禁断症状










 それは、ごく普通の日だった。
 普通に練習して、普通にシャワーを浴びて、普通にロッカールームで笑いながら話していたのだ。
 会話も、ごくごく普通のことばかりで、昨日のテレビはどうだった、うちの娘がこの間算数で100点を取った、今度一緒に映画を見に行こうだとか──本当にいつものような、そんなくだらないものばかり。
 ──そう、突然里中が、
「…………山田が足りない………………。」
 ぽつり、とそう零すまでは。
 良く響く声で、里中が呟いた瞬間、ロッカールームはピキンと冷えた空気が舞い落ちた。
 のんびりとくつろいでいた面々の肩が、背中が、ぴしりと撓り、奇妙な緊迫感が部屋の中を支配する。
 一瞬で静まり返った室内に気づかず、里中は小さく溜息を零して、指先で紙コップの上部をなぞった。
「……山田………………。」
 小さく呟く言葉に覇気がない。それどころか、悩ましげな色すら見えて──何かを恐れるような視線が、里中の背中に突き刺さる。
 けれど、それすらも気づかぬ様子で、里中は再び溜息を零すと、
「……確か、近くのホテルに新幹線と飛行機の時刻表があったよな…………。」
 半ば以上本気で、そんなことを呟きはじめる。
 ──いや、半ば以上どころではない。かもし出される雰囲気もその目も、本気そのものだった。
「明日は俺、先発じゃないし、ちょっと腹が痛いとか頭痛がするとか言って、ホテルで寝込んでるってことにしとけば…………。」
「智、智、口に出てるから……っ!」
 周囲が思いっきり突っ込むものの、山田切れで目が据わり始めている里中には届かない。
 彼の頭の中はすでに、明日は体調不良だと監督に訴える計画が綿密に練られているようだった──いや、綿密に練っていても、里中のことだから、穴があるだろうとは思うが。
「とにかく、朝イチの新幹線っていうと……。」
「待て待て、里中。朝イチにココ出ても、向こうに着くのは夕方だろ? 明日の西武ってナイターだろ? 夕方に着いても、試合見て終わりだろ? だったらわざわざ、行く必要ないからな!」
 このままほうっておけば、携帯電話を取り出して、新幹線の予約まで始めてしまいそうな気がして、慌てて隣に居た選手が止める。
「──……あ、そっか。そういえばそうだな。
 ……今からバックネット裏の席なんて、取れるかな…………。」
「だから、そうじゃなくって!!!」
 すでに悲鳴に近い声をあげる先輩選手に、里中は怪訝そうな目を向ける。
「何、叫んでるんですか、先輩?」
 冷ややかにすら見える視線に、誰のせいで叫んでいるんだと、頭痛を覚える男の後ろから、別の選手が顔を出して、
「いやほら、バックネット裏なんて目立つところに席取ったら、お前、試合をサボって何やってんだと言われるぞ……ってことだよ、だから。」
「それにほらっ、そこまでして行っても、結局、山田の背中とか豆粒サイズの山田とかしか見えないなら、全然、行く意味なんてないだろ、なっ!?」
 たたみかけるように、回りから首を突っ込まれ、囲まれるように上から怒鳴られて、里中は軽く首をすくめて見せた。
 けれど、すぐに気を取り直すと、グッ、と拳を握り締めて、
「……俺はっ! 生の山田が見たいんです……! 大きさなんて、どうだっていいんです!!」
 ──ちょっと聞き間違えたら、卑猥な響きを感じ取れるようなことを、堂々と言い切ってくれた。
「ナマってお前……。」
 高校生のかわいい娘が、色気づいて、「彼氏がね!」とか嬉しそうに話すのを見ている父親というのは、こういう気分なのだろうか──……。
 思いっきり遠い場所を見るように視線を飛ばすチームメイトを睨み挙げて、里中はさらに続ける。
「いっつもテレビだとか新聞だとかでしか山田が見れてないんですよ!? たまには豆粒くらいの大きさだって、ナマの山田くらい見たいんですっ!!」
 ついこの間、西武との試合の後に行方をくらましていたのはナンだったんだ──なんてヤボな突っ込みをする面々は、その場には居なかった。
 きっといつものように、球場近くの居酒屋でいっぱい引っ掛けた後、夜の街に消えていったに違いないからだ。
 翌朝、普通にホテルのロビーに居たから、あえて誰も突っ込まなかったが。
「って……じゃぁ聞くけどな、智。」
 このままだと、里中は本当に明日朝イチの新幹線で──いや下手をすると、今日の夜あたりから財布一つで飛び出していってしまうかもしれない。
 そんな危機感を覚えつつ──危機感というよりも溜息だったが──、ロッカーに腰掛けた男が、腕を組みながら里中をまっすぐに見ながら、
「お前、山田と会って、そのまま最終電車で帰ってこれるか!?」
「無理です。」
 即答。
 あまりに清清しいまでの即答ぶりに、思わず全員が、ガックリと肩を落とす。
