山田さんちには、にゃんこがいる。
「いいか、里中。」
しゃがみこんで、山田は目の前でお座りしているにゃんこにそう話しかける。
大きな目で、じー、と山田を嬉しそうに見上げているにゃんこに、山田は真剣な目で続ける。
「今日は、ちゃんとおうちで待ってるんだぞ。また昨日みたいに迷子になったら、大変だろ。」
ちなみに言うと、迷子になるのは昨日だけの話ではなく、おとついも、その前も迷子になっている。
そのたびに、首根っこを掴まれて、犬飼さんだの土井垣さんだの三太郎だのに連れられて戻ってくる。
ちなみに殿馬は、いつもにゃんこを頭に載せて、やってくる。
殿馬と三太郎以外は、必ずどこかに噛み傷ができていて、山田はそれを見るたびに申し訳ない気持ちになるが、山田の姿を見たとたん、何をおいても飛びついてきて擦り寄ってくるにゃんこがあまりにも可愛らしいので、毎回、うっかりそのことしかるのを忘れてしまっていた。
──ので、にゃんこの暴力は、一向に直る気配はない。
「やまにゃー。」
みぃ、と可愛らしく呼びかけるにゃんこが、とても悲しそうに目を潤ませて自分を見上げているのを見下ろし、思わずカバンの中に入れて連れて行けばいいか、と思わないわけでもなかったが、カバンの中になど入れてしまったら、にゃんこが可哀想である。
その考えを山田はフルフルと振り払うと、
「里中、それじゃ俺は出かけてくるから、お前は留守番だぞ。
ちゃんと留守番してたら、今日はプチ缶を買って来てやるからな。」
念押しする山田の大きな指先を、にゃんこはジと見つめる。
聞いているのかどうなのかは分からないが、山田はその手でワシワシとにゃんこの頭を撫でると、みぅ、とにゃんこの頭が下がった隙に、ガラガラガラ、と玄関のドアを開けて、外へ出て行ってしまった。
「やまにゃっ!」
慌てて後を追いかけようとしたにゃんこであったが、目の前でピシャリと閉まった玄関に、キュキュ、と急ブレーキをかける。
そして、自分の前にはだかる玄関に、カリカリカリ、とツメを立て始めた。
はっきり言って、にゃんこはプチ缶なんてどうでもよかった。
迷子になるのは、寂しくて怖くて、とってもイヤだったけれど、それでも迷子になりさえしなかったら、ずっと大好きな山田と一緒にいられるのだ。
そっちのほうが、ずっと大事なことだった。
なので、にゃんこはすぐに玄関を開けることは諦めると、クルリと居間に戻り。
「あ、里中ちゃん、今日はサチ子と一緒に遊ぼ♪」
両手を広げて待っているサチ子の腕をかいくぐり、
「こーら、智っ! 今日は太郎君が、ちゃんと家にいるようにって言ったでしょ。」
「ママ」の伸ばしてくる腕もくぐりぬけ、ヒョイと台所の流し台に飛び乗ると、そのままにゃんこは、
「……あっ!!!」
口を開くサチ子と加代の目の前で、ヒョーイっ、と台所の開け放した窓から、外に飛び出して行ってしまった。
残されたサチ子と加代は、
「じっちゃんっ! なんで窓を開けてあんのさっ!」
「あーあ……また智ったら、迷子になっちゃうわ。」
口々にそんなことを言いながら、さっそく山田の言い残した台詞を無視して表に飛び出して言ったにゃんこに、溜息を零すのであった。
にゃんこはとても可愛い美ネコなので、表に出ると、小さい子供や女子高生達が、やいのやいのと構われてしまう。
あっという間に進路も退路も立たれて、抱きかかえられたりチューされたり、撫でられたりと、好き放題されてしまって、にゃんこはとっても不機嫌に尻尾をふくらませる。
