16番ホール、グリーン上。
 見上げた窓に映る人影。
 ハッ、と息を詰めて見守る智を、どこか厳しい顔つきをした担当医師が、大きく一つ──丸を描く。
 ゴクリ、と息を一つ呑んだ。
 その智を見下ろして──担当医師は辛そうに眉を寄せた後、そ、と、手を下ろした。

 二つ目の丸は、なかった。

 ──コツン。
 呆然と窓を見上げる智の足に、何かが当たる。
 それが何なのか分からないまま、智はただ目を見開いた。
 頭が現実を拒否していた。
 今すぐあの窓の向こうへ走り、ただ悲しげに目を揺らして自分を見下ろしている担当医師の襟をつかみ、どういうことだと、問いただしたかった。
 答えは、一つしかないのに。
「君ぃっ! キャディとしてあるまじき醜態だよっ!」
 叫んで走ってくる男──客の声に、ハッ、と現実に返る。
 ここがどこなのか思い出して、智はあわてて三人の男を振り返った。
「す、すみません……。」
 振り返った智に、ギョッ、と三人が目を見開くのが分かった。
「ど、どうしたんだい? 何も泣くことなんて……。」
「……ぇ? ──……あ、違います、その……目にごみが入っただけで。
 さぁ、あと2ホールです。がんばりましょう。」
 指先で何も無かったように、にじみ出ていた涙をぬぐい……無意識のそれを、かみ締めるように拭い取りながら──笑わなくちゃ、と、自分に言い聞かせた。
 笑わないといけない。
 ──あと2ホールが終わるまでに、笑えるように、動揺を押し隠そう。
 戻ったら、手術が終わった母が待っている。先生に説明をしてもらわないといけない。
 まだ、転移が見つかったと分かっただけだ。
 まだ──それだけ、なのだから。









「里中君……。」
 ゴルフ場のオーナーに、入り口をくぐったところで呼びかけられる。
 ちらりと視線をやると、男たち3人は、ロビーへ脚を踏み入れ、そこでしているテレビ中継に視線が行ったようであった。
 そのテレビを一瞬目に写し……アップになった見知った顔に、ギクリ、と、智は心臓が揺れるような衝撃を覚えた気がした。
──やまだ……。
 心から信頼した男が、やさしい表情で、疲れた表情の投手に何か言っている。
 その男に、今すぐ何もかもぶちまけに行きたいような、そんな衝動的な気持ちが湧き上がった。
 けれど、自分があの場所を手放したのだから、と──智は、ギュ、と手を握り締めて、オーナーを見上げる。
「──……すみません、すぐに……病院に行ってもいいですか?」
「それじゃ、お母さんは──……。」
「手術は、成功しましたけど……。」
 そこで、苦い……苦い笑みを刻み込む。
 そんな智を見下ろし、すぐに行ってあげなさい、と、オーナーは優しく智の背を押してくれた。
 すみません、と頭を下げて、智はそのまま飛び出す。
 母が麻酔から目覚めるまでに、先生から説明を受けなくてはいけない。
 これから自分たち母子はどうしたらいいのか。
 まだ母は、助かる可能性があるのか。
 そして。
 母は、あと──どのくらいの命なのか。










