投手のツメ










「……あ。」
 小さな声だった。
 けれど、いつになくシンと静まり返った部屋の中には、良く響く声でもあった。
 思わず誰もが、その声の主を振り返る。
 そこでは、食堂の丸いテーブルに腰掛けた青年が1人、右手の甲を目の高さにあげて、しげしげとそれを見ているところだった。
 左手には何か握られているようだけれど、背中しか見えないこの角度からでは、何を握っているかは見えない。
「なに、どうかしたのか、里中?」
 声をかけると、彼は肩ごしにヒョイと振り返って、右手をヒラヒラと揺らした。
「いえ、ちょっと、深爪しちゃったみたいで。」
 言いながら、もう一度右手の──その指先に視線を走らせる里中に、なーんだ、と言いかけたのもつかの間……そういえばコイツは、「指先」が大事な、「変化球投手」だったじゃないかと思い出して、慌てて振り返った。
「深爪!?」
「あ……──はい、爪を切っていたものですから。」
 すっとんきょうな声をあげる男に、里中は大きな目を瞬いた後、こくり、と頷く。
 なぜ今、爪を切っているのだと思わないでもなかったが、先ほどの練習の最中に、しきりに里中が指先を気にしていたのがすぐに思い浮かんだ。きっと、午後からの練習に差し支えのないように、自分で整えていたのだろう。
「っておいおい、深爪って──どれくらいだ? 痛いのか?」
「爪切るときは用心しろよ。バカにしてると、ざっくり行くぜ。」
 心配そうな顔で近づいてくる先輩達に、里中は慌てて両手を振った。
「ぜんぜん、痛くないですよ。──本当に、ちょっとでしたし。」
 実際、自分も痛みを感じないかどうかと指先を折り曲げたりしてみたのだから、それは確かだ。
「本当か〜?」
「俺の、もっと細かく切れるつめきりを貸してやろうか? 深爪とかしにくいぞ。」
 大丈夫だと言ったのに、わらわらと寄ってくる先輩達に、ひっそりと溜息を噛み殺し、里中は大丈夫ですと頷く。
 そしてそのまま、見物客の中で、次の指に左手に持っていた爪きりの甲の裏──やすりを当てる。
 切った爪の後を綺麗に整えるために、やすりを動かせながら、
「ちょっと、やすりを掛けすぎただけなんですよ。だから、爪きりで深爪したわけじゃなくって……。」
 なんて説明したらいいものかと、軽く首を傾げながら、少しやすりを動かしただけで手を止める。
 今度は先ほどのように削りすぎることもなく、上手く行ったようだった。
 そんな里中の指先を見下ろしながら、
「──……お、里中、お前、爪の形も綺麗だな。」
 ふと目を留めた先輩が1人、爪を切り終えた里中の手を取る。
 成長期を過ぎた青年の掌は、変化球タコもバットタコもある、ごく普通の「野球人の手」である。スポーツをしない人に比べたら、しっかりと皮の厚い掌。
 練習のすぐ後のせいか、ほんのりと暖かい里中の手をとって、男はマジマジと里中の指先を見つめる。
 その無遠慮な視線に、里中は居心地悪そうに肩を揺らすと、指先をかすかに動かせて、
「──もういいですか? 俺、左手の爪も整えたいんですけど。」
「ン? どれ、貸してみろ。」
 手を取られたまま、ほら、と当たり前のように手を出されて、里中は苦虫を噛み潰したような顔で、その手を不審気に見下ろした。
「……それくらい1人で出来ますよ。」
「深爪したくせに良く言うぜ。いいから貸してみろって。俺、結構うまいんだぜ〜。なんてったって、娘の爪を切るのは俺の仕事だしな。」
 ほら、と、再び手を出す男の顔は、ニヤリとやに下がっていた。
 目の前のおせっかいな男に、幼い娘が1人居ることは知っていた。
 娘が里中のファンだからと、わざわざマリンスタジアムのショップで、生写真を購入して、サインしてくれと言ってきたこともあった。
 そんな先輩選手の、にやけた顔を見上げてから、里中は困ったように眉を寄せた。
──絶対に、イヤ、というわけでは、ない。
 他人に爪を切ってもらうのが怖くないと言えばウソになる。
 これが投手の指がどれほど大事なのか分からない人間が相手だったら、決して触らせることすらしないだろう。
 けれど、相手は同じプロ野球選手。しかも里中が深爪したことを分かっていて、爪きり係りを名乗り出てくれている。
「………………。」
 ここでしつこく断るのも悪いだろうかと、左手の爪を見下ろしながら──まぁ、球を投げるのは右手なのだし、左手くらいは任せても大丈夫か、と譲歩することにした。
「それじゃ、お願いします……。」
 それでもすこしの不安を覚えつつ、そろり、と左手を、彼の手の上に乗せた。
