「笑って!」
ドラフト会議の日、テレビで呼ばれた名前に、明訓高校3年生の野球部員全員の名前があった。
山田太郎、岩鬼正美、殿馬一人、微笑三太郎。
たった四人ではある。
しかし、その四人すべてが選ばれることがどれほど凄いことなのか……同時に、「常勝明訓」の名を、二回ほど打ち捨てはしたものの、それでも明訓の4本柱の影響は、それだけ凄かったということか。
3年間、血の汗を流したグラウンドの片隅で、いつものように明訓高校の専属かと思えるほど見慣れた記者たちが、夏の大会の予選以来、久しぶりに明訓四天王に向けてカメラを向けた。
笑って。
明日の一面を飾る写真を撮るためだ。
にぃーこりと笑う岩鬼と、いつものようにたたずむ殿馬、普通にしていても笑っているように見える微笑。──そんな彼らに釣られたように笑った山田と。
仲良く寄り添う四人を、記者がパシャリと写真に収める。
それを、どこか誇らしげに、うらやましそうに後輩たちがグラウンド整備をしながら見守る。
常勝明訓の名前を背負ってきた先輩たちが、プロに選ばれるのは当たり前のことだ。
それは、本当にうれしいことだ──うれしいこと、なのだけれども。
けど。
「……やっぱり、さびしいですよね。」
そんな四人を見て、ポツリ──と、後輩の一人が、誰にともなく呟いた。
*
神奈川地区大会予選──決勝戦。
投球練習をするためにグローブを持った男を認めた瞬間、ベンチに居た不知火が、ひどく不満そうな顔をしていた。
今年の不知火は、ひどく迫力に満ちていて、空恐ろしいものがあるほどだったからこそ余計に、彼の試合前のその表情は印象的だった。
夏の大会が始まってから、里中は一度も姿を現してはいない。
彼の事情を知らない明訓高校以外の者は、その原因が──怪我なのか、温存なのか、判断にこまねいている状況であった。
実際、里中の名前がベンチ入りメンバーの中に入っているのだから、誰もが「怪我」で大会に出れないのだと、そう考えてもおかしくはないだろう。
もしかしたら不知火は、心のどこかで、自分との戦いには必ず里中が出てくると、そう思っていたのかもしれない。
けれど、今日マウンドに立つのは、里中じゃない。
渚でもない。
……なぜなら渚もまた、連投によって、肘と肩を痛めてしまっていたから──今日には、間に合わなかった。
「やぁーまだっ! さっさと座れっ、のろまっ!!」
左手にはめたグローブで、ビシリ、と叫ぶキャプテンに──本日のエースピッチャーに向かって、はいはい、と山田は走った。
その背に、ズキン、と痛いくらいの不知火の視線が刺さる。
──なぜだ。
彼は燃えるような目でそう問いかける。
けれど、山田はそれに背を向け続けた。
答える回答を、山田は持っている。まだチームメイトの誰にも告げてはいないし──予選が終わった後には、告げなくてはいけないだろうが。
──ごめん、山田。
掠れた──どこか辛い響きを宿した声が、耳によみがえってきたような気がした。
久しぶりに聞いた彼の声は、あの当時の溌剌とした響きが、消えていた。
途方にくれた、子供のような声だった。
──時折、自分ではどうしようもなくなったことに苛立ち、叫び……その末に、彼が自分に見せる声に、似ていた。
いや、おそらく、それよりももっとひどい状態に違いないと、そう思わせる抑揚だった。
「やぁーまだっ! 聞いとんのか、われっ!!」
怒鳴りつける岩鬼の声に、はっ、とわれに返り、ごめんごめん、と答えて、山田はどっしりと岩鬼の正面に座った。
そのままキャッチャーミットを手でたたき、構える。
構えた先──よっしゃ、とボールを持つのは、里中ではない。
里中はもう二度と……高校のグラウンドには、立たないのだ。
春以来、久しぶりに聞いた声で──電話の向こうで、里中はそう宣言した。
耳に当たる受話器の冷たい感触と、里中の泣きそうに聞こえる声に──声はこんなに近いのに、なんて遠くにいるのだろうと、そう思った。
ギュォンッ、と、音がするかと思うほどの剛球を受けながら、それでも……どうして、と、思う心がある。
自分でも思いもよらないほど、この手が疼く。
受けたい球は、これじゃない。
でも。
「ナイスピッチ、岩鬼っ!」
「当たり前じゃい!」
パシンッ、と軽快な音を立てて、山田が返した球を受け取り、上機嫌でハッパを揺らす岩鬼へ、
「キャッチボールはよー、おめぇ、コントロールもいいづらけどなー?」
いつものようにボールで遊びながら、殿馬がそうあきれたように突っ込む。
今日の試合は、こりゃ負けづらぜ。
ずらずらと、やる気のなさそうな足取りで殿馬がベンチの前で白球を弄ぶ。
そんな殿馬に、とんまーっ! と岩鬼が叫ぶ
──ココで負けたら、高校野球はコレで終わりだ。
ここで、負けるわけには行かない。
負けてしまったら、きっと。
「──岩鬼! 来いっ!」
里中は今以上に苦しむに、違いない。
そう思えば、里中を思ったつもりで、退学届けを休学届けに変更してもらった自分の行動は、なんて独りよがりだったのだろうと思えた。
里中がいつでも帰ってこれるように──そう思って取った行動ではあった。
……何せ里中は、自分を追って高校を選んだほど、野球に命をかけていた。
野球がすべてだと言っていた里中が、それを諦めるのがどれほどの苦渋なのか──分かっているからこそ、最後まで道は取っておいてやりたいと思った。
もちろん、一人で勝手に行動するわけには行かないから、里中の母が入院している病院を調べて、彼女に会いに行き、許可を得た。
彼女はすべてを話してくれた──自分が癌であること、手術は体力が回復しだい行うから、7月の下旬になるだろうこと。そのときにならないと、転移をしているかどうか分からないといこと。下手をすれば、最悪……手術中にそのまま、ということもありうるということ。
その上で、彼女は自ら山田に願い出た。
どうか、智のためにそうしてやってください。──わたしも、がんばりますから。
でも。
里中を待っているという山田の無言の行動が、里中の「ごめん」を、より一層辛い色に染め上げていた。
「……よーしっ、あとラスト10球だっ!」
中学時代から、何度も受けてきた岩鬼の球にも、いつも以上に力を感じた。
誰の顔にも、強い感情が見て取れた。
やる気なさそうにボールを弄んでいる殿馬も、その実、この試合を捨てる気なんて無いことは、山田も岩鬼も分かっている。
負けるわけには行かない。
────がんばると、そう……約束したから。
「いいぞっ、岩鬼っ! その調子だっ!」
「だーれに言うとんじゃい!」
負けられない。
自信たっぷりに言い切る岩鬼を見上げて、山田はコクリと頷く。
「そうだな──……。」
負けられない──絶対に。
最後の夏の大会。これが終われば、自分たちは引退だ。
もちろんそういう意味でも、負けられない試合でもある。
特に今年は、昨年は甲子園二回戦でくしくも敗退を期してしまっている──その屈辱を晴らさなくてはいけない。
今年の夏は、どうしても真紅の優勝旗が、明訓にほしかった。
たとえ、エースピッチャーを欠いて、全国の強豪相手にどこまでいけるか分からない現状であろうとも。
「勝つづらぜ。」
全力を尽くして。
そう笑って言う殿馬に、当然、と微笑が頷く。
「取られたら、取ればいいんだからな。」
──今年の不知火相手に、それがどこまで通用するか……毎回、不知火が相手の時は、「1点」こそが勝負の分け目となる。
取られないに越したことはないのだが。
「三太郎! わいが投げて、打たれるわけがあるかい!」
そう豪語して胸を張る岩鬼の、その台詞こそが──心配の種というか。
「そうづらぜ。岩鬼が投げて、打たれるわけがねぇづら。」
ヒョイ、とボールを投げて微笑に放り投げた殿馬が、クルリとベンチに向けて歩き出しながら、
「バットをよぉ、振らなくても一塁に歩けるのに、誰も打つ必要はねぇづらぜ。」
そう嘯いた。
「とんまーっ!!」
多分、そうくるだろうなぁ、と、明訓のほかの面子は思っていたのだが、岩鬼だけはそう思っていなかったらしい。
何度殿馬に突っ込まれても、懲りない岩鬼である。
彼は顔を真っ赤に染めて、殿馬に掴みかかろうとする。それを殿馬がヒョイと避けて、彼はそのまま肩越しに山田を見やった。
「山田……おめえがよ、やるしかねぇづらぜ。」
────たぶん彼は、知っている。
ふとそう思って──山田は、殿馬に笑った。
「あぁ……がんばろう。
……悔いが残らないように。」
勝ちたい。
負けられない。
でも、それで勝てるほど、高校野球は──不知火は、楽な相手ではない。
キャッチャーミットを手に、向こう側のベンチを見ると……いまだ不知火は、燃えるような眼差しでベンチを睨みすえていた。
神奈川県下の最大の宿敵に、そんな目で睨みつけられると──知らされた気がする。
里中は、ここには──いないのだ、と。
ゲームセットの声が高らかに聞こえた瞬間──山田たちの高校野球は、終わりを告げた。
同時、明訓高校の応援席にガックリとしたため息の声が響き、すすり泣きにも似た悔しそうな声が響いた。
──明訓高校の彼らは、里中がココにいないことを知っている。
彼がいてくれたら、と、そう悔し涙にくれ、拳を握る者もいる。
その中で、山田は横浜スタジアムの高くそびえる壁を見据えた。
真上に見える、高校生活最後の試合の得点表には、明訓高校の「1」点が記されている。
これが、今日、自分たちが不知火相手にたたき出した最初で最後の点数だ。
今年の不知火は、強かった。
そして、彼を慕う後輩たちもまた──強かった。
さん然と輝く、「1」点。
白新高校が自分たちから取った点数には叶わないが──そのすべてが不知火がたたき出しているのだから、最後の敵として、不足のない相手であった──それでも、自分たちは最後に一矢報いることができた。
悔いがないと言えば嘘になるが……得点表から視線をずらし、山田はベンチで悔しさをかみ締めている岩鬼たちが待つベンチを見た。
先ほどホームを踏んだ岩鬼が、悔しげに拳を握り締めている。一塁に出た山田を進塁させることも、ホームに返すことも出来なかった蛸田が、握り締めたままのバットを、手から離すことも出来ず、ただうずくまっている。
そんな面々を見やり、大平が、応援団に挨拶に行くだや、と、そう催促する。
一見穏やかそうに見えた大平のめがねの奥に、かすかに光るものが見えたのを、誰もが見ないふりをする。
山田が、ベンチに向けて歩き出そうとした──その瞬間。
「山田。」
未だ、マウンドの上に立っていた不知火が、低く、山田の名を呼んだ。
歩き出そうとしていた脚を止め、山田が振り返った先──勝者であるはずの不知火が、燃えるような眼差しで……負けた時以上の鋭い怒りと屈辱を織り交ぜた表情で、山田を睨みつけていた。
その不知火の表情に、ようやく白新高校の面子も気づいたようだった。
喜びに顔をくしゃくしゃにして駆け寄ってきていた白新ナインが、ビクリ、と、不知火の元に駆けつける前に脚を止めた。
「不知火……。」
おめでとう、と、笑顔で握手など交わせそうにない雰囲気だった。
戸惑うように不知火の名を呼ぶ山田を──ようやく明訓に勝てたと、喜んでいいはずの不知火が、怒りを無理やり押さえ込んだ声で……はき捨てるように告げる。
「高校野球に悔いあり! 山田、プロで会おう。」
「──……不知火…………。」
呆然と、目を見開いた山田を、それ以上振り返ることもせず、不知火は自軍のベンチだった場所へと帰っていく。
勝利の抱擁も、喜びの勝どきも無かった。
ただ、不知火は、自分の胸に燃える、くすぶった感情に、苛立ちを宿していた。
その、勝者とは思えないほどの炎を背負ってベンチへと歩いていく不知火に、山田はなんともいえない視線を送った。
──彼は、今日の勝利を、勝利だと思えないのだろう。……その高い自尊心がゆえに。
「す……すごい迫力でしたね……。」
こわ、と、小さく呟いて渚が首をすくめる。
その隣で高代も、コクコクとせわしなく頷いて見せた。
「なんで、勝ったほうがあんなに怖い顔してるんだろう……。」
そうこぼす高代に、
「……そりゃ……俺たちが思ってるのと同じことを、あいつも思ってるからっしょ。」
微笑が……苦い笑みを刻んで、そう、言った。
里中が居たら、勝っていた、絶対。
誰もが口に出せない言葉を、今また飲み込む。
後悔しても、どう思っても──自分たちは、全力を尽くしてがんばった。
その事実だけは、誇らなくてはいけない。
完調じゃない里中相手に──チャンスのときの山田を敬遠して……そんな明訓に勝ても、それは「勝ち」やない。
ふと──昨年の夏、甲子園で優勝した男の声が、聞こえたような気がした。
*
ジリリリリ、ジリリリリ……古臭い音を立てる電話に、うなざりした顔で頭を抱え込む。
「ドラフトで山田君たちが指名されてから、電話がずっと鳴りっぱなしだよ。」
そう言いながら、しぶしぶ電話近くに立っていた教師は、片手に持っていたコーヒーカップを机において、代わりに受話器を上げる。
「はい、明訓高校です。」
電話に出て、そうぶっきらぼうに言う。
これが寄付をしたいという話なら、喜んで愛想を売ろう。
しかし、ドラフトで山田たち四人が指名されてから、掛かってくる電話といえば、新聞社や雑誌の取材申し込み──それも、今話題の彼らの授業風景を取りたいだとか、そういうのばかりだ。
時々、どこからかけているのか雑音が混じった電話で、彼らの住所を知りたいという怪しい電話もあった。
いっそ、掛かってくる電話番号を選べたらいいと、そう思うのも一度や二度じゃない。
今回も教師は、どうせその類の電話だろうと、おざなりに顎に挟むようにして電話に出た。
耳につけた受話器からは、ザァザァ、と、雑音がひどく入り混じって聞こえた──どこかの公衆電話からだろうか?
『──あ、あの……お忙しいところ、すみません。』
電話口から帰ってきたのは、ハキハキとした耳障りの良い声だった。
さらに出た瞬間、そう言ってくることで、オッ、と、教師は電話を持ち直す。
「はい、なにかご用ですか?」
どうやら相手は、生徒くらいの年齢の少年のようだ。
この年頃の子にしては、なかなか礼儀正しいじゃないかと、そう教師が思った矢先──、「彼」は、一拍置いてから。
『里中と申しますが、大平先生か、教頭先生か校長先生に、電話を繋いでいただけないでしょうか?』
そう──名乗った。
瞬間、教師は頭の中が真っ白になるかと思った。
「……さ……となか?」
思わず、電話に向かって問いかける。
さとなか、と言えば、この春先まで、明訓高校に通っていた少年の名前だ。
今話題に出た四人と、良く一緒に居るのを見かけることができた、野球部のエースピッチャーだった少年だ。
彼のファンで、グラウンドが埋め尽くされたこともあったくらいの──あの、里中?
呆然と呟いた教師の呟きを聞きとがめた教師たちが、ギョッとした顔で彼を見上げる。
『はい、そうです──……3年A組だった、里中智です。』
声の主は、少しためらいを乗せた後、そうきっぱりと言った。
「ちょ、ちょっと待っててくれるか? 大平先生か教頭か校長だね?」
あわてて教師は自分が手にしている受話器を下ろそうとして、そのままうっかり電話をきってしまいそうになり、あわてながら保留にする。
そのまま彼は職員室の片隅で、コピーを取っていた大平を見つけた。
野球部の監督である大平は、グラウンドに顔を出すと記者がうるさいという理由から、最近はめっきり職員室に篭りきりになっている。
それが今日ばかりは助かった。
「大平先生! あの──里中から、電話が……。」
そう告げた瞬間──大平の顔が曇った。
祝いの言葉を告げるために電話をしてきたのではないだろう。
大平は、礼を言って電話を受け取った後、それを耳にあて──周囲の教師たちが興味津々に自分を見つめているのに気づき、手のひらで受話器口を覆った。
「電話を変わっただがや。──元気にしてるだか、里中?」
『……──はい、おれは……元気です。』
帰ってきた声は、7月の下旬──夏の予選の決勝戦の前の日、電話で話したときと同じ色に染められていた。
それを聞いて……あぁ、と、大平は予感があたったことに、かすかに眉を寄せる。
「そうだや──これから寒くなるでな、ちゃんとあったかくするだや。」
彼の口から、それを言わせるのは酷だろうかと思う。
けれど、それを彼に尋ねるのも、気が引けた。
たった一言だ。
──お母さんの具合は、どがや?
……でも、聞かなくても、分かる。
『──……おれ……明日、経つことになりました。』
「…………そうか。」
『はい。先生にも、色々お世話になりました。
母さんが入院している間にも、色々と差入れを下さって、本当に助かりました。』
「いや、いいだや、いいだや……。」
丁寧に礼を言う里中の口調が、ひどく大人びて感じて、あの子は無理をして笑っていはしないかと、ふと大平は不安になった。
けれど、今は里中は電話の向こうに居て……それを確認する術はなかった。
『連絡が遅くなって申し訳ありませんが、母は──……先日、病院で息を引き取りました。』
静かな声だと、思った。
「……………………。」
何と声をかけていいのか、ためらうほどに、静かな声だと、思った。
『母も、先生には生前お世話になりましたので、本当ならご焼香いただかなくてはいけなかったとは、思うのですが、先生たちは、今、忙しいでしょうし……どちらにしろ、葬儀はあげられませんでしたから──……。』
「里中。」
声が、にじみ始めているのを感じて、案じるように大平は声をつむいだ。
その声に、里中は一瞬息を呑んだような沈黙を生んだ後、
『山田たちに、おめでとうと伝えておいてくれますか?』
ことさら明るい声で、そう言った。
「……分かっただや。」
会って、直接言えなんて、そんなことを彼に言うことはできなかった。
元々プライドの高い里中は、共に野球を出来ない身で、彼らと共に居ることを苦痛だと思うようなところがあった。
特に今は、その気持ちが人一倍強いだろうと──そう、思えた。
「今は、とにかく、自分のことを大切にするだや。」
『はい。』
きっぱりとした声が返ってきて、その声を聞く限り、里中は負けた目をしていることはないと、大平は安心したように頷いてやった。
「里中、お前の前には、お前の道があるだや。──お前以外には見えない、お前にしか選べない、お前にしか切り開けない道だがや。
お前は、その道を見失わないように、がんばるだや。……どんなことがあっても、道を見失いさえしなかったら、お前は、大丈夫だや。」
『──はい、先生。』
監督、と──そう呼ばれることは、もう二度とないのだろう。
そんなことを思いながら、大平は二言三言、言葉を交わした後、里中からの電話を切った。
あの子には、まだこれからさまざまな試練が待ち受けているだろう。
けれど──春にも山田たちが言ったことだが、あの戦いを勝ちぬけてきた彼ならば、きっと……乗り切っていく。
そしてまたいつの日か、表舞台に出てくるときがくるはずだ。
どんな形であれ、あれだけ野球を愛した子が、このまま野球と離れているはずはないのだから。
「笑って!」
そう言われた瞬間──誰もが、脳裏にありありと、花ほころぶように笑う少年の顔を、思い浮かべた。
もう、この明訓の地を踏むことはないだろう……少年のことを。
+++ BACK +++
次は「卒業式」だったはずなのですが、大甲子園一巻を読み直していたら、どうしても不知火の「例の台詞」を言わせて見たくなりました。
相手が本気で全力でぶつかってきたと分かっているのだけど、明訓の本当の「万全」に勝てたわけじゃない不知火は、やっぱり悔しいんじゃないかな、と。
最初は「里中が居ない明訓なら、勝てるっ」とか思っているのですが、そこで本当に勝っちゃうと、面白くないんですよ。
不知火は、「対山田」モードから、三年の間に「山田の居る明訓」に勝つ、という意識になってきたんだと思うんですよね。何が起きるか分からない「岩鬼」が居て、苦手な「殿馬」が居て、油断大敵な「微笑」が居て、宿敵「山田」が居て、その山田を選んだエース「里中」が居る。
そのすべてがあって、不知火が『勝ちたい』と思っている明訓なんです。坂田の台詞じゃないけど、里中が居ない明訓に勝っても、うれしいよりも先に悔しさが──しかも明訓に対する怒りがこみ上げてくるんじゃないかな、と。
ちなみに、「笑って」は、プロ野球編1巻の、ドラフト後のシーンです。
ココで山田に里中に浸ってもらったので、もう卒業式シーンはいいかなぁ、とか思ったのですが──どうしましょう?