の分も買ってやるからさ。」
気軽に井澤は、本日の「サヨナラホームラン」の功労者に、声をかけた。
ちょうどスパイクの泥を落としていた里中は、その彼の声にヒョイと顔を上げ、軽く頷く。
「あ、はい。お供はしますけど──別に、俺の分はいいですよ。」
自分の水筒がありますから。
そう言って里中は細長い魔法瓶を掲げる。
実際、他の面々が持ってきている水筒や共同のクーラーボックスと違って、里中の持っている水筒の中身は、たっぷりと入っている。
高校時代の部活の癖で、「試合前と試合中は、水分を取らない」が、自然と見に着いてしまっているためだ。
草野球では、ばてないための水分立ち……なんてことはしないため、誰でもいつでも好きなようにお茶を飲む。
その光景を始めて見たとき、里中は思わず吉良高校を思い出してた。
当時のことを思えば、喉が渇くほど走ったり投げたり打ったり──なんて激しい運動は決してすることはなく、一応水筒を持ってきてはいるが、里中は毎回水筒の中身を丸々持って帰っている。そのまま昼ごはんのときのお茶になってしまうのだ。
かと言って、水筒を持っていないと、「ほら」と、親切なおじさんが、里中の分までお茶を組んで回してくれたり。
楽しくないといえばウソになるけれど、高校の時と違う純粋に楽しむ野球、のスタイルに、いまだに戸惑いを覚えることも多いのは確かだった。
「アハハ、別に今飲まなくてもいいんだから、こういう時は、素直に奢ってもらっとけ。」
ポン、と親しげに肩を叩いて、井澤は、さ、行こうか、と里中を促した。
里中はそれに頷いて、彼に続いて歩き出す。
グラウンドでは、ああでもない、こうでもないと、先ほどの野球の話や、約1週間後には始まる高校野球の夏の予選の話に盛り上がっている──一向に整備の手が進まない面々の顔があった。
それを見下ろしながら、まったく、と井澤が頭の後ろに手を当てる。
「このグラウンド、8時までしか使用許可下りてないって、わかってんのかね、あいつらは。」
呆れたように呟く井澤に、そうですね、と里中も笑みを浮かべて同意する。
その台詞も、この草野球チームに参加させてもらうようになって、ほとんど毎週のように聞いているというのに、今、不思議と酷く懐かしく感じるのは、この暑さのせいだと思う。
真夏の──灼熱の暑さを思わせる、ジリジリとした太陽。
……駆け抜けていった夏。
見下ろした腕は、当時よりもラインがほっそりとしたように見えた。
毎年恒例だった野球焼けも、今年は例年よりも遅い──いや、確か去年は、焼くこともなかったのだったっけ。
丸一年ぶりの真夏の太陽の下で焼かれた「アンダーシャツ焼け」が、どこか嬉しいような、悲しいような……そんな気持ちが、いまだに胸の奥底にある。
「井澤さーん、里中、おっつかれーっ!」
「おつかれさまっすー!」
軽く手を上げて、すれ違うチームメイトや、相手チームの男たちが、挨拶を交わしていく。
それに軽く答えながら、井澤と里中はこのグラウンドに一番近い自販機に足を向けた。
駐車場へ向かう面々とは逆走する形を取りながら、たわいのない話を一言二言交わす。
それほど距離があるわけではない、人気のない自販機に来たところで、話が不意に途切れ、井澤は小銭いれを開けながら──不意に、口を割った。
「里中──……投げたいか?」
突然の……前触れも何もない、その唐突な台詞に、里中はキョトン、と目を瞬いて彼を見上げる。
驚く以前に、何のことを言われているのか分からなかった──そんな表情の里中を、井澤は真剣な眼差しで見下ろした。
いつも朗らかな笑顔を浮かべているチームのキャプテンの……みんなの信頼を得ている、「おとうさん」のような男の眼には、懸念するような色が浮かんでいた。
その意味を図りかねて、里中は困惑の色を宿して顔を顰める。
「……井澤さん……?」
ただ名前を呼んだだけなのに、井澤はそれが自分の台詞への答えだと思ったらしい。
男は苦笑じみた笑みを浮かべて、顎に手を当てる。
「投げたいよなぁ……。」
里中は何も言っていないのに、勝手にそう判断して、そうだよなぁ、と、一人で納得したように頷く。
ますます意味が分からなくて、里中は彼を見上げる。
投げたいよな、と言われたら──投げたいに決まっている。
だって自分は投手で、野球がしたいから、この草野球チームに入れてくれと、そう願い出たのだから。
硬球と軟球は違うから、扱いに慣れるまでは投げないほうがいい……そう言われて、里中は外野だとか代打だとか、内野や……時にはキャッチャーだとか。
