バッターは1番サード岩鬼。
カウントはワンストライク。
岩鬼に対しては、これ以外ありえないだろうと言うくらい、完璧など真ん中を狙っての投球である。
この分だと、今回の打席も空振り三振は確実であろうと思われた。
「岩鬼もなぁ、ど真ん中さえ打てりゃ、夢の五割バッターなんだけどなぁ。」
バットを肩に乗せて、シミジミと呟く微笑の言葉に、まったくまったく、と山田が頷く。
ネクストバッターサークルでは、殿馬が呆れたような態度で頬杖をついて岩鬼を見ている。
力だけはあるから、当たりさえすれば、ホームランか外野まで飛ぶだろうに、先程のストライクも、バットと球が天と地ほども離れてしまっている。
ど真ん中さえ当たれば、7割バッターになるのも夢じゃない……はずだ。
中学時代から思い、高校時代から言い続けていることではあるが、
「夢は夢づらな〜。」
まぁ、ど真ん中を見送ったあげく、「ボールや」と言い張るよりは、バットを振ってくれるだけまだマシだろう。バットを振ってくれさえすれば、大まぐれでもホームラン、なんていうことだってありえないわけではないからだ。
そんなことを度々してくれるから、岩鬼が「ど真ん中を打てるかもしれない」という期待が、思い出したころにムクムクとこみ上げてくるのだ。
そのたびに、夢は夢かと、思い知らされるのだとは分かっていながらも──。
バットのグリップに顎を乗せて、二球目も見事にど真ん中を豪快に空振りする岩鬼を片目で見据えて、そろそろ打席に入る準備をするかと、殿馬が思った瞬間だった。
ぶぅん、とココまで聞こえるほど力の篭った素振りっぷりを見せた岩鬼のバットから、突風が吹いたのだ。
ぎょっ、と目を見張った殿馬の顔に正面から吹き付けて、ビュゥゥ、とベンチの方に駆け抜けていく。
「づらっ?」
まさか、と目を見張り、前を凝視した殿馬は、すぐに吹き荒れる風が岩鬼のバットの素振りによるものではなく、ただの強風であることを知った。
見上げた先では、突然の強い風に、帽子を抑えそこなった内野手や外野手が、地面を転がっていく帽子を拾い上げている状態だった。
さらにマウンド上では、投手が目にゴミが入ったのか、パチパチと忙しなく瞬きしているのまでもが見えた。
岩鬼はというと、平然とした態度でバッターボックスの中だ。
──まぁ、いくらスゴイ空振りでも、強風が起きるなんてことはありえないだろう。
山田はその昔、バットのスイングでボールを落とす練習をしていたらしいが、強風を巻き起こすことはありえないはずだ。
「……づらな。」
殿馬は一人納得したように頷くと、手元に置かれたスプレーを取上げながら、何気に自軍のベンチを振り返った。
そこも、先程の風の影響を受けて、とっさに抑えた帽子の型崩れを直していたり、乱れた髪を押さえつけていたりするチームメイトの姿が見えた。
その中──今日の先発投手でもないくせに、ベンチの一番前に腰掛けていた里中が、片目を瞑って顔を顰めているのが見えた。
どうやら、先程の風で目にゴミが入ったようである。
何事か訴える里中に、バットケースの前にいた山田が振り返り、慌てたように里中の元へ走っていくのが見える。
「大丈夫か、里中? ちょっと見せてみろ。」
目にゴミが入ったくらいで、なぜ山田が見る? と思わないでもなかったが、それはそれ、いつものことだと、誰も気にしてないだろう。
実際、里中の前に立ち、素直に顔を預ける里中の顔を覗きこむ山田に疑問を持つ者は一人としていなかった。
「目がチクチクする……。」
訴える里中に、山田はいつも細い目をさらに眇めるように見つめて──すぐに白眼にポツンと小さな異物を発見した。
「あぁ、あったあった。砂が入ってるな。」
顔を歪める山田の手は、先程までグローブを握っていたソレだ。
とてもじゃないが、指先でソとゴミを取る──なんて芸当はできないだろう。
そのことに気づいて、北が慌てて、
「ちょっと待ってろよ。救急箱の中に、目薬があったから……っ。」
クルリと球場に背を向けて、ベンチの奥においてある救急箱の元へ駆けつけていく。
