芦屋旅館の朝









「里中……、里中、起きろ……、里中。」
「──……ん……んー〜……?」
 かすかに掠れた、甘えたような声を出しながら、隣の布団がモゾリと動いた気配がした。
 それに重なるように、
「里中、朝だぞ。」
 ボソボソとした声が耳を打つ。
 極力潜めた声は、それでも、しん、と静まり返った部屋の中に良く響く。
「…………ん……んん? ……や、まだぁ……?」
 寝ぼけた声が、舌足らずに聞こえる。
 何か他にもモゾモゾと口走ったように感じたが、口の中に消えた言葉は、ただの寝言のようで聞き取れない。
 そんな相手に、起こしていた相手は困ったような呆れたような溜息を一つ零してから、
「ほら、起きろ、里中。今日はお前がやるって言ったんだろう?」
「──ん……んー……、今、なんじ……?」
「5時。」
 間髪いれず返って来た声に、もぞもぞと動く気配。
 そのまま一呼吸の間をおいた後、隣の布団がバサリとかすかな風を立てて捲れあがった気がした。
 と同時、ムクリと起き上がる気配。
「もうそんな時間か……。」
 まだ寝ぼけた色合いを残してはいるが、布団の上でモゴモゴと言っていたときとは違う、しっかりした声音で呟いて、彼は大きくあくびを零す。
「まだ寝たりない……。」
 ふぁ、と、語尾を再びあくびでかき消した少年に、呆れたように山田が答える。
「昨日、あれから何時まで起きてたんだ? 里中?」
「んー……1時には寝たと思うんだけどな……。」
 あふ、とさらにあくびを噛み殺して、里中の声が少し遠ざかる。
 着替えるために布団から起き上がったのかと思ったが、隣の布団が衣擦れの音を立てる気配はない。
「…………里中…………。」
 呆れたような山田の声は、同感だ。
 翌朝の早い時間……それもまだ5時にしかならないこの時間に、起きて自主訓練をすると言う人間が寝る時間ではない。
「だって、途中で見るのをやめたほうが怖いじゃん、ああいうのってさ?」
 言葉尻に楽しげな色を滲ませながら、里中がクスクスと笑う。
 その笑みがかすかに遠く、くぐもっている。
 今度はその里中のセリフに同感。
 確かに、ホラー映画というのは、怖いと思った瞬間に見るのを止めたほうが、想像力が掻き立てられてしょうがなくなる。──オチを見たほうが怖い映画もあるが、オチを見たら、「なーんだ」と納得して終わるような映画だってあるのだ。
「俺は、そういうのは見ないからな……。」
「けっこう、面白かったぞ? 岩鬼なんて、今にも憤死しそうな顔をしてた。」
 クスクスと、今度は意地悪い色を滲ませて笑う里中に、山田が苦い色を交えた声で、「そうか」と呟くのが良く聞こえた。
 そのまま、再びあくびを噛み殺す里中に、
「今日は、もう少し後にするか?」
 山田が小声で問いかける。
 おそらく、まだシンと死んだように寝ているほかのナインを思っての小声だと思われるが、昨夜の賑やかさがウソのような静かな室内には、あまりイミがないように思えるほど良く聞こえた。
 実際、山田が里中を起こす声で目を覚ましてしまった人間が、ココにも1人居るのだから。
「ん……いや、でもそうすると、また昨日みたいに、一悶着起きるだろ? ……いい、起きる。」
 けだるげな雰囲気を滲ませた里中がそう答えて、もぞ、と布団の上で動く気配がした。
「そうか……、人気者は大変だな。」
 シミジミと呟く山田に、何を言ってるんだよ、と里中が呆れたように返す。
「お前のファンだって居るじゃないか。」
 どこか拗ねたような口調で告げる里中の人気には、この部屋の中で寝ている誰も適わないことは、周知の事実だ。
 事実、昨日、山田と里中が朝食の後にランニングに行こうとしたら、それを狙っていたかのようなファン達に囲まれたと言うのは、笑い話にもならない……昨夜のホラー映画のような恐怖を伴う出来事だった。
 良く、花火大会やアイドルのコンサートなどで、興奮した客が前倒しになって重症を負ったという話を聞くが、目の前でそれを経験してしまいそうな勢いだった。
──これでまだ二年生だと言うのだから、末恐ろしい人気のバッテリーである。
「里中のファンには適わないよ。──そうだな、早く出ないと、また昨日みたいに大変なことになるか。」
「うん、そうだな……。」
 そう言いながらも、里中は一向に動く様子を見せない。
 それどころか、山田の声に相槌を打つ言葉すらも、尻蕾になっていて、そのままストンと眠っていってしまいそうな雰囲気がする。
 このまま寝息が聞こえてきても、おかしくはないだろう──と思うような沈黙が少し降りて、
「──……里中。」
 呆れたような山田の声が聞こえた。
 と同時、
「──……ん、あ……悪い。」
 やはり寝かけていたような、寝ぼけた声で里中が小さく答える。
 それからモゾモゾと動く気配がするが、それでも里中は布団の上から起き上がることはない。
「やっぱり今日は諦めたほうがいいんじゃないのか?」