色々なポジションを転々としたら、いまだにピッチャーはやらせてもらっては居ない。それに対する不満を、井澤は感じ取っていたのだろう。
けど──……里中は、一瞬目線を落とし、無言で自分の右肩に左手を当てた。
「…………俺、は………………。」
それ以上何も言えず、無言で視線を落とす里中を見ることなく、井澤は財布の中から小銭を取り出し、かちゃん、かちゃん……と、自販機にお金を入れた。
「正直言うと、俺に投げさせてくれ、って、お前が言ってくるかもな、とは思ってたんだぜ。」
「…………………………。」
甲子園優勝投手で、現役のエースピッチャーを勤めていて。
当時は、プロの世界に入るのも夢ではないのかと言われ、ファンもたくさんついていた。
有頂天のイヤなガキであっても不思議はないのに、里中はそうではなかった。
投手としてのプライドと、野球に飢えたような色──そしてただ必死の覚悟。
ない交ぜになったそれらを、強引に何かで蓋をしているような、そんなガキだと、初めて見たときは思った。
「でも、お前は何も言わなかった。
……正直、ホッとしてたよ。
まぁ、その理由は色々あっただろうな。
俺達の野球スタイルに遠慮していたのかもしれねぇし──何よりも、お前が投手として立ったとしても、正直なところ、お前の球を受けれるようなキャッチャーはいねぇしさ。」
テレビごしにも分かるくらい、切れのいい変化球と、手元で伸びるストレート。
現役の高校生キャッチャーでも、取れるものは限られてくるだろうと思うそれを、どうして草野球でのらりくらりと遊んで楽しんでやっている自分たちが取れるのだろう?
──いや、違う。その球をとろうと、必死になってしまえばそれは、「草野球」ではなくなる……そこからは、勝つための野球になってしまう。
「………………。」
突然、井澤が何を言い出すのか分からなくて──同時に、正直な話、図星なところもあって、何も言えず、里中はただ沈黙を押し通した。
──投げたいと思っているのは本当だ。
けれど同時に、この野球チーム内では、たとえ投げられたとしても、自分にとったらスローボールでしかない球以外はムリだということも知っている。
変化球なんて、もってのほかだ。
そんな球を投手として投げるくらいなら、キャッチボールで満足していたほうが、まだマシだ、と……そう思っていることを、井澤は分かっているのだろう。
彼は何でもないことを話しているかのような態度で、自販機の受け取り口に出た缶を取り出し、ぽい、と里中に手渡した。
それを何も言わず受け取る里中に、また口を開きながら、二本目のための硬貨を投入していく。
「お前がうちのチームに入れてくれって、言ったとき……、な。」
どこか言い苦しそうに口を割りながら、井澤は二本目の缶ジュースのボタンを押す。
がらがら……がしゃん、と、良く響く音を立てて落ちた缶を、腰を曲げて取り出しながら、
「てっきり肩を壊してるから、明訓高校を辞めて、硬球は諦めたんだと思ってた。」
「────…………。」
それは、今もチーム内の半分以上が信じている「噂」だ。
それを否定すれば、真実を話さなくてはいけなくなり……その真実を話すには、まだ胸の痛みを伴うから、あえて里中はそれを否定することも、肯定することもしてはいなかった。
ただ、目の前の井澤には、最初のときに話してある──理由があって辞めたのであって、肩を故障したわけではないのだと。
「けど、お前は肩はなんともないんだと、そう言ったよな。
──……だから、俺は……お前が俺のチームに居る限りは、絶対に投手をさせまいって、思ったんだ。」
「──……っ!」
軽く語るには、あまりに重く衝撃のある台詞に、里中は一瞬絶句した。
目の前の人は、好々爺じみた笑みを浮かべながら、自販機の中から缶を取り出し、ぽい、と再び里中によこした。
それを受け取りながら──けれど里中は、ショックのあまり、それを取り落としそうになるのを、ただ堪えるしかできない。
呆然と見つめる大きな眼を見返して、彼は苦い笑みを刻んだ。
「俺の勝手な判断なんだけどな……、結局、手遅れだったかもなー、って、思ってるとこ。」
そう一言付け加えて、井澤は手を伸ばし、両手に缶を持っている里中の右肩を、とん、と叩いて、
「お前……肩、壊しかけてるだろ?」
「────…………っ。」
バッ、と……今度は、驚愕に眼を見開いて自分を見上げる里中の、整った面差しを見下ろして、やっぱりな、と、彼は益々苦い笑みを広げた。
「最初に、俺が言ったこと、覚えてるか?