 白いベッドの上で、うっすらと瞳を開いた母は、どこか疲れを負っているようだった。
 そのベッド際の椅子に腰掛けて、智はにっこりと笑う。
「お疲れ様、母さん。気分はどう?」
 ──笑えていると、自分でも自信があった。
 なのに彼女は、目を開いてそんな智を見つめるなり、絶望にも似た表情を浮かべ……一瞬後、悲しげに、笑った。
「智。」
 呼びかけられた声に宿る響きに、ドクン、と心臓が一つ鳴った。
「そうだ、母さん、ちょっと待ってて。さっき、看護婦さんがくれたリンゴがあるから、剥いてあげるよ。」
 立ち上がろうとする智が、わざとらしく視線をずらすのを許さず、加代はもう一度智の名を呼ぶ。
 そして、智が口を挟むよりも先に、
「転移していたのね?」
 問いかけではなく、ほとんど確信しているような口調だった。
 ギクリ、と、肩が震えないように、智は笑みを口元に貼り付けたまま、母を振り返った。
「何を言ってるんだよ、母さん。ただの胃潰瘍の手術だよ? 転移って何さ?
 ただ──思ったよりも母さんの体力が落ちてるから、もう少し入院することになりそうだって、先生は言っているけど。」
 笑いながら振り返って──その先で、真摯な……厳しいまでの母の眼差しに、喉が詰まった。
「隠さないで教えてちょうだい、智。
 ──母さんは、あとどれくらい生きていられるの?」
「……………………何を言ってるんだよ、母さん。」
 笑顔が、こわばりそうになるのを覚えながら、智はゆるくかぶりを振る。
 何を言わせようとしているんだよ、母さん?
 俺の口から……何を、言わせようと、するんだよ?
「智。」
 ごまかすことは許さないというように、加代が、ジ、と智を睨みすえる。
 その強い眼差しに、智が迷うように視線を揺らした瞬間、
「──隠し通すのも限界だよ、智くん。里中さんも、知っておいたほうがいい。」
 開け放したままの扉から、担当医師が顔をのぞかせた。
「……せんせい…………。」
 途方にくれたような、そんな悲しげな表情の智に一度頷いて、彼は加代を見る。
 彼女は覚悟を決めた眼差しで、キュ、と唇をかみ締めていた。
「先生。包み隠さず教えてください……わたしは、長くないのですか?」
「………………今回の、摘出手術は成功した。」
 それは、智がココについたときに、言われたのと同じ台詞だった。
 けれど、この後に続く台詞がある。
「だが──転移が多数見られました。
 ……手を施すには、すでに──。」
 ふ、と、視線を落とす医師を、加代は毅然とした態度で見つめた。
 その表情は、どこか安らいで見えて──一瞬、言い知れない不安を覚えて、智は彼女の手を、きゅ、と握り締める。
「……………………………………。」
 加代は、まっすぐな目で、ジ、と医師を見つめていた。
 医師は、そんな加代を見つめ──辛そうに眉を寄せた後、それでも淡々と語りだした。
「里中さんには、手術の前にも説明させていただいてますが、過労のために体がずいぶん衰弱しているといいました。
 さらに今回の手術で、体力を相当消耗されています。」
 そこで一度言葉を区切り、彼は加代と、加代の手を握り締めている智を見た。
 キュ、と唇を一文字に結んで、医師は一度喉を上下させた。
「そのことから考えて……最新の治療で、進行を抑えても…………、半年、かと。」
 智に説明したのと同じ台詞。
 ──それに、智が、ギュ、と、加代の手を握る手に力を込めた。
 加代は、そんな智の手を握り返しながら、かみ締めるように呟く。
「半年………………。」
 短い──あまりにも短すぎる宣告に、加代はゴクリと喉を上下させた後、乾いた唇を舐める。
「……そう、冬まで、ね。」
「母さん…………。」
 心配そうに名を呼ぶ智に、加代は小さく頷いて、微笑んで見せた。
「……智……半年もあるわ。」
「──母さん。」
 呼びかけた智の手を、キュ、と、力強く握り締め、加代は下から仰ぎ見るように息子の顔を見上げた。
 のぞきこみ、彼の視線を捕らえ──はっきりと聞こえるように呟く。
「半年もあるのだから、そのうちの一ヶ月くらい、あなたの自由になさい。」
 ただ、真摯なまでの瞳に、智は戸惑いに目を瞬いた。
「母さん?」
「まだ、間に合うわ──、後悔しないように、明訓に戻りなさい。
 一ヶ月……夏が終わるまで、せめて。」
「母さん、何を言ってるんだよ。おれはもう明訓には……。」
 何を、と、乾いた笑いを漏らして、智はゆるくかぶりを振る。
 けれど、加代はそれを最後まで言わせないように、さらに言葉を続けた。
「あるのよ。それが、あなたはまだ明訓の野球部員なの。」
「……え?」
 驚いたように目を見開いた智に、加代は手短にことの次第を説明する。
 ここへ入院してから少しして、山田が自分を訪ねてきてくれたこと。
 彼の提案で、今もまだ明訓に智の学籍があること。
 それどころか、今行われている夏の大会に、智の名前が登録してあること。
「────…………山田が…………。」
 呆然と見開く智の眼差しに、喜びの色が混じったのを、加代は決して見逃さなかった。
「行きなさい、智。
 一ヶ月くらい、母さん、智がいなくてもがんばるわ。夏の間だけ……あなたがいなくても、がんばるから。」
 さぁ、と、体を軽く揺すぶられて、智は動揺もあらわに視線を揺らす。
 揺らしながら──加代の、一年前に比べてやつれた感の否めない相貌を、ジ、と見つめた。
 半年。
 一ヶ月。
 母さんの命。
 野球。
──それらを秤にかけて、同時に、それらを秤にかけてしまった自分に、嫌悪した。
 そんな自分を恥じるように、智は一度目を閉じて──ゆっくりと、瞳を開き、加代を凝視する。
 静かに……彼女の手を、握りなおす。
「………………かあさん、半年もあるんじゃないよ。
 たった、半年しか、ないんだよ。」
 諭すような口調で語りかける息子の目に、迷いの色はなかった。
「──……智…………。」
 呟き返す加代もまた、自分の呼びかけに、喜びの色があるのを──認めざるをえなかった。
 母として、息子の喜びを後押ししたい気持ちもある。
 けれど、それ以上に。
「おれは、行かない。
 ──だって、この二年、おれ、母さんとぜんぜん一緒にいてあげられなかった。
 これ以上……もう、あと半年しかないのに…………母さんの側を離れたくない。」
 涙が、溢れた。
 息子の、その言葉が、彼の心の奥底からの台詞だと、分かっていたから。
「……………………智………………。」
 頬を伝う涙をそのままに、加代は顔を歪めて……握り合った手に、額を押し当てる。
 ぽとん、と落ちた涙が、自分の手のひらを伝う感触を感じながら、智は淡く微笑む。
「野球はいつだってできる。
 でも……母さんの側には、今しか、いられないんだ…………。
 母さん──俺の、わがままだよ。」
 そして、嗚咽をこらえて涙を流す母の、ずいぶん頼りなくなった気のする肩を抱き寄せながら──智は、彼女の頭の上に、自分の頬を寄せた