「って、少しは悩むとかウソつくとかしろよっ!」
 かろうじて頭を上げて叫んだ男に、
「無理に決まってるじゃないですか! ただでさえでも山田が足りてないのに、遠くから見て、さらに会って話したりしたら、最低でも6時間は補充しないと──できれば24時間くらい補充しないと、山田不足でココまで帰ってこれませんから、俺!!」
 逆切れする勢いで、里中は力説する。
 里中の「山田」っぷりには、慣れたつもりだったが──さすがに山田切れの最中の里中は、度合いもグレードだ。
 正直、係わり合いたくはない。
 けれど、ここでなんとか里中に押しとどまって貰わないことには、困るのは自分たちだ。下手をすると、みんなで仲良く謹慎──なんて、高校時代を思い起こさせる処分が待っているかもしれないのである。
「あのなぁ……智〜……。」
 米神に手を当てながら──果たして、この行く気満々の里中を、一体どうやって止めればいいのかと、誰もがゲッソリと溜息を零す。
 毎年のことだが──そう、毎年里中は、冬のキャンプが終わって、開幕シーズンが始まり……ゴールデンウィークが過ぎたあたりから、山田欠乏症にさいなまれる。
 そのたび、苦労して里中を宥めるのは、彼と同じ投手陣か、もしくは──貧乏クジを引いてばかりいるような気がする、捕手たちだ。
「智……あのでげすね。」
 今回も今回で──やっぱり、なんとか治めるしかないかと、溜息を零しながら腰をあげたのは、瓢箪であった。
 先ほどから、先輩と里中の面白いくらいの軽口めいたやり取りを黙って聞いていたのだが──いい加減、ここらでキュ、と首を絞めないと、里中は本当に飛び出していってしまうと思ったらしい。
「後、少し我慢したら、オールスターが始まるじゃないでげすか。」
 オールスター。
 それは、里中にとっては、この上もなく魅力のある単語である。
 ライバルチームとなった山田と、堂々とバッテリーを組める、一年にたった一度の機会なのだ。
 その瓢箪の思惑どおり、ぴくん、と里中が肩を揺らす。
 ──ちなみに昨年は、里中を抑えるために、速攻で山田に電話して、山田に里中の説得を頼んだ覚えがある。おかげで、なぜか瓢箪の携帯電話には、山田の携帯電話の番号が入っている。
「ここで我慢しなかったら、試合放棄したって言われて、オールスターに選ばれないかもしれないでげすよ。
 それでもいいんでげすか?」
 幸いにして今まで、里中は全出場を決めているが──今年がどうなるかは、今の里中の態度にかかっている。
 そう訴えかける瓢箪に、里中の目が戸惑うようにかすかに揺れた。
 そのまま彼は、考え込むように唇を一文字に結び──確かに、そういうよくないスキャンダルは、ダメだよな、と、小さく……小さく、呟いた。
 その、しゅん、と落ちた肩と頭に、思わず慰めの言葉を掛けかけた男たちであるが、ここで声をかけてしまったら、里中が再び走り出してしまわないとも限らない。
 グッ、と断腸の思いで拳を握り締めて、瓢箪の言葉を支援するように、心の中とは逆の言葉を吐く。
「そうだぜ、里中。ファンの人気で選ばれるんだから、お前が試合を放棄するってことは、ファンの心を踏みにじるってことだろ?」
「里中って酷い! とか言われて、選んでもらえなかったら、オールスターは自宅でテレビ見るしかないんだぞ。」
「山田に会ってバッテリー組んで、終わった後に飯を食うんだろ!? 今、我慢しないと、それが出来ないんだぞ!」
 口々に言われて、里中はますますシュンと肩を落とす。
 それから、ゆるく握った掌を見下ろして──重い溜息を一つ。
「──……わかりました…………我慢します………………。」
 切ないまでの響きを宿した里中の言葉に──いつもハキハキと元気の良い彼のそんな言葉に、思わずホロリと「いいんだぞ、今から行っても!」とか言いそうになった男たちだが、瓢箪の厳しい(ように見える)背中を見て、慌てて口をつむぐ。
 そうだ……ここで後押しして、本当に里中がオールスターに出れなくなったら、それこそ目も当てられないじゃないか!!
──一度試合をサボったからと言って、オールスターへの出場に影響があるかどうかは、やったことがないからわからないが。
「──……智…………。」
「…………わかってるんです……俺のわがままだってことは。」
 ただ、居ても立っても居られなかっただけなのだと。
 里中は、苦い色を刻んで笑って、しょうがないですよね、と、苦笑を滲ませた表情で瓢箪を見上げた。
 その、切ないように見える里中の顔を見た瞬間──瓢箪は、がし、と里中の肩をつかみ取り、
「智……っ、どうしてもお前が行きたいって言うなら……っ!」
「って、おいおい!!」
 やっぱり、お前も里中に甘いのかよ!!
 瓢箪が最後まで言うよりも早く、回りが鋭く突っ込んだ──まさにその瞬間。