「智の目は大きいからな〜。なんでもかんでも入るよな。」
「入れたくて入れてるわけじゃないだろっ。」
感心したように、バットを手にした微笑が、軽い笑い声をあげる。
そういえば昔から良く、里中は風が吹くたびに眼にゴミが入ったと、眼を擦ろうとしては山田にその手を掴まれて、ズルズルとグラウンドから引きずり出されていたなぁ、と懐かしい思い出が掠めた。
普段から整備しているグラウンドとは言えど、所詮それは「野球小僧」たちによる、素人整備だ。風が吹けば土埃は舞うし、とっさにそれから庇おうと手を顔の前に持ってきたら、実はその手自体が汚かった……なんていうこともママあることだった。
噛み付くように怒鳴ってくる里中の声も懐かしいものだなぁ、とニコニコ笑う微笑を、ギリ、と睨みつけた里中は、すぐにチクリと痛んだ眼に、唇を歪める。
そんな里中に苦い笑みを零しながら、山田は彼の顎を押さえると、
「里中、ほら、自分で眼を押さえろ。今、取ってやるから。」
クイ、と里中の顔を自分の方に向けた。
「ん。」
素直に里中は山田に従って、人差し指でゴミが入ったほうの眼……右目の下を、指先で押さえた。
「って、山田、待てって。いま、目薬を……っ。」
グローブを握っていたような手で、目に触ったらマズイだろうと、慌てて北はひっくり返していた救急箱の中から目薬を取り上げる。
けれどそれよりも早く、素直に顎をあげて待つ里中に、山田が指先ではなく顔を近づけるほうが早かった。
「──やまだ?」
何をするつもりだと、土井垣が目を見開く隣で、小さく笑いながら、微笑がからかいの言葉をかける。
「ってオイオイ、太郎。まさかついチューとかするなよ〜、グラウンドだぞ。」
まさかそんなことはないと、そう分かっている上での口調だったのだが、その笑顔は直後に固まった。
山田は慣れた仕草で里中の目元に自分の口を近づけると、軽く肩を竦める里中の大きな瞳を、ペロリ、と舌で舐め取ったのである。
ガタガタガタッ!!
走った衝撃は、計り知れなかった。
誰も彼もがベンチからずり落ちた。
ガチャンと落ちる救急の音が、ベンチ内に異様に大きく響いた。
その、皆が真っ白になって、身動き一つできない中──、
「──────………………って、ちょっと待てーっ!!!!!!」
思わずバットを放り投げて微笑が悲鳴を上げて突っ込んだ。
この状況下で突っ込めるとはさすがである。
遠眼にその様子を見ていた殿馬ですら、ぼとり、と持っていたバットを取り落とした位の、久々の【衝撃シーン】であった。
カラカラーン、と軽いバットの音が二種類、ネクストサークルとスーパースターズのベンチの両方から聞こえてくる。
さらに続けて、ばさ、と、マウンド上でロージンバックを手からすべり落とした音も聞こえる。
殿馬が、づら、と疲れた様子で足を伸ばして、自分が転がしたバットを取り上げながら、チラりとマウンドを見やった。
目に入ったゴミを取り終え、汗を掻いた手にロージンバックを握りこんで顔を上げたところに、あのシーンだ。
「狙ったようづらぜ。」
同情の台詞と眼差しを、殿馬が向けてしまうのも無理はない。
──がしかし、別に狙ったわけではないことは、今のスーパースターズの真っ白なベンチを見てくれれば分かることだ。
物音一つしない、ただ、しーん、と静まり返ったベンチの中で、ことの原因である2人は、何もなかったかのような態度で間近に顔をつき合わせている。
「どうだ、里中? 大丈夫か?」
里中の両肩に手を置いて、覗き込むように尋ねる山田に、里中はパチパチと目を瞬いて目の中のゴロゴロ具合を確認する。
「うん、大丈夫みたいだ。痛くない。サンキュー、山田。」
にっこり、と間近で笑う里中に、良かった、と山田は安心したようにニッコリ笑って肩を落とす。
そんな2人の世界に──2人の世界とかそれ以前の問題のような気のする出来事に、フルフルと震える手を前に突き出しながら、いまだに真っ白になっているチームメイトの代わりに、微笑が突っ込む。