 男は嬉々として、さっそく爪きりを構えて里中の手を覗き込み──、細くしなやかな手の先に刃を当てた。
「どーんと大船に乗ったつもりで任せとけ。」
 軽口を叩きながら、爪のラインに沿うようにラインを調節して、そのまま指先に力をこめようとした途端、
「ちょ、ちょっと待って下さい……っ!」
 慌てたように、里中が左手を手元に引いた。
 するりとすり抜けた爪に、今にも刃を入れようとしていた男は、驚いたようにそんな里中を見上げる。
「って、おいおい、危ないだろう! なんだ? くすぐったかったか?」
 尋ねながらも、まさかそんなことはないだろうと唇を歪める。
 娘の爪を切るときだって、丁寧に慎重に気をつけている。イタズラ心を出して指先をくすぐったりなどしようものなら、流血沙汰にならないとも限らないのだ──爪きりの刃というのは、思っている以上に頑丈で切れ味が鋭いものだから。
 投手は指先が敏感だと──特に変化球投手はそうなのだと言うことは分かっていたので、くすぐったいと思うような動作をした記憶はない。ただ手を取って、爪切りを当てただけだ。
 それも、娘の小さくて柔らかい爪を切るときのように、丁寧に少しずつ切るつもりで、優しく押し当てたのだから、「まだ何もしていないぞ」と言うのに近い状態だと、憤然とした様子で問いかけてくる男に、里中は大仰に眉を寄せて、爪きりが当てられた左手の人差し指をジッと見下ろしている。
 どうやら、傷がついていないかどうか確認しているようだと思うと同時──お前、普段からそんなに爪とか指先に気を使うタチだったかと、呆れたように男が爪きりでコツンと里中の頭を軽く叩こうとした瞬間、回りに居た選手たちから、一斉にブーイングが零れた。
「おいおいおい、里中の指に傷つけたらダメだろっ!」
「これで明日の先発が飛んだら、誰が責任取るんだ〜!?」
 軽口めいた笑い声の混じった野次に、爪切りを持ったままの男は、唇を歪めると、
「バカ言うな。俺のかわいい娘にしてるのとおんなじように、愛情込めてやったんだぞ〜? んなヘマをするかよ。」
 野次を飛ばすチームメイトに答えてみせるが、今度は彼が口にした「愛情」という言葉に、ドッ、と室内が沸いた。
 なんだなんだと、憮然とする男は、そのまま視線を里中にずらして、困惑した様子の見て取れる表情になると、
「里中、一体、俺の何が気に入らなかったんだ?」
 覗き込むような仕草で問いかける男に、ますます回りの男たちの野次と笑い声が高くなる。
 まるで、女房に浮気されたり拗ねられたりして、慌てて機嫌を取っているようだと──言われなくても、男自身も思った。
「──……だって先輩、爪、切ろうとしたじゃないですか。」
 里中は、左手を右手で包みこみながら答える。
 その簡素な答えに、首を捻る者数名──その中の1人に、目の前で爪切りを持っている男の姿もあった。
「爪切ろうとしたって……、爪を切るから爪きりだろ??」
 手にした爪切りを見下ろし、里中が握り締めている左手を見やる。
「指を切ろうとしてるように見えたんじゃないのか〜?」
 疑問を顔に貼り付けて首を傾げる男に、新しい野次が背後から飛んだ。
 その言葉には、娘の爪きり係りを自負している男が、噛み付くように反論する。
「バカいえっ! お父さんの爪きりは、お母さんよりもキレイだって評判なんだぞっ!!」
 そのセリフに、さらに室内が笑いの渦に包まれ、男はますます憮然とした表情になる。
 そのまま彼は、コリコリと頬を掻いた後、里中を改めて見下ろし、
「里中、そういうことだから、俺の腕を見くびるなよ!!」
 そう宣言して、さぁ、手を出せ、と促されるが──、それに対する里中の反応は薄かった。
「そうじゃなくって──えーっと……、俺、爪は切らないんですよ。」
「──……は?」
「えーっと、だから……。」
 なんて説明したらいいものかと、首を傾げながら里中は自分の右手と左手を見比べる。
 桜色の爪先は、他のチームメイトの爪とは違い、爪の中に白い裂傷が走っていることもなければ、爪先がひび割れていたりしていることもない。
 その爪を見下ろしながら、里中は眉を寄せる男に向かって、
「爪きりで爪を切ると、爪にヒビが入ったりするでしょう? だから俺は、やすりで爪を削ってるんですよ。」
 ソレ、と──爪きりの裏についているやすりを指先で示す里中に、男は無言で視線を落として、自分が握り締めている爪切りを見下ろした。
 確かに爪きりには、刃の部分とは別に、持ち手の部分に隠れるようにしてやすりがついている。
「……いや、だから、爪きりで爪を切って、その後にやすりをかけるんだろ?」