けれど、
「あー……怒っちゃったみたいー? ごめんねー?」
女の子達は、なぜにゃんこが怒っているのか理解できずに、機嫌を取るように首の下に手を入れてこようとする。
しかし、にゃんこはそれをヒョイと避けて、フーッ、と尻尾をさらに逆立てる。
首の下を撫でてイイのは、山田だけだ。
機嫌がいいときなら、サチ子と加代も撫でてもいい。
けど、それ以外の見知らぬ他人に、どうして撫でられなくてはいけないのだろう。
あぁ、山田なら、にゃんこの気持ちを手に取るように分かってくれるのに。
そう思いながら、きつく睨みつけたにゃんこは、ふと目の前の女子高生が着ている制服に気づいた。
それは、なんどか山田のカバンに(勝手に)入り込んで見た覚えのある、山田の通っている高校の女子が着ていたのと同じ制服である。
ということは、このコについていけば、山田と同じところにいける。
賢いにゃんこは、そのことにすぐ気づき、にゃんこを構うことに諦めた女子高生達が立ち上がったのを見計らって、彼女達に気づかれない距離を保ちながら、こっそりと後ろからついていくことにした。
今度は、小学生が手の届かないような塀の上を歩いていくことにする。
トテトテとついていくと、すぐに彼女達は見覚えのある校門の中に入っていった。
にゃんこはピョイと飛び降りて、この間山田のカバンの中で見たのを思い出しながら、ダッシュで駆け抜けていく。
「あっ、ネコっ!?」
という声がどこからともなく聞こえたが、そんなものを気にしている暇はない。
にゃんこが人間に構われている間に、山田はずいぶん先に行ってしまったに違いないからである。
先日は、山田がカバンを開いたところで忍び込んだのがばれてしまい、「うちに帰ってなさい」と怒られて追い返されてしまった。
──ちなみにその帰り、道に迷って土井垣さんに拾われた。
にゃんこは、その自分が覚えている辺りまで──野球部のグラウンドまでやってきて、バックネットにガシャンとしがみついた。
ツメを立てて、バックネットの中をグルリと見回すが、山田の姿はない。
代わりに、目の前に見慣れた顔が居た。
「やまにゃー?」
とりあえずにゃんこは、その顔に向かって問いかけてみた。
訳してみなくても、山田はどこだと言うイミである。
するとその顔は、ゆっくりと振り返り──バックネットに見慣れたネコがしがみついているのを見て、大きく目を見張った。
「さ、智っ!? 何やってんだ、お前っ!?」
「やまにゃー。」
「……って……そうだよな、お前のことだから、山田を探しにきたに決まってるよな。
山田なら、今、そこで朝練の用意してるぜ。」
クイ、と顎で指し示してくれる微笑の視線の先を目で追い、にゃんこはすかさずバックネットから飛び降りた。
そしてそのまま、スタタタターッ、とその方角向けて走っていく。
そのすばやさたるや、このときしか見れないほどである。
軽快に走るにゃんこに、
「……また来てるのか、あのネコ……。」
「毎回毎回、良くココまでこれますよねー。」
にゃんこには、ちょっとばかり長い距離だと思うんですけど。
頭痛を覚えて呟く土井垣に、山岡が呆れたように同意する。
そんな彼らの目の前で、にゃんこはようやく目的の人物を発見した。
こちらに巨大な尻を向けて、道具室の中からボウルの入った籠をガラガラと引きずりだそうとしているその姿!
