青少年よ大志を抱け
明訓高校の野球部合宿所には、賄いのおばちゃんが居る。
栄光なる野球部員のために、朝食と夕食の栄養管理をしてくれるおばちゃんだ。
おばちゃんが都合の悪い日が、前もって分かっているときには教師や他の人が代わりに来てくれることもあるのだが、突然、なんらかの不幸で来れなくなることもある。
その日も、急な用事が入ったのがおばちゃんが夕飯の片づけを終えて帰った後で──明日の朝、来るのが無理だという連絡が入ったのは、合宿所の就寝が目の前に迫っているような時間帯だった。
かくして、その翌日の朝食は。
大きく広いテーブルの上に、どん、と置かれた黄色い房。
つやつやと照り輝くように見えるその独特の形は、食堂に入ってきた瞬間から何なのか一目で見分けがついた。
わざわざ白い皿の上に乗せられた3本の黄色い果物。それは、好き嫌いなく育った子供達も良く知る──1度は食べたことがある、
「………………ばなな?」
思わず棒読みで読み上げてしまうほど知れ渡っている果物であった。
戦後の世界なら、このバナナが皿の上に三本も乗っている事実に、両手を挙げて「ぜいたくだーっ!」と喜んだかもしれないが、今、バナナと言えば果物屋の軒下で一束幾らで帰るオヤツである。
つい先日の遠足でも、「バナナはオヤツに入りませーん。デザートでーっす」と笑うクラスメイトがリュックの中からバナナ出している光景を見たばかりだ。
グルリと見回す食堂には、合宿所の中に居る面々の数だけの皿が置かれていて、その上に三本ずつバナナが乗っている。
さらに厨房へと続く横手では、バナナの絵が印刷されたダンボールが置かれていて、その中にも数束のバナナが見て取れた。
そのバナナダンボールの前に、腰から紺色のエプロンを巻きつけた八百屋さんのおじさんが、伝票を片手に立っていて、財布を取り出した教師から札を受け取っている。
どう見ても、バナナを買ってきたようだとしか思えない光景に、食堂に飛び込んできた腹を空かしたナイン達は、そのまま動きを止めてしまう。
朝の練習後の腹を空かしたナイン達を待っているのは、いつも朝からこんなにと思うほどの豪勢な食事だ。──朝はしっかり、昼はほどほど、夜は適量取るのが正しい食事なんだと、おばさんがいつも言っていたし、おなかもぺこぺこなこともあって、朝はいつもきちんと取っている。
けれど今日、目の前にある「食卓」は、まるで試合が朝一からあるときのような質素なものだった。
というよりも、
「──……コレって、前菜っすか?」
思わず石毛は、テーブルの上を指差して、最後に合宿所に入ってきた監督を振り返った。
そんな石毛の言葉に、首からタオルをかけたまま入ってきた監督こと土井垣は、顔を軽く顰める。
出入り口の目の前──食堂の入り口では、なぜか固まっているナイン達。石毛に釣られるように土井垣を振り返った彼らの顔には、困惑の色がアリアリと宿していた。
「何の話だ?」
意味が分からなくて顔を顰めて土井垣はナイン達を掻き分けて、ようやく開いた視界の向こうに、テーブルに並べられた「朝食」らしきものを認めた。
──と、同時、
「明智先生!? なんなんですか、このバナナはっ!」
思わずといった具合に、バナナを指差して叫んでいた。
その彼の視線の先では、わざわざ配達してくれた八百屋のおじさんに、ペコリと頭を下げる明訓高校の教師──明智の姿があった。
どう見ても体育会系のガッシリとした体躯に、コンガリと日に焼けた顔。バサバサの黒い髪といつも厳しい顔を張り付かせる明智は、岩鬼と天敵の仲であると同時に、なぜか野球部の顧問でもあった。──はっきり言って、全部監督任せで1度も部活動に顔を出したことなどなかったが。
そのくだんの明智先生は、財布をズボンの後ろポケットに突っ込みながら、入り口で突っ立っているナインを振り返ると、
「何やってるんだ、お前等! とっとと朝飯を食え! 遅刻するぞ!」
真剣な顔で、テーブルのバナナを掌で指し示して叫んでくれた。
叫んでくれること自体は別にかまいはしないのだが、その指差された先が問題である。
テーブルの上に並ぶ皿と、皿の上に鎮座する三本のバナナ。