「──……って、いや、あのな、智、太郎…………。」
疲れたような声音で、指先を震わせる微笑を振り返り、山田は軽く首を傾げると、自分の真後ろの辺りまで彼のバットが飛んでいるのに気づいた。
「ん、どうしたんだ三太郎? あぁ、バットか?」
振り返り、ヒョイ、とバットを取り上げる山田に、ようやく、ハッ、とスーパースターズのベンチの中が我に返った。
北は手に持っていたはずの救急箱が消えているのに目を丸くさせて、キョロキョロとあたりを見回し始める。
時を同じくして、ベンチの中の面々は、特に意味もない行動を開始し始める。突然ストレッチを始めたり、グラブを取り上げて、キャッチボールしようかと明るく声をかけたり。
あえて、山田と里中を見ないようにしているとも言う。
「ほら、三太郎。」
ニコニコと朗らかな笑みを絶やさない山田にバットを手渡されて、微笑はなんとも言えない顔で、それを受け取ると、
「──あのなぁ、山田……お前、いくらなんでも、アレはないと思うぞ、アレは。」
智も智だよ、と──心底疲れ果てたように溜息を零す微笑に、バットを渡した山田は、え、と目を瞬く。
「アレって……何がだ?」
「なんで俺もだよ? 今日は俺、先発じゃないぞ?」
さらに里中にいたっては、微笑の忠告を何かカンチガイしているようにしか思えない態度で、軽く上半身を乗り出してくる。
その2人に、ますます微笑がガックリと両肩を落とした瞬間──、
「お前らっ、試合中にいちゃつくのは止めろといっただろうが……っ。」
ガンッ、と、土井垣が拳で横手の壁を殴りつけた。
ギッ、と睨みつけてくる土井垣の視線の鋭さに、山田も里中もキョトンと目を見張る。
「いちゃつくって……──。」
「何かしたか、俺たち?」
首を傾げて山田を見上げる里中に、さぁ、と言いかけた山田は、ふと、先ほどのことを思い出し、苦い笑みを口元に刻んだ。
「監督──あれは、いちゃついてるんじゃなくって、ただ、里中の目のゴミを取っていただけですよ。」
確かに、一見したら顔を近づけてるように見えるから、そう見えるかもしれないけど。
そう苦い色を刷いて告げる山田に、一斉にベンチの中から一同が、パタパタと手を振って心の中で激しく突っ込む。
──そうじゃないからっ!!! いちゃつくとか、ソレを越えてるから、アレはっ!!
そのチームメイトの心の叫びを、土井垣が変わりに叫ぼうと、すぅ──と息を呑んだ、その刹那。
ぐわらごわらがきーんっ!!!!
──……なんだか聞きなれた音が、グラウンドから聞こえてきた。
と同時、誰もがその音が何の音なのか気づく。
「……へ? 打った?」
「──あ、そ、そういや、岩鬼の打席だったっけ!」
「ヤバイヤバイっ、どうなったんだっ!?」
慌てて全員が、ハッとしたようにグラウンドに視線を投げる。
真っ先に視線をやった場所では、岩鬼が打ち終わったバットを投げて──その飛んできたバットを、殿馬が自分のバットで軌道修正をかけていた──、胸を張って堂々と打球の行方を追っている所だった。
「打球はっ!?」
「今の音からすると……ホームランかっ、もしかしてっ!?」
岩鬼の後ろにしゃがみこむキャッチャーが、慌ててキャッチャーマスクを上げながら、打球の行方を見据えている。
その視線を追うように視線を横へずらすと、マウンドの上で、がーんっ、と縦線を背負ったピッチャーが一人、ひどくショックを受けてる様子でひざまずいていた。
それを見た瞬間、スーパースターズのベンチの面々は、なんとなく、何があったのか理解したような気がした。
思わず生ぬるい笑みを浮かべて見せたチームメイトを背後に、ワーッ、と歓声の上がるレフトスタンドを見据えながら、
「まさか、悪球だったのか?」
「さぁ? 見てなかったからな。」
山田が呟くのに、里中は首を傾げた後、ヒョイと立ち上がり、山田の肩に手を置いて身を乗り出した。
「でも、ピッチャーのショック具合から考えると、もしかしてど真ん中だったのかもしれないぞ。」
「そうかもしれないな……。」
