「──そろそろ、ボールが見えねぇか。」
いつものベンチに背を預けて腰掛けて、グビグビと徳利に直接口をつけていた徳川が、夕暮れの色を通り越しかけた空を見上げて、ヒィック、と呟いた。
その言葉を受けて、隣でゴムまりを真剣な顔で握り締めていた里中が顔をあげて、
「そろそろ練習は終わりにしますか?」
監督にそう確認する。
「怪我させるとPTAがうるせぇからな。適当に切り上げさせろや。」
その里中の視線を受けて、徳利をひっくり返して、徳川は残っていた最後の酒を一気にあおると、最後の一滴を舌先に乗せて、こっちも終わりだな、とぼやく。
里中はそんな彼に小さく笑みを零してから、グラウンドに散らばる数少ないチームメイトに向けて練習終了の声をかけた。
すでに太陽は沈んでいるため、外野にいる人の顔は、はっきりと見通せなかった。
練習終了の合図を出す里中の声に、部員達が声を張り上げて答えるが、その声も夏前に比べたが格別に小さく少なく聞こえて、なんとなく寂しさを感じないでもなかった。
──全く、夏の甲子園で初優勝したと言うのに、部員が増えるどころか減った高校なんて、この明訓くらいじゃないだろうか。
今日の当番の割り当てはすでに済んでいる。
グラウンドに居た面々が、それぞれグラウンドの整備と道具の片付けのために走り出すのを見ながら、里中もグラウンドに足を踏み出した。
まだ痛めた肘が治っていない身では、まともに練習には参加できないものの、片づけを手伝うくらいなら出来る。
「おー、おめえら、ご苦労さん。後でミーティングルームじゃぞ。」
フラリ、とベンチから起き上がり、空になった徳利を肩からかけてグラウンドから出て行こうとする徳川に、グラウンドに散らばった球児たちから声が飛ぶ。
それに徳川は片手をあげて答えてから、空の徳利の中に酒を入れるために、そのまま街へと繰り出していった。
いつものことだけど──と、苦い色を刻ませてから、里中は部室からトンボを抱えてきた山岡の下に駆け寄る。
一本貰い受けて、里中がマウンドに向かって歩いていくと、ちょうどその後ろに空っぽのボール籠を置いて、殿馬がバットを使ってコツンコツンとボールを籠の中に入れていた。
トンボを持ちながら丁寧にマウンドをならしていると、岩鬼がダイヤモンドのベースを抱えながら、隣を通り過ぎていった。
遠く外野では、巨大な石のローラーを軽々と扱いながら、山田が右へ左へと走っているのが見えた。
慣れた様子で片付けを終えて──明日、練習を始める前の整備時間が少なくて済むように、手際よく……けれどしっかりと整備はしておかなくてはいけない。
グラブやバット、ボールの手入れは練習が終った後に、合宿所でもできるけれど、グラウンドはそうは行かない。
強豪高校のようにナイター設備がついているなら話は別だが、明訓はそういうわけではない。
しかもまだ残暑厳しいとは言えど、日差しは日に日に短くなっている──夏の只中ほど、練習時間に余裕があるわけではないから、この秋の戦いを勝ち抜くためには、一刻も無駄にしたくはない。
特に、甲子園優勝投手である「里中」が、大会に間に合うかどうか分からない以上は、なおさら。
丁寧にマウンドをならし、続けて里中がバッターボックスとホームをならし終えた頃には、すっかり日は沈んだ様相を見せ、西の空にかすかにオレンジ色の光を宿すだけになっていた。
だんだんと暗くなっていくおかげで、目は暗闇になれていて、まだボールは見えると思っていたけれど、バッターボックスに立って見ると、もう二塁ベース辺りで籠を引きずり始めた殿馬が影にしか見えない。──その殿馬の足元にも、影が見えない。
相当暗いんだと、視線を逆方向にずらすと、とっぷりと暗闇に包まれた校舎に、転々と明かりがついているのが見えた。