「って……明智先生、本気で部員に朝食にバナナを食べさせる気ですか!?」
大仰に目を見開いて叫ぶ土井垣に加勢するように、
「そうっすよ、先生! これはいくらなんでもあんまりです!」
「昼間で持たないよ、絶対!」
「朝食言うたら、ご飯とサンマやで!」
部員達が後ろから叫んでくれる。
しかし明智は、口々にこれじゃ足りないと叫ぶ部員達をギロリと睨みつけると、
「つべこべ言わずに、とっとと席につけ! バナナは栄養価が高いことはお前等も知ってるだろう!」
授業中におしゃべりをしている生徒を一喝するように叫び、早くしろと怒鳴りあげた。
そんな明智の叫びに、石毛は首をすくめると、チラリと隣の山岡キャプテンを見上げて、クイクイと肘で彼の腕を突付く。
「なんとかしてくれよ、キャプテン。」
「なんとかって……どうやってなんとかするんだよ──……。」
困ったようにパンダ目を垂れ下がらせる山岡の背中を、さらに中根や今川が突付き、
「このままじゃ、マジで俺らの朝食はバナナだぜ?」
「それも三本。」
「……〜〜──って言われても、もう手遅れだろうが?」
ボソボソと呟きあい、突付きあう彼らの言葉を正しいと証明するかのように、土井垣が諦めたような溜息を零した後、まだ食堂の入り口でざわざわと固まっていたナインたちに、
「──お前ら、全員、さっさと席につけ。」
……諦めて。
そんな言葉が、聞こえたような気がした。
心なし肩を落として歩いていく土井垣の背を見つめながら、しぶしぶの体で部員達も続く。
まかないのおばちゃんが、時々どうしてもこれないからと言うことは今までにも何度かあったが、今回のこれが一番、精神的に応える。
何せ、朝から練習をしてやってきた先にあったのが。
バナナ3本。
サルかよ、俺たちは。
ガックリと肩を落とすナイン達が、次々に暗い面持ちで席についていくのを横に、明智は厨房からガシャガシャと牛乳ケースを出してくると、
「ほら、一人一本だぞ。」
健康的に艶やかな雫をたらす牛乳瓶を持ち上げてくれる。
一応、飲み物も準備してくれていたらしい。
──牛乳とバナナが朝食だが。
「──はぁ、……ありがとうございます、明智先生。」
さすがの土井垣も、明智に対する態度が、スポーツ会系まっしぐらとは行かないようである。
もっとも土井垣の場合は、もう3年生は自由登校に入っているため、学校に授業を受けに行かなくて言い分だけ、「自宅に帰ってきちんとした朝食を取る」ということも出来るのだが。
それでも、悲壮な面持ちで、今日の午前中を空腹と戦わなくてはならないだろう後輩たちを見ていると、それも出来ないような気がしてくる。
──昨日の夜、まかないのおばちゃんから「これない」という電話があった時点で、「朝食の用意は俺にまかせろ」と胸を叩いて告げてくれた明智の台詞を、信じなかったら良かった、と。
──……誰も彼もが、心から思った。
ぷしゅ、と鈍い音を立てて牛乳の栓を開いて、バナナの皮を剥く。
つるんと出てきた白いバナナは、食欲をそそるかすかな甘い匂いがした。
勢い良く食いつくと、そのままパクパクと三口で食べ終えてしまう。
岩鬼は、一口でバナナ一本、牛乳も一口でカポリと飲み終え、本日の朝食はたった四口で終えてしまった。更にその目が、キョロキョロと他の部員の朝食を狙い始める始末である。
慌てて大切に一口ずつ食べていた石毛も北も、剥いたばかりのバナナを口に放り込み、それを飲み下すように牛乳をかっくらった。
胃の大きい岩鬼は、そんな彼らをギロリとにらんだ後、視線を改めて前へ飛ばして、モキュモキュと口いっぱいにバナナをほおばっている里中に視線を止めた。
牛乳を飲んでいる最中の山田のバナナはすでに三本とも空で、皿の上には皮が置かれているだけだ。
けれどその隣の里中の皿の上には、まだ二本もバナナが残っている。
あまり食欲が湧かないような顔つきで、里中はジットリとそのバナナを睨みつけながら、一本目とまだ格闘していた。ちなみに目の前に置かれた牛乳には、指一本手をつけられていない。
ツヤツヤと輝いているように見える二本のバナナを認めて、岩鬼の目がキラリと光った。
──狙われてる……っ!