 静かな病院の廊下の角。
 ピンク色の受話器を耳に当て──そのひんやりとした感触に、一瞬背筋が震えた。
 けれど、それも耳に当て続けるうちに、違和感は感じなくなった。
 電話の向こうでは、半年もの間世話になった「明訓の監督」が、気遣いの言葉を投げてくれていた。
 ──大変な時期にこのような願い出をするのは、ひどく苦痛ではあったけど。
 今を逃すわけには行かなかった。
「──……はい、すみません……そのまま、退学扱いで……お願いします。」
 もう一度退学を願い出るのに、胸がシクリと痛んだ。
 けれどそれを飲み込んで、声だけでも笑顔を作ろうと、里中は目の前の公衆電話をジ、と見つめながら、唇に笑みを無理やり刻みこむ。
「えぇ……あの……山田にも……野球部のほうにも、すまないと、お伝えください。」
 待っていてくれた──そんな彼らに、結局顔を見せることもなく、こうして別れを告げることになるのが、心苦しくないわけではない。
 二度と会えない距離ではない。
 けれど──二度と会えないのだと、思った。
 そのまま電話を切ろうとしたが、それを止められる。
『直接言うといいだや。今ちょうど、山田がココに来たとこだや。』
 どくん、と、心臓が一つ、鳴った気がした。
 なんてタイミングの悪い──そう思うと同時、同じくらい、彼の声が聞きたいと思った。
 かちゃん、と公衆電話が耳元で音を立て、硬貨が最後の一個になったのを知らせる。
 手の中には、まだ10円玉が1枚残っている──けれど、里中は右手でそれを握り締めるだけで、投入することはなかった
 ギュ、と受話器を握りなおし、
「……いえ、もう硬貨が切れますから…………。」
 ──一声でも、彼の声を聞いたら、どうしようもなく取り返しのつかないことになるような気もした。
 まともに会話も出来ないような時間しかないのなら、いっそ、声など聞かないほうがいい。
 もうこれで──そう言ってきろうとする里中を、電話の向こうから大平が止めた。
『コレクトコールで掛けなおすだや。
 ──里中、山田にだけは、お前さんの口から、きちんと説明しなさい。』
「………………………………。」
『一度切るだや?』
 返事を待たず、チン、と耳元で音が鳴り響いた。
 その音を、どこか苦痛に重く感じながら、里中は右手でガチャリと通話を切る。
 そして、動作も鈍く手を戻すと、耳に当てたままの受話器から、プー……と単調な音が聞こえた。
 無言で、薄汚れたピンク色の公衆電話を見つめる。
 数字が消えかけたプッシュボタンが、照明の下で、いやに白く見えた。
 カチャン、と、10円玉を投入する。
 たった一枚の10円で、どれくらい話が出来るというのだろう?
 たった1分やそこらで、山田にナニが話せるというのだろう?
──話すなら、電話なんかじゃないほうがいい。
 でも。
 今、顔を見たらおれは──どうしようもなく、マウンドに立ちたくなる。
 母に、断ったその口で、その身で──彼のミットに、投げたくてしょうがなくなる。
 山田の構えたミットに投げるのは……アレが、最後になると、そう…………決めていたのに。
 キュ、と、握り締めた受話器の中で、ダイヤルボタンが押されるのを待つ音がする。
 その音を聞きながら、里中はゆっくりとコレクトコールのダイヤルを押し始めた。
 少しの後、ガイダンスの女性の声がして、つながる音が聞こえる。
 罪悪感にも似た、いたたまれない気持ちで、なぜか喉が詰まった。
 このまま切ってしまいたい欲求に駆られた右手が、受話器のフックにかかった瞬間、
『はい、明訓高校です。』
 照れを含んだような、少し取り澄ました声が、応対に出た。
 その、懐かしさを感じる声に、一瞬、目頭がツンと熱くなった。
「……山田。」
 小さく──その声の主の名を呟く。