硬球と軟球じゃ、力の入れ方が違うから、軟球から硬球に変わるときは別として、硬球から軟球に変わったときは、肩を壊しやすいんだって。」
「……────。」
無言で顎を落とす里中のつむじを見下ろしながら、井澤はなんだか彼の高校時代が見えるようだった。
実際、里中の様子を見ている限り、彼が肩を壊しかけていることに気づいている人間は居ないだろう。
普通に投げて、普通に打って……そんな風に見える。
里中は、そうやって高校の当時から、隠し通して投げとおしていたような気がした。
けど、気づくやつは気づくのだ。本当に些細なことから、「肩をかばってる」だとか、「シップクスリの匂いがする」だとか。
それが、今回は自分だっただけで──里中のことを、きちんと注意してみている者なら、もっと早くに気づいていたかもしれなかったが……。
「だから、お前が軟球に慣れるまでは、投手はさせない──そう、俺は言った。」
「……はい。」
うなだれたまま、里中が頷く。
決して責めている口調ではなかったが、自分の自己管理の無さを、里中が悔い、責めているのは見て分かった。
「このまま同じように続けてたら、本当に投げられなくなるぞ。」
「………………はい。」
説教じみた自分の口調に、うんざりしたような表情を浮かべて、井澤は神妙に頷く里中のつむじに向かって、苦い笑みを吐き捨てる。
「分かってて、人が居ないからって、今日もお前にライトを守らせたのは俺だけどな。」
「いえ──分かっていて、出てた俺が悪いんですから……。」
少しでも、野球がしたくて。
少しでも、野球をしていたら、この焦燥感がなくなると思って──痛みを見ない振り、していたのは……自分だ。
チリ、と──再び胸の内に覚えた焦燥感と、自己嫌悪に唇を噛み締め、俯き続ける里中の耳に、三度目の缶ジュースが落ちる音が響いた。
それを取上げ、井澤は俯いたままの里中をみおろす。
「里中、お前、何にする?」
軽い口調で、カチャンカチャンと自販機に小銭を入れた。
顔をあげると、井澤は何でもないことのように笑って、コレ、と指先で自販機を示している。
「いえ……俺は……。」
「お前、体がガリガリだから、もー少し太ったほうがいいから、カルピスな。」
いらない──と、続けようとした先を取って、井澤は勝手にそう言うと、ボタンをさっさと押してしまう。
がしゃん、と新しく吐き出されたジュースを取り出して、彼は空いている手でそれを取ると、
「ほら、お前の分。家に帰ってから糖分補給しなさい。」
茶目っ気たっぷりに笑って、こつん、と、冷たい缶で里中の頬を軽く叩いた。
頬に触れた冷たさに、思わず軽く首をすくめた里中に、小さく笑い声を零しながら、井澤は少し目を細めてみせる。
「──……お前が、本当に肩を壊してたんなら、俺は喜んでお前を迎えたよ。」
「…………。」
突然、また話を引き戻す井澤に、ぴくん、と里中は肩を揺らすだけで、何も言わない。
「けど、お前は肩なんて壊してない。
そんなお前が──甲子園で優勝までした里中智が、こんなところで軟球の……しかもお遊びでしかない草野球なんかやってて、満足できるのか?