うん、と頷く山田に、あれだけ投手がショックを受けてると、殿馬達への失投も期待できるな、と里中は微笑む。──自分が原因だとは全く感づいていない2人である。
その2人を振り返りながら、微笑はネクストサークルに進むために落ちかけた腰をあげながら、はぁ、とバットを担いで溜息を一つ。
小さく小さく、山田と里中の疑問に、口の中だけで答えてやった。
「──……ショックのあまり、悪球になったんだと思うっすよ〜。」
多分、十中八九、間違ってない。
マウンドの上からは、山田が里中の「ゴミを取っている」なんてことに気づきもしなかっただろう。ただ遠目に、里中と山田がベンチのど真ん中でキスしてるように見えたに違いない。
……あの事件を目の前で見てしまった立場からしてみたら、その方が良かったかもな、と思ってしまう自分が、ほんの少し悲しかった。
ずるずると足が重くなるのを感じながら、微笑はネクストサークルに入る。
そこへちょうと、グラウンドを一周してきた岩鬼が帰ってきて、ガッシリとホームベースを踏んだ。
その岩鬼の変わりにバッターボックスに入る殿馬が差し出す手を、パチン、と岩鬼が叩いた。
「あれもある意味、悪球誘いづらな〜。」
うんざりした顔で呟く殿馬に、上機嫌な様子を隠そうともせず、岩鬼が軽口を叩き返す。
「わいの実力じゃいっ!」
──まぁソレが、実力かどうかはさておき、燦然と輝く「1点」が、スコアボードに入ったことには違いない。
隣を通りすぎる岩鬼に向かって、微笑も笑いながら片手を上げて、
「さっすが岩鬼。悪球打ちにゃ、お前の右に出るやつはいねぇよ。」
まるで一連の出来事を見ていたかのように、告げる微笑に、
「あったりまえじゃい。」
岩鬼は手を後ろに組んで、今にもスキップしそうな軽い足取りで、ベンチに向かって歩いていく。
それを見送りながら、微笑は自分のバットのグリップに顎を置いた。
──いくら効果のある悪球誘いでも……、
「うちのチームにも影響出すぎだよなぁ……。」
アレは使えなさすぎだ。
さすがに「慣れてる」自分たちでも、固まってしまうくらいの攻撃力があった。
そう思いながら視線を寄越した先で、リズム感をすっかり狂わされた殿馬が、バッターボックスの中で、やる気を失っているのが見えた。
それに同情と同意を示しながら。
「……うん、そうだよな。」
岩鬼のハイタッチを受けている山田と里中を、チラリと横目だけで振り返り──さらに溜息を一つ、零すのであった。
+++ BACK +++
すみません……た、ただ、イチャイチャさせたかっただけなんです……っ!!(しかも人前で)
んー……でもなんだか満足しない……。
したりない……。
ちなみにこの「ゴミ取り方法」、実在するそうです。
私の職場の元上司が、「目のゴミを取るときは、こうするんだっ」と言い張ってました。
本当かどうかは知りませんが、指で目を傷つけないようにとかそういうと、お子ちゃま相手ならアリかなー、と思えてくるから不思議です(笑)。
「……──で、なんで山田、お前、わざわざ舌で目のゴミなんて取ってたんだよ?」
「さーんーたーろーうー……っ、口に出すのは禁止だっ。」
「あ、すみません、監督。」
「なんでって……こうして取るのが普通なんだろ? な、山田?」
「うん、手でゴミを取ろうとすると眼球が傷つくからな。このほうがずっと安全なんだ。
小さい頃からサチ子の目のゴミも、こうやって取ってやってたんだ。」
「そう、俺も、山田にそう聞いて、高校の頃からいつもこんな感じだよな?」
「………………─────。」
「……………………──────。
………………山田、里中。」
「「はい。」」
「ベンチに居る間は、半径30センチ以内に近づくな……っ!!」
「おっよぅ、でもよー、ピッチャーの動揺を誘って悪球にするにゃぁ、最適な作戦づらな〜。」
「その代わり、テレビに映っちゃう可能性もあるけどなー。」
アハハハハハハハ。
──そうやって笑って済ませることができる元明訓ナインは、スゴイと、思わないでもないスパスタメンツでありました。