なぜかふとその名前を呼びたくなって、隣を歩く人の名を呼ぶ。
「なぁ、山田?」
見上げて微笑めば、彼はにこりと微笑み返しながら、
「なんだ、里中?」
柔らかな色を含んだ声で、問い返してくる。
その笑顔を見上げているだけで、なんだか胸の中がいっぱいになった気がして──あぁ、違う。
彼の顔を見て、彼に微笑みかけられながら、名前を呼ばれたかっただけなのだと、すとんと胸の奥で理解する。
だから、その望み通りのことを山田がしてくれたことで、もう呼びかけは意味を成さなくなる。
だから、里中はフルリとゆるくかぶりを振って、
「いや、なんでもない。」
そう、はにかむように笑って答える。
すると山田は、不思議そうに首を傾げるのだけど──でも、口元ににじみ出るような笑みをそのままに、
「そうか、うん、わかった。」
──まるで何もかも、見透かしているように、優しく呟く。
里中は、その声にまるで包み込まれているような──甘い優しさを感じて、思わずくすぐったげに身をよじりながら、クスクスと笑みを零す。
「うん、なんでもないんだ。」
なんでもない。
そう口にしながらも、そのなんでもないことが──自分が望んだことを、ストンと返してくれる山田の存在が、すぐ隣に居ることが嬉しくなって、漏れ出てくる笑みを堪えることはできなかった。
そのままニコニコ笑う里中に、山田はやはり不思議そうな顔をしたけれど──、まぁいいかと思ったように、緩む口元を抑えられなかった。
見下ろすと、目先で里中の黒髪が、柔らかに揺れていた。
動くたびにかすかに動くサラサラのそれに、思わず触れたくなって、
「里中……。」
そう呼びかけてみたが、すぐに反応するように、
「なんだ、山田?」
ニッコリと満面の微笑みで見上げてくる里中の、ほころぶ笑みに一瞬視線を奪われて。
「? 山田?」
小首を傾げて問いかけてくる里中に、山田は小さく笑みを零すと、軽くかぶりを振った。
「いや、なんでもないんだ──悪いな、里中。」
「そうか?」
「うん、そうだ。」
名前を呼べば、打てば響くように帰って来る。
その響きが、なんだか嬉しくて、にっこりと2人は笑みを交し合った。
触れるまでもなく、すぐ間近の空気が、お互いの体温を伝えている。
この距離が──今までなかったこの距離が、ひどくいとおしいのだと。
触れそうで触れない、たったこの距離が、何よりも嬉しいのだと。
そう言えば、それはおかしいと、誰か、笑うのでしょうか?
「──……いや、つぅか、おかしいとかそれ以前に、入ってけないから、そこ!!!!」
思わず激しく突っ込んだが、ニコニコ微笑みあっているバッテリーには、さっぱり届いていないようであった。
「あー……なんか俺、おなかいっぱいだぜ。」
今日の昼食も食べる気がしない、とゲンナリ呟いて、山岡はここ数日でげっそりした気のする自分の頬を手のひらでなで上げた。
そんな山岡に、同じく今シーズンからプロ野球界入りを果たした「山田世代」のルーキーどもが両手をあげて同意を示してくれる。
「高校時代も、ツーカーなバッテリーだなとは思ったけど、度合いが上がってないか?」
「さながらカップルだな〜。」
緒方が乾いた笑いをあげてそんなことを呟けば、軽い笑い声をあげて国定が両腕を組みながら軽口を叩く。
──けれど、その言葉に帰ってきたのは乾いた笑い声と、苦笑を浮かべた元明訓ナインのなんとも言えない視線だった。
「さながらって言うか……どう見てもカップルだろ…………。」
山岡はげっそりやつれた頬を両手で包み込みながら──あぁ、こいつらと野球するってことはつまり、あの空気に触れていくことなんだなー……と、しみじみ感じ入る。
「いやー、しかしなんていうか、幸せそうっすよね、智も太郎も。」
山岡の少し後ろを歩いていた微笑が、頭の後ろで腕を組んで、うんうん、とこちらも幸せそうに笑って呟く。