見間違えるはずもない。
「やまにゃーっ!!」
ダッシュ、ジャンプ、つめを立てる。
その三段階を、一気に行い、にゃんこは山田の背中にがっしりとしがみついた。
と同時、
「………………里中……………………。」
山田は、背中に感じる小さな温もりと重みに、ガックリと籠の上にうつぶせた。
にゃんこはそのまま、山田が傷つかない程度にツメを立てながら、ガシガシと背中を上りきると、山田の頭の上に前足を載せて、
「やまにゃ。」
スリスリ、と顔を寄せた。
「……………………あぁ……もう……ほら、里中、降りろ。」
嬉しそうな声を滲ませるにゃんこに、もうお手上げだというか……今日も結局来てしまったのかと、山田は手を伸ばして、頭の上のにゃんこを降ろそうとした──が、
「!!」
にゃんこは、自分に向けて伸びてきた手の平に、驚いたように目を見張った。
そして、ジー、とその山田の手を見つめて、ズズズ、と彼の伸ばしてきた手とは違う方向にずり落ちる。
「さ、里中?」
慌ててもう片手で落ちてくるにゃんこを支えようとするが、にゃんこはその手の平をも、マジマジと見て、いつものように素直にその手に乗ろうとしはしない。
代わりに、警戒心たっぷりの目で鼻先を近づけると、クンクン、と二度三度鼻を引くつかせ──、
「にゃっ!」
カプッ、と山田の手に噛み付いた。
「いたっ! さ、里中、どうしたんだよっ!」
驚いて手の平を引っ込める山田に、にゃんこはフーッと小さくうなりながら、尻尾をプワリと膨らます。
そんなにゃんこに、一体何が──と思った山田は、すぐににゃんこが過剰反応を示す理由に思いついた。
「……あ、すまん、里中……、途中で小林君ちの猫が──。」
しかし、にゃんこは最後まで言わせなかった。
再び山田の頭の上まで上ったかと思うと、そのままズズズと彼の顔の前までずり落ち、
「里中……。」
全身を山田の顔にしっかりと当てた後、そのふわふわの毛皮を、今度は横にずらして行く。
「………………………………。」
顔の前を完全にふさがれた形になった山田が、そのまま動けないでいる間に、にゃんこはせっせと移動して、そのたびに体をそこら中にすりよせる。
山田の頭、顔、首、肩、腕、手──そこかしこにたっぷりと体を摺り寄せるにゃんこに、山田がどうしようかと悩んでいる間に、
「なぁーにやっとんじゃい、やーまだっ! はよせんかい!」
「おっよう、練習時間がなくなるづらぜ。」
岩鬼と殿馬が向かえに来てしまった。
だが二人は、すぐに山田がにゃんこの来襲を受けていることに気づくと、
「やーまだっ! 邪魔じゃい! はよそこからどかんかい!」
岩鬼は蹴りつけるようにして山田の巨体を脇にどけ、さっさと片手で籠を引きずっていく。
ここで邪魔してしまえば、にゃんこの爪と足来襲を受けるのは間違いないからである。
にゃんこの爪はとても痛くて、容赦がなく、岩鬼は以前に一ヶ月は顔に三本線を引いたままのことがあった。
「……すまん、その──里中が、なんでか急に甘えてくるから…………。」
何が何だか分からないと、ようやく山田の背中でゴロゴロとした後、満足げになるにゃんこに、首を傾げるばかりだ。
そんな彼へ、
「甘えてるんじゃねぇづらよ。そりゃ、単に匂いつけをしてるづらぜ。」
殿馬は、にゃんこが満足したように山田の肩に乗っかるのを横目に、そう教えてやった。
「に……匂いつけ?」
「づらな。そこまで独占欲が強えぇ猫がいるづらによ、ほかのお猫様は触るもんじゃぁ、ねぇづらな。」
何もかもを知っているという顔で、殿馬はズラズラと歩いていった。
残された山田は、自分の肩にちゃっかりと居場所を決めた、にゃんこを横目で見て、
「──そうなのか、里中?」
「やまにゃ〜。」
甘えたように頬に摺り寄ってくるにゃんこの返事に、はぁ、と溜息を零した後、苦い笑みを貼り付けて、その指でにゃんこの喉を掻いてやった。
「……うん、俺がすまなかったよ。」
そんな風に、自分の言いたいことが通じることに、にゃんこは至極満足したように、もう一度鳴いて、ペロリと彼の頬を舐めたのであった。