見慣れた地方紙の一面には、見慣れた顔が二つ並んでいた。

















「Hey,Satoru!」
 流暢なスラム語交じりの英語を話す「彼」は、振り返った先でニヤリと厚い唇を歪めて笑った。
 コンガリと日に焼けた肌に、眩しいばかりの明るい笑顔は、試合の只中にある時は頼りがいがあるように見えるが──今日ばかりは、イヤミったらしく思えた。
「さとる、じゃないだろ……お前、なんで今まで黙ってたんだよ。」
 ジロリ、と、頭半分ほど大きい男を真下から睨み据えると、相手はヒョイと大仰に肩を竦めて笑った。
 快活な笑い顔には、挑むような色が強く滲んでいて──あぁ、だから「黙ってたんだな」と、ピンと来た。
 たまにインタビューしにやってくる日本の記者は、高校時代の彼と比べれば、ずいぶんと「おとなしくなった」と形容するが──それが正しいかどうかは、高校時代のチームメイトに聞いてみないと分からない、が……はっきり言って、里中の目からすれば、今でも十分「手に負えない」。
──まぁ、それを言えば、チームメイトの他の面々からも、里中自身がそう形容されているのだから、「どっちもどっち」……引き分けといったところなのかもしれないが。
「高校卒業して10年だぜ? そろそろ俺だって、日本が恋しくなるだろ。」
「……へーぇ、それなら、大学卒業した時点で国へ逃げ帰ってれば良かったじゃないか。」
 クシャリ、と──手の中の地方紙を握り締めて、里中はゆがんだ顔で彼を睨み挙げる。
 まったく──、このチームのエースが2人して「日本プロ野球界へ移籍」なんて、そりゃ確かに、大した騒ぎになるはずだ。
 うんざりした顔で頬杖をついて、分厚いカーテンにさえぎられた窓の向こうに視線をやれば、それに釣られるように「彼」は額に手を翳して、窓を見やる。
 分厚いカーテンは、表の明るい光を宿すだけで、決して表の「騒ぎ」の内容を映し出してはくれなかった。
 けれど、カーテンの光をさえぎる人影が、ひっきしなしに映ることから、表が大層な騒ぎになっているのは分かった。
「俺だって本当は、その時に日本へ帰るつもりだったんだぜ?」
 楽しげな色を宿して、窓の外へと視線を走らせる男の──精悍な面差しを横目に見上げて、へーえ、と気のない返事を返してやる。
 そんな里中に、彼は得意げな笑みを浮かべて、クシャリと笑う。
 そうすると、普段は里中と同じ年には見えないと言われている容貌が、年相応に幼く見える。
「ロッテから、一位指名貰ってたしな。」
 得意げな色を隠そうともず、嬉しげに顔をゆがめて笑う彼に、里中は呆れたように片目を閉じながらその顔を見上げてやった。
 今のチームメイトにして、アメリカに来たときに偶然出会ってから──この地では一番長い付き合いになる「彼」。
 同じ投手だと言うこともあり、何度も衝突することだってあったし、形は違えどもよきライバルというイミで、切磋琢磨しあった仲だ。
 そういう自分たちを、今自分が握りつぶしている地方紙などでは、「よきライバルで親友」なんていう胸糞悪い言葉で表現してくれる。
 日本に居たときは、彼とこんなところで顔をあわせて、こんな風に軽口を叩く仲になるなんて、思っても見なかった。
 当時の里中の中にある「彼」の印象はと言えば──あの「夏」の……甲子園優勝投手というイメージで。
 最後の甲子園──里中がマウンドに立てなかった……いや、明訓高校が3年間でただ1度だけ甲子園に出場できなかった、あの最後の夏で。
 ただ一人で甲子園を投げ勝ち、腕の負傷を押して、その右腕を高々と掲げた……「中西球道」。
 テレビを通してすら真夏の匂いを色濃く感じさせた男は、出合った当時は、トレンチコートに身を包んで、金網ごしにチームを見ているだけだった。
 遠目に見ただけでは、誰も彼が「あの中西」だとは気づかなかったに違いない。
 150キロの速球、カーブ。
 その強い意志。
 何もかもが、テレビのコチラ側に居ても、ブルリと鳥肌立つくらいの気迫を持っていた。
 なのに、その時の彼は、その気迫の色がまるで無くて──彼の傍に立っていた金髪の青年が、彼のことを「球道」と呼ばなかったら──その珍しい名前に耳が行かなかったら、里中は彼があの「青田の中西」だなんて、一生気付かなかったに違いない。
 彼の野球を見る目は真剣きわまりなかったけれど──その彼は、高校を卒業してから、長く野球をやめていたのだから。
「日本のプロ野球界でやっていける自信が無かったから、断ったんだったか?」
 揶揄するように、里中が目を眇めて見上げてやれば、
「俺の入団試験を見てた口でそー言うかよ。」
 憮然とした言葉で中西が、今にも舌打ちしそうな顔で睨み降ろしてきた。
──……あぁ、アメリカに来てからいつも思うけど、なんでこうもそうも、誰も彼もが俺を見下ろすんだ、全く。
 気に食わない──、そんな思いを無理矢理飲み下して、里中は首をかしげるようにして彼を軽くにらみつけた。
「それ見てたから、言ってるんだろーが。──っていうかお前、あの時さんざんうるさかったじゃないか。
 日本に帰って颯爽とデビューだとかどうとか。
 だから俺はてっきり、日本に帰るのかと思ってたぜ。」
 なのに、ロッテ入団を断った足で、そのままこのチームの入団試験に来てるんだから──正直、当時の球道の決断のイミを、いまだに里中は理解できない。
「プロ野球選手になるのは、俺の夢だったんだぜ。」
「知ってる。それも耳タコ。」
 即答で返して、里中は握り締めた地方紙を、ポイと机の上に投げ捨てる。
 だからこそ余計に、球道が日本のプロ野球界に行かずに、アメリカで野球をしていると言う事実に、首をかしげずには居られないのだ。
「当時も言ってやったと思うけどさ、ロッテも、キャッチボールしかしてなかった人間相手に、ずいぶん面白いことをするんだなー、って思ったよ、ホント。」
 ──決して口に出して言わないが、本当のところは少し違う。
 彼ほどの実力の投手を放って置かずに指名したロッテを、誉めてやりたい心境だったというのが、当時の本音だった。
 渡米して少ししてから初めて会った「彼」が、野球をしていなかったという事実を、誰よりも悔しく思ったのは、俺だったから。
「まぁな、そりゃ確かに、俺も無茶だなー、とは思ったぜ。
 四年間、まともに野球してなかった俺を、指名してくるんだからな。」
 机を挟んだ目の前の椅子に腰を落とし、彼は頬杖を付いて、苦笑めいた笑みを口元に浮かべて見せた。
 その表情こそが、彼がロッテ入団を断った理由を物語っているような気がしたが──他人の繊細な事情に突っ込むつもりはない里中は、それを見なかったことにする。いつものように。
 代わりに、軽口を叩くように呟く彼に向かって、呆れたように唇を歪めてみせた。
「あの時、日本のプロ野球行きのチケットを蹴ったから、俺はてっきり、このチームに骨を埋めるんだと思ってたぜ。」
 おかげで、チームのエースが二人抜けるからと、「宣言」したその日から、こんな風に大騒ぎだ。
 せめてお前だけでも残りやがれ、と心の中で吐き捨てながら、指先で塊となった新聞紙を弾いて零せば、窓の外の騒動に耳を傾けていた彼が、驚いた表情でこちらを見返したのが分かった。
「まっさか! 俺はいつかは日本に帰るつもりでいたぜ?
 ──あぁ、でも、山田がFAしてこっちに来るなら、帰らなかったかもしれないけどな。」
 予想していた名前が、あっさりと中西の口から零れて、へぇ、と里中は目を細める。
「なら、なんでロッテに指名されたときに帰らなかったんだよ。」
 彼もまた、投手として「打者 山田」に挑むことを望んだ者なのか、と、今更ながらにそのことを噛み締めながら、里中はクシャクシャにゆがんだ新聞紙を指先で広げ始める。
「その時は、そういう気分じゃなかったんだよ。
 俺も言っただろ? どうせ指名するなら、もう少し俺が成長してからにしてくださいってな。」
「──えっ! なんだよ球道、お前、今の自分が当時から成長してるって、本気で思ってるのかっ!?」
 大仰に驚いた仕草で、ギョッと机の上に身を乗り出して問いただせば、里中の──このチームで共にエースを争ってきた相手に、中西は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべて見せた。
「なんだよ、その言い草はっ!」
「自分の胸とアルバムに聞いてみればいいだろ。」
 噛み付くように怒鳴られて、つん、と里中は顎を逸らして新聞紙を丁寧に広げ始める。
 一面トップを飾るのは、自分と目の前の男だ。
 その紙面に真横に走る英単語なんて興味はない。
 外野がどれほど騒いでも、もう決定した事項は変更できないのだ。
 里中も中西も──このチームのエースを競う日本人投手2人は、今シーズンで帰国する。──昨年できたばかりの新チームに加入するために。
「だいたいさー、お前程度の男が、山田を討ち取れるわけないんだよ。」
「──〜俺程度って言うけどなっ、その俺程度に、今シーズン、何回先発取られたんだよ、ええ、智!?」
「アレはローテーション。それに先発は俺とお前だけじゃなかっただろ。」
 冷静に返しながら、里中は皺がたくさん寄った新聞紙を捲る。
 英文字が頭痛がするくらい並んでいる新聞は、こちらに来た当初はまともに読むこともなかったが、今はそうでもない。
 逆に、日本語の新聞を見ると、その漢字の多さに辟易することが多くなってきた。
「ちっ、お前の球なんて、俺が打ってもヒョロヒョロ飛ぶじゃねぇかよ!」
 ヒョロヒョロー、と言いながら、掌で球を飛ばした仕草をする中西の言葉に、里中は軽く片方の眉を引き上げる。
「お前だって、俺に何本ヒット打たれたよ、今年度!」
「はっ!? ヒット!? あんなの、ただのバントだろっ!」
「バントでも、一塁に出塁したらヒットだろ! そんな野球ルールくらい、覚えとけよっ! それでも大学出か、お前!?」
「それ以前に、ただの紅白戦で、お前程度相手に、本気の球投げるかって言うんだよ!」
「今年だって最後の最後でムキになってたのはどこのドイツだっ!」
「そりゃ、お前だってそーだろうがっ!」
 喧々囂々と机を挟んで言い合うエース投手2人の声が、室内に良く響き渡る。
 いつものことだと言うには、少しばかりうるさくて──、同じ室内に居た長身の男が、ゆぅらりと椅子から立ち上がった。
 かと思うや否や、
『シャラーッッップッ!!!!』
 ビリリと窓ガラスが響くかと思うほどの轟音で、男が叫んだ。
 そのまま男は、目を丸くしてこちらを見ている、毛を逆立てた猫のような二人の日本人の下へと歩み寄ると、バンッ、とグローブのように大きな手でテーブルをたたきつけ、
『こんなところでじゃれてる暇があるなら、さっさと表に行って、記者どもを黙らせて来い……っ! うるさくてかなわねぇ……っ!』
 そう、頭ごなしに二人に向かって怒鳴りつけた。
『じゃれてって……俺たちは別にじゃれてなんか……っ。』
 とっさに反論しようと口を開くが、言葉が最後まで終るよりも早く、室内に並んでいたほかのテーブルから、バラバラとやる気の無い拍手があがり、
『そうそう! そうしてくれよ、サトル、キュードー!』
『お前ら二人が顔をださねぇと、記者も夜なべして出てってくれやしない!』
 ふん、と、憤慨した様子で腕を組む長身の男の肩を持つように、明るい野次が飛んできた。
 思わず顔を顰める里中のつむじを見下ろして、
『とっとと表行って説明してこい。』
 長身の男が、クイ、と顎で窓の外をしゃくる。
 その態度は偉そうであったが、仕方のない子供を面倒見ようとする保護者のような雰囲気が満ち満ちていた。
 ──この長身で口の悪い、なおかつ短気な外野手は、日本から来た「小柄」で「勝気」な投手二人が、存外に「お気に入り」なのである。
『えーっ! なんで俺がそんなことするんだよ! そういうのは、マネージャーとかコーチの仕事だろっ!?』
 顎を逸らすようにして見上げて叫ぶ里中に、そうだぜ、と同意する中西。
 その二人をジロリと見下ろして、彼がさらに口を開こうとするよりも早く。
『んなの待ってたら、いつ解散させてくれるかわっかんねぇだろーっ!』
『全くだぜ。カワイコちゃん二人の記者会見を、首をながーくして待ってるあげく、風呂場にまでカメラ向けられたら、それこそたまんねぇ〜っ!!』
 同じ部屋の中にいたチームメイトたちが、ガハハハ、と、とてもファンには見せられないような下卑た笑い声を上げて、バシバシと机を叩いて大喜びする。
 そんな彼らの笑いのツボにハマったらしい姿をグルリと見回して、イヤそうに中西と里中はお互いの顔を見合わせるが、
『ほら、とっとと行って来い。顔を出して、日本で入るチーム名でもしゃべってこれば、勝手に調べに行くだろうよ。』
 30センチ近く身長の違う巨体に揃って見下ろされ、ふたたび促され──しぶしぶ、椅子から立ち上がる。
 確かに建物の中に居る分には、全く面倒は感じないが、表に出るともなればそういうわけにもいかないだろう。
 特に今回の記者集合の原因は、気軽に「日本に帰ります宣言」した里中と中西になのだから、余計である。
『これで明日の一面も、キュードーとサトルに決定だな。』
 笑いながら零す三塁手の言葉に、隣に腰掛けていた右翼手が、
『そうそう、2人でお手手つないで、「おれたち、日本に帰ってハネムーンしまーっす」って行って来いよ。』
『あはははは! そりゃ、別のイミで一面トップじゃねぇかっ!!』
 バンバンバン、と愉快そうに机を叩く軽いノリの選手2人に、ちがいねぇ、と周囲からドッと──またもや下卑た色を含んだ笑い声がほとばしる。
 そんな彼らに、中西が唇の端を引きつらせて──こうやって2人の仲をからかわれるのも、これが最後だぜ、と、ガリガリと頭を掻き揚げた。
 いつもなら、ここで里中が、ふざけるなっ! とでも叫んで椅子を蹴り倒しているところだが、なぜか今回、彼は涼しい顔で腰に手を当てると、彼らを涼しい顔で見回した。
『残念でした。』
 それから、ニッコリと──笑うたびにカメラがズームアップすると言ういわく付きの花ほころぶ笑顔で、
『俺の恋女房は、もう日本で待ってるんですよ、先輩!』
 幸せ満面、──本当に、日本にハネムーンをしに帰るのではないかと思うほど、得意げで、嬉しそうな笑み、だった。
 その、同じチームになってずいぶん経つというのに、初めて見せる里中の満面の笑みに、思わず室内が驚愕に固まる。
 彼の笑顔のインパクトに、里中が笑って告げた言葉の内容も、頭の中に入ってこない。
『俺の恋女房も、日本で待っててくれてるしな!』
 間違いない! 帰ったら、早速キャッチボールだ! と、堂々と宣言する中西の頭の中には、アメリカに居るとき同様、「厳密な球数制限」という言葉は抜けているようである。
『そっか、それじゃ球道は、千葉に帰ってそのまま草野球に入るんだな。』
 幸せな笑みを右掌に落とした後、里中は中西の言葉尻を奪うように軽やかに笑ってみせる。
 そのまま、クルリときびすを返して、扉向けて歩き出した里中に、
「って、誰もそんなこと言ってないだろっ!?」
「言ってた。すっごく言ってた。
 だってお前の恋女房って、今、草野球チームで日本一目指してるとか言ってただろ。」
 慌てて追いかけてくる中西に、顔も視線も向けずに答えてやると、勝手に人の手紙を見るなだとか、机の上に置きっぱなしなのが悪いだとか、それを言うなら人のベッドに服を脱ぎ捨てていくなだとか──、ルームメイトというよりも、同棲中のカップルみたいな会話をしながら、賑やかに「エースさま」が出て行く。
 カタコトしか理解できない日本語で、しかも早口に痴話ケンカを繰り広げて、2人が去って行った後の談話室は、どこかシンとして寂しくて……、
『なにも、出て行くときも一緒じゃなくてもいいと思うんだけどなぁ……。』
『余計に、恋愛疑惑発生するんじゃねぇの?』
 残された男たちは、そんな呆れたような、疲れたような──寂寥の溜息が零れていきそうな口調で、軽口を叩き合った。


















 ガー……ザザザ……ザ………………。


『……し……もし…………? もしも…………、聞こ……る?
 …………あー……電…………、悪い…………?
 …………────。』

 ザー……ザザザザ……。

「もしもし? もしもーし?」

 ザザ……。

『──……、に、……、ち……、飛──機、…………で……。
 ……帰……る、…………か、ら…………!』

 ザザザザ……──、

「……ダメだ、全然聞こえない。」
「何? 兄貴? ──ぁっ、もしかして、里中ちゃんっ!? 貸して、貸してっ、私も話す〜!」
「ダメだ、全然聞こえないんだ。飛行機の時間を教えてくれてるみたいなんだけどな……。もしもし!? 里中!? 聞こえてるか?」

 ザザザザザ…………。

『……や…………、聞こ──……!?』

 ザザザザ……ザザ…………。

「ダメだなー、兄貴。そういうのは、男の声よりも女の声のほうが聞こえやすいんだってば。ほら、貸して、貸して。」
「サチ子……こっちの声が聞こえてもしょうがないだろ。里中が到着する飛行機の時間が分からないとダメなんだからさ……。」
「大丈夫だってば。ほら、貸してよー、私も里中ちゃんと話すーっ!」
「──………………サチ子…………お前な…………。」

 バッ!

「あ、もしもし? 里中ちゃん? 私、サチ子! あのね、迎えに行くから! 絶対!! だから、空港で待っててねっ!!!」
「ってこら、サチ子! だから到着する時間が分からないって言ってるだろ……っ!」
「それじゃーねーっ!!!」

 ガチャン。

「サチ子ーっ!!」
「大丈夫だってば、兄貴ったら心配性だなぁ〜。
 だって、飛行機の時間だったら、チサちゃんに頼んで、メールでやり取りしてもらえばいいんじゃん。」
「──……あ。」
「ね? ほら、解決、解決。さ、早速チサちゃんにメールしーようっと。」
















 ピカピカに磨きたてられたステンレスの壁は、前に立つと自分の姿を鏡のようにクッキリと浮かびだしてくれた。
 その「鏡」の前に顔を近づけて、サチ子は自分の顔を眇めるように睨み付ける。
 少しだけ乱れた気のする髪を撫で付けて、少し壁から離れると、スラリとした全身が映し出される。
 その前で、サチ子はクルンと半回転して、明るい色合いのフレアスカートの裾を翻した。
 柔らかなラインを描いて脚を覆い隠したスカートの優しい感触に、ニンマリと笑みを覚えれば、壁に映る美少女も、ピンク色のリップが塗られた口元を笑みの形に歪める。
「うーん、さっすがトンマちゃんの見立て! 似合ってるじゃーん。」
 スカートの広がり具合が嬉しいのか、サチコは上半身を壁に向けながら、腰をゆるく振った。そのたびに足元で揺れる真新しいスカートの裾が愛らしくて、嬉しくて、サチ子の顔にはますます笑みが広がった。
 こんなに新しい服が嬉しいと思うのは、小さい頃──今は兄のチームメイトとなった賀間さんから赤い服を貰ったとき以来だ。
「あほ抜かせ! サチ子みたいなドブスに似合う服なんてあるかい。」
「うるさいぞ、ハッパ! お前こそ、なんだよ、その格好は!」
 おとなしくしてれば、上品そうなキレイな娘さんに見えるというのに、隣にガタイのでかい男がドスリと立てばこの態度。
 兄が常日頃「女らしくない……」と頭を悩ませているのも、十分理解できる状態である。
 これが、女友達の前ではごく普通の明るくてかわいい「山田サチ子さん」なのだから、不思議だ。──兄の友人の前のほうが素になれると言う事実も、兄として安心だというか、そういう問題じゃないというか……。
「十年ぶりに会う里中ちゃんに、寝巻きでお出迎えって言うのはないだろ、バカ! もっと神経使えよ。」
「だーれが寝巻きや、サチ子! おんどれもたいがいにせぇよ。良く見やんかい!」
 胸を張る岩鬼のTシャツが、どういうブランドのものなのか、サチ子も良く分かってはいたが、あえて彼女はそれを見なかったフリをして。
「いつものハーパンとTシャツだろ。しかも小汚い学生帽付きで! おぉっと、このハッパもきちゃな〜い。」
 子憎たらしい口調でそんなことを言いながら、サチ子は桜色のマニキュアが塗られた指先を伸ばして、ツイ、と岩鬼のハッパを摘み上げると、それを手前に引いて、ぱっちん、と岩鬼の顔を軽く叩いてやった。
 その慣れた仕草に、岩鬼は口をへの字にして頭に血を上らせかけたが、それもまたいつものこと。
 すぐにフンと鼻息も荒く、
「あんな虚弱児相手に、なんでわいが気張らなあかんねん。
 おんどれ、ミーハーすぎるんちゃうか。」
「何、言ってるんだよ。そう言って、昨日、夜遅くまで起きてたの誰だよ。朝早いんだから早く寝ろって言ってるのに、お前、夜中の2時までゴソゴソうるさかったぞ!」
 まったく、と可愛らしく唇を尖らせて、サチ子は腰に手を当てる。
 そんなサチ子に、岩鬼が目を軽くひん剥いて、起きとったんかい、と叫ぶよりも早く、
「えっ!? 岩鬼、お前また山田んちに泊まってたのか!?」
「ほんとによぉ、てめぇ、サチが大好きづらな〜。」
 少し離れたところで、搭乗時間の電光を見上げていた微笑が驚いたように振り返って叫ぶ。
 その隣で、空港の固い椅子に腰掛けた殿馬が、目深に被った帽子の底から、チラリとやる気のない視線を一瞥させていた。
「だっ、だーれが大好きやねん! わいはな、こやつらがサトの出迎えに遅刻したらあかんと思ってやな……っ!」
「最後まで寝てたのもお前だろ、ハッパ!」
 叫ぶ岩鬼の目元が赤くなっているのに、気づいているのかいないのか、サチ子は豪快に岩鬼のすねを蹴り上げる。
 ローヒールのミュールに付いた、キラキラ光るビーズが、しゃらんと小気味良い音を立てる。
「──……っ!!!!」
 ビビッ、と、毛を逆立てる猫のように、身体を震わせた岩鬼の隣に、彼女は仁王立ちになると、まったく、と唇を捻じ曲げる。
「しかも、聞いてくれる、三太郎ちゃん、トンマちゃん? 岩鬼のヤツ、寝坊したあげく、寝言でなんていってたと思う?」
「なになに?」
 両手を広げて訴えるサチ子の言葉に乗るように、三太郎が目元をさらに緩めて問いかける。
 誰も彼もが浮き立っている──そんな明るい雰囲気が、その場に満ちていた。
「『あかん、サト! その飛行機に乗ったら落ちる! 落ちるでぇぇぇー! あかーん!!』だって! 縁起でもない夢見るなっちゅうの!!」
 脛を掴んでピョンピョン飛び上がっていた岩鬼の背中に、さらに蹴りを突っ込むと、岩鬼がギリリと怒り心頭した様子で、サチ子を振り返った。
「おんどりゃ──サチ子、ええかげんにせぇよ……っ!」
「うぉ! やべ!」
 慌ててヒラリンとスカートを揺らして、サチ子はそれまで会話に入ってこずに、ボーとことを見守っていた山田の背中に隠れる。
 いつもならそこで、山田が、まぁまぁ、と岩鬼をとりなし、調子に乗りすぎたサチ子を止める──、のだが。
 当の山田は、何を考えているのか分からない顔で、ただ、ジ、と搭乗口を見ていた。
 思わずサチ子はピタリと動きを止めて、兄と同じ方向に視線を当てる。
 そんな山田兄妹に、小さく溜息を零して、殿馬は顔にかぶせるようにしていた帽子を指先でクイと跳ね除けると、
「岩鬼よ、サチは単に、夢に見るまでサトのことを心配してるのなんて、岩鬼くらいだって、誉めてたづらぜ。」
 そう──本来なら、山田が言うだろう言葉を、抑揚のない「真実味のなさい100%」の声で語ってくれた。
「ぬな!?」
 本来なら、これで騙されるはずはない。──はずはないのだが。
「誉めとったんなら、すぐにそれと分かる言い方せんかい、あほ!」
 なんだかんだ言って、サチ子に甘い岩鬼は、それであっさりと怒りの矛先を治めてくれた。
 そんな岩鬼に、やれやれ、と微笑は軽く肩を竦めて見せると、山田兄妹と同じように、チラリと搭乗者の出口へと視線をやり、
「あと、少しだな……。」
 小さく──こみでてくる笑みを堪えきれないような表情で、愉悦を含んだ言葉で、呟く。
 あと、少し。
 最後に会ってから、10年。
 小さかった背の少年は、もうどこにも居ないに違いない。
 傍にいなかった──否、会えなかった月日は、彼をどんな風に変えていったのだろうか。
 不安はないと言えばウソになる。
 自分たちは、高校の頃に比べて自信も出たし、体つきもしっかりしてきた。精神面についても、プロとしてやってきた月日に見合うようになったと思っている。
 けれど、私生活では、こまごました変化はあったけれど、時々街中で会う高校の同級生達と話しても、「変わってなくて安心した」といわれる。
 ──それでも、10年という月日は、一口で唱えるのにためらいを覚えるほどに、長くて。
 湧き上がる喜びと不安、なんとも面映い口に出来ないような感情がない交ぜになって、左腕で時計が進むたびに、脈拍が強くなっていくのを感じずにはいられなかった。
 ソワソワと肩を揺らしながら、
「なんか緊張してきたな〜。」
 と呟けば、帽子を斜めに被った殿馬が、チラリと視線をあげて、
「づら。──山田の、あんなに緊張した顔を見るのは、久し振りづらな。」
 クールにそう呟くが──長年一緒に居る者にだけ分かるような、かすかな震えが、語尾に見え隠れしていた。
 そんな殿馬に、そうだよな、と呟いて──今度は山田に視線をあてる。
 岩鬼は、いつの間にかぐるぐるとその辺りを歩き始めていて、目立つことこの上ない。
 果たして、空港に居る人間が、ここに揃っているメンツに気づいて騒ぎ出すのが先か、里中が載った飛行機が到着するのが先か。──微妙なところだろう。
 窓先に視線を向ければ、さすが空港だと言わんばかりの巨大な飛行機が数機見て取れた。
 その中に──薄い青の空を滑空してきた飛行機が、入り込むのが見えた。
 白く輝く機体に、広がる羽。いくつもの小さな窓が、いやに大きく見えた。
「──……あっ! もしかして、アレかなっ!?」
 飛行機の尾羽根が太陽の光を反射して輝いた瞬間、軽く目を眇めた微笑の耳に、明るく弾んだサチ子の声が飛び込んでくる。
 目をやれば、山田の腕にしがみついていた彼女が、目を輝かせて窓の外を見ていた。
 そのサチ子の言葉に、殿馬が己の腕時計を引き寄せて、
「──づらな。時間ピッタリづんづら。」
 あれだと、そう名言する。
 途端、空気が、一際大きく跳ね上がった。
「お、落ちて事故るなよ!」
 思わず叫んだ岩鬼の腕を、ペシリとたたきつけて、
「ろくでもないこと言うなっ、ハッパ!」
 サチ子は噛み付くように怒鳴ると、兄の腕に華奢な腕を絡めて、
「ほらほら、お兄ちゃん! 近くに行こう! 早く行こう! いっちばんはじめに、お迎えしなくっちゃ!!」
 グイ、と山田の腕を引っ張る。
 山田はそこでようやく、我に返ったように間近に見えるサチ子の紅潮した頬を見下ろす。
 指先が、ジリジリとかじかんだ感触を訴えている。それが、寒さからではなく、こみ上げてくる熱さからだと、自分が一番良く知っている。
 喉元まで競りあがってくる感情を、無理矢理飲み込みながら──けど、飲み込む端から、湧き立つ思いが、胸の中で焼け付くようだ。
「うん──そうだな。」
 まだ会う前だと言うのに、サチ子の目元がかすかに潤っている。
 そんな妹の──この場に居る全員の心を表現するように、全身で喜びを形容してくれるサチ子の髪を、クシャリとなで上げて、
「里中に、会えるんだな……。」
 小さく……大切そうに、その名を、つむいだ。















 国際線の到着ロビーは、昼間だと言うこともあって、旅行会社の係員や出迎えの人々で賑わっていた。
 その黒い人だかりの中、ぬきんでた長身と巨体の男が、額に手を当てて、ロビーのガラス扉を覗き込んでいる。
 いい意味でも悪いイミでも悪目立ちするその容姿は、野球ファンなら誰もが知っている──いや、野球ファンではなかったとしても、オフシーズンには良くバラエティー番組に顔を出しているから、大抵の人なら知っているソレだ。
「何やっとんじゃい、のろまやのー。」
 覗きこんだガラス扉の向こうは、ガランとしていて人気がない。
 先ほど飛行機が到着したはずなのに、なんで出てこぉへんのじゃい、とブツブツぼやく男の隣で、スラリとした肢体の娘が、伸びをするように踵をあげながら、彼を真似るように額に手を当てて、
「まっだかな〜、里中ちゃん。」
 浮き立つ様子を隠そうともせず、歌うように朗らかに呟く。
 その、本当に歌いだしそうな口調で、体を前のめりにさせる彼女は、そのままキョロキョロと辺りを見回しながら──あっ、と小さく声をあげた。
 とたん、少女を囲むように立っていた男達が、
「なんやなんや、どこや!?」
「え、サッちゃん、智が来たのか!?」
「づら?」
 慌てたように到着ロビーのガラス扉を見やったが、壁一面に広がるガラスの向こう側は、広い到着ロビーが見えるばかりで、人影と言えば係員の人らしき姿だけだ。
 サチ子は、口元に笑みを刻むと、到着ロビーの方角ではなく、先ほど自分たちがやってきた方角に向けて手を揚げると、
「知三郎ちゃーん! 土井垣さーんっ! 山岡さーん! こっち、こっちーっ!」
 体を乗り出す男達の間から体をすり抜けさせて、ピョンピョン飛び跳ねて、ノンビリと歩いてきている新たな出迎え客向けて、両手を激しく振った。
 途端、
「……なんじゃい、チサにどえがきはんたちかい。」
 岩鬼が、くだらなそうに鼻息を一つ鳴らし、殿馬が軽く肩を竦めてそれに答える。
 微笑と山田だけが、サチ子が手を振る方角へ顔を向けて、ざわめく人波を掻き分けて近づいてくる三人に向けて、ペコリと頭を下げた。
「こんにちは、山田さん、みなさん! お久しぶりですね!」
 明るい笑顔で知三郎が、右手に携帯電話を握り締めながら、ニッコリと微笑む。
「なんだ、まだ誰も出てきてないのか。」
 土井垣が軽く片目を眇めて、ガラス扉を一瞥した後、視線を山田たちに戻した。
 ざわめきが一段と高くなり、周囲に居た人々が、落ち着かなさげに彼らを交互に見比べた。
 これほど有名人が集まっているのだから、黒山の人だかりが出来ても不思議は無いはずなのだが、彼らは遠巻きに集まった7人と少女一人を見るばかりで、一向に近づいてくる様子は見せない。
 「明訓四天王」と呼ばれた四人が一同に──しかもこんな目立つ場所に居るのだから、確実に人波に埋もれているだろうと思っていた山岡は、拍子抜けしたように、遠目に自分たちを見ている人々を横目に見やった。
 そのまま、山田たちの近くまでやってくると、ガラス扉の正面に当たる場所で足を止めて──、
「混んでると思ったんだけど──そうでもないな。」
 微笑を見上げて零すと、そうっすねぇ、と彼は笑みの形の顔を、ますます柔らかに緩めて、笑った。
「そういう鉄司さんたちは、随分遅い到着っすね?」
「お前らが早いんだよ──一体、いつからココに居たんだ?」
 呆れたように返すと、微笑は顎に手を当てて、チラリと腕時計を見た後──さきほど別のフロアで飛行機が下りてくるのを見てから、もう20分ほど経過しているのを念頭に入れて。
「……そうっすね、2時間くらい前じゃないっすかね?」
「早すぎだろっ!」
 ここ一番というほど早い突込みを山岡から貰った。
 ──とは言うものの、山岡だとて分からないわけではない。
 10年ぶりに里中に会えるのを楽しみにしてる気持ちは、良く分かるからだ。
 特に目の前の五人が、誰よりもその気持ちが強く──少しでも早く、飛行場に着きたいと思うのは、当たり前といえば当たり前のことだろう。
 視線を逸らせば、浮き立つような満面の微笑みで、サチ子が知三郎と話しているのが見える。
 楽しげに笑っている二人の──サチ子の頭の上に、岩鬼がどっしりと肘を落として、
「里は遅いのー。退屈やで、ほんま。」
 何やっとるんやと、ふたたび零す岩鬼に、サチ子はぶるんと頭を振って、彼の肘を振り払うと、
「何、言ってるんだよ! まだ30分も待ってないでしょ!」
「そうですよ、岩鬼さん。国際線の場合、入国手続きに検疫、関税なんかの手続きもありますから、時間がかかるんですよ。」
「そうそう、荷物を降ろすのにも時間がかかるんだぞー。」
 噛み付くように怒鳴るサチ子に、すかさず知三郎のフォローが入る。
 さらに締めくくるように、サチ子はエッヘンと胸を張って告げた後、
「それに、岩鬼がいつも言ってるじゃん。ヒーローは、最後に登場するもんだって!」
 ニッコリ、と得意げに笑った。
「あー、言いますよね〜。」
 能天気に相槌を打った知三郎の声は全く耳に入っていない様子で、岩鬼はピピーンと──先ほどまで浮かれた様子で震えていた葉っぱが、一気にピンとまっすぐに上に伸ばして、
「アホぬかせ! 里がヒーローなんてタマかい!!」
 ヒーローっちゅうのはな、わいのことを言うんやで!
 岩鬼が、堂々と背を逸らし、胸を張ってそう続けるよりも早く、サチ子はクルンと岩鬼に背を向けて、ぱふりと手を重ね合わせると、
「あ、そっか! そうだよね! ヒーローはうちの兄貴だもんね!」
「あれ? それじゃ、里中さんは何になるんですか?」
「バッテリーは夫婦だから……ヒロイン?」
 軽く首を傾げて、面白そうに口元に笑みを刻み付けるサチ子の言葉に、へぇえ、と知三郎は、わざとらしいほどわざとらしく、大きく相槌を打った。
 そして。
「里中さんがヒロインですか。──へー…………、メール打って教えてあげないと。」
 パチン、と、右手に持っていた携帯電話を開いた。
 とたん、サチ子は慌てて知三郎の腕に飛び掛ると、
「あーっ、待って、チサちゃん! そんなことしたら、私が里中ちゃんに口利いてもらえないぃ〜!」
「あははは! 冗談ですよ、冗談! そもそも、まだ携帯の電源も入れてないと思いますしね。」
 楽しげに会話をする知三郎とサチ子の浮かれた様子に、岩鬼が渋面になった後、あほかい、と小さく呟く。
 どこか面白くなさそうに、彼はそのままツイと視線をずらして、人がやってこないか見ていたガラス扉へ視線をやり──お、と、目を剥いた。
「来たで、来たで〜!」
 無駄なくらいに大きい声で叫ぶと、岩鬼は腰ほどの高さのパーテーションに手をかける。
 その声に、バッ、とガラス扉を見やったのは、その場にいる7人だけではなかった。
 遠巻きに有名人を伺っていた人々もまた、一人残らずその方角を見る。
──「有名人」の「彼ら」が、ここに居る理由を、この場に居る誰もが、たやすく想像することが出来た。
 だからこそ、ミーハーな面々は、慌てたように岩鬼の言葉に反応したのだ。
 その先に……10年前、高校野球を騒がせた「明訓」の最後の一人──「里中智」が居るに違いないと、分かっていたから。
「里中か!?」
「里中ちゃん!?」
「智かー!?」
 先を競うようにパーテーションから身を乗り出して叫ぶ矢先──ガー、と軽い音を立ててガラス扉を開いた男は、ギョッとしたように、集中する視線を受けて、動きを止めた。
 肩にかけたバックをズルリと落としながら、彼はキョトキョトと挙動不審に自分に集中する視線を受けて──はは、と、照れ笑いを浮かべたあと、コソコソと頭を下げて通路を歩いていく。
 彼は、頬だけではなく、耳元まで赤く染めながら──「なんでスーパースターズの選手がいるんだよ?」と、ボソボソと零しながら、早足にパーテーションの区切り目まで、顔をあげずに一気に歩いていく。
 その彼を、思わず視線で追いながら、
「……って、里中ちゃんじゃないじゃん! ハッパっ!!!」
 サチ子は思いっきり、隣に居た岩鬼の足を蹴りつけた。
 周囲から、どよめきにもにた溜息が零れるのを聞きながら、一同も苦い笑みを隠せない。
「わいがいつ、サトが来た言うたんや!」
「普通、ああいう言い方したら、里中ちゃんだって思うだろっ!!」
 顔をつき合わせて、唾を飛ばしあう勢いの二人に、微笑が苦笑しながら割ってはいる。
 この二人の場合、痴話ケンカなんだか、ただのコミュニケーションなんだか、いつも判断は微妙である。
「まぁまぁ、サっちゃん。とりあえず、あの飛行機に乗ってた人が来たってことは、そう待つことはないってことだからさ。」
 そんな微笑のなだめる言葉が終らないうちから、次の人物がガラス扉を潜って出て来る。
 大きいスーツケースを引っ張りながら、斜め後ろを歩く人物と楽しげに会話をして出てきた男性二人は、やはり先ほどの男と同じように、出た瞬間に視線を感じて、ビクリと肩を震わせる。
 そして、目と素早く瞬かせると、互いに視線を交わしあい、そそくさと歩き去っていく。
 隣に並びあいながら、お互いの肩を突付くようにして、「一体、今日は誰がくるんだよ?」と囁きあっている。
 その後からも、どんどんと「里中と同じ飛行機」に乗り合わせていた人々が姿を現しはじめ、それとともに到着ロビーも活気に溢れてきた。
 小さなボードを掲げた旅行会社の係員が、ツアー名や旅行客の名前を叫ぶ傍ら──なぜか、到着したばかりの人々の輪が、スーパースターズの面々の後ろに固まって行く。
 長旅の直後で疲れているにも関わらず、帰らずにココにとどまり続ける理由は、ただ一つである。
──スーパースターズの面々が待っている人物を、一目なりとも見たいがためだ。
 その待っている人物が誰なのか──つい先日まで、ニュースを賑わせていた内容を知ってさえいれば、すぐに検討がつくことだ。
 そしてもちろん、この場に残っている面々は、誰もがその人物を知っていた。
「……しかしそれにしても、人が減るどころか、増えるって言うのは……どういうことだよ?」
 疲れた目をパチパチとしばたきながら、微笑はコリコリと頭を掻いて、グルリと背後を振り返った。
 到着した人々を出迎える人が増えるのは──分からないでもない。
 けれど、その分だけ、出迎え終わった人が去っていっているはずだから、結局は減っていくはず──……なのだが。
 振り返った背後のフロアは、ビッシリと人に埋もれていた。
 スーツケースを持った人までその中に混じって、到着ロビーの方角を指し示しながら、笑っているのはどうしてだろう──……。
「さっさと出てこないのか、里中は。」
 フロアのざわめきは、大きくなっていく一方で、一向に減りはしない。
 新たに現れるスーツケースを引いた乗客たちが、次々に背後の群れの中に加わっていくのだから、この辺りの熱気は、上がる一方だ。
 その状態に、ウンザリした様子で、土井垣は腕を組みながら呟く。
 憮然とした様子の土井垣の言葉に、そうですね、と山岡は頷いて、時計をチラリと見やる。
 そろそろ姿を現してもおかしくない時刻だとは思うのだが──、
「荷物トラブルとかが起きてなかったらいいんですけどね。」
 少しだけ心配の色を滲ませて、山岡は緩く首をかしげながら苦笑を浮かべた。
 その矢先──、フイに、ざわめきが、消えた。
 息を呑む音が、間近で聞える。
 は、と視線をあげれば──扉から出て来る乗客たちが数人、背後を気にしながら歩いてくるところだった。
 その様子が、まるで今から「そのひと」が出て来ることを示しているようだと、その場に居合わせた一同の中に、緊張が走った……、一瞬後。
「──……ぁっ。」
 小さく零れた声は、誰の口から零れたものなのか──分からないまま、視線がその一点に集中する。
 その「二人」の手前を歩いていた人が、やはり背後を気にするように足を踏み出すと同時、自動ドアが音を立てて開く。
 それとともに、ガラス扉の向こうを早足に歩いてきている「彼ら」の会話が、シン、と静まり返ったフロアに響いた。
「だいたい、なんでお前が同じ便に乗ってるんだよ!」
「ってそりゃ、行き先も同じで、やることも同じっつったら、同じ便になるだろが、普通。」
 カツカツカツ、と響き渡る靴音に負けないくらいの声で怒鳴りつけながら、後ろから続く青年の半歩前を歩く彼は、肩にかけたカバンを肩に掛けなおしながら、ガラガラとスーツケースを引っ張る。
「席まで隣同士だなんて、聞いてないぞ!?」
「球団が手配してくれたんだから、そりゃー、一緒に取るだろ。」
「だからって、お前の荷物まで俺が探す理由にならない!」
「いやー、まさか俺が、スーツケースを間違えて持ってたなんてな〜。」
「だから、スーツケースにはネーム入りバンドしとけって言っただろ、出る前に!」
 背後を振り返るようにして顎をあげて、喧々囂々と言い募る里中に、一際大きいスーツケースを引っ張った中西が軽く肩を竦めて答える。
 そのコンビ──つい先日まで、アメリカの紙面を賑わせていたとあるチームの投手二人の前で、ガー……と軽い音を立てて自動ドアが閉まる。
 それと同時に、里中が叫んでいた言葉が途切れて──なぜか、小さな溜息にも似た声が零れた。
 けれど一瞬後、里中の足が前へ踏み出て、ふたたび自動ドアが開いた。
 その音に、フロアに緊迫した空気が流れた。
 自動ドアが開く音に、里中が眉間に皺を寄せた渋い表情のまま前を向いて──……。
 目の前に広がる、密集した人の群れに、驚いたように足を止めた。
 これほどたくさんの人が居るというのに、到着ロビーの喧騒とは異なり、シン、とした空気が満ちていた。
「──……?」
 何が起きているのだと、里中は顔をゆがめて、グルリと辺りを見回す。
 驚いたような顔、喜色を浮かべた顔、──そして、その中に。
 ガラス扉の正面に。
「──……っ。」
 見知った顔が、見えた。
 衝撃のあまり、動きを止めて目を見開くばかりの里中の喉を、震えた空気が走った。
 そのまま一歩も足を動かそうとしない里中に、中西がいぶかしげに問いかけてくる。
「智、さっさと出ろよ。俺が出れないだろ。」
 ドン、と中西が肩を押し出すと同時、里中の足がフラリとフロアに踏み出した。
──とたん、ドッ、と歓声が沸き立った。
 空気が踊っているかと思うほどに盛大なそれに、里中は身を震わせ、中西はギョッとしたようにキョロキョロと辺りを見回す。
「……なんだよ、こりゃ……っ!?」
 肩にかけたボストンバックの紐を握り締めながら、顔をクシャリとゆがめた中西は、里中の顔を見下ろして──その小作りな整った面差しを、童顔に見せる大きな目が、ヒタリと前を見据えているのに気付いた。
 そのまま唇を歪めて里中の視線を追い──、中西は、あ、と目を丸くさせた。
 腰までの高さの白いパーテーションの向こう側。
 先ほど飛行機で見た新聞の中に見えた顔が、七つ。
 彼らは、里中の呆然とした視線を受けて、みるみるうちに笑顔を顔に貼り付けていた。
「智、──あれ、……。」
 思わず指先でその一団を指し示しながら、中西が呟きかけるが、その声は周囲から上がった歓声によって、掻き消されてしまう。
 ぅわっ、と、低い声が中西の喉から零れ、顔をゆがめて手の平で耳元を覆う。
 とにかく、さっさと行こうぜと、中西は里中にジェスチャーと視線で示そうとするが、見下ろした里中の視線は、ただ一点で止まったままだった。
 喉が、お互いに震えたのが分かった。
 一瞬で蠢くような轟音が消えて、ただそれだけしか見えなくなる。
 どうして彼が居るのだと、そう思うと同時、記憶よりも一回りは大きくなった体の主の隣に立つ男が、携帯を持った手の平をヒラリンと揺らしたのが見えた。
──あぁ、そっか。出る前に、迎えに行くから便を教えろとか、言われたっけ。
「智は出迎えありかよ……なんで、えーじが居ないんだ……。」
 憮然と唇を捻じ曲げてぼやく中西に、丁寧に「連絡してなかっただろ、お前!」と突っ込む余裕は、里中には無かった。
 穏やかに微笑む山田の顔に、笑いかけようとした瞬間、くっきりと見えた視界が、急激に歪んでいくのが分かる。
 それが何のためなのか、理解するよりも早く、ジン、と瞼が熱く火照った。
 耳に飛び込んでくる声が、うるさい。
 叫んで手を振っている少女が、パーテーションから身を乗り出して、岩鬼から後ろ襟首をつかまれて何か叫ばれている。
 微笑がクシャリと笑みに顔をゆがめながら、片手を大きくブンブンと振っていて、その隣で殿馬が、昔のようにクールに笑っていた。
 それから。
 そんな彼らに囲まれた状態で、「彼」は、穏やかに口を開いた。

「…………おかえり、里中。」

 喧騒の中、聞えるような音ではない。
 分かっていたけれど──その声だけは、耳に届いた気がした。
 その言葉を聞いた瞬間、荷物を放り出して、駆け出していた。
 引きずっていたスーツケースも、抱え込んでいたバッグも、何もかもを、後ろに居た中西に蹴飛ばすようにして押し付け、床を蹴る。
 磨きたてられた床が鳴り響く音を聞きながら、その人の名前を呼びながら駆ける先で──、懐かしい顔ぶれが、山田の背を押すのが分かった。
「山田……っ!」
 背後で、中西が文句らしい何かを叫んでいたが、そんなものは耳に入らない。──入れる必要もない。
 だって。
 ……ここは、日本だ。
 ──だって、目の前に、会いたかった人たちがいる。
「里中!」
 両手を広げて待ち構える彼の後ろで、口をへの字に曲げる岩鬼に、彼の腕にしがみつくようにして笑っているサチ子。
 微笑が身を乗り出して、殿馬がヒョイと肩を竦めている。
 ──まるで、いつかの甲子園の時のようだと……そう思うのは、少しばかり、感傷が早すぎるのかもしれないけれど。
 溢れてくる涙は、止めることが出来なかった。
 そのまま──出て来る涙ごと押し付けるように、山田に勢い良くしがみつくと、彼の大きな手が、しっかりと受け止めてくれた。
 そのままパーテーションを越えて引寄せられて、耳元に響く音が、ますます激しくなった。
 その音から逃れるように肩口に額を埋めると、真上からトンと重みが落ちてきて、
「あほ、里。おんどりゃ、泣くにはまだ早いでぇ! 泣いてアメリカに逃げ帰っても、わいは知らんぞ!」
 懐かしい──記憶にあるものよりも、少しかすれて低い声が、降って来た。
 さらに、その間近から……やはり記憶にある声よりも低く落ち着いた声が、からかいの色を含めて笑う。
「って、ハッパー、あんたの目に浮かんでるのは何よ。」
「こ、こりゃ、汗じゃい! あー、暑い、暑い!」
 バタバタとせわしない声に重なるように、からかう微笑の声や、突っ込む殿馬の声──呆れたような土井垣の溜息に、笑う知三郎と山岡の声。
──その響きに、くすぐったさを覚えて視線をチラリとあげれば、優しく笑う目元が見えた。
「って、ええかげん離れんかい、あいかわらず、いやらしいんじゃ!」
「まぁ、いいじゃないか、10年ぶりなんだからさ。」
「智! 荷物を俺に放ってくなよ! アメリカなら、置き逃げされてるぞ!」
「里中さーん、もう少し恥じらいを覚えたほうがいいと思いますよー? 聞いてます? なんかそれじゃ、本当にヒロインみたいですよ。」
「って、チサちゃん、それは言わないでって言ったじゃないーっ!」
「あー、もー! お前ら、感動の再会は、タクシーの中でしろ、タクシーの中で!!」
──外野の声がうるさくて。
 でも、肩口に頬を押し付けながら、それを聞くのが、なんだか楽しくて。
 里中は、かすかに顔をあげて、間近に見える日に焼けた顔を見上げた。
 ニッコリと目元をほころばせて──かすかに瞼と目元を赤く染めながら、
「やまだ。」
「なんだ、里中?」
 10年前──当たり前のように聞いていた声に、耳がくすぐったくなるのを覚えながら、小さく首を竦めて、彼の首元に抱きつきながら。
 10年ぶりに、囁く。
 抱きついた腕に、この上もなく力を込めて。






「ただいま……!」

















「彼」となら、最高の野球が出来ると。
俺は、今も──信じている。



















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完結です。──え、ちょっと最後が強引だったって?……いやだって、もう時間がな……ゴホゴホッ。

ん、こほん。

長くのお付き合い、まことにありがとうございました!

色々、余計な事を書いていたら、すっかり、書きたいところが削られてしまったのですが(涙)、一通り、必要なところは書けたかなー、と思います。

必要なところって言うか早い話が、「切ない別れを経験したあと、いろいろ苦労してグルリと遠回りして、山田ともう一度バッテリーを組む」話が書きたかったってだけなんですけどね…………。

里中を里中らしく書けなくて、球道が球道っぽく書けなかったのが残念。
まぁいいや、妄想は炸裂したし、(個人的に)ちゃんと終ったし。

このパラレル内では、里中と山岡と知三郎と球道が仲いいので、そんなメンツでまた色々書いてみたいなー、とか思うんですけどね、本当は。
でもタイムリミットです……。

本当は、試合の前に里中が母の遺髪を入れたお守りを持っている設定とか色々考えたのですが、結局全部入りませんでした……。もったいない……(苦笑)。

妄想分にお付き合いくださった方々、本当にありがとうございました! 無事に完結を迎えられましたことに、感謝とお詫び(苦笑)を!



こんなのでスミマセン……。










……ちなみにこの設定でいくと、この後の山田と里中は、周りから出来ていると思われるほど、イチャイチャしてると思う。でも本人達は仲のいい友人のつもりで、周りにハチミツ吐かれてたり……ねぇ。
そういうのもいいなぁ……。