「それは、切った爪が尖ってるからじゃないですか。
 そうじゃなくって……ほら、爪って、普通に切ったら、ヒビが入るでしょ?」
 里中の説明を聞いて、ますます眉を寄せる男に、なんて説明したらいいのかと、自分の爪を見下ろす。
 丁寧にやすりで削った右手の爪は、指先の丸いラインにちょうど良い感じで収まっている。
「ヒビって……入るかぁ?」
 胡散臭げに自分の指先を見下ろす男たちに、入るんです、と断言して、里中は彼の手から爪切りを奪い取った。
 そしてそのまま、クルリと回転させた持ち手の部分のやすりに爪先を押し当てると、
「目には見えない程度のヒビだけど、そのままにしておくと爪が欠けたりする原因になるから、こうやってやすりで掛けたほうがいいんですよ。」
 言いながら、目の前でそれを実行してみせる。
 ザリザリという音が聞こえてきそうなほど軽快に、里中は角度を変えて爪先を削り取っていく。
 その手馴れた仕草に、先輩が感心したように覗き込む。
「は〜……そういや、そんな話を、奥さんがしてたような気がするな。」
 見る見るうちに爪先が短くなっていくのが、目に見えて分かる。
 あっというまに、右手と同じようにキレイなラインを描いた爪ができて、そのまま里中は人差し指にもやすりの先を当てる。
「あー、言う、言う。確かにな。ピッチャーは指が命! 里中も、マニキュア塗って、爪を保護してみたらどうだ?」
 軽く笑う声が背後から上がってきて、そんな話も聞いたことがあるな、と頷く男に、里中は鑢を掛けていた手を止めて、不機嫌そうに眉を寄せる。
「それがイヤだから、こうやって真面目にやすり掛けてるんじゃないですか。」
 そのまま今度は中指にやすりを当てて、里中はゆっくりと爪を削り始める。
 爪きりの浅いやすりは、すぐに白い粉でいっぱいになって、中指を削る途中で、ティッシュでそれを拭い取った。
「いいじゃん、マニキュア。お前の爪、きれいだから似合うんじゃねぇの?」
「そうそう、最近流行ってる、アートとか。」
 他人事だと思って、口々に言い合う先輩選手たちに、里中はますます不機嫌そうに顔を歪める。
「だから、つけたくないって言ってるじゃないですかっ。」
 薬指を削り終えて、フ、とそれに息を吹きかけた後、里中は最後の小指に爪切りの裏側を押し当てた。
「え〜、どうしてだよ、智ちゃーん?」
 ニヤニヤと笑う先輩達は、新しいおもちゃを見つけたように、意地悪い笑みを口元に浮かべていた。
 その台詞に乗るように、
「里中の手なら、ピンク色とか似合うんじゃないのか?」
「ラメ入りな、ラメ入り。」
「そういや、近くのコンビニにも売ってたよな、マニキュア? なんなら買って来てやろうか?」
 小指にやすりをかける里中を覗き込むようにして、頭に腕を乗せた先輩選手たちが、「親切心」を発揮してくださる。
 もちろん、そんなことを喜んで受け入れるはずもなく──、里中は乱暴な手つきで頭の上に乗った先輩の腕を払いのけると、
「そんなにやりたかったら、自分の爪でやったらいいじゃないですか。」
 うんざりしたように突き放した言葉で答えてやった。
 今度から爪を削るときは、こんな公共の場でやるのはやめよう──そう心に誓いながら。







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話には一つも出てきてないけど、ヤマサトなんです(言い切る)。

そもそも最初は、

高校の時に里中が爪を切っているのを見て、山田が「爪は切っちゃダメだ。削るもんなんだぞ」と言って、それから里中の手の爪は山田がやすりを掛けるようになった

って言う話にしたかったんですよ。
で、毎月毎月、談話室で山田が里中の手の平を握り締めて、やすりを丁寧にかけてる光景が見れるという……(笑)。

でもって、プロ編になると、里中は自分で爪を削らなくちゃいけなくって、つい忘れてて、気付いたら伸びてて投げにくいなぁ、って思ったりとか。
そんな里中に、そろそろ色気づいてきた中学生のサチ子が、「なんだったら、サチ子のマニキュア、塗ってあげよっか、里中ちゃん?」とか言って楽しそうにマニキュア揺らすとか。


──って言うのが、書きたかったはずなのに、なんか書いてたら、ぜんぜん別物になっちゃったよ!!(涙)

コネタは基本的に「イミなしいちゃつき話」で行くつもりだったのに……。ごめんなさい、期待していた人……。
代わりに今上で述べた内容を、脳内で補完してやってください。なんか幸せな気分……になるのは、私だけか(笑)。