教室か職員室か……部屋についた明かりが、目にまばゆく見えた。
そしてそれは、さらに視線を転じた合宿所にしても同じことだ。
横に長く伸びた合宿所の居住区は暗闇に包まれているけれど、出入り口にはポッと明るい光が宿っている。
夕食の支度をしている賄いのおばさんが灯してくれたのだろう。
持っている道具を部室に放り込んで、そのままの足で合宿所に向かえば、きっと食堂から漏れ出て来るいい香りがすることだろう。
「あー、腹減ったな〜。」
「疲れたなぁ。」
口々に言いながら──けれど誰の口元にも満足げな笑みが浮かんでいる。
道具室に道具を全部入れてから、扉を閉めて鍵をかけたのを確認して、里中はその鍵の束をポケットにしまいこんだ。
監督が居ないときに、こういう所の鍵を管理するのはキャプテンの役目だ。
──もっとも、後で合宿所の指定の場所に掛けるだけの仕事だ。
「ま、まずは、風呂じゃい、風呂っ!」
ズボンの後ろポケットに両手を突っ込んで、岩鬼が嬉々とした様子で真っ先に合宿所の中に飛び込んでいく。
その岩鬼を見ながら、里中はヒョイと肩を竦めると、泥まみれの土埃にまみれた彼らの体を何ともなしに見つめる。
3年のレギュラーが抜けた穴を──それどころか、色々な面々が抜けた穴を補うこの秋の大会への意気込みは、はっきり言って伊達じゃない。
だから毎日のように泥だらけになるし、擦り傷や打撲も一つや二つじゃない。
その体を見てから、自分の体を見下ろす。
──しょうがないとは分かっていても、綺麗でまっさらなユニフォームを見ると、なんだか居心地の悪さを感じてならない。
思わずユニフォームの裾を引っ張っていると、不意に名前を呼ばれて、ポンと肩を叩かれた。
見上げると、他の皆と同じように──もしかしたらそれ以上に真っ黒な姿で、山田が笑ってたっていた。
「──山田、おつかれさん。」
慌ててかすかに口元に微笑を刻んでそう声をかけると、山田は少し目を見開いて──それから、クシャリと顔を崩すように笑ってから、
「うん、里中もお疲れ──と言いたいところだが、お前はこれからが本番だからな。」
ぐ、と肩を抱き寄せる手に力が込められて、里中はコクリと頷く。
そのまま、左手でさするように右手を撫でながら、キュ、と唇を一文字に引いた。
「分かってる。」
皆が風呂に入っている間──食事までの短い時間、里中は山田の部屋でストレッチから始まる逆治療をしている。
その効果が出ているかどうかは疑問だが、最近は痛みを痛みだと感じなくなってきたような気がする……が、それはそれで、問題のような気がしないでもない。
けれど、頑張ってゴムマリも握っているし、土門のような超人復活をするのも夢ではない──はずだ。
「今日は、食後も少しやろう。」
きっぱりと言い切る里中に、分かった、と山田が頷く。
その──どこか厳しい山田の表情を見上げて、里中はふと足を止めた。
合宿所の入り口で光る明かりが、山田の泥で擦れた頬を照らし出しているのだが、それに土色以外のものが混じっているのに気づいたのだ。
「……あれ、山田? ココ、血が出てないか?」
里中につられるように足を止めた山田の汚れた頬に指をかけて、グイ、と親指で土の汚れを拭い取ると、
「──……つっ。」
思わず走った小さな痛みに、山田が軽く身を引く。
「あ、すまん。」
慌てて指を剥がすと、里中の白い指先に擦れたような血の跡がついていた。
「──ほんとうだな。どこかで擦ったかな?」
里中の手には怪我などないから、山田の頬に血がついていたのは確実だろう。
山田はそれを認めて、里中の手首を掴んで自分の手で彼の手についた血をぬぐおうとするが、反対に血の上に土を上乗りするような形になってしまった。