誰もが口に出さぬまま、岩鬼の視線の先にあるバナナを見て、その持ち主である里中を見上げたが、里中は獲物をターゲッティングした岩鬼の視線には全く気付いていなかった。
そのまま、すかさず手をあげてバナナに踊りかかろうとする岩鬼の後ろから、ぱこん、と土井垣が手にしていた朝刊を丸めて叩いた。
「やめんか、岩鬼。それにバナナなら、まだダンボールの中に山とある。あれを食ってろ。」
「な、なんや。それならそうと早よ言うてくれたらええやないけ、どえがきはん。」
にっひっひ、と笑って、早速岩鬼は言われたとおり、ダンボールの中のバナナを取りに立ち上がった。
そんな岩鬼を横目で見やりながら、バナナ三本目を食べ終えた面々が、皮を持ち上げながら溜息を零す。
「良く、バナナばっかり食べられるぜ……俺、サルにでもなった気分……。」
うんざりした顔で、まだ腹は満腹ではないものの、ヒラリとバナナの皮を落とす石毛に、全くだ、と山岡も同意を示す。
「ウッキー、って叫んでやろうか、ったく。」
明智先生に任せたのが間違いだったと、またしみじみと零すと、それに同意する頷きが幾つも返ってくる。
岩鬼だけは、食べられたら何でもいいのか嬉々とした態度で、ダンボールからワサリとバナナを一房持ち上げた。
そしてそのままズカズカと元の席に戻ってくると、ドンッ、と大ぶりのバナナがたくさん付いた一房と、新しい牛乳瓶を目の前に置いた。
どうやら明智先生は、バナナだけではなく、牛乳も余分に買ってきてくれていたようだ。
さっそく岩鬼はバナナの皮を剥いて、そのついでに立てかけておいた牛乳瓶の蓋目掛けて、がぶっ、と食いついた。
頑丈な自慢の歯で、蓋を食い剥がすつもりだったのだが、噛み付いた瞬間、
……ぷしゅっ!
勢い良く蓋がへこんで、白い飛沫が飛んだ。
「ぬおっ!?」
「ぅわっ!」
悲鳴は、二つ。
もちろん、牛乳瓶に噛み付いた岩鬼の口の周りには、噴出した牛乳で真っ白な髭が出来ている。
その岩鬼の正面に座っていた里中が、二本目のバナナを口にくわえたまま、苦い表情でジロリと岩鬼を睨みあげる。
その髪にも頬にも、牛乳の飛沫が飛んでいた。
「──何するんだよっ、岩鬼っ!」
「な、なんじゃい、牛乳が爆発しおったで。」
口に白い髭をつけたまま、岩鬼は驚いたような顔でパチパチと牛乳を見下ろし、中身が半分ほど噴出した牛乳瓶の口を持ち上げる。
里中は、ブルリとかぶりを振った後、加えた分のバナナを噛み切ってから、手の平でグイと顔を拭い取る。
そうしても、飛沫の飛び散った顔は、どこかベッタリとしていて、里中は不機嫌そうに唇をゆがめる。
慌てて山田が近くのテーブルの上からティッシュを引き寄せると、そこから一枚取り出し、
「ほら、里中……とりあえず顔でも洗って来い。」
「おう。」
髪についた牛乳をふき取ってやると、里中はそのティッシュを受け取り、それで顔と手を拭いた後、ガタンと大きく音を立てながら席を立った。
その前では岩鬼が、山田が引き寄せたティッシュを数枚引き出し、それで丁寧に白い髭を拭っていた。
「ったく、がっつくからだぞ、岩鬼!」
不機嫌きわまりない顔で里中はそう叫ぶと、なんで朝っぱらからこうなるんだと、ブツブツと零しながら食堂の外に出て行った。
その里中を見送り、山田はティッシュでテーブルの上に散った牛乳をふき取りながら、
「しょうがないな……全く。」
小さく苦い笑みを漏らす。
岩鬼は、何もなかったかのような顔で、残った半分の牛乳を一口で飲み干し、そのままバナナを三本纏めて口の中に突っ込んだ。
その強引な仕草に、山田がギョッと目を見開く。
岩鬼が喉を上下させてバナナを食べ終えるまで、山田はマジマジと岩鬼を見て……。
「──……?」
いつもならすかさず飛んでくる岩鬼への突っ込みが、今日は誰からも入らないことに気付いた。