「──幸せそうっていうか、暴力だろ、アレ。」
まだ、「さながらカップルだなー」と笑っていられる度合いではあるが──10年前に比べて、それでもグレードアップしている気のするレベルの幸せ満面の2人の姿に、果たしていつまで、チームメイトたちは耐えられるのであろうか。
そのことを思うと、山岡は練習疲れでじくじくする胸が、さらにいっそうチクチクするような気すらした。
新しいチームメイトのずっと前の方では、一同のいぶかしげな視線を受けたバッテリーが、今にも肩が触れ合いそうなほど間近で、寄り添うように笑いあって歩いていく。
時々、里中の指先が山田の服の方へと動きかけるが、それはごく自然にそこから離れ、またニッコリと笑みがこぼれる。
明訓時代にも良く見ることができた、里中の「無条件の笑顔」には、思わず誰もの視線を捕らえる力があるのか、前方を歩いていた面々が、グッ、と言葉に詰まるのがわかった。
「しっかし……なんか、グレードアップしてるよな、アレ?」
山岡は、こりこりと頬を掻きながら、チラリと背後を突いてくる後輩を振り返る。
そんな山岡の問いかけに、チラリと殿馬が視線をあげて、に、と唇の端を吊り上げて笑む。
「まだまだ序の口づらぜよ。」
「そうじゃい、まだ、こそばゆなるレベルっちゃうで、山岡はん。」
軽口を叩く微笑だけでなく、殿馬と岩鬼まで口を挟んできて、山岡はそれが示す「度合い」の高さに、閉口するように口をつぐんだ。
その山岡の胸を占める不安を広げるように、微笑は軽く笑い飛ばすと、
「そーりゃもう、すごかったんすよ、12月の引越しの時も!」
「……いや、もういい。なんか想像できたから、説明はするな。」
すかさず、ヒラリと手のひらを翻して、山岡が、両手を広げて説明しようとする微笑の動きを止めようとするが、それよりも早く、微笑は両手を胸の前で組み合わせて、わざとらしく腰をクネリを揺らすと、
「智んちの引越しが終わったあとさ、ふと気づくと、山田と里中が窓際にいるんすよ。
で、何やってんのかなー、ってみんなで耳を澄ませてみたら……。」
「いや、だから聞きたくないって……。」
それ以上はイヤだと顔をゆがめる山岡を、面白そうに笑いながら、微笑が声音を変えて続ける。
『山田、ほら、この窓からおまえの家が見えるぜ。』
『あぁ、本当だ。すごく近いな、やっぱり。』
『うん、これでいつでも山田に会えるな!』
『そうだな。すぐに会いにこれるな。』
『それに、これだけ近かったら、最終電車がなくなるから、もう帰れ──なんていわれることもないな?』
『はは、そうだな。それを言うなら、いつでも、呼んでくれれば、すぐにここに来るぞ。』
『ほんとうか?』
『あぁ、いつでも呼んでくれ。』
『わかった。それじゃ、山田も俺に会いたくなったら、いつでも呼んでくれよ? 歩いて三分で会えるな。』
『俺も里中に会いに行くから、1分と30秒だ。』
『そっか。──うん、そうだな。』
わざわざ声色を使って、里中と山田の表情まで真似するようにポッとか頬を赤らめてみせる微笑の言葉に、
「だーっかーっらーっ! もうそこで止めてくれっ、頼むからっ!!
ほらみろっ! こんなに鳥肌がっ!!!」
長袖のアンダーシャツをめくって、ほらっ! と訴える山岡を、あはははは、と微笑は笑い飛ばして見せた。
「ヤだなー、だから、そんなの、序の口だって言ってるじゃないっすか〜。
この、目の前で繰り広げられた展開には、さらに先の展開が……っ!!!」
顔に影を差して、一気に顔を近づけてくる微笑は、潜めた声をすぐに一転させて、大仰な仕草でどなりつけ、山岡の期待感を煽って──……。
「いやっ、だから、聞きたくないって言ってるだろ、三太郎〜っ!!!!」
────山岡のそんな悲鳴は、聞き届けられることはなかったそうである。
+++ BACK +++
そんなわけです。