思わず眉を顰めて、今度はユニフォームのシャツで手をぬぐってやろうとするのを、里中は片手で止めて、グイ、と背伸びをして山田の顔に自分の顔を近づける。
「そんなに深い傷じゃないようだけど、血が滲んでるな……。
このままじゃ、ばい菌が入るぞ。」
まっすぐに頬を見詰める里中の整った顔に、山田は照れ笑いを浮かべながら、そうだな、と呟いて、その頬に手を当てようとするが、すかさず里中に手首をつかまれて、
「さきにそこで顔を洗って、待ってろよ。今、バンドエイド持ってくるから。」
手も洗えよ、と、言い置かれて、里中はそのまま合宿所の中に飛び込んでいった。
その小柄な体を見送りながら、山田は頬にあてかけた手の平をそろそろと降ろし、すっかり夜の色に染まった闇の中、照らし出す外灯の明かりに手をさらけ出すと。
「……手も洗わないとダメか。」
小さく零して、先に入っていった里中を追うように合宿所に入った。
プゥン、と煮物を煮込んでいるようないいにおいが鼻腔をくすぐって、思わず口元がニンマリと綻ぶ。
靴を脱いであがりこんだ廊下では、さきに合宿所に入っていった岩鬼が、なぜか食堂の入り口で足を止めて、賄いのおばさんに向かって叫んでいた。
「おばちゃん、サンマはあかんで、サンマはなーっ!」
──まったく、素直じゃない。
ヒョッコリと肩を竦めて、山田はその巨体の背後を通り過ぎると、洗い場に向かった。
鏡を覗き込むと、泥と土にまみれた左頬の中央辺りに、確かに擦ったような傷が出来ていて、そこからジンワリと血が滲んでいた。
良くあんな暗闇で、里中は気づいたものだと思いながら、豪快に水道のコックをひねり、まずは手を洗い、それから顔を洗った。
水に触れた傷が、チリリと痛むのに眉を寄せて──生傷はいつも絶えないが、顔に出来たのは初めてだな、と……キャッチャーマスクで擦れたのかもしれないと思いながら、山田は撫でるように優しく傷跡に触れた。
多分この程度の傷なら、すぐに直るだろう。
洗い終わった顔で鏡を覗くと、傷跡は擦れているというよりも、皮が段差になって捲れているようだった。中央の辺りが、ざっくりと深い傷が出来ているようにも見える。
この分だと、痛みが続くのは今日と明日くらいで、あさってにはかさぶたができてくるはずだ。
風呂に入るときに気をつけないと、石鹸が染みるだろうなと、山田がタオルで顔を丁寧に拭いていると、
「山田、待たせたな。」
一足早く合宿所の中へ飛び込んで行った里中が、手に持ったものを見下ろしながらやってきた。
振り返ると、彼はニッコリ笑って、手にしたものを掲げると、
「ほら、バンドエイド。」
自分を見下ろす山田の手に、そ、とバンドエイドを乗せる。
「あぁ、すまんな、里中。」
ごく普通のバンドエイドを見下ろし、山田はそれを両手で摘みなおすと、さっそくそれを開封して、剥離紙をはがし取る。
「…………ココ、だったか?」
バンドエイドを持った手とは違う手で、確認するように頬を指で押さえる山田に、里中は、ああ、と気付いたように目を瞬いた。
「貸せよ、俺がするから。」
気付かなくて悪かったと言いたげに、里中は山田の手からバンドエイドを受け取ると、その両端を手でつまみ、山田の顔にソロリとバンドエイドをあわせる。
「……動くなよ、山田?」
間近でにこりと笑いながら告げて、傷跡にパット部分を当てる。
「動かないよ。」
小さく笑って答える山田の声に、かすかに頬が揺れるのに、動いてる、と同じように笑って文句を言ってから、里中はバンドエイドの両端を指先で当てて、ぴったりと貼り付けた。
皺もよらずに、なかなか綺麗に貼れたバンドエイドに、里中は満足げに微笑むと、
「ん、ほら、これで大丈夫だ。
……痛くないか?」
バンドエイドを貼り付けた手で、そのまま山田の頬の上を指先でなぞる。