「1日でも休むと、次の日が大変なんだぞ……。
 …………とにかく……、顔でも洗って来る…………。」
「そうしろ。」
 もごもごと口の中に消えそうな言葉を呟いた里中は、そのまま無理矢理にでも体を起こす…………ことはなかった。
 やはりそのまま、沈黙が少し落ちる。
 また寝かけてるんじゃないだろうかと思う第三者の気持ちを悟ったかのようなタイミングで、
「──……里中…………。」
 しょうがないな、と、甘い色が滲んだ声で、山田がまた里中の名前を呼ぶ。
「んー……起きてる…………。」
 完全に寝てしまっているかと思ったが、先ほど以上にくぐもった聞き取りにくい声で答えが返った。
 寝言のように聞き取りにくい声で、そこまでして起きてもしょうがないのではないかと思わせた。
 さて、山田は一体どうするだろうかと、少しばかり意地の悪い気持ちで思った矢先だった。
「──里中。」
「ん?」
 一瞬の沈黙。
 不自然にも思えるその沈黙に、好奇心が沸き起こりうっすらと目を開けてみてみると、窓のふすま越しに明かりが入り込んでくるのが見えた。
 かすかな明かりに照らされた中、布団の上で重なる人影が見えた。
 さらに目を細めると、布団の上にチョコンと座った里中の右肩から後ろを支えるように山田が座っているのが認められた。──と同時に。
「──────………………っっ。」
 衝撃に、思わず声が漏れそうになるのを、必死で飲み込む。
 思わず指先が布団を手繰り寄せ、グッと強く握り締めていた。
 互いの肩越しに、柔らかに重なった唇が、一度、二度──三度と、軽く何度も重なり合う。
 ちょうど窓から入り込む明かりのおかげで逆光になっているのが、救いといえば救いだろうか?
 ──顔が見えなくて助かったと、思わないでもなかった。
 耳を澄ませば、唇が離れるたびに聞える吐息の音。
──オイオイオイオイオイオイオイ、と……もう何度目になるか分からない口付けの数だけ、冷や汗を掻く。
 うっすらと開かれていた目は、見る見るうちにどんぐり眼のように見開かれ、マジマジと見つめていた。
 音もなく、何度も軽く重なっていた唇は、いつの間にか合わさっている間が長くなった。
 そして、澄ました耳に届く音も。
「──……ん……。」
 甘い色を宿した声に、おお……っ、と、ますます目が見開く。
 瞬きする間すら惜しんで見つめるあまり、目がピリピリと痛くなってきた。
 思わず瞬きした瞬間、眼球がひんやりと冷えて目に染みるような痛みを感じる。
 痛ててて、と、パチパチと目を瞬いている間に、
「──……はぁ……っ。」
 悩ましげな溜息を零して、二人の唇がようやく離れてた。
 ハッ、と、慌てて目を開くと、ホンノリと頬を赤らめた里中が、潤んだ目で山田を見上げていた。
 そのまま、コトン、と肩先に頭を預けて、再び甘い色を滲ませて、
「……山田…………、こういうのは、なしだって……言ったじゃん……。」
「でも、目が覚めただろう、里中?」
 どこか楽しげに小さく笑う山田に、そりゃ目は覚めたけどさ──、と里中が拗ねたように続ける。
 山田を見上げる目には、心地良い朝には似つかわしくない情欲の色が見て取れる。
「──……もし、誰かが起きてたら、どうするつもりだよ。」
 コツン、と額の先を山田の肩先に押し付けるように呟く里中の声には、とりあえず替わりに突っ込んでやった。
──いや、もう、起きてる。
「大丈夫だろう。誰も起きてないさ。」
 ちゅ、と、小さな口付けを一つ、額に落として、さぁ、起きるぞ、と山田は里中の肩をポンポンと叩いた。
 里中はそんな山田に、少しだけ不満そうな色を見せはしたものの、それ以上は何も言わず、コクリと頷くと、小さく伸びをして、
「それじゃ、今日は川原まで走るか?」
 クルン、と目を輝かせて、笑った。
 山田もそんな彼に、ニッコリと笑い返して、
「そうだな。──さぁ、着替えて顔を洗おう。」
 そう促して、立ち上がった。












 実に楽しげにピンク色のオーラを振りまきつつ、山田と里中が出て行った後──。
 部屋の中では、数人の人影が、ムクリ、と起き上がった。
 そして、お互いの顔を認めて──思わず、半笑いの笑みを交し合う。
「──……お前らも起きれなかったクチか……。」
 ガックリと肩を落としあいながら……とりあえず、何も言わず、もぞ、と布団から起き上がると──、
「本当……いい加減にして欲しいよな……あいつら………………。」
 はぁ、と、溜息を零して、トイレに行くために、のっそりと立ち上がるのであった。












+++ BACK +++




──……え、最後のオチはいらなかったんじゃないかって?
うん、そう思ったんだけどね、

健全な男子高校生なら、これくらいはしておかないと!

って思ったんです。


さらにオチをつけると、もう戻って来れなくなりそうなので、とりあえずココで完。