慌てて飲むからだ、だとか、おいおい、一気に食べ過ぎだろ、だとか。
そしてそのまま、和やかな談笑に続くはずなのに、今日はなぜか静かだった。
不思議に思って、グルリと周囲を見回すと──視線がかち合った先輩達がみんな一様に、視線を逸らしていく。
「????」
目を逸らした先輩達の、日に焼けた頬に走る朱色を認めて、山田は首をかしげる。
一体、どうしたことかと、そう問いかけようとした刹那──、バンッ、と激しい音を立てて、食堂のドアが開いた。
ハッ、と一同が顔を向けると、怒った様子の里中が、ちょうど開いたドアから入ってくるところだった。
「──……ったく、岩鬼のせいで、余計なことをするハメになったぜ。」
肩から、部屋から持って来たらしいタオルがかけられていて、岩鬼が飛ばした牛乳で濡れていた髪は、洗い流したためか、しっとりと濡れていた。
全く、と怒った様子の里中は、岩鬼がすでに追加分の朝食も終えているのを見て、呆れたように目を見開いた。
「人に牛乳飛ばしておいて、暢気に飯なんて食ってるよな……。」
ブツブツと零しながら、里中が食いかけの朝食の前まで戻ってくる。
そしてそのまま手を伸ばし、食べかけだったバナナを手に取ると、最後まで皮を剥いて、パクリとバナナを咥えた後、皮だけをポイと捨てた。
半分ほど残っていたバナナを、そのままもぐもぐと食べ進める里中に、
「里中、行儀が悪いぞ。」
山田が呆れたように突っ込むが、里中はそれに答えられず、裸のバナナの先端に人差し指を添えながら、もぐもぐと口を動かせるだけだ。
まったく、と山田は軽く顔をゆがめて、里中を見て──その里中の向こうに座っていた石毛達とふと視線を合わせた。
途端、こちらを向いていた石毛達は、はっと我に返ったように、カッと顔を赤く染めた。
かとおもうや否や、ガタンッ、と椅子を蹴散らすようにして立ち上がり、驚いたように自分を見上げる山岡や北──そして山田と里中の視線を受けながら、
「……おっ、俺……、ちょっとトイレ……っ!」
ダッ、と、突然、食堂の外目掛けて走り出した。
その不自然きわまりない態度に、里中と山田は何のことだと視線を合わせる。
そして、その石毛に続くように、ガタガタッ、と山岡や北、仲根に今川達まで立ち上がり、
「俺も……っ!」
「あ、俺もだっ!」
「そう、俺もだっ!」
口々にそんなことをあせったように口走ったかとおもうや否や、石毛を追うようにして食堂を出て行ってしまった。
「って──山岡さん、北さん、仲根さん、今川さん……?」
一体、何が起きたのだと、呆然と目を見張る山田を見上げて、里中は最後の一本のバナナを指先でつまみあげると、
「まさかコレで腹を下したとか言うんじゃないよな……?」
「いや、食べてすぐに痛みを感じるなんてことはないとおもうぞ?」
それに、俺たちは平気じゃないか。
そう続けて、山田は同じテーブルで同じバナナを食べていた微笑と殿馬を見やる。
テーブルの上には、先輩達二年生が残していったバナナの皮が、ちょこんと簡素な机の上を彩っている。
「──あー……、と、そうだなぁ……。」
微笑は、自分の目の前に詰まれたバナナの皮と指先でつまみあげると、最後の一本を食べようかどうしようか悩んでいる里中に、意味深にチラリと目を向けると──。
「先輩達も、結構、不本意なんじゃないかなー、と。」
「朝から元気づらぜよ。」
イミが分からないとばかりに、首を傾げ続ける山田と里中、そして全く我関せずの岩鬼を順番に見た後、 ──ちょっぴり意味深に、笑ってやった。
────健康的な青少年に、「朝からバナナと牛乳と里中」は、危険だった。
ニュースにもならないことが、一部の人間の脳裏に刻まれたかどうかは……全くイミのない話である。
+++ BACK +++
最近、下ネタが多い気がする……──。
っていうか、オチてないしな……。
…………ま、いっか(^^)