浮かんだ微笑みは、痛い傷跡をわざとらしく指先で押すいたずらっ子の表情に似ていた。
そんな里中に、山田は軽く笑って答える。
「触っても大丈夫だ、痛くはないぞ、大丈夫だ。」
それほど深くない傷だから、布地で擦れたりしない限りは、痛く無いだろうと続ける山田に、里中は緩く首を傾げて、バンドエイドから手を話した。
「そうか? ならいいんだけどな…………。」
ニコニコと笑う山田の頬のバンドエイドを、ジ、と見つめて、里中はさらに首をかしげる。
何か迷っているように見える里中に、山田は不思議そうな顔で彼の顔を覗きこむ。
「……なんだ、里中?」
まだ何かあるのかと──他にも傷があったのかと問いかける山田に、里中はフルリとかぶりを振る。
「ん、いや、なんでもないんだが……。」
顎に手を当てて、さらに考えるように首をかしげた後、
「うん、よし、──山田、ちょっと屈めよ。」
クイクイ、と山田に向けて手の平を揺らす。
「ん?」
素直に従う山田の顔が、触れるほど近くに落ちてきて、里中は満面の笑みで彼に微笑みかける。
「あのな、早く直るおまじないって言うのがあってさ。」
「……おまじない?」
どこか嬉しそうに──けれど同じくらいはにかんだように見える里中の顔に、小さく目を見開く山田の肩に、そ、と手を置いて、
「そう、母さんがな。」
「──里中のお母さん?」
里中の言葉を繰り返して、山田は笑みを唇に刻んだ。
──傷が早く直るおまじない。
と言えば、少し意味合いは違うかもしれないが、傷跡に手を当てて、「まじない」を言うことに違いない。
里中もそれをしてくれるというのかと、山田は込み上げてくる笑みを堪えながら──里中が自分の頬に手を当てて、『痛いの痛いのとんでけー』なんていう、可愛らしい台詞を吐くのを待ったのだが。
なぜか、里中の手の代わりに、彼の整った容貌が間近に近づいてきて。
思わず顔を引いた山田の頬で、チュ、と、軽い音が、立った。
軽く触れるやわらかな感触が、バンドエイド越しに感じ取れて、慌てて山田は一歩後退して、手の平を頬に当てた。
「──……さっ、里中っ!?」
動揺も露に目を見開く山田に、里中は嬉しそうに──けれどどこか照れたように頬を赤く染めながら、
「こうすると、早く直るらしいぞ。」
「って……い、いや……そそ、そうか………………。」
嬉しそうにいわれてしまっては、口から出そうで出なかった台詞が何もかも閉じ込められて、山田は結局、頬に手の平に当てた。
スリスリと手の平を頬に押し付けるようになで上げると、皮膚にざらついた感触が当たった。
けれど、先ほど頬に当たった感触は、もっとやわらかで、暖かで──たった一瞬の感触だったけれども、しっかりと強く感じている。
その感触を思い出すように、何度かなで上げる山田に、里中はますます照れたような表情で、首を竦める。
「……って、なんかおまじないだってわかってても、照れるな。」
白い頬に赤い色を走らせて、そう笑う里中に、山田はますます頬が赤く火照るのを感じながら、
「──あ、う、そ、そうだな……照れるな。」
コリコリ、と頬を撫でていた手の平で、頬を掻いて──、
「あっ、山田っ、バンドエイドがずれるぞっ。」
慌てて里中に、その手を止められた。
そして、その洗い場というのが。
「…………風呂にいけねぇ…………。」
「照れてる暇があったら、さっさとそこからどけ〜っ!」
風呂場への通行路だったりすることに、彼ら二人が気付くのは、あともう少し時間が必要そうである。
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描きたいものは、遠慮せずに書く! これが人生楽しく萌えられる秘密(笑)だと思います。