 バンッ!

「おい、里中! 見てみろよ、これ!!!」
 里中の爆弾発言が落ちる少し前に、コンビニに行って来ると言って出て行った人物が、高らかに袋菓子を掲げながら、飛び込んできた。
 明るい無邪気な笑顔で、ロッカールームの微妙に緊迫した雰囲気を払拭させて、ズカズカと里中の元へとやってくる。
「さっきさ、コンビニで売ってたんだぜ、ほら! プロ野球チップス! 懐かしいだろっ!」
 じゃじゃーん、と掲げ持つ、その白と青の小さな袋は、紛れもなく──小さい頃からスーパーで買ってもらった、菓子袋。
 その表面には、小さな袋がのりで貼り付けられていて、その中にはプロ野球選手の写真が載ったカードが入っているのだ。
 表面に写真。裏面にはその選手のプロフィールが載っている。
 野球好きな子供は、小さい頃にこういうものを集めたものだった。
「おっ、なつかしいな、それ。まだあったのか。」
 思わず目を輝かせたのは、小さい頃からそのカードを集めていた男だ。
 その言葉に、俺も集めたんだよなー、という声が回りから返ってきて、そのまま話は、中西が持って来た「プロ野球チップス」へと移行していこうとした。
 そらぞらしいまでに話がチップスに移っていく中、中西は沈うつそうな里中に向けて、ほらほら、と袋を差し出し、
「見ろよ、これ。
 なんと! 今年のチップスのパッケージが──……っ!!」
「あっ! 山田だっ!!!」
 ばっ!!
 中西が言うよりも早く、里中は獲物を狙う猫のようなすばやさで、彼の手から58円のチップスを奪い取る。
 近所のコンビニの名前が入った値札シールが貼り付けられているその下に、小さく「西武ライオンズ 山田太郎」と書かれている。
 そのパッケージというのが、昨年打点王に輝いた男の、ホームランを打っただろう写真だった。
「──……よ、ようやく里中を宥められたと思ったのに、何、蒸し返すようなものを持ってくるんだ、球道〜!!!!」
 両手でしっかりとプロ野球チップスを握り締め、そのパッケージを見下ろす里中の目は、キラキラと輝いていた。
「……は? 何の話っすか?
 それよりもさー、コンビニ入ったらさ、これがレジの前に、どーんっ、って並んでてな! どの棚も山田ばっかりで、もー、これはお前のために買ってこなきゃと思ってさーっ!!」
 アハハハハハ、と爆笑する中西の声も、まったく里中の耳には入っていない。
 確かプロ野球チップスは、パッケージが2種類だったか3種類だったかあったような気がしたのだが──なぜ、マリンスタジアムの近くで、山田パッケージを販売するのだろうか? 里中が毎日買いに来るのを狙ってるのか、あのコンビニは?
「球道、球道、これ、俺が貰ってもいいのか!?」
 キラキラキラキラと、無駄に星が増えた目で、里中は中西を見上げる。
 中のチップスが潰れるのではないかと思うくらいに、しっかりと握り締めている里中に、中西は鷹揚に頷いてやる。
「その代わり、中のポテトチップスは俺にも寄越せよ。」
「おう! ついでにジュースもつけてやるよ!!」
 あれほど「ナマの山田不足」だと叫んでいたにも関わらず、山田の写真(しかもポテチのパッケージ)一つで機嫌が直る。
──なんだか理不尽なものを覚えるロッテの面々を他所に、里中はいそいそと背面についたカード袋を剥がし取る。
 黒い袋に入っているそれを、ピリピリと開いて、期待に満ちた目で取り出されたカードには。

「────………………ちっ、なんだ、不知火かよ。」

 ポイッ。
 一瞬の迷いもなく、里中はそれをゴミ箱に投げ捨てた。
「はやっ!」
「ってお前、不知火のカードがほしいって言うやつに、殺されるぞ──……。」
「じゃ、球道にやるよ。もともとお前のチップスじゃん、これ。
 っていうか、山田のカードがほしい。」
「……お前な…………。」
「あ、でも岩鬼や殿馬、三太郎のだったら、サッちゃんにあげてもいいかなー。」
 不思議なことに、彼の頭の中には、自分のカードもあるかもしれない……なんていう可能性はないらしい。
 ゴミ箱に入った不知火のカードを、そ、と取上げる選手たちには目もくれず、里中はバリバリと袋を開くと、ぷん、と香ばしい油のにおいにかすかに眉を寄せた後、
「いくつくらい買ったら山田のカードが当たるかな?」
「んなの、入ってるカードの種類次第だろ。」
「だよなー? あーあ、山田のカードさえあったら、俺、オールスターまで我慢できるのに……。」
 ──里中が、そんな軽口を叩きながら球道と一緒に、ポテトチップスを食べ始めてくれるから。




──それから数日間、マリンスタジアム近くのコンビニでは、ロッテの選手たちが「プロ野球チップス」を買う姿が目撃されたとかどうとか言う話を聞くことになる。






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→アホですね! 誰がアホの子って、書いてる最中に、無償にポテチが食べたくなった私のことだと思いますよ!!(笑)
ところで、プロ野球チップスって、まだ売ってるんですか? 最近見かけませんけど……。

ということで、ヤマサトなら一度は書いておかなきゃいけないだろうって言う、山田切れを書いてみました。
対になる話としては、山田の里中切れですか!(笑)……ぅわ……こっちのほうが迷惑そうだな…………。