──答えは、ノー……だろ?」
軽い口調で尋ねてくる言葉の中にも、重圧じみたものを感じて、里中は無言で井澤を見詰めた。
満足できるなんて──ウソはつけなかった。
もしウソを付いて笑顔でそういったとしても、井澤は決して信じてくれはしないだろう。
彼は多分、知っているのだ。
里中がココではない別の場所で──軟球ではなく硬球を握り締め、一人でただ投げていることを。
「今年のオールスター、凄かったよな。新人戦かと思うくらい、ルーキーが目立ってた。
──……俺は、高校野球は、あんまり見ないし興味もないけど、アレが、お前が一緒に戦ってきたヤツラなんだろ?」
「………………────はい。」
小さく──けれど、確固とした意思を乗せて頷く里中の目に、闘争心にも似た光が宿るのを、井澤は一瞬眩しげに見つめた。
柔和で小さな面差しを、一瞬で張り詰めた色に染める瞳の輝きが、痛いほどの強い輝きを放つ。
「なら、答えは簡単だな、里中。」
「……答え?」
何を言いたいのだろう、この人は?
意味が分からないと、顔を顰める里中に、井澤は愉快そうに笑った。
「簡単じゃないか。
今のお前の道は、二つに一つ、だろう?」
「……………………っ。」
冷水を、浴びせられたような気がした。
二つに、一つ。
それは──里中も、何度も考え、何度も飲み込み、そのたびに保留にしてきた……先延ばしにしてきた問いかけだった。
心のうちを探れば、いつだって求めるものは簡単に引きずり出せた。
いつだって求めるのは、同じだからだ。
──彼らと同じ舞台に立ちたい。
プロとして、彼らとともに戦い、またあの日のように……燃え尽きるかと思うほど熱い火を、この胸の内に宿らせたいのだ。
けれど、あの地へ行くには、あまりにも遠すぎる。
それでも諦めないで、駆けつづけるか──それには、自分の今の生活と、残った借金とを考えると、酷く辛い道にしか思えない。母の墓だってまだ作っても居なくて、部屋の中に遺骨も鎮座したままだし……選ぶには、相当の覚悟が必要な道だ。
でも、駆け上がりたい。駆けつづけたい──そう思う心は、くすぶり続けている。この思いは、一生消化などされないというかのように──ずっと。
たくさんのものを犠牲にして、駆け上がるのには、正直な話……一度失ったものが大きい分だけ、勇気が要った。これ以上何も失うものなどないと思いながらも、失ったものの代償が、あまりにも多く、己の周囲に積み重なっていたから──母が死んだ後も、迷惑を掛け続けていい人ばかりではないことも、分かっていた。
野球は、したい。
でも、踏み切れない。
答えは、二つに、一つ。
昇るには、あまりにも遠く高いあの舞台に目掛けて……成功するかどうかも怪しいくらい、高嶺に向けて駆けつづけるか、それを諦め、このままの道で行くか。
「…………俺、は。」
答えを、今すぐには出せなくて──だからこそ、里中はいま、このチームにいる。
それなのに、どうして彼も──目の前の男は、何も知らないくせに、そうやって答えを迫るのだろうと、ギリリ、と、里中が拳を握り締めた瞬間だった。
「お前の道は、二つに一つだけしかない。
大学に行って、大学野球をやるか、ノンプロの試験を受けて、ノンプロに行くか。
──どっちかだけだろ?」
笑って、……まるで間近に見える将来を、ごく当たり前のように語る井澤を、里中は驚いたように──呆然と見上げた。
「…………井澤、さん?」
ただでさえでも大きな眼を、さらに大きく見開く里中に、井澤は目元を緩めて頷く。
「お前はあいつらと一緒の舞台に立てる器がある。肩も……今はちょっと痛めてるが、そんなもの、三ヶ月も安静にしてれば直るさ。」
何を言われるのか、予感めいたものを感じて、里中は呆然と彼を見上げた。
たった数ヶ月だ。
出会ってたった数ヶ月しか一緒に野球なんてしていない。
しかも、その野球だって、厳しい高校野球を乗り越えてきた里中には、ぬるま湯のようにしか思えないような草野球だ。
自分がどうやって戦ってきて、自分がどれほど強敵相手に苦しんできたのか、何も知らないくせに、井澤は自信に満ちた顔で笑ってこう続けた。
「やりたいんだろ? たとえ何を置いても、犠牲にしても──お前、それでも自分の中にあるソレ、消したくないんだろ?」
ソレ、と、言いながら顎で軽く里中の顔をしゃくる。
何を示したのか、抽象的な表現だったが、彼が何を言いたいのか、里中は間違えずに理解した。
「なら、夢を追いかけろよ。
お前はまだ若いんだぜ? ──諦めるにゃ早すぎるし、お前が追いかけたいと思ってる夢は、今、諦めたら……もう取り返しのつかなくなるような、夢だろ?」
「──……っ。」
見て見なかったフリをしていた現実を、他人から突きつけられることは、まるで怜悧な刃物で胸をさされたような激痛を伴った。
無理矢理突き刺された痛みは、背筋がゾクゾクとしなるほどの恐怖を伴う。
──取り返しがつかなくなるかもしれない。
危惧したことは、一度や二度じゃない。
だからこそ、旧友達が画面の向こうで活躍するたびに、腕が疼き、ただ一人でボールを持って、投げ続けていたのだから。
その結果……週に一度握る軟球の感覚にいつまでも慣れなくて、肩を痛める事になってしまったのだけど。
求めているのは、コレじゃない。
プロ野球の試合を見た後は、がむしゃらにボールを投げたくなる。
それも、草野球でやっているような軟球じゃなくて、硬球を、思い切り投げたくなる。
毎週日曜日の草野球に行けば、キャッチボールをしてくれる相手もいたし、野球の話で盛り上がることもできる。
笑って野球はできるけれど──でも、オレが求めていたのは、コレじゃない。
軟球でキャッチボールをしても、それは意味がない。
彼らのところまで駆け上がりたいと心から思うのに、同じくらいどうしたらいいのか分からなくて、苛立ちばかりが先に立ち、焦燥感に胸が焦がれた。
その結果が──コレだ。
里中は、苦い笑みを刻み付けて、自分の右肩に、チラリと視線を当てた。
「とりあえず、今年のノンプロの試験、見にいってみたらどうだ?」
井澤はことさら明るくそう言って、行くか、と、自分達が歩いてきたグラウンドの方角を顎でしゃくった。
里中の返事を待つことなく、彼はゆっくりと歩き出す。
里中はその背を視線で追った。
「それから、大検受けるか、ノンプロ受けるか決めても、遅くはないと思うぞ。
人間、死ぬ気でやれば、なんとでもなるもんだ。」
笑いながらグラウンドを一緒に走ったり、時には全員でグラウンドを整備してみたり。
そんな楽しい「野球」もいいだろう。
けど、と、井澤は前を見て歩きながら──里中を振り返らずに、断言する。
「おまえが立ちたい場所は、それくらい厳しいものだろ?
けど……立ちたいと思って、その実力があるなら、オレは、チャレンジするべきだと思う。
──ま、ただのオヤジのおせっかいとでも思ってくれてもいいけどな。」
迷ってるように、見えたから。
そう声には出さずに続けて、井澤は両手に持った缶を、ぶらぶらと揺らした。
「──……井澤さん……。」
「どっちにしても、里中。」
何と答えていいのか──何を言えばいいのか、分からないまま、ただそう井澤の名を呟く里中に、彼は、す、と息を呑んで……、覚悟を決めたように一度目を閉じた後、
「おまえは──もう、来ないほうがいい。」
ただがむしゃらに野球をしたい里中と、自分達とでは、見ている世界が違う。
野球が好きでどうしようもない「野球バカ」同士だけど、見ている場所がまったく違う。
どこか違和感を感じるのは、里中がつい一年前まで、今はプロの地に居る「彼ら」と、同じ土台に立っていたからなのだろうと思う。
そして、他ならない里中自身が、いつか彼らの元に行くことを、渇望しているからなのだ、と。
「……い……ざわさん……。」
後からついてきていた足音が止まるの感じて、井澤も足を止めた。
振り返ると、里中が大きく目を見開いていた。
──まるで、捨てられた子供のような目だと、思った。
野球をしなくてもいいと、そう言われたおうな……彼は、野球をすることに、飢えているのだと、初めて見たときに感じたのと同じ感想を、今、また覚えた。
「一人で野球の練習をするのは、孤独だろうさ。
けどな、里中──オレたちじゃ、おまえの練習相手にはなってやれない。
俺達じゃ、おまえをプロの世界に導いてやることすらできない。
おまえに何が足りなくて、おまえに何が必要なのか、何ひとつ、わからないんだ。」
シニカルに笑って──長く生きていても、俺達には必要じゃないことだから、わからないんだ、と、井澤は続けた。
「………………。」
「行きたいんだろ? プロ野球に。
だったら、がんばれ。あきらめるな。
──オレはこれくらいしか言ってやれないけどな。」
行きたいなら、軟球はもうしないほうがいい。
「おまえが、オレたちの野球でも、楽しいと……これでいいんだと思ってくれてたなら、俺も引き止めたけどな。」
決しておまえは、そんな目をしていない。
だから。
「井澤さん……──オレ……。」
「まずは、体をしっかり作れよ。おまえ、どう考えても体がヒョロすぎだしな。」
里中の言葉をさえぎって──まるで、里中の進む道はもう決まっているのだと言いたげに、井澤は笑った。
そのまま、くるりときびすを返して、井澤はグラウンドで整備しているだろう仲間達のために、歩みを少し早くした。
里中は手の平にジンと感じる冷たい缶を見下ろし──その彼の後を追って歩き始める。
その背を見つめながら、里中は彼の言葉を頭で半数してみた。
進む道は、二つに一つ。
それは、自分も前から思っていたことだ。
けれど彼が口にしたのは、プロを目指すか目指さないかではなかった。
プロを目指す道の、「二つに一つ」。
「──……ノンプロ……。」
オレの力が、どこまで通用するのか分からない。
けど。
────やってみたい。
ブルリと全身が震えるほどの強い感情が、思いが……全身を、駆け巡る。
その、戦慄を覚えるほどの──自分でも、驚くほどの強い感情に、里中は思わず唇を震わせた。
自分で考えたうちのひとつの可能性を外から突きつけられた瞬間、目の前がクリアになった気がした。
ソコへ行きたいなら、死ぬ気で頑張れ。
その言葉は、ひどく、鮮明に胸に刻み込まれた。
「誰かとキャッチボールしたくなったら、遠慮せずにここへ来いよ。
オレも、硬球でキャッチボールくらいならできるからさ。」
思わず缶を握り締める里中に、井澤はのんびりと歩きながら──不意に前に向かって手を振った。
井澤の視線の先で、まだグラウンドの整備中の男達が、ここまで響くような声で文句を零してくれる。
「井澤さん、里中、おそいー!」
「もうぬるくなってるんじゃないのかー?」
からかうような口調の言葉に、
「そういうのは、整備が終わってから言え。」
まったく──と、井澤が呆れの色をにじませて答えてから、軽く肩を竦めて里中を振り返る。
「そういや、あいつらの誰かの母校で、うまく行けば練習くらいできるかもしれねぇな。
近所のリーグにゃ、大学の野球部の元キャプテンとかも居たはずだしな。」
あんな「サボり」でも、役に立つぜ、と──そう楽しげに笑う井澤を、里中は静かに見返した。
「どうしてそこまで、オレの道を作ろうと思うんですか?」
そう尋ねる里中の眼差しが──先ほどまで話していたときよりも、ずっと強い光が宿っている。
聞かなくても、彼が決意を決めたのは、分かった。
その強いまでの眼差しが、まるで水を得た魚のようだと、井澤は笑った。
「そりゃ決まってるだろ?」
ゆっくりと井澤はグラウンドに降りて行きながら、整備をのらりくらりと進めている男達を見ながら、笑って言った。
「俺達だって、『野球少年』だったってことさ。」
「……………………?」
意味が分からない、と目を瞬く里中を振り返って、井澤は笑った。
「おまえに、夢を託したいって言う、ただのオレの『偽善』だと思っとけ。」
そのあと井澤は何もなかったかのように、自分の荷物が置いてある荷物の元へ歩み寄ると、
「ご苦労さん。さっさと終わらせて、帰ろうぜ!」
朗らかに、整備している男達に声をかけて、手にした缶を見下ろし──お、と小さく零すと、何もなかったかのような笑顔で、
「ほら、里中、おまえのカルピス。」
コツン、と──里中が持っている缶に、カルピスの缶をぶつけた。
「ただ、野球をやりたいんじゃないんだろ?
だったら──……おまえは、死に物狂いで、おまえが求める先に行け。
人生の先駆者からは、後悔するなと──そんな重みのない言葉しか、言えない。」
穏やかに笑う男は──懐かしい人に、どこか似ていると…………そう、思った。
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