『うん……里中?』
 やさしく名を呼ぶ声に、喉が詰まった。
 顔がゆがんで、手に汗がにじむ。
「──山田。」
 小さく──もう一度名を呼んで、それ以上何もいえなくて、里中は目を落とす。
 耳元で、まるですぐ隣に居るかと錯覚するほどすぐ近くで、山田の声が答える。
『里中……。』
 きっと彼は、職員室の中で、いつものようにまっすぐに立って、少し視線を落として受話器を取っているのだろう。
 何度も見慣れた山田の電話に出るときの姿は、こうして離れていても脳裏に描くことが出来た。
 でも、それ以上に。
「────…………山田…………っ。」
 何も言えなくて、里中は右手をギュ、と握り締めた。
 山田の名を口にするのが、ひどく久しぶりな気がした。
 山田が自分の名を呼ぶのが、ひどく懐かしい気もした。
『………………里中……。』
 穏やかに名を呼ぶ山田に、感極まって、里中は右手を自分の口元に当てた。
 押し殺そうとする声が、ヒクリ、と喉で震えた。
「────…………っっ…………ごめん、山田…………。」
 眉を寄せて、必死で声を押し殺そうとする里中に、山田が苦しそうにうめいて答える。
『──……それは、おれの台詞だよ、里中。』
「……山田…………。」
 いつもと変わりない、やさしい、声。
 そこには、自分を責める響きはどこにもない。ただ、里中を労わる──心配する色が、にじみ出ていた。
 里中はそれを聞きながら、キュ、と唇を引き締める。
『ごめんな、里中──。』
「なんでお前が謝るんだよ……。」
 苦い笑みを刻みながら、里中は身をかがめて、コツン、と電話の上に置いた自分の手に額を置いた。
「俺、感謝してるんだぜ?
 お前にあえて良かった……。
 お前が俺のためにしてくれたこと──本当に、嬉しかった。」
『里中……。』
「ありがとう。」
 目を覆うように視線を落とし、唇に笑みを刻む。
 自嘲めいた微笑みだと、里中自身自覚している。
 この胸のモヤモヤに、山田を巻き込むわけには行かない。
 甘えようとするのを、必死でこらえて、里中は何でもないことのように顔を上げて、正面の壁を見つめた。
 白い壁には、手書きの病院からのお知らせ──「深夜の電話の使用は自粛しましょう」。
「──明日、白新戦だろう?」
 ことさら明るく、里中はそう切り出す。
『あぁ……決勝戦だ。』
 山田も、いつものように穏やかに答えてくれた。
「最後の夏だ。不知火、すごくやる気みたいだな?」
 テレビを見た、と続けると、山田は、うん、と頷いた。
『お前の分まで、がんばってくるから。』
「──……あぁ、がんばってくれ。」
 本当は、そこに自分が居ればいい。
 本当は、あの燃えるような男と対戦する投手が、自分であればいい。
 焦げ付くような欲求が、自分の中から生まれるのを、里中は無理矢理飲み下す。
「だから、お前もがんばれ。」
「────…………うん。」
 ──どれほど時間があっても、結局、何も話せはしないのだ。
 この胸を焼きつくような野球への欲求も、最後のチャンスを握りつぶした葛藤も。
 これ以上話してしまったら──すべて、弱音として吐き出してしまいそうで。
「そろそろ──切るな。
 明日……がんばってくれ。」
 里中は、空ろな笑みを壁に向かって吐き捨てながら、朗らかにそう笑った。


「野球をしていたら──いつかまた、会えるよ、きっと。」


 いつだって会える。
 そういえない自分が……悲しかった。










+++ BACK +++




山田との別離編とでも……。

ここから長く完全別離が始まるわけです。

ちなみに電話の時点で、すでに明日の白新戦には、渚は投げられないことが確定していて、山田も山田なりに葛藤しているという……裏設定が。

次こそは「3」で、卒業